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褒められるって危険(容姿コンプレックスOrigin13)

褒められると不安になる

 キャンパスで生涯のパートナーを見つけた母の「青春の体験談」が、単なる体験談のようには聞けず、あたしにとっては「呪い」のように脳にインプットされてしまっていたのは、なぜでしょう?
 やっぱり主に自分の親が満足してくれていなかった、特に思春期の愛に飢えた不安の季節に、褒められることがなく、きっちりかっきりメスとしての自信を奪われたってところが大きいです。

 親というのはある種子供の性に「封印を施す」役割を担う存在だ、ということもいえるのですが、それはまた別のお話。今は逆に、褒められた記憶の話をします。

 この時期、ずいぶんいろんな人がいろんな方法で褒めてくれました。
 褒められているのは若さ(いわゆる「出花」)であって、あたし自身ではない、ということを差し引いても、それは幸せなことだと思います。

 でもね。 
 大美人の人生と違って、あたしは子供の頃に褒められ慣れていませんからね。
 疑り深いし。
 それから、キャンパスで学んでいたものが美術ですから、美、なんてものに対して、引っ掛かりがない脳をしていては、あかんのです。
 たとえば「女性がキレイ」、ということに関して、親戚のおばちゃん並の感性をしていたりしたら、はっきりいってやばいのですね。それじゃ落ちこぼれてしまいますがな。

「脳にひっかかる美」に目覚める頃は

 で。あたしは毒々しさとか、強さとか、悪い目立ち方をするものの美とか、反対に「趣味のいいもの」の持ついやらしさや古臭さなどについて日々悩んでいました。
 というのは、「趣味がよくて」「だれもに好かれる」ものは、それ自体大変誘惑的であるからです。

 自分の絵がそっちのほうに行ってしまいそうになるのを警戒していても、褒められたりすれば、ついその警戒がゆるんだりもします。
 「褒められるって危険」
 あたしはそう思いました。

 それは自分の服装や、姿かたちや、考え方などにも、全部言えることでもありました。
 だけど褒められたこともない人間が、そのことから逃げて行く先に、どんなものがあるか、それもいささか不安です。
 単なる自分勝手な狂人にでもなるつもりなのか?とかね。

 経験もなく、実績もなく、テクニックも、深い思慮も、知識もなく、ただ本能的に不安がったり、警戒したりしている、手さぐりの季節でした。

 校内に、あたしが「非常に美しい」と思っている女性がいました。たぶん彼女はプロのモデルだったと思います。
 知り合いではなかったので、確かめようがないですが、そうでないとしたらその痩せた長身を包む服装の異常さを説明できないので、勝手にその人をファッションモデルだと思っていました。
 真っ白いロングコートや、赤いベルベットのスーツ、ディープグリーンのシャツをなどで不機嫌そうに登校してくる彼女を見かけるたびに、あたしは興奮しました。
 いつも見たこともないような化粧をしていました。その異彩を放つ美しさ。自信。そこには厳しく構築された別世界があったのです。

 なのに。
 彼女をキレイだというあたしの意見はことごとく却下されました。周りの人間は誰も褒めないのです。
 友達が「今日、食堂で見たよ。カレーを食べてた」と報告してくれます。
 あたしは彼女が黒い口紅を塗った唇に、黄色いカレーを乗せた銀のスプーンを運ぶ姿を想像してわくわくしました。
 しかし友達はひとこと、「あれは、グロいよ。私はパス」という。
 家に帰ってきて、幼馴染の女子に話すんだけど、やっぱり理解されない。
 「SYNDIのほうがかわいいよ。それだったら」みたいなことを言われる。

 それはね、違うのよ。
 あたしだって、ああいうものだけを美しいと思うわけではないんだけれど、だけどああいった感性の飛び抜けたもの、あまりにもユニークなものを認めないのは絶対におかしい。
 絵の具で汚れた黒っぽい服装で、髪の毛を馬のしっぽみたいにくくって、背中を丸めて絵を描きながら、あたしは「彼女は絶対に美しいのに、認められないことがある」ということをかみしめていました。
 彼女の作品がどんなものなのかは知らない。
 だけど、あの姿だけでも、あたしの作品よりずっと”強い”表現だってことはわかりました。強さにおいて、美しさにおいて、あたしの表現なんか負けまくり。
 
 作品を褒めてくれる人もありました。
 女の子として褒めてくれる人もありました。
 そのことのどちらもうれしかったです。
 うれしがりながら、不安でした。
 こんなことをうれしがっていて、本当にキレイってことを、この手にすることができるのか、自分は、と。

 この項続く。

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