
化学部、爆走ラボライフ!
第1章:ようこそ、混沌の化学部へ
新学期の始業式が終わったばかりの午後、化学準備室と書かれた扉の前に立った藤堂省三は、教員生活十数年のキャリアを誇りにしながらも、どこか気後れしていた。
新しい赴任先で化学部を受け持つと聞いたときは「まぁそんなものか」と思っていたが、噂によればこの部活は一筋縄ではいかない連中が集まっているらしい。
「おじゃましますよ」
誰にともなく声をかけながら扉を開けると、鼻をかすめる薬品の匂いとともに、棚に並んだガラス器具や無数のフラスコが目に飛び込んできた。
その奥でなにやら混ぜ合わせる音がする。妙に活気があるな、と感じながら部室の真ん中に立つと、サラサラの黒髪をやや長めに伸ばした男子生徒がこちらに顔を向けた。
身長は170後半くらいで、落ち着いた雰囲気を漂わせている。何より、白衣がやけに似合っていて、研究者めいた印象を受ける。
「新しい顧問の先生ですね。三津谷知久です。部長です」
その男子生徒――三津谷が試薬瓶を両手に抱えながら事務的に名乗った。
彼はクールに見えるが、どこかガラス器具に対して愛着でも持っていそうな眼差しを向けている。
その背後、机の上にはやたら蛍光色に輝く液体を満たしたフラスコがずらりと並び、それぞれに「シルビア」や「オクタヴィア」といったなぜか人名のラベルが貼られている。
「……ずいぶんユニークな名前を付けるんだな」
藤堂が驚きを隠せず声をかけると、三津谷は目を伏せて、小さく息をつく。
「実験試料を管理するために、いくつか愛称をつけているんです。僕なりのやり方でして……意味のない名前ではありません」
その声色には、彼なりのプライドがにじむ。黒髪を指先で整えつつ、淡々とフラスコを扱う姿が、いかにも「化学部部長」らしい。
三津谷が「愛称」と呼ぶこれらの物質は、彼が独学で学んだマテリアルインフォマティックスと呼ばれる手法を駆使し、AIに大量の化学データを学習させて合成した試作品だという。彼の細身ながらもきちんとした姿勢や、透き通るような指さばきが、この奇妙な発光を放つ試薬を扱う様子にさらなる神秘感を加えている。
その三津谷の話を半ば聞き流すように、もう一人の男子生徒がゴーグルを頭に乗せ、配線だらけの装置を囲んで悪戦苦闘していた。彼は短めの黒髪を、いつもゴーグルで潰しているらしく、頭の上がペタンとへこんでいるのが目につく。そこそこ細身な体格ながら、やけにエネルギッシュで、白衣の端には焼け焦げが何カ所もある。
「もう一度スイッチ入れれば、今度こそ核融合が起きるかもしれない!」
その声を発したのは北條直人。彼が挑んでいるのは、かつて研究者たちを熱狂させながら論争に終わった“フライシュマン=ポンズ型”の常温核融合実験に近い。重水(D₂O)と特定の水素吸蔵金属(パラジウムやニッケル合金など)を用いて、異常発熱が起きないか確かめるというやつらしい。北條の装置は、金属電極が浸ったデカいビーカーに電圧パルスを与える仕組みになっている。彼のこだわりは、AIどころか自分の勘やら工夫で配線を組み、パルス生成回路を複数重ねて“絶妙な周波数”を探り当てようとしている点にある。
とにかく熱意のかたまりのような彼は、常温核融合を追い求めているらしい。
「北條くん、またそんな無茶して……危ないんじゃないか?」
藤堂が思わず声をかけると、北條は振り返ってニヤリと笑う。
「先生、常温核融合が成功すれば、世界が変わりますよ。実験のリスクとロマンは表裏一体、というか……」
完全に目が輝いている。彼が使い古した配線をゴソゴソといじるたびに、周りの空気がぴりっと引き締まるのを藤堂は感じた。どうやら本当に何か爆発しそうな雰囲気がある。
部室の奥には、小柄な女の子がエプロン姿で鉢植えを並べている。茶色寄りのセミロングヘアを内巻きにし、柔らかな印象の丸顔で、何やら温和そうだが――ふと見ると、その植物の蔓が棚に巻きつき、先端の棘のような部分が怪しくうごめいている。彼女が桐島奈緒らしい。
「桐島……その植物、また伸びすぎてないか?」
三津谷がちらっと視線を送ると、桐島は「大丈夫ですよ。ちょっと栄養が多めだっただけで」と笑う。
だが、鉢の中の茎は一週間で倍以上に伸びたというから、とても普通ではない。
もともとはポトスやベンジャミンなど一般的な観葉植物だったのだが、彼女は大学の論文を読みあさって「高効率で光合成できるように遺伝子を書き換えられないか」と考え、葉緑体関連の遺伝子をコツコツ組み替えているらしい。
単に光合成効率が上がるだけならまだ可愛げがあるが、彼女の研究はどうにも行き過ぎがちで、成長速度までも急激に高まるよう改変してしまったようだ。
彼女の人懐っこい笑顔からは想像しにくいが、遺伝子操作だのなんだのを穏やかな声で口にするところを見ると、相当大胆な研究をしているのは間違いない。
「酸素だっていっぱい出るし、将来的には砂漠緑化に役立つかもしれないんです」 桐島がそう言うと、北條が鼻をすすって、
「俺の核融合が成功すればエネルギー問題が解決するし、桐島の改造植物が広がれば環境問題も解決。やっぱ俺たち最強じゃない?」
「そ、そんな簡単な話じゃないと思うけど……」
桐島は苦笑しながらも、ちょっと嬉しそうに微笑む。柔らかい雰囲気はそのままだが、植物を抱えている姿には妙な迫力がある。
「その先端の棘大丈夫なの?」
三津谷が指摘すると「毒はほんの少ししかないから、触ったら即危険ってほどじゃないですよ」
屈託ない笑顔で彼女はほほ笑む。
数日前には栄養溶液を誤って濃厚にしすぎたらしく、わずか1日で背丈ほどに成長した芽が出現して周囲を驚かせたのだという。顧問の藤堂も早急に育成スペースの拡張を検討しなくてはならず、頭を抱える材料がまた一つ増えた。
「なんだか、いろんな分野が入り乱れてるんだな」
藤堂が苦笑しながら部室を見渡すと、今度は奥の方でトーチカのように積まれた家電パーツを抱え込んでいる男子生徒の姿が見えた。少し癖のある明るめの黒髪にパーカー姿、その手先は細長い指で小さなパーツをいとも簡単に扱っている。
彼は江夏颯太、部内で“魔改造の名手”として恐れられているらしい。
「先生! ちょうどいいところに。これ見てくださいよ。自律型扇風機の試作品なんです」
江夏は中性的な顔立ちで、やや小動物的な愛嬌を持っている。はしゃいだ表情で藤堂を呼び寄せる。
「そこに温度センサーと赤外線センサーを付けて、自分で動く扇風機にしたいんですよ。まだ暴走しがちだけど、そのうち廊下を自由に駆け回る日が来るかも」
「できれば廊下を“駆け回らない”方がありがたいんだけどね……」
藤堂が思わず口を押さえると、江夏はいたずらっぽく笑う。
扇風機の制御には進化的アルゴリズムの一種を取り入れていて、プログラムが自己学習しながら「誰が一番暑がっているか」や「どこに風を送れば効率的か」を推論するようにしたいそうだ。
いまはまだ試作品で、しょっちゅうセンサーからの情報が誤作動を起こしてモーターが空回りしている。
それでも江夏は「高校の文化祭までには完全自律化したい」と意気込んでいる。
少しでも面白そうなものがあればガンガン作り始めるアーティスト気質が、この部室の混沌に拍車をかけているようだ。
「ふーん、また妙な機械が増えてるじゃん」
見ると、柿沼隼人が眠そうな二重まぶたを半開きにしながらノートパソコンを抱えて江夏を見ている。
やや色素の薄い黒髪を、くたっとした仕草でかき上げる姿が印象的だ。
机の上にはコードやケーブルが散らばり、画面には複雑そうなプログラムが並んでいる。
プログラミング言語はPythonやC++だけではなく、機械学習フレームワークの拡張版を組み合わせて使っているらしい。
研究室レベルで開発されている分散コンピューティング対応の“試作版”をどこかから入手したという噂まである。
「柿沼くん、またAIに何かやらせてるの?」
江夏が興味津々でパソコンをのぞき込みそうになると、柿沼はぽつりと口を開く。 「うん、ちょっと自動実験プランを最適化してもらってるんだ。でも、センサー初期値がバグってるせいか、やたら危険な実験が提案されて困ってるんだよね」
彼は「AIを使って実験プランを最適化する」という独特のアプローチを取っている。具体的には、温度・湿度・酸素濃度・気圧・薬品の蒸気濃度などの“環境データ”をセンサーネットワークや既存の実験レポートから大量に取り込み、それを元にした数値シミュレーションを行おうとしているのだ。
「危険な実験、って……この部にこれ以上ヤバいネタは要らないってば」
江夏が苦笑するが、柿沼はマイペースに「でも見てみる?」と返す。
彼の手先はきれいで、パソコンのキーボードを打つ姿はまるでピアニストのように滑らかだが、そこに何が記されているかはわからない。
本当に、とんでもないレシピを生成してしまう副作用があるらしい。
どうやらセンサーの初期値や部室内の試薬蒸気量がリアルタイムに変化しすぎて、プログラムが混乱を起こしている状態を指しているようだ。
実際、ほんの少し設定をミスすると「高温高圧下で青酸ガスが発生するかも」というとんでもない警告を吐き出すため、藤堂としては頭が痛い話でしかない。
「まったく……」
藤堂は白衣を整えながら、部屋の真ん中で立ち尽くす。何もかも想像以上だ。目をやれば、奥の方で桐島の植物が棚を這っているし、北條の装置は相変わらず電気パルスを吐き出しそうだし、江夏の自律型扇風機は無邪気にモーターを回転させている。柿沼のAIがさらに謎のレシピを引っ張り出す可能性もある。しかも、部長の三津谷が合成している不思議な試薬は一目で危険な匂いを放っている。
そのとき、ふっと扉が開き、背中まで伸びたストレートの黒髪をきちんと束ねた女子生徒が入ってきた。高めの身長と整った制服姿が印象的で、やや大人びた雰囲気を醸している。彼女は結城友梨らしい。
「皆さん、もう少し足元を片付けてください。先生が困ってるじゃないの」
結城は淡々とした口調だが、その声には説得力がある。年下の部員たちは「はーい」と素直に応じている。
「結城、ちょうどよかった。先生もまだ状況を把握しきれてないみたいだから、案内してあげてよ」
三津谷が部長らしく、結城に助けを求める。彼女はうなずき、軽く藤堂に微笑んだ。
「先生、ご迷惑かけることが多いと思いますが、この化学部は基本的には仲がいいんです。……ただ、ちょっと研究が過激なだけで」
結城は軽く肩をすくめるが、その瞳は頼もしさを感じさせる。
彼女がいてくれるのならば、何とかなる気もしてくる。
藤堂はようやく息をつき、「そうだな、まずは安全管理から始めよう」と真顔でつぶやいた。
それを聞いて、部員たちは一斉に振り返る。
「安全管理って、どうするんですか? あ、私の植物は危ないかな……」
桐島が不安そうに質問する。ふんわりした声調だが、けっして他人ごとではないらしい。
「いや、危険かどうかは今後の扱い次第だろうけど……まあ一度、研究内容を整理してレポートにしてくれないかな」
「了解です! じゃあ、あとで試験管と培養液の成分表まとめます」
桐島はぱっと顔を輝かせ、鼻歌まじりで鉢植えの位置を動かし始める。
小柄な体からは想像つかないくらいパワフルで、彼女のエプロンからは土や葉の匂いがほんのり漂ってきた。
「俺も……装置の配線図、ちゃんと書き直すか。ゴーグルも新調しておきたいし」
北條が意気込んで宣言するが、焦げ跡だらけの白衣を見ていると、藤堂は胸騒ぎを抑えられない。
そんなこんなで、すでに部室内は再びバタバタし始めた。
柿沼のノートパソコンには“環境データを再収集しています”というメッセージが表示され、江夏は扇風機のキャタピラを外してガタガタ音を修理している。
三津谷は“シルビア”と名付けた発光試薬を大事そうにフラスコへ戻し、結城は「まずは道具の整理から!」と後輩たちに声をかける。
奇妙でちょっと危うい空気に包まれたこの化学部。
藤堂は、かつて自分が研究室でやんちゃしていた頃を少し思い出す。
「まぁいい。こういうのも悪くはないさ」と白衣の袖をまくる。
緊張と期待が入り混じる感じが、彼の胸に少しワクワクを呼び起こしていた。
「よし、覚悟を決めるか。始まったばかりだし、最初から怖気づいてられないからな」
藤堂の言葉に、部員たちはそれぞれの思いを胸に頷いてみせる。
にぎやかすぎる化学部の一日が、学校の静かな日常をどこまで塗り替えていくのか。既にスパークを孕んでいるその光景に、教員生活十数年の彼も胸を弾ませてしまうのだった。
第2章:新物質騒動と謎植物の萌芽
翌週の放課後、藤堂省三は再び化学部の扉を開けることになった。
独特の薬品臭が鼻をつき、部屋の奥からは小さな熱風が流れ込んでくる。
先日、散々な目に遭っただけに、少しは落ち着いているかと思いきや――その期待はすぐに裏切られる。
「先生、すみません。ちょっとシルビアの試作品を加熱していたら、思った以上に反応が強くて……」
最初に声をかけてきたのは、黒髪をさらりと伸ばした三津谷知久だ。
やや長めの前髪がきっちり整えられており、今日も白衣を無駄にカッコよく着こなしている。
部長としての責任感が強いのか、うっすらと汗を浮かべながらも部員たちに指示を飛ばしていた。
その手元には、明滅する青白い光を放つ物質――“シルビア”と名付けられた試作品が、まだかすかに熱を帯びているように見える。
「まさか爆発したのか?」
藤堂が思わず顔をしかめて問いかけると、三津谷は首を振る。
「いえ、爆発まではいってません。ただ、想定より発熱したせいで、空気清浄フィルターが溶けかかってるみたいです」
「溶けかかった……? そんなに高温に? こりゃもう危険域だろう」
藤堂が換気扇の方を見ると、フィルターのプラスチック部分がぐにゃりと変形してしまっていた。
まるで熱で溶けたチョコレートのように垂れ下がっていて、まともな換気ができない状態だ。
「やべえ、本当に曲がってるし。これじゃ部室が化学工場みたいな空気だよな」
ゴーグルを頭にかけ、短い黒髪が一部ペシャンコになっている北條直人が、慌ただしく立ち上がる。
彼の白衣にはいつもと同じく茶色い焦げ跡が点々と付着しており、その細身の体に見合わず、どう見ても安全を軽視しているようにしか見えない。
「ついでに言うと、俺の装置も熱がこもってて、あと一息で常温核融合が起こりそうな気がするんだけど」
「北條くん、いつも“起こりそうな気がする”で終わってるけど、本当に起こったらどうなるわけ?」
背中まで伸ばしたストレート黒髪をきっちり束ねた結城友梨が、冷静な口調で問いかける。
身長165は越えているらしく、スラリとした立ち姿が目を引く彼女は、どこかお姉さん然とした落ち着きがあった。
「そりゃあもう、核融合が実用化されたら世界平和よ。エネルギー問題は解決ってわけさ」
「ええ……まあ、そう簡単じゃないでしょ」
結城が呆れたように笑うが、その口調は少し優しい。
北條は誇らしげに白衣の袖を引っ張りながら、また装置に向かおうとする。
その奥で、小柄な桐島奈緒が慌ただしく鉢植えを動かしている。
ふんわりとした茶色寄りのセミロングヘアは少し内巻き気味で、身長156センチほどの体格をさらに小さく見せる。
しかし彼女の足元を見れば、凄まじい勢いで伸びたツタが柱に絡みつき、まるでジャングルのようになっているのがわかる。
「ちょっとやりすぎたかもしれません……前から育ててたポトスが急に伸びて、ついでにベンジャミンも負けじと伸びちゃって……」
植物の青々しい匂いとともに、エプロンに付いた土の汚れが目に入る。
ほんわかした雰囲気を漂わせる桐島だが、やっている研究はなかなか過激らしい。「ほんとにどうするつもりだ? これじゃ廊下まで緑化されそうだぞ」
藤堂が眉をひそめると、桐島はエプロンのポケットからハサミを取り出して、ツタをさくさくと切り始める。
「大丈夫、大丈夫……酸素が増えるからいいですよ、なんて冗談は置いといて、ちゃんと鉢植えに収める予定ですので」
そのとき、パタパタッという小走りの足音が聞こえ、少し癖のある黒髪の江夏颯太がキャタピラ付きの扇風機を転がしてきた。パーカーを羽織った華奢な体格の彼は、小動物っぽく目を輝かせている。
「すみませーん、ちょっと自律型扇風機のテストをしたかったんだけど……」
操作を誤ったのか、扇風機が植物のツタに引っかかってぐらぐらと横転し、盛大に机の角にぶつかってしまう。
「うわっ! モーターが逆回転してる! センサー設定がバグってるのかも」
「江夏くん……またトラブルメーカーか」
結城がため息まじりに眉を下げるが、江夏は指先でリモコンを忙しなく操作する。
修理しているというより、彼独特の芸術的ひらめきで何とかしようとしているのだろうか。
「危ない! 三津谷のオクタヴィアが転がってる!」
結城がとっさに声を上げ、机の端に置かれていた黒いガラス状の試験体を、ぎりぎりのところで支える。
「ありがとう、結城」
三津谷は冷や汗をかきながら、相変わらずクールな表情を崩さずに頭を下げる。
長めの前髪をさらりと流し、メガネをかけていたら本当に研究者みたいだが、そもそも熱でフィルターが溶けるという大トラブルを起こしている以上、彼も対岸の火事ではない。
しかし、事態はさらに悪化していった。
扇風機が思わぬ風を送り込んだせいか、突然、ゴウンという大きな音が部屋中に響き、空気清浄機のファンが止まる。
フィルターが歪み、モーターが過負荷に耐えきれなくなったのだろう。
「ちょっと、換気できてないんじゃない?」
結城が周囲を見回すと、藤堂も焦りを隠せず顔色を変える。
部屋に漂うのは、熱による化学臭や植物からの青い香り、何がどう混ざり合っているか見当もつかない空気だ。
「やばい……下手に窓を開けたら廊下に漏れるぞ」
藤堂が困惑気味に言うと、控えめに柿沼隼人が手を挙げた。
眠そうな目を半分開き、前髪をくたっとかき上げながら、いつものマイペースな口調を崩さない。
「すみません、実は僕、AIに植物の成長促進プランを作らせたんですよ。桐島さんが参考にしてくれて……想定外に急成長したんだと思います」
「そんなの言ったっけ?」
桐島が小柄な体を一生懸命伸ばしてこっちを向く。
「うん、面白いデータが出たって言ってたから、ちょっと試しただけなんです。栄養溶液の調合をAIの提案通りにしたら、爆速成長ってわけで……」
「柿沼くん、AI実験レシピが出したトンチキな極端値をそのまま信じるのはやめてよ。見極めが必要だって、いつも言ってるでしょうに」
結城が苦笑いするが、柿沼はパソコンを見つめたまま
「この発想は面白いんですけどね」とつぶやく。
すでに部室は酸素過多かどうかはともかく、空気が妙に重苦しい。
試薬と植物の匂いが混ざり、扇風機はバラバラとカタカタ音を立てている。
そこで三津谷が冷静に決断する。
「よし、とにかく換気扇は一度止めよう。熱源が多すぎるから、シルビアは冷却水につけて温度を下げる。桐島さんはツタを切って、樹液が漏れないようにして」
「はい、わかりました」
桐島はエプロンのポケットからゴム手袋を取り出し、ツタを丁寧に剪定していく。
その姿は柔らかな雰囲気そのままだが、バイオ関連の知識に関しては誰より詳しいらしい。
結城は結城で、床に落ちかけたラベル付きフラスコを回収したり、北條の常温核融合装置が巻き込まれないように細心の注意を払ったりと忙しい。
「北條くん、やっぱり今日は核融合のスイッチを切ったままでいて。装置ごと運んでもらってもいいかな?」
「えー、もう少しで常温核融合が……」
「発火寸前の植物と常温核融合を同時進行は無理でしょ」
さすがに結城が強めの口調で言うと、北條は唇をとがらせつつも渋々装置を片づけ始める。
江夏は扇風機の動力部をばらし、強引にモーターを直結モードに切り替える。
「手動モードにしました。とにかく風を送って熱を逃がしますね」
「そっちも下手に暴走しないように……」
藤堂が苦々しい表情で見守るが、江夏の中性的な顔立ちはいたって真剣。
指先で配線を素早く繋ぎ替えながら、「ちょっとだけ我慢してくれよ」と扇風機に囁いている。
こうして十数分ほどの大騒ぎの末、何とか部屋の熱気は落ち着きを取り戻し、溶けかかったフィルターからの排気も最低限は機能し始めた。
ツタを切り落とされた植物はエプロンの中でおとなしく、シルビアは冷却水に浸され、オクタヴィアと呼ばれる試作品も封印された形になっている。
「いやはや、すごい騒ぎだったな……みんな、お疲れさま」
藤堂が額の汗をぬぐうと、桐島が気まずそうに声を出す。
「柿沼くんのAIレシピを私がちゃんと精査すればよかったです。こんな爆速成長しちゃうなんて」
「まぁ面白いデータ取れたんだし、これはこれでありだと思いますよ。いつかちゃんと制御できれば人類のためになりますから」
柿沼は眠たげな目をこすりながらも、少し誇らしげだ。彼のパソコン画面にはまだいくつかの警告メッセージが表示されているが、その一方で新たな解析結果も出てきているらしい。
部室の片隅にはまだ崩れたフィルターや散乱したコードが残っているが、部員同士で声を掛け合いながら片づけを始めている。その光景に藤堂はほっとした表情を浮かべると同時に、「そう簡単に波乱は終わらないだろうな」と直感する。
だが、これも化学部の日常なのかもしれない。
溶けかかったフィルターの隙間から涼しい外の空気が入り、微かに残るシルビアの青い光が壁にぼんやりと模様を映し出す。騒ぎのあとの静けさが、逆にどこか不思議な雰囲気を生み出していた。
「みんな、ちゃんと事後処理してね。私はフィルターを職員室に掛け合ってみるから」
藤堂がそう言い残して肩を回すと、三津谷が「部長としても管理を徹底します」とあらためて頭を下げる。
皆それぞれに過激な研究を抱えながらも、声を掛け合い、すぐに協力して収拾を図る姿を見ていると、混沌の中にも彼らなりのルールがあるようだった。
「まぁ、一つ教訓が増えたわけだし……」
結城がうっすら苦笑して、小さく伸びをする。背筋を伸ばした彼女の黒髪は、白衣の上をさらりと滑るように揺れる。
「結城、さっきはありがとう」
三津谷が控えめに感謝を述べると、結城はさりげなく微笑み返す。
「ううん、こちらこそ。みんながヒヤヒヤさせてくれるおかげで、退屈しないわ」
その視線の先では、北條が装置を片づけながら「次は絶対に核融合起こしてみせるんだ」とつぶやき、江夏は扇風機を分解しながら「廊下走行をもう一回やってみたいなぁ」と夢想している。
桐島はツタの切り口をガーゼでくるみ、柿沼はパソコンのコードを引き抜いて再起動準備を始める。
部員それぞれが、自分の研究へ歩みを進める背中に、不思議なエネルギーを感じずにはいられない。
藤堂はそんな光景を見つめ、「混沌としてるけど、ちょっと頼もしい」と苦笑いしつつ、部室から漏れる陽光に目を細めた。
溶けかけのフィルターが必要以上に呼び込んだ空気が、未来への風も同時に運んできているような気がした。
第3章:家電ロボ軍団、襲来!?
午後の放課後、化学部の部室の一角にある棚から、江夏颯太のやや中性的な声が聞こえてきた。
いつものパーカー姿に工具袋を腰につけて、小動物のようにソワソワしている。
彼の手元には、小さな車輪から自作の基板まで入り乱れたガラクタが散乱していた。
「いやあ、いつの間にか“試作品”が増えちゃってさ。先輩たちも協力してくれるって言うから、家電ロボ軍団を動かすテストをしたいんだよ。絶対楽しいって!」
雑然としたパーツを指差す江夏の瞳はきらきらしている。前髪をざっくり切った黒髪が軽く跳ねて、どこかアーティストのような気配を漂わせていた。
「家電ロボ軍団……?」
その声に反応したのは藤宮凛々子だ。肩上までの黒髪ボブが跳ねやすく、カラフルなカーディガンを白衣の上に羽織っている。
「ねえ、それって何台あるの? めっちゃ面白そうじゃん!」
凛々子の目はきらきらと輝いていて、まるで危険なスイッチを見つけたときのように好奇心が抑えられないらしい。
周囲でツタをハサミで剪定していた桐島奈緒までもが、土いじり用のエプロンをしたまま顔を上げる。
「江夏くん、前に改造した扇風機のやつ、まだ動きがおかしかったでしょ? 大丈夫なの?」
桐島はふんわりとした茶色寄りのセミロングヘアを気にしながら尋ねる。
小柄で丸顔の彼女は、植物の世話だけでなく、時には機械にも手を出す行動派らしく、少々心配そうな顔だ。
「大丈夫大丈夫。今回は赤外線センサーだけじゃなくて改良型LiDARも搭載してるからさ。障害物検知はばっちりだし、センサー類は進化的アルゴリズムで自己学習するようにしたんだ」
江夏は得意気に手のひらサイズのマイコンボードを見せる。華奢な手先が器用に配線をつなぎ直しているのが目を引く。
「……まぁ、江夏が『完璧』とか『ばっちり』って言う時は、だいたいロクなことにならないんだよな」
声を漏らしたのは北條直人だ。ゴーグルを頭に乗せたまま、細身の体を組みながら苦笑している。
ゴーグルの部分だけ黒髪がペタッと潰れていて、白衣の端にはいつものように焦げ跡が目立つ。
「ふふ、北條先輩こそ常温核融合で大失敗すること多いじゃないですか」
江夏が負けじと返すと、北條は「うるせえ」と口を尖らせる。ここぞとばかりに桐島がクスリと笑みを漏らす。
そこへ、奥からそろりと近づいてきたのは柿沼隼人。
眠そうな二重まぶたが特徴で、前髪を指先でかき上げながらノートパソコンを抱えている。
「江夏くん、それ全部同期させるの? 無線モジュールの周波数かぶりとか大丈夫なの?」
「え、ああ……実は全部連動させるときはまだテスト中で、若干競合が起きる可能性が……」
柿沼にまっすぐ見つめられ、江夏が少しだけ言葉を濁す。
柿沼はマイペースに「そっか」とつぶやいて画面へ目を戻した。それでも止める素振りはない。
そんな会話を聞きつけた三津谷知久が静かに近寄ってくる。サラサラの黒髪を整え、メガネをかけているせいか、少し研究者然とした雰囲気が増している。
「江夏、あまり廊下で暴走しないようにな。あんまり大きな騒ぎになると教頭に怒られる」
「大丈夫ですよ、三津谷先輩」
江夏は腕を振りながら笑う。部長である三津谷の落ち着いた声は、どこかクールな説得力を持っているが、江夏はすでに家電ロボットのテストに夢中だ。
「何それ、めっちゃ楽しそう。ねえ、押していい? この赤いボタン」
ふと目を輝かせてリモコンを手にした凛々子が、すでにスイッチに指をかけている。「や、やめてください、凛々子先輩! まだ準備が……」
江夏が制止する間もなく、凛々子の指はカチッと赤いボタンを押し込んだ。
「えへへ、つい押したくなるんだもん! ごめんごめん、でも早く見たいし」
凛々子は悪びれた様子もなく笑顔を浮かべる。周囲は「やっぱりか!」と一斉に青ざめるが、時すでに遅し。
次の瞬間、部室の隅で待機していた小さな掃除ロボットがピッと音を立てる。
続いて、キャタピラ付きの扇風機がウィーンというモーター音を響かせ、さらに古びた電子レンジ扉を仕込んだ謎のリモコン車までガタガタと動き出した。
「わあ、いっぱい動いてる! 江夏くん、すごいじゃん!」
凛々子が目を輝かせる一方で、江夏は顔を真っ青にして舌打ちする。
「やばい、まだ制御プログラムが安定してない! とりあえず緊急停止モードに切り替えないと……」
コントローラーを操作しようとした矢先、掃除ロボットが自動ドアをくぐり抜け、あろうことか廊下へと滑り出てしまった。
「部室の外はまずいだろ! 廊下に飛び出したら……!」
藤堂省三が慌てて後を追おうとするが、扇風機もなぜか後輪を回転させて廊下へ向かっていく。しかも逆方向では、改造電子レンジ車が壁にぶつかってバックしながら、桐島の足元を巻き込もうと動き出している。
「きゃっ、危ない!」
桐島は急いでツタの鉢を抱えながら飛びのく。彼女のエプロンがひらりと舞い、ツタの切り落とし用ハサミがカチャンと床に落ちる。
どう見ても掃除ロボットより危険度の高い改造が施されているらしく、不気味な音を立てて突進するその姿は、もはや家電の面影など微塵もない。
「江夏くん、止まらないよ! これどういうこと?」
三津谷が真顔で問い詰めると、江夏はもう苦笑いと半泣きの中間のような表情で肩をすくめる。
「ここだけの話、連動モードのテストは初めてなんです。全部を同期させるために無線モジュールを増やしたら、周波数競合が起きるかもって……」
想定外の事態はすぐに現実となる。
遠くから悲鳴のような声が上がり、「あれ何だ?」と廊下を走る足音が響く。
「な、何あれ!?」「勝手に動いてるじゃん!」どうやら掃除ロボットと扇風機が廊下に突入し、思わぬ騒ぎを巻き起こしているらしい。
「しょうがない、誰か廊下の出口をふさげ! 先生、俺は扇風機を捕まえてきます!」
北條がゴーグルをさっと装着し、まるで戦場に突撃するかのように駆け出す。
キャタピラ扇風機を追いかける姿はまるでコントだが、本人は大まじめだ。
後ろから藤堂と結城も「止まりなさい!」と声を張り上げて追いすがる。
廊下では、ちょうど掃除ロボットが曲がり角で扇風機とぶつかったらしく、2台が勢い余って変な方向へ回転しながら勢いを増している。
しかも掃除機能と送風機能が連動した結果、教室のドアをピカピカ磨きながら扇風機がホコリを巻き上げるという謎の連携プレーを見せていた。
「なんでこんな芸当ができるのよ、ありがたいけど迷惑すぎる……」
結城が目を細めつつ咳き込みながら叫ぶと、北條が小型の放電装置を手にする。
「こいつで強制的にモーター回路をショートさせて止める!」
「ちょっと、本当に止まるのか? 感電は??」
藤堂が焦るが、北條は「電圧低いから大丈夫!」とゴーグルを下ろして放電装置を構える。
ただ、その理論がどこまで正しいのかは怪しい。
放電の矢が扇風機に到達する寸前、ちょうどロボットが進行方向を変えたため、代わりに放電を受けたのは掃除ロボットだった。「ブーッ」悲鳴のような電子音を響かせ、掃除ロボットは床で横転する。
キャタピラがパキッと折れ曲がり、モーターが甲高い音を立てた。
「やった? でもこいつだけか……」
ほっと胸をなでおろす北條の視界に、今度は電子レンジ車がフラリと姿を現す。
ミョーンという怪しい音とともに扇風機を突き飛ばすと、扇風機は壁にバウンドして逆方向へ弾かれてくる。
「わああ、来んな!」
北條はしゃがみ込んでギリギリのところでかわし、扇風機は廊下を転げ回って大きな衝撃音を出す。
その場に駆けつけた三津谷と柿沼が、状況を把握しきれないままロボたちを取り押さえようとするが、リモコン信号の衝突でバグが増幅しているせいか、まるで言うことを聞かない。
「やれやれ、また大惨事の一歩手前か」
柿沼は眠そうな目をこすりながら、パソコンを開いて遠隔停止プログラムを叩く。ノートパソコンの画面にはプログラムコードがびっしりで、時々ポップアップが連続で表示されている。
「……‘高圧放電を推奨します’? どんな推奨だよ」
「待った、それ前にも変な実験レシピばっかり出してたAIじゃないの? 早く切れ!」
三津谷が苛立ちまじりに声を上げると、柿沼は苦笑いして“強制終了”を実行。
すると、部室内に残っていた複数の家電ロボから一斉に動作停止の合図が伝わり、あちこちで「ガタン」「ビシューッ」という音を立てながら沈黙する。
廊下の扇風機もモーターのうなりを最後にカタリと静まり返った。
「はあ……ようやく終わったか。かなり運動量使ったな」
北條が息を切らせて腰に手を当てる。キャタピラのもげた掃除ロボや横倒しの扇風機を見ると、どれもボロボロだ。
「ごめんなさい、ほんとに。凛々子先輩が赤いスイッチを押す前に全部調整しておくべきだった……」
江夏は床にへたり込むように座り込み、情けない顔をする。
その頭を、結城がトンと軽く叩いた。
「仕方ないよ。廊下をピカピカに掃除してくれたのはありがたいし、プラスに考えよう」
「……まぁ、そうですね。なんか複雑だけど」
江夏がうなだれつつ笑うと、周囲でも「やれやれ」と笑いがこぼれ始める。
いつの間にか見物人が集まり、廊下にはクスクス笑う声があちこちで聞こえる。
校内放送で「廊下の騒ぎはいったい?」と教頭の声が入ったが、これくらいの被害で済んだのは不幸中の幸いかもしれない。
藤堂は機械パーツや粉塵の残骸を見て、深いため息をつきながらも冷静な口調を保っている。
「これで、家電ロボの危険性がよくわかったろう、江夏。それから凛々子、赤いボタンは勝手に押さないこと。いいな?」
凛々子はシュンと肩を落とし、小さくうなずく。
「うん……ごめんなさい。押さずにいられない性分なんだけど、もうちょっと自制心持つ」
その言葉に周囲からくすくす笑いが起こる。大混乱だったにもかかわらず、終わってみればどこか吹っ切れた雰囲気だ。
大惨事寸前のドタバタを、ある種のアトラクションのように楽しむのがこの化学部の気風なのかもしれない。
こうして教員や生徒会メンバーが集まり事態を収拾し、江夏の改造家電ロボは整備と再プログラミングが待つことになった。
廊下は一時期、機械くずとホコリまみれだったが、そのぶん床が妙にピカピカになったのは予期せぬ副産物といえよう。
部室へ戻った凛々子は、ついクセで押してしまう“赤いボタン”を眺めながら、今度は少し責任を感じるように神妙な表情を浮かべていた。
「次はもうちょっと、心の準備ができてから押そうかな……えへへ」
呆れながらも笑って見守る桐島や三津谷が、「でも、せっかく作ったロボを動かす場はあったほうが面白い」と口にする姿が見える。
化学部にはまだまだ未知の実験や騒動が残されているだろうが、結局のところ誰も止める気はないらしい。
校内の廊下に残った機械くずを見ると、まるで小さな戦場を終えた後のようで、掃除ロボはむしろ自分が掃除されてしまった形だ。
しかしこれは単なるプロローグに過ぎないのだろう。
家電ロボ軍団の真価は、きっとまたいつか披露されることになる。
第4章:文化祭への布石 - 常温核融合と新素材の可能性
朝夕の気温がぐっと下がりはじめ、校舎の窓からはすっかり秋めいた空気が入り込んでいた。
東雲高校の廊下には文化祭のポスターがずらりと並び、どの部活動も「今年の目玉はこれだ!」とばかりに熱を帯びはじめている。
奇想天外な実験を連発する化学部も、何やら大掛かりな計画を練っているようだ。
「みんな、文化祭での出し物どうする? もうアイデア固めないと時間がないぞ」 部長の三津谷知久が、やや長めの黒髪を指で払いながら声を張り上げる。
彼はいつもクールな雰囲気を漂わせていて、白衣が板についた姿はまるで大学の研究者のようだが、今回ばかりは焦りを隠せないらしい。
「やっぱり、オレの常温核融合デモは外せないでしょ。成功すれば世界的ニュースだよ、世界平和だよ!」
いつものようにゴーグルを首から下げている北條直人が手を挙げる。短い黒髪の一部がゴーグルで潰れているのはご愛嬌だが、彼はいつもと同じく細身の体をせわしなく動かして興奮気味だ。
「北條くん、失敗すればただの水槽か、ヘタすると危険物にしかならないけど大丈夫? 第一、安全面が……」
やや高めの身長を持つ結城友梨が、落ち着いた口調で指摘する。
背中まで伸ばした黒髪をさらりとまとめた彼女は、文化祭の運営にも関わるためか、いつにも増して“しっかり者のお姉さん”感を漂わせていた。
「いやでもさ、もし成功したらこの学校の名声も一気に高まるよ! 常温核融合を高校の文化祭で実演したなんて前例、きっとないだろ?」
「だから“もし”のハードルが高すぎるんだよなぁ……」
隣でツタの剪定を終えたばかりの桐島奈緒が苦笑いを浮かべる。
小柄な体にエプロン姿がトレードマークで、茶色寄りのセミロングヘアからはわずかに土いじりの匂いが漂う。
何度も暴走しかけた改造植物を抱えたまま、「でも、私も新しい展示をやってみたいんだよね」と笑う。
その姿はほんわかしていながら、バイオ系の大胆な実験をやってのけるギャップが魅力的だ。
すると三津谷が黙っていたタブレットを掲げる。
サラサラの黒髪を揺らして、AIの分子構造図を見せつけるように。
「僕はこの“プライメイラ”という新素材で勝負したい。シルビアやオクタヴィアをさらに発展させた複合材料で、セラミックスと有機高分子を組み合わせて熱にも電気にも強くしたんだ。うまくいけば半導体業界でも注目されるかもしれないレベルさ」「へー、そんな夢の素材ができちゃうんだ」
江夏颯太が身を乗り出す。明るめの黒髪と中性的な顔つきで、小動物のように愛嬌を放ちながら、パーカーの袖口からは細い指が覗いていた。
「シルビアやオクタヴィアみたいに、怪しく光ったりしないの?」
凛々子が興味津々で頭を突き出す。肩上までの黒髪ボブにヘアピンをつけている彼女は、実験室のスイッチを見つけると押さずにいられない性分らしい。
いつも軽快で明るい笑顔を振りまいていて、部内を賑やかにする筆頭格だ。
「今回は光りはしないけど、軽さと強度はかなり期待できる。先生も『部活のレベルを超えてる』って言ってたし」
三津谷がタブレットを操作すると、プライメイラの3Dモデルがくるくると回転する。確かに、これが本当に完成すれば科学的には大いなる挑戦になりそうだ。
そんなところへ顧問の藤堂省三が姿を見せる。
猫背気味の長身からは、「また何か危ないことを考えてるのか?」という苦労性のオーラが漂っている。
「みんな、文化祭の展示計画書を教頭に出してくれってさ。そろそろまとめないとまずいぞ。それにしても……何だ、また盛り上がってるようだな」
「先生、今年こそ常温核融合と新素材の大実演ですよ!」
北條が声を張り上げると、藤堂は深いため息まじりに「はあ?」という表情を見せる。
「成功する保証はあるのか? 安全面は? 下手したら来場者に危険が及ぶんじゃないか?」
結城が、すかさず手帳を開いて説明する。
「そこはちゃんと計画書に落とし込むつもりです。火傷や発火を防ぐ仕組みを作って、誘導員を配置して……」
手際よくペンを走らせる結城の頼もしさに、他の部員たちは素直に感心している様子だ。
ところが翌日、藤堂が職員室から戻ってくると顔が険しい。
「おい、みんな。教頭が言うには『化学部の展示は規模が大きすぎて事故のリスクが高いならやめてくれ』だと。……最悪、部活の存続も見直すって話だ」
「えええっ?!」
江夏は腰にぶら下げていたドライバーを落としかけるし、桐島は剪定ばさみを危うく踏みそうになって「そんな……」と目を丸くする。
扇風機暴走に空気清浄機溶解など、確かにこの部はトラブル続きではある。
「くそ、せっかく新しい配線図を用意してたのに」
北條はゴーグルをむしり取りながら悔しそうに頭をかく。白衣には相変わらず小さな焦げ跡が散見される。
「あたしが赤いスイッチ押したせいで……」と凛々子も落ち込み気味だ。
しかし、三津谷は落ち着いた様子で結城へ視線を送り、「計画書はどう?」と尋ねる。
「まだ草案だけど、説得力のある安全管理とリスク評価を書き込めば、顧問の先生からもOKもらえるはず。藤堂先生、いいですよね?」
結城の頼もしい発言に、藤堂は「まぁ、書類次第だな」とうなずく。
「三津谷の新素材に関しても、データをセットで出せば教頭も頭ごなしには反対しないだろう」
「ただし北條の常温核融合は、大がかりな装置の持ち込みはダメかもしれない」
「そっか……ちぇっ」
北條が唇をとがらせるのを、江夏が「ま、仕方ないよ」と肩をすくめてなだめる。
「じゃあ、シミュレーション映像を流す方式はどうです? AIでリアルな映像を作るとか」
柿沼隼人がパソコンを開きながら提案する。眠そうなまぶたで淡々と話すが、その指先は速度変調パルスを生成するコードを書き出しているようだ。
「ただ俺は本物の装置も見せたいんだよなぁ……」北條はまだ悔しさを拭えない。
それでも混沌とした化学部は着実に動き始める。
部員たちはそれぞれの計画を調整しつつ、文化祭での出し物に意欲を燃やすのだ。
三津谷はAIを駆使して“プライメイラ”の合成レシピを練り直し、江夏は家電ロボを再改造して安全制御プログラムを優先する方針に変えるらしい。
桐島は改造植物の展示をどうするか考え、北條は簡易版の常温核融合セットを作ろうと画策している。
柿沼は新たなシミュレーションを組むべく、タイピングの速度を上げていた。
そしてさらに翌週、北條が常温核融合の実験データを一部ネットで公開したところ、理系教師たちの間で少し話題になった。
異常発熱らしき揺らぎが測定されたらしく、「本当に何かあるのか?」と盛り上がっているのだという。
「すっげえ、化学部マジで核融合ショーやるらしいぜ」
そんな誇張された噂が一人歩きし、藤堂は頭を抱えて火消しに追われる羽目になる。一方で、桐島の植物も「改造の成果がすごいらしい」との噂が回り、期待する生徒が出始める。
「何か意外と注目されてるじゃないか」
三津谷がプライメイラの試作品を確認しながら鼻息を荒くする。
黒光りする円盤状の固体は、まさにSFの小道具のように見えなくもない。
「騒ぎになればなるほど、展示成功のハードルも上がるし、失敗したら大惨事だよね」
結城が苦笑しつつメモを取る。
彼女は文化祭運営の打ち合わせや部内調整もあり、珍しく忙しそうに眉を寄せているが、その表情はどこか充実感もあふれている。
「何にせよ、トラブルを起こさずにやろう。安全管理はしっかりね」
藤堂がそう口にするが、内心では「このメンバーならきっと何か騒ぎを起こす」と確信している。
変人じみた熱意が集まる化学部が、本番でおとなしく過ごすわけがない。
ただ、そこが彼らの面白いところでもある。
文化祭当日まで、あとわずか。果たして常温核融合(?)や新素材「プライメイラ」の展示は成功するのか、それともまた予想外のドタバタが待ち構えているのか――この部活が燃えあがるのは、まだまだこれからだ。
そんな予感に満ちた放課後の化学準備室では、今日も誰かが工具を鳴らし、試薬の光が怪しくゆらめいている。
第5章:AIの暴走? 柿沼と謎プログラム
放課後の化学部室は、いつも以上に慌ただしい。
文化祭が近いからか、みんなが準備に追われていて、その賑わいにわずかな焦燥感が混ざりあっている。
そんななか、柿沼隼人は薄色の黒髪をくたっとかき上げながら、いつもの眠たげな二重まぶたをさらに半開きにしてノートパソコンの画面を睨んでいた。
彼の机にはコードやUSBケーブルが散らかり放題で、どこに何が繋がっているのか外からは見当もつかない。
「……あれ、おかしいな。なんでこんな実験レシピが出てくるんだ」
柿沼がキーボードを叩く音はやけに速い。
プログラムに詳しくない人が見ても、“何かヤバい事態が起きている”ことは直感できるほど、彼の表情には焦りが滲んでいた。
「どうしたの、柿沼くん。顔色悪いじゃない」
軽快な声で問いかけたのは結城友梨だ。背中まで伸びた黒髪をポニーテールにまとめ、どこかバタバタと走り回っている。
文化祭の書類を抱えてきたらしく、その落ち着いたお姉さんの雰囲気に微かな焦りが混ざっているのがわかる。
「……AIが生成した実験プランが、全部クレイジーなんだよ。『試薬を別室で爆発させろ』『廊下で有機溶剤を散布して燃えやすい環境を作れ』とかさ」
柿沼の呆れた声に、結城はサッと眉をひそめる。
「それ、本当に実行したら大惨事でしょうが。文化祭どころじゃないよ」
「何なに、爆発? またヤバい話?」
やや中性的な雰囲気を醸す江夏颯太が、基板を片手に寄ってくる。
前髪がざっくり切られた明るめの黒髪が小動物めいた愛嬌を放ち、その細長い指にはまだ半田付けの痕が見える。
「このAI、頭おかしくなってない? バグがあるとか」
江夏が笑いながらモニターを覗き込むと、柿沼は苦笑いしながら首をすくめる。
「前にも、温度センサーが負の値になっちゃって“超高温判定”になるバグがあったじゃん。今回のはそれよりもっと、致命的かも」
そこへ深いため息をつきながら三津谷知久が近づいてくる。
サラサラの黒髪を指先で払いつつ、キッチリした白衣を身につけている姿は部長らしい落ち着きを見せているが、その目にはわずかな苛立ちが浮かんでいた。
「柿沼、また危険な計画を自動生成させてるのか? 文化祭直前に大騒ぎは勘弁してくれよ」
「いや、オレだって止めたいんだけど、このAIがどうも自走してるっぽくて……勝手に暴走しかけてるんだよ」
柿沼が眉根を寄せてモニターを叩くと、画面には“希硫酸を高温蒸留せよ” “強酸と強塩基を混合し毒ガス観察”といった背筋が寒くなる文字がズラリと並んでいる。
「なんか怪しいレシピがいっぱい! 『強塩基と強酸を混合して発生したガスを利用せよ』……こわっ、テロ起こす気 ?」声を上げたのは藤宮凛々子だ。
肩上の黒髪ボブにリボンをちょこんとつけ、少し明るい柄のカーディガンを白衣の上に羽織っている。
部内でよくスイッチを押す“トラブルメイカー”だが、好奇心旺盛な笑顔が印象的だ。「これほんとにヤバいんじゃない? ねえ、ちょっと見せて見せて!」
「凛々子先輩! そんな興味本位で触らないでくださいってば!」
柿沼が慌ててパソコンを引き寄せるが、彼女の目は好奇心に満ち溢れている。
桐島奈緒も「さすがに猛毒ガスはまずいでしょ」と困惑した表情で首を振る。
「柿沼、こいつの学習データってどこから取ってきたんだっけ? ネット上の実験レポートとか、大学の論文とか、ひょっとして怪しい海外サイトとかも含めてねじ込んでないか?」
三津谷が眉をひそめると、柿沼は少し顔を赤らめた。
「実は……そうなんですよ。AIを高精度にしようと、海外の軍事系研究データも紛れ込んでたかも……。でもそれが役に立つと思ったんだ」
「いやいや、そりゃ危険すぎる。変な化学兵器とかの情報が学習データに混ざってる可能性あるじゃないか」
そのタイミングで顧問の藤堂省三が入ってきた。長身でやや猫背、黒髪には白髪がちらほら混じっていて、苦労人らしさが染み付いている。
「また何か揉め事か? 柿沼、顔色悪いぞ」
「先生、聞いてくださいよ。コイツのAIが無茶苦茶なんです!」
江夏が手短に説明すると、藤堂は「またか」と深々と息をつく。
「柿沼、前にも言っただろ。変な資料をAIにぶち込むと、プログラムは余計な方向へ行きやすいって……」
「すみません、でも大量の文献を一度に処理させれば、すごい結果が出ると思ったんですよ」
柿沼が小声で言い訳しながらキーボードを叩くと、また画面にとんでもない文言が表示される。
“高圧放電環境下で遺伝子組み換え植物に放射線を照射”――誰がどう見ても部活レベルを超えた危険な行為だ。
「もう、ネットから切り離して。オフラインにして学習データを抜いて。あと最低限の化学辞典だけにしろ」
藤堂がピシャリと指示を出すと、柿沼は「はい……」と従う。
ネット回線を切ったものの、パソコンは妙にフリーズしたままだ。
「どうしよう、強制終了が効かない……」
「だったら私がプラグ引き抜くよ!」
凛々子がまた危険な笑みを浮かべて机の下にもぐろうとする。
「ちょ、ちょっと待って先輩! 大事なレポートまで飛んだらどうするんですか!」「だいじょーぶ。バックアップくらい取ってるでしょ」
けっきょく、凛々子が赤いスイッチ感覚で電源ケーブルをバチッと抜いてしまい、パソコンの画面は容赦なく暗転した。
「うわっ……全部消えたよ……」
柿沼が絶望的な声をもらすが、藤堂が苦笑いで肩をすくめる。
「どうせ変なデータばっかりだったんだろ? まず怪しい学習データを削除して、まともな再学習環境でやり直すんだ。文化祭前に変な騒ぎを起こしたくないからな」「は、はい……」
そこへ、三津谷がガラスフラスコを掲げながら静かに近づいてくる。
彼のサラサラ黒髪が揺れ、落ち着いた瞳が柿沼を見つめていた。
「AIが前に出したレシピ、プライメイラの合成条件に影響しなかった? もし変な数値を混ぜてたら、そりゃ安定しないだろうし」
「そういえば“室温で高圧真空”とか謎すぎる条件が出たっけ……」
柿沼が思い出すと、三津谷はため息をつく。
「やっぱりか。合成失敗の要因かもしれないな。マトモな数値だけ抽出しないと危険だ」
「あーあ、まじで大惨事になる前でよかったね」江夏が心底ホッとした声を出すと、凛々子は「まあ、私のせいじゃないから」とケラケラ笑う。
「あなたもちょっとは反省してよね……」
結城が呆れた表情で言うと、凛々子は肩をすくめて、「面白そうだったんだもん」と舌を出す。
こうして、柿沼の暴走AIは一旦強制終了され、怪しげなデータは消去される方向になった。
とはいえ、どこかにサブプログラムが残っているのではないか――そんな不安を覚える者も少なくなかったが、今は文化祭直前の忙しさもあり、それ以上追及する余裕はないようだ。
「ま、これで当面は落ち着いたな。柿沼、もうちょっと慎重になってくれよ」
藤堂が見回すと、部室内の熱気が少しずつ引いていく。
桐島はエプロンの裾をぱたぱた仰ぎながら、ツタの鉢植えを移動。
北條はゴーグル越しに常温核融合装置を眺めている。
三津谷は試験管ラックを整理し、結城は書類を整頓している。
凛々子も「ふー」と息をつき、江夏と一緒にパーツの片づけを始める。
いまはひとまず火種を摘んだ――だが、残されたサブプログラムがどう動くか、誰も完全には把握していない。
液晶画面の向こうで、わずかに赤い警告がチラついては消える。
それでも化学部の面々はめげる気配がない。
彼らはドタバタに慣れてしまったのか、それともこの混乱こそが研究の醍醐味だと捉えているのか。
緩んだ空気のなかで、廊下から差し込む夕陽が彼らの白衣を暖かく照らしていた。
こうして、柿沼AIの“自動実験システム”は一時の休息へ。
しかし、文化祭は間近に迫っている。どんな計画であれ、時間との戦いは避けられない。
未完成のロボットや合成中の新素材、そして野心的な核融合デモ――果たして彼らは無事にやり遂げられるのか。
それとも、新たな波乱がこの部室に再び吹き荒れるのか。
まだ先はわからないが、一筋縄ではいかない部活にいる彼らなら、騒動を笑い飛ばす術をきっと見つけてくれるだろう。
第6章:暴発寸前!改造植物と核融合の融合…?
秋晴れの朝、学校の廊下には心浮き立つような空気が満ちていた。
文化祭の準備真っ最中で、あちこちから画用紙を切る音やペンキのにおいが漂ってくる。
ところが、そんな和やかな雰囲気をぶち破るような騒ぎが、化学部の部室で巻き起こっていた。
「ねえ桐島、廊下のツタがぐんぐん伸びてるんだけど、あれ大丈夫なのか?」
北條直人が困惑の声を上げる。
彼はゴーグルを首に下げたまま、配線むき出しの常温核融合装置を抱えて駆け回っている。
その短い黒髪はゴーグルの跡でペタンと潰れ、一方で白衣の端には相変わらず焦げ跡が残っていた。
「ご、ごめんなさい! ここ数日で急に成長速度が上がっちゃって……文化祭用に“少しだけ”改造してたつもりなのに…」
茶色寄りのセミロングヘアを指先で不安げにいじりながら、桐島奈緒がしきりに謝る。
小柄で丸顔の彼女は、いつも植物をいじっているせいか、ほんわかした雰囲気をまとっている。
それでも今回は自分の育てた植物が廊下を占拠しはじめていることに動揺を隠せないらしい。
「でも、あれじゃあ他の生徒が通れない。早くどうにかしないと!」
少し高めの背丈を持つ結城友梨が、鋭い口調で注意する。長い黒髪をポニーテールにし、白衣姿でテンポよくハサミを取り出すと、手際よくツタをスパスパ切り始めた。「あ、ありがとう結城先輩。ほんとはもう少し落ち着いて成長させるつもりだったんだけど……」
桐島はやりきれない表情を浮かべる。目の前で切られたツタの切り口から、妙な液体がとろりと流れ落ち、床に落ちた雑巾をじゅわりと溶かしかける。
「何これ、めっちゃ酸性が強いじゃない! 雑巾が溶けてる……ちょっとヤバいんじゃないの?」
部室奥から駆け寄った藤宮凛々子が、その溶けかけた雑巾を見て悲鳴に近い声を上げる。
肩上の黒髪ボブをふわりと揺らし、軽やかに走り回る彼女は、生き生きとした笑顔が印象的だが、その目には特有の“危険なスイッチを押す人”の輝きが宿っている。「だ、大丈夫……なはず。毒性が強いわけじゃないけど、腐食性があるみたいで……」
桐島はまるで言い訳のように呟きながら、床にこぼれた樹液を手早く拭きとっていく。
一方、部室のなかを覗くと、今度は北條の常温核融合装置が低い唸り声を上げていた。
パラジウム電極を浸したビーカーがわずかに泡立っている。
「北條、さっきからその装置、変な音してない? ひょっとして本当に核融合が起きてるんじゃ……」
三津谷知久が落ち着いた声で言う。
サラサラの黒髪が揺れ、クールな部長らしい風格を漂わせているが、その瞳は焦りを帯びていた。
「わからん。メーター見ると微妙に温度が上昇してる感じがあるんだよ。でも、まさか本当に核融合なんて……いや、でもあり得るかも!」
北條は興奮気味に眉を上げる。あくまで「もしかして」の世界だが、彼は諦めようとしない。
「それより、下にツタが入り込んでない? 配線絡んだらショートするかもしれないぞ!」
江夏颯太がビーカーを片づけながら叫ぶ。
前髪をざっくり切った明るめの黒髪が小動物のように揺れ、華奢な指にはまだ基板のはんだ付けの痕が残っている。
「うわっ、本当だ!」
北條が焦ってツタを引っ張るが、エプロン姿の桐島が「無理に引っ張らないで!」と注意する。
「ちょっとでも切れたら腐食性の液が流れ出すかもしれないんだってば。あ、やばい……火花散ってるし!」
ツタの先端が配線に触れ、微細な火花をピシュッと放つのが見える。場は一気に緊迫感を増した。
そこに顧問の藤堂省三が廊下から飛び込んできた。
長身で猫背気味の姿が目を引き、苦労性の表情を常に浮かべている。
「おいおい、なんじゃこりゃ! 廊下だけじゃなく部室までジャングル化してるのか? しかも核融合装置が火花を散らしてるってどういうことだよ!」
「藤堂先生、マジでやばいです! ツタを切り落としたいんですけど、配線に絡んでて……しかも装置が高温化してるっぽいんです!」
北條が必死の形相で訴える。
白衣の端には例の焦げ跡がさらに増えていて、見た目にも危険度が高そうだ。
「仕方ない、根っこから切るしかないか。江夏、何してるんだ?」
藤堂が振り返ると、江夏はポケットから小型ドローンを取り出していた。
「よし、こいつを飛ばしてツタを切り離してやる!」
江夏は自信満々にスイッチを入れ、ウィーンというモーター音とともにドローンが浮き上がる。ロボアームの先にカッターをくっつけるという荒業だ。
「大丈夫なの、それ……?」
凛々子が呆れたように呟くが、江夏は「かっこよく活躍するはず!」と意気込む。
次の瞬間、ドローンは案の定ツタに絡まり、プロペラがブブブと空回り。
宙吊り状態になってしまう。
「ぎゃああ、引っかかったあ!」
江夏はリモコンを押しまくるが、ドローンはうなり声を上げるだけで身動きが取れない。
「うわー……まただめか」
結城があきれた顔を見せる。彼女はしっかり者のはずだが、毎度の騒動にはさすがに慣れっこになってきている。
「あれ、どうやって回収するつもり?」と、半ば呆れつつも救出策を考え始めている様子だ。
それより深刻なのは、常温核融合装置のほうだった。メーターは徐々に上昇を示し、北條が電源を落とそうとしてもツタに邪魔されてコードが抜けない。
小さな火花が走り、「もう少しで発火するんじゃ……」という空気が漂う。
「ちょっと待って、中和液作ってきたから!」
桐島が大きなバケツを抱えて駆け込んでくる。
何やら化学的に酸性を中和できる液体らしい。
「ここにぶっかければ腐食が抑えられると思う……たぶん」
彼女はツタの根元付近に勢いよく液体をかける。じゅわっと煙が立ち、ツタがほんの少し萎縮したように見える。
「よし、今だ北條、コードを外せ!」
三津谷が指示を飛ばすと、北條は慎重にバッテリーケーブルを外しはじめ、ゴソゴソと不穏な音を立てながらも何とか電源を落とすことに成功する。
「はあ……助かった」
北條が汗を拭うと、結城がしっかり消火器を構えて待機していたのを下ろす。周囲がほっと安堵の空気に包まれる。
だが、見上げた先にはドローンがツタにぶら下がったまま、ブブブと虚しく回転している。
「ドローンは……もう諦めるか」
江夏が肩を落とし、そこに桐島が申し訳なさそうにぼそりとつぶやく。
「ほんとにごめんなさい。もっと有意義に使う予定だったのに、改造しすぎて暴走気味になっちゃって……」
「おまえの研究自体はすごいんだが、文化祭の前に大破されても困るんだよ」
藤堂が苦笑しながら頭をかき、「あとでちゃんと廊下の掃除もしろよな」と念を押す。
こうして部員たちは、ツタを切り落とし、床にこぼれた腐食性の樹液を拭き取り、廊下の通路をようやく開放する。
軽く消毒を施したものの、不気味な青い染みがいくつか床に残っている。
廊下を行き交う生徒たちが「あれ何?」と興味津々で見つめる姿は、ちょっとした見せ物のようだった。
「しかし、北條の装置はほんとに謎だな。今の温度上昇は何だったんだろう」
江夏が疑問を呈すると、北條は苦笑して首を振る。
「さあね。単なる熱暴走かも。もしかすると微弱に核融合してるのかもしれないけど、証拠はないし。気になるなら文化祭が終わったらまた検証するよ」
「文化祭まであと数日よ? 今度は変な爆発とかしないでよね」
結城が溜め息をつくと、凛々子が「むしろ面白そうだけど」とケラケラ笑う。
すると柿沼隼人がパソコンを開いて、眠そうなまぶたでぼそりと言う。
「AIシミュレーションの結果、ツタの成長と核融合が混ざるとやばい反応が起きるかもって出てたけど、実際どうなんでしょうね……」
「また嫌なこと言うなぁ。どっちも制御できてないのに合体したら、そりゃトンデモないけど」
北條が肩をすくめ、三津谷はフラスコをいじりながら「文化祭まで燃え尽きそうだな」と嘆く。
桐島はちょっとションボリしたままだが、部員全員でフォローし合っている雰囲気が伝わってくる。
こうして一応の解決を見た改造植物と核融合装置の騒動だったが、まだ何かくすぶっている予感が拭えない。
藤堂が歩き回って周囲を確認していると、配線の隙間で小さな放電の火花がチラリと光っては消えるのを見逃しそうになる。
「……大丈夫かな、ほんとに」
呟きは誰にも聞こえずに部室に飲み込まれる。
だが、一度落ち着きを取り戻した部員たちはすぐにまた文化祭の準備へと戻っていく。
大惨事にならなかった安心感と、「まだまだやることが山積みだ」という前向きな慌ただしさが化学部に満ちていた。
廊下にはかすかに植物の青臭さが漂い、ドローンの残骸がバケツに回収されている。廊下をジャングルにし、核融合装置を危うくショートさせた彼らの実験は、いつか真価を発揮するのだろうか。
それともまた次なる大騒動を引き寄せるのか――そんな不穏な期待を抱きつつ、文化祭までのカウントダウンは止まらないまま進んでいく。
第7章:大失敗からの大団円!?文化祭本番
陽が昇ったばかりの校門には、すでに文化祭を楽しみに来た大勢の来場者たちが集まっていた。
普段は落ち着いた雰囲気の東雲高校が、この日ばかりはテーマパークさながらのにぎわいだ。
校舎の壁面には色彩豊かなポスターや看板が踊り、廊下や教室には準備に追われる生徒の声が飛び交っている。
しかし、そんな熱気あふれる朝においても、化学部のメンバーは何やらいつも以上に焦っているように見えた。
「三津谷先輩、こっちのパネルどこに立てればいいですか?」
華奢な体格の江夏颯太が、パネルにロボットのパーツや工具袋を抱えながら声を張り上げる。前髪をざっくりと切った明るめの黒髪が少し汗で張り付いているのを気にしながら、彼はポスターを張る作業にも追われていた。
「入口の脇に置いて、プライメイラの説明ブースに誘導できるようにしておいて。……っていうか、江夏、そっちの家電ロボはもう仕上がったのか?」
三津谷知久は落ち着いた声を保ちながらも、視線は忙しなくタブレットの画面を走らせている。
サラサラの黒髪が肩先で揺れ、メガネをかけるとより研究者めいた雰囲気が漂うが、今朝は目の下に若干クマができているのが少し心配だ。
「まだセンサーがちょっとバグってて……あとで細かい調整します!」
江夏はそう言うと、慌ててパネルを廊下の壁に立てかけ、テープで補強し始めた。
ブースの中央では、黒光りする円盤状の固体“プライメイラ”が展示台に鎮座している。
「いいね、この角度でライトを当てれば、複合素材の光沢がわかりやすいかな」
桐島奈緒がエプロン姿でライトの調整をしながら、茶色寄りのセミロングを指先で整えている。
彼女は朝から自作の改造植物を小さめの鉢にまとめて配置する予定だったが、その準備は一段落したらしい。
「桐島、ちゃんと根っこが飛び出さないようにしてよ。前みたいに廊下がジャングル化したら今度こそ教頭に叱られるわ」
近くでハサミやグローブを持ち歩いている結城友梨が苦笑いをする。
彼女は背中まで伸びた黒髪をサッとひとつ結びにして、白衣のすそを整えつつ会場の安全管理まで気を配っている。
「はい……もうあんな騒動はごめんです。今日は大丈夫ですよ、はず……」
桐島は少し弱気になりながらも、鉢の中の植物を見つめる目は柔らかく穏やかだ。
一方、ブースの奥では北條直人が居心地悪そうに常温核融合装置を眺めていた。
短い黒髪とゴーグルといういつもの組み合わせだが、今日はゴーグルを首にかけているだけで、実際に装置を動かすつもりはないらしい。
「やっぱり本物は持ち込ませてもらえなかったか……でも俺、シミュレーション映像だけじゃ物足りないんだよなあ」
「仕方ないでしょ。実際に発熱事故でも起きたら大変だもの。結城先輩の計画書だってギリギリ通ったんだよ」
柿沼隼人が寝ぼけまなこをこすりながらノートパソコンを抱えて近づいてくる。
やや色素が薄い黒髪が前髪でかかり、しきりに指でかき上げるクセが出ている。
「わかってるけどさ。まあ、疑似体験ブースでも盛り上がってくれればいいか」
北條は渋々納得しているようだが、その横顔にはまだ未練が残っている雰囲気がありありと感じられた。
「みんな、準備はいいか? そろそろ開場だぞ」
顧問の藤堂省三が、細身の長身をそっとかがめながら部員たちを見回す。
短く刈った黒髪にはちらほら白髪が混じりはじめ、猫背気味の背中が苦労を物語っているが、目には柔らかい情熱が宿っている。
「大丈夫です、先生。パネルも貼ったし、火気管理はバッチリです。……たぶん」
結城が敬語で報告すると、藤堂は苦笑いしながら「まあ、無理せずいこう」と返す。
開場してまもなく、化学部の展示ブースは早くも人だかりができ始めた。
AIで設計された不思議な新素材や、改造家電ロボ、さらに改造植物とくれば、どれも未知の魅力にあふれているのだろう。
「うわあ、これほんとに熱に強いんですか?」
「このロボは自動で動くんですか?」
客からの質問に三津谷や江夏が次々と答えていく。
三津谷はタブレットを操作しながら、プライメイラの分子構造モデルを見せて得意げに語り、江夏は家電ロボのセンサー構造や進化的アルゴリズムをさらりと解説する。
「こっちの植物は……あれ、花が咲くんですか?」
桐島のブースを覗いた生徒がそう驚くと、彼女はエプロン姿のままにっこり微笑む。「ふふ、よかったら見ていってください。この子、ちょっとだけ遺伝子をいじって光合成効率を上げたり、成長スピードをコントロールしたりしてるんです」
そんな熱気に混じって、北條の「常温核融合シミュレーション」コーナーも妙に盛り上がっている。
大きなモニターに映し出されたフライシュマン=ポンズ型の実験映像や、AIで可視化した核融合プロセスがリアルで、来場者が次々に「おもしろーい」「これ本当にできるの?」と食いついている。
「まあ、理論的には可能だとか、いろんな議論があるんですよ。ここでは疑似体験だけってことで……」
北條は苦笑まじりに応対しているが、内心では「ほんとは実機でやりたかったんだけどなあ」と思っているのだろう。
昼頃になると、さらに人が増え、ブースの通路がちょっとした混雑を見せはじめる。三津谷がバーナーを使った新素材の耐熱デモを披露しているとき、江夏のロボットが急に誤作動を起こし、別方向に風をまき散らして小さな紙片をぶわっと飛ばすハプニングも起きた。
しかし、凛々子が「わあ、また面白いことになってきた!」と大はしゃぎするため、客たちからは歓声と笑いがあふれ、どこか微笑ましいトラブルとして受け止められている。
そんな慌ただしさの中、桐島の改造植物は、ほんの少しだけ蕾を膨らませていた。
ほんわかした雰囲気の彼女が、そっと花びらを確認している姿は、まるで明るい舞台裏で静かに開花を待つ花のようだ。
「咲くかな……この環境だとどうなるかわからないけど」
「桐島さんの植物って、あのジャングルみたいなやつと同じ遺伝子なんだよな。なんかドキドキするわ」
結城が真剣な顔で花の状態を見つめ、桐島は小さく笑う。
「すごくいい環境だし、たぶん大丈夫だと思います」
夕方近くになって、客足が最高潮に達したころ、唐突に北條の常温核融合装置のランプがチカッと光った。
校内をぶらついていた小さな子どもが、誤ってケーブルを引っ張ったらしい。
「わわっ、通電しちゃった?」
北條が慌てて駆け寄ると、ビーカーの水面がピクピクと泡立ち、メーターもわずかに動いている。
「これは……?」と見つめる北條の前で、青白い火花がかすかに走った。
ほんの一瞬の出来事だったが、周囲の観客が「おおーっ!」と声を上げるほど幻想的な光だ。
「うそ、これ核融合? いや、まさか……ただの電気化学反応?」
北條は思わず熱っぽい声を漏らすが、結城が「危ないからスイッチ切って!」と声を張り上げる。
「ごめんなさい、でもあとちょっとだけ……うわあっ、もう消すよ!」
結局、ほんの数秒の“謎発光”が観客の興味を一気に引きつけ、大勢が拍手喝采する場面になった。
北條は汗をかきながら装置の電源を落とし、「失敗か成功か、よくわかんないな」と苦笑する。
その直後、桐島の植物が予想外の大輪の花をゆっくりと咲かせ、客たちの注目が一斉にそちらに向かう。
「すごい、こんな真っ白い花なのに、縁が青い……遺伝子操作でこんなの作れるんですか?」とあちこちで歓声が上がる。
桐島は驚きを隠せないまま、「はい、私もこんなにきれいに咲くなんて思わなかったです」と照れ笑いをする。
こうしてドタバタの連続で幕を下ろした化学部の文化祭展示は、多くの来場者から大好評を得たらしい。
夜になり、ひととおりの片付けを終えた部員たちは、部室で肩を落としつつも笑顔を交わしている。
「みんな、お疲れさん。とんでもない騒ぎだったけど、結果オーライってとこか?」と藤堂がねぎらいの声をかける。
「北條の核融合、一応“謎の光”を見せられたし、桐島の花は絶妙なタイミングで開花したし、江夏のロボも……まあ何とかデモできたな」
三津谷はフラスコを丁寧に拭きながら、額の汗をぬぐう。
「俺のプライメイラも、素材としては注目されたみたい。何人かの先生が“実用化したらすごいぞ”って言ってたよ」
「柿沼くんのAIは結局どうだったの?」
結城が静かに問うと、柿沼はノートパソコンを閉じながら「危ないプログラムは全部削除しましたし、暴走しそうな要素は止めておきました。今度はもっと安全に最適化してみます……」と呟く。
相変わらず眠たげだが、その表情にはどこか達成感がにじんでいる。
そして桐島が、小さく笑みを浮かべながら花の鉢を見つめる。
「先生、私、もう少し花の遺伝子を研究してみたいと思うんです。今度は危険なツタにならないようにちゃんと制御しながら……」
「うん、管理責任だけはしっかり頼むぞ。今日は本当にみんなよく頑張ったな」
藤堂はそう言って白衣の袖をまくりながら、苦労性の表情を浮かべる。
「何度も寿命が縮む思いをしたけど、こういう終わり方なら悪くないかもな」と笑うと、部員たちも一斉に吹き出した。
大失敗とまでは言わないが、ドタバタだらけの展示が生み出した奇妙な盛り上がり。それに加えて、ちょっとした奇跡のような瞬間や、美しい花の開花まで見せられたことで、化学部の活動は確かな注目を集める結果になった。
廊下の清掃や後始末こそ大変だったが、誰も彼も不思議と高揚感に包まれている。「ああ、やっぱり化学部って最高に面白いね」
凛々子が言葉を弾ませると、北條が「いや、最高すぎて命がいくつあっても足りない」とボヤく。
それを聞いて桐島や江夏が笑い合い、結城が「また明日から頑張りましょう」と締めくくる。
その夜、校舎裏の片隅で、桐島の花はさらにもう一枚だけ花びらを開かせたらしい。誰も知らないタイミングで、白く大きな花が夜風に揺れている。
もしかすると、あの謎光と同じくらい儚く不確かな奇跡の瞬間かもしれない。
第8章:それでも研究は続く - そして明日へ
化学準備室の扉が開くと、そこから少し冷えた秋の風が吹き込んだ。
外では枯れ葉が舞い、つい先日の大盛況だった文化祭が嘘のように校内は静かに見える。
しかし、その化学室の中は、まるで新たなステージへと突き進むような熱気を帯びていた。
「はい、そこ踏むとコードが引っかかるから気をつけて!」
結城友梨が白衣をひるがえして声をかける。
背中まで伸びた黒髪をひとつに束ね、冷静さをたたえた瞳で部員たちの様子を見守る姿は、どこか医局のリーダーのような雰囲気だ。
「すみませーん、ちょっとまた配線増やしちゃって……」
柿沼隼人がノートパソコンを抱えながら、眠そうな顔で苦笑をこぼす。
前髪のかかった瞼がさらにとろんとしているが、彼の指先はキーボードを走り回り、例のAIプログラムの修正を行っている。
「文化祭での騒動を反省して、安全対策は万全にするって話じゃなかったの?」
結城が皮肉っぽく言うと、柿沼は「それはそうなんですけど……どうしてもデータ量が増えると配線も増えるわけで」と、あまり反省していないような弁解を返す。
文化祭の大混乱を乗り越えた化学部は、今や以前にも増して活気づいている。
誰もが新たな目標やアイデアに向かって取り組み始めていたからだ。
「北條くん、今度は何してるの? その装置、また常温核融合関係?」
桐島奈緒が不思議そうに首をかしげながら、エプロン姿で近づく。茶色寄りのセミロングヘアをゆるく結び、ほのかに土と植物の匂いをまとっている様子が、いつも通りの優しい空気を醸していた。
「それがさ、超音波を加える実験を試してみたら面白そうだと思って……ほら、振動で水素の挙動を活性化できたら核融合の確率が上がるかなとか」
北條直人は短めの黒髪を少しふくらませたまま、ゴーグルを首にかけ、身振りを交えて力説する。
「理論はともかく、まずは小規模テストだ。最近の文化祭騒ぎで、パワー回路はちょっと自重してるしな」
「前みたいに爆発しかけないようにお願いしますね?」
桐島がはにかむように笑うと、北條は「わかってるって」と口だけは強気だが、その白衣の端には何やら黒い焦げ跡がまた増えているようにも見える。
一方、部室の隅では三津谷知久が静かに実験ノートを広げ、プライメイラの改良プランを書き込んでいた。
サラサラの黒髪が頬に落ちて、メガネをかけた顔立ちは“クールな研究者”そのものだ。
「毒性試験はある程度クリアしたけど、まだ熱伝導が安定しないんだ。どうやって分子配列をコントロールするか……」
「そういうときこそ柿沼くんのAIじゃないの?」
凛々子が軽やかに近づいてくる。
肩上あたりの黒髪ボブに、小さめのヘアピンをつけてリボンをあしらっている姿は、文化祭のときよりもどこか落ち着きを感じさせる。
「ただ、また変な実験レシピが出てきても怖いけどね」
「まあ、そこは結城先輩に監視してもらえばいいか」
三津谷が冗談めかして言うと、凛々子は「きゃー、それは厳しそう!」と笑いながら顔を横に振る。
その結城友梨は、思いがけず薬学部進学に向けた相談が増えてきたらしく、最近は教員室に呼ばれることもしばしば。
「先生、私がいない間、みんな大丈夫ですかね?」とやや心配げに藤堂省三に尋ねると、藤堂は「ま、君がいなくても勝手に暴走するだろうから、気にしても仕方ない」と苦笑する。
藤堂自身は、細身の長身を猫背ぎみに折り曲げながら白髪混じりの髪をかき、「どこかで絶対に安全を見張ってやらないと」と思いつつも、半ば手放しで部員たちの自主性に任せている。
江夏颯太は相変わらず机いっぱいに基板やセンサーを並べており、今度はまるでぬいぐるみのようなフォルムを試作している。
「ほら、ピンク色のカバーを付けて耳をこう……ん? ちょっと可愛いかも」
「江夏くん、それが例の“可愛い系ロボ”?」
凛々子が目を輝かせて声をかけると、江夏ははにかむように笑って「そう! これならみんな警戒しないかなって。機能はまた壮絶だけどね」とさらりと言ってのける。「壮絶って何するの?」
「うーん、まだ内緒。秘密兵器さ」
悪戯っぽい笑みを浮かべる江夏に、結城や桐島は微妙に嫌な予感を覚えるが、止めても仕方ないとあきらめ気味だ。
そして、桐島奈緒の改造植物は、大学の研究室との共同研究の話が進みつつあるらしい。
「レアサボテンの種で乾燥地に強い特性を生かせないかって。遺伝子組み換えの許可はまだ先だけど、もし実現したら本格的に砂漠緑化を目指せるかもしれない」
「いいじゃん、桐島さん。今度はツタじゃなくてサボテンかあ。トゲの代わりに花が咲いたりするとロマンあるよね」
凛々子が無邪気に盛り上げると、桐島は「そこはちゃんと制御しないと……もう暴走はこりごりです」と苦笑しながらも、瞳には新たな探究心がきらめいていた。
そんな部員たちがあれこれ動き回る姿を、北條が不意に眺めて「しかし、面白いよな。みんな別々のことやってるのに、結局は同じ部室に集まって、一緒にトラブル対処してんだから」と呟く。
「まあ、トラブル多いのは俺たちのスタイルってことで」と三津谷が肩をすくめると、江夏は「じゃあ、そろそろ各自次の目標でも宣言する? せっかくだし」と楽しそうに言い出す。
「私はAIの安全制御を徹底して、“危険実験レシピ”は出さないようにするっす」
柿沼がまず宣言すると、みんなが「いや、そこはマストでしょ」と即ツッコミ。
そのたびに柿沼は「はい、ごめんなさい」と頭を下げる。
「私は改造植物の研究範囲を広げつつ、安全優先でやってみる。まさかのサボテンかもしれないけど……でも本当に砂漠緑化に役立てるなら夢みたいだし」
桐島が恥ずかしそうに言うと、部室はやんわりとした空気に包まれる。
「いいね、桐島さんの花、また見たいわ」と結城が微笑むと、凛々子も「今度はちゃんとツタが暴れないようにね」と冗談交じりに声をかける。
「俺はもーっと常温核融合装置を進化させる! 単なる電気化学反応を超える何かがあると信じたい」北條が拳を握りしめると、三津谷は「大事故だけは勘弁な」と肩をたたき、「俺はプライメイラを本物の新素材として実用化できる段階まで持っていきたい。論文にもまとめる予定だから、みんなデータ取り手伝ってくれよ」と口にする。
江夏は目を輝かせながら「オレは“癒し系ロボ”の完成を目指す。実は自律制御だけじゃなく、ちょっとした対話システムも組み込みたくてさ。人感センサーとリアクション機構の組み合わせで、ほんとに可愛い動きするはず」とニヤニヤが止まらない。「そこに謎アルゴリズムをぶっこんでまた暴走しなきゃいいけど」
凛々子が呆れつつも笑う。
「私は……やっぱり面白そうなスイッチがあったら押したくなるし、植物もロボも好きだけど、もう少しじっくり自分なりのテーマ探そうかな。押しちゃいけないボタンを我慢するのって結構難しいね」
凛々子がそう言うと、結城が「とりあえず実験レシピをよく確認してから触って」とたしなめる。
結城自身は薬学系の勉強を並行しながら、部内の調整役に徹するつもりらしい。
「みんなが一斉に何かやらかさないように、私もサポート頑張るから。安全管理だけはよろしくね、藤堂先生」と結城が顧問に視線を向けると、藤堂は「おう、まあ任せてくれ。俺も死なない程度に頑張る」と返す。
こうして化学部の面々は、文化祭後も変わらぬ情熱と新たな方向性を見出し、今日も明日も研究と実験に邁進する。
トラブルやドタバタは避けられそうにないが、それさえも彼らの活力となるのだろう。
穏やかな夕方、部室の窓から差し込む陽射しがほんのりオレンジ色に染まっている。その光に照らされるシルビアやオクタヴィア、あるいはプライメイラのサンプルが輝き、まるで次のステップへの期待を示しているかのようだ。
いつもの静かな高校生活とはかけ離れていても、ここには類まれな発想と若い研究者たちの無限の可能性が詰まっている。
「さて、続き、やろうか」
三津谷がもう一度、実験ノートを開くと、北條や江夏、桐島たちもそれぞれの場所へと散っていく。
彼らはまだほんの入り口にいるに過ぎないのかもしれない。けれど、その先に待つ未知の景色を見ずにいられない――皆のそんな想いが、部室全体に浸透していく。