見出し画像

浜口稔 寄稿『最後にして最初の人類』~ステープルドンの円環宇宙と音楽~

ステープルドンの円環宇宙と音楽
浜口稔(明治大学教授)

 映画『最後にして最初の人類』を、オラフ・ステープルドンの愛読者の一人として心から喜びたい。ティルダ・スウィントンの朗読は、未来的な廃墟感を漂わせるスポメニックの風景の目眩くカメラワークと相まって厳かであり、なによりもヨハン・ヨハンソンの音楽により全篇が比類なく崇高美を湛えたものになっている。朗読の文章は、原作(1930年)から最終章を中心に他の章や作品からも抜粋したようであるが、あたかも一篇の詩のように編まれているのが印象的だ。
 20億年先の最後の人類〈第18期人類〉の一人が最初の人類〈第1期人類〉である一作家の脳に「テレパシー憑依」し、その作家が英語で物語る地球人類の興亡史に現人類の私たちが耳傾けるというのが物語の設定であるが、作家は自ら作品をしたためているつもりで、実はテレパシー操作によってそう仕向けられており、それを知っているつもりで創作していると思い込まされてもいる。
 最後の人類は、朗読からも察せられるように、同じ種とは思われないほど著しい個体差があるが、強力なテレパシーで一人類種としてまとまっている。しかもテレパシーを介して長大な人類の興亡を一種の「時間遠近法」的眺望のもとで観察することができる。最後の人類として地球の歴史に幕を引く前に、大勢の同胞で分担して過去20億年の多くの時間点で進化し興隆した各人類の選り抜かれた個人にテレパシー憑依し、その個人を介してそれぞれの文明をくまなく「経験」したあと、その経験を集団的精神のなかでテレパシー共有する計画を実行している。その共有された人類史的経験を私たち〈最初の人類〉に語り聞かせているのだ。
 以上のことを念頭に置くと、『最後にして最初の人類』(原題は Last and First Men)のタイトルもご納得いただけるのではないか。映画の冒頭の「あなたたちを助けます…わたしたちも助けてほしいのです」(字幕用翻訳)の謎めいたフレーズも、最後の人類と最初の人類が20億年の時のスパンを超えて「最後にして最初」の存在として同期していることを前提にしてこそ意味をもつ。彼方から語りかけてくる彼らの願いは、作品を介して最初の人類に迫りくる危機(第2次世界大戦)とその後の人類の波瀾に満ちた歴史を伝えて人類的「目覚め」を促し、最後の末裔である自分たちになんらかの影響を及ぼさせることにある。
 こうしたパラドクシカルな時空は、ステープルドンの他の作品にも多く見られる。作家になるずっと以前、第1次世界大戦のただ中にあった(1916年)に戦場で綴った「花と種」(未発表の寓話)から、亡くなる2年前にアーサー・C・クラークの依頼を受けた招待講演(1948年)まで、永遠の視座のもとでは全時間点が常に「終わりにして始まり」(比喩的には「花にして種」)であることを繰り返し説いている。その根幹にあるのは、テレパシーが深くかかわる円環的宇宙観である。それが素晴らしく音楽的なのだ。
 ステープルドンはコンサートに足しげく通う大の音楽好きだった。それが創作活動の霊感源の一つになったといっても過言ではない。原作に登場する〈第三期人類〉は聴力と音楽的感性を異常に発達させている。他にも音楽的生態系を主題にした短編「音の世界」(未発表)があり、1937年の主著『スターメイカー』(ちくま文庫改訳近刊)では、数ある宇宙期の一つの、ビックバンの余波が鳴り渡る時空に棲息する音楽的生命体まで登場させる。「人類そのものが音楽である」は、実は宇宙に由来するものとしてある。ヨハンソンの音楽にも同じものを感取できるような気がする。生きていたらこれも映画化したのではないだろうか。

浜口稔(明治大学教授)原作「最後にして最初の人類」とその続編にあたる「スターメイカー」の翻訳を務める。著書に「綾蝶」(筆名湊禎佳、七月堂)。訳書に、R・パルバース「トラップドアが開閉する音」(コナミ出版)、A・エレゴール他「言語の思想圏」(平凡社)、J・ノウルソン「英仏普遍言語計画(工作舎)、H・ジェニングズ「パンディモニアム」(パピルス)などがある。本作の字幕監修も担当。

本寄稿は7月23日(金)より公開される映画『最後にして最初の人類』完全読本にも収録されています。上映劇場での販売を予定しております。(販売に関するお問合せは、本作上映劇場までお願いします)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?