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『自己肯定感』というBuzzWord:その2
自己肯定感についてにわかに考え込んじゃってるって話の続き。
自己肯定感がこの世をうまく生きていくのに大切だってことは、論を待ちませんが、ソレを持つに当たって、どうしても他人を必要とするという点がとてもやっかい。じゃあどうすればいいの?ってことを書いてみます。
●満たされていると忘れちゃうけど
まず、めっちゃ健康なソレというのは、求め求められ、助け助けられ、という、「うまく行っている人間関係」の中で自然に生まれ出るかと思います。
うまく行っている師弟関係や、友人関係、雇用関係、夫婦関係、親子親戚、あるいは商売人と客というのでも、それらがスムーズでよく機能している時は、人間はソレを持ちます。これぞ自己肯定の王道ですわな。
自分はここにいていいんだな、必要とされているな、生かされているな、自分は自分に向いていることを正しくやっているな、人を幸せにしているな、うれしいな、という感じ。
しかし、うまく行っている時って、実はそんなことは考えないよね?健康な人がそのありがたさをとかく忘れちゃって、健康な体を切望しない、あるいは大事にしないのと同じように、自己肯定感はそれが満たされていると自覚が案外簡単に消えるような気がします。
しかしソレが欠けると、人間は直ちに不全感を持ち、評価に飢え、愛情を疑い、劣等感を募らせ、ソレを持っていそうな人をうらやましがる状態に陥ります。その不全感が長く続くと壊れます。人間として故障する。
健康ってのが常にカンペキであることが少ないように、皆なにかしら不全感を感じ、それがだいたい「自己肯定感の不足」だったりするのが、まあフツーの状態なのじゃないかと思います。
その不足が人間を動かしたり、努力させたりもしますよね。
で。たぶんそうじゃないんなら、新しい人間関係を築いたり、移動したり、よりよい職場にステップアップするんだ、なんてこともしないのではないか、と思います。人間が常にソレに飢えるってことも込みで、ソレは生活の中にあるんだと思うわけです。
もしかしたら、生物としてそのように創られているのかも。
バグかもしんないけど、大切な機能なのかもしんないという、この辺はあたしはまだ判断したくありません。とにかく人間はソレを求めて行動します。
だからあたしはソレへの渇望を、とりあえず肯定しようと思います。肯定されたいって気持ちは、大変健康なんだから。たとえめっちゃ飢えちゃっているんだとしても、その飢えは大切だ、と認識するってことです。
●入り口にはやっぱり育ての親がいる
ソレが不足しているという、不安定な状態には、明らかになりやすい人となりにくい人がおります。いわゆるメンタル弱い人、強い人みたいな違い。
その違いがどこからくるのかといったら、最初の人間関係、多くは親子関係の中ででしょう。
もちろん持って生まれた強さ弱さも大きいですが、親という、自分とは別の人間から与えられたものが、基本のところにドカンと影響する。なかなか切ないものです。あらがいようがありませんから。
親が肯定してくれないと自己が勝手にワタシを肯定するとか難しいわけですよ。
親ってものの影響の大きさは、日本みたいに核家族が増えた今日ではなおさら、とんでもなく(つまり望ましくないほどに)大きくなりがちです。あたしも子供育てるのが、妊娠する前後には大変こわかった思い出があります。なんつー責任重大なのよ?という感覚を持っていたのです。
でもあれから20年以上経ってみた今、いや、ほんとに人間って複雑で、よくできているし、また壊れやすくもあり、立ち直りやすくもあり、ひっくるめてなーんて面白いのでしょう!と思わずにはいられず、ただいまのところこれが結論です。「ネガティブなことがあっても、何とかなる道は常にある!」
●子供の強さ、大人の強さは全く違う
子供は未完成であることによる柔軟さが最大の武器で、また同時に弱点なのだと思います。話をわかりやすくするためにたとえ話をシンプルにしますけど、戦争のようなひどい環境にあっても、子供の傷つき方は大人と違います。
子供本来が持つポジティブさは、成長という課程のために与えられたギフトだと思います。生物としてのプログラムです。
選択する力は(まだ無知であるからして)小さいけれども、どんな状況にいても学ぶし、遊ぶし、楽しみます。
だからこそ、意図的に「殺人機械」のような人間を作る「教育」すら可能なのでしょう。
つまり子供は、あらかじめ与えられたすべてを肯定しようとする心の働きを持っているのです。
しかし全部を肯定してしまう力は、毒を与えられた時もそれを体内に取り込んでしまうので、子供の時に受けた自己肯定への攻撃は、自我にビルドインされてしまう可能性があります。
一生自信が持ちにくい性格を作ったり、消えない苦しさを抱えたりもするんだと思います。
脳が工事中ってことです。
工事中の傷は影響がでかい。作っている過程で入り込んだものは排除することがめっちゃ難しいです。
子供は滅多なことでは”直ちに”壊れたりはしない。強くて、柔軟で、壊れないで成長しちゃいます。
でも攻撃されたら付けられた傷による壊れやすさを抱えたまま大きくなりますから、その後の人生はその分おそらくは生きづらくなります。
一方で、自我や知能がすでに完成している(脳の大工事がすでに完了している)大人は、価値観の基本も固まっていますから、子供に比べてできあがった自分の価値観に合致しない否定的なメッセージに対しては弱い。それだけ固くなってます。
ただ、選択できるし、逃げ出せるし、NOという力が大きいのも大人です。自分で人間関係をあたらしく構築することだってできます。
●自己肯定感をサバイヴするってこと
だから、子供と大人ではソレへの攻撃に対する強さのあり方が全く違うわけです。
サバイバルというタームで考えると、人間は子供時代に十分健康な自己肯定感を与えられるのが望ましいけれども、たとえ子供時代のに不必要に傷つけられて、大切な自己肯定感を刈り取られて成長したとしても、その刈り取られた度合いに応じて抱え込んだ「壊れやすさ」を持ちながら大人になり、自分が壊されない環境を選んで移動すればいいってことになります。
「いい」なんてのは乱暴な言葉ですけどね。忘れちゃいけないのは、自己肯定感はオールオアナッシングじゃないってことですわ。
無い人とある人がいるわけではない。多かったり少なかったりするだけです。誰にでも不全感はある。たとえ自信家に見える人でも。
そうでしょ?そして、あなたにソレを与えられる人がどこかにいます。っていうかそう信じようよ!
ソレが自給自足するものではなく、人から与えられることで自分の中に育つものである限り、たとえば自分からソレを刈り取ったりした親と、あるいは刈り取りがちな傾向をもった人たちと、いつまでも一緒にいるなどというのは、リスキーだと言えます。
成長したら、自分が活かされる、できあがった自分が耐えられる環境に移動するのが「壊れない」コツだと思います。
っていうか幸せのコツ?サバイバルとはそういうことじゃないでしょうか。
場所をつくったり探したりすることです。離れることを許さない事情があったとしても、ソレを与えてくれる人間関係を別に作るべきです。
成長の過程でソレが十分与えられた人間は、いわれなくても勇気凛々外に出て行くのかもしれません。
しかしこれとて、人間が二色に色分けされているわけではなく、度合いも質もまるでいろいろなのではないかと思うのです。
強い弱い、自信のあるなしも、単に相対的なことです。
その3に続くかも。
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