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十夜幻譚

第一夜:「湖畔の女」

湖はひどく静かで、まるで世界の終わりのようだった。空も、風も、音さえも消え失せ、水面は一枚の鏡となって世界を映している。湖畔に佇む自分の姿を見ていると、それが本当に自分なのか、ただの映し絵なのか、次第にわからなくなっていく。

そのとき、視界の端で白が揺れた。

湖畔に、が立っている。
彼女は白い服をまとい、裾は風もないのにふわりと揺れていた。足元は湖に溶け込み、まるで水面から生えてきた花のように、そこに佇んでいる。

顔は見えない。いや、見てはいけないのだ。そう直感する。
だが、彼女は確かにこちらを見ている。湖の空虚な音の代わりに、何かが頭の奥で響く。視線が釘のように脳に刺さり、逃れられない。

湖面に映る彼女の姿は完璧なほど静謐だが、作家は気づく。
湖に映っているのは、彼女だけではない。

湖面に揺れる水鏡の中に、「自分の顔」があった。
しかしそれは本当に自分の顔だろうか。輪郭が滲み、口元が歪む。目は空洞のように暗く、水の中に吸い込まれていくようだ。顔がゆっくりと裂け、波紋が無数の亀裂となって広がっていく。

女は湖面に顔を向け、静かに呟いた。
「私を見つけて」

その声は遠く、まるで湖底の底からこだまするように届く。
湖の水が、何かを渇望するかのようにゆっくりと盛り上がる。女の足元が沈み始め、白い服が水に飲み込まれていく。湖はひとつの口となって、彼女を呑み込むためにゆっくりと開かれるのだ。

「待て」と声を出そうとするが、喉は音を許さない。手を伸ばそうとするが、身体は鉛のように重く、動かない。

水面が裂け、女が消えた瞬間、湖は再び静寂を取り戻す。
そこにはもう、何もいない。ただ湖面が冷たく輝き、星を反射している。

しかし、その湖面に映るものは、もはや空や星ではなかった。

水鏡には、女の顔が浮かんでいた。
彼女は笑っているのか、それとも泣いているのか。水面の向こう側で、じっとこちらを見つめている。

作家はようやく立ち上がり、湖面に一歩近づく。水は冷たく、足を飲み込んでいく。遠くから、どこかで鐘の音が聞こえた気がする――いや、それは波音かもしれない。

湖は静かだ。
白い女も、消えたはずの彼女の顔も、もう何もない。
ただ、水面に映るのは作家自身――いや、その顔は、誰のものだ?


目が覚める。いや、目が覚めたのだろうか。
周囲は暗く、湖の静けさだけが、まだ耳に残っている。

(第一夜・了)

第二夜:「螺旋階段の影」

目が覚めると、作家は階段の途中に立っていた。

その階段は細く、狭く、無限に続いている。下も上も見えない。ただ、螺旋の軌跡だけが黒い空間に浮かび、壁には無数のドアが並んでいる。それらのドアは等間隔に並びながらも、どれも微妙に歪んでいて、まるで張りぼてのような偽りの存在だ。

作家はただ、黙々と登る。
靴音が階段に吸い込まれ、遠いどこかで微かな反響を残す。それはまるで、別の誰かがすぐ後ろをついてくるような音だ。

「誰かいるのか?」

声に出すと、階段はひとりでに震え、ドアのひとつが軋んだ音を立てる。作家は立ち止まり、ドアの一つに手をかけた。

ノブは氷のように冷たく、開ける瞬間、わずかに躊躇する。しかし何かに導かれるように、ゆっくりと押し開けた。


部屋の中は、まるで囚われた時間のように静かだった。

机の上に散らばる紙片。煤けたランプがぼんやりと明かりを灯し、その光が作家の「助手」を照らしている。

助手は机に向かい、ペンを走らせていた。だが、その手は血に濡れ、指先から滴る血が原稿用紙に染みを作っている。

「おい、何をしているんだ」

助手は振り向いた。
その顔はいつもの助手だ――だが、目だけがどこか遠くを見ている。口元がゆっくりと歪み、言葉が零れた。

「先生、これが最後です」

その言葉は音ではなく、頭の中に直接染み込んできた。紙に書かれている文字を覗くと、それは滲んで読めない。ただ、紙の真ん中に「影」と書かれた一文字だけが、濃いインクで残されている。

助手の手が止まる。彼の背後の壁に、影が二つ、三つと伸びていく。影は壁を這うようにうねりながら、作家のほうへ向かって広がり始める。


作家は叫びそうになりながら、ドアを乱暴に閉じた。

息が荒い。心臓が軋む音が聞こえそうだ。階段の上と下は依然として暗く、どちらに進むべきかもわからない。ただ後ろのドアの向こうから、まだペンの音が聞こえる気がする。

そのとき、背後に何かがいるのを感じた。

振り返る勇気はない。だが、「それ」が何かはわかっていた――影だ。
階段の壁に広がる黒い影が、じわりじわりと蠢き、作家に手を伸ばしてくる。影には形がない。ただ無限に広がり、作家の足元からその身体を飲み込もうとする。

作家は逃げるように階段を駆け上がった。足音は二つ、三つ、すぐ後ろに重なって響く。息が切れ、視界が揺れる。それでも、階段は終わらない。

無数のドアが目の端を流れていく。どのドアも歪んだ笑い顔のように見え、ノブが手招きをしているかのようだ。

「最後です」

助手の声が耳元で囁く。
作家が目を閉じた瞬間、階段は崩れ始めた。


気がつくと、作家は最初の位置に立っていた。
背後を振り返ると、螺旋の影がゆっくりと消えていくのが見えた。それは何かを残したようにも、奪い去ったようにも思える。

壁には、無数の扉が並んでいる。

扉の一つが、静かに開きかけていた。

(第二夜・了)

第三夜:「果実の木と口のない男」

霧に包まれた庭園は静まり返り、空には薄い灰色の光だけが漂っている。庭の中央に一本のが生えていた。奇妙な木だ。幹は黒くひび割れ、枝は細く、天へ向かって痩せた指のように伸びている。枝の先々には、赤い果実が重たげにぶら下がり、まるで木自体が実にしがみついているように見えた。

その木の下に立つと、空気がわずかに重くなる。息をするたびに、甘く腐った香りが喉を満たし、頭がぼんやりとしてくる。果実の表面は艶やかで、見る者の目を惹きつける。

作家はそのうちの一つに手を伸ばした。

果実はひやりと冷たく、手の中に収まった瞬間、柔らかく脈打つような感触がした。

「あれ……?」

驚いて手を開くと、果実は変わっていた。
それは女の目玉だった。

目玉は、血走った瞳孔を震わせながら作家を見つめている。恐怖や驚愕といった感情ではなく、ただ「じっと」。その視線には訴えるような力があった。目玉からは赤い涙のような液体が滴り落ち、地面に染みを作る。

「果実を食べた者は帰れない。」

声がした。

作家はびくりと振り向く。そこには一人の男が立っていた。

男は奇妙な姿をしていた。顔には口がない。ただの平坦な皮膚が、まるで縫い合わされたかのように覆っている。鼻はあるが息をしている様子はなく、目だけが異様に大きく見開かれて、作家を睨んでいる。

口のない男が笑うように肩を揺らすと、笑い声の代わりに――湖の水音が漏れた。

「果実を食べた者は帰れない」

その言葉が再び、水面の向こうから響いてくる。声ではない。波の音が言葉を形成しているのだ。男が笑うたびに、木の上の果実が次々と落ち、地面にぶつかると「目玉」となって砕け散る。音はまるで、鈴のように澄んでいるのに、不快な響きだ。

作家は足を後退させた。

「何だ、これは……?」

口のない男は一歩、作家に近づく。
足元の影が黒く膨らみ、作家の影とゆっくり混ざり合い始める。地面に伸びた二つの影は、まるで一本の木の根のように絡まり、渦を巻く。

「逃げる者は、忘れる。」

男の声はもう、どこから聞こえているのかもわからなかった。目玉の涙が果てしなく流れ続け、地面に水たまりが広がる。水たまりは鏡のように光り、そこには――

湖が映っていた。

湖面には、白い服の女が立っている。

作家は目をそらそうとするが、身体は動かない。水面に浮かんだ女は、静かにこちらを見つめ、唇だけをわずかに動かした。

「見つけて。」

その瞬間、果実の木が崩れ、無数の目玉が嵐のように降り注いだ。作家は顔を覆い、目を閉じる。しかし耳には、あの男の笑い声――いや、湖の音が止むことなく響き続けた。


気がつくと、そこには何もなかった。
木も、果実も、口のない男も。
ただ、地面にぽつりと水たまりが残り、その中で揺れる水面に、作家自身の影が伸びていた。

影は微かに震え、ひとつの口の形を作ると、湖の音を漏らした。

(第三夜・了)

第四夜:「鐘楼と呼ぶ声」

世界は霧に覆われていた。
灰色の霧が、あらゆる音と色を飲み込み、目の前には朽ちた教会がぽつりと浮かんでいる。教会の石壁は苔むし、塔の先端は見えないほど霧の中に溶けている。扉は開かれ、内側からは微かに鐘の音が聞こえる――重く、低く、遠い。

作家はその音に導かれるように、教会の中へと足を踏み入れた。

内部はひどく暗い。外の光は一切届かず、床は冷たい石でできている。壁には無数の十字架が並び、それぞれに黒い影が貼り付いている。影は時折、わずかに震え、作家が通るたびにこちらを振り向く気配を見せるが、視線を感じるだけで姿は見えない。

鐘の音が、再び響いた。

その音は遠くから聞こえるのに、まるで頭の中で鳴っているようだ。

「誰が……鐘を鳴らしているんだ?」

作家の呟きに応えるものはない。彼は教会の奥へと進み、やがて螺旋階段を見つけた。それは鐘楼へと続く階段だ。狭く、暗い階段を、作家はゆっくりと登り始める。

靴音がひとつ、ふたつ、石の壁に跳ね返る。だが、その音に重なるように、もうひとつ、別の足音が後ろからついてくる。

振り向いても、そこには誰もいない。

作家は息をのむと、再び階段を登った。足音は絶えずついてくる。それは作家自身の足音なのか、あるいは彼に寄り添う何者かの音なのか――わからない。


鐘楼にたどり着いたとき、鐘の音はぴたりと止んだ。

鐘の下には、ひとりのが立っていた。

黒いヴェールを深く被り、その顔は見えない。ただ、その佇まいは確かな存在感を放ち、まるで鐘楼そのものが彼女の一部であるかのようだった。

女は動かない。作家が近づくと、床に彼女の影がゆっくりと伸び、鐘の形を作る。その影から、再び音が響く――重く、低く、鈍い音だ。

「お前は誰だ?」

作家が問いかけると、女がわずかに顔を上げた。

「罪は消えない」

その声は硬く、石のように冷たい。

その瞬間、鐘楼全体が震え始めた。
天井の鐘がゆっくりと揺れ、その振動が床を伝う。作家は慌てて後ずさるが、足元から石畳が崩れ落ちていく。

「待ってくれ!何を言っているんだ!」

だが女は動かない。ヴェールの奥に隠れた目が、作家をじっと見つめているように感じた。崩れ落ちる床の隙間から、暗闇が顔を出す――それはただの闇ではない。そこには水面のような光が揺らめき、白い手が無数に伸びている。

闇は鐘の音とともに、ゆっくりと作家を飲み込もうとする。

「罪は……」

女の声が、再び耳に届いた。

「罪は、消えない。」

鐘が最後の音を打ち鳴らした瞬間、床が完全に崩れ、作家の身体は暗闇へと落ちていく。視界は真っ黒に染まり、遠くで鐘の音がまだ響いている。

その音は、まるで湖に沈んでいく何かを告げるように、少しずつ小さくなっていく。


気がつくと、作家は鐘楼の下に立っていた。

そこにはもう誰もいない。鐘は止まり、ただ静寂だけが広がっている。だが床には、ひとつの黒い影が残されていた。

それは作家自身の影――いや、誰かの影にも見えた。

(第四夜・了)

第五夜:「列車の終着駅」

闇が流れている。

そこには空も地面もない。ただ、流れる闇の中を一両の列車が音もなく進んでいた。車輪の軋む音も、機械の唸りもない。ただ、列車はひたすらに進み続ける――どこへ向かうのかもわからぬまま。

作家は、いつの間にかその列車の中にいた。

車内は古びた赤い絨毯と煤けた木製の座席。天井の灯りはくすんだ橙色に揺れ、まるで生き物のように呼吸している。座席には、数人の乗客が静かに座っていた。

彼らは皆、仮面をつけている。

白く無表情な仮面。その目の穴は暗く深く、誰も彼もが作家には関心がないかのように、まっすぐ前を向いている。服装はどれも時代がばらばらで、遠い過去のものもあれば、現代の影も見えた。だが、彼らが動く気配はない。

作家は不安に駆られ、窓の外を見た。

窓の外には、暗闇の中に湖畔が浮かび上がる。水面は静かで、鏡のように列車を映している。湖のほとりには、白い服のが立っていた。

「――手を振っている……」

彼女の姿は遠く、まるで幻のように揺れている。だが、確かに手を振っている。それが招いているのか、別れを告げているのかはわからない。ただ、その動きは緩慢で、湖畔に立つ彼女の足元はゆっくりと湖に沈んでいくようにも見えた。

「降りなければ」

誰かの声がした。

作家は振り向いた。車両の隅に、助手が座っていた。彼はいつもの服装のまま、無表情にこちらを見つめている。助手の手には一冊のノートがあり、その表紙には見慣れた言葉が書かれている――夢日記

「どうしてここに……?」

作家が尋ねると、助手は静かに言った。

「ここで降りるべきです。」

その言葉は重く、車両全体に響いた。列車がゆっくりと減速し、遠くから微かな笛の音が聞こえる。終着駅だ――その直感だけが作家の中に広がる。

作家は立ち上がり、列車の出口に向かおうとする。だが、足がうまく動かない。座席に座る仮面の乗客たちが、ゆっくりと首を回し、作家を見つめ始めた。仮面の目の穴からは闇が漏れ出し、車内全体がわずかに揺れる。

「降りなければ……降りなければ……」

助手の声が繰り返す。

扉が開く音がした。作家はようやく足を動かし、列車の出口に向かう。仮面の乗客たちはもう動かない。ただ、誰かが笑ったような音が背後で聞こえた。

外に出ると、そこは湖畔の駅だった。

月の光が青白く降り注ぎ、湖は静かに光っている。ホームの先には誰もおらず、駅名も書かれていない。だが、湖畔には確かに白い服の女が立っていた――その姿はすでに水面に溶けかかっている。

振り返ると、列車はすでに動き出していた。助手が窓から作家を見下ろし、ゆっくりとノートを閉じた。

最後に助手が口を動かした――声は聞こえない。

列車は遠ざかり、暗闇の中へと消えていく。

作家はひとり、湖畔に立ち尽くした。

湖面に目を落とすと、そこには彼自身の姿が映っていた。だが、その顔はどこか別人のように歪み、湖の水面が波紋を広げながら静かに笑っていた。


再び鐘の音が遠くから聞こえた気がした。

(第五夜・了)

第六夜:「影のない庭園」

世界は光で満たされていた。

その光は柔らかくも冷たく、どこからともなく降り注ぎ、あらゆるものを白く染めている。空には太陽も月もない。ただ、光だけがある。

作家は庭園に立っていた。

そこは広大で、果てが見えない。枯れた芝生が一面に広がり、白い石畳が迷路のように縦横に続いている。庭には彫像や噴水が点在し、草木はまるで切り抜かれた絵のように静止していた。

だが、その庭園にいる者たちは異様だった。

人々がゆっくりと歩き回っている。白い服をまとった者、黒い服をまとった者――彼らは皆、穏やかな表情でさまよい続けている。しかし彼らの足元には、影がない。

光があれほど強いのに、影はどこにも落ちていないのだ。

作家は自分の足元を見た。
――影がなかった。

「あれ……?」

何かがおかしい。何かが、欠けている。作家は不安に駆られ、自分の影を探すように地面を見つめるが、そこには何も映らない。ただ、白い石畳が虚しく続いているだけだ。

そのとき、庭園の中央に立つ一つの影が目に入った。

「湖畔の女」 がいた。

白い服をまとい、彼女は遠くから静かにこちらを見つめていた。その姿だけがはっきりと現実めいている。彼女の足元には、長いが伸びていた。

作家は思わず駆け出した。
近づくにつれ、女の姿は少しずつ揺らぐ――まるで水面に映った幻のように。

湖畔の女は静かに手招きをした。

「こちらへ」

声はない。ただ、その仕草だけが意味を持ち、作家の胸の奥に重く響いた。作家が彼女に近づくと、地面が僅かに震えた。

足元に――影が戻り始めたのだ。

最初は細い線のようだった影は、やがてゆっくりと広がり、作家の足元を包み込んだ。それは黒く濃く、地面に焼き付けられたかのように消えない。

影が戻った瞬間、湖畔の女は微笑んだ。

「見つけたのね。」

その声は遠い水底から聞こえるようだった。

だが、その笑みはどこか冷たく、湖面に映る光のように揺れている。女の影は作家の影と重なり、地面には二つの影が絡み合い、一本の黒い線のように伸びていった。

庭園の光が微かに色を変えた。
それは赤みを帯び、まるで夕暮れのように沈み始める。影のない人々は次第に足を止め、彼らの顔が作家を見つめる彫像のように硬直していった。

その瞬間、庭園全体がひび割れた。

地面に小さな亀裂が走り、光が漏れ始める。湖畔の女は微笑みを浮かべたまま、静かに地面に沈んでいく。白い服が黒い影に飲まれ、作家は慌てて手を伸ばす――だが、彼女は手の中で溶けるように消えた。

作家の足元には、濃い影だけが残った。

空には光が消え、世界は薄暗い灰色に染まっていく。庭園の彫像たちは作家を取り囲み、どこからか鐘の音が微かに聞こえた――その音はどこか遠く、そして水音に似ている。

作家は立ち尽くし、自分の影を見つめた。
その影はゆっくりと動き出し、作家の足元から離れようとするかのように、地面を滑るように伸びていく。

影は問いかけるように作家を見つめ、微笑んだ。


静寂が訪れたとき、庭園は空虚な光だけを残して、何もなくなった。

(第六夜・了)

第七夜:「燃える家」

それは巨大な洋館だった。

作家が目を開けると、目の前にそびえ立つその建物は、夜の暗闇を背にして赤く燃えていた。屋根の上に燃え盛る炎が立ち昇り、黒い煙が空を塗りつぶすように広がっている。窓という窓は火の舌が覗いていて、洋館全体が生き物のように軋んでいた。

だが――音はない。

炎の勢いに反して、轟音ひとつなく、すべてが静かに燃えている。空気は重く、焦げた匂いだけが鼻を突いた。

作家は足を引きずられるように洋館の中へ入った。


廊下は長く、赤い絨毯が敷かれている。壁紙は煤け、天井からは火の粉が雪のように舞い落ちてくる。

彼は無我夢中で駆け出した。炎は後ろから迫ってきている。だが、その熱は感じない。ただ、逃げなければならない――その思いだけが彼を突き動かす。

やがて一つの部屋が現れる。

作家はドアを開けた。

部屋の中に助手が立っていた。

助手は無表情で、まるで彫像のように静かだ。作家が何かを言おうとすると、助手はゆっくりと振り向き、口を開く――だが、音は出ない。ただ、焦げた紙が風に舞うような気配がそこにある。

「なぜお前が……」

作家は呟くが、返事はない。

後ろから火の手が伸び、作家は再び廊下へと飛び出した。


次の部屋。

扉を開けると、そこにも助手が立っている。顔は同じ、表情も同じ――だが、手には焦げたノートを持っていた。そのページが風もないのにめくられ、焦げ跡の中に、何かが書かれているのが見えた。

「ここが始まりだ」

助手の口は動かない。だが、その言葉が、どこからか響く。

作家はドアを閉じ、再び走った。廊下の奥には無数の扉が続いている。燃える天井が崩れ始め、火の粉が降り注ぐ中、作家は一つ、また一つと扉を開け続ける。

だが――

どの部屋にも助手が立っている。

笑わず、動かず、ただそこに存在している。彼らはすべて同じ姿で、同じ影を落としている。


廊下の終わりが見えた。

そこには一つだけ、黒い扉があった。

作家は息を切らしながら扉に手をかける。そのドアノブは燃えているのに冷たく、皮膚の感覚が麻痺するようだ。

扉を開くと、そこは真っ暗な部屋だった。

炎の明かりが届かないその部屋の中央に、一脚の椅子が置かれている。その椅子の上には、白い服が丁寧に掛けられていた。

それは湖畔で見た、あの女の服だ――

作家が近づこうとすると、背後から声が聞こえた。

「ここが始まりだ。」

振り向くと、そこに立っていたのは助手だった。

しかし、その顔は黒く焦げ、まるで仮面のように表情を持たない。助手の影が作家の足元に伸び、その影は彼の影とゆっくりと一つに重なり合う。

「何が始まりなんだ……?」

作家が問いかけると、洋館全体が震え始めた。

炎の勢いが増し、天井が崩れ、部屋全体が赤い光に包まれる。だが、椅子の上の白い服だけは炎に焼かれることなく、真っ白なままでそこにあった。


目を閉じた瞬間、音がすべて消えた。

作家が目を開けると、彼は廊下に立っていた。

そこにはもう炎もなく、洋館は黒い灰だけを残して静まり返っていた。

床には焦げたノートが落ちている。

ページをめくると、そこには赤いインクでこう書かれていた。

「ここが始まりだ。」


作家は静かにノートを閉じ、振り返った。

影が長く伸び、どこまでも続いている。

(第七夜・了)

第八夜:「血濡れた花園」

霧の中に浮かぶ庭園。
作家はそこで立ち尽くしていた。どこからともなく漂う甘い香りが、風のない空間に滞り、鼻を刺す。庭園の中央には一本の花の木が生えている。

その木には、真紅の花が無数に咲き誇っていた。花弁はまるで濡れた絹のように艶やかだが、ところどころ黒く焦げたように見える。その根元には水たまりが広がり、空を映す水面には、どこか見覚えのある姿が揺れていた。

作家が近づくと、木の根元にひとつの影が立っていた――助手だ。

助手はいつもの服装で、だがその手には何かが握られている。白い布だ。それはゆっくりと地面に垂れ下がり、水たまりの中で色を吸い込み、濃い赤へと染まっていく。

「何をしている?」

作家が尋ねると、助手は答えない。ゆっくりと顔を上げ、その目だけが暗く光った。

「この花は、咲かせるために必要だったんです。」

助手の言葉は静かで、だがその裏には何かを抑え込んだ感情が滲んでいる。彼の後ろにある水面が不自然に揺れ、そこからゆっくりと湖畔の女の姿が浮かび上がる。

女は湖に沈んだときと同じ、白い服をまとい、瞳だけがこちらを見つめている。
だがその表情は何も語らない――沈黙のまま、彼女は水面に映り続けている。

助手が足元の地面に手を伸ばすと、赤い花が彼の手のひらの上で一つ咲く。

「この花を咲かせるには……湖に、静けさが必要でした。」

その言葉が終わると同時に、花がはじけて血のような液体が滴り、地面を染める。赤い水がじわじわと広がり、白い布が完全に浸され、赤い影となって揺れる。

作家は叫びそうになりながら後退した。

「お前が……お前が彼女を……?」

助手は笑うでもなく、悲しむでもなく、ただ静かに立っている。そして、再びその手を水面へとかざすと、湖畔の女の姿がゆっくりと波紋に飲まれ、揺らめきながら消えていく。

「静けさを得るためには、声を――消さなければならないんです。」

彼の言葉が湖底の鈍い響きのように広がり、庭園全体が震えた。花々が次々と散り、赤い花弁が空に舞う。それは血の滴のようにゆっくりと降り、地面に触れた瞬間、音もなく弾けた。

作家は逃げようと振り向いたが、庭園の出口はすでになく、周囲は花と水と赤い霧に包まれていた。

助手が最後に、穏やかに呟いた。

「彼女がいる限り、私は誰にも見えないままだった。」

その瞬間、庭園は音もなく崩壊した。花が根ごと抜け、赤い水が地面を飲み込む。湖畔の女の影が遠くで揺れ、その姿が再び沈んでいく。

作家の足元にも水が迫り、彼はじっと自分の手を見つめた――手のひらにはいつの間にか、赤い花弁が一枚、張り付いていた。


気がつくと、そこには何も残っていなかった。

ただ、真紅の花だけが地面に散り、白い布が波打つように広がっている。

作家は震える手で花を摘み、遠くの水面を見つめた。

そこにはもう、湖畔の女も、助手も、何一つ映っていなかった。

(第八夜・了)

第九夜:「鏡の部屋」

扉がひとりでに開き、作家はそこに立っていた。
目の前には無限に続く鏡の部屋が広がっている。

壁、床、天井――すべてが鏡張りだ。どこを見ても自分自身が映り、揺れ動く無数の自分が細かな音を立てながら微かに歪んでいる。だが、その不気味な静けさの中で、作家は何かが違うことに気がついた。

――映っているのは、自分だけではない。

部屋の奥、鏡の向こうに見えたのは、助手と湖畔の女の姿だ。


助手は机に座り、ペンを持っている。彼の手元には、一冊の原稿が広がっていた。
「これを書いているのは誰だ?」と、作家は思った。助手の顔は苦しげで、焦燥が滲んでいる。

助手はペンを走らせながら、何かを呟いている。鏡越しでは言葉は聞こえないが、唇の動きが繰り返すのは――「僕が書けたはずだ」

その瞬間、鏡の中の湖畔の女がゆっくりと助手に近づく。彼女の白い服は光を弾くように輝いており、助手の影が彼女の足元に伸びて絡まり始める。

「なんだ……?」

作家が鏡に手を当てると、冷たく濡れた感触が返ってきた。水面のように揺らぐ鏡の中で、助手の声が急に聞こえ始める。

「あなたは彼女を選んだ。」

鏡の中の助手は立ち上がり、湖畔の女を睨む。彼の目には憎しみとも悲しみともつかない激情が浮かび、白い服を掴もうと伸ばした手が震えている。

「僕はあなたに認めてほしかった……ずっと、ずっと……」

湖畔の女は無表情のまま、ゆっくりと助手を見つめる。だが、彼女の顔は鏡の中で歪み始め、助手の手から零れ落ちるように消えていく。

「僕がいたのに、どうして……」

助手の声が低く重く、部屋全体に響く。鏡が次々とひび割れ、助手の影が幾重にも広がりながら、湖畔の女の姿を飲み込もうとする。


作家は息を飲んだ。

「お前は彼女に嫉妬していたのか?」

その言葉が鏡に反響すると、助手がゆっくりと振り向いた。

「あなたは彼女とばかり話をしていた。彼女の言葉に耳を傾け、彼女の存在に目を奪われていた。」

助手の影が、湖畔の女の周りに絡みつき、じわじわと締め付ける。湖畔の女は息苦しげに手を伸ばすが、誰にも届かない。

「僕はずっと、あなたの影だった。でも、彼女が来てから――僕はもう何者でもなくなった。」

鏡の中の湖畔の女が崩れ、水に沈むように消えていく。彼女が消えた後には白い服だけが、ゆらゆらと鏡の中の水面に漂っている。

助手の声が再び響く。

「彼女がいなくなれば、あなたは僕だけを見てくれると思った。」


鏡がすべて崩れ落ちた。

部屋は静寂に包まれ、作家はその場に立ち尽くす。足元の床には、いつの間にか水が広がっていた。水面に映る自分の顔が、ゆっくりと助手の顔へと変わっていく。

「お前が彼女を……殺したのか……」

作家が呟くと、水面が波紋を広げ、その影が静かに呑み込まれていった。


気がつくと、作家は扉の前に立っていた。
彼の手には、いつの間にか濡れた白い布が握られている――それは湖畔の女の服の切れ端だった。

後ろから声が囁いた。

「先生、これが僕の答えです。」

振り向いても、そこには誰もいなかった。

(第九夜・了)

最終夜:「扉の向こう」

静寂が世界を満たしていた。
空はどこまでも白く、地面は暗闇に溶け、境界線はとうに失われている。時間も形もない――ただ、作家はそこに立っていた。

目の前には一つのがある。

それは見慣れたようで、初めて見るものでもある。古びた木製の扉には亀裂が走り、黒い影が隙間から漏れていた。その先に何があるのか――作家にはわかっていた。

しかし、その一歩が踏み出せない。

背後から、微かな音が聞こえた。

水音だ。

振り返ると、風景が変わっていた。
湖畔、鐘楼、燃える家、螺旋階段――これまで見てきた夢のすべてが、一つの世界に溶け合っていた。湖の水面に鐘楼の影が揺れ、螺旋階段は空に向かってねじれ、炎に包まれた家が湖面に映っている。

そのすべての中心に、彼女がいた。

「湖畔の女」 が、そこに立っていた。

白い服は風もないのに揺れ、その足元には黒い影が深く伸びている。彼女は微笑み、まっすぐにこちらを見つめた。

そして、その隣に――助手が立っていた。

彼は無表情のまま、だが確かに存在していた。黒い影が彼の足元にも絡まり、どこかで一つに繋がっている。

作家は言葉を失い、ただ彼らを見つめる。

湖畔の女がゆっくりと口を開いた。

「あなたが見つけたのは私? それとも――」

言葉はそこで途切れた。湖の向こうから鐘の音が響き、全ての景色が揺らめく。湖面には無数の波紋が広がり、作家の影も、彼らの影も、すべてが水に吸い込まれていく。

扉の向こうに何があるのか、彼にはもう知る必要があるのだろうか――
湖畔の女の瞳が問いかける。助手の目の奥に、何かが沈んでいく。

作家はゆっくりと扉に手をかけた。

ノブは冷たく、どこか湿っている。その手に重さを感じながら、作家はゆっくりと扉を押し開けた。


その瞬間、すべてがに溶けた。

扉の先には何もなかった。ただ湖面が広がり、すべての風景が水の中に崩れ落ちていく。鐘楼も、燃える家も、螺旋階段も、湖の水面に吸い込まれ、無数の波紋となって広がる。

作家は湖のほとりに立っていた。

目の前には静かな水面が広がっている。水面には二つのものが浮かんでいた――

「一つの影」 と、静かに揺れる「白い服」

影はゆっくりと水の中に沈んでいき、白い服が静かに波間に漂う。作家はそれを見つめ、ふと足元を見た。

――そこには、自分の影がなかった。

湖面に映る自分の顔は、波紋に揺れて歪み、やがて消えていく。

遠くから、再び鐘の音が聞こえた。


静けさが戻り、湖はすべてを飲み込んだ。

世界は水に包まれ、白い服だけがひとひらの花弁のように漂っている。

(最終夜・了)


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