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学級委員回避大作戦

第1章:フナムシへの偏愛

 香坂千早は、朝の光が差し込む自分の部屋でそっと息をつめながら、机の上の水槽をのぞき込んでいた。小さな砂利と流木の下をせわしなく動き回るフナムシの姿に、思わずにやりと微笑む。
「やっぱり昨日より活発に動いてる。気温のせいかな」
 千早はそうつぶやいてから、小さなノートを開いて細かい字で記録をとる。両親の仕事の関係で家には実験道具がそろっているため、彼が好奇心のおもむくままにこうして観察を続けられるのだ。

 毎朝の日課を終えると、千早は制服の襟を軽く直して玄関を出る。学校までの道を歩くあいだも、新しい観察のアイデアが頭のなかをぐるぐる回っていた。前に読んだ本によれば、フナムシの行動はとてもデリケートで、光や温度の変化に敏感らしい。もっと条件を変えた実験をしてみたいのだが、時間や環境の準備などを考えると、計画は慎重に進めなくてはならない。

 どんなテーマでも次から次へと思いついてしまうのが、千早の頭脳の特徴だ。小学五年生とは思えないほど知識が豊富で、学校のテストではいつも満点。先生ですら驚くほどの理解力を持つため、クラスメイトからは「天才」と呼ばれることも多い。千早自身はその呼び名を大して気にしていないが、「頭がいいやつ」として扱われるのは少し息苦しいと感じることもある。

 教室に入ると、すでに何人かが席についておしゃべりをしていた。古田航が入口近くの机に腰かけ、ほかの男子と笑い合っている。
「おっ、千早。今日も早いな」
 古田は声も体格も大きく、スポーツが得意なクラスの盛り上げ役だ。千早が軽くうなずいて「おはよう」と返すと、古田はにこっと笑った。
「昨日の算数の問題、結局わかんなかったよ。おまえ、あれ全部解けたんだろ? ほんとすげーよな」
「そんなに難しくはなかったよ。先生が言ってた公式をそのまま使えば解ける問題だったし」
「いやいや、そんな簡単に言われてもさ。千早くらい頭が回るやつじゃないと無理だって」
 古田が大げさに手を挙げて笑うのを見て、周りにいたクラスメイトもくすくす笑った。千早は少し恥ずかしそうに席につきながら、窓際の辻井夕奈にちらりと目をやる。夕奈は静かに本を読んでいたが、千早と目が合うとわずかに微笑み、また目線を文字の上に戻した。

 チャイムが鳴ると同時に、尾崎先生が教室に入ってくる。いつも落ち着いた雰囲気の先生だが、今日はどこかうれしそうな表情を浮かべていた。
「皆さん、おはようございます。席についてください。えー、実は来週から新しい学期の準備に入るということで、学級委員選挙を行いたいと思います」
 教室がにわかにざわついた。毎年この時期に行われる“学級委員選挙”は、クラスの行事の中でもちょっとした盛り上がりを見せるイベントだ。
「先生、それって男女一人ずつの学級委員を決めるやつですよね? 候補ってどうやって選ぶんですか?」
 誰かが手を挙げて尋ねると、先生は「基本的には立候補や推薦で」と答えて続ける。
「ただ、クラスの意欲や意見をまとめる立場になるので、責任感のある人が向いていると思います。これから数日中にみんなが話し合って候補を選び、来週に投票を行います。いいですね」

 先生の言葉を聞いた瞬間、教室の数名が同時に千早のほうを振り返った。中でも古田は「これはもう千早しかいないだろ」と大声で笑い、ほかの生徒も「そうだよ、千早なら安心」「あの難しいテストで常にトップだし」と口々にささやく。千早は心のなかで苦い笑みを浮かべた。自分が目立つのは嫌いではないが、学級委員という立場にはあまり関わりたくないと思っている。もし選ばれてしまえば、時間も自由も削られるのは目に見えている。なにより、フナムシの観察を継続する計画が大幅に狂ってしまうかもしれない。
「そうだ、千早が委員長になったら先生も絶対助かるだろうな」
 楽しそうに話すクラスメイトに混じって、夕奈だけはどこか静かに千早を見つめている。まるで何かを推し量るかのような、落ち着いた視線だった。

 尾崎先生は「では、選挙の詳細はまた明日配るプリントに書いておくので、よく読んでおいてくださいね」と締めくくると、黒板に今日の予定を書き始めた。クラスメイトたちは再びがやがやとした空気に包まれる。千早はほっと溜息をつきながらも、どこか落ち着かない感覚を覚えていた。

 もし自分が学級委員長になってしまったら、大事なフナムシの観察はどうなるのか。いや、それ以前にクラスの皆が「千早しかいない」と言い切る流れは、このままだと変えられそうにない。尾崎先生もまるで千早が当選するのを楽しみにしているかのようだった。
 千早は教室のざわめきの中で一人黙り込みながら、机の上のノートの端にふと意味もなくペンを走らせる。そこに生まれる走り書きは、いつもの観察記録とは違う、妙に乱れた線だった。
 ――このままじゃ、なんだか面倒なことになりそうだ。

 しかし、千早はまだ知らない。これから彼が迎える学級委員選挙は、たとえ天才的な頭脳をもってしても予測不能の展開をはらんでいることを。しかも、そのささやかな予感をすぐそばで感じ取っている人物がいることを、千早はまだ気づいていない。

第2章:避けたい役職

 次の日の昼休み、千早は教室の端で考えにふけっていた。昨日の学級委員選挙の話が広まってから、クラスメイトの数人に「推薦するからな!」と声をかけられ、本人の望みとは裏腹に“千早=クラスをまとめるリーダー”という空気ができあがりつつある。
「どうしてみんな、あんなに学級委員になりたがるんだろう……」
 千早は窓の外を見ながら、ぽつりとつぶやく。学級委員は行事の準備や先生との連絡、クラスの意見まとめなど、やることが山ほどある。実験に打ち込みたい彼としてはまったく気が進まない役職だ。それなのに周りはどこか楽しそうに、“次の学級委員は誰か”という話題を面白がっている。実際、目立ちたいとかリーダーに憧れるとか、そんな純粋な気持ちを抱くクラスメイトも少なくないらしい。

 そんな考え事に浸っていると、ひそやかな足音が千早のそばで止まる。見ると、窓際で本を読んでいた辻井夕奈が、ためらいがちに立っていた。
「香坂くん、学級委員には……なりたくないの?」
 彼女は相変わらず静かな口調だが、その眼差しにはなにか探るような光が宿っている。千早は一瞬どきりとする。なぜなら、彼が心の中で隠そうとしていた“面倒だから避けたい”という本音を、正面から突きつけられたように感じたからだ。
「いや……別に、そんなことは……」
 千早は言葉を曖昧ににごして逃げるように微笑む。夕奈はそれ以上は追及せず、「そう」とだけつぶやくと、すぐに目線を自分の本へ戻した。しかし、その静かな横顔には、小さな疑問符が浮かんでいるようにも見える。

 放課後、千早はいつものように急いで帰宅し、部屋の観察装置をのぞき込む。フナムシの姿に思わず顔がほころびるが、同時にやはり気持ちが落ち着かない。もし学級委員になれば、こうしてフナムシの行動をじっくり観察する時間は確実に減ってしまうだろう。
 彼は小さな机についてノートを開く。そこには、昆虫や魚の観察記録がびっしりと書かれているのだが、今日は別のページを開いてペンを走らせる。

「学級委員から外れるための策」
 そう書き込んだ見出しの下に、千早は次々とアイデアを列挙していく。小学生離れした彼の思考は、すぐに複数のシナリオを組み立て始める。

――一、クラスメイトの性格分析
 古田航はリーダーシップ欲が強い。本人もまんざらではない様子だから、彼をうまく“推す”ような方向に誘導できれば、票が古田に集まるかもしれない。学級委員の仕事には体力勝負の場面もあるし、古田には向いている面が多い。
 辻井夕奈は学力は高いが、表に立つのがあまり好きではない印象。すぐには立候補しそうにない。
 陽気な女子数名は、おそらく協調性を重視するタイプだから、“みんなの賛成が得られる人”を求める傾向がある。

――二、評判を落とさないためには
 故意に失敗したり、勉強ができないふりをするのは逆効果だと千早は考えた。突然成績が下がったり、わざと不真面目な行動をとれば、先生やクラスメイトから不審がられてしまう。下手をすれば先生の信頼を失うし、周りをがっかりさせるかもしれない。そこだけは避けたい。

――三、自然に“他の候補”を盛り上げる方針
 いちばん簡単なのは「自分より適任な人を思わず応援したくなるような雰囲気を作る」ことだ。そのためには、誰と誰が仲が良く、どんな人を応援しがちかというグループの特色を調べる必要がある。クラスメイトの交友関係を細かくリストアップし、どのタイミングで、どんな言葉を投げかければ「やっぱりあの人がいいよね」という流れが自然にできあがるかを考える。

――四、先生の動向にも注意
 担任の尾崎先生は“千早が学級委員になってくれる”と期待しているように見える。もし先生が強く押してきたら、クラスメイトが遠慮して千早を当選させようとするかもしれない。そのため、先生の目の前では「やってみますかね」と前向きなそぶりを見せつつ、別の場では“もっと気合のある子に任せた方が、先生も助かるんじゃないか”といった遠回しな言葉を広める。

 千早はノートにびっしり書いたメモを改めて読み返しながら、細かいスケジュールやクラス内の役割分担を想像する。例えば、来週の係決めの時間にさりげなく古田に発言させ、さらに数人の仲間が「古田くんが率先して動いてくれるなら助かるよ!」と後押しするよう仕向ける。学級委員の話題がそこに重なると、自然に「古田くんこそ適任だよね」という空気が高まるはずだ。
 あくまで“周囲がそう思い込むように仕向ける”のが鍵だと千早は考える。自分が直接「古田がいいよ」と口にするだけでは不十分で、クラスの意見を自発的に変えなくてはならない。まるでフナムシの環境をじわじわといじって行動を変化させるように、クラスメイトたちの心理的な流れを調整しようというわけだ。

 最後に千早は、ページの下の隅に小さな丸をいくつも描き込んだ。これは頭の中の地図を視覚化する彼なりの工夫で、一つひとつの丸にはクラスメイトの名前や特徴が簡単に書かれている。線で結ばれた部分は仲のいいグループやよく話すメンバー、三角形のマークは先生や委員会の繋がりを表している。

千早のノート:学級委員回避作戦

  • 【前提:目標と姿勢】

    • できる限り“自然なかたち”で学級委員の候補から外れる。

    • 成績を落としたり、わざと不真面目に振る舞って評判を下げるのはNG。

      • 信頼を損なえば教師やクラスメイトとの関係が悪化する可能性大。

    • 周囲には「千早なら大丈夫」「千早がやるべき」という固定イメージがあるため、それを直接否定しない。

      • あからさまに断ると逆に注目が集まり、話題が長引く恐れあり。

  • 【分析1:主要クラスメイトと性格・嗜好】

    • 古田航

      • リーダーシップが強いタイプ。スポーツ万能で行動力もある。

      • 自分が先頭に立つ状況にやる気を感じやすい。

      • 一度「みんなから期待されている」と思えば自分から積極的に動きそう。

    • 辻井夕奈

      • 学力は高いが、注目を浴びるのが好きではない。

      • いつも静かに本を読んでいる。

      • 千早の「学級委員になりたくない」気持ちに勘づいていそう。

    • グループA(明るい女子数名)

      • “みんなでわいわい”が好き。協調性や人当たりの良さを評価する傾向。

      • 学級委員の仕事に対して「イベントを盛り上げたい」「楽しいクラスにしたい」と考える。

      • 息の合う友人が誰で、誰の提案なら乗りやすいかを把握しておきたい。

    • グループB(男子スポーツ派)

      • 古田に共感しやすい。クラス行事で仲間と一緒に盛り上がるのが好き。

      • 「頼れるヤツに投票する」という思考を持つ。意外と単純に「おもしろい」と思う人物を支持しがち。

    • グループC(静かな子・中間派)

      • 明確な意見を持つ人が少ないため、流れに乗せられやすい。

      • 「みんなが推すなら自分も投票する」という傾向が強い。

      • 先生や周囲からの空気によって意見を変えやすい。

  • 【分析2:担任の尾崎先生の傾向】

    • 千早の“高い学力と責任感”を信頼している。

    • どちらかといえば、千早が学級委員になることを望んでいる雰囲気が強い。

    • 強くプッシュされるとクラスメイトが遠慮してしまい、結果的に千早に票が集まる恐れあり。

    • 先生の前では「興味がない」と見せすぎない。むしろ一見前向きそうに振る舞ったほうが、裏で「他の人が本気でやりたいなら、先生もその方がうれしいのでは?」という会話をクラスに広めやすい。

  • 【方針1:他の候補を自然に盛り上げる】

    • 古田推しの流れを作る

      • 休み時間や係決めのときに「古田がリーダーになると楽しそう」という話題をさりげなく振る。

      • 古田が立候補しやすい状況(例:係決めや学習発表会の打ち合わせ)で「古田の意見が頼りになる」と持ち上げる。

      • グループBの男子を中心に、「古田が先頭に立つとクラスがまとまりそう」な空気を醸成する。

    • 支持を広げるコツ

      • グループAの女子には「古田なら、みんなが楽しめるようにしてくれそう」と話をふる。

      • グループCの中間派には「実際、古田がやってくれれば何かと安心だよね」と“無難・安定感”を強調する。

      • 発言回数が多いクラスメイトに「こういう人がクラスを仕切ると、先生も助かるよね?」などと問いかけることで、周囲を巻き込みやすくする。

  • 【方針2:自分の評判は落とさない】

    • 成績・態度は従来どおり

      • わざと間違えるなど不自然な行動は厳禁。

      • 宿題もきちんと提出し、テストの点数も従来通り。

      • むしろ普段以上に協力的な姿勢を見せることで「千早が学級委員にならなくても、クラスのためには動く人」という印象づけをする。

    • クラス行事では一歩引いた立ち回り

      • 意見を言うのは早めに切り上げ、最終的なまとめ役は古田や他のクラスメイトに譲る。

      • 「ここぞ」という場面では手伝いつつも、リーダーシップをアピールしすぎない。

      • 先生に話を振られたら「もちろん協力しますよ」と前向きに答え、しかし「細かい段取りはみんなで決めたほうがいいですね」と結論を曖昧にして“委員長格”を古田へ回す。

  • 【方針3:先生への対策】

    • 先生からの推薦を避ける

      • 先生に「私ならできますよ」と言うときは、あえて“保留”の響きを含ませる。

      • 「古田くんも積極的だし、僕がやるよりみんなが一致団結できそうなんですよね」と雰囲気を伝える。

      • 先生の前では、学級委員そのものに否定的な発言はしない(否定しすぎると逆に説得が始まる可能性)。

    • 先生に察知されないよう、裏工作はオープンにしない

      • あくまでクラスメイト同士の会話や雑談の中で、古田の良さを強調する。

      • 先生が聞き耳を立てていそうなときは「千早もやれそうだけど、古田くんもいいよね」というバランスを見せる。

  • 【追加検討:他の立候補者や予想外の人物への対処】

    • 古田以外の人物が積極的に手を挙げても、対立候補が増えれば票が割れてかえって好都合。

    • ただし、辻井夕奈のように裏で支持を集める可能性がある人に注意。

      • 表に立ちたくない性格が表向きだが、クラス内で密かに好感度が高いタイプの場合、予想外に票が集まるリスクも考慮。

      • 夕奈に関しては、学級委員自体を敬遠しているように見えるので、いまは深追いしなくていいかもしれないが、“真意”を探っておく必要あり。

  • 【スケジュール(例)】

    • 翌週月曜日・係決めの時間

      • クラスの前に出て「係を決めるとき、古田がいてくれると助かるよね?」という話題を先に出す。

      • 自分がリーダーシップを取るのではなく、あくまで“振る”だけに留める。

    • 火曜日・休み時間

      • グループB(男子スポーツ派)に「やっぱり古田って頼れるよな」と話して、そろって盛り上げる。

      • 同じタイミングでグループA(女子数名)に「古田が仕切るとイベント楽しそうだね」と軽いノリで宣伝。

    • 水曜日・帰りの会

      • 先生が学級委員選挙の話をした際には、「皆が希望するなら、僕も手伝うけど……」と控えめに言う。

      • そのうえで「古田くんもやる気あるよね?」と話を振り、古田本人にPRさせる。

  • 【結論:あくまでクラス全員が“自発的に古田推し”になる状況を作る】

    • 自分(千早)は人望や頭脳を“わざと下げる”のではなく、むしろ自然な流れの中で最終的に「古田が最高!」という結論をクラスが導き出すよう、環境を整える。

    • このシナリオどおりにいけば、最終的に古田への票が多数となり、千早の学級委員当選は回避できる見込み。

  • 気をつけるべきは辻井夕奈や先生の動向。何か意外な要素があれば、またプランを修正していく必要がある。

「これだけ検討すれば、まずは大丈夫……かな」
 そうつぶやいてから、千早は再びフナムシの水槽に目を向けた。小さな生き物の姿を見ると、不思議と心が落ち着く。彼らはただ生きるために動き回っているだけ。でも、その小さな行動から“法則性”や“個体差”を見出すのがおもしろい。千早にとって実験や観察は、日常の中で最もわくわくする時間だ。
 もし学級委員になったら、この観察時間がどれだけ削られるのかを思うと気が重い。できれば、絶対に避けたい。

 明日から本格的に動き出す作戦メモを閉じながら、千早は一度大きく息を吐いた。彼の頭の中では、すでに複数のシミュレーションが進んでいる。どこかに小さな誤算が生じる可能性もあるけれど、それでもいまは“成功の確信”が強かった。ふと窓の外を見ると、夕闇に染まりつつある空が広がっている。
 それはまるで、なにかの幕開けを静かに告げる夕暮れの色のようで、千早の胸にわずかな高揚感と小さな不安を同時に運んできた。彼はその気配に気づかないふりをしながら、さっと明かりをつけ、もう一度ノートを開いてさらなる計画の微調整に取りかかった。

第3章:千早の策略

 朝の会が終わると同時に、千早はノートをそっと閉じて深呼吸をした。あのメモにびっしり書いた計画を、いよいよ本格的に動かすときがやってきたのだ。教室では数人のクラスメイトが立ち上がって、せっせと花瓶の水替えや黒板の掃除を始めている。そこへ、古田が「よし、任せろ」とばかりに手を挙げる声が聞こえた。

「古田、ありがとう。助かるよ」

 千早はできるだけ自然な調子で声をかける。すると古田はにこっと笑い、ぞうきんを手に黒板の前へと進んだ。ほかの男子がひそひそと「古田ってやっぱり頼れるよな」と言い合うのを見て、千早は心の中で小さくうなずく。自分があらためて煽らなくても、古田が動いてくれるだけで彼の評価はじわじわと上がっていくはずだ。

「香坂くんって、いつもあんなふうにさりげなく人を褒めるよね」

 隣の席でノートをしまっていた女子が感心したように言う。千早は軽く笑い返しただけで何も答えない。真意は「古田をヒーローに見せる」ことにあるが、もちろんそんなことを口にするはずもない。あくまで自然に、かつ周囲が“自主的に”そう思うように誘導するのが今回の作戦だ。昨日ノートに書き込んだとおり、まずはリーダーシップが好きな古田を前面に押し出す。自分が率先して動きそうな場面でも、古田が動けるようフォローする。結果として、クラスに「古田がいれば大丈夫」と思わせる空気をつくるのだ。

 千早は昼休み、わざと大きめな声で古田に話しかける。「ねえ、今度の学級委員の仕事、行事の準備とかも多いって聞いたんだけど、意外と体力勝負だよね。古田なら体育もできるし、絶対向いてると思うんだけどな」。彼の言葉に、周りにいた男子が「そうそう、古田なら安心」「行事中に走り回ってくれそうだし」と口々に賛同する。古田自身もうれしそうな顔で、「ま、やるとなったら全力でがんばるけどな」と笑った。千早は心の中で手応えを感じる。一見さりげない会話にも、実は周囲を巻き込むための緻密な狙いがあるのだ。

 ところが、これで終わりではない。まだ「先生の目」をどうかわすかという大きな壁が残っている。担任の尾崎先生は、千早が高い学力を持つことをよく知っているからこそ、あからさまに「千早を推したい」という雰囲気をまとっている。昼休みが終わる直前、先生が職員室から戻ってきたところを見計らい、千早は急いで近づいた。

「先生、さっき学級委員選挙の話を聞いたんですけど……もし僕が立候補したほうがよければ、やってみようかなって思ってるんです。もちろん、僕だけじゃなくて候補はいろいろいると思いますけど……どうでしょう?」

 表情は控えめに、しかし言葉尻は前向きに。まるで「自分はそこまで積極的ではないけれど、先生が望むならば検討しますよ」という絶妙なニュアンスを醸し出す。先生は目を輝かせながら、「そうか、やる気があるのはうれしいな」と言いかけたが、千早はさりげなく続ける。「でも古田くんもかなり頼りになるし、みんなからも評判いいんですよね。彼みたいなタイプは行事やイベントで力を発揮すると思うし……先生も助かるんじゃないでしょうか」。それを聞いて、尾崎先生は少し考え込むようにうなずいた。

「古田もいいかもしれないな。確かに、イベントのときに動き回れるのは大きい。とはいえ、千早が立候補するなら大歓迎だが……」

 千早はまるで迷うような顔を見せながら、「もちろん僕も視野には入れてるんですけど……何より先生の希望を大事にしたいので」と煽りすぎない程度に微笑む。そして最後は少しあいまいに言葉を濁して、話を終わらせる。言葉の節々で「僕がやりたいわけじゃない」という匂わせを残し、かつ先生にも「候補は千早だけじゃない」と意識させる。これ以上突っ込まれないよう、バランスをとって会話を切り上げるのがコツだ。

 放課後になり、千早は帰り支度をしながら周囲の様子をうかがった。ここ数日で“古田なら学級委員に向いている”という声が確実に広まりつつある。思惑どおり、といっていいだろう。クラブ活動のときには古田が自主的に器具の準備をしていたし、グループAの女子たちも「やっぱり古田は気配り上手だよね」と話している。何もかも、千早が布石を打ってきたのだ。

 しかし、そんななかでも辻井夕奈だけは静かな表情を崩さない。休み時間にちらりと目が合えば、夕奈はわずかに首をかしげるようにして千早を見つめるのだ。まるで「あなた、何か企んでいるんでしょう?」と言わんばかりの瞳をしている。千早はごまかすように「あ、なに? いや、なんでもないよ」と笑ってみせるが、夕奈の疑いは晴れそうにない。

 彼女は何を思っているのか。それは千早にもわからない。ただ、その眼差しには奇妙な鋭さがあり、じっと静かに彼の行動を追っているように感じる。周りのクラスメイトは誰も気づかない“策略”を見抜くかのように、夕奈はまるで観察者のような立場に立っていた。

 ちょうどそのとき、教室の入り口から古田が「千早、帰ろうぜ!」と手を振る声が聞こえた。千早は夕奈に軽く会釈し、鞄を肩にかけて古田のほうへ向かう。計画は順調だ。あとはこのまま“自然に”流れが固まっていけばいい。千早は内心でそう確信しながら、扉の外へと足を踏み出した。

 しかし、何かがこのままでは終わらない気配がしている。夕奈がじっと見つめていた目線、そして担任の尾崎先生が最後に浮かべた複雑そうな表情。まるで、小さな歪みがどこかに潜んでいるように思えてならなかった。千早はほんのわずかな違和感を抱えたまま、古田と並んで廊下を歩き始める。複雑な思考回路のどこかで、次の一手をすでにシミュレーションする自分がいることを、彼は自覚していた。

第4章:波乱の選挙戦

 週が明けてからの教室は、どこか浮き立った雰囲気に包まれていた。毎朝のように「学級委員、誰がなるんだろうね」という話題が聞こえてくる。そんな中、古田は爽やかな笑顔を振りまきながら、「やっぱり俺、やってみようかな」と声を上げていた。すると、クラスの数名も「私も副委員とかならやってみたい」「じゃあ、オレも立候補していい?」と次々に発言し始め、あれよあれよという間に立候補者が増えていく。
 千早はその様子を横目に見ながら、いたって平然と机に向かっていた。周囲には「あれだけ成績がいいのに立候補しないんだね」という声もあったが、彼の耳には心地よく聞こえている。まさに“評判を落とさずに、しかし自分は立候補しない”という目論見通りの展開だ。いつの間にか「千早くんももちろん優秀だけど、本人はやりたくないのかも」「なら、古田くんでいいんじゃない?」という意見が当たり前のようにクラスに浸透している。

 昼休み、千早が廊下で飲み物を買って戻ってくると、数人の女子が「古田くん、イベントの準備とか得意だしね」「体も丈夫そうだから、行事の時にいろいろしてくれそう」とはしゃぎながら話していた。その中心には楽しげに笑っている古田の姿。彼は「いやまあ、せっかくならやりたいよな!」と自信満々に言い切る。そして脇にいた男子が「あれ、千早はやっぱり出ないの?」と何気なく尋ねると、古田が先回りして答えた。
「千早ならやれるけど、たぶんやりたいことほかにもあるだろ。俺が代わりに、って感じじゃね?」
 その言葉を聞いた女子たちが「確かに、千早くんがどう思ってるのか知らないけど、本人の希望を尊重してあげたいよね」と口をそろえる。千早は教室のドア付近で立ち止まって会話に耳を傾けながら、思わず笑みをかみ殺した。自分の姿はまだ見えていないらしい。ここまで作り上げた空気が、完璧に作用していると感じたのだ。

 翌日、学級委員選挙の開票日がいよいよ数日後に迫るというタイミングで、先生は改めて立候補者を確認した。紙に書かれた名前には古田をはじめ数名が並び、黒板に張り出されたところで、ほとんどのクラスメイトの視線は古田の名に集まっている。千早に対しては「推薦はある?」と先生が尋ねるが、「僕は、とりあえずもう少し様子を見ようと思います」とあいまいに返事をしておしまい。尾崎先生も深く突っ込まず、ただ少しだけ眉をひそめて黒板を眺めた。

 昼休み、千早が教室の片隅でノートを開いていると、静かな足取りで辻井夕奈が近づいてくる。彼女はまっすぐ千早の目を見つめて、小さく首をかしげた。
「ねえ、香坂くん。……このまま終わるの?」
 一見なんでもない言葉のようだが、その問いかけには妙な重みがあった。千早は思わず視線をそらし、「え?」と戸惑い気味に聞き返す。夕奈は微笑むわけでもなく、ただ淡々と続ける。
「いいのかなって思って。……もし香坂くんが本当にやりたいことがあるなら、クラスの事情で終わらせちゃうのはもったいない気がして」
「僕は、別に……。まあ、やりたいことはあるけど、学級委員はそれじゃないんだ」
 そう返す千早に、夕奈はなにも言わずそっと視線を落とした。その横顔は複雑な感情を抱えているようにも見え、千早はどこかざわつく気持ちにとらわれる。

 気づくと昼休みのチャイムが鳴り、教室のあちこちで席につく音が響く。夕奈は無言のまま、そっと自分の席へ戻っていった。千早は窓の外を見ながら息をつき、もう一度ノートを閉じる。まるで夕奈の言葉が、何か得体の知れない問いを彼に投げかけてきたかのようだ。
 ――このまま進むなら、古田が学級委員になって、千早の研究や観察時間は確保される。計画は上々で、不足はない。それなのに、夕奈のあの一言が頭から離れない。千早は授業が始まる直前のざわめきの中で、心のどこかにうまれた小さな不穏の種を、抑え込もうとするかのように目を伏せた。

第5章:投票日とどんでん返し

 投票日当日の朝は、不思議な緊張感が教室を包んでいた。担任の尾崎先生は「では、みなさんの投票を始めましょう」と静かに告げ、一人ずつ名前を書いた紙を封筒へ入れていく。
 千早は「結局、古田が圧倒的に票を集めるだろう」と心の中で考えていた。もともとクラスのみんなに古田を押すよう誘導してきたのは自分だし、最近のクラスの空気でも“次の学級委員長は古田だ”という流れが盤石に思えたからだ。何より、夕奈があんなに静かにしている以上、彼女が表舞台に立つようなことはないだろうと確信していた。

 全員が投票を終え、先生が教壇に封筒を置いて紙を取り出す。そこにはひとりひとりの名前が記されていて、数を数える作業が淡々と進んでいく。やがて最後の一枚を読み終えた先生は、少し驚いた表情を浮かべて口を開いた。
「……それでは、結果を発表します。今回、学級委員長に選ばれたのは……辻井夕奈」

 その瞬間、クラスの空気が一気に止まったかのように感じられた。何人かは「え?」と声をもらし、古田は目を丸くする。先生がもう一度、「古田くんは惜しくも二位でした。夕奈は頭一つ抜けて多かったですね」と続けると、教室全体がざわめき始めた。
「え、どうして夕奈が?」
「でも、確かにいつもトラブルがあったとき、さりげなく手伝ってくれてたよね」
「クラスがまとまるように、結構いろいろ動いてたんじゃない?」

 そうした声を聞きながら、千早は頭が混乱していた。自分の作戦は間違ってはいなかったはずだ。なのになぜ、古田を差し置いて夕奈がトップ当選してしまうのか。戸惑いが大きいものの、ほっとする気持ちもある。何といっても、これで自分が学級委員に選ばれる可能性は完全に消えたからだ。だが、その安堵の裏で、夕奈の思わぬ一面に対する驚きが強く胸を揺さぶる。

 先生が拍手を促し、クラスのみんなも「おめでとう!」と声をあげる。夕奈は当初こそ少し困ったような顔を見せていたが、すぐに気持ちを整えたようにぺこりと頭を下げた。
「皆がそれでいいなら……私、がんばってみます。いろいろわからないこともあると思うけど、どうか力を貸してください」

 その言葉に、意外にも多くのクラスメイトが「もちろん!」「夕奈なら大丈夫だよ」と笑顔を返している。トラブルを陰で解決したり、周囲を気遣う彼女の姿を以前から知っていた者たちが、いつのまにかしっかりと支持を集めていたのだ。

 結局、古田は二位という結果に終わったが、どこか納得したように苦笑いを浮かべる。千早は席で小さく息をついた。自分があれだけ裏から手を回して作り上げた“古田優勢”の流れを、夕奈は一度も正面から否定することなく、自然とくつがえしてみせたのだ。こんな展開を誰が予想しただろうか。

 放課後、千早が机の片づけをしていると、夕奈がこっそり近づいてきた。いつも通り小さな声で、「ちょっと外で話せるかな?」と言うので、二人は人気のない廊下へ出る。少し冷えた空気が頬をさすように感じられ、千早は改まって夕奈を見つめた。
「おめでとう。正直、びっくりしたよ。古田が圧倒的だと思ってたから」
「ふふ……あなたの策略も面白かったわ。古田くんを盛り上げてたの、全部お見通しだったから」
 夕奈はどこか優しいまなざしで続ける。
「でも私なりにクラスを守りたかったの。もしこのまま古田くんが委員長になったとしても悪くはなかったけれど、私には私で、『クラスの雰囲気をもっと良くしたい』という思いがあったから。だから立候補はしなかったけど、周りの声を少しずつ後押ししてもらってたの」

 その言葉に、千早は息をのんだ。表に立たずひっそりとしていたように見えた夕奈も、実は自分の考えをきちんと持っていた。しかも、誰にも気づかれないまま票を集めるという器用さで、結果として古田を越えてしまったのだ。まるで、自分がクラスを裏からコントロールしようとしたように、夕奈もまた静かに計算していたのかもしれない。

「でも千早くんが当選しなくて、ほんとにいいの?」と夕奈が尋ねると、千早は少し肩をすくめて笑った。
「うん。僕にはフナムシの観察を続ける時間が大切なんだ。学級委員は他の人に任せたかった……。まあ、こんな結末になるなんて想像もしてなかったけどね」
 そう言い終えると、夕奈はやわらかく微笑む。
「これからもあなたの研究、応援するよ。どんな計画を立てているのか、正直ちょっと興味あるし」
「ありがとう。じゃあ、今度の休みに見に来る? フナムシたち、面白いデータがたくさん取れてるんだ」
「……うん、見せて。私も勉強になりそう」

 それだけ言うと、夕奈は廊下を振り返らずに教室へ戻っていった。千早はしばらくその後ろ姿を見送ってから、自分のかばんを持ってゆっくりと歩き出す。後悔の気持ちは不思議と少なく、むしろ夕奈の存在に対して尊敬すら抱いていた。

 家に帰るとすぐ、千早はフナムシの観察器具の前に腰を下ろす。観察ノートにはまだ書き込んでいない新しいアイデアが頭の中を駆け巡っていた。クラスでの波乱を目の当たりにして、逆に発想が広がった気さえする。
「どんな環境を与えれば、彼らはどう動くのか……。なるほど、やっぱり面白いな」

 そうつぶやきながら、千早は鉛筆を走らせ始める。騒がしい学級委員選挙は波乱の末に終わったが、そのおかげで何かが見えてきたようにも思えた。少しだけ肩の力を抜いて、新しい観察を始められる。
 これから先、夕奈がどんなふうにクラスを導いていくのか。その姿を横目で見つめながら、千早は自分の研究にさらに没頭するつもりだった。筆先の進む音だけが、静まった部屋に小さく響いている。

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