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母の稀有なる初恋のようなもの

●関係者ご存命につき

 エッセイなどを書いてお金をもらう時、あるいは仕事じゃなくても、それがブログとかで不特定多数が読める形である時、何が気になるかと言ったら、その話の登場人物ご本人が、仮に万が一それを読んだら何を思うのか、ほんのちょっとでも傷つきはしないのか、ということです。

 誰かの本の中に自分みたいな奴が出てきて、実際言ったようなことを発言し、それについて面白おかしく論評されている、てな経験もゼロではないですが、必ずそれは少し事実から逸されていて、本人を具体的には特定できないように配慮されていました。
 フィクションではないのだけれども、フィクショナルな要素によってプライバシーをぼやかす、でも嘘を書くのではなく、それによってより安全に伝えるべきモノを伝える、っていう、それはまあプロの物書きのテクニックでもあるんでしょうね。

 その中には、いわゆる「話を盛る」ケース、面白くわかりやすくするために大げさに書き広げる、といったことも含まれます。おそらく名前の知れた人たちがお互いに何かのエピソードを公けにする時は、お互い様の「盛り方」のマナーを、阿吽の呼吸かなんかで取り交わすに違い無いです。読んで面白いってことが、何より重要だったりするし、事実よりも真実が優先する局面もありましょう。絵で言えばよく似た似顔絵のようなものかな。
 ですからこの稿も、全部が事実そのままとは言いません。

●娘に語られた母の初恋

 前号で母が自分の子供時代を、子供だったあたしに語って聞かせていた、というお話を書いたのですが、その話の中には初恋の話も含まれておりました。
 主役関係者が生きてるうちは、あたしは気を使ってそれをネタに何か書くのは避けておりました(喋りはしたけどさ)。だからコレは古い話だけど比較的新しいネタです。

 母の初恋はそれなりに複雑に長い物語で、それを聞いていた時点でも終わってはいなかった、と言う点で、非常に稀な例なんじゃないかと思っています。
 何が稀か?母はその初恋の人と結婚はしないと決めてからも、「ともだち」として、ずっと交流していたのです。それはとうとうその相手の人が亡くなるまで、記憶によれば母が80歳に届くあたりまで続いていました。恋は終わっていてもその人とは一度も切れた事が無かったのね。

 相手の人は母の故郷である北海道におり、東京とは離れていますから、交流の道具は大体電話でした。今の人ならLINEとか、メッセンジャーとかemailとかで割とひんぱんにやりとりする仲、みたいな感じで続いていたとイメージすれば、近いんじゃないかと思います。手紙じゃなかったと思うんだよね。と言うのは、いくら友人だといっても、その人のことを父が全く公認していたかというと、そんな事はなかったからです。目立つ証拠が残るのはあんまりよくない。この事は後で詳しく述べます。

 ちょっと想像してみて欲しいのです。あたしが「その人の話」がいわゆる恋愛体験談なのだと認識できたのは、12歳ぐらいからかと思います。まだ、あたし自身初恋なんかしてないし、その概念もよくわかんなかったために、相当に特異な話であったとしても、「ふーん、へー、そんなもんなのかあ」と受け入れてしまうような、やたらと柔軟な感性の時代だったと言えます。
そんなお子ちゃまな状態の時から、あたしは母の長い長い物語を聴き始め、難しい思春期やら自分の恋愛経験なんかを経て、「ありゃ?これってもしかして相当珍しいケースなのでは?」という気づきや、自分の父の立場ってどうなの?みたいな複雑な感情やら織り交ぜつつ、中年化さらには老年化してゆく母達の終わらない物語を、聴き続けてたわけですよ。なんかコレも珍しくない?

 我ながら思うのですが、あたしってなーんていいリスナーなんでしょうね?大体において疑問があっても批判はせず、ただそのままに受け取って聴くという態度を採用してましたから。だからこそ語られ続けたと言えます。もしかしたらこの話は、あたししか聴いていなかったのかも知れないのです。少なくとも弟は聞いていないそうです。

 例えば娘がどこかの時点で反発したり、若い潔癖性から批判めいた言葉を吐いたなら、母はそれを自分の胸だけに秘める決心をしたかも知れません。
いや、女同士、姉妹達には語ったかしら?おそらくその始まりを姉妹達は知ってはいたでしょう。相手はほとんど幼馴染のような立場でしたから。同じ土地に住む母の妹は、年に一度か2度は北海道に訪ねてくる姉が、その人とも会っているのを知っていたはず。
 叔母は存命ですから、それを訊ねる機会もまだあるかも知れないけど、ともあれ母もその人も父ももうこの世にはおりません。あたしだけが聞かされていたのだとしたら、ここで書いておかないとコレも消えちゃうんだよね。だから書いてみます。

●大人達の思惑がはずれて突然始まった

 昭和一桁生まれの母は、子供の頃、いわゆる「行儀見習い」に出されたことがあったそうです。大きなお家に少しの間住み込んで、家事やらマナーやら仕込んで頂く、っていう社会勉強体験みたいなものでしょうかね?
 歳は12歳ぐらいか、もう少し上。10代の前半だったはずです。そのお家は女中さんが何人もいるような大きなお屋敷で、なぜそのお家だったかというと、両家は仲がよく、どうも親には思惑があったみたいです。

 思惑ってのは、そこの家のご長男と、こちらの四女(母は8人きょうだいの真ん中です。仮にミキちゃんと呼んでおきます)がもしかして許嫁にするのにちょうどよくはないか?という、その手のことです。戦後生まれのあたしにとっては、小説とか漫画でしかみたことない文字列ですね。親同士が決めた「イイナズケ」なんてのは。

●ミキちゃんと手をつなぐと電気が走る

 ところが、そこのご長男ではなく、だいぶ年下のその弟さんが、少女だった母に激烈な反応を示したのでした。どのように激烈かというと、たちまち仲良くなってそばにいたがったばかりではなく、周りの大人達に、自分はこの子が好きで、手をつなぐと電気が走るのだ、と宣言したのですね。

 「手をつなぐ」と言いましても、これって、まあ行儀見習いのおねーちゃんが、”子守”しているのと近いと思われます。彼は母より4つぐらいも年下だったのじゃないかな。
 その子守のねーちゃんを、その家の小学生の男の子が、もう激しく特別扱いする、ということが始まってしまったわけです。まだ幼いですから、全く遠慮とかなかったかもしれません。食事の時には隣に座って、自分のお箸をなめて、母のコップの水をかき回し、さあ飲みなさいと言って笑わせたそうです。

 母の話の中にはご長男の方の描写が一切ありませんでした。もしかしたら許嫁にどうかと打診されたであろうそっちの男の子は、ミキちゃんにはあまり興味がなかったかもしれません。それより、弟の遠慮のないはしゃぎぶりのほうが一大事となり、なんか白けちゃったのかもね。
 ともあれ、親たちは思惑がはずれて、ちょっとばかり困ったにしろ、子供同士のことだからと、軽く考えたかもしれません。しかしこれが軽くはありませんでした。

●恋人同士だったときがあるのだとすれば

 母は戦中戦後に、女学校時代がちょうど重なり、東京の旧制女学校に入学したあと戦争が終わって、食糧不足の東京から北海道に戻って新制女学校に編入し直す、という経緯で卒業。そのあとGHQの家で子守として1年働いてお金を貯め、東京の大学を受験してそこで父と出会っております。

 女学校を出た後母が17歳の時に、お見合いをさせられているのですが、その時のことは常にものすごく嫌そうに語られました。一緒に映画をみたんだけれども、肩なんか触られるだけで寒気がして鳥肌が立った、とかいうのね。(笑)
 母がアメリカ人家庭の住み込みのnanny(子守ですね)をしてお金を貯めて東京の大学に行くんだ、という、当時の田舎の女性としてはむちゃくちゃ根性が入った進路を選んだ理由の中には、このお見合いがとにかく絶対「無理!」だったっていう経験があるかと思います。それに加えて、世の中には手をつなぐと電気が走る男もいるのに、触られてオゾケが立つなんて、なーんて違うのかしら?絶対オゾケのほうに行っちゃ駄目だわ、って思ったんじゃないかな?

 母の姉のひとりは東京で嫁いでいたし、のちに死んでしまった絵の好きな優しい兄も東京で就職していました。だから母は再び東京に行って勉強するんだ、と固く決心したわけですが、さて、例の男の子(仮にイクオ君としておきます)も、東京の大学を目指して、上京して来たそうです。
 結果的に母は、東京に出るという選択をしながら、少し遅れてやってきたイクオ君の成長を「待っていた」とも言えるのじゃないかしら?

 戦後東京から北海道に呼び戻された時、女学校に編入した母は札幌に住んでおりました。イクオ君のおうちは札幌ですから、そのときにも彼らは会っていた可能性はあります。住み込んだGHQのお家も札幌だったかも。このように考えると、彼らが交流する時間はかなりたっぷりあります。
 一旦は東京に行っちゃって離れたにしろ、成長したイクオ君は相変わらずミキちゃんが大好きだったようですので、この時に自分も絶対東京に行くのだと決心したとしても不思議はないです。
 それでですね。女の子としてあたしが思うには、この時期に全く「ミャクがない」のなら、イクオ君もミキちゃんを諦める頃合いだったはず。何もしないでいたらお見合いでどこかに嫁がされるような家の子なのですから。

 だから、10代の終わり、彼らは両思いであったはずだとあたしは考えています。でも、この時にはイクオ君の親の目が見張っていたでしょう。両家の親は意見を取り交わしていたでしょうしね。
 でも東京に出てしまったら自由です。母は早稲田大学の夜間部に入学し、昼間はデパートで働きました。母が成人してから、イクオ君も東京にやってきて、どこか小田急線の沿線かなんかに住んだ時期があります。
 ふたりはその時期には恋人同士と呼んでもいい仲だったのじゃないかとあたしは思っています。

●「ともだち」の定義

 「あたしは(彼らがその時期恋人同士だったと)思っています」という書き方をするにはわけがあります。母は一度もイクオ君のことを彼氏だったとか、付き合っていたとか、そのように表現したことはなかったのです。
 公には「札幌のともだち」という呼称が採用され、母がその単語を言う時は絶対イクオ君のことでした。

 あたしに対して思い出を語ったり、北海道旅行から帰ってきて何があったか話す時には「イクオ」と呼び捨てておりました。その響きには、なんか特別な親しみというか、絆があるように思え、高校生になっていたあたしはためしに当時のBFのことを呼び捨てで呼んでみたりもしましたけど、残念ながら母たちの間にあるような絆が育ったような気はしませんでした。

 「ともだち」という単語に対して、あたしはあたしでそれなりに厳密な定義を持ってはいましたから、母がその単語を選ぶことに対して、疑問がなかったわけではないです。でも、母としてはこの人物を呼ぶにあたって、これしかないというのが「ともだち」ならば仕方がありません。

 あたしが高校生だった70年代に、舶来の単語として「ソウルメイト」ってなものが一部で使われた気がします。魂がつながった運命の人、というほどの意味かと思います。母が違う時代の生まれなら、あるいはそういう単語を採用したかもしれません。「とにかく特別なのだ」というのが、母の言い方でした。その「特別」は、あたしの印象では、相手にとって自分が特別であるという意味であり、母がそれを受け入れているという感じです。

●なんで結婚しなかったの?

 高校生の時だと思いますが、母に「なんでイクオと結婚しなかったの?」と訊いてみたことがあります。
 母の答えは「一緒にいると疲れてしまうから」というものでした。
 その時に語られたいくつかのエピソードは、なんだか気味が悪いといえば悪いぐらいのものです。気のせいだといえば気のせいでしょうけど。

 例えばイクオは、ミキちゃんがそろそろ自分の下宿に遊びに来るというのがわかるらしく、取り立てて時間の約束をしなくても、駅からの道を歩いているとあちらから必ず迎えに出てきているのだそうです。
 彼にとってはそれは別段不思議なことではなく、今ミキちゃんが駅からこっちに向かってくる、というのがわかっちゃう。携帯電話もメールもない時代です。固定電話も各家庭にはない。約束とかは非常にアバウトに取り交わされていた可能性もあります。水曜か木曜かそのあたりに行けると思うよ、みたいに。

 とにかくイクオにはそれでもミキちゃんがやってくる日がわかり、時間がわかり、駅から向かっているとあっちから迎えに出ているのにでっくわす。
 そうでなくても、下宿につくと、なんだか大量のカキフライとかを作っている。「あら、そんなにたくさん。誰か来るの?」って尋ねると、「いや、君が今日来ると思って」などと言うのだそうです。

 うちの親戚には双子がいるんですけど、二卵性であっても、お互いが風邪なんかひくと、離れて暮らしているのにそれがわかる、なーんてエピソードはきいたことがあります。しかし、彼らは双子ではありません。それから、どうも母の方は相手のことがそんな風にわかったりはしなかったようなのです。それはイクオ君の特殊な能力だったのかもね。

 「イクオと数時間一緒にいるだけで、なんかぐったり疲れてしまうのよ」と母は言ってました。イクオ君がいかにミキちゃんに執着し、集中していたかがわかる話です。
 こういう経験をしたことは、2人にとって、とてもよかったと言えます。一度も恋人になることが叶わず、ずっと心を残していただけだったら、お互いに変なふうに執着が残ったかもしれないからです。
 特に母は、当時早稲田大学でわずか学年2人しかいない女学生のひとりという立場でしたから、ふつーに考えてモテモテだったはず。どんなに特別な間柄であったとしても、「男はイクオだけではない」とはっきり実感できるキャンパスライフだったと思われます。当時の女性としては、大変恵まれた「男環境」だよね。

●お墓参りのエピソード

  

 イクオ君はいつからか「ともだち」と定義され、それから安定の長い長い交流が、彼が死ぬまで続いたわけですが、2人が結婚のことを真剣に考えたことはもちろんあったでしょう。
 母が語ったエピソードの中に、「親のお墓に2人で行って、結婚はあきらめますと報告した」というものがあります。
 それがいつのことで、どっちの親の話なのか、あたしは質問しそこなってしまいました。お母さんなのかお父さんなのかもわからない。なんとなく、イクオ君のお父さんだったような気がするだけです。

 「ふたりが結婚すると、悲しむ人がいるし」「自分は年上だし」みたいなことを言っていた気がしますが、よく覚えていません。
 2人で話し合い、とにかくそのように区切りの儀式めいたものがあり、それ以降、「ともだち」という語句が採用され、その言葉は母にとって、一種「神聖な」ものとなったのです。

 母にとっては異性の友だちというのはごくごく当たり前でした。でも、イクオ君はやっぱり他の人とは違っていると思います。

●父はどのように振る舞ったか

 母が大学で作った友人は見事に男ばかりでした。女の子がいないのだから当たり前ですが。その中には在学中母と特別親しかった人とか、あるいは父と共通の友人などもいて、それらのひとたちは「〇〇のおじさん」と呼ばれました。マルのところには名字とかその人が今暮らしている土地の名前が入ります。
 あたしは子供の頃、それらの複数の血の繋がりのないおじさんや、その家族とも交流したことをよく覚えています。

 その中に「岩手のおじさん」と呼ばれる人がいて、卒業後岩手県に暮らしていたのですが、この人が在学中にもっとも親しかった人だというのは、間違いないと思われます。「パパじゃなかったの?」と訊いた時に、「そうじゃなかったの」と言われました。

 母の大学時代の楽しかった思い出の中には、男女混合のグループで、ピクニックとか山登りとか、色々出かけた話なんかもあったのですが、岩手のおじさんは母とペアになってそれに参加しており、父もだれか別の女性と来ていたようです。
 父は女性に対してちゃんと気が使える人で、小川を渡る時は足場をみながら、女性の手をとってエスコートしていたそうです。まあそうだろうな、と思います。
 比べて岩手のおじさんは、さっさと先に渡ってしまうだけで、全然そういうことに気が回らない。だけど、明るくてざっくばらんな人で、一緒にいると楽しいだろうなと思わせるところのある人でした。

 イクオ君のことはおいといて(笑)岩手のおじさんは、きっと母のことを好きだったと思います。それは、あたしが中学2年の時に、一人旅で岩手県に行くことになり、岩手のおじさんの家に逗留した時に、彼の奥さんに話を聴いたのだから、まあ間違いない。奥さんは一緒に台所でシュークリームを作る時に、「あなたのお母さんは特別な人だったと思うのよ」と語りました。
 自分の旦那が昔好きだった女性の子供を預かって、シュークリームとか作ってくれる、その奥さんも素敵だと思います。(あたしは4つも食べました)

 その岩手のおじさんと父も親しくしていました。彼が東京に出張に来た時は、必ずといっていいほど我が家に来て、みんなで麻雀をやってました。ほかの「おじさん」も呼んだりしてね。あたしはそういうことができる父もいいなあと思います。あたしには「ともだち」と言った時に、一番しっくりくるのはこのおじさんなのです。

 父はこのように、数ある母の「ともだち」を、そこにかつて恋愛感情があったかなかったかに関わらず受け入れて、全くヤキモチを焼くとかそういうことがありませんでした。自信があったのだろうし、夫婦関係が安定していた証拠だと思います。

 大学時代の写真に、母が岩手のおじさんの学ランを借りて羽織っている、てのがあるのですが、母はその写真を見せながら、「これを見た時イクオが怒ってねえ」と本当に愉快そうに言いました。
 母は愉快そうでしたけど、あたしは「怒るのか」と、心の中で複雑な気持ちになりました。「怒る男は駄目だ」とも思いました。
 若い時の嫉妬は当たり前のことかもしれないですけど、この時に、母が選んだのが父のほうで本当によかった、と思ったものです。

 あたしが父について誇りに思うことは数々ありますが、この嫉妬しないという態度はかなり大きな点です。だけど、イクオ君については、母に、「この人だけは、なにか別の、かなわないものを感じるなあ」と言ったそうです。それは母から聞きました。たぶん結婚前のことでしょう。

 いやあ、パパ、するどいね。かなわない、と認識した上で、父はふたりの長い交流を「見て見ぬふり」をしていたということになります。
 これも、自信がなかったらできません。そして何よりも、この特別な「ともだち」の存在が、母のゆったりした、これまた自信に満ちた性格を支える大切な部分なのがわかっていたのじゃないかと思うのです。

●異様なアルバムの謎

 母の子供時代のアルバムというのがありました。母はそれを結婚の時に持ってきていたのですが、実はこのアルバムはちょっと変でした。時々、なんか全然関係ないはがきとか、女優さんのブロマイドとかが貼ってあるのです。

 その理由はずいぶん後になってわかりました。母は子供時代の写真の中から、イクオ君が写っているものを全部排除したのです。それで、不自然に空いてしまったスペースに、どこからか持ってきた無関係な写真を貼り付けていたのですね。
 母はつまり、イクオ君の写真を全部捨てることで、父との結婚の決意を固めたと言えば言えなくもない。言い換えれば、あの異様なアルバムは、母が父と結婚する以前に、本当に一緒になることを考えた相手はイクオだけだったということの象徴かと思います。

 で。そんなわけで写真がゼロ。あたしはイクオ君の顔を知りません。一度も会ったこともないのです。紹介されていないからです。娘は会ったことがないのに、どれほど頻繁に長きに渡って語られたかというところに、ほかの「おじさん」たちとは違う特別なところがあるのですよ。
 母が決しておおっぴらに電話をしていたわけではなく、父がいない時間に、父のいない部屋でかけていたことでもわかります。「〇〇のおじさん」たちとの電話は常におおっぴらでした。

 母がイクオ君との電話を居間でするようになったのは、父が64歳で亡くなってからでした。それはたったひとり「かなわない気がする」男のことを、見て見ぬふりをしてくれていた父に対する礼儀だったのかな、とも思います。

Soulmateていう絵です。タイトル下の作品は『おさななじみ』

 (終わり)



おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。