『自己肯定感』というBuzzWord:その3
自己肯定感とサバイバルについて考えてみたってことのつづき。
●危機のカタログ
この稿その2で、あたしは、人が自己肯定感がなんか足らんと感じたりすることをとりあえずは肯定し、ソレが不足しがちな傾向に応じて、ソレを刈り取るような環境からはなるべく遠ざかってベターな居場所を得て生き残ろう、とか言ったわけですが、「なんかなあ。そんなん当たり前じゃん」とかいわれそう。
「それができりゃ世話はない」「どこに行ったって苦しいんですよ!」「あんたのお母さんみたいにノー天気じゃいられないんですよ!」とかね。いや、あたしだって自分の母に言いたかった時もあります。「なんでかーちゃんはそんなにに自分に満足していられるのよ?」って。「自分に合った環境にいられたのも、単に運が良かっただけじゃん?」って。
たとえば学校や職場でいじめを受けた時ならどうしたらいいのか。学校なら期間限定だけど、職場にどうにも悪質な上司がいる場合は?結婚相手のモラハラが度をすぎている時、親や親戚縁者が全部自分を敵視し、何を言っても否定されるみたいな時。
これらは全部自己肯定感の危機ですが、簡単に移動とかできんでしょう。
しかし人間は一つの箱の中にいるわけではないです。一人の人間が同時に複数の人間関係をこなしております。ソレの供給が不足する場所にいても、同時にソレを補ってくれるコミュニティに属することもできるわけです。
●自己肯定感の「兵糧攻め」に合わないために
自己肯定感を奪うだけ奪って、いわば”兵糧責め”にしようとするのがいわゆるハラスメントなのです。すべての嫌がらせ、全てのいじめはソレを刈り取り、破壊し、その人を不快にし、元気が戻らないようにすることを目的にしています。
親のゆがんだ愛情による過干渉や過保護、人生の私物化も、自覚されているいないに関わらず、無意識にその人を否定しているわけで、結果的にソレを奪います。善意であっても人を壊すものってありますよね。
が、人は複数の人間関係に属してゆくため、滅多なことでは死なないで生き延びてゆけるんだと思うわけです。
たとえばハカセと大臣しかいなくて東大と京大以外は学校じゃない、みたいな秀才のおうちに、フツーの頭で生まれ出てしまって、バカでどうしようもないとか何でおまえそんなこともできないのだ、”みんな”できてるのにとか、やればできるはずのDNAなのにどんだけ怠けたのか、なんとかしろ、などなど言われて育った人がいるとします。
一歩外に出れば「そりゃおまえの家がおかしいよ」と教えてくれる友達ができるでしょう。
もちろんその人はつらいし、つらさはなくならないし、あらかじめ傷ついて過敏な感性を抱えて育つでしょうが、成長してその環境を相対化する価値観を持つことができれば、人間として完全に壊れてしまうことは避けられるでしょう。
●「相対化」と「絶対化」のはざま
価値観の相対化は非常に大切なことで、そのために「世間が広いのは良いこと」というコンセンサスがあるのだと思います。狭いのは(自己肯定感を奪う敵がいる時には特に)リスクになります。
相対化が作用するのは、成績の優劣やら点数の高い低いという、単純な上下の場合に限りません。美人七姉妹みたいな中にフツーのお顔で生まれてしまって、すんごいコンプレックスを抱えて育っても、彼氏ができて、オレにとってはおまえが世界一かわいいよ、といって救済してくれることだって起きるわけです。
これは世間的なモノサシ全体を俯瞰してぶっこわし、なおかつ自分を一番の位置におく(一時的な絶対化)という、ウルトラC(古っ!)なことを可能にする出来事です。
自己肯定感に関わる相対化はこのように非常にダイナミックで、人間の哲学的な価値観を含みますから、単に「程度」を相対化するのではない。金持ちや秀才や容姿端麗が、そうでないものに比べて価値があるとも限らないのです。
そこに自分以外の人たちがおり、自分をポジティブに認めてくれることでソレは補強される、認められなければしおれる、というシンプルな原則があるだけ。
だからたとえば逆に七姉妹の上の一番きれーなおねーちゃんが芸能界入りして、そこでプロの美人ばっかりの場で三流確定されてめっちゃ自尊心がつぶれちゃった、ってなことも起き得るでしょう。
ここで思い出されるのは、自分が出産適齢期であった時に、「女は子供産んでこそ一人前」とか、「子供産まないとほんとの幸せは理解できない」という、大変失礼で無神経なご意見をもらって頭に来た頃のこと。
●「子供生んでこそ一人前」呪文の秘密
なんでそこまで出産をほめたたえねばならんの?産まない人を貶めなきゃならんの?経験しなけりゃわからんなどという経験主義は、人間の想像力をバカにしているではないか?などとあたしは盛んにイカっていたのですが・・・・・あとで理由がわかりました。
なんで出産経験者の中の一部の人(と言っておきましょう)が、あれほどにしたり顔で自信満々で、「子供産んでこそ一人前」だなんてことを言うのかっていう、その謎が解けたってことです。
あたしも子供を産んで、赤ん坊というものが、世話を与える人を”絶対的に”肯定する存在だってことがわかったからです。
「おかあさん」というものには、競争相手がいない。あらかじめ唯一で、子供の愛着の対象なのです。子供を産んで育てるとすれば、その子にとって世界一になることが可能で、その「世界一」の度合いというのは、相思相愛の異性から「一番」と言われることの100倍の強さで世界一なわけですわ。
ほとんどの女はそんな度合いで「勝った」ことなんかないはず。誰とも比べられることもなく、努力や能力を問われることもなく、産んで接すればその子にとって唯一で、無条件に愛される。
これほどの自己肯定感を与えてくれる存在って、めったにない。
例えばそれまでなんとなく居場所がないとか、何をやっても一番になったことなんかないよ、という人がいたとして、子供を産むって、これはキョーレツな体験に違いありません。
「一人前」って言葉の中には危険や痛みの体験が含まれているのでしょうが、そしてそういう「おかあさんって大変」という苦労の部分がとかく強調されますが、いや、その前にいわば前払いされた「快感」があるんだな、とあたしは思いました。自己肯定感のかつてないような充足、というでっかい快感の経験が絡んでいる。
いわゆる「母は強し」の中身はこれなんだろうな、とすら思いましたわ。自信をつけるっていうことです。だからあんなに自信満々いいやがるんだ。
しかしこの「絶対化」はもちろん一時的なものです。子供側からの絶対性が続いたとしても、自分が何らかの反省をして自信を失うこともあるし、反抗期の子供に厳しい否定的感情をぶつけられることもあるかと思います。でも、この「前払い」はでかい。
だから件の「子供を持ってこそ一人前神話」が出来上がったのでしょう。それがあのうざい価値観のひみつ、ルーツと思います。いや、それでもなおあたしはそんな価値観の押しつけは受け入れまれんけどね。
むしろそれを強調せざるを得ない人は「相対的に」世間が狭いんだろうなと思うだけです。それってリスキーですわよ。また、この充足を与える子供が、まだまだ非常に「狭い世間」しか持っていないことは、皮肉なことです。
●世間が狭いと死ぬぞ!
世間を広くする、つまりいくつのもの人間関係を持って価値観の相対化をはかることがどのぐらいサバイバルにとって大事かってことは、ソレを攻撃する側から見た時にさらにはっきりします。
『羊たちの沈黙』に出てきたハンニバル・レクターはコトバによって人を「死にたい」状態に追い込み、自殺させることができました。しかしそれは牢の中にいた人です。他がシャットダウンされているから、そんなに効果的に攻撃することができたのだとは思いませんか?
『カッコ―の巣の上で』で、自殺してしまった男性患者も、精神病院という閉ざされた中にいました。
人を意図的に洗脳するカルトは、まずそのターゲットから、友人や家族を遠ざけ、孤立させます。それはテクニックなのです。いろんな価値観を持ち込んでアドバイスする友人がごちゃまんといる人から、財産をしぼりとったりはできません。「すべてを捨てて教団のために生きよう」などと決心させることもできにくいはずです。
オウム真理教がやったことを例にひくまでもないですけど、あれも強烈な自己肯定を「エサ」にしていました。そのエサをより価値あるものに見せかけるために、他を「間違ったもの」「哀れなもの」として、徹底的に否定する。そのためのシステムを作っていました。
修行の名のもとにほとんどの時間をその世界観の中で過ごすようにさせる、出家やら共同生活、教団内のヒエラルキーは、つまり「世間を極小化」するための装置ではありませんか。
狭いのは危ない。たった一つのコミュニティに頼るのもリスキー。それは悪意にさらされていない時、敵が周りにいない時でも心しておいたほうがいいと思うわけです。サバイバルのために。
さらにつづく。(次回は自分の自己肯定感のありようについて自家中毒的に厳しく分析するの予定)