「面白い」駄文を試みる:5
●話題の安楽死(あるいはイトコ会議)
2011年10月に展示させていただいた絵には、赤ずきんをかぶったおばあさんが100人詰め込まれていました。
あれを描いている時、気になる人とかいつも頭にいる人達が、なんとなくおばあさんたちの顔の中に滲み出してくる、ということがありました。若い人でも、おばあさんの姿になって、そこに出てくるのです。
母も出てきました(逆に若干若い姿で)。
自分自身も、何人も違ったおばあさんになって出てきました。
気にしているはずなのに、出てこない人もいました。あたしはそれを自然に任せておきました。つまり基本的には、意識的に誰かを描き込んでおこう、とはしなかったのです。でもひとりだけ、意識して描いた人があります。
あたしには祖母の思い出というものがありません。父方も母方も、早くに死んでしまって会うことができなかったからです。
そのかわりに、幼い頃、2軒隣に住んでいた伯母が住み込みで雇っていた人があり、いわばその人がばあばのかわりでした。あたしはその人を絵の中に描いたのです。
かつてその人の思い出を、まとめて書いたことがあります。それをmixiの中で”連載”してました。シズカばあちゃん(仮名)の話で2000字から3000字ぐらいのエッセイが23本になりました。読んでくださったひとも多いシリーズです。
シズカばあちゃんは、絵の中に勝手に出てきた、というよりは、ふつふつと描きたくなった、という感じで、それからお顔を思い出して、たしかこんなだった、こんな風だった、と思いながら描くなかで現れてきました。お顔的にはあんまりうまく描けたわけじゃないんだけど、これがシズカばあちゃんの連想から生まれた顔だ、という人が、ですからあの100人の中にはおります。
●イトコたちと思い出を語る
展覧会の時に、シズカばあちゃんを知る人が何人か見に来てくれました。あたしの従姉妹たちもそうです。
来てくれたのはほぼ同年代の父方の従姉妹ふたりです。小さい時には一緒に遊んで育ち、成人してからはそんなに交流はなかったけれども、最近になってあたしの絵を見に来てくれるようになった、という間柄です。
ふたりいっしょに来てくれて、絵のことについて解説している時に、ふと、シズカばあちゃんの話になりました。
ふたりにとってシズカばあちゃんはおなじみの人ではあるけれども、あたしたちきょうだい(弟とあたし)ほどには重要な人ではないはずです。それでも、あの、何くれとなく世話をやいてくれる、善良で、ムラのない態度とそのイメージは、共通して心のなかに残っているかと思います。
あたしがその時話題にしたことに対する彼女たちの反応は、大変楽しそうというか、ほとんど「オオウケ」といってもいいものでした。
え?あたし今そんなに面白いことを言ったか?と思うような・・・・・。
「そうなのよ。シズカばあちゃんはさ、時々思い出したように安楽死の話をしていたの」
「えー?どうして?死にたかったの?」
「たぶんね。あたしに、ねえきっと日本でも安楽死がみとめられるよね、もうじき、とか、そういうことをきくの」
「それでヨシコちゃんはどう答えるの?」
「ばあちゃんあのね、安楽死というのは、もう生きている尊厳が保てないぐらいの人に対して、これ以上延命治療をしないとか、生命維持装置をはずすとか、そういうことなんだよって。だからばあちゃんが言うみたいに、好きな時に死んでいいよっていって殺してもらえるとか、そんなもんじゃないのよって話すの」
「説明するわけだ」
「そうなの。子供のあたしが。だけどばあちゃん、忘れちゃうの」
「あははは。いやだあ。わかってなかったんだね」
「わかってないの。それでまた何ヶ月かすると同じことをきくのよ。おねえちゃん、日本でももうじききっと安楽死が・・・・・って」 「ええー?全然知らなかった。そんなこと言う人だったの?」
おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。