自己肯定感というBuzzWord:その8・うちにはピアノが2台あった
●二台のピアノと音楽室
音楽とフツーのお勉強と、努力問題と容姿コンプレックス。この4つがあたしの個人的な「生い立ち」の中で、自己肯定感に大きく関わるエレメンツであった、ってはなしの続き。そのひとつめ、音楽の話です。
我が家に一台目のピアノが来たのはあたしが生まれて間もなくで、父はそれを調律師に試弾させて選んでもらい、月賦で買ってきたわけです。
父も母もその時点でピアノなど弾けませんから、これはあばーとかうばーとかいいつつまだ転がっているだけの赤ん坊のあたしのために購入されたのです。
気が早いというかなんというか、その時点であたしがピアノを弾くことは運命づけられていたわけですね。
レッスンが始まったのは2歳半。近所の年配の先生のところに10歳年上の従姉と一緒に連れて行かれました。
超早期教育と言っていいタイミングです。それを17歳の途中まで、美大進学が決まるまで続けました。その間先生を3回変わっています。全部親の指示でした。
ピアノの他にソルフェージュと聴音と楽典を教える先生にも別についていて、これは小学校1年から、あたしが中学2年生で「音高にも音大にも行かない」と決めるまで続きました。
最初、両親は子供を持つのも初めてなら、ピアノのレッスンなんてものを見るのも初めて。音楽教育の実態についてもこれから学ぼうという構えの、昭和30年代半ばごろのお話でした。日本も親世代まだまだ貧乏でした。
で。その後の数年間で幼児のあたしがこの身に被ったいろいろな「試み」が、両親に知識を与えました。要するに、いいか悪いかわかんないけどとりあえず実験するんだぜ、というスタンスで我が子に「音楽教育的メニュー」を与えた結果、経験浅いパパママも、やっといろんなことが「わかった」のだと言えます。
最初の数年でわかったことはだいたい次の通り。
〇レッスンを始めるのは早けりゃいいってもんじゃない。
〇先生は近所で適当に決めてはいけないケースが多い。悪い癖がつくと後が大変。(基礎を与える最初の指導者の力は決定的)
〇超小さいコドモに楽譜を読ませるための流行のメソッドにはろくでもないものもある。(これに限らず、流行のメソッドというものには用心しなければいけない)
〇個人差はあれど、変なメソッドで幼児は大変かわいそうなことになることがある。(なってしまった)
以上ですが、両親はこれを次に生まれた子供に活かすことができるけれども、やられた本人には、今頃わかってももう遅いんだよね。
超早期にピアノを弾かされはじめたあたしは、もともと持っていた性質とあいまった形で、いろんな不利益がないまぜになった「音楽」を体にビルドインされたかと思います。
しかし多少傷はあっても「能力」であることには変わりはありません。
最初の子の教育で培った経験や知識は活かしまくったかたちで弟のピアノも始まり、父はわたしたち二人に毎日十分な量を弾かせるために、 二台目のピアノを買いました。
今度はグランドピアノで、セミコンサートサイズよりひとつ小さいやつでしたが、大変よい品物でした。
そのピアノと立派なオーディオ装置を置くために、「音楽室」とよばれる、だいたい防音が施された(だから24時間弾いていてもだいたいOKな)部屋を増築しました。
あたしが12歳、弟が10歳の時です。
●音楽の柱が支えてる
父がどうしてそんなに極端に音楽のできる子供を望んだのかはわかりません。音楽が好きだった事は間違いないですが。
理由はどうあれ、「親の子供に対する満足感が、子供の自己肯定感に影響する」以上、とにかく弾くしかない環境でした。
親の情熱と努力はけっこう巨大なもので、あたしと弟はどっちも音楽のできる人に育ちました。
父もチェロを習ったり声楽の先生についたり、フルートを習ったりしました。でも、音楽は、そのスキルに関しては子供の時の訓練の影響が大きいのはご存じの通り。・・・・っていうか、日本中が「子供の習い事と言えばピアノ」みたいなクレイジーなブームを経験したことで、これもやっと常識化したんじゃないでしょうかね?
大人になってから、奇跡のような指の動きを獲得する例は、ほとんどないのではないかと思います。
それでも自分自身もレッスンをうけることで、父はますます音楽に対する知見を肥やしていたのだと思います。やらないで言う親と、やって言う親は違います。
父が子供にスキルやレベルだけを求めないでいてくれたことは、幸いでした。
リスナーとしての音楽と、自ら表現する音楽はつながってはいるものの、まるっきり違うチャンネルであると言えます。骨浸りの音楽愛好家を、リスナーとして満足させるなんてことは、ガキにはまあ不可能に近いです。
親バカフィルターがかかっても、できそうもないことでした。
●無駄に恵まれたことも誇りになる
クラスの女の子の3人にひとりとか4人にひとりとか、ピアノかオルガンかエレクトーンをやってます、みたいな時代でした。そしてみんな12歳ぐらいでボロボロやめる。
続ける子は専門教育を受けるようになるか、あるいはお金持ちで余裕があるとか、そういう例が多かったかな。
そういう中で音楽家の家でもないのにピアノが二台あるとか、専門家になるって本人が言ったわけでもないのに聴音やらソルフェージュやら習わせて、小学校が終わる時点で音大受験の過去問はだいたいできるから、中学からは音大生がやるような楽典とか声楽とかやらせる、というお家は、まあ珍しいのじゃないかとは思います。
音大卒業のお友達が大勢いますが、みんな「うらやましいほど珍しい」と言います。
実は今現在、あたしは歌ったりはしますが、きれいさっぱりピアノなんか弾けないのでございます。
なんつーもったいない、と思う人はいるだろうが思わない人は思わない(笑)。まあ単純に弾かなければ弾けなくなります。
それなりにやったんで、あたしはピアノの才能に関してなんのファンシーもないし、音楽で培ったいろんなもんが、今でも仕事やら日常やらに生きていて、十分「元がとれて」いるのです。
そして、その「元がとれている状態」を、あたしは父に見せて納得させることができました。早死にだった父が死ぬ前に、ってことです。
専門家になるつもりがまるでなかった中で、”無駄に恵まれた”音楽環境が、いや全然無駄なんかじゃなかったね、と親子で同意していた、そのことこそが、あたしにとって何よりも「恵まれた」点であったと考えます。
父が望んだ、「音楽をする娘」という欲望の中をサバイブしたのです。これが自己肯定感の柱をひとつ、がっつり支えております。
●親の満足の中身も成長する
いやしかし、あんたの親はあんたを音楽家にしたかったのではないの?と問う人もいるでしょう。いくらなんでもお金と情熱を注ぎ過ぎているからです。
でも実はほんとにそうだったかどうかはわかりません。父はそれを口に出したことはないからです。
仮に最初はそう思っていたとしましょう。しかし親の欲望のありかたも、親の成長やら成熟度によって、変わってくるはずです。欲望が「初期設定」のままだったら、ナマモノとして生きてゆく子供の変化と、その欲望はやっぱりぶつかり、子供の方を傷つけるでしょう。
それに何より、「欲望が充足される」ことと、満足というのはたぶん違うんですよね。子供が思い通りに行きさえすれば満足な親、ってなものに、自分もなりたくはありません。
弟は普通の大学に進学しましたが、結果的に音楽家になりました。でも父がそれを(初期設定じゃない状態で)ほんとに望んでいたかどうかもわかりません。弟の音楽を、父は理解できなかったので(笑)、不安だったかもしれないのです。だけど、子供が望む道に行くのを喜んで見守るのが成長した親ってものでしょう。
本当に音楽が好きなのは自分であり、うまく動かない楽器としての自分の体と、表現に向かいたいもどかしい思いとを抱えて歳を取って行った、それが父だったのじゃないかと想像します。
あたしがひょんなことから舞台で歌ったりするようになったのはかなり最近、要するにばーちゃんになってからですが、まあ父が生きていたなら大喜びだったことでしょうね。
(『ひょんなことからこんなことを』)
去年亡くなった母も、父が死んでから約30年間、最後までピアノのレッスンを楽しみました。60からの手習いですから、それなりでしたが、それでいいのです。
父と母との結婚に音楽がどのぐらい介入していたのかはわかりません。でも我が家にはとにかく、それがあふれていたってことです。
そのことに、あたしはとても感謝しています。
つづく