母の教えとかいうけどさ
それなりに立派な母ではあったが
あたしは自分の子供時代を思い返すにあたって、「強烈な影響力を持つ父親」を持ったせいで、「母という人が相対的にマイルドに見える」という環境にいた、と思っている。 簡単に言うと、母ってかなり変わった、癖のある、一筋縄ではいかない人だったが、長女の立ち位置からみたら、父の毒がキョーレツに効きまくっていたので、相対的に「おかーちゃんっていい人」みたいに見えていたんだな、ってことだ。
もちろん母は根っから善良でもあるのだが、そして善意の塊でもあったが(まあ父だってそうだ)、どんな人も親なんかやったら『善くて正しい』だけではいられないじゃん?あたしは「毒のない親なんかいない」と思っているわけ。だって過ち多き人間なんだよ?子供を持つっていう大事業をやったら、正解の行動言動ばっかりでやり過ごせるわけもなし、おのれの欠点のひとつやふたつ、いやあ、100や200はさらしまくり、錯誤の連鎖を吐き散らして育てるしかないんじゃないのか?と思うわけよ。
89歳の母を見送って3年経つが、見事な人生であった、と感嘆するとともに、あのひといろんなことやったよな、言ったよな、と思う。早くに死んでしまった父に対してはその数倍、そういうことを感じた幼い自分を思い起こすのだ。
こんなのは主観だから天国のお二人は異論があるであろう。「おまえ、立派な両親を持ったくせに、何の不満があるんだ?」とかいいそう。ふたりして言いそう。努力していたひとたちでもあるからね。
不満だと言ってるわけじゃあない。立派じゃなかったと言ってるわけでもない。総合評価としては大変感謝してますよ、はい。だけどさ、「すばらしい両親を持って娘のあたしは幸せでした」が”結論”なんだとしても、そんなクソみたいな平凡な言葉だけでは言い切れないものが残るでしょ?だれにだって残ると思うよ。語るか語らないかは子供の選択です。語らないという美意識もありましょう。しかし、あたしは語るように生まれついたし、育ったわけだわ。
「立派でした」で終わらせたら、せっかくの親の”毒部分”に失礼だし、もの思うコドモであったところの自分の生い立ちにも失礼だと思うんだわ。親を褒めてばっかりいたらあたしがすたる、っていうか(笑)。
女の子は望まれて結婚するのがいい
昨夜友人と話をしていて、彼女が母親に「女の子は望まれて結婚すると幸せになる」と教えられたことが、自分が結婚を決断したことに影響した、という話が出た。友人は3回結婚したが、自分が好きでたまらなかった人とは結婚したことがないのだそうだ。母の教えに従い、好きになってもらったことを重視したのだという。
そしてあたしに訊いた。「好きな人と結婚した?」 あたしは「うん!」とこたえた。
そこで考えたのだ。あたしのこれは「母の教え」と関係あるか?と
昨夜は主役が彼女であったし、彼女の波乱万丈のほうが、あたしの体験(結婚1回よ!)よりもずうっと面白いんで、あたしは自分の「母の教え」について語る気など全くなくて、なーんもその場では言わなかったが、帰りの電車でおもむろに「母の教え」という単語は脳裏に立ち上がり、「あたしへの教えは完全に”呪縛”だったなー」と思った。
母はまず、「どんな結婚を選択するか」という視点ではあたしに教えず、お前が結婚するためには「番茶も出花、の17歳ぐらいの時に求婚されたら婚約してしまいなさい」と教えたのだ。「どんな女の子も出花の頃はきれいだから」って。
つまりハナからあたしには選択の余地などなく、お前は女の子として不器量であるからして、何かと不利なので、誰にも選ばれない恐れがある、時期を逃したら結婚できないかもしれない、という心配をしたほうがいい、と言っているのと等しいわけ。また、結婚できるかどうかってことと、「幸せ」の関係には言及はない。この「教え」には「幸せ」という餌もまかれてなかったのだ。
あたしはこの「母の呪縛」のおかげでそれなりに右往左往するはめになった、ってことを繰り返し書いているんだけど、それは自分の容姿コンプレックスが「苦しかったよー」ってのを吐き出したいという個人的欲求のほかに、思春期にいる女の子たちに、「母の教えなんか聴かなくていいかもよ」ってことが言いたいという動機を含んだ行動だ。あとね、今まさに親であるひとたちに「あんまりいい加減なこと言うんじゃねーよ」という・・・・とはいっても、親ってなんか言わないわけにはいかないんだよねー。
言い方ってのがあるだろ
3回結婚した友人はおきれいな方で、おそらくその母もおきれいなかただったのでございましょう。だから「望まれて結婚するのがいい」などと言えたのだ、あたしなんかそーじゃないから条件が違う、母はブスな娘をみて心配のあまりあんなアドバイスをしたんだ、よかれと思って言ったのだ、それにしてもヒドイわヒドイわ、とかさ、僻みっぽくすねてみせる”芸”もなくはないけど、いまいち面白くないからやめる。
だいいち母はそんなヒドイことを言ったことなんか、あたしが本当に年頃になって、男の子にわらわら言い寄られる頃になったらきれいさっぱり忘れてしまっていたのだ。だからあたしは思う。友人の母上も、もしかしたら「あら、そんなこと言ったかしら?」と途中から?お考えを翻していらっしゃった可能性もなくはないのじゃないか、と。娘が2度めに行くまではまだしも、3度目あたりでは脳内で「言わなかったことにしよう。私はそれでうまくいったけれども、個人の感想です」とか思ってませんでしたか?いや、もうその母上もお亡くなりになっていますが。
ともあれ、友人は母の教えに従い、あたしは従わなかったわけだ。
ふたつの「教え」は、「望んでくれた人と結婚しろ」という流れにおいて実は同一だ。同一なんだよ。しかしね、言い方ってもんがあるだろ。
ほんとうにヒドイのは、あたしの母がこの「番茶も出花の呪い」をかけたのが、娘が小学校のころだったってことだよね。あたしってよっぽどかわいくないガキだったのか?かもな。今思うに、母の好みの容姿じゃなかっただけだと思う。母は自分の容姿には満足していたと思われるが、娘には不満だったのだ。私に似なくてかわいそう、みたいに思ってた。
さらに言うなら、今はあたしはそこそこ母に似ている。あたしは非常に不当な扱いを受けていた、と結論しているのだ。
結婚を促すものが、容姿などではない、という当たり前の話も、ここでは置いておく。そうそう。「望まれる」の中身は、本当はもっと深いものなのだ。もちろん「幸せ」といったらもっともっと複雑だ。
偉大なる犬の教え「女が選んだほうがいい」
母の教えに従わなかったあたしではあるが、それでは何の教えに従ったのか、というと、実は犬の教えに従ったのだ、と思っている。これは自覚的にそう思っている。
どういう教えかというと、「犬は自然の環境ではメスがオスを選ぶのだ。そうすると賢くて丈夫な、よい犬が産まれる」というものだ。これはブリーダーの本に書いてあったことで、犬のブリーディングという、人間が介入するメイティング(優生保護的な「お見合い」みたいなものですわね)と対比する形で、実は自然に任せてメスにえらばせるのが、一番よいのだ、ということを述べている箇所だった。
自然に任せていれば犬は交雑する。純血種ではなくなってしまうのでブリーダーの仕事とは相反するのだが、メスは自分の欠点を補うようなオスを選んで受け入れる能力があるのだそうだ。例えば性格のきついメスは穏やかなオスとつがいになる傾向があるとか。メスは本能的に、良い子が産まれる相手を知っている、と。
だから雑種犬は、相対的にかしこく、病気に強く、飼いやすいよい性格の子が多いのだ、という話。
人間は結婚にあたって「良い子を産むために」などという発想はしないかもしれないが、カップルにはあきらかに良い組み合わせと悪い組み合わせがある。あたしは13,4歳にもなった頃から、男の子が「正しい選択をする」なんてことは一切信用できなくなっていたので(笑)、そうだよ、選ぶのは女の方でいいじゃんか、それが正しいんだよ、と深い確信を得たのだ。
あまた寄ってくる(?)男性の中からかぐや姫みたいに女性が選ぶ(彼女は選んですらいないけど)のもよろしかろうが、寄って行くのが得意じゃない男だって多い。だいたい自分には選ぶほどの数寄ってきそうもない(と母の”教え”は言っている)。
だったら自分側がきっちり好きな人を選んで寄っていって、受け入れられるかどうか試せばよいではないか、ということだ。それで受け入れられない場合はしょうがないが、まず最初に自分というメス(失礼!女性ですわね)が野生の本能で選ぶことが大事ではないか。そっちのほうが、相手選びとしては正しい確率が高いことは、犬が証明しているのだから!要するに、誰かが好きになってくれるのを待ってるとか、そんなのナンセンスだ。
ゆめゆめ、たまたま告白してきたやたら熱心な男とかにほだされてはいかん。こっちが惚れる、が優先するのが大原則だぞ、と「犬の教え」はあたしにしっかり刷り込まれた。ブリーダーの本を読んだのは、1981年以降と思う。
プライドが邪魔して自分からなんか行けない、とか言ってる女性もいたが、あたしはそんなもんめっちゃくだらないと思ってた、というか正直いうと「バーカ」とすら思っていた。小学校のときの呪いじみた「母の教え」より、成人してからの「犬の教え」のほうが心にストンと落ちたのだ。
犬かよ!とつっこんでOKよ。鳥類でもそうだし、類人猿もそう。大雑把に言うと男性はやたらと幅広くメスに気を惹かれて寄ってゆき、メスのほうが決定を下す形だね。例外は何にでもあるけど、一応「そのようにできている」とは言える。人間のメスにだけ、その能力がないっていうことは考えにくいじゃない?
人間の場合、文化的に、「やたらと幅広くメスに気を惹かれる」まではいいとしても「幅広く求婚する」ことなどは許されておらず、「言い寄る」だけでも「サイテー」とか言われる動物だよね。で。幅広く選ぶことができないのなら、女性側の「選ぶ能力」は発揮されず、生かされなくなっちゃう。
今の日本の環境で考えるなら、それを活かす方法は女性のほうがイニシアチブを取って、誰と付き合うか決めるしかない!とあたしは考えたわけ。年頃の男子はあきらかに「女子よりは幅広く気を惹かれて」いるから、それでもカップリングが成立する確率は高いに違いないとも思った。男女問わず、友達の恋愛相談とか受けながら、その確信を深めていたのだった。
母の教えの裏の裏
で。結果お前は好きな人と結婚して平穏無事だからって、それがなんなのよ、というツッコミも受け入れようと思う。そうなんだよ。あたしが言っていることは「だからこうしたほうがいい」ということではない。「こっちのほうが間違いが少ないはずだ」ということでしかない。で。自分がそれでどんなにスーパー上手く行こうと、あるいはにもかかわらず上手く行かなかろうと、それは一例でしかないわけ。
おそらく「犬の教え」は間違いなく偉大かつ”自然”、人類にとっても有効ではあるが、それは個々のメイティングの良い結果を保証するものではないんよ。
そもそもほんとに好きになった人に受け入れられる保証なんぞないわけだ。受け入れられた挙げ句に逃げられない保証もありはしない。
だれだって、バレンタインデーにチョコレートを山のようにもらう男子と、そうでない男子をみたことがあるだろう。メスの希望を募れば偏りが起きるのは自明で、犬やゴリラなら個々の思いは無駄にはならないかもだが、人間は多くの場合「早いもの勝ち(結婚の掟ってそう)」問題になるし、泣く人は出てくる。やっぱり「犬の教え」は繁殖の範囲(しかも雑種の)でしか真実を示してはいないのかもしれない。だとしたら「幸せ」問題とは距離があるのだ。
仮に「自分が望んだ異性と人生をともにする」ことが幸福の必須条件ならば、「自然」に従った「正しい」行動の結果、「幸福でない」結果になる女性が多くなることも「自然」ってことになってしまう。これは男性も同様だね。
さあそれで「母の教え」に戻る。「好きになってくれた人と結婚すると幸せになる」という教えは、これは、次善の策というか、本来なら「自分の好き」に果敢に挑む「犬の教え」がうまく機能しなかった場合、その次に着地する場所をなんとなく指し示しているんじゃなかろうか?
そこに「幸せ」という語句がわざわざ埋め込まれているあたりになんか人生の慰めに似たものを感じる。望んだとおりでなくても、幸せがないわけではないよ、という真実を含んではいるのかもしれない。
これのバリエーションに「二番目に好きな人と結婚するとよい」などというものもある。二番目?どんな統計なんだ?好きってことに番号がつくもんなのか?と脳内が「犬」と化した若いときのあたしはそれもせせら笑っていたけども、それは要するに自分のことしか考えていなかったからだ、と今は認める。はいはい認めますとも。
それでも「二番目に好きな」というのは、自分の「好き」を優先しているという点で、「好きになってくれた人選べ」というものよりは理にかなっているのではと思う。それに日本では重婚ってできないんだから、もしかしたらかなり現実的なのかもしれない。
幸せも教えも本人の選択だ
では総括しよう。「母の教え」などというものは、それがどんなに有効だろうが、また間違っていようが、それを受け取る側の問題なのだ。教えはあなたの人生の責任を取ってはくれない。
母はなんでも良かれと思って教えを授けるが、我が家のように呪いに近い、聴いちゃならん教えもあれば、友人のようになまじモテモテだから結果的に人生が忙しくなってしまう(つまりあんまり娘の実態に合っていなかったようにみえる。さりとて、彼女が幸せでないわけではないから、オーライだとも言える)ものもある。どんなにかーちゃんが愛に溢れていようと、なにがあってもなにひとつ、娘の選択をどうにもできないし、どうにかできると考えるかーちゃんなら間違っているだろう。
つまりこの手の「母の教え」はあらかじめ教えの体を成してはいないのだ。ただの体験談だ、ぐらいにおもっていたほうがいい。
自分の母に反発するあまり、何からなにまで反対のことをする娘もいる。これもあんまりトクなことではないと思う。「教え」そのものには罪はなく、体験談にもいくばくかの真実が含まれていようから。
しかし感情的に受け取れない、という事態に陥る娘も数多くいるだろう。こうして「教え」などというものは、機能を狂わせていくのだ。だから自分次第で、どんな教えも生きたり生きなかったり毒になったり役にたったりするだろう。結局自分の選択が現実を作ってゆくわけだ。
それでもしつこく言っておくわ。女性のほうで選ぶほうが「歩留まり」がいいはずだって。
傍から見るなら次から次へと駄目な男ばかり渡り歩く、いわゆるダメンズウォーカーとよばれる女性たちがいるけど、よおく観察してみるといい。彼女たちはかなり高確率で、男のほうの情熱にほだされたあげくに苦しんでいる。選んでいるように見えて、選ばれてひっかかってしまっているのだ。向こうから来たのだ、優しかったのだ、などという。すくなくともあたしの周りはそのように見えるぞ。
いやいや、個人の感想です。体験談に過ぎません。教えなんてものじゃございません。だからあたしは自分の娘にはあえて何も言わないかもしれんけれども、まあそれが、自分の母より犬の教えを信用したあたしの選択ってことだな。