打ち明けなかった恋のほころび
あらかじめの失恋
20代のはじめの頃、好きになった人がいて、だけど打ち明けちゃいけなかった。望みも無かった。
その男性はその時新婚2ヶ月だったのだ。
それを知った時はさすがに驚いた。なんでそんなタイミングに出会わなくてはならないんだろうと。
あたしは美大を卒業して、イラストレーターをしながら先輩のデザイン会社でアルバイトをしていたのだが、もっぱら出勤していたのはクライアントの広告代理店。そこでプロジェクトを束ねるボスが彼だった。
学生上がりで広告の仕事についてできることなんてほとんどない、習いながら作業をするだけの若い自分にとって、彼は何かと厳しいコーチだった。朝出勤した時の顔つきまで指導された。
たぶんあの時自分は何か”教え導いてくれる”存在に飢えていたのだ。実力をつけたいと切望していて、今のままの自分じゃ嫌だと思っていた。
その人は非常に頭の回転が速く、あたしには安心感があった。昔むかしのBFにほんのちょっと似ていたけど、それだけに、言うことの正しさ鋭さが際立って見えた。成熟した男はなんて違うんだろうと驚き、驚きはすぐに好意に変わった。
もう少しそばにいたい
半ダースぐらいの学生アルバイトと一緒に繁忙期に放り込まれて、夏の間大量の作業をした。あたしは一切サボらなかった。それが一段落した時に、ボスは先輩に、「この人だけしばらく貸しといて」と、あたしを指名したのだった。秋になっていた。
もう少しそばにいたいと思ったからOKした。あらかじめもう失恋しているのだとしても。
違うフロアの社長とも面接した。
それであたしはそのプロジェクトが完全に完了するまで、彼の向かい側の机をもらうことになったのだった。
仕事のスケジュールはきつかった。残業もしばしばだった。覚えることはたくさんあった。
ある残業の日、彼はあたしの向かいの席で、奥さんに言い訳の電話をかけた。きっと会う約束をしていたんだろう。
夫婦であっても、恋人とのデートを残業で吹っ飛ばした,みたいな失態なんだろう。
彼は半分は拗ねたような、半分は照れたような謝り方をしていた。
厳しい上司だけど、その時は男の子に見えた。彼と付き合ったら、ああいう顔が見られるわけだ、と想像して少し物悲しい。
そんな感情に気づかれてしまったらまずいので、あたしは黙っていた。職場の他の人達みたいに、「新婚」なんて単語を使ってからかったりはしなかった。
聞けば奥さんとは出会って1ヶ月で結婚を決めたと言う。じゃあ出会ってまだ一年も経っていないかも知れない。あたしが恋を隠し始めて 1ヶ月だ。その差は短いけどとても大きい。
恋女房って単語もある。しかし恋のない女房もあるんだろうか?そんなことはあんまり考えたことがなかった。若かったからか。恋をしていたからか。
黙っている私に、彼は時々雑談をした。
奥さんはね、今仕事を辞めてるんだ。だから家にいる。体が丈夫じゃないんだ。早く帰れる日は近くまで来てもらって食事でもしようと思ったんだけどね、などと。
彼から与えられる情報はそれだけだったけど、先輩から聞いている奥さんはまた違う。とにかく特別に仕事ができる人であるそうだ。同類なんだろう、きっと。働きすぎて倒れて、休業している時に彼に会ったらしい。
この人が、仕事のできない女に耐えられるわけがない、と思った。そもそも仕事ぶりが他の人より良かったから、あたしはここに残っているのだ。
しるし
いよいよ全てのページが校了になるタイミングが来た。これが終わればバイトは終わりだ。
分厚いカタログだったから、抜けがないように、二人でページのノンブルを見ながら一枚一枚数える作業をした。残業になり、広い事務所に二人だけになった。
彼はあたしの後ろに立ち、校了用紙の分厚い束を持つ手を助けた。その時左手が重なったが、作業台に束が置かれた後も、彼はその手を動かさずに、あたし手の甲を包むようにしていた。そのまま、右手で一枚ずつ、紙をめくって、数えながら、確認作業は続いた。
何百ページあったろうか?それが終わるまで、すぐ後ろに立って、彼はあたしの手に触れていた。あたしはやっぱり何も言わなかった。
だけど彼があたしの好意に気がついていたことは確信した。やっぱりバレちゃっていたんだ。あたしが黙っていることを選んだことも分かっていたんだな、と思った。この手は、知っていたよ、という印なんだろう。
あたしは本当に、何も言わなかった。触れていた手が離れた時も、彼の目を見なかった。
打ち明けなかった恋は生まれて初めてだったと思う。
このnoteは下記の展覧会と連動しています。
おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。