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『自己肯定感』というBuzzWord:その1

 小学校で意地悪な教師に不必要にきつい叱られ方をした経験を語ってくれた知人がいます。当時20代のアメリカ人です。通学の車の中で、パパが口に入れてくれたチューインガムをそのままにして教室に入ったことを、その女教師はひどい言葉で咎めたのだそうです。
  落ち度はあったにしろ、人格を否定するようなその叱り方を、彼女は大人になってから分析して言いました。「あの教師は私みたいに自信のある堂々とした子供が嫌いだったの。その自信をへし折ろうとしたのよ。ずっとそのチャンスを待っていたんだと思う」と。 

 あたしはその話を聴いて、「自信のある子供だった」という彼女のきっぱいりした自己イメージのほうに気を奪われました。非常に頭のきれる、好感度の高い女性でした。
 女教師の方ははおそらく自信も人気もなく、その堂々とした小学生にあからさまに嫌われていたことでしょう。生徒からの正直な評価が教師の自己肯定感を奪い、その鬱屈が攻撃性に変わることで、ますます嫌われ、負のスパイラルに入っている様子が目に浮かびます。

 母親が繰り返し子供への失望を表し、そのことですっかり自己肯定感が刈り取られ、みじめな子供時代を送ったという話をしてくれた人もいます。その母親は悪意があるのではなく、自分の人生が自分自身で不満であったことが、ねじ曲がった表現になっていたのだとも言っていました。こんなはずじゃなかったと思い続けていた人生に、子供たちはとばっちりをもらったということでしょうか。その母は決して意図したわけじゃなかろうけれどもね。

 主観的にも客観的にも非常に自分に満足した人生を送ったあたしの母親について、「いいなあ。わたしも自己肯定感が欲しい」とつぶやく若い女性もおったな。いや、我が母はほんとに自分に満足してたんですよ。楽屋裏はいろいろあるんですが、あの本人をうらやむだけでなく、あんなおかあさんでいいなあ、とこの娘のあたしが羨まれたことも何度もあります。母には人気がありました。

 実はあたしは娘として、中学生ぐらいの時にはその母に批判的でした(定番反抗期ってやつね)。「母はいい気になっていて、自分に甘い」と考えたんですね。だからあたし自身は過度に客観的になり、辛らつな自己分析をする傾向を発達させたんだと思ってます。要するに母よりめんどくさい奴に育った。これも両刃の剣です。母は「あんた別の人間だから」と言って、びくともしなかったです(笑)。

 てなことを考えながら歩いていたら本屋の店先に自己肯定感を得るにはどうしたらいいかみたいなハウツーものがどっと平積みになっているのが目に入り。なんか、『自己肯定感』ってコトバがにわかにバズバズ使われている気になってきます。
 しかし、集中してこれの定義について考えちゃうと迷宮に入ってしまう。そもそも自己肯定って何でしょうね?

 やっかいなのは、”自己”を自己において肯定する「感覚」のことでありながら、そいつが心の中に出来上がるにあたっては、どうしたって”自己の外”が必要だってことですよ。そうでしょ?人間が社会的動物である限り、他者によってしか、「自分はここにいていいのだ」という感覚は得られないわけでございます。

 教師はガキの評価に飢え、子供は親からの「肯定」を必要としているように見えます。さらにやっかいなのは、自己肯定感を得そこなっている人は、とかく他人にもそれを与えることができないらしいってことろですね。
 いや、他人に与えるなどという意識なんか誰にもないのかもしれない。しかし自分に不満足な母は無意識に自分の子供にも不満であり続け、結果的に子供の自己肯定感を奪うのであるし、件の教師のように、他人のそれをへし折ってやりたいという暗い動機を持つ人すらいるわけです。(その知人は「大丈夫」でしたが、彼女は悪意を跳ね返す条件を持っていたからだと思います。自分より立場の強い者からの悪意は本来大変ヤバいものですよ。危険危険!)

 へし折らるほうはたまったもんじゃないですよね。人生の序章のほうでそれをやられたら、子供期の特権である万能感なんかも持ちそこなうでしょう。青春の根拠のないやみくもなうぬぼれとか、そのうち順調にへし折られてあとになって恥ずかしいものすら、ないよりはあったほうがいいんだから。

 さらに成長期にきちんとそれらがデベロップされていて、経験に富んでいてさえ、自己肯定感は何かの条件で奪われたりもするわけです。
 そもそもモラルハラスメントって、これを奪うことだよね。心に対する暴力は、おしなべて自己肯定感を破壊することを目的としているんだろうと思います。いじめのすべてがそうだといってもいい。

 思い出すに子供のころから、「これ」と似たようなことはよっく話題になっとりました。「自信」「夢」「希望」「自尊心」「プライド」「自己評価」「セルフエスティーム」「自己実現」「生きる力」といった語彙が、成長期、思春期、成熟期、中年期(の危機)、老年期(の尊厳)それぞれの「期」にずーーーーーーーっとついてまわり、それらはだいたいに似たようなこと、っていうか、おんなじ問題を取り巻いていたんじゃないかと思います。いろんな角度から言い替えているだけのことで、核のところは同じじゃないかと思う。
 ことによったら「アダルトチルドレン問題」やら「内なる子供の充足」について語られる時も、これらの語彙はぐるぐる使われ、「産まれて来た意味」とか「人生の目的」「私の使命」「本当の自分」、果ては宗教的哲学的な「幸福」「悟りの境地」に至るまで、ようするに「このこと」を言っているんだと思うわけです。

 要するに大げさでなく、命に係わる問題ですよ、自己肯定感って。それが、自分の中だけでは充足せず、本質的に他者からの肯定を必要とするっちゅー事実に、ちょっとううっと息がつまりながら、この稿その2に続きます。
 それじゃ他者はどのように作用するのかってところを書きますわ。
つづく

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SYNDI
おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。