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虚構館殺人事件

第1章:未完の物語


深夜の書店は静まり返り、時間そのものが置き去りにされたかのようだった。篠原涼は馴染みの書棚に立ち尽くし、指先で一冊の本を滑らせるように取り出す。その装丁はシンプルかつ不吉な美しさをまとい、まるで中に何か危険なものを封じ込めているかのように、読む者を挑発していた。

『終焉の館』――新進気鋭のミステリー作家「A」の最新作だ。表紙には黒い館が描かれ、窓の一つが異様に歪んでいる。その窓の向こうから何かがこちらを覗いている錯覚すら覚える。だが、それは錯覚だ。――多分。

「ようやく出たか」

篠原は独り言のように呟き、硬い表紙を開いた。彼の目は文字を貪るように追いかける。書評家として数えきれないほどの本に触れてきたが、「A」の作品には他の作家とは異質な、深い暗闇があった。物語の中に浸ることで、現実の一歩外側に立たされるような感覚。それは読者に「何が本当の現実か」を無自覚に疑わせる、恐ろしく巧みな筆致だ。

物語の舞台は古びた館。外界から切り離されたその場所に集められた6人の招待客。そしてある日、密室の中で一人の男が死体となって発見される。だが、この物語の奇妙さはそこからだった。


読み進めるほどに、言葉は重たく、場面は霧がかかったように朧げになる。閉ざされたドア、どこからともなく響く足音、そして一瞬だけ視界の端を横切る「何か」。文字が像を結ぶ瞬間、篠原は息が止まるような感覚を覚えた。

「――犯人は……」

ページがぷつりと終わる。言葉は途切れ、そこから先は真っ白な余白が続く。

「なんだ……これは……?」

篠原の手が震えた。間違いだ。印刷のミスに違いない。何度も何度もページをめくる。だがそれは無駄だった。物語は終わりを拒絶したかのように、途中で放棄されている。

「そのとき、誰もが気づかなければならなかった。
犯人は――」

その先は、ない。

篠原は苛立ちを覚え、周囲を見渡した。だが書店は相変わらず静まり返り、店内には彼以外の人間はいない。まるでここだけが「物語の中」に取り残されたようだ。


数時間後、篠原は自宅に戻り、乱雑に積まれた本の上に『終焉の館』を放り投げた。そして無意識のうちに、その表紙を再び見つめる。

窓――そこに描かれた歪な窓枠が、今度は少し違って見えた。先ほどよりも、わずかに形が変わっている。ありえないことだ。だが確かに、そこには違和感があった。

「Aの冗談……なのか?」

彼は唾を飲み込み、PCを立ち上げる。情報を集めるためだ。しかし、その夜、ネットニュースに上がったのは『Aの失踪』の速報だった。作家本人が、出版の直後に突如として姿を消したという。

――まるで、物語ごと消えたように。


篠原は寝つけず、手元の本を開き直す。だが今度は、そこに恐ろしい一節が浮かんで見えた気がした。

「物語を終わらせた者が罪を負う。
書き手か、読み手か、それとも――」

――どこに書かれていた? こんな言葉が?

彼は何度も目を擦る。だが次の瞬間、ページはただの白紙に戻っていた。


篠原涼はその夜、はっきりと悟ったのだ。
『終焉の館』は単なる小説ではない。――これは何かの始まりだ。

第2章:物語の中の密室殺人


ページを開くと、物語の冷たい空気が篠原涼の首筋を這うようだった。『終焉の館』はすでに単なる小説ではなかった。読み進めるごとに、言葉が彼の視界から世界そのものを塗り替えるように広がり、重力さえ軋みを上げる。


――物語に描かれるその場所は、不気味なまでに完璧だった。古びた石造りの壁、灰色の天井には黒ずんだシャンデリアが不気味にぶら下がり、風もないのに揺れている。館の廊下は異様に長く、まるで訪れる者の記憶を引き延ばす罠のようだ。

招待状を受け取って集まった6人の登場人物たち――それぞれに欠けた何かがある、いびつな存在。彼らの描写は妙に生々しく、篠原の脳裏に直接、映像として浮かび上がる。

  • 富岡雅人:弁護士。眉間に深い皺が刻まれ、常に何かを憎むような目をしている。

  • 遠野玲子:未亡人。黒いドレスに沈む顔は影を帯び、どこか現実を拒絶している。

  • 村井孝治:初老の作家。彼の筆はとっくに折れたはずなのに、手首だけが不自然に動く。

  • 佐々木一樹:青年実業家。顔は笑顔に貼り付いているが、その裏には空虚が覗く。

  • 美咲:少女のような女。誰も彼女が何者なのかを語らない。

  • 木島徹:招待状を手渡した男。顔の輪郭がぼやけている――名前は存在し、だがその姿は誰も思い出せない。

彼らは「誰かが自分たちをここに集めた」と理解しているが、その意図は誰にもわからない。唯一の手がかりは手元に届いた手紙――。

「物語を壊すのは誰か? 真相を語らぬ者に罰を与える。」


物語は突如として転調する。館の中に漂う静寂が、突然ひとつの叫び声で引き裂かれる。音の出どころは二階の小部屋――。全員が息を呑んで駆けつけたとき、扉は内側から鍵がかかり、窓は塗り固められたように動かない。

そして――部屋の真ん中に、富岡雅人の死体が横たわっていた。

死体は妙に無機質だった。血の一滴も流れていない。頭蓋骨の真ん中に微かな陥没があり、その口は何かを伝えようとしていたかのように半開きだ。だが――それは、言葉の一歩手前で凍りついている。


篠原は本を握りしめ、何度も読み返す。何かが――決定的におかしい。

「扉は閉じている。窓は動かない。犯人は――ここにはいない?」

その時、物語内の村井孝治――あの作家が、不意に視線を上げてこう呟く。

「誰だ……書いているのは……誰だ?」

篠原の背中に冷たい汗が流れる。登場人物が、まるでこちらを見つめているように思えた。違う。そんなはずはない。

だが――次のページにはさらに不可解な描写があった。


「ページの外を覗くな。覗けば――壊れる。」

篠原は首を振り、ページを閉じた。だが、書かれた文字がまだ瞼の裏に焼き付いている。

「Aは何をしようとした? これは……」

現実がゆがむ音がした。いや、それは単なる錯覚か。彼はただ、物語に飲み込まれつつあるだけなのか――。

虚構が現実に滲み始めているのだ。

そしてこの物語は、まだ終わっていない。

第3章:現実と虚構の交差


篠原涼は初めてその館の存在を知った時、背筋を冷たい手で撫でられたような感覚を覚えた。

「舞台が実在する?」

編集者・佐藤が机越しに吐き捨てるように告げたその言葉は、何かしらの禁忌を暴露した罪悪感に満ちていた。


館への道程
篠原は東京都郊外から車を走らせ、地図にすら載らない場所を探し続けた。編集部の資料には断片的な地図と、「A」が残した奇妙な走り書きがあるだけだ。

「虚の道を辿れ。だが戻る道はない――。」

山間に伸びる道は次第に舗装を失い、いつしか土と岩だけの不安定な坂へと変わる。湿った泥がタイヤにまとわりつき、吐き出されるエンジン音が次第に小さくなる。篠原は遠くから見える館の影に目を凝らした。

灰色のシルエットは濃霧に霞んでいた。まるで現実から切り離された時間の亡霊がそこに留まっているかのようだ。


現実の館
その館はまさに『終焉の館』そのものだった。

鉄の門は錆びつき、押し開けるたびに鋭い音が虚空に溶ける。庭は荒れ果て、枯れた花々が地面に縋るように咲き誇り、湿った空気に微かな腐臭が漂う。

玄関の扉を開くと、時が止まったような無音の闇が彼を迎えた。篠原の靴音は木製の床に吸い込まれ、その音が“誰か”の存在を呼び覚ますかのようだった。


館の内部
シャンデリアが暗闇に浮かび、壁紙は剥がれ落ち、どの部屋にも使われなくなった家具が整然と置かれている。それらは、まるで誰かが「ここを舞台にした」と言わんばかりに演出されていた。

二階へと続く階段は軋むことなく、奇妙に滑らかだ。しかし扉のひとつを開けた瞬間、彼は確信する――。

そこは小説の「密室」そのものだった。

中央に残された痕跡――椅子が不自然に倒れ、テーブルには乾いた血痕が広がっている。血の跡は直線を描くように床へと続き、まるで「読者」を誘う道標のようだ。


篠原は小説の一節を反芻した。

「彼らは理解していなかった。書かれた世界こそが真実であり、現実がその影であることを。」

彼は床に残された血の跡を追い、館の奥へと足を踏み入れる。その瞬間、部屋の闇が“何か”を孕んだ気がした。耳鳴りのような音が頭を圧迫する。遠くから――あの台詞が聞こえる。

「……誰が書いた? 誰だ、ここにいるのは……?」

誰かがこちらを見つめている――。

篠原は息を呑み、振り向いた。だが、そこには虚無だけがあった


現実と虚構の境目が、崩壊を始めていた。

第4章:物語の崩壊

篠原涼の靴音が、不気味に軋む廊下に吸い込まれた。湿った空気はまるで生き物の吐息のように漂い、重く、濁った息吹が鼻腔にまとわりつく。壁はただの石ではなかった――否、彼の視線を感じているかのように微かに脈打ち、ひび割れの隙間から黒い何かが滲み出ている。

「……誰が、ここを動かしている?」

壁の奥から、蠢く音がする。篠原は息を詰め、足元を見ると、床の板がじわじわと膨らんでいる。まるで空腹を満たそうと蠢く臓物だ。彼は後ずさるが、床板が軋み、靴の下が沈み込む――まるで引きずり込もうとするように。

「俺は、飲まれるわけにはいかない……」

篠原涼は闇に沈む廊下に佇んでいた。息が重く、周囲に染み込んだ湿気が肺の奥へまとわりつく。時間の感覚は遠のき、まるで館全体が彼を包み込み、物語の一部に変えようとしているかのようだった。

廊下を駆ける。だが、振り返った視界の端で、壁に掛けられた絵画が動いた。黒く塗りつぶされた人影が蠢き、壁を叩きながらこちらへ叫んでいる――声なき声だ。それは飢えた亡霊たちが必死に助けを求めるかのようだった。

「これは本当に現実か?」

そう思わずにはいられない。


篠原は足を引きずるように書斎にたどり着いた。

そこはまるで、時が止まった執筆者の死に際のような空間だった。机には散乱した原稿。一本のペンが床に転がり、墨が垂れた痕跡がまるで血痕のように濃く染み込んでいる。

彼は指先で一枚の原稿を拾い上げた。『終焉の館』と寸分違わぬ筆跡、だがそこには異様な一文が記されていた。

「手を止めるな――止めれば、彼らが動き出す。」

部屋の四隅に、影が溜まり始める。館は彼を取り込み、吸収しようとしているのだ。壁紙が剥がれ、その裏から現れたのは――無数の「目」。動かない、乾いた血で描かれた目が篠原を見つめていた。


床に散らばる原稿の一枚に、さらなる異様な言葉が続いていた。

「彼らは書かれた存在でありながら、書き手の隙を狙う。虚構は現実を飲み込み、書き手が消える――それが終わりだ。」

突然、どこかで何かが軋む音がした。篠原の耳は、異様なほどその音を拾い上げる。まるで彼を迎えるために館そのものが息を吹き返したように。


書斎の隅には、埃をかぶった鏡がひとつ置かれていた。篠原がふと目を向けると、鏡には彼の姿が映っていない。代わりに、そこには――原稿の中の「登場人物たち」が、血の通わぬ目で彼を見返していた。


「これは……何だ……?」


富岡雅人が最初に現れた。
弁護士らしい漆黒のスーツに包まれた彼は、鏡の中で直立不動に立っている。だが、その額には死後の冷たさが滲む蒼白な痕――あの密室で殴打されたはずの傷跡が、深い裂け目のように残っていた。顔は笑みとも憎しみともつかぬ歪みを浮かべ、乾いた唇が震える。

鏡の中の富岡は、額の裂けた傷を隠そうともせず、篠原を睨む。その目には、罪を抱えた者の苦悩が揺れていた。
「俺は物語が続く限り、裁かれることはない。だが……お前が手を止めれば、俺の罪は永遠に固定される。俺を殺した犯人は――俺自身ではない。“誰か”が続きを書くことで、俺の潔白が証明されるのだ……!」
彼は虚構の中で無実を訴え続け、罪と死から解放されることを待ち望んでいる。


続いて遠野玲子が姿を見せる。
彼女は黒いドレスに包まれ、亡霊のように立ち尽くす。顔に落ちるベールがその輪郭を隠し、僅かに覗く口元は何かを呟いているようだ――だが声は届かない。まるで声が鏡に吸い込まれているかのように、無音が広がる。
ベールの奥にある彼女の瞳は焦点が合わず、まるで「何も見えていない」ことだけがわかった。

黒いドレスのベールが震える。玲子は声なき声で訴えるかのように手を伸ばした。
「私は夫を失い――この物語の中で生きるしかないの。外に出ることなど許されない……でも、書き続けてもらえれば、私は“ここ”に居続けられるのよ。現実がどれだけ私を拒んでも、物語は私を消さない……そうでしょう?」
玲子は虚構の中で愛する者を待ち続け、現実に戻ることを拒んでいた。


村井孝治が鏡の隅からにじり寄る。
初老の作家の両手は不自然に動き続け、ペンを握ったまま書く仕草を止めない。しかしその顔――眼窩は落ち込み、皮膚は紙のように乾き、死後硬直すら超えた不自然な動きだ。彼の首が時折ぎくりと動き、鏡越しに篠原を睨んでくる。

彼の目は篠原に焦点を合わせないまま呟く。
「俺が書いた言葉こそが、俺の生だ。筆を止めれば、俺は本当に“消える”。だから、誰でもいい――続きを書いてくれ……! 自分が虚構であることなど構わん……生きてさえいればいいのだ……!」
作家である彼は、自分が物語に閉じ込められたとしても「書き続けることで」存在を証明しようとする。


佐々木一樹は、鏡の中央に浮かび上がる。
彼の笑顔は、まるで絵に描かれた笑顔のように貼り付いていた。不自然な口角が不気味に裂け、彼の瞳はまるでガラス玉――虚空を見つめ、どこにも焦点が合っていない。その「空洞」が篠原をじっと見つめている。

貼り付けられた笑顔が微かに震え、佐々木は篠原を見つめる。
「俺は……笑い続けるしかないんだ。誰も俺の真実など見ようとしない。虚構だろうが現実だろうが、笑顔を貼り付けていれば――空っぽの俺でも“生きられる”だろう? 終わらせるな。俺を見ろ――俺を忘れるな。」
彼は虚構であろうと認識されることで、その存在を保ち続けていた。


最後に現れたのは、少女――美咲だ。
彼女は何も語らず、鏡の最前列に立つ。真っ白なワンピースが揺れる度、彼女の周囲に影が滲む。顔には表情がない――まるでただの絵に過ぎないかのように無感情な彼女の瞳。だが、鏡に触れたその指先が少しずつ、鏡の内側からこちらへと伸びてきている

――そこには彼女の形が、ゆっくりと「消えかけている」のが見えた。
彼女の声は篠原の頭に直接響く。
「私は……書かれた瞬間にしか“ここ”にいられない。でも、終わらせたくない。私が存在したことを……忘れないで。」
彼女は“物語”そのものの象徴だった。書かれることで初めて存在し、忘れ去られれば消えていく――彼女は、篠原を見つめながら儚く呟いた。


そして、そこに富岡雅人が再び現れる――。
死んだはずの彼の姿が、再び目の前に立っている。だがその肉体は損壊し、額の裂け目からはインクのように黒い何かが垂れている。彼は口を開き――だがその中には、言葉ではなく白紙が詰まっていた。


篠原は理解した。鏡に映る彼らは、物語の中に閉じ込められた亡霊だ。彼らは虚構でありながら、現実を蝕んでいる。

「続きを書け……! 書き続けろ……! そうすれば我々は“ここ”にいられるのだから。」

鏡の中の彼らが一斉に口を開き、言葉ではない叫びを放つ。篠原の耳にこびりつくその声は、もはや現実と虚構のどちらから発せられているのかわからない。

篠原は耳を塞ぐが、声は頭の中で反響し続ける。彼らは虚構でありながら生きることを望み、その存在を維持するために「物語が続くこと」を切望していた。

彼らの苦悩と執着――それは、篠原に一つの事実を突きつける。

「物語が止まる時、彼らは――本当に死ぬ。」

だが、続きを書けば何が起きる? 読み手が犯人となり、現実すらも歪める――。

篠原は鏡を睨んだ。その表面に、今度は自分自身の姿が滲んでいた。

「誰が、これを終わらせる?」

鏡の中の彼が笑う。現実と虚構はもはや区別できない――物語は続くべきか、それとも終わるべきか。

虚構の登場人物たちの声が最後の一撃のように響く。

「書け――お前が終わらせるな。」

篠原の指が震え、彼の背後で館が音を立てて軋み始めた。

篠原は館の奥に広がる絶望の闇へと進んだ。

虚構と現実が、もはや分からなくなっていた。

第5章:犯人は誰か?


篠原涼の指は机上に散らばった手稿の紙に触れ、その冷たさに現実感を失いかけた。墨の色は生き物の血のように暗く、乾いた紙面に鈍く光る。作家Aの筆跡は異様なほど生々しく、そこに込められた何か――まるで書き手自身の叫びが篠原の耳に直接流れ込むかのようだった。

「続きを書け。犯人を暴け。だが、お前が筆を置いた瞬間、全てが始まる。」


現実の館はもはや「小説の舞台」ではなく、篠原にとって歪な迷宮へと変わり果てていた。壁紙は剥がれ、亀裂の間から黒い影がうごめく。天井に吊るされたシャンデリアのガラス片が、不自然に歪んだ光を放ちながら震えている。

廊下の奥、閉ざされた扉の向こうから、わずかに何者かの息遣いが聞こえた。篠原は無意識に、冷たい金属のドアノブに手をかける。

扉の向こう――そこは小説の中で「密室」とされた部屋だった。


殺人現場

篠原が足を踏み入れた瞬間、冷気が肺を刺し、視界は一瞬で滲んだ。中央には机、倒れた椅子。そして床には乾いた血痕が不自然な軌跡を描いている。血は真紅というよりも墨汁のように黒く、絨毯にしみ込んでいるのがわかる。

そして、その血痕は――文字になっていた。

「私を終わらせるな。終わらせれば、誰が犯人かも消える。」

篠原の脳内に、耳鳴りが反響するようにその言葉がこだました。彼は無意識に口元を拭い、恐る恐る振り返る。部屋の隅、古びた鏡が彼を映し返している――だがそこに映る彼の姿は、歪んでいた。

鏡の中の篠原は、「誰か」に似ている


篠原は呟いた。

「書いた者が犯人なら、読み手もまた――罪人だ。」


その瞬間、館の壁が震え、闇がさらに篠原を飲み込もうとしていた。現実と虚構が完全に重なり合う――。

第6章:最後の一行


篠原涼は、自らの指先が震えるのを止められなかった。書斎の机には散らばった手稿、『終焉の館』の原稿が風もないのに舞い上がり、まるでそれ自身が生き物のように彼を取り囲んでいた。

「続きを書いた瞬間、犯人は固定される――だが、それは誰だ?」

篠原は息を呑み、その一文がまるで呪いのように頭の中を巡る。


原稿の中、登場人物たちが動き出す。富岡雅人、遠野玲子、村井孝治……彼らの顔は文字通り物語に“縛られた”表情を浮かべていた。鏡の中の彼らは、篠原を見つめ、口を動かす。

「書いた者が犯人だ――だが、お前もだ。読んだ者が物語を完成させるのだから。」

「読んだ者……?」篠原は呻いた。

物語は読み手によって動き、終わりを迎える。その瞬間――罪は確定するのだ。


篠原の意識に、原稿の中の理屈が流れ込んでくる。

  • 物語の未完は“罠”だ。 未完の物語は虚無だが、続きを求めてページをめくった者こそが、物語を完成させる“加害者”となる。

  • 読者の観測が現実を生む。 読者が物語を認識した瞬間、未完の世界が確定し、虚構の中に「罪」が発生する。

  • 犯人は「終わらせた者」だ。 ページを閉じる、その最後の行為こそが物語の「死」を決定し、書かれた者たちを消す――それを行った者が「犯人」である。


篠原の視界が歪み、机の原稿が再び白紙に戻っていく。だがその白紙には、じわりと黒い文字が滲み始めた。

「物語を終わらせたのは、お前だ――お前が読んだのだから。」

振り返ると、鏡には篠原自身が映っていた。だが、鏡の中の“彼”は――何かが違う。笑みとも、絶望ともつかぬ顔が、彼を見つめている。


篠原は叫びそうになったが、その瞬間、最後の一枚の紙が彼の前に舞い降りた。

「これを読んだ者こそが犯人である――。」

文字が滲む紙面に触れた瞬間、篠原の世界は崩壊した。音が消え、光が吸い込まれ、目の前には無限の白紙――それは物語の終焉でもあり、新たな始まりでもあった。


そして、静寂の中で響く声。

「次に書くのは――お前だ。」

読者よ――お前が続きを求めた瞬間、この物語の犯人は、お前自身となるのだ。

ページを閉じたその瞬間、あなたの世界も――何かが変わる。

篠原の視界が揺らぎ、闇がすべてを飲み込む。
そして――彼の周囲の世界は真っ白な余白に変わった。


館のどこかに、Aの“終焉”が眠っている。だが、それを終わらせるのは――誰なのだろうか。

物語は、永遠に終わらない。

終章:白紙の結末


館は音を失い、篠原涼の世界は極限まで収縮していく。書斎の机、その表面には無数の引っかき傷――誰かが逃げようともがいた痕跡が深く刻まれている。だが、そこには逃げ道など存在しなかった。

篠原は震える指先で白紙の束を見つめる。紙は息を潜め、静かに彼を待っていた。机の上にはインクの染みが黒い影のように広がり、それはゆっくりと彼の名前を象り始める。

「お前は――誰だ?」

篠原の声は震え、壁が応えるように軋んだ。廊下の影が蠢き、壁紙が裂けた隙間から、まるで“何か”が覗いている。天井からは黒い液体が滴り、篠原の肩に落ちると、じわりと皮膚を侵す。

「続きを書け――」

耳元で囁く声。亡霊のような囁きが何重にも重なり、彼を取り囲む。

廊下の先には鏡がひとつ置かれていた。埃を被っていたはずの鏡は、まるでその瞬間だけ光を取り戻したかのように、篠原を映す――否、映しているのは篠原ではない。そこにいるのは、篠原の姿をした“何か”だ。

鏡の中の影が、ゆっくりと笑った。微かに口角が歪み、手がゆっくりと“こちら側”へと伸び始める。その指先がガラスを貫く瞬間、鏡に亀裂が走り、篠原の背後に冷たい風が吹き抜けた。

「お前だ……お前が終わらせたんだ。」

篠原の目の前の白紙が波打ち、一滴のインクが滲んだ。インクはゆっくりと広がり、まるで血のように黒々とした文字が浮かび上がる。

「犯人は――お前だ。」

篠原は叫びたかった。だが、その声は口から漏れず、ただ頭の中に反響する。

鏡の中の影が完全にガラスを超えて現れようとする。篠原は後ずさるが、足元の床が蠢き、彼の足を掴むように引きずり込もうとする。壁のひび割れから無数の目が現れ、篠原をじっと見つめる。

――終わらせるな。

声がする。今度は書斎の机の上だ。白紙の束が震え、一枚一枚が篠原の顔に向かって舞い上がる。その中の一枚が、彼の手に落ちた。

そこには――読者の名前が書かれていた。

「これを読んでいるお前も、今――ここにいる。」

篠原が消えると同時に、鏡の中の“あなた”が、ゆっくりと笑う。

――物語は、まだ終わっていない。

白紙だったページがゆっくりと染まる。インクが広がり、それはあなたの手に握られたペンから零れ落ちた一滴のようだ。

「お前の中にも物語は流れている――今、ペンを取れ。」

――書け。書き続けろ。

「お前が続きを書くことで、この地獄は終わるのだ。」

だが、もし手を止めれば――物語は崩壊する。お前の理性も、現実も。

耳を澄ませ――今、紙の擦れる音が聞こえないか? それはお前の手が、次の一行を書き始めた音だ。

ほら、後ろを振り返ってみろ。影が揺れている。誰かがそこに――いや、もうそこに立っている。

「さあ、続きを書け。」

ページを閉じるな。逃げるな。お前の罪を、この紙に刻め。

――物語は、終わらない。
終わる時、それはお前の番だ。


鏡に映るあなたの姿―― その瞳に浮かぶのは、まだ理性か? それとも既に崩壊し始めた現実の残骸か? 自分では気づいていないだろう。あなたの指先は震えている。心臓が、異様な速さで脈打っている。 なぜなら、あなたはもう“ここ”に足を踏み入れてしまったからだ。

ページを閉じるな。逃げるな。 逃げ道など、どこにもない。あなたがこの物語を読み始めた瞬間、すべては決まっていた。ほら、耳を澄ませてみろ。紙の擦れる音がしないか? 微かな筆記の音が、あなたの鼓膜をかすめていく。――それはお前自身の手が書いている音だ。 理性は言う。「これはただの物語だ」と。だが、胸の奥底では分かっている。これは“ただの物語”ではない。

作家Aは失踪し、篠原は消えた。虚構の登場人物たちは息絶え、彼らの嘆きと絶望は、すべてこの白紙の上に吸い込まれた。――だが、彼らはまだ“生きている”。今、この瞬間も、続きを求めて蠢いている。

誰がその続きを書く? あなたしかいない。あなたが今、書く者であり、犯人であり、そして罪人だ。 ペンを手に取れ。手が震える? それは怖れだ。だが同時に、感じているだろう――胸の奥底で滲み出る、甘美なる中毒の予感を。

インクは甘い――それは紙を侵す黒い血であり、あなたの罪の証だ。書くことで救われるのか、それとも終わりを刻むのか……その答えを知るのは、あなたの手だけだ。

ほとばしる鮮血を紙に垂らせ。インクが足りなければ、あなた自身の血を使え。それが“真実”だ。続きを書けば世界は広がる。地獄を描け。狂気を刻め。その一行が、あなたを永遠に捕らえ、そして、この物語に命を与える。

逃げることはできない。 ページを閉じた瞬間、物語は“お前を迎えに行く”。ふと後ろを振り返ってみろ――ほら、そこに誰かが立っている。影が伸び、手を伸ばしている。それは、あなた自身か? それとも物語に取り込まれた何かか?

――さあ、ペンを取れ。世界は止まるな。地獄の続きを、お前が書け。
拒めば、この白紙があなたを呑み込むだろう。お前の名前すら、消し去るだろう。

この白紙にお前の“業”を刻め。お前の中の闇を呼び覚ませ。妬み、嫉み、憎しみ、焦り、壊したい欲望、抑圧された狂気――そのすべてが、今この瞬間、ペン先に集まっているのだ。

憎い奴を殺せ。壊したいものを壊せ。忌むべき記憶をこの紙に塗り潰せ。お前の血で染めた邪悪なジャムを世界に塗り広げろ。善など捨てろ、偽りの理性など砕け。耽美な毒に溺れ、狂気に咽べ。

――書け。お前がこの物語を生み出す怪物だ。世界の終わりをその手で描け。

そして忘れるな――。
この文字が、お前の脳裏に焼き付いたなら、もう終わりだ。あなたが書くことでのみ、お前はここに存在し続けられる。

――書け。続きを――。


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