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時計仕掛けの神は夢を見るか?――羽のない探偵と物語の殺人

第1章:「羽のない鳥のダンス」


すべてが始まったのは、ミルクの色が変わると同時に、壁に掛かった時計の針が後ずさりを始めた瞬間だった。それまで普通だと思っていた日常が、突然、穴だらけの仮面のように崩れ始めたのだ。誰かがこの世界の脚本を裏返したかのように、あらゆる論理が滑り落ち、残されたのは疑問符が詰まった空気だけだった。

目の前の窓の外では、三輪車に乗った老人が逆走するように見えたが、次の瞬間、彼の頭上に現れた巨大な魚がそれを飲み込んだ。いや、魚は実際には存在していなかったのかもしれない。わたしの脳のどこかが、それを「見たい」と命じただけなのだろう。


探偵という職業は、本来、秩序の側に立つものだ。だが、私は違った。私は混沌の中に身を置き、そこに宿る真実を探すことに慣れていた。今回の依頼は、その中でも特に奇妙だった。

依頼主は、顔のない男だった。いや、文字通り顔がないのではない。ただ、彼の顔を見ようとするたびに視界が歪み、気がつくとどこを見ても空白が広がっていたのだ。「劇場の殺人事件を調べてほしい」というその声は、耳で聞いたのではなく、直接、頭蓋骨に響いてきた。


その劇場は、街のはずれにある忘れ去られた建物だった。鉄製の扉には「立ち入り禁止」の看板が貼られていたが、その文字はまるで生きているかのように、視線を外すたびに形を変えていた。「立ち入り禁止」から「夢の終わりへようこそ」、さらに「お前は誰だ」という言葉にまで変化していた。

劇場の内部は、崩壊寸前の迷宮だった。赤いベルベットのカーテンは蜘蛛の巣のように裂け、床には無数の時計が散らばっていた。だがそれらの針はすべて、同じ瞬間を指して止まっていた――午前3時33分。


舞台に目を向けると、そこには一羽の鳥が吊るされていた。しかし、それは羽のない鳥だった。ゼンマイ仕掛けの機械がその胴体を形作り、冷たい金属の羽根が虚空に触れることもなく広がっていた。時計の針のような翼は、時間を刻む代わりに沈黙を拡散していた。

その鳥の足元には、一枚のメモが落ちていた。それは、新聞の切り抜きを貼り合わせたような文字でこう書かれていた。
「飛ぶものは、何もかも墜ちる運命にある。」

それは暗号のようでもあり、ただの無意味な言葉の羅列のようでもあった。この劇場で殺されたのは、本当に人間なのか?あるいは、この空間そのものが何かの犠牲者なのか?


舞台の上で静かに佇む鳥は、私にとって異物でありながら、どこか懐かしいものでもあった。子供の頃に見た夢の断片が、今になって現実に追いついてきたような感覚がした。

その沈黙は、ただの無音ではなかった。それは叫び声だった。否定された存在たちが吐き出す、不在の音。それに気づいた瞬間、私の背筋を冷たい刃物のような感覚が這い上がった。


わたしは深呼吸し、メモをポケットにしまった。そして鳥を見上げながら思った。
「これはただの始まりだ。」

劇場の奥から、誰かの拍手が聞こえた気がした。それは、嘲笑のリズムを刻んでいた。

第2章:「ダリの目玉は嘲笑う」


劇場の内部は、現実という名の鎖から解き放たれた空間だった。わたしが一歩足を踏み入れるたびに、床は液体のように波打ち、天井はまるで呼吸しているかのように上下していた。廊下を歩こうとすると、床の板が突然パズルのピースのように崩れ去り、足元から湧き上がった階段がわたしを別の場所へと導いた。

ドアがあれば開ける。ただし、ドアの向こうに続くのは「部屋」ではなく「空間」だった。それは場所ではなく概念であり、わたしが見ようとした瞬間に消え失せる蜃気楼だった。壁には無数の絵がかかっており、それらは一見無関係なカオスを描いていたが、じっと見つめると視線の隙間から囁く声が漏れ聞こえてくる。

「カラスたちは飛び立ったのか?」
「彼らが目指すのは、どこの終着点だ?」

ある絵では、無数のカラスが夜空を裂くように飛び立ち、別の絵ではそれを追う時計の針たちが嵐のように舞い踊っていた。針たちの動きは、一定のリズムに従っているようでありながら、どこか狂ったカデンツァを刻んでいる。やがて、その絵の中から飛び出した針の一本が、わたしの肩にかすめて刺さったかのように感じた。その瞬間、わたしの腕時計が砕け散り、部屋中に時間の破片が飛び散った。


「ここでは誰もが探偵だ。そして誰もが容疑者だ。」

その声に振り返ると、そこには男が立っていた。いや、「立っていた」というのは不正確だ。彼は地面から数センチ浮いており、まるで空気に吊られるようにゆらゆらと揺れていた。その姿は白塗りの仮面を思わせる顔に、鮮やかな赤いスーツ。だが最も奇妙だったのは、彼の目だった。片目は何も写さない真っ黒な空洞で、もう片方には小さな歯車が組み込まれ、絶え間なく回転していた。

「わたしの名はアンリ・グラス。だが、名前に意味はない。ここではすべてが仮初めの記号だ。探偵さん、あなたもそうだろう?」

彼はわたしの周囲をぐるりと回りながら、軽やかな口調で言葉を投げかける。その口調は戯れに満ちているが、その奥底には鋭い刃が隠されていた。


「鳥は羽ばたいたか?」

わたしが答える間もなく、彼はさらに続ける。

「この劇場は、誰の夢だと思う? あなたの夢か、私の夢か? それとも、この場にいるすべてのものが、他人の夢に寄生しているだけなのか?」

彼は突然、大きな身振りで腕を広げ、劇場の天井を指差した。そこには無数の目玉が吊り下がっており、それぞれが違う方向を凝視していた。その中の一つがわたしを見つめ、瞬きをしたように見えた。

「時計が止まるとき、何が始まると思う?」

わたしが答えられずにいると、彼はふいに笑い出した。その笑い声は空間を切り裂き、音の断片となって舞台の奥へと消えていった。


彼の存在自体が謎だった。問いかけられるたびに、わたしの頭の中に渦巻く疑問は、解答どころかさらなる疑問を生み出していく。彼の言葉は論理の糸を切り裂き、ただの断片と化した思考をばら撒いていく。

「さあ、探偵さん、次のドアを開けてごらん。その先には……」

彼は言いかけて、急に静かになった。次にわたしが気づいたとき、彼の姿はすでに消えていた。ただ、彼がいた場所には赤い薔薇が一輪落ちていた。その花びらには文字が刻まれていた。

「真実は、目で見るものではなく、耳で聞くものだ。」


言葉を手がかりに次の扉を開けると、そこにはさらに狂った光景が待ち構えていた――歪んだピアノが奏でる無音のメロディ、回転する柱が描き出す抽象的な影、そして天井から吊り下げられた無数のゼンマイ仕掛けの時計。それらはすべて、わたしを見つめているようだった。

その瞬間、わたしは気づいた。ここでは探偵であることは意味をなさない。ただひたすら、問いに問いを重ね、迷路を歩き続けることが唯一の行動原理だということを。

わたしは歩き出した。この迷宮の底に何が待つのか、それを知るために。

第3章:「仮面の裏にある宇宙」


劇場の迷宮を進むにつれ、わたしが手にする「証拠」は、何かを解き明かすどころか、新たな疑念を生み出していた。それらは一つ一つが破片であり、どの破片をどう組み合わせても全体像は浮かび上がらない。

最初に見つけたのは、壊れた砂時計だった。中の砂は通常の粒子ではなく、小さな目玉のようなものが詰まっており、わたしをじっと見つめていた。その目玉は、一つ一つが異なる時間を映しているようだった。ある目は過去、ある目は未来、そして多くの目は不在の現在を写していた。砂時計を振ると、目玉がざわざわと話し始めた。

「時間は線ではない。網だ。」

次に見つけたのは、逆さまの脚立だった。それはただそこに立っているだけでなく、まるで意志を持っているかのように、わたしを誘うように揺れていた。脚立の各段には文字が彫られており、それを順に読むとこうなっていた。

「上へ登れ。だが、到達するのは下だ。」

脚立の頂上に手を触れると、それが急に崩れ落ち、破片となって消えた。そのとき、わたしの手のひらに奇妙な痕跡が残った。それは数字でも言葉でもなく、単なる形状――歪んだ円だった。


そして最後に、「神」と書かれたマスクを発見した。それは舞台の中央、ゼンマイ仕掛けの鳥の真下に転がっていた。マスクには微かな光沢があり、触れると冷たかった。裏返してみると、中には無数の小さな文字が刻まれていた。それらは詩のようなもので、一部を読むとこう書かれていた。

「神は鏡である。その裏側には空虚がある。」

マスクを持ち上げると、耳元でかすかな囁き声が聞こえた。それは男性の声であり、同時に女性の声でもあった。言葉ははっきりしなかったが、その意味はわたしの脳内に直接刻み込まれるようだった。

「神を被れ。神を剥げ。」

その瞬間、わたしはマスクを投げ捨てた。だが、振り返るとそれは消えており、代わりに自分の顔に新たな痕跡が残されていることに気づいた。それは手のひらに現れた痕跡と同じ形状の歪んだ円だった。


劇場の地下に降りる階段を見つけたとき、わたしは無意識のうちにその道を選んでいた。階段は一段一段が異なる素材でできており、ある段は鉄、次の段はガラス、そしてその次は影そのものだった。わたしの靴底が影の段を踏むたびに、微かな悲鳴が響いた。

地下に到着すると、そこには巨大な機械仕掛けの心臓が待ち構えていた。それは赤黒い光を放ちながら、奇妙なリズムで鼓動していた。その鼓動はまるで、何かを伝えようとしているようだった――問いかけか、挑発か、それともただの嘲笑か。

その心臓を取り囲むように、12体のマネキンが円を描いて座っていた。彼らは人間の形をしているが、どこか歪んでいた。それぞれの顔は笑顔を浮かべているが、その笑顔には寒気を覚えた。マネキンたちは動かない。ただし、その視線だけはわたしに集中していた。


突然、そのうちの一体が動き出した。その動きはぎこちなく、まるで長い間忘れられていた人形に命が戻ったかのようだった。そのマネキンは顔を上げ、空虚な瞳でわたしを見つめながらこう語った。

「答えはいつも目の前にある。だが、それを見ようとする眼は、すでに閉じられている。」

その声は低く、穏やかでありながら、すべてを見透かすような冷たい響きがあった。彼の言葉が終わると同時に、心臓の鼓動が一瞬だけ止まり、劇場全体が深い沈黙に包まれた。


その瞬間、わたしの脳裏にある映像が鮮明に浮かび上がった。それは「答え」を探し求める自分自身の姿だった。しかし、そこに映るわたしの眼は閉じられていた。いや、閉じられていたのではない。それはただの空洞――見るための眼ではなく、見ることを拒否した存在だったのだ。


マネキンたちは再び静止し、心臓の鼓動が再開した。わたしはその場を立ち去るしかなかった。劇場の奥へと続くさらに深い闇の中で、答えが待っているのか、それともさらなる疑問だけが広がっているのかは、まだわからないままだった。

第4章:「虚無への扉」


劇場は徐々にその輪郭を失い始めていた。壁は液体のように波打ち、天井は深淵そのものと化していた。現実が剥がれ落ち、記憶が意味をなくしていく感覚の中で、わたしはただ進むしかなかった。足元では床が崩れ、その隙間から覗くのは虚無の海。無数の手がそこから伸び、わたしの足を掴もうと蠢いていた。

時間の感覚も失われつつあった。時計の針は空間を飛び回り、壁にぶつかるたびに火花を散らしては消えた。秒針が軌跡を描くその線は、言葉にならない文字列を浮かび上がらせた。

「これは終わりではない。始まりの嘲笑だ。」


劇場の中心に向かうにつれ、天井が崩れ落ちてきた。だが、降り注ぐのは瓦礫ではなく、無数の文字だった。それらは紙やインクではなく、形を持った概念そのものだった。「愛」「憎しみ」「死」「生」「虚無」――それらは踊りながら空間を埋め尽くし、やがて一つの巨大な渦を作り出した。渦の中心では、あのゼンマイ仕掛けの鳥が羽ばたきのない翼を広げ、機械音の叫びを響かせていた。

鳥の下には、またしてもマスクが落ちていた。今回は「殺人者」と書かれている。それを拾い上げた瞬間、劇場全体が急速に回転し始め、わたしは目の前に現れた一枚の鏡に吸い込まれるように引き寄せられた。


鏡の中には、「わたし」がいた。しかし、それは探偵としての「わたし」ではなかった。顔立ちは同じだが、目は異常に鋭く光を宿しており、その唇には薄い笑みが浮かんでいた。その「わたし」はじっとこちらを見つめながら、低く囁いた。

「結末はない。この物語はあなた自身だ。」

その声は冷たく、同時に重々しい響きを持っていた。鏡の中の「わたし」は指をゆっくりと上げると、ゼンマイ仕掛けの鳥を指差した。


わたしは鏡越しにその指差す先を見つめた。そして気づいた――殺人事件など、初めから存在していなかったのだ。舞台に吊るされた鳥、それこそが真の「犠牲者」だった。そして、鳥を殺したのは誰でもない。劇場そのもの、いや、劇場を支配するこの歪んだ「物語」そのものが、鳥を殺した犯人だったのだ。

鏡の中の「わたし」が再び語りかける。

「物語は、自らを維持するために犠牲を求める。あなたが探していた『殺人』とは、物語そのものが自らを殺し、再生するための儀式だったのだ。」


その言葉が終わると同時に、劇場が完全に崩壊を始めた。床が剥がれ、壁が溶け、わたしの周囲には無限の空間が広がった。鏡の中の「わたし」はもういない。ただ、ゼンマイ仕掛けの鳥がわずかな光を放ちながら、最後の言葉を発した。

「真実は死んだ。物語は生きている。」

その瞬間、わたしはすべてを理解した。この事件には犯人も被害者も存在しない。それはただ、虚無が形を取り、意味を持とうとした一つの試みでしかなかった。


劇場の残骸から外に出たとき、わたしの手にはまだ「殺人者」と書かれたマスクが残されていた。だが、もはやそれを追及する気力はなかった。わたしが解決したのは殺人事件ではなく、この劇場が抱えていた存在そのものの矛盾だったのだ。

歩き出すと、背後で小さな笑い声が聞こえた気がした。それはアンリ・グラスのものだったかもしれないし、あるいはこの物語そのものの嘲笑だったのかもしれない。

だが、わたしは振り返らなかった。

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