思い描いていた環境とは違う場所に身を置くことになった時には
どうやら私の両親は、「子どもはのびのびと育て、勉強は強要しない」という教育方針だったようだ。
絵とピアノと書道を習わせてもらい、毎週水曜日は友人のコマミと遊び、週に4日は金管バンドの練習に行く、健康で文化的な小学生。
算数が猛烈に苦手で、1年生で習う繰り下がりの引き算がいつまで経ってもできなかった。そろばんとかやっておけばよかったのかもしれない。
休み時間は図書室へ行き、かいけつゾロリと漫画ばかり読んでいた。
コマミは中高一貫校を受験して見事合格したけれど、その様子を見ていても勉強に興味は湧かなかった。
勉学は未知であり、私にはあまり関係のないものだった。
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顔が可愛い訳でもなく、面白いことが言える訳でもない。陰キャで人見知りだし、おまけに運動もできなかったので、どうしたら中学校でいじめられずに過ごせるかを必死に考えた。
中学1年生の6月、最初の中間テストで予想外の好成績をマークしてから、私の人生が大きく進行方向を変える。
テストで必ず上位に名を連ねるようになるまで、時間は掛からなかった。
中学生の狭い世界では、ガリ勉すぎると一軍の子たちに目を付けられることがあるが、毎日練習がある吹奏楽部に所属していたので、その心配もない。
3年間まったくいじめられなかった。
テストでいい順位を取ることによって、何も持っていないと思っていた自分の価値を証明できる気がした。
勉学は希望であり、アイデンティティそのものだった。
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地元では進学校として知られ、文武両道を掲げる女子高に入学した。
荒れ気味だった中学校で勉強と部活を頑張り、優秀な生徒が集まるこの高校に無事合格できたことが誇らしかった。
同級生は、私が3時間掛けてやった勉強を30分でさらっとこなすような人たちばかりだった。そんなに賢いのに、さらに血のにじむような努力を重ねられる人たちばかりだった。
何においても、見上げるといつも上には上がいる。成績は伸び悩んだ。
中学校時代に築き上げたアイデンティティは、どこに落としてきたのだろうか。偽物だったのだろうか。
学歴厨と化した当時の私は、「良い大学に入れないなら生きている価値がない」と思っていた。誇張ではなく、本気でそう思っていた。
全国的に有名な某国立大学を志望校に決め、自分の存在価値を見出すために、毎日夜中まで勉強した。
勉学は使命であり、出口のない迷路だった。
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某国立大学には合格できなかった。
その壁は笑ってしまうくらい高くて手が届かず、私は笑ってしまうくらい数学ができなかった。
自分のことを、やれば何でもできる子だと勘違いしていたのかもしれない。人生には、「どうにかなる」ではどうにもならない時があると知った。
心にぽっかりと空いた穴は埋まらないまま、合格した2つの大学のうち、自宅から通える方へ進学することになった。
死んだ目で入学式から帰宅した私を見かねた母親が、こんなことを言った。
「置かれた場所で咲けなくてどうするの?」
私の進路にほとんど口出しをしてこなかった母親の、意味深な言葉。
冷静に考えれば、大学に行かせてもらえる時点でありがたいことなのだ。
しっかりと学校に通って、今度こそ成功したいと心から思った。
勉学は手段であり、花を咲かせるために必要だった。
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4年間の大学生活については、これまでのnoteに記した通りである。
もう後には引けなかった。勉強に挫折した私の心は、もう一度勉強することでしか救われないのだから。
高校で命を懸けてきた生物・化学は、生化学や解剖生理学の基礎知識として役立ったし、あの時死ぬほど英語を勉強したおかげで、英語論文もある程度読めた。
高い壁に立ち向かうために積み重ねてきた勉強は志望校合格には繋がらなかったけれど、事あるごとに私を助けてくれた。
思い描いていた環境とは全然違う場所に身を置くことになり、やる気も自信も失くして抜け殻だった私は、3つの資格と来年度からの就職先、そしてたくさんの友達を得て、先日大学を卒業した。
相変わらず特別な才能はなく、顔が可愛い訳でもなく、面白いことは言えないし運動もできないが、花の水やりは怠らなかった。
置かれた場所で咲くことはできただろうか。
自分ではよくわからないので、私を外から見ていた皆に、その判断を委ねたい。
勉学は祈りであり、この先も続く日常である。
(ヘッダーイラスト:葛木そなさん)