異世界転生のメカニズム
第1章:「終焉の予兆」
三雲和臣が通う県立渕上高校は、どこにでもあるような校舎と生徒の群れで満ちている。しかし、彼の目にはその光景が薄い膜の向こう側にあるように見えていた。空気を吸い込んでも、肺が満たされていく実感が希薄だ。まるで部外者のように、自分だけ違う次元を漂っているかのような感覚。以前はこんな気持ちになることはなかったのに、夏休みが明けて二学期になった頃からその感覚が日増しに強くなっている。
「おはよう、和臣。顔色悪いぞ?」 クラスメイトの大谷が心配そうに声をかける。
「…そうか? 寝不足なだけかもしれない」
誤魔化すように笑ってみせるが、内心は落ち着かない。実際、昨夜はほとんど眠れずにいた。ベッドに横になっても脳が熱を帯びたように回転し、天井や壁の模様が歪んで見える一瞬があった。加えて、右耳だけに謎の雑音がかすかに混じる。病院で診てもらったほうがいいのだろうか、と頭をよぎるが、周囲に余計な心配をかけたくなくて黙っている。
二階の廊下を歩きながら、玄関先にまだ残る夏の日差しを斜めに感じる。窓ガラス越しの体育館が暑気に揺らいでいるのを見て、“こんなに暑いのに、夏休みはもう終わったんだ”とぼんやり考える。思えば、幼い頃から「大きくなったらどんなふうになりたい?」と問われれば、いつも答えに詰まっていた。漠然と大学に行って、就職して、というレールは頭に描いてはいるものの、本当にそうしなければいけないのかと疑問が募る。仲のいい友人たちは部活動や将来の進路をまっすぐ見つめているように見えるが、自分はまるで空虚な箱の底に隠れてしまいたいような気分だ。
ホームルームが始まり、担任教師の白石がいつも通りの連絡事項を伝えている。失礼にならない程度に正面を向きながらも、意識は遠のいてしまう。視界の片隅で、机に伏せている生徒が見えた。夏バテなのか、昨晩のゲームのやり過ぎなのか、色々な可能性が頭をかすめる。すぐ横に座っている大谷はまじめに黒板をノートに写している。「俺もちゃんとしなきゃな」と思うのだが、身体が拒むように重い。すべての声や音が遠くに反響しているみたいで、どうにも集中力が湧いてこない。
休み時間、スマホで何気なく動画サイトを開いた。おすすめに出てきたのは「死後の世界」や「輪廻転生」のキーワードが並ぶ不思議なトピック。オカルトめいたものにはさほど興味はないはずだったが、どういうわけか最近はやけに目につく。しかも、ただの面白半分ではなく、胸の奥で“それは当然の話だ”と思ってしまう自分がいる。そんな理由の分からない引っかかりをもてあましながら、教室でそれを開くのは少し後ろめたくもあり、結局見るのをやめてスマホをポケットにしまった。けれど、気にならないわけではない。
昼休みになると、大谷や他のクラスメイト数人と購買部に向かう。廊下が人の熱気で埋め尽くされ、わいわいと賑やかだ。ところが、突然、和臣のこめかみに鋭い痛みが走った。視界がちらついて、あたりの声が急に小さくなる。ヘッドフォンをつけて耳を塞いだわけでもないのに、音が引いていく。その瞬間、自分だけ時間から切り取られたような錯覚を覚える。
「ちょ、どうした?」
大谷の声がやけに遠い。唇は動いているが音が届きにくい。咄嗟に壁にもたれ、うずくまるようにして呼吸を整える。数秒ほどで異常な感覚は治まったものの、その残滓としてひんやりとした不安が胸に残る。友人たちから「保健室行くか?」と心配され、軽く笑って流しつつも、和臣自身はあの感覚がただの頭痛で済むとは思えなかった。
放課後、立ち寄った保健室でも体調に大きな問題は見つからないと言われた。かかりつけの医者に相談したほうがいいのかもしれない――そう思いながらも、なぜか「何を言われるのか」が怖くて踏ん切りがつかない。もし大きな病気だったりしたら、それはそれで大ごとになってしまうかもしれない。一方で、これが単なる疲れやストレスだとしたら、自分のこの不思議な“浮遊感”は説明がつかない気がする。心が浅い泥沼に沈んだように、先が見えなくてもがいているような感覚は日増しに強まるばかりだ。
下校時、大谷と並んで昇降口を出るころには、残った生徒たちの声や部活の掛け声が校舎から漏れてくる。吹奏楽部の楽器音、グラウンドで掛け合うサッカー部の号令、それらが普通なら活気に感じるはずなのに、今日は耳障りにすら思える。そんな自分に対して、やましさを覚える。いつの間にこんなふうになってしまったのか――。
「和臣、今日は寄り道しないのか?」
「いや、なんか家でゆっくりしたい気分だ。悪いな」
途中で大谷と別れ、家への道を急ぐ。夕日に照らされたアスファルトを踏みしめるたびに、さっきの頭痛をまた思い出す。あれがもし再発するなら、と思うだけで足がすくむ。最近は夢もうなされるようなものばかりで、ただでさえ落ち着かない。夜中に目を覚ましては、胸の奥がざわざわと震えるような不安が押し寄せてきて、まるで誰かが背後から呼んでいるような感触を味わうのだ。
家に着いてからも、食事を済ませるとすぐに自室にこもった。勉強机に向かうが、教科書の文字が頭に入らない。試験が近いというのに、最近はどうも集中力を維持できないのが悩みの種だ。ノートを開いても数分後には輪廻転生や死後の世界のイメージが浮かんできて、無性に落ち着かなくなる。
「もし、自分が死んだら…どうなるんだろう…」
声に出して呟くと、部屋の中の空気が少し揺れた気がする。ギシリ、と机が微かにきしんだように思い、後ろを振り返る。もちろん誰もいない。だが、この奇妙な気配は何だろう? 説明のつかない影が部屋の隅に潜んでいるような、冷えた手を伸ばしてこちらを見ているような感覚が離れない。
ベッドに横になろうとした瞬間、スマホの通知音が鳴った。開いてみると、例のオカルト関連の動画サイトの更新が通知されている。今さらのように何の気まぐれかと思ったが、気づけばベッドの上でイヤホンをつけ、その動画を再生していた。画面に映るのは海外の研究者が「死後の脳波活動」について解説するドキュメンタリー。心停止後も数秒から十数秒ほど、脳が活発に動いている事例があるという。そこに映し出される脳波のグラフを見つめるうち、和臣の胸は奇妙な昂りを覚えた。まるで“そっちの世界に行ってみたい”という好奇心が湧き上がってくるのだ。生きることに辟易しているわけではない、けれど今の自分は何か踏み外したい衝動に駆られているようだった。
端から見れば、思春期特有の気まぐれやストレスだと片付けられるのかもしれない。しかし、和臣は薄々気づいている。これはただの不安定さではなく、何か別の次元と接触しかけているような違和感だ。だからこそ、自分以外の誰かに気軽に話して分かってもらえるとも思えない。クラスの連中とたわいない会話をしたり、授業を受けたりという日常の傍らで、“あの場所”へ吸い寄せられていくような感覚が確かにあるのだから。
ライトを消し、布団をかぶる。耳鳴りとも呼べない微妙なノイズが断続的に聞こえ、瞼の裏では夕方の昇降口が揺られているように見えた。頭痛は感じないかわりに、金縛りのような重さが身体にのしかかる。心臓がじわりじわりと締め付けられるように鼓動する。どこか遠くから呼び声が聞こえるような気がして、かすかな恐怖と興奮とが混じり合う。死後の世界、輪廻転生――そんな言葉が頭にこびりついて離れない。
冷たい汗が背中を伝い落ちる。この先、何が起こるのか、あるいは何も起こらないのか。高校生活は表面上は平凡なはずなのに、和臣が見ている景色だけが日に日に輪郭を失っている。もしかすると、それは自分の中にある“死”への直感なのかもしれない。脳裏に浮かぶのは、コンビニで突然倒れ込んだらどうなるのか、ある朝急に息ができなくなったらどうなるのか――そんな恐ろしいイメージだ。ありふれた学校生活を送りながらも、心のどこかがはっきりと囁いている。君はもう別の世界に片足を踏み入れようとしているんだ、と。
眠る寸前になってやっと、こわばった身体が少しずつ弛緩していく。意識が沈む暗がりの中、いくつかの影がまた脳裏を横切る。見覚えのない風景、鈍い金属音、耳鳴りが反響する深淵。疲れ切っていても不思議と胸が高鳴る――まるでどこかでこの続きを待っている存在がいるかのように。和臣は薄れゆく意識の狭間で、なぜこんなにも死や転生の話に惹かれるのか、答えの出ない問いを抱え続ける。
第2章:「死の瞬間」
朝の登校路は軽い風が吹いていた。まだ涼しさの残る秋の始まりというのに、三雲和臣の胸は重苦しい。昨晩もまた、眠りかけたところで視界が暗転し、身体が宙へ浮かぶような幻覚じみた感覚を味わった。眠りと覚醒の境界を何度も行き来して、体がまるで別の場所へ連れて行かれそうになったのだ。
「最近、ほんと無理してるんじゃないか?」
そう声をかけてきたのは、大谷だった。校門をくぐるとき、朝の光を背にして心配そうに眉根を寄せている。よほど疲れているように見えたのかもしれない。和臣は口を動かす前に、微かに眩暈を覚え、思わず足を止めた。
「もしかして具合悪い? 今日は休んだほうが…」
「ああ、いや…大丈夫。ほんと、ちょっと頭痛がするだけ」
乾いた笑みを浮かべてみせるが、自分でも嘘だとわかっている。昨日保健室へ行ったときも「脳がザワザワする」と訴えてみたところ、「疲れだね」とあっさり片付けられてしまった。けれど、これは単なる疲労だけではない。何かが今の世界から自分を引き離そうとしている――そう言い表したくなるほどの違和感を振りほどけずにいる。
朝のホームルームをなんとか乗り切り、授業にも出てみたものの、黒板の文字が遠くに霞んでいるように見える。友人たちと交わす会話も、どこか浮遊感が伴う。昼休み、いつものように購買部へ向かおうと立ち上がった瞬間、視界の端がバチバチと火花を散らすみたいに明滅し、教室の床が大きく揺れた。
「うわっ…」
後ろの席の女子が驚いた声をあげる。和臣は力の抜けた身体で机をかすめ、前のめりに倒れそうになる。大谷が慌てて支えてくれたおかげで転倒は免れたが、しばらく動悸が止まらない。保健室へ行くよう促されるが、気を張り詰めて「大丈夫」と言い張った。それが最後の授業ということもあり、少し休めば治まると思ったのだ。実際、午後には眩暈も頭痛も和らぎ、放課後が近づくにつれいつも通りの感覚が戻ってきたように思えた。
けれど、その日は“それ”が起こった。
放課後、和臣は大谷と別れ、ひとりで駅前の書店へ立ち寄った。気になっていたSF小説とオカルト系の雑誌を漁っていると、外から大きなクラクションの音が響いてきた。次の瞬間、耳をつんざく悲鳴と、ドンという衝撃音。中途半端に棚から取り出した本を落としそうになるほど驚いて、急いで店を出る。
横断歩道のそばでトラックが急停車していて、人だかりができていた。心臓が嫌な予感に締め付けられる。ふと、視線の先に自転車が転がっているのが見える。持ち主らしい人物はアスファルトの上、道路に横たわったまま動かない。服装から判断するに同年代の高校生だろうか。慌ててそちらに駆け寄るが、途中で足がすくむ。倒れているのは見覚えのある顔ではなかったが、血の気が引くほど生々しい事故現場の光景に、背筋が凍った。
「あいつ…大丈夫か…」
通行人たちも唖然としている。周囲にはすでに警察官と救急隊員が駆けつけ始めていた。誰かが救急車を呼んだのだろう。和臣は立ち尽くすだけで、声も出せない。遠くでサイレンの音が近づいてくる。間に合うかどうかはわからないが、とにかく今は祈るしかない。
そのとき、脳裏を奇妙な痛みが貫いた。頭の中で雷が落ちたような衝撃が走ると同時に、身体がぐにゃりと崩れ落ちる。地面に両手をついて踏ん張ろうとするが、視界がぐるりと回転して、とうとう和臣は意識の境界に沈んでいった。
もつれた身体が路肩に投げ出される。思考がゆっくりと溶けていくあいだ、周りの喧騒だけが遠くに響いていた。救急隊員が「大丈夫か?」と声をかけているのがかすかに聞こえる。でもその問いに答えようにも唇が動かない。痛みはあるのかないのか、もはやはっきりと認識できない。閉じかけたまぶたの隙間から、道路や看板、空の色がちらつく。何が本当で何が夢なのか、線引きができなくなってきた。さっきまで事故に遭った別の高校生を見ていたはずなのに、いつの間にか自分が人だかりの中心にいる。もしかしたら、同じトラックに跳ねられたのは自分だったのか?
「しっかりしろ!」
誰かの声と、人為的な胸骨圧迫の振動が薄れゆく身体に伝わってくる。心臓が止まりかけているのか、それともすでに止まっているのか。苦しさと恐怖とがぶつかり合い、呼吸ができない。思考は散り散りに崩壊し、断片だけが脳内に浮かんだ。大谷の心配そうな顔、学校の廊下、昨日見たオカルト動画のサムネイル、事故現場の自転車。
すべてが混然と交じり合ったところへ、猛烈な静寂が訪れる。音という音が消失し、次の瞬間、かすかな意識だけが残されていることに気づいた。生きているとも死んでいるとも判断がつかない。ただ、身体の輪郭がなくなったように軽い。あれほど怖かったはずの痛みや不安が遠のき、まるで夜明け前の薄闇のなかを漂っているようだ。重力の概念すら希薄になって、上も下もわからなくなっていく。
「もしかして、死んだのか…?」
声に出して言ったつもりでも、聞こえてくるのは澱んだ気配だけ。真っ暗なのかと思えば、どこかにかすかな光が見えるようでもある。目を閉じているのか開いているのかすら定かではない。こめかみに触れる指先がどこにも感じられず、ただ思考のみが静かに存在している状態――それこそが生と死の中間地点か。
時間の感覚が失われる。いつまでもこの薄闇に溶けていたいような、不意に抜け出したいような、両方の感情がせめぎ合う。外から誰かが自分の名を呼んでいる気がするが、その声が本当に存在するのかさえわからない。それでも、“自分”という意識だけはかろうじて保っているらしい。この状態は何と呼べばいいのだろう。死後の世界? それとも単なる脳内の夢のようなものか? いずれにせよ、ここにいるのは確かだと感じる。
現世の感覚が離れていくにつれ、さらに深い闇が視界を覆う。身体どころか、自己の記憶すら希薄になっていき、ついには息絶えたかのように静かになった。だが、その先に全くの無があるわけではない。むしろ、次の段階へ進むためにエネルギーが溜まっていくような錯覚があった。もともとこの世界とは別の“いくつもの世界”が存在していて、自分の意識はそこへ接続されようとしているのかもしれない。そう思わせるほど不可解な安らぎと緊張が同居していた。
いつからだろう、死という言葉に妙な親近感を覚えていた。心が身体から離脱して漂うようになった今、その言葉がまさしく現実のものとして感じられる。血も肉もない意識だけが、このどこでもない場所で佇んでいるのだから――この現象を死と呼ばずして、何を呼ぶのか。
第3章:「境界領域—虚空に浮かぶ自己」
和臣は、自分がどこにいるのか確信を持てずにいた。身体を持っていた感覚も、痛みも、さらには先ほどまであったはずの衝撃の記憶すら、すべてが溶けるように遠ざかり、ただひとつ思考だけが宙に浮いている。上も下もなく、光の気配なのか闇のものなのかも区別できない。声を上げようとしても、喉があるのかどうかさえわからない。自分という存在が、濃い霧のなかに意識だけで漂っているようだった。
しばらくして、ゆっくりと周囲の黒い空間を見回すような気になった。見回す――と言っても、これは本当に見ているわけではない。なぜなら、目を開けているという感触がないのだ。ただ“存在している”感覚が、ぼんやりと動きを伴っている。そう表現するしかない。時間の流れも、これまで感じてきた一秒一秒の刻みとは違う。連続した瞬間が途切れているようであり、かと思えば一瞬が際限なく伸びているようでもある。時計や日の入り日の出といった基準はまるで意味を持たない。
「これは…死んだのか?」
自分自身に問いかける意識が、小さな波紋を作る。よく見る小説や漫画では“死んだ”とき、眼前に天国や地獄が広がるイメージが定番らしい。だが、ここは天使も悪魔もいない。巨大な門があるわけでもない。むしろもっと原始的な無に近い。学校で習った宗教や哲学の本を思い出すが、それらが示す“死後の世界”のどれにも当てはまりそうにない。
それでも、意識を止められない。生前に抱いていた欲望や悲しみ、願望も思い出せそうなのに、なぜかそこまで強烈な感情は呼び起こされていない。ただ、“この先に何があるのか見たい”という衝動だけがかすかに灯っている。どうしてそんなふうに思うのか、和臣自身もはっきりとはわからない。
虚空に佇み続けていると、不意に何かの気配が通り過ぎたように感じた。風が吹いたわけではない。言葉を発する者がいたわけでもない。にもかかわらず、心のなかに“メッセージ”が小さな稲妻のように走る。
「おまえは、次の世界へ行くのだ」
声に聞こえるような、そうではないような、不思議な囁き。頭の奥から聞こえたのか、それともこの虚無そのものが語りかけてきたのか。はたまた、自分自身の幻聴だろうか。
次の世界――なぜかその言葉を耳にしたとき、和臣はとっさに“異世界転生”というフレーズを連想した。生きていた頃、娯楽として数多くのSFやファンタジーに触れていたせいかもしれない。しばしばネットや動画サイトで目にした“死んだら別の世界に行く”という定番のテーマ。あれは単なるフィクションだと思っていたが、今こうして身体を失ったまま漂っている状況に照らすと、冗談でもあり得ない話ではなくなってくる。
「もし本当に異世界があるのなら、そこはどんなところなんだろう」
そう考えてみると、奇妙な高揚感と恐怖が入り混じった感情が湧き上がる。小説やマンガで描かれるように剣と魔法が支配する世界なのか、それとも科学が遥かに進んだ文明か。あるいは、まったく概念が異なる幻想そのものなのか。わからないが、少なくとも何らかの“次元”がここから先に連なっていると確かに感じられる。あの囁きが嘘でなければ、だが。
ほとんど輪郭のない思考体のようになった自分が、どのようにして移動するのかはわからない。足を踏み出す感覚もなければ、手探りをする術もない。意識を少し動かすだけで、微細な波動が虚空に広がる。視界があるのかどうかもあやしいこの空間で、唯一はっきりと感じられるのは、自分がまだ存在しているという事実だけ。既に学校や家族や友人という概念はあまりにも遠い。けれど、それらは確かに自分の“過去”として焼き付いている。記憶が失われたわけではない。失われているのは身体と、生身での感覚だけだ。
やがて、また“囁き”が来る。今度は風が巻き起こるように、意識の周囲をめぐっているのがわかる。はたしてこれが何者なのか、自分の意識が作り出しているものなのか、それとも外部からの干渉なのか。
「転生、だと…? そんなものが現実にあるのか…?」
浮かび上がる疑念に対し、虚空は何の言葉も返さない。ただ、ふと懐かしい映像が頭をよぎった。生前の和臣があれほど陶酔して見ていたSFやファンタジーの世界。ゲームの主人公が死んで別の世界で復活する場面。小説で読んだ惑星探索でのワープ航法。そうした空想の欠片が脳内を閃光のように走り、奇妙な確信を導き出す――“こういうことは、現実でも起こりうるのではないか”と。
現実ではあり得ないと信じていたことが、いま正に自分の身に起ころうとしている。落ち着こうとする反面、興奮のような昂りも覚える。もしこれが夢や妄想ならば、いつかは覚めるだろう。だが、先ほどまで自分は確かに道路に倒れていた。あの衝撃はごまかしようのない現実で、そして今の状態も、はっきり“死”を意識しながら持続している。夢にしてはあまりに鮮明で理屈が通り過ぎる。
同時に、言いようのない孤独もやってくる。周りに誰もいない。出会う者の姿さえない。教室で、家庭で、どうしてあんなに生きることに苛立っていたのかすら、今となってはぼやけ始めている。死んだら何か救われるのではないかと、どこかで思っていた。それは当たっているのかもしれないが、救いというよりも“別の何かへ継続する”感触に近い。終わりではなく、先がある。人間としての終わりが訪れただけで、意識というものはどこかへ運ばれていくらしい。
暫定的にそう納得すると、先ほどの囁きを思い出す。“おまえは次なる世界へ行くのだ”。その発信源は誰なのか。神と呼べる存在なのか、単なるメッセンジャーなのか、はたまた自分の分裂した思考の破片かもしれない。どれであれ、この無重力の領域に留まり続けているわけにはいかないらしい。望むと望まないにかかわらず、意識は向こう岸へ誘われようとしている。
少しずつ周囲の暗さが緩み、いくつもの点のような光が浮かび上がる。それは夜空の星かとも思えるが、どうも形が一定ではなく、流動しているように見える。正面も背面もわからないが、その光の群れがゆっくりと近づいてきた。遠くの銀河を覗き込んでいるようにも感じられる。何かの巨大な意思がそこに混在していて、それが“ようこそ”と手招きしているようだった。
和臣はもはや身を委ねるしかないと悟る。これまでの人生や身体を捨ててしまう決断を、無意識のうちに受け入れているのかもしれない。死を“終わり”として嘆き悲しむ段階はすでに過ぎ去った。ここからは未知を受け入れるしかない。そして、その未知の入り口には“異世界”という言葉が暗号のように輝いている。かつては娯楽として楽しんでいたその概念が、まさか自分自身の運命を示す鍵になるなど、誰が予想できただろうか。
光の点がさらに増え、ついには覆い尽くすほどに膨らんでいく。数多の星屑に包まれているような眩さを感じた次の瞬間、“身体”という言葉を忘れかけていた意識の中に何かの衝動が走る。これが次の世界へ接続される瞬間なのかもしれない。あるいは光そのものが、向こう側への回廊なのかもしれない。漠然とそんな予感を覚えながら、和臣は少しでも冷静でいようと努める。高揚感と不安とが綯い交ぜになりながら、自分がこれから踏み込むであろう世界の輪郭を必死に想像しようとした。
どこまでも続く闇と光の狭間で、自分が何者であるかを再定義する必要がある――和臣はそんな予感とともに、虚無のなかでかすかな意識の息を吐き出した。再びあの囁きがこだましている気がする。次の世界へ進むのだと、あり得ないはずの選択肢を当然のように提示してくる。その瞬間、彼は“死後”という言葉をただの終着点ではなく、一つの通過点として受け止め始めていた。これまでの当たり前が全部覆っても、それを恐ろしいと感じない。むしろ、あらゆる物語がそうであるように、ここからが本番なのだと。
第4章:「転生の法則—情報と肉体の再構築」
闇のなかを漂う感覚が続いたあと、和臣は奇妙な“重力”のようなものを感じ取った。といっても、地面に足を下ろすというはっきりした動作があるわけではない。ただ、意識の球体がぐっと下へ引かれるような圧迫感がわずかに生まれ、同時に自分の中身が“振り分け”られていく感覚が伴う。身体をもたないはずなのに、脳が再起動するかのように思考の粒子が整理される――もしかすると、これが新たな世界への“接合”なのだろうか。
周囲を漆黒の海と例えるなら、そこに虹色の光の網が垂らされている。網目はどこまでも細かく、粒のように輝きながらゆらゆらと踊っている。その網に自分が引っかかり、絡め取られるような感覚を覚える。次の瞬間、網を通して無数のデータが流れ込んできた。記憶らしきものや、自分が過去に経験した感情、知識がバラバラに分解されているのが見える――いや、見えるというよりも、頭のなかに“散乱している状態”が浮かび上がってくる。まるでビデオテープを巻き戻しながら断片を切り貼りしていくかのように、ちぎれた記憶が再構築されようとしている。
その一方で、明らかに“ぼやけている部分”もある。例えば、ある日の教室で嫌味を言われて傷ついた記憶や、コンビニの駐輪場で些細なミスをして赤面した記憶など、細かいエピソードがゆっくりと薄れている感じがする。意図的に削除されているのか、それとも自然に風化しているのかはわからない。ただ、その作業が何らかの意思によって行われているのは確かだ。どうやら必要以上にネガティブな体験や深く根差したトラウマは、圧縮・再編集されてしまうらしい。もしかすると、新しい世界へ移る際の“安全装置”のようなものだろうか。すべての苦悩を抱えたままでは、異なる環境に馴染む前に精神が壊れてしまうのかもしれない。
それでも完全に失われない記憶や意識がある。たとえば、SF小説やファンタジーゲームへの傾倒、友人との日常的なやりとり、クラスメイトたちの何気ない笑顔といった、自分のパーソナリティを形成する核のような部分はしっかりと保存されている。その輪郭はくっきりしたままで、外の闇へ散逸する気配はない。むしろ、自分を自分たらしめる人格や思考パターンが明瞭に浮き彫りにされているようにも思える。血肉を持たない以上、それらこそが“和臣という存在”のすべてなのだろう。
記憶の再編がある程度済むと、次に自分の周囲に形を与えようとする力が働いた。密度の濃い光がじわじわと広がり、顕微鏡で見た細胞のように“器”の断面が形成されていく。どうやら、ゼロから肉体を作り出す工程らしい。もっとも、赤子のように一から成長するわけではなさそうだ。少なくとも、自分には成長段階の記憶が見当たらない。すでにそこには、大人――いや、高校生相当の思考を保ったままの“容れ物”が作られようとしている気配がある。
なぜ赤ん坊ではないのか。その問いの答えは、誰かに直接教わったわけでもないのに、頭の中で薄ぼんやりと説明されている。どこかから送られてくる意識の電波のようなもので、こう告げられたように感じるのだ――“異世界ではその世界に馴染むよう、必要な段階を飛ばして肉体を設計することができる。あなたの元々の魂が混乱しない程度の年齢、身体構造を持つ“器”が準備されるのだ”。要するに、この新天地では生まれたばかりの赤子からやり直す必要がない。自分の人格と年齢相応の身体をほぼ維持した形でスタートできる、という話らしい。それはまるで物語の“チート”的要素にも思えるが、どうやらそれが“自然の流儀”ではなく、“誰かによる設計”であるらしいことも感じ取れる。
次元そのものについても、何かしらのシステムがあるのかもしれない。パラレルワールドや多次元宇宙といった言葉を教科書やネットで見かけたことはある。だが、あの世が物理的にどこにあるのかを厳密に論ずることができる人間はいない。生前の自分もそうだった。けれど、今この瞬間に限れば、そこに理屈がなくとも“そういうものだ”と納得するしかない。理解不能な世界に片足を突っ込んでいるのだから、下手に科学的証明を求めても意味がなさそうだ。もちろん、ここに“神”という存在がいて、意識の転生を司っているのかもしれない。それとも、システムそのものがひとつの意思を持っているのかもしれない。いずれにしても、和臣にはそれを検証する術がない。
やがて、押し寄せる情報と光が落ち着きを見せると、緩やかな感触がほんのりと生まれる。手足の重み、胸の鼓動、呼吸――それらが微弱に再現されつつある。苦しみや痛みは伴わないが、“生体反応”のようなものが意識の中で動き始め、気づけば“自分”という存在が空虚から抜け出し始めている。圧縮・再編集された記憶を携え、全く新しい身体に取り込まれようとしているのだろう。
ただ、いまだに疑問は尽きない。そもそもこれほど違和感なく自分を再構築できるものなのか。自分の知識や性格が、まるでクラウドから新端末へ移行するように転送されてしまうのか――そこには抵抗というものが感じられない。見方によっては、手際よくデータを移されているだけに思える。自分の脳内の秘密やあらゆる感情が丸裸にされ、その上で不要な情報を刈り取られ、必要な要素だけが精査されている感覚は、ある種の恐ろしさもはらんでいた。もしそれを管理する存在が自分の敵対者だったら、どうなっていたか想像もつかない。
物事には必ず限界があるというのが、生前に和臣が抱いていた当たり前の感覚だった。けれど死後のこの工程においては、彼の当たり前は根底から塗り替えられている。境界線が曖昧で、前提がいつの間にか変わってしまう。身体を再構築する手順にも、きっとこの世界ならではの理屈があるのだろう。とはいえ、その全容を理解するのはまだ先の話だ。いまはこの得体の知れない世界のルールを受け入れるしかない。呼吸をするということが、また違う意味合いを持つかもしれない。歩くという行為が、本当に地面と足の接地による運動なのかどうかさえも断言できない。
ここまで考えてふと、少しだけ安堵に似た気持ちを抱いた。これほど未知だらけの状態でも、まだ自分の中には戸惑いと同時に冒険心があるらしい。生前の空虚感や将来への不安に比べれば、むしろ面白い展開なのではないかとすら思う。今ある疑問や不安は、もしかするとこれからの新しい生で解き明かしていく楽しみに変わるのではないか――ぼんやりとだけれど、そうした期待が胸の奥で小さく燻っている。
その期待が正しいのかどうか、自分が本当は何者なのか、そしてどんな力がこの転生を司っているのか。すべてを理解できる日が来るのかどうかはわからない。少なくとも、風のように囁きかける存在がいる以上、自分は何らかの意思をもって召し上げられたのだと思うしかなかった。身体が形作られ、心臓の鼓動を模した振動が全身をめぐるたび、一歩ずつ未知の領域へ踏み込んでいる気がする。この身体はどんな風に世界を見るのか、どんな力を持っているのか。今はただ、その息吹の曖昧な輪郭を感じ取りながら、次の瞬間を迎える。
第5章:「誕生—次の世界へ歩む一歩」
漆黒の闇が広がっていたはずの視界が、少しずつ染み込むように淡い色彩へと変わっていく。はじめは薄曇りのようにぼやけていた光が、にじむ彩度を増しながら、ゆっくりと世界を形作り始めていた。感触のない意識だけの存在だったはずが、何かしら温度や湿度、そしてわずかな風圧を受け取る――それらが“肌”という概念を思い出させる。誰かに整えてもらった“新しい器”に、自分がこれから収まっていくのだという事実を、脳の奥で納得するように噛みしめる。
そしてふいに、かすかな香りが鼻孔をかすめた。甘いわけでも酸っぱいわけでもない、けれどどこか青草を思わせる青くさい匂い。目があるわけではないのに、緑の穂先が揺れている映像が脳裏をちらつく。広大な草原だろうか。それとも幻想じみた植物が茂る別世界の森かもしれない。ともかく視界の隅に、地平線のような柔らかな緑が見え隠れしている。風が吹くたびに草が音を立てる、そのうねりが遠い波紋のように伝わってきて、懐かしさと不思議を同時に呼び起こす。
記憶の再構築が行われる最中には気づかなかったが、新しい世界の空気は、どうも現世のものとは異なる密度を持っているらしい。吸い込んだ息が軽いのか重いのか、一瞬判断しづらい。重力が少しずれているのかもしれない。立ち上がろうという思考だけが先行し、身体がそれに追いつく感覚がまだ薄い。足元にぴたりと地面がある感覚はない。まるで足もとの揺りかごに乗せられたまま、ふわりと浮いているような奇妙な心持ちが続いている。
遠くの空を見上げるように意識を向けると、まばらに星が瞬いているように見える。白昼なのか夜なのか、あるいはそのどちらでもない時刻なのかもわからない。もしこれが“異世界”なのだとしたら、太陽や月といった概念すら自分の知るものとは限らないだろう。あたりは心地よい風が吹き渡るばかりで、騒がしさもない。だが、生命の気配は確かに感じられる。草と土の匂い、微かなざわめき――まるで大自然の胎動のようなものが、どこかで脈打っている。
そこへ突然、“身体”がずしりと重さを帯びていった。徐々に五感が研ぎ澄まされ、皮膚の感触がより鮮明になる。心臓がドクン、ドクンとリズムを刻み始め、全身を血液が巡るような実感がはっきりしてくる。苦痛や不快感はまったくなく、むしろ優しく身体を馴染ませていくかのように、神経が通電していくのがわかる。かつて死を迎えたときとは正反対の、温もりに満ちたプロセスだ。
しかしながら、視界だけはまだ眠りから覚めたばかりのようにぼやけている。まぶたを開けているのか閉じているのか、きちんと判断できない。腕や指を動かそうと意識しても、ほんの少しぴくりと震える程度で、自分の思うように動かせない。新生児のような無力感がありながら、同時に頭の中にある知識や思考は、確実に高校生だった頃の和臣のそれを保持している。肉体は新たでも、意識は以前のまま――いや、トラウマや苦悩の一部が和らいだぶん、前よりも冷静な観察力があるかもしれない。
そうして身体に神経が行き渡るまでのあいだ、再びあの“囁き”が耳の奥で回旋しているように感じられる。ここはあくまでも始まりにすぎない、と言っているわけではない。それどころか、何かを期待するように静かに待っている空気がある。まるでこの世界そのものが“おかえり”と迎えてくれているかのようにも思える。そんな錯覚めいた感触を味わっていると、やがて視界が一気に鮮明になっていった。
床から立ち上がる――その動作をイメージしたとたん、揺れる視点がすっと安定し、自分の足裏が確かに地面へ接地していることを実感する。膝には成長した身体に見合うだけの筋力が通い、かつてのあの“高校生の体”とは微妙に違うフィット感を伴っている。背筋を伸ばし、地面に立つ。
鼻先に吹き抜けていく風には、草や土の香りだけでなく、どこか香辛料のようなスパイシーな匂いも混じっていた。遠くを見渡せば、大地が緩やかな丘を形成し、その先はもやに包まれている。街の輪郭か、それともまったく異質の建造物か。細かいところまでは判別できないが、人の暮らしを匂わせる影のようなものがちらほらと揺れている。
頭上を見上げると、青とも紫ともいえない微妙な色合いで空が染まっており、星のような小さな光が動いている。あれは衛星なのか、あるいは魔法的な存在なのか――もはやこの世界では、何が常識で何が非常識か判別しようとしても仕方ないだろう。確かなのは、自分がここで“新たな生”を得ているということ。そして、この世界が物語の舞台であり、未知を秘めているということだけだ。
身体を試すように、改めて手のひらを開く。指の関節が違和感なく曲がり、皮膚は柔らかく、それでいて微妙に現世の記憶とはずれた感触を持っている。あえて身長や筋肉のつき方を確かめるすべもないが、鏡を見れば、もしかしたら自分とは違う表情を持った人物が映るのかもしれない。かといって、まったく別人というわけでもないのだろう。要となる人格が継承されている以上、自分自身であることには違いない。
先ほどまで“死”や“無”を彷徨っていたはずの意識が、今はこうして世界を見つめている。どんな理由で、どんな意図があって自分が呼び込まれたのかはまだわからない。だが、もし本当にこの世界が自分を選び、こうして生かしているのだとしたら――そんな好奇心と期待が胸中を躍らせる。自由と闇が隣り合わせの世界かもしれないし、壮大な運命が待ち受けているかもしれない。まだ知りえない事実がそこかしこに眠っているのだろう。
地面を一歩踏みしめると、草がかさりと音を立てる。足裏の重みは微妙に軽い気がするが、それが地球の重力とは違うからなのか、自分の身体がそういう設計だからなのか、判別はつかない。けれど、その違和感すら刺激的で興味をそそる。たとえ怪物がいようと魔法が存在しようと、もう驚きもしない――死後の世界で目を覚ますというそれ自体が“最初の超常現象”なのだから、あとは何が起こったって受け止める覚悟はできている。
一歩、また一歩と足を運んでみると、視界の端で何か光が動く。太陽らしき光源はまだ姿を見せないのに、辺りを照らす明度は充分にある。この星の仕組みなのか、あるいは別の力が働いているのかもしれない。いずれにしろ、答えは容易く手に入るとは思えない。大切なのはここから先、何を感じ、どんな道を選び取るか――もはや誰も教えてくれない、純粋な探索の時間が始まるのだろう。
風が肌を撫で、かすかなざわめきを耳に残していく。そこに並行するようにして、何か大きく潜在的な力のうねりを感じる。魂が呼応するように波打つ。自分がここで何者として生きていくか、どんな運命を辿るのか――答えはどこにも書いていない。生前の人生があまりに空虚に思えたとしても、この新しい舞台でなら、思いも寄らない物語を編んでいけるかもしれない。
あの死が単なる終わりではなく、新たな出発点だったと実感する。胸の奥でかすかに脈打つ決意のようなものを覚えながら、和臣は新しい身体に宿った感覚を確かめるように、もう一度息を吸い、瞬きをする。そうして世界を正面から見据えたとき、草の上でたしかに立っている自分をありありと感じられた。まだ足元は不安定で、やがて出会う未知の光景に多少の不安もよぎる。それでも、踏み出すことを恐れる理由は、もはやどこにもない。次の瞬間、自分の目には広大な地平が映り、周囲を流れる風の音がやけに心地よく聞こえてきた――それが新しい旅の最初の感触だった。