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努力値ゼロの現代JKが召喚されたら、神々が跪く存在だった

第1章 召喚された努力ゼロJK

深夜のアルカディア王国の王城では、石造りの礼拝堂に強大な魔力が満ちていた。
魔導師たちが唱える古代の呪文が空気を震わせ、壁にかかった大きなステンドグラスがかすかに揺れる。
円形に描かれた魔術陣の中心で、王宮魔導師クラウス・エグバートが厳しい目つきで書物を睨んでいた。

彼は細身の体をローブに包み、束ねた金髪の一房が首筋からはみ出している。
メガネの奥から鋭い視線を魔術陣に注ぎながら、静かに言葉を継いだ。
「座標の乱れはない……はずだ。
恐らく狙いどおりに“勇者”を呼び出せると思う」

すると、彼のそばに立つ騎士団長セレナ・フォルティスが神妙な面持ちでうなずいた。
白銀色の長髪をきっちり結い上げ、腰に佩いた魔剣の鍔に触れるしぐさが、彼女の落ち着かない心境を伝えていた。
「失敗は許されない。
王国はこの儀式を最後の手段としてきたから、無事に成功させたいところね」

周囲の魔導師たちも息を詰めて待機する。
ここ数年、北方のベルトラ荒野から押し寄せる魔物の被害が増え、各国との関係も微妙に揺れていた。
そこで伝説の“勇者召喚”を復活させることになったが、実際にどんな人物が呼ばれるかは未知数。
王族の血筋が守り伝えてきたこの術式が、本当に救世主をもたらすのかクラウスも半信半疑だった。

再び呪文が読み上げられる。
魔術陣が淡い光を放ち始め、礼拝堂の空気が急激に張り詰めていく。
セレナが「来るわね」と小さくつぶやいた瞬間、中心部の光が爆ぜるように拡散した。

眩しい閃光が収まり、そこに佇んでいたのは黒髪の少女だった。
ブレザーの制服に緩めたネクタイ。
第一ボタンを外し、ロングヘアをざっくり結んでいる姿は、ここアルカディア王国の服装とは明らかに違う。
力が抜けたようにペタリと膝をつき、「え、なにこれ……」と呆然としていた。

セレナがあわてて駆け寄る。
「大丈夫?
何かケガはない?」
少女はポカンと口を開けたまま周囲を見回し、仰天する騎士や魔導師たちに目を留めてから、小さく肩をすくめた。
「いや、全然平気ですけど……どういう状況?」

その問いに答えようと、クラウスが歩み寄る。
彼はローブの裾を払って姿勢を正し、できるだけ冷静な声を保ちながら説明した。
「私たちはこの世界を救うために“勇者”を召喚しました。
あなたは別の世界から呼ばれたのです」

すると、少女は唖然としたままクラウスをまじまじと見つめた。
「嘘でしょ……。
夢じゃないの?」
その様子を見て、セレナが気遣わしそうに言葉を選んだ。
「混乱させて悪いわ。
私は騎士団長のセレナ・フォルティス。
落ち着いて、名前を教えてくれる?」

少女は軽く頭を振り、はっとしたように自分の頬をつねる。
「痛っ……。
朔間レイナ。
高二……かな。
てか、私、さっきまで自宅のリビングでスマホいじってたんですけど……」

レイナと名乗った少女の呟きに、礼拝堂にいた魔導師たちは顔を見合わせた。
彼女が本当に“勇者”なのか、それとも儀式の失敗で何ら関係のない子が呼ばれてしまったのか誰も判断できない。
クラウスは深刻そうに眉をひそめると、手にした書物をパラパラとめくった。
「確かに術式は正規のもの。
変則的な座標が混じった可能性はあるが、こうして召喚は成功している。
念のため、神力の測定をしてみよう」

レイナが嘆息しながら制服の埃を払うと、魔導師たちは彼女を礼拝堂の奥へ案内した。
大理石の床に段差があり、その先に飾られた台座には水晶玉が鎮座している。
神々と交信するための秘宝とされ、触れるだけで召喚者の資質がわかるという代物だった。

礼拝堂の列席者は「さあ」「どうなる」とひそひそ声で騒ぎ立てるが、レイナは気の抜けた顔でぽりぽりと頭をかいている。
「早く終わらせたいなー。
お腹すいた」
セレナが少しだけ苦笑して「申し訳ないけれど、こればかりは避けて通れないの」と促す。

レイナは何となく面倒そうに歩を進め、台座に手を伸ばした。
水晶を軽く指先でつつく。
「これでいいわけ?」
次の瞬間、水晶玉は眩い光を放ち、礼拝堂全体が揺れるような衝撃波が走った。

騎士団員や魔導師たちが「な、なんだ」と戸惑う中、クラウスは目を見開いたまま動けなくなる。
水晶から噴き上がる光の柱は、見るからに危険なほどのエネルギーを内包していた。
その中心にいるレイナは平然としたまま、やたらとまぶしい光を鬱陶しそうに目を細めていた。

しばらくして爆発音にも似た轟音が鳴り、光の柱が止まると、そこには何事もなかったかのように立つレイナの姿があった。
髪も乱れていないし、怪我をした様子もない。
むしろ水晶がひび割れていて、欠片が床に散らばっていることのほうが大事件だった。

「え……壊れた?
やば、弁償とか……」
レイナは面倒ごとを嫌うように眉を寄せる。
だがクラウスはそんな彼女を見上げ、息を呑んでから低い声を漏らした。
「神力……。
こんな反応、聞いたことがない」

礼拝堂に駆けつけたほかの魔導師たちも一様に強張った表情でレイナを見る。
セレナは驚きを隠せないまま、ひとまずレイナの肩に手を置いて言った。
「あなた、本当にただの女の子なの?
さっきの光、まるで神が降りたようだった」

レイナは返答に困るように肩をすくめた。
「知らないよ。
私、努力とか全然しないタイプだし、神様とかそういうのも信じてないんだけど……」

壊れた水晶から漏れる光の余波が床に薄く広がり、魔導師たちは後始末のために右往左往を始めた。
クラウスはどこか研究者としての興味を抑えきれない様子で、レイナの周囲を回りながらメガネを押し上げる。
「そんな信じられないほどの力を、本人は自覚せずに持っていたということか。
これは前例がないな」

レイナは大きく伸びをしながら、もう一度辺りを見回した。
「うーん、帰れたりします?
ここすごく……中世っぽいけど、私の家とは勝手が違いすぎて」

セレナは口を開きかけたが、どんな言葉を出せばいいのかわからない。
目の前にいるのは、王国が“勇者”として呼び出したはずの少女。
なのにやる気はまるで感じられない。
だが、計り知れない力の存在だけは誰の目にも明らかだった。

そうして誰もが混乱に陥るなかで、レイナは制服のポケットをまさぐり始める。
「とりあえず、お菓子……あるかな」
そのあまりにも日常的な仕草に、セレナは苦笑を禁じ得なかった。
王城の礼拝堂で呆気なく神力を示した少女が、スマホも見当たらず暇を持て余しているようにしか見えない。

「レイナ、私が案内するから少し休んで。
ここはあなたにとって落ち着かない場所でしょう」
セレナの言葉に、レイナはぼんやりと肯定する。
「ありがとう。
助かる」

クラウスは書物を閉じ、ひび割れた水晶を一瞥しながら動揺を押し殺すように深呼吸した。
「王にご報告を。
これほどの力を宿した存在が、まさかこんな形で現れるとは」

レイナはセレナに続いて礼拝堂を出ていきながら、背後の声には特に興味を示さなかった。
彼女にとっては、なんでも“大したことじゃない”のだろう。
ただ、そう簡単に“本来の世界”へ戻れないことだけは、今のうちに誰かが教えてあげないといけない。

そして誰もがうろたえるこの夜が、アルカディア王国の運命を変えていく。
レイナはまだ何も知らないまま、ただ眠気を堪えるように目をこすって歩いていた。

第2章 王都の騒動とレイナの認知度

アルカディア王国の朝は意外と騒がしい。
石畳の回廊を歩くと、どこからともなく衛兵が挨拶してきたり、召使いが慌ただしく動いていたりして、レイナには落ち着かない空間だった。
制服姿の彼女は、ひとまずセレナの案内に従って王城の大広間へ向かうことにする。

夜が明けてすぐに開かれる「歓迎の集い」は、レイナを呼び出した王国が正式に“勇者”として迎える儀式でもあった。
金色の装飾が施された長テーブルが中央に据えられ、その周囲には貴族たちが並んでいる。
セレナは騎士団長として、壇上に控える王のそばで背筋を伸ばしていた。

レイナは自分の席を見つけると、腰を下ろして軽くあくびをかみ殺す。
「お腹は空いてるけど、騎士さんたちの視線が痛いなあ」
そう呟いても、返事は返ってこない。
周囲は彼女を“突然現れた新たな勇者”として好奇心まじりに眺めているが、その距離感がどこか堅苦しかった。

見回せば、繊細な細工が施されたシャンデリアや、遠くを見下ろすような肖像画などが目に入る。
レイナは「王城ってやっぱり豪華なんだな」と思うものの、長い式辞にはまるで興味が持てない。
美味しそうな料理がずらりと並んでいるけれど、どうやら正式な挨拶が終わるまで手をつけるのはNGらしい。
「うわー、待たされるのは嫌だなあ」
口の中で小さくつぶやきながら、テーブルの端を指先でとんとんと叩いて暇を潰していた。

一方、壇上に控えるクラウス・エグバートは白髪混じりの金髪を後ろに束ね、メガネを光らせながら書物に何かを書きつけている。
昨夜の召喚騒ぎの余波を調べているのか、彼の視線はときどきレイナに向けられる。
「やはり尋常なエネルギー値ではない。
この子にどんな可能性が潜んでいるのか……」
小声で独り言を漏らすその横顔は、学者肌らしい熱意がうかがえる。

やがて王が典礼を締めくくり、やっと食事が許される。
だがレイナは山盛りの豪華な料理に手を伸ばすというより、さっさとこの場を抜け出したいという顔をしていた。
「ここ、人多すぎるんだよね。
セレナさん、ちょっと休憩させてもらえる?」
その言葉に、セレナは一瞬だけ困ったような表情をしたが、すぐにうなずいた。
「では、後ほど控えの間で話しましょう。
城内の警備はしっかりしているから、問題はないはずだけれど……気をつけてね」

レイナは不機嫌そうだったわけでもなく、ただ退屈そうに軽く手を振って会場を後にする。
あれだけの貴族や騎士に囲まれると空気が重たいと感じるらしい。
廊下を曲がると王城の渡り廊下に出て、そのまま裏口の方向へ抜けていった。

そして、なぜか外へ出ると活気が戻ったように周囲の景色を眺めはじめる。
「へえ、意外と普通に街が広がってるんだ。
馬車とか、道端の屋台とか、なんだか観光地みたい」
独り言を言いながら門番の目をすり抜け、城下へと足を運んだ。

市街地は石造りの建物が並び、人々が行き交う通りには露店や大道芸人がいた。
一見楽しげな雰囲気だが、ふと見れば警備兵が慌ただしく動いている。
どうやら街の一角で騒ぎが起きたようで、子どもが泣いている声も聞こえる。
「いやな予感。
でも……放っておくのも後味悪いし」
レイナは仕方ないといった調子で小走りに現場へ向かった。

そこには大型の魔物というほどでもないが、見慣れない生物が道の真ん中で暴れていた。
体毛がまばらな獣のように四つ足で走り回り、屋台を倒しては吠えている。
兵士たちは剣を構えているものの、狭い通りでは近づきにくい様子だった。
レイナは「動きめっちゃ早いね。
どうしよう」とひとりごちて、屋台の木片を拾い上げてみる。
「投げれば当たるかな……?」
大して考えずに力を込めた瞬間、小さな木片が空気を裂くように飛んでいき、魔物の頭部をかすめて路地奥へと直進した。
その速度に驚いたのは兵士だけでなく、レイナ自身もだった。
「うわ、私そんなに筋トレしてないのに。
変な力入っちゃったかも」

魔物はその一撃にひるんで体勢を崩す。
兵士たちがすかさず踏み込み、包囲網を狭めた。
レイナは「もう一回だけやってみよ」と気軽に口をとがらせ、今度は石ころを拾う。
「うまくいけ……」
弱めに投げたつもりが、石はまるで矢のように魔物の前足を撃ち抜き、動きを止めてしまった。
「わ、こわ。
これ、やりすぎかな」

周囲の人々はどよめき、兵士の一人が駆け寄ってきた。
「あ、あなたは……勇者様か?」
突然そう呼ばれて、レイナは「え、私?」と目を丸くする。
城下町にまで“新たな勇者が召喚された”という噂が広まっていたのかもしれない。
レイナは照れるでもなく、「まあ、そんな感じらしいです」と曖昧に答えて首をすくめる。

その頃には通りの喧噪も落ち着き、魔物はすっかり大人しくなっていた。
兵士たちが捕縛を進める中、街の人々が「命拾いした」「あの子が助けてくれた」と口々に喜んでいるのを見て、レイナは少しだけホッとした顔をしていた。
「とにかく人が無事ならいいや。
疲れたから城に帰ろうかな」
彼女はそうつぶやいて歩き出す。
“すごい力を隠し持つ勇者”と噂されるなんて、自分にとっては面倒事が増えるだけの予感。
だけど助けを求められれば放っておけないのも、レイナという少女の素直な一面だった。

城門に戻ると、待っていたかのようにセレナが出迎える。
「レイナ、街へ行っていたの?
ちょうど兵士から報告が入ったのだけれど、あなたが魔物退治に手を貸してくれたとか」
その問いに対して、レイナは肩をすくめた。
「ちょっと散歩のつもりだった。
大したことはしてないし、さっさと終わってよかったよ」

セレナはほっとしたように微笑みながら、彼女の肩に軽く触れる。
「ありがとう。
城下の人々もあなたに感謝していると思う」
そう言われるとレイナはそっぽを向いたが、顔にはうっすらと照れが浮かんでいる。
だがその表情は長くは続かず、すぐにいつもの気の抜けた目つきに戻った。
「お腹も減ったし、一旦戻って休みたい。
あの歓迎会っていうパーティ、まだやってるのかなあ」

セレナは思わず苦笑いする。
「ええ、食事ならきっとまだ残ってるわ。
みんなあなたを待っているかもしれないけど……落ち着いてからでも大丈夫よ」
レイナは「ならゆっくり行こ」と気だるそうに微笑む。
周囲の兵士たちはそんな彼女を物珍しげに見ていたが、セレナだけは変に気を張らずに自然な態度をとってくれる。

数時間前に顔を合わせたばかりの王城の住人たち。
だが、レイナが街で示した“わずかな力”は瞬く間に広まり、知らぬ間にその存在は拡大されていく。
彼女自身は何も考えずに日々を過ごすつもりでいるが、周囲の人間がそう見てくれるかどうかは別の話だった。

その日、レイナは城の個室へ戻り、豪勢な食事を適当に平らげると早々に横になってしまう。
狭いリビングや教室で過ごしてきた身からすると、異世界の王城は広くて不思議なところだが、やはり疲れのほうが勝ったのだろう。
ベッドのやわらかさを味わいながら、「スマホがあれば動画でも見て落ち着けるのに」と小さくぼやき、すぐに眠りに落ちていった。

第3章 神官ダグラスの影と王国の思惑

翌日、レイナは城の中庭で伸びをしていた。
まだ朝早いというのに、散歩をしている兵士や侍女が、遠巻きに彼女を見つめては目をそらす。
「なんか居心地悪いなあ。
……まあ、ここでの暮らしってどんなものなんだろ」
そんな独り言を漏らしながら、背の低い噴水の縁に腰を下ろし、手持ち無沙汰に空を見上げる。

昨日の街での出来事が大きく広まったのか、レイナの周囲は急に慌ただしくなった。
彼女が魔物をあっさりと鎮圧した話を、民衆が興味半分に語り始めたらしい。
まだ本人はとても“勇者”などとは思えないのに、王国としてはこの子をどう取り扱うか決めねばならない。

そこへ足早に近づいてきたのはクラウスだった。
ローブの裾を少し引きずりながら、紙束を抱えてメガネを押し上げる。
「いたいた……。
おはよう、レイナ。
朝から探していたんだ」
レイナは振り向き、ゆるく手を挙げる。
「おはようございます。
こんな時間から忙しそうですね」

クラウスはあからさまに寝不足のような顔をしている。
書物の読みすぎか、まぶたがやや赤い。
「実は、王国上層部の打ち合わせで君の話題がずっと出ていてね。
今日はぜひ神殿に来てもらいたいそうだ」
レイナは面倒そうにため息をついてから、「何するの?」とぼそりと尋ねる。
「神殿の高位神官たちが、君の力の詳細を知りたがっている。
いろいろと“神力”について調査をするんだよ。
僕も協力を依頼されているから、なるべく危険のないように進めるつもりだ」

それを聞いたレイナは、少しばかり口を尖らせた。
「測定とか、実験とか……そういうの苦手。
痛いのとかは嫌なんだけど」
クラウスは肩をすくめ、できるだけ柔らかい口調で続ける。
「確かに面倒かもしれない。
でも、わかったことが増えれば、君がどうやったら元の世界に戻れるかの糸口も見つかるかもしれない」
「……戻れる、か。
じゃあ、協力するしかないかもね」

レイナが返事をするや否や、彼女の背後から軽やかな足音が近づいてきた。
騎士団長セレナが、きりりとした顔つきで姿を見せる。
白銀色の長髪をいつも通りきっちり結い上げ、腰に佩いている魔剣が朝日に反射していた。
「レイナ、神殿へ向かうという話を聞いたわ。
護衛として私も同行するわよ」
レイナはセレナの凛とした佇まいを見上げながら、少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「……ごめん、せっかく朝の散歩中だったのに。
でも助かる」
セレナは柔らかい笑みを浮かべ、彼女の表情をそっと窺う。
「あなたが気負わずにいられるよう、私たちが配慮するわ。
無理はしなくて大丈夫」

そうして三人は城を出て、王国の中心部に位置する大きな神殿へ向かった。
そこは光の神を祀る重要な施設で、厳かな雰囲気が漂っている。
円柱が並ぶ回廊を抜けた先には、ステンドグラスの差し込む礼拝堂があり、その中央で神官たちが待ち受けていた。

その中に、やけに静かな気配を醸し出す男がいた。
黒髪を短く整え、神官服をまとう姿はよく見れば洗練された顔立ちをしている。
しかし、背負う空気は重く、得体の知れない威圧感を感じさせた。
クラウスが低い声でレイナの耳元に囁く。
「彼がここの神官長、ダグラスだ。
先日着任したばかりと聞くが、相当な権限を任されているらしい」

ダグラスは静かに一礼してから、レイナを正面から見据える。
「朔間レイナ殿とお見受けします。
ようこそ、神殿へ。
あなたの力を少しだけ拝見させていただけるだろうか」
声の調子は穏やかに聞こえるが、その瞳には計り知れない意図が透けていた。
レイナは思わず視線をそらし、「そ、そういうのって具体的には?」と返す。

ダグラスは薄い笑みを浮かべる。
「まずは神聖魔法の結界に触れて、あなたの神力の流れを観測したい。
危険はございません。
ただ、神力が大きいと、その結界に影響を与えるかもしれませんが」

レイナは先日の水晶が砕け散った件を思い出して、少しだけ顔をしかめた。
彼女の予感が当たるなら、今回もまた何か壊してしまいそうな気がする。
それでも帰る術の手がかりを探るためには避けて通れない。
セレナが微かに不安げに見守る中、レイナは結界の中心へ足を踏み入れた。

そこは神官たちが紡いだ精巧な魔法陣が敷かれ、神聖文字が渦巻くように光を放っている。
レイナが魔法陣の中央に立つと、神官たちは声を合わせて神聖言語を唱え始めた。
言葉の意味はわからないが、その響きは礼拝堂全体に広がり、厳粛な雰囲気をさらに高める。

やがて魔法陣が淡く輝き、レイナの足元から幾筋もの光が走った。
「……こんな感じでいいのかな」
彼女が両手を上げてみると、光の筋はその動きに追従するかのように波打つ。
ダグラスは少し離れた場所で目を細め、分析のための魔法具を操作している。

だが、しばらくすると魔法陣の輪郭がまばゆく乱れ始め、床がきしむように震え出した。
周囲の神官が動揺の声を上げ、クラウスも「結界が歪んでいる……まずい!」と色を失う。
レイナは手を下げてあたふたとあたりを見回す。
「ごめんごめん、私、何もしないようにしてたんだけど!」

するとダグラスが落ち着いた口調で「心配には及ばない。
全て想定の範囲内だよ」と呟き、再び魔法具に刻まれたルーンをなぞった。
結界が振動を続ける中、彼の手からほのかな闇の気配が混じった光が立ち上る。
「本当に……強大な神力だ。
しかもご本人は制御について深く意識していない」

その言葉にレイナは「制御?どうやってやるのさ」と少しだけ声を荒らげる。
ダグラスは冷ややかとすら言える笑みを浮かべ、「まだ時期尚早かもしれない。私が直接あなたを導くことも可能だが、まずは国王と相談しなければね」と言うだけだった。

揺れが収まり、結界の光が収束すると、礼拝堂に残っていた神官たちが安堵の息をつく。
セレナは駆け寄り、レイナの手を取って「大丈夫?」と小声で尋ねる。
「うん、特に変な感じはないよ。
ただ、周りに迷惑かけてたらごめん」
レイナが少しだけ肩を落とすと、セレナは首を振って彼女の気持ちを汲むように微笑んだ。

一方、クラウスはダグラスの不自然な落ち着きに違和感を覚えていた。
通常ならこれほど結界が乱れれば神官長であるダグラス自身が慌てるはず。
しかし彼はどこか満足げで、むしろ嬉々としていたようにも見える。
その様子を見たクラウスは、研究者の勘というか警戒心をほんのりと呼び起こしていた。

儀式が終わると、ダグラスはさっさと近くの神官たちに指示を与える。
「観測データをまとめ、王に報告しよう。
そして、レイナ殿には王国の保護下で特別に学びを進めるよう提言するつもりだ」
レイナは「保護下?」と眉をひそめる。
セレナもその言い方に少し疑問を抱いたようで、目を細めてダグラスを見やる。

するとダグラスは神官らしい穏やかな声色を装いながら続ける。
「あなたの力は計り知れない。
今は王国の援助を受けることで、より適切な方法を学ぶのが理想だと考えております。
仮にあなたが独自のやり方で力を振るい続ければ、周囲に甚大な影響を及ぼす可能性がございます」

言葉は至極真っ当な提案にも思えるが、レイナはどこか引っかかるものを感じていた。
「私って……まだここのこと、そんなにわかってないんです。
勝手に召喚されて、よくわからないまま皆が期待してくるし……自由って、どこまで許されるの?」
つぶやきにも似た問いかけにダグラスは笑って、「それは王と神々が決めることでございます」と短く返す。
けれどレイナには、その笑みがまるで“利用価値を計る”ように見えた。

クラウスはレイナの腕を軽く引いて礼拝堂から外に連れ出す。
「あまり深入りしないほうがいい。
彼ら神殿サイドは王国の上層部と利害関係があるから、今後いろいろと動きがありそうだ」
セレナも後ろを歩きながら、自分の剣の柄をそっと握る。
「ダグラス神官長の雰囲気……ただ者ではなさそうね」

レイナは溜息まじりに小声で答える。
「私の意思とか、あんまり考慮してくれないのかな。
うまくやっていける気がしないんだけど……」
日常的に努力を避けてきた彼女にとって、窮屈な管理体制は想像するだけで億劫だ。
それでも、この世界で迷惑をかけず生きていくためには何らかのルールに従わなきゃいけないのかもしれない。

神殿を後にし、三人は再び城へと向かう。
道すがら、セレナが落ち着いた声でレイナに語りかける。
「あなたが望むなら、私が直接サポートしてもいいの。
王国の上層部と話をするのが苦手なら、私が間に入るわ」
レイナは驚いたように目を瞬かせた。
「……ありがとう。
それが助かるかも」

クラウスは歩きながら、彼女らを横目に見てメガネの奥で少しだけ微笑む。
「まずは落ち着いて、いろいろな角度から情報を集めてみよう。
神力の研究も私に任せてくれれば、危険な真似はさせないから」
レイナは遠慮がちにうなずく。
「そのほうが助かる。
何か……変な実験台にされるのは勘弁だし」

そのとき、ふと上空を見上げれば、王城の尖塔のあたりで黒い影が横切ったように思えた。
だが、それは一瞬の出来事で、何も気配を残さず消えていく。
レイナは気のせいだと思い、すぐに視線を戻す。
けれどクラウスとセレナは、わずかな空気の乱れを感じ取っていた。
何者かが神殿と城を往来する動きをしているのだろうか。
もしかするとダグラスが裏で何かを企てているのかもしれない。

だが、今は何も証拠がない。
レイナ自身もまだこの世界を深く知らない。
彼女が望む「自由」がどこで守られ、どこで折り合いをつけなければいけないのか、その答えははっきりしないままだった。

張り詰めた王城の空気の中で、レイナは再び“どうにかなるでしょ”と小さくつぶやく。
しかし、王国上層部の思惑と、黒い影を漂わせるダグラスの狙いが絡み合う今、そんな気楽な言葉だけでは対処できない未来が近づいている気がしてならなかった。

第4章 精霊王フィロとの出会い

朝早くに王城の玄関ホールを出発したはずなのに、レイナたちが辿り着いた場所は、アルカディア王国の外れにある広大な森だった。
きっかけは、クラウスが持ってきた古文書だった。
「どうやら、あなたの“神力”に関わる情報が、この森の深部にある精霊の泉に隠されているらしい。
少し遠いが……行ってみる価値があると思う」
その提案に、セレナも「手がかりが得られるなら私も同行する」と即答してくれた。
レイナは大きめのバッグを肩にかけ、どこか気の進まなそうな顔をしながら森の入り口に立っている。

「あんまり乗り気じゃないよね」
セレナが馬を引きながら、レイナの表情を見て穏やかに笑う。
「ごめん。
ただでさえ城下をうろつくだけで疲れたのに、こんな森の奥まで探検って、私の性分に合わないっていうか……」
「ふふ、でも王城に居づらかったんじゃない?
そう思って、クラウスも早めに出発を計画したみたい」

クラウスは後ろでメガネをくいっと押し上げながら、馬車に積み込んだ地図を再度確認する。
「王国の上層部や神殿にあれこれ言われるより、情報を直接見つけたほうが話が早いからね。
森の奥には精霊が集まりやすい清廉な泉がある。
そこなら“血”にまつわる秘密も掴めるかもしれない」

レイナはどこか面倒くさそうに小さくうなずく。
「まあ、ここまで来たら仕方ないね。
せっかくなら、ちょっと観光気分で見て回るのも悪くないし」
セレナが手綱を握り、クラウスが地図を広げると、三人は馬車をゆっくり進めて森の中へ踏み込んだ。

ここは王都近郊とは打って変わって鬱蒼と木々が生い茂り、獣道が複雑に交差している。
朝日が木漏れ日になって地面を照らすだけで、すでに神秘的な気配が漂っていた。
「うわ……道なき道って感じ」
レイナは馬車の荷台からひょいと降りて、足元を枝や落ち葉がかさかさと擦れる音に耳を傾ける。
「クラウス、地図の精度、大丈夫?」
「う、うん……。
古地図だから少し誤差はあるかもね」

すると、セレナが前方で馬の手綱を引きながら立ち止まった。
「どうしたの?」
レイナが首を傾げると、セレナは眉根を寄せて辺りを警戒するように見回す。
「妙ね。
道が細くなってる。
ここで馬車を通すのは難しいわ」
「じゃあ歩くしかないか」
クラウスが苦笑いしながら馬車を樹の陰に寄せる。
「この先は徒歩に切り替えよう。
いざってときは馬車を取りに戻ればいい」

レイナはやや気乗りしない様子でバッグを背負い直し、森の奥へ足を踏み入れた。
「ちょっと待って、この森って危険な魔物とか出るの?」
セレナが表情を和らげ、「危険といえば、どこにだって魔物はいる。
でも騎士団長として、あなたを守る準備はしてるから安心して」と胸を張る。
レイナは「頼もしい……けど、自分も多少は戦えるっぽいから、いざという時は力を借りてもいい?」と訊く。
「もちろん。
あなたの力は計り知れないから、上手く使えば脅威になる魔物も一掃できるかもしれない」
「ただし乱用は禁物だ」とクラウスが補足する。
「制御の仕方がわからないからね。
ほどほどに頼むよ」

そんな会話をしながら、三人はじめじめとした小道を抜け、徐々に森の奥へと進んでいく。
木々が深く絡み合い、昼間だというのに足元は薄暗く、鳥のさえずりすら時折聞こえるだけ。
レイナは「なんかRPGのダンジョンみたい」とぼやきながら、落ち葉を踏む度にカサカサと響く音を退屈そうに聞いていた。

しばらく歩くと、クラウスが「まっすぐ進むのは危ない。
地図では右手に大きな岩があるはず……」と呟きながら周囲を見回す。
だが、指示どおりに進んでもそれらしき岩は見当たらず、かえって似たような樹々が立ち並ぶばかりだ。
セレナが溜息をつき、「どうやら本格的に迷ったかもしれないわね」と苦笑いを浮かべる。
レイナは「どこかで休憩しようよ。
お腹もすいてきたし、私こう見えて意外と体力ないんだよね」と言い出す。

クラウスが「確かに少し休もう」と同意を示し、ちょうど広めの空き地のような場所に腰を下ろした。
リュックから取り出したパンと水を分け合ううちに、なんとも言えない静けさが森を包む。
レイナはふと空を見上げ、「この辺、鳥の声も少ないね。なんだか不思議な気配」とつぶやく。

すると、風がそよぐような音とともに、目の前に花びらのようなものがふわりと舞い落ちた。
ただの花びらだと思ったその瞬間、その花びらの色合いが水色へと変わり、さらには人型の形を作り始める。
「え、何これ……」
レイナが驚いて腰を浮かすと、それはあっという間に少年の姿へと変じた。
水色の髪に金色の瞳、長い耳が妖精を思わせるシルエットだ。
クラウスは思わず息を呑んで立ち上がる。
「まさか精霊王……フィロ、なのか?」

その名前を耳にしたセレナも警戒しつつ剣の柄に触れるが、相手は楽しげに手をひらひらさせている。
「はじめまして。
人間がこんなところに来るのは珍しいな。
しかも……ずいぶん面白い力を持ってる」

レイナはその少年にまじまじと視線を注ぐ。
「えーと……人間じゃないよね?」
「僕はフィロ。
自然界と共鳴する精霊王だよ。
そっちの学者っぽい人間は確か……クラウス?
君の名前は聞いたことがある気がする」
クラウスは少し動揺しながら、「あなたが本当に精霊王フィロなら、今日ここで会えたのは幸運です。
僕たちは……」と自己紹介を始めようとするが、フィロはそれを適当にはぐらかすように肩をすくめた。

「堅苦しいのは苦手なんだ。
まあ、とにかく見てわかる通り、僕は気まぐれでここに現れた。
こっちの黒髪の子、君は……面白い匂いがするね」
フィロはひらひらと歩み寄り、レイナのロングヘアを指先でつつく。
レイナは「ちょ、勝手に触らないでよ」と嫌がる素振りを見せるが、フィロはいたって無邪気な表情だ。

「ごめんごめん。
僕、こういう力には敏感でね。
君、神の血を持ってるんでしょ?」
その言葉を聞いたレイナはもちろん、セレナとクラウスも息を止めたように固まる。
「なんで、そんなこと知ってるの?」
レイナの小声の問いに、フィロは首をかしげながら微笑む。
「そりゃわかるさ。
精霊は、君たち人間が思うよりずっと深いところで力の波を感じ取ってるからね」

クラウスは驚きを隠せないまま、「神の血に関する歴史的資料はほんの少ししか残っていない。
我々もまだ正体を掴みかねているんだが……」と口を開く。
フィロは宙を見上げて楽しそうに手を叩く。
「だったら教えてあげるよ。
神の血を持つ者は、古い時代に神々と人間の間に生まれた特異な存在。
時を経てもその血脈が途絶えず、まれに地上に現れるんだ」

レイナはなんだか現実味がない話を聞かされている気分で、思わず苦笑いを浮かべる。
「つまり、私がその特異な存在ってわけ?
努力したわけでもないのに、変な力を持ってるのはそのせいか……」
フィロは微かに笑みを深め、「力を使うかどうかは君次第。
大きすぎる力は時に自分も他人も傷つける。
でも、君はあまり自分のことをわかってないようだから、その分“期待”も“破滅”もどっちもあるかもしれない」と曖昧に言葉を濁す。

セレナが一歩前に出て、フィロの瞳をまっすぐ見据える。
「教えてくれてありがとう。
ただ、私たちはこの森で精霊の泉を探しているの。
あなたが精霊王なら、泉の場所を知っているんじゃない?」
フィロは「泉ね。
なるほど、あそこは神力に近い流れを見つけられる場所だよ」と軽く口笛を吹き、森の奥を指差した。

「でも、案内するかどうかは、僕の気分しだいかな。
最近は人間があんまり好きじゃないんだ。
森を勝手に荒らして、精霊たちを傷つける者もいるからね」
レイナは「私だって、勝手に召喚されてこの世界に来た身だし、無駄に争う気はないよ」とぽつりと答える。
フィロはその言葉に目を細め、「面白いね。
まあ、君が大きな力を持っているのはたしか。
それで森を壊したくないなら、少しだけ協力してあげてもいいよ」と言って、ひらりと身を翻した。

背後にふわりと花びらが舞い、フィロの身体がそのまま風とともに消え入りそうになるが、彼は森の奥へ向かって軽やかに跳び進んでいく。
「どうやらこっちが正解だよ。
ついてくるなら迷わないでね」
クラウスとセレナは顔を見合わせ、急いでその後を追う。
レイナは「ほんと気まぐれだなあ」と苦笑しながらも、きびきびと足を動かして森の闇に踏み込んだ。

しばらくフィロの背中を追いかけると、不思議と森の中が明るみを帯びてきた。
深い緑の木々がトンネルを作るように枝葉を広げ、その先に淡い光が広がっている。
レイナは足元の湿った土を踏みしめながら、「やっぱり迷ってたんだね、私たち」と小声でつぶやく。

やがて視界が開け、そこには小さな湖と呼べるほどの透明な泉が広がっていた。
泉の表面は朝日を受けてきらきらと輝き、周囲には色とりどりの花や草木が咲いている。
セレナが思わず息を飲むほど、その景色は美しく幻想的だった。
「ここ……すごく神聖な感じがする。
空気が澄み切っているわ」

フィロは湖畔に腰を下ろし、水面を軽く手で撫でる。
「ここが精霊の泉。
森の“境界”みたいな場所でね。
地上と精霊界の力が重なって流れるんだ」
クラウスは歓喜に近い声を漏らし、「まさに古文書どおりだ。
神力を持つ者がこの泉に触れると、何か手がかりを得られるかもしれない」と一歩踏み込む。
レイナは泉の縁に立ち、恐る恐る水面に手を伸ばした。

指先が冷たい水に触れると、かすかな震動のような波紋が広がり、泉の底から柔らかな光が立ち上る。
まるで水晶を覗き込むように、澄み切った水の奥に何かが見える。
人間の目には見えないはずの光の流れを、彼女はぼんやりと捉えているようだった。
「これ……」
レイナが声にならない言葉を漏らした瞬間、泉のほとりに涼やかな風が吹き抜け、あたりの葉がさわさわと揺れた。

フィロは子どものようにうれしそうな目をして、「やっぱり。
君の“血”がここで反応してる」と微笑む。
「要するに、神の血が流れてるレイナなら、この泉を通じて神々の気配を感じ取ることもできるかもしれない。
ただし、それは良くも悪くも、神々の世界へ近づくことになるけどね」

レイナは泉に手をつけたまま、横目でフィロを見つめた。
「神々の世界って……天界とか、そういう場所?」
「まあ、君たちがどう呼ぶかは自由だけど、神々が住む上位次元は人間に優しいだけの場所じゃない。
もし本当にそこに踏み込めば、君の力を利用しようとする存在が山ほど寄ってくるだろう」
その言葉にセレナが身構えるように泉を見やる。
「だから王国や神殿が必死になっているのね。
レイナを味方にするか、あるいは管理するか……」

フィロは視線を遠くにやり、金色の瞳を細めた。
「僕は森と精霊を守る立場だから、人間同士のいざこざに興味はないんだ。
ただ、君には森を乱さないでほしい。
いざとなれば、君は神々すら凌駕するほどの力を解放できる。
ここで見た光景をどう活かすかは君次第だよ」

レイナは改めて自分の手を見下ろす。
「正直、力を使う気はあんまりないんだけど……。
放っておいたら、それこそ誰かに利用されて面倒なことになりそうだしね」
クラウスが泉のそばに寄り、「レイナ、何か感じ取れた?」と声をかけると、彼女は曖昧に頷く。
「うん、はっきり言葉にしづらいけど……何か不思議なものに触れた気はする」

フィロは水面を軽く撫で、ふわりと立ち上がる。
「じゃあ、僕の役目はここまで。
君たちは好きにしていい。
ただし、僕の気まぐれ次第では、また姿を現すかもしれない。
面白いことが見られそうだからね」
そう言うと、風に乗る花びらのように体が淡く消えかけていく。
レイナが「あ、ちょっと待って」と手を伸ばすが、フィロは薄い笑みを残して森の風へと溶けていった。

森にしんとした空気が戻る。
セレナは泉を見下ろしながら、魔剣の柄をゆるめた手で押さえる。
「精霊王フィロ……。
本当に現れるなんて、伝承以上に神出鬼没なのね」
クラウスは頷きつつ、レイナの肩に手を置く。
「とにかく、ここまででわかったのは、君が“神の血”と呼ばれる特別な力を内包しているということ。
それをどう扱うかは君次第。
だけど、周囲にはいろんな思惑を持つ連中がいる。
これから先、どう動くか考えないとね」

レイナは泉の水滴が残る指先を眺めながら、「まあ、私としては無駄に騒がれたくないんだけど……そうもいかないよね」と小さくつぶやく。
その姿を見つめるセレナの瞳には、何か決意めいた光が浮かんでいた。
「あなたが望む自由を守るために、私はできる限り力を貸すわ。
それでも勝手が許されない場面も出てくるかもしれない。
いざという時は、私を頼って」

レイナはセレナの真剣な眼差しを見返し、わずかに微笑む。
「ありがとう。
私も、少しはがんばるよ。
……“少しは”だけど」
クラウスが小さく笑い、「そろそろ森を出ようか。
馬車の場所まで戻らないと夜になる」と地図を握りしめる。

三人は精霊の泉から離れ、再び森の中を歩き始めた。
レイナは振り返って、水面に薄く揺れる波紋を見つめる。
そこには見慣れないほど美しい景色と、フィロの残した不可思議な言葉の余韻があった。
“神の血”を持つ者として、この世界でどう生きていくか。
答えが出るにはまだ時間がかかりそうだったけれど、少なくとも彼女の視界は少しだけ広がった気がする。

音もなく降り積もる葉と花の香りに包まれながら、レイナたちはうっそうとした森を抜けていく。
精霊王フィロが見せた神秘のきらめきは、彼女の心に小さな火を灯したようでもあり、それがどんな行く末をもたらすかは誰にもわからないままだ。

第5章 各国・種族の思惑と争いの火種

レイナたちが森から戻った翌朝、アルカディア王国の王城はいつになく落ち着かない空気に包まれていた。
北のノルダーレ公国や南のミストリバー連邦だけでなく、海を渡った諸国からも使節が次々と到着し、城内で様々な交渉が行われているという。
そして話の要は、ほとんどがレイナに関わるものらしかった。

「まいったね。
連日いろんな国の使者から“新たな勇者に謁見したい”なんて問い合わせが来てる。
賓客用の部屋も足りなくなりそうだ」
王宮魔導師クラウスがメガネを押し上げ、手にした文書の山をテーブルの上に置いた。
書かれているのは各国からの要請や書簡で、レイナへの協力や契約を望むものが多いようだ。

「何が目的なんだか……」
レイナは城の一室に腰を下ろし、ため息をつきながら遠目に積まれた書類を眺める。
自分には関係ないはずの国同士の思惑が、いつの間にか肩にのしかかってくる。
彼女は首筋を軽くさすり、「そりゃ、強い力を持ってるなら利用したがる人たちもいるんだろうけど……私、そんなに働く気ないんだよね」とぼやいた。

騎士団長セレナが、その隣で控えめにうなずく。
「でも、王国としては、あなたが他国に渡ってしまうのは困るはず。
同盟国からも『レイナを我が国へ招きたい』という話がいくつも来ているみたいだし、ここで引き留めるか、仲介して国交を深めるかで意見が割れている」
「要するに、私はただの“駒”扱いってことか。
めんどくさ」
レイナがそっぽを向くと、セレナは歯がゆそうな顔をして、彼女をそっと見つめる。

きちんと結い上げた白銀色の髪の奥で、セレナの瞳は微妙な揺らぎを帯びている。
彼女は王国に仕える身としてレイナを守りたいが、いっぽうで王国の利益や安全に資するよう“勇者”を導く義務もある。
その板挟みが、セレナを苦しめていた。
だが、レイナは気づいていても、それを深く追及しようとはしない。
「セレナさんが悩んでるのはわかるけど……私、あんまり誰の味方とかになる気はないんだよね」
「ええ、わかってる。
それでも、あなたが心地よく過ごせるようにはしたいし、国の未来も無視できない。
私がどう動けばいいか、答えが見えなくて……」

セレナの言葉が重く落ちる中、ドアをノックしてクラウスが入ってきた。
「レイナ、実はノルダーレ公国の使者が面談を希望している。
公国の鍛冶や金属技術は有名で、彼らはあなたの力を何かしら兵器開発に応用できないかと探っているらしい。
ただ、興味を示すのはそこだけじゃなくて、彼らには反王国派の貴族もいるから、内情は複雑そうだ」
レイナは苦い顔をする。
「兵器とか、そういうのに使われるの、絶対やだな。
私、引きこもっててもいい?」

それを聞いて、セレナは少し困ったように口を開く。
「その“引きこもり”を許してもらえるかどうか……。
王としては、各国の接触をむげにはできないらしいわ。
現実問題、彼らを無視すると外交的にもまずい」
レイナは腰を浮かせてひとつ伸びをした。
「どいつもこいつも、私の意向を無視して好き勝手なこと言ってくるんだね。
じゃあ、放っといてほしいってスタンスで通しちゃダメかな?」

クラウスは少しだけ口をつぐみ、レイナの表情を探るように視線を向ける。
「実は、その案を検討してる人もいるんだ。
“勇者殿の意思を尊重し、無闇に動かさないほうがいい”っていう慎重派の貴族や魔導師たちがね。
でも積極派は『いや、何もしなければ危機が来た時に間に合わない』と反対している」
レイナは思わず肩をすくめ、クッションに体を預ける。
「ああ、もう。
本当にめんどい。
私が決めるって言うなら、ほっといてって言い続けるよ。
“とりあえず何もしたくない”って結論、ダメなの?」

セレナは苦笑しながら、「そうは言っても、実際に危ない場面があれば、あなたは見過ごせないでしょう?」と問いかける。
レイナは少し言葉に詰まったようにまばたきをした。
「うーん、確かに人が襲われてたりしたら、素通りはできないかも。
それは私の“気まぐれ”ってやつ」
「だったら、その気まぐれさえも利用したいと思う人が出てくる。
王国だって、その力を欲しがる国に気を配らなきゃいけない。
そこから争いに火がつくかもしれないわ」
セレナが言葉を区切りながら、レイナの目をじっと見つめる。

何かを言い返そうとしたレイナだが、結局「わかったよ。
面談とかは形だけなら受けてもいい。
でも“約束”はしない。
勝手に利用されるのはゴメンだし。
基本は“放っておいて”スタンスね」と小さく呟いた。
クラウスとセレナは顔を見合わせ、ほっとしたような、複雑なような視線を交わす。

いずれにしても、ノルダーレ公国やミストリバー連邦、さらには海外からも興味を寄せられている現状を、いきなり変えるのは難しい。
レイナ自身が関わりを拒んだとしても、国同士の思惑は消えず、騒ぎが大きくなる可能性はある。
それでも“まずは放っておいて”という一言が、レイナなりの平和的主張なのだろう。
セレナはその姿勢を尊重しようと決めるが、内心ではいつか本格的な衝突が起きるのではないかと考えていた。

部屋を出ていこうとするレイナの背中を、セレナは小さく呼び止める。
「あなたは……いつも通りでいてくれたらいい。
必要になれば、私が守るし、あなたの力だって頼ることがあるかもしれない」
レイナは振り返り、バツが悪そうに笑う。
「ありがと。
ほんとに私、努力とかあんまり好きじゃないけど……セレナさんには協力してもいいかなって思ってる」

その言葉を受け、セレナの胸中には小さな安堵が芽生える。
だけど同時に、レイナの“力”が国を取り巻くいくつもの利害を巻き込み、次第に大きな軋轢を生むことも覚悟しなくてはならない。
騎士団長としての責任と、レイナへの個人的な思い。
ふたつを抱えて、セレナは静かに廊下に立ち尽くした。

レイナはそんな彼女の複雑な胸中に気づきながらも、「どうにかなるでしょ」と笑ってみせる。
それが楽天的な逃げ口上か、あるいは無意識の優しさなのかは、誰にもわからないままだ。

第6章 神々の試練

アルカディア王国の神殿は早朝から厳粛な空気に包まれていた。
大理石の廊下を進むレイナは、左右に立ち並ぶ神官たちの視線をまともに受けながら、やや気まずそうに歩を進める。
今日は王国の主導で、彼女が神々の試練を受けるための大きな儀式が執り行われる。

「そもそも私、受けたいなんて言ったっけ」
レイナは溜息をついて呟き、鼻先で髪を払いのける。
先日、王が下した勅令により、“最強の力”を持つと噂されるレイナは、神聖な儀式を通じてその力の正当性を証明する必要があるらしい。
しかし当の本人はまるで乗り気ではない。

王宮魔導師クラウスが後ろから歩を速め、レイナの隣に並ぶ。
「こればかりは、国のしきたりというか……。
一応、ちゃんとやる気を見せてくれないと、神官たちは納得してくれないんだ」
「私がやる気を見せるとか、一番苦手なんだよね」
レイナは口を尖らせてぼやくが、クラウスは苦笑いを浮かべるだけだった。

さらに奥へ進むと、やがて広大な礼拝堂が姿を現す。
中央には円形の魔法陣が眩く光り、その周囲を神官たちが取り囲んでいる。
白髪混じりの金髪を後ろに束ねたクラウスが立ち止まって周囲を見回すと、目を細めて軽く息をのんだ。
「これは……かなり大掛かりだね」

すると、その視線の先には神官長ダグラスの姿があった。
黒髪短髪の精悍な男が、神官服を身にまとって厳かに立っている。
ダグラスの背後では神官たちが低い声で祈りを捧げており、礼拝堂全体が独特の緊張感に包まれていた。

レイナはダグラスを見るなり、少し気まずそうにまばたきをする。
「また面倒そうなことを計画してるんじゃないかな」
「どうやら、国王が“神々から正式に認められる勇者”を求めているらしい。
もしあなたが試練を突破すれば、王国としても“神の祝福を受けた存在”として周囲に示せる」
クラウスの言葉に、レイナは気の抜けた口調で応じる。
「要は、私を利用したいってだけじゃん。
でも、ここで強く拒否すると長引きそうだし、サクッと終わらせちゃえばいいよね」

そのとき、鋭い足音を立てて騎士団長セレナが現れた。
すらりとした体躯に騎士団長の礼装を纏い、腰に佩いた魔剣がきらりと反射している。
「レイナ、いよいよね。
神々の試練なんて前例が少ないから、私にもどんな内容になるかはわからない。
でも、絶対に危険なものでもないはず。
一緒に来たかったけれど、これは“当人だけが立ち会う儀式”って決まりだから、外から見守るしかできないの」
レイナは少し心細そうにセレナを見上げる。
「うーん、あんまり自信はないんだけど……。
努力も嫌いだし。
だけど、なんとかなるでしょ」
その言葉に、セレナは苦笑を浮かべながら、「あなたらしい」と短く返した。

一方、神官長ダグラスは壇上で結界を整え、レイナにまっすぐ視線を送る。
「朔間レイナ殿。
あなたの力を正しく導くためにも、神々の試練を受ける資格があるか確認させてもらう。
準備はいいかな?」
レイナはダルそうにため息をつきながら、「はいはい、わかりました」と返事をする。

神官たちが礼拝堂中央に並び、謎めいた言葉を唱え始める。
魔法陣の円環がレイナの足元で発光し、次第に光が強くなっていく。
聖なる鐘の音が遠くから聞こえ、彼女の周囲に神々しさを感じるヴェールのような空気が流れ込む。

「なんか、すごい……まぶしい」
レイナは思わず目を細め、片手で額を覆う。
真上から差し込む光が、まるで天井を突き抜けて天界と繋がっているかのように見えた。

ふと視界が歪むような感覚に襲われ、彼女の周囲から人の声が遠のく。
気づけばレイナの足元には白い空間が広がり、礼拝堂はおろかクラウスやセレナの姿も消えていた。
「え、なにこれ……」
まるで夢の中にいるような感覚。
ただし夢と違って、確かに足元に体重が乗る感触があるのが不思議だった。

そこへ、透明な音が響くように光の塊が形を成しはじめる。
それは、人の姿をしているようでいて、はっきりとした輪郭を持たない。
声なのか意識なのかわからないメッセージが、レイナの頭に直接語りかけてきた。

「汝、神の血を引く者よ。
その力は世界の秩序を揺るがすほどに強大なり。
今こそ、汝がその力をどう使い、何をもたらすのかを試すとき……」

レイナは少しだけ緊張しながら、「神々の声ってやつ?」とつぶやいた。
すると光の人影はいくつもに分かれ、まるで囲むように彼女を観察し始める。
「よくわかんないけど、面倒なら手短にお願いしたいな……」

次の瞬間、空間がざわりと震え、レイナの前に巨大な岩ゴーレムのようなものが出現した。
「ちょっと待って、いきなり戦闘……?」
ゴーレムは無機質なうなりを上げ、彼女に拳を振り下ろそうとする。
レイナは思わず飛びのき、地面を転がった。
「うわ、なんか本格的!」

岩の表面が無数に隆起し、弾丸のように飛んできた破片が彼女をかすめる。
「って、こんなの死んじゃうよ!」
しかし、レイナは妙に落ち着いている。
恐ろしいはずの攻撃を前にしても、なぜか心は冷静だった。
「そういえば私、力はすごいんだった……よね」

彼女は岩ゴーレムの周囲を回るように走り、手近な石ころを軽く掴む。
力を込めるというよりは“投げればどうにかなるでしょ”とばかりに放り投げた。
すると、その小石は空気を裂く衝撃波となり、ゴーレムの頭部を正確に射抜いた。
「わ、やっぱり飛ぶんだ……」
頭部を砕かれたゴーレムは倒れ込むように散り散りに崩れ落ちる。

空間がまた歪み、今度は炎の怪物らしきものが彼女の背後に現れる。
燃え盛る炎の壁が迫り、「これは危ない」と直感したレイナは咄嗟に腕をかざす。
「えいや、冷やしてみろー!」
半分投げやりでそう叫ぶと、彼女の手から凍てつくような青い光が放たれ、あっという間に炎を吹き消してしまった。

「本当に何でもアリなんだ……。
努力してないのに勝手にできるって、なんかごめんねって感じだけど」
そう言いながら、レイナは最小限の動きで怪物を倒していく。
気がつけば周囲の光の人影が、少し焦ったように立ち位置を変えているようにも見えた。

「神々としては、もうちょっと苦労してほしいのかな」
レイナは首を傾げ、頬をかく。
だが、次々と送り出される敵を難なく倒してしまう現実は変わらない。
彼女の視点からすれば「あれ、意外と簡単だな」という程度の試練だった。

やがて空間が揺らぎ、最後に残った光の人影が彼女に向けて何か言葉を投げかける。
だが、その声は先ほどとは違い、どこか焦燥感が混じっていた。
「汝の力は常識を超える……。
しかし、制御なき力は混沌を生む。
この試練を乗り越えたとしても、汝がもたらす先は破滅か、それとも……」

聞き終わらないうちに、レイナの周囲の光が崩れ始める。
空間が再び震動し、意識が急速に礼拝堂へと引き戻される感覚。
「……お疲れさまでしたー」と、言いたいのかなんなのか、自分でもわからない言葉が口をついて出る。

次の瞬間、礼拝堂の光景が視界に戻ってきた。
そこには緊迫した面持ちで待機していた神官たち、そしてセレナとクラウスの姿がある。
レイナは何事もなかったかのように立っており、まるで無傷。
あるいは疲労すら感じていないような雰囲気だった。

礼拝堂にいた神官たちは唖然とし、ダグラスは少しだけ目を見開いて口を閉ざす。
「……試練は終わったのか?」
クラウスがメガネの奥で目を丸くして訊ねると、レイナは肩をすくめる。
「なんか変な空間に行って、バケモノとちょっと戦ってきたよ。
あっという間だったし、まだお腹空いてるんだけど」

セレナは心配そうに駆け寄り、レイナの手を取って傷がないか確かめる。
「大丈夫そうね……」
「なんとかなったよ。
まあ、試練っていっても、けっこうテキトーな感じで終わったかも」
セレナは安堵の表情を浮かべるが、ダグラスは神官を振り返りながら低い声で指示を飛ばした。
「結界の異常値をすぐに分析しろ。
こんなにも短時間で試練が終了するなど、前例がない」

礼拝堂の端では、神官長や他の神官たちが慌ただしく動き始める。
試練の成功を祝福するどころか、むしろ予想外の出来事に混乱しているようだった。
そんな光景を見やりながら、レイナは軽く伸びをする。
「やっぱり、あっちも想定外だったんだ。
私、もっとがんばる必要とかあったのかな……」

その肩にそっと手を置いたのはセレナだった。
「危険なことにならなくてよかった。
この結果がどう受け止められるか、まだわからないけど……お疲れさま」
レイナは苦笑しつつ、「ありがとう。
なんか拍子抜けしてごめん」と小さく呟く。

儀式は一応“成功”となり、レイナは神々の試練を突破した扱いになる。
しかし、このあまりにあっけない結果に、神官や王国上層部は困惑し、神々自身も何を思っているのか。
その場に立ち尽くすダグラスの暗い瞳は、どこか読み取れない色を帯びていた。

レイナにとっては大した努力を要しなかった“試練”。
それが今後どう影響を及ぼすかは、まだ誰もわからない。
だが、少なくとも彼女は「やるべきことをこなした」という気持ちで、腹ごしらえでもしようかと心の中で計画していた。

第7章 ダグラスの正体と計画

アルカディア王国の王城で行われた“神々の試練”が、あまりにもあっけない形で幕を閉じて数日。
城内は表面上こそ落ち着きを取り戻したものの、神官や王国上層部の戸惑いは残ったままだった。
なにしろレイナが桁外れの力を示しながらも、あまりに淡々と試練を終わらせたせいで、かえって人々の不安を煽る結果になっている。

「いちいち騒ぐ必要ないのにね」
レイナは城の廊下を歩きながら、雑用係の侍女から渡された果物をもぐもぐと頬張る。
王城の居住区は広く、朝晩の移動すら面倒くさいのが正直なところだったが、お菓子や食事が豊富なのだけは彼女にとってメリットらしい。

一方、王宮魔導師クラウスは、彼女の隣でいくつかの書簡を手にして忙しなく目を走らせていた。
「実は、各国から新たに書簡が届いてね。
神々の試練をあんな形で突破した君に興味があるらしい。
なかでも、ノルダーレ公国とミストリバー連邦、それから……」
「また勧誘とかでしょ。面倒くさくて聞きたくないよ」
レイナはぐったりした口調で肩を落とす。
だがクラウスはメガネの奥で少しだけ表情を強張らせた。

「いや、今回の文面はいつもの交渉ごととは違うんだ。
“闇の侵食”について、各地で異変が起き始めているという報告が入っている。
世界各地で、光と闇が混在する妙な力が跡を残しているとか」
「闇の侵食?どういうこと?」
レイナは口を止め、真顔でクラウスを見る。

騎士団長セレナがそこへやってきて、穏やかな声で補足をする。
「クラウスから話は聞いたわ。
最近、王国内の辺境でも植物が急に枯れたり、地下水が濁ったりする現象が報告されているの。
闇と光が混ざり合ったような力を感知したって話もある」
「わざとやってるの?」
レイナは首を傾げる。

すると、セレナは神妙な面持ちで後ろを振り返る。
「詳しいことはわからないけれど、ダグラス神官長が中心となって調査を進めているらしいわ。
だけどなぜか、調査内容は王や騎士団に明かされていない。
神官の間でも意見が割れているとか」

レイナは「ダグラスねえ……」と小さく呟き、思わず頭をかく。
彼が神官としてはかなりの実力者であり、同時に王国内で急速に権限を拡大していることは周知の事実。
しかし試練の儀式やその後の態度を見ても、どうにも不気味さが拭えない。

「私、あの人好きじゃないんだよね。
言葉づかいはやさしそうだけど、なんか裏がありそうっていうか」
レイナがぼそっと言うと、クラウスは困ったような笑いをこぼす。
「実際、ダグラスの言動には不可解な点が多い。
神殿の神官たちにも、彼に不信感を抱く者は少なくないみたいだよ。
ただ、今のところ公式には何の違反もしていないから、誰も強くは言えない」

それから数時間ほどして、王城の中庭にダグラスが現れたとの報せが入る。
レイナはあまり会いたくなかったが、彼のほうから“話がある”と呼び出されたというのだ。
仕方なく、彼女はクラウスと一緒に中庭へ向かう。

そこには黒髪を短く整えたダグラスが神官服を揺らしながら立っていた。
背筋をぴんと伸ばし、どこか冷たい笑みを浮かべている。
レイナをひと目見ると、一礼だけをして口を開いた。

「朔間レイナ殿、調子はいかがかな。
試練を見事に突破されたと聞いている。
さすがは神の血を受け継ぐだけのことはありますな」
言葉自体は丁寧だが、その目は決して笑っていない。
レイナは何とも言えない居心地の悪さを抱きながら、曖昧にうなずく。

「別にたいしたことはしてないですよ。
ところで、私になんの用?」
「そう焦らなくてもいい。
ただ、一つだけ確認したいことがあるんだ。
あなたの力は、秩序を守るために使われるべきか、それとも――」
ダグラスの言葉が途中で止まる。
その先を彼がどう言おうとしたのか、レイナにはわからない。
だが、どことなく挑発めいた響きが含まれているようだった。

クラウスが一歩前に出て、やや低い声で口をはさむ。
「ダグラス神官長、何か企みがあるなら、はっきりお話しいただけないだろうか。
あなたの調査で“闇と光が混ざる怪現象”が起きているという報告を耳にしたが、詳しい状況を王や騎士団が知らされていないのはどうしてか」
するとダグラスは唇をうっすら吊り上げ、軽く首を振る。
「私にとっても調査の過程だよ。
騎士団や王へ情報を出すには、まだ早い段階というだけさ。
焦って公表すれば余計に混乱を招くだけだろう?」

レイナはその言葉に違和感を抱き、つい率直に問いかける。
「それならみんなに相談すればいいのに。
隠したままだと、変な疑いをかけられても仕方ないんじゃない?」

ダグラスは一瞬だけ目を伏せ、それからじっとレイナを見上げる。
「なるほど。
あなたは自由を好むようだが、世界の混沌を前に、何も行動しないという選択は危険だと思いませんか?
闇と光が混ざり合う力が拡大すれば、この国のみならず、大陸全土が飲み込まれかねません」

レイナは返答に詰まり、セレナとクラウスが思わず彼女を振り返る。
確かに闇の侵食が進めば多くの人々が苦しむはず。
だが彼女は、努力してまでこの世界を救うつもりなどなかったし、できれば余計な事件に巻き込まれたくない。

「……私だって、危ないことは嫌だけど……」
そう呟くレイナの言葉を遮るように、ダグラスは神官服の袖から銀色の小瓶を取り出した。
「これは、闇と光の混在を示す結晶を溶かした液体だ。
かすかに感じるだろうか、この不気味な気配を」

クラウスが反射的にメガネを押し上げ、小瓶を注視する。
セレナも警戒の色を強め、腰の魔剣に手をかける。
レイナは「嫌な感じ」とだけつぶやき、手のひらに軽い痺れのようなものを感じていた。

するとダグラスの目が怪しく光り、彼の背中にある刻印がわずかに黒いオーラを放つ。
そのオーラはまるで羽根の痕跡を形づくるように揺らめき、一瞬だけ人ならざる闇を表出させた。

クラウスが思わず声を上げる。
「ダグラス……まさか、あなたは“堕天神”!」
堕天神 - かつて光の神に仕えていた高位の天使的存在が、天界の不条理や神々のエゴに絶望して堕ちた者。
闇を取り込むことで天上を離れ、神々を超える新たな秩序を作ろうとする存在。
セレナが歯がみして彼を睨む。
「光と闇を混ぜ合わせ、その力で世界を変えようとするなんて、あまりにも危険だわ」

ダグラスは小瓶の液体を揺らしながら、まるで優雅に舞うように微笑む。
「光でも闇でもない、混沌の力。
天界の枠組みを変え、新たな世界を創るには、こうした破壊と再構築が必要なのさ」

レイナは思わず後ずさり、「なにそれ、世界を壊そうとしてるとか?本気で言ってるの?」と問いかける。
ダグラスはまるで子どもを諭すような口調で、「世界の調和は神々の都合で保たれている。
君のように神の血を受け継ぐ存在すら、彼らの勝手で地上に落とされたり、利用されたりする。
違うか?」と続ける。

確かにレイナは“利用されたくない”と常々思ってきた。
だが、この男はその発想をさらに極端な形で進めようとしている。

「私を味方にしたいわけ?」
レイナは真っ向から尋ねる。
ダグラスは意味深な笑みを浮かべ、「君が一歩踏み出せば、世界は変わる。善も悪もなく、ただ新たな秩序が生まれるだろう」と言うだけだった。

セレナが不安そうにダグラスを睨み、剣の柄を握り直す。
クラウスも結界魔術の構えを取り、いつでも防御できるように準備している。
だがダグラスは彼らの警戒を意に介さない。
「いずれにしても、あなたが無関心でいられる猶予はもうあまりありません。
混沌はすでに動き出しております」

その言葉を残し、ダグラスは小瓶を再び袖にしまい、踵を返して立ち去る。
一瞬、彼を引き止めようとクラウスが動きかけるが、ダグラスの纏う黒いオーラの威圧感に足をすくまれ、セレナも剣を握りしめたまま動けない。
レイナも思わず「うわ……」と息を呑むが、地面に貼りつくような圧力が周囲を支配し、誰もその場でダグラスに近づけない。
彼の足音だけが石畳に響き、やがて中庭の闇に紛れるように消えていった。

レイナは結局、何も言い返せず、ただ呆然と見送った。
闇と光が混ざる力を用いて世界を揺るがそうとするダグラスの計画。
それがどこまで具体的で、どこへ向かおうとしているのかはまだわからない。
しかし、彼が堕天神だという事実は、クラウスとセレナから語られたとおり、疑いようもなかった。

「私、何にもしたくないんだけど……あの人、本気で変なことやりそうだよね」
レイナは嫌そうに唇を尖らせる。
セレナが彼女の肩に手を置き、しっかりとした眼差しで言う。
「ダグラスが本性を現してきた以上、放っておけば確実に厄介なことになるわ。
あなた自身がどうしたいかは大事だけれど、彼が引き起こす混沌に巻き込まれたら、誰も無傷ではいられないはず」

クラウスもメガネ越しにレイナを見やり、「君の意思を尊重したいが、堕天神たるダグラスの動き次第では、王国だけの問題じゃないかもしれない。
異世界から呼ばれた君が、この事態にどう関わるか……それを考えてほしいんだ」と言葉を重ねる。

レイナは心底めんどくさそうに溜息をつき、「やっぱり私が何とかしなきゃいけない流れ?」と力なく笑う。
だが、それでも眼差しにわずかな決意が宿っている。
「勝手に召喚されたけど、だからって世界がめちゃくちゃになるのは嫌だよ。
だけど、面倒くさいことに巻き込まれるのも嫌……。
……うわ、どうしよう」

セレナはそんなレイナの姿を見て、少しだけ表情を柔らかくする。
本来なら彼女のように努力が嫌いで、気まぐれな存在が、世界の行く末に大きく関わるなんて誰も想定していなかった。
しかし、桁外れの神力を持つ“神の血を受け継ぐ者”であることに変わりはない。

「もしダグラスが本格的に動き出したら、私たちだけじゃ対処しきれないかもしれない。
どうか力を貸してほしい」
そう静かに頼むセレナに、レイナは視線を外しながら小さく頷く。
「すっごく憂鬱だけど、あの変な闇の力で国中がやられるのはもっと嫌だし……。
……うん、まあ、やるしかないのかな」

クラウスはそんな彼女の反応に安心したように微笑む。
「ありがとう。
まずはダグラスの企みを探ることが先決だね。
それから、この“闇と光の混在”が具体的にどこを蝕んでいるのか、情報を集めよう」

レイナは気乗りしないまま、「はあ……」と顔をしかめる。
この世界の争いに巻き込まれる気などさらさらなかったはず。
にもかかわらず、堕天神ダグラスが姿を見せ、闇と光の入り混じった怪現象が広まりつつある今、彼女はどうしても無関係ではいられない状況へと追い込まれていた。

「結局、めんどくさいことになるのかー。
わたしの平和、どこいったんだろ」
そう文句を言いながらも、レイナの心には複雑な使命感が芽生え始めている。
努力は嫌い、面倒な戦いも嫌い。
それでも、世界が破壊されるなら――やはり放っておけないと思う自分がいる。

クラウスとセレナがそんな彼女を頼もしそうに見守るなか、ダグラスの暗躍は確実に進んでいくだろう。
光と闇の混ざり合う危険な力が、すでに大地を侵し始めているのだから。

第8章 決戦への序曲

アルカディア王国の王城では、灰色の曇天を背にして大広間が特別な装飾で満たされていた。
各国からの使者を迎え入れるため、長いテーブルに彩り豊かな食事がずらりと並んでいる。
しかし、その豪華さとは裏腹に、人々の表情はどこか沈んでいた。

「なんだか、みんなピリピリしてるよね」
レイナが大広間の隅に寄りかかり、ぽつりとつぶやく。
彼女はいつも通り制服の第一ボタンを外し、黒髪をだるそうに結んだままでいる。
周囲では貴族や要人たちが、不安げにそれぞれの席についたり、別室での協議に向かったりしていた。

王宮魔導師クラウスがメガネを押し上げながら、書簡をバサリと手元でまとめる。
「ダグラスが引き起こそうとしている“闇と光の混ざり合う力”について、各国は危機感を強めているんだ。
ノルダーレ公国やミストリバー連邦も、表向きは兵器や技術協力を口実にしてきたけれど、実際は闇の侵食の情報を求めて集まってる」
「ふうん。でも、こんな会議して、うまくいくのかな」
レイナは退屈そうにあくびをこらえる。

すると、騎士団長セレナが静かな足取りで近づき、小さく肩をすくめた。
「いま大広間に集まっているのは、王や貴族、それに各国の代表たち。
いざというときは互いに協力しましょう、と条約めいた話し合いになるはずだけれど……本音では皆、自国の利益を優先するわ。
闇の力に対抗できるのは“神の血”を持つレイナくらい、というのも気に入らないのかもしれない」

レイナは複雑そうに眉を寄せる。
「まったく、私ってそんなに信用されてない感じなのに、頼られても困るんだけどね。
あーあ、もうスマホでもいじってサボりたい」

セレナは思わず小さく笑う。
「でも、あなたは嫌々ながらも助けようとしてくれるでしょ。
すでに各地で闇の侵食が報告されているし、ダグラスが本気で世界を混沌に陥れようとしてるなら……やっぱり、ほうっておけないもの」

レイナは曖昧にうなずき、壁際に備えられた椅子に腰を下ろす。
心底「面倒くさい」と思いつつも、放置すれば国どころか大陸全土が危機に陥るかもしれない。
そんな予感を拭い去れない自分に、わずかな焦りを感じていた。

やがて大広間では、王と各国の要人たちによる協議が始まる。
壇上で王が「我がアルカディア王国は、ダグラス神官長の動向を重く見ている。
各国での闇と光の混在現象に対処するため、力を合わせなくてはならない」と宣言する。
ノルダーレ公国やミストリバー連邦の代表も、口々に同意を示すが、それぞれが慎重な表情を浮かべていた。

クラウスはその光景を眺めながら、小さく嘆息する。
「本気で結束するには、まだ信頼が足りない。
けれど時間がないのも事実だ。
ダグラスがいずれ“門”を開こうとしているかもしれない――そういう話も出てきた」
「門?」
レイナは眉をひそめる。

セレナが魔剣の柄を指でなぞりながら口を開く。
「ノルダーレ公国の古文書に、“神々の領域へ続く門”が記されているらしい。
ダグラスは堕天神として、その門を利用し、闇と光を混在させて世界を再構築しようとしている可能性があるわ。
私たちは何とかそれを阻止しなきゃいけない」

レイナは頭を抱えるように両手を組み、気の抜けた声を漏らす。
「やっぱり大ごとになってる……。
私、そろそろ逃げられなくなってない?」

クラウスが苦笑して「気持ちはわかる」と返しながらも、メガネの奥で鋭い眼差しを光らせる。
「でも、あなたが逃げたら、本当に誰もダグラスに対抗できない。
神々も、ダグラスのような堕天神には直接干渉しづらい仕組みがあるはずだから」

すると、そのとき大広間の入り口付近でひらひらと花びらが舞い落ちた。
まるで風が吹いていないのに、その花びらは水色に変わり、少年のような姿へと変化していく。
「フィロ……」
レイナがその名を呼ぶと、すべての視線が一斉に集まった。
精霊王フィロが相変わらずの無邪気な仕草で、大広間の中を見回しながら歩み寄る。

「何だか人がいっぱい集まってて面白そうだね。
それで、ダグラスとかいう闇っぽい神官が悪さしてるって話?」
フィロは金色の瞳をきょろきょろさせ、少しだけうれしそうな笑みを浮かべる。
セレナやクラウスが警戒して近づくが、フィロはそれを気にする様子もない。

「闇と光の混ざり合う力は、精霊界にも悪影響を及ぼすからね。
僕も手を貸そうかなって思って来たんだ」
フィロはさらりと言うと、集まっていた各国の代表たちが一斉にざわめく。
「精霊王……あの伝承の……」
「まさか本当に人前に姿を見せるとは……」

レイナはその騒ぎを遠目に眺め、少しだけ気が楽になる。
ダグラスと違って、フィロには底の知れない力があるにしても、敵意は感じられないからだ。
「じゃあフィロも私たちに協力してくれるの?」
彼女が確認すると、フィロはくるりと身体をひねってレイナの方を見やる。
「僕は好きなことしかしないけど、面白そうなときは手を貸すよ。
それに、レイナは神の血を持ってるし、気に入っちゃったからね」

セレナは苦笑しながらも、その無邪気すぎる態度にかすかな安心を覚える。
「ありがとう。
あなたが本気で力を振るえば、ダグラスの企みに大きな歯止めになるはずだわ」
「気まぐれだけど、よろしくね」
レイナが小さく頭を下げると、フィロは子どもっぽい笑みをこぼす。

そんな二人のやりとりを見て、クラウスがこほんと咳払いする。
「じゃあ、これで対抗手段は少し整ってきたわけだ。
レイナ、セレナ、フィロ、そして僕……この四人で連携しよう。
国や他の代表たちも、王城内で協力体制を取ることになるけれど、最終的にダグラスと対峙するのは、恐らく私たちになるだろうね」

レイナは少しだけ不服そうに口を尖らせる。
「やっぱり面倒なのは私たちに回ってくるのか……。
でも、放置してダグラスが世界をぐちゃぐちゃにしたら、それこそもっと面倒だしね。
わかったよ。
できる限り頑張る、って感じで」

セレナはレイナの肩に手を置き、静かに微笑む。
「危険かもしれないけれど、あなたならきっと大丈夫。
それに、私もクラウスもフィロも、全力で支えるわ」

フィロがひらりと回転するようにステップを踏み、大広間の中央へと進む。
「みんな、まだぐだぐだしてるみたいだけど、そろそろ決めないの?
ダグラスが門を開いてしまったら、もう手遅れだよ」
その飄々とした口調は、状況の深刻さとは対照的だったが、その指摘は間違いなく本質を突いていた。

テーブルの向こう側では、各国の代表がせめぎ合うように何かを話し合っている。
一時的な同盟を結ぶ方向で動いているらしいが、互いへの警戒心は拭えないままだ。
クラウスはその様子を見て、小さく息を吐き出す。
「結束は難しそうだね。
けど、それでも“共通の敵”がいる以上、最初の一歩は踏み出せるはずだ」

レイナは椅子から立ち上がり、軽く伸びをして廊下へ向かおうとする。
「じゃあ、私、少し休憩してくる。
なんかここ、気疲れするんだよね」
「わかった。
会議の結論が出るまで時間があるし、無理に付き合わなくてもいい。
君が本番で疲れを残してしまうほうが問題だからね」
クラウスがそう言って笑いかけると、レイナもほんの少しだけ肩の力を抜いて笑みを返した。

廊下へ出ると、王城の壁を飾るステンドグラスから薄曇りの光が淡く差し込んでいる。
レイナは窓辺に立ち、城下町の景色をぼんやり眺めた。
人々はいつも通り行き交っているように見えるが、その暮らしが脅かされるかもしれない――そう思うと、胸の奥がわずかに重い。

「やるしかない、か……」
ぼそりとこぼれた声には、まだ“面倒くさい”というニュアンスが混ざっていたが、どこか拭いきれない決心も含まれている。
ダグラスが本格的に動き出す前に、各国が協力し、フィロやセレナ、クラウスとともに対抗策を固める必要がある。
そして、神々ですら恐れるほどの“最強の力”を持つらしい自分が、どうそれを扱えばいいのか――まだはっきり答えは出ない。

ただ、背を向けて逃げるわけにはいかない以上、少しずつでも前へ進むしかない。
レイナは窓辺から足を離し、小走りで廊下を抜けていく。
遠く大広間のほうでは、フィロが「あれ?レイナは?」と首を傾げている声が聞こえたが、彼女は今は休憩が最優先だと心の中で言い訳をする。

外へ通じる扉を押し開けると、乾いた風が髪を揺らした。
雲間から一瞬だけ陽光が射し、あたたかな気配を帯びた空気が鼻をくすぐる。
「ま、なんとかなるでしょ」
レイナはいつもの口癖を小さく口にして、晴れ間の光へ歩み出した。
その背後には、近づく決戦の足音が確かに迫りつつある。
だが彼女はまだ自由気ままな足取りを守りながら、“最強の力”と呼ばれる自分自身の在り方をぼんやり考えていた。

第9章 世界の命運と神々が跪く時

城下町に深い闇が迫り、空は嫌なほどに黒雲に覆われていた。
アルカディア王国の王城の上空には稲光が走り、まるで天が悲鳴を上げているかのような不穏な気配が漂っている。
レイナは薄暗い大広間の中央に立ち、息をのむような静寂を感じながら、視線をまっすぐ扉のほうへ向けていた。

「とうとう、ここまで来ちゃったんだよね」
彼女は制服のネクタイをゆるめながら、少し自嘲気味に笑う。
すぐ隣には騎士団長セレナが立っており、白銀の長髪をきりりと結い上げた姿で、腰の魔剣に手をかけている。
神官ダグラスが各地の“門”をこじ開け、光と闇の混ざり合う混沌を世界へ広げる――その企みを阻止すべく、もう戦わずに済ませる道は残されていなかった。

王宮魔導師クラウスはメガネの奥で厳粛な光を宿しながら、結界の紙片を何枚も広げている。
「レイナ、状況は最悪の部類だ。
ダグラスが王宮の結界をこじ開け、神殿に安置されていた古代の遺物をすべて奪ったらしい。
おそらく“門”を開く儀式に使うつもりだろう」
レイナはげんなりと肩を落とす。
「最悪とか言われても……私、そんなにやる気出ないんだけどな。
でも、やるしかないのかな」

セレナが彼女の肩にそっと手を置き、まっすぐな瞳で見つめる。
「あなたがいなければ、この世界はただ闇に飲まれるだけ。
私も一緒に戦うから……お願い。
力を貸して」
レイナは目を伏せて、深く息を吐く。
「わかったよ。
もう放っておけないのは重々承知。
面倒でも、私が動くしかないんだね」

そのとき、大広間の扉が轟音とともに吹き飛んだ。
黒髪短髪のダグラスが神官服を翻しながら、まるで練り歩くように入ってくる。
背中の刻印は黒い光を放ち、その翼の痕跡が闇と光を継ぎ合わせた不気味なオーラを漂わせていた。
「やあ、レイナ。
君たちがここで待ちかまえているなんて、感心だね」
嘲るような薄い笑みとともに、彼は銀色の小瓶を取り出す。

クラウスが目を見開き、小瓶を指さす。
「それは……闇と光の結晶を混合した液体か。
まさか、その力で“門”を開こうというのか」
ダグラスは微妙に肩をすくめながら、まるで友人に語るかのように柔らかな声を出す。
「神々に管理されるだけの世界は、もう終わりにしようと思ってね。
闇でも光でもない、真なる“混沌”が新たな可能性をもたらすだろう」

すると、広間の天井が崩れるように響いた。
天井を突き破って侵入してきたのは、半透明の闇の化身のような魔物。
セレナはすかさず魔剣を抜き、金属のきしむ音を響かせる。
「魔剣の力を解放するわ。
クラウス、援護を頼む」
クラウスは結界魔術を展開しながら、「いつでも行ける」と力強くうなずく。

レイナはその様子を横目に見つつ、ゆっくりと息を整える。
「私も……やればいいんだよね」
そう呟き、制服の袖を軽く捲る。
神々がすら恐れるという“神の血”を、彼女はまだ完全には制御できていない。
だが、放っておけばすべてが崩壊する――その事実が、嫌でも彼女を奮い立たせる。

「行くよ」
そう言うと、レイナはほとんど無意識のうちに神力を解放する。
すると、大広間全体が震え、石造りの柱から埃が舞い落ちた。
彼女の周囲が眩い光で包まれ、まるで神話の一端を再現したかのように複数の魔物が光の奔流にのみ込まれていく。
ダグラスが目を細め、「やはり君の力は規格外だね」と舌打ちを混ぜてつぶやく。

「さあ、門を開くまで、あとわずかだ。
君の力がどこまで届くか、見届けさせてもらおう」
そう言い放ち、彼は黒いオーラを纏いながら石床を蹴って飛び上がる。
天井の崩れた空間から夜空が見え、そこに浮かび上がる形でダグラスは両手を広げた。
雷が光を走らせた瞬間、空中に歪むようなゲートが生まれるのが見える。

「門を開くなんて、勝手にやらせるわけにはいかない!」
セレナが鋭い声を上げ、騎士の足取りで一気に跳躍し、魔剣を突き出す。
だがダグラスはわずかに身をねじって攻撃をかわし、闇のオーラで返り討ちを狙おうとする。
そこへクラウスの結界魔術が加わり、セレナの身体を防護するように光のバリアが展開された。

レイナは下から見上げながら、門の裂け目が広がっていくのを感じる。
「このままじゃまずい。
どうにかしなきゃ」
そう思いつつ、彼女はごく軽い気持ちで右手を突き出す。
すると驚くほど簡単に膨大な神力が噴き出し、空中の闇の渦を貫くように閃光が放たれた。

雷鳴に似た衝撃音が響き、ダグラスのオーラが一瞬だけ揺らぐ。
「くっ……!」
彼の背中の刻印から血のような闇が滴り落ち、それが空中へ黒い線を引きながら散っていく。
門の扉が一部壊れかけているが、ダグラスは必死に結界の紋章を再構築しようと試みる。

すると、突如として大広間の床が割れた。
そこから現れたのは精霊王フィロ。
風や花びらを伴って軽やかに浮かび上がり、金色の瞳をダグラスへと向ける。
「やめたほうがいいと思うけど。
闇と光を混ぜて世界を作り直すなんて、僕には退屈にしか感じないよ」
子どもっぽい台詞にも聞こえるが、その言葉には強大な自然の力が宿っている。

ダグラスは唇を歪め、「退屈かどうかなど、知ったことではない。
神々の傲慢こそが、世界に歪みを生んでいるんだ」と言い放つ。
だが、その声には若干の焦りが混じっていた。
レイナの神力とフィロの精霊術の両方を前にして、万全ではいられないのだろう。

「あなたがどんな理屈をこねても、この世界をむちゃくちゃにするのは許せない」
セレナが再び剣を構え、クラウスも後方で魔術の詠唱を始める。
その光景を下から見上げていたレイナは、「もういいか」とばかりに肩の力を抜く。

「全然努力してないけど、本気で行くよ」
そう言葉をこぼすと同時に、レイナの身体から信じられないほど清浄な光が噴き出した。
まるで世界そのものを塗り替えるかのように、光の奔流が大広間を埋め尽くす。
ダグラスは必死に翼の刻印を光らせて闇の渦を形成するが、その闇すら溶かされてしまうかのように吸い込まれていく。

「そんな、馬鹿な……!」
ダグラスの声が震え、視線は完全にレイナへと釘付けになる。
レイナの瞳からは不思議な輝きが揺らめき、まるで神々の意志すら凌駕するかのようだ。
頭上の門は半壊し、闇と光が入り乱れる空間がきしむように歪んでいる。

そして、その光の中心に立つレイナを、セレナもクラウスもフィロも息をのむように見つめていた。
異世界から呼ばれた少女が、神の血による桁外れの力をここで完全に解放してしまった――そんな衝撃が場を支配する。
クラウスはかすれ声で「まさか、ここまでの……」と目を見開く。
セレナは剣を握る手が震え、「神々すら……」と口の中で言葉を飲み込む。

まるで天上から光の階段が降りるように、レイナの背後に純白のきらめきが立ち上る。
そこへダグラスが最後の力を振り絞って飛び込んでくるが、その試みはレイナの放つ一閃でかき消された。
「もう……終わりにしてよ。
こんな面倒、まっぴらだから」
レイナが舌打ちまじりに呟くと、神殿の闇を抱えた堕天神ダグラスは苦悶の声を上げ、闇の刻印が崩れていく。

その瞬間、大広間の床と壁が眩い光で満ちた。
まるで時が止まったような静寂の中で、ぼろぼろの神官服を引きずるダグラスが膝を突き、悔しそうに顔をゆがめる。
レイナを仰ぎ見る彼の瞳には、畏怖にも似た感情が宿っていた。

「こんな、理不尽な力……神々の下僕として生まれたはずの私が、なぜ……」
呆然とつぶやくダグラスの背中からは、闇の羽根がゆっくりと消え失せていく。
すると、どこからともなく他の神々の気配が漂い、淡い光の人影が姿を示しかける。
クラウスはうっすら汗を浮かべ、「神々が顕現している……?」と動揺を押し隠せない。

「私たち、呼んだつもりはないけど」
レイナは目を細めながら、その人影たちを見つめる。
だが、その神々しさを放つ高位の存在たちは、レイナへ無言のまま一瞬だけ姿を向け、そして静かに頭を垂れた。
まるで“この力には逆らえない”とでも言わんばかりに。

神々が跪くように身を低くすると、レイナは思わず目を丸くする。
「え……ちょっと待ってよ。
私、別にこんなの望んでないんだけど」
セレナやクラウスも言葉を失っている。
フィロだけが子どものように面白がるような表情で、「やっぱり、レイナはすごいね」と感心していた。

ダグラスは悔しげに拳を握り、崩れかけた闇のオーラを必死に集めようとする。
だが、その闇はレイナを中心とした光の渦にかき消され、もはやどうにもならない。
「認められない。
こんな娘が、神々の頂点に立つなど……!」
それでも膝をつく姿勢から立ち上がれず、彼は唇を噛みしめた。

レイナは大きく息をつき、崩れかけた大広間を見渡す。
「ここまで来ちゃうと、私もどうしたらいいか分かんないよ。
ただ、あんたがやろうとしてた“世界の破壊と再構築”は遠慮したい。
ってわけで……負けを認めてよ」
神々と同じように、膝を折っているダグラスにそう告げると、彼は痛ましげな視線をレイナに向けた。
「……神の血を引く者か。
いずれ、その力も自らを滅ぼす呪いとなるだろう」
彼の言葉には微かに弱々しい闇が混じり、周囲を取り巻く空気がまた沈黙に包まれる。

セレナは剣を鞘に収め、足を踏み出す。
「ダグラス。
あなたの企みは潰えた。
これ以上は世界を巻き込む罪を犯さないで」
クラウスも結界を解きながら、レイナの背を見つめている。
「本当に……ここまでの力を見せつけられると、神々が膝をつくのも道理かもしれないね」

レイナは大きく伸びをしながら、「疲れたー」とだるそうに口を開く。
「もう面倒なことはたくさん。
私、こんなすごい力とか本当はいらなかったんだけど……」
そう言いつつも、彼女の周囲にはまだ薄い光が立ち上っている。
神々がなおも畏敬の念を向ける中、その光を自覚しているのかしていないのか、レイナは無邪気に唇をとがらせた。

ダグラスの闇は完全に消え、開こうとしていた門も崩壊し、夜空の裂け目が閉じていく。
城の天井には改修が必要な大穴が開いているものの、世界そのものの崩壊は阻止されたようだった。
フィロがひらりと宙を舞い、レイナの肩に軽く手を置く。
「おつかれ。
レイナの力、本当に面白いね。
またどこかで気が向いたら遊ぼうよ」
そう告げると、風や花びらとともにふわりと姿を消す。

セレナは傷だらけの床を踏みしめながら、静かにレイナの肩に触れる。
「よくやってくれた。
あなたのおかげで世界は救われたと言っても過言じゃない」
クラウスもうなずき、「神々にすら屈しない力……本当に存在したんだな」と感嘆を漏らす。

レイナはため息交じりに一歩踏み出す。
「もう自由にさせてくれないかなー。
世界救っちゃったなら、私のやることって終わりだよね。
スマホもないし、暇つぶしが少ないんだよ……」
彼女の言葉に、セレナとクラウスは思わず吹き出しそうになりながらも、安堵をにじませる。

周囲に集まっていた神々の気配は、先ほどまでの威厳を失い、レイナに礼を示すようにかすかに震える。
高位の存在と呼ばれながら、彼らは今この瞬間だけはレイナの前に完全に頭を垂れていた。
そして、やがて消えゆく光とともにそれぞれの領域へと戻っていく。

レイナは取り残されたように、その場にぽつんと立ち尽くしたまま、焦点の定まらない瞳で天井の穴を見上げている。
「あーあ……戻れないなら、せめて暇を潰す方法考えなきゃ。
私、戦いより平和なダラダラ生活が向いてるんだけどな」
そう不満をこぼしながらも、その横顔にはわずかな達成感が漂っている。

神々が跪き、ダグラスの闇が消え失せた大広間で、彼女の“神の血”は今も静かな輝きを放ち続けていた。

第10章 エピローグ――そして、もう一度

王城の廊下は、いつもより静かだった。
濃密な闇は消え、ダグラスの狂気じみた企みも潰えた今、人々の喧騒は落ち着きを取り戻しつつある。
その一方で、崩れた天井や砕けた壁の修復があちこちで進み、城内には作業の音だけが響いていた。

レイナは淡い陽の光が射す回廊の窓辺に立ち、ぼんやりと外の景色を見下ろす。
制服の第一ボタンは相変わらず開けっぱなしで、黒髪のロングヘアは少し乱れている。
けれど、そこに漂う空気は前とは違っていた。

「まさか本当に世界を救っちゃうとはね」
口の中で呟いてみるものの、実感は薄い。
手のひらを広げてみても、神殿の試練で見せたあのとんでもない力は、今は微塵も感じられない。
ただ、王城の人々が彼女を遠巻きに眺める視線には、以前とは違う敬意や畏怖の色が混じっていた。

「レイナ、ここにいたのね」
騎士団長セレナが、壁の向こうから声をかけながら歩み寄る。
白銀色の長髪をきっちり結い上げた姿は相変わらず凛としているが、今は鎧を外していて、どこか柔らかい雰囲気だ。
「そろそろ大広間に顔を出せない?
みんな、あなたと話したがってるわ」

レイナは肩をすくめた。
「話って言われても、私、やることやったでしょ。
もう面倒なのはゴメンなんだけど」
セレナは微笑み、彼女の視線の先を追うように窓の外を見やる。
「あなたがあの力を解放してくれたおかげで、ダグラスの闇も、門も閉じた。
世界が崩壊するところだったのが、今はこうして落ち着きを取り戻してる。
王国の人たちは、それを改めて伝えたいみたい。
それに……」

言いかけて、セレナは言葉を切る。
レイナが「それに?」と問い返すと、彼女は小さく息をつく。
「あなたがこの世界に残るのか、それとも元の世界に帰るのか、みんな気にしてるの。
国王も、あなたを引き留めたいらしくて」

「帰る……か」
レイナは自分の手の甲を見つめたまま、頭の中を巡る不思議な感覚を確かめるように瞼を閉じた。
ダグラスを倒したとき、神々が彼女にひざまずくように頭を垂れた光景が、まだ頭に残っている。
あの瞬間、神々の力すらも凌駕してしまったこの“神の血”なら、もしかすると元の世界に戻る方法を開くこともできるかもしれない。

「自由に動ける力があっても、真面目に練習とかする気はないんだけどね。
あーあ、どうしよっかな」
ボソリと口にすると、セレナが苦笑交じりに応える。
「私としては、あなたがここにいてくれたら心強いんだけど。
でも、それはあなた自身が決めることよ」

そこへメガネを光らせながら王宮魔導師クラウスが姿を見せる。
やけに分厚い書物を抱えていて、いかにも研究熱心な雰囲気だが、その顔にはどこか晴れやかな表情が浮かんでいる。
「レイナ、ちょうどよかった。
先ほど、神殿の残留結界を調べたんだ。
もしかすると、古代の転移術式――異世界との繋がりを示すものが見つかるかもしれないと思ってね」

レイナはクラウスの言葉に、ほんの少しだけ目を見開く。
「つまり……帰る手段があるかもしれないわけ?」
クラウスは「あくまで仮説にすぎないが」と念を押しつつも、ページを捲りながら嬉しそうに続ける。
「古代の文献には、“神の血を引く者が天界と地上を繋ぎ、さらなる世界へ門を開ける”という記述が散見されるんだ。
あなたの力が安定すれば、もう一度座標を探って元の世界へ転移する、というのも不可能ではないかもしれない」

レイナは「へえー」と気のない返事をしながらも、内心では少しだけ胸がざわついていた。
元の世界への未練がないわけじゃない。
SNSや動画配信を楽しみたいし、お菓子だって好き勝手に買いに行きたい。
けれど、こちらの世界で仲良くなった人たちを置いていくのも、わずかながら心にひっかかる部分がある。

セレナはそんな彼女の横顔をちらりと見ながら、小さく笑みをこぼす。
「悩むよね。
私もあなたが残ってくれたら心強いけど、自分の家に戻る選択も当然あると思う」
すると、遠くからフィロの甲高い声が聞こえてきた。
「レイナ、こっちこっち!
早くみんなの前に出てよ。
なんだか褒め称えたいらしいよー」

フィロは風に乗るようにホールを滑ってきて、相変わらず子供っぽい笑顔で手を振る。
レイナは呆れたように息をつきながら、セレナとクラウスを振り返る。
「みんなで大騒ぎされるの苦手なんだけど、フィロが呼ぶなら仕方ないか」
そう言うと、彼女は仕方なく大広間に向かう足を進めた。

そこでは、国王と貴族、諸国の代表が一同に揃って待ち構えていた。
ダグラスとの決戦を生き延びた騎士や兵士たちも、誇らしげに胸を張っている。
王が壇上で声を張り上げる。
「このたびの危機を救ったのは、朔間レイナ殿である。
その力は神々をも凌駕し、闇を打ち払った。
わがアルカディア王国は、その偉業に最大の敬意を表したい」

レイナはこういうフォーマルな場が苦手で、壇上に上がる気などさらさらないが、セレナに押し出されるように一歩前へ出る。
「えーっと……どうも。
私、別にすごいことしたって自覚はないんですけど」
そう言いかけると、王が厳かに頭を下げ、周囲の人々も一斉に礼を示した。
ちょっと重たい空気に、レイナは思わず目を泳がせるしかない。

フィロはその光景を見てケタケタ笑いながら、「レイナ、人気者になっちゃったね」と囁く。
クラウスは書物を抱えたまま、うれしそうに頷き、「やはり前例のない存在だ。
研究させてもらえるなら助かるんだが」と小声で付け加える。
セレナはそんな様子を見守りつつ、騎士の姿勢で会場の秩序を保っている。

レイナはなんとも言えない気持ちで、その場に立ち尽くす。
“帰るか、残るか”――それはまだ決めていない。
クラウスの研究が進めば、あるいは異世界との座標を探り当てるかもしれないし、フィロの精霊術が思わぬ道を開くかもしれない。
そのどちらにせよ、レイナの“神の血”という力が必要になりそうだ。

「ま、いつか戻れるなら、それはそれでいい。
でも、私は私で、当分ダラダラとこっちで過ごしてもいい気がするんだよね。
なんとかなる、でしょ」
内心でそう結論づけると、彼女の表情にはわずかな笑みが浮かんだ。

周囲の喝采に、レイナは苦笑しながら手を振ってみせる。
統一された礼服に袖を通すわけでもなく、いつも通りの制服姿のままで、それでも“世界を救った者”としてみんなに見つめられている。
もしこの先、古代の術式が解明されて本当に帰れる日が来るなら、そのときはどうするだろう。
彼女はまだ答えを出さないし、焦って決めるつもりもない。

「とりあえず、お腹すいた。
その辺のテーブルに並んでるご馳走、食べに行こうっと」
そうつぶやき、誤魔化すように足を運ぶと、フィロが「待って待って、一緒に行く」と後ろから追いかけてくる。
セレナやクラウスも、「まったく」「やれやれ」という顔を浮かべながら笑っていた。

神々が頭を垂れ、堕天神ダグラスが消え失せ、世界はどうにか崩壊を免れた。
この先、どんな新しいトラブルが待ち受けていようとも、レイナはきっと「なんとかなるでしょ」と言って軽く笑う。
その姿には、周囲の人たちを救った圧倒的な力とは裏腹の、飄々とした“現代JK”らしいマイペースさが滲んでいる。

そして今、彼女は城の大広間で、次の一口に手を伸ばしていた。
この世界をあとにするか、あるいは変わらずここで自由に生きていくか。
選択を迫られる日は、いつかやって来るのかもしれない。
それでもレイナは、小さく肩をすくめて果物をひとつかじるだけだ。
遠くから届く祝福の声に耳を傾けながら、もう少しだけ好き勝手に過ごしていたい。


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