見えない犯罪軌跡 -磐越西線の謎
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第1章 沈黙の山間
夜明け前の山道はひどく静かだった。新潟県の内陸部に分け入った小さな集落では、人の動きなど皆無に等しい。そんな闇に沈んだ空気の中を、車のヘッドライトが一筋だけ照らす。ハイビームに浮かび上がったのは、林道脇に倒れこんだ男の姿だ。袖のあたりが泥にまみれており、顔色はとうに失われている。
運転席から飛び出したのは地元派出所の巡査だ。昨夜から行方不明の通報を受け、捜索のため未舗装路を見回っていた。その巡査の口から、しばし絶句したような息が漏れる。「資産家の塩谷さんだ。まさかこんなところで……」そう言いかけても言葉が出てこない。巡査は急いで本部に無線を入れた。
県警の捜査員が現場に到着する頃には、周囲はほのかに白み始めていた。林道は狭く、車がやっと一台通れる程度。ガードレールも街灯もない。見通しの悪さに加え、足元を見ればぬかるみが広がっている。まるでここだけが別世界みたいに薄暗く、誰も近づこうとしない場所だった。
鑑識の一人が屈み込み、遺体の状態をざっと調べ終えると「死亡推定は午前四時半から五時頃ですね。外傷はここだけでは判断が難しいですが、おそらく他殺でしょう」と報告する。担当刑事が林道を挟んで少し離れた地点を指し示した。「向こうに変な足跡がある。車のタイヤ痕じゃない。被害者が倒れた地点とは離れてるのに、なぜこんな場所に?」
現場保全を進める捜査員たちは、辺りに防犯カメラがないことを嘆いた。人里離れた山あいでは当然といえば当然だが、これでは手がかりに乏しい。聞き込みをしても夜明け前に出歩く人はほとんどいない。肝心の路線はJR磐越西線が通っているが、この時間帯に列車は走っていない。よって車かバイクで移動するしかない状況だと推測される。捜査幹部は少し眉間にしわを寄せた。「まあ、車で来て車で逃げた、と見るのが妥当か。面倒だが、徹底的に周辺を洗おう」
一方、塩谷のポケットからは名刺入れとスマホが見つかったものの、決定的なメモや連絡先は出てこない。捜査員が調べを進める中、津川駅の方からこんな報告があがってきた。「駅のホームに硬券が落ちていました。SLばんえつ物語関連のデザインです。これと事件が関係あるかどうかはわかりませんが、一応念のため…」
最初は誰もその報告に大きな興味を抱かなかった。普通列車が止まる駅で、観光向けのSL関連グッズが落ちていたとしても、珍しい話ではない。その日の捜査会議でも「ふーん、SLの切符か。お土産か何かだろう」程度で話は流されてしまう。
ところが、ある人物の耳には、その“SLばんえつ物語の硬券”という情報が妙に引っかかった。刑事の新宮である。
「久しぶりだな、お前にはまた力を貸してもらいたいんだ」かつての上司が電話越しにそう告げたのは、明け方の通報からさほど経たない頃だった。新宮は自宅の机の脇で黄ばんだ分厚い時刻表を横目に見つめながら受話器を握りしめていた。最近はネット検索で何でも済む時代。彼の“時刻表マニア”としての力は活躍の場を失いかけていた。しかし今回、また新潟の山間で妙な事件が起こったという。
「塩谷さんの遺体が林道で? そうですか…」新宮は淡々と返事をするが、その内側には薄い震えのようなものが生まれていた。死者が出ている以上、不謹慎な高揚感を抱くつもりはない。ただ、気配だけで察したのだ。今回の事件には、血なまぐさい真相と別に、どこか鉄道絡みの匂いがする。
電話を終えると、新宮は肩の埃を払うようにスーツジャケットを羽織り、車のキーを引っつかんだ。かつて足しげく通った派出所がある町までは、高速を使えば一時間程度。通常ならこんな時間に慌てて出向く用事などないが、彼は少し早足だった。得体の知れない緊張感が地を這うように伝わってきて、むしろ落ち着くことができない。
「朝の四時半から五時だって…いまどき、そんな時間に動く列車はまずないはずだが」
つぶやきながら外へ出た。風がひんやりと頬を撫でる。もともと人里離れた路線というのも不気味な要素を増している気がする。捜査に呼び出されたことを面倒と感じるより、己の古巣に戻る感覚が勝っていた。
車に乗り込んだ新宮はアクセルを踏み、空の色を確かめるようにちらりと上をうかがった。曇天で遠くの山々は灰色に煙っている。ヘッドライトの照度を少し上げて、彼はそのまま県道を進んだ。視線の先では古い鉄橋が川をまたぎ、磐越西線の線路がうねるように続いている。数時間後には列車がそこを走り抜けるのだろう。だが問題の時間帯、現場近くには“列車がない”と皆が口にしていた。
けれど、彼がどこかで習慣のようにめくっていた時刻表には、もう少し複雑な情報が並んでいる。臨時や観光列車の扱い、さらに会社が独自に組む回送便など、ネット検索では簡単にヒットしないデータも散りばめられていた。
ただの勘であればいい、と新宮は思う。だが、ときどきこういう予感は当たる。
見覚えのある山道が近づくと、パトカーの赤色灯がぼんやりと回っていた。厳かでも華美でもない、どこか冷たい光だ。巡査たちが集まる場所に車を止め、新宮は静かにドアを閉める。降り立った彼に、すぐ駆け寄ってきたのは若い警官だった。
「新宮さん、お疲れさまです。いきなりこんな山奥に呼び出してしまって…」
「いや、かまわないよ。で、遺体が見つかった場所は?」
促されるままに暗い林道を進むうち、土の冷たさと湿り気が靴底を伝わってきた。夜が明けきらないうちに捜索した痕跡がそこかしこに残る。新宮は腕時計を一瞥してから尋ねた。「何か面白い手がかりは出た?」
「今のところは、車移動の痕跡を洗ってる状態っす。ただ、津川駅のホームにSLの硬券が落ちてたって報告があったんですけど…」
「SLか。ばんえつ物語?」
「たぶん。俺も実際に見たわけじゃないんですが、担当者はあまり気にしてないようで」
新宮は何も言わずうなずいた。そっと目を閉じると、頭の隅で小さな違和感がかすかな光を帯びる。事件とは無関係かもしれない。けれど、調べてみる価値はありそうだ。夜明け前の冷たさが何かを伝えている。胸の奥で“時刻表マニア”の血が騒いだ。
第2章 不可解なアリバイ
署内の一室には妙な緊張感が漂っていた。机の上には塩谷の写真と周辺地図、そして数枚の調書が広げられている。先ほどまで各部署の刑事たちが意見を交わしていたが、今は一時の沈黙に包まれている。
そこへ書類を抱えた捜査主任が戻ってきた。「それでは容疑者として挙がっている二名について、改めて状況を共有しよう。まず望月だが、被害者との事業に投資していた事実は間違いない。二人は最近、資金繰りをめぐってしょっちゅう口論していたらしい。事件当日について彼は『早朝から車で県内を移動していた』としか言わない。タイムラインを聞いても曖昧だ」
地図を指し示しながら、捜査主任はもう一人の名を挙げる。「上原は地元の住民リーダーで、塩谷の開発計画に反対していた。強硬な発言をしたこともある。でも事件当日は『会津若松で知人と会っていた』と主張している。移動手段は車らしいが、こちらも証言の裏付けが弱い」
刑事の一人がタブレットをいじりながら首をかしげる。「いちおう路線検索サイトで『磐越西線』『始発』って入れてみたんですが、そもそもそんな時間に走ってませんね。やっぱり車かバイクしかないでしょう」
この言葉に周囲がうなずくなか、新宮は言い知れぬ違和感を感じていた。
捜査会議が小休止になると、新宮は外へ出た。パトカーが並ぶ駐車場を横切りながら、スマホでいくつかのサイトを試しに検索してみる。やはり早朝の磐越西線はヒットしない。画面を見つめつつ、「どうしても腑に落ちない」とつぶやいた。
その足で向かったのは津川駅と山都駅。地元の人々に聞き込みをしてみると、塩谷の遺体が発見された日の早朝に「金属がこすれるような音を聞いた」という声がいくつかあった。農作業の準備をしていたお年寄りが、「最初はどこかで機械を動かしているのかと思った」と言う。金属音だけでは何とも言えないが、彼らが指し示す方向は線路寄りだった。
ホームを歩くと、駅員が顔をしかめながら話しかけてきた。「すみませんね、ここ数日は観光客も少ないから、落とし物があっても誰のかわからなくて」そのままベンチの下を指し示す。「SLばんえつ物語の硬券なら、うちの者が保管してますが、いつ落ちたんですかねえ。普通列車しか来ない日だったと思うんですが」
新宮はその硬券を見せてもらう。裏面に汚れがこびりついていて、発券された日付は前の週になっている。犯行当日と直接は結びつかないかもしれないが、ひどく不可解だ。駅の利用客が少ないタイミングで、なぜこんな観光用の券が転がっているのか。
ふと、誰かがそのSL関連の切符をうっかり落としたとすれば、通常のダイヤでは考えにくい時刻に駅へ立ち寄った可能性がある。新宮は硬券をそっと眺め、犯人の計画に鉄道が絡むのではないかと考え始める。捜査会議の意見とは違い、何かが隠れている気がする。決まりきった説明では片づかない予兆を感じながら、駅の改札口を振り返った。通勤や通学客の姿はまばらだが、線路を見つめる新宮の視線はどこか探るようだった。
第3章 隠されたダイヤ
部屋の照明が届きにくい隅で、新宮は古い雑誌のように厚みのある時刻表を開いていた。ページを繰るたび、紙が擦れる乾いた音がする。周囲には誰もいない。背後で蛍光灯が微かにチカチカと明滅するが、彼は気にする様子もなく目を皿のようにして日付と列車名を追っている。
何度も書き込みや付箋の痕跡があるページにたどり着いたあたりで、足音が聞こえた。制服姿の水野巡査がドアをノックする。「すみません、新宮さん。住民から興味深い話を聞きました」そう言いながら、薄っぺらいメモ帳を開く。「津川のあたりで“朝早く汽笛を聞いた”とか“煤煙が漂ってきた”とか、数人が似たような証言をしてるんです。時期も事件当日の早朝らしいんですよ」
蒸気機関車の汽笛を思わせる音。それは普通列車やディーゼル車ではまず考えにくい。新宮は時刻表から顔を上げて、水野の言葉を反芻した。「煤煙というのはSL特有の匂いに近いはずだ。一般車両だとそこまで強い煙は出ない」頭の中でピースが少しずつ噛み合っていく。「実際、SLばんえつ物語は土休日に走る観光列車だけど、もしかすると臨時で早朝に動かしていたことがあるかもしれない…」彼はそうつぶやきながら再び時刻表に視線を落とした。
鉄道ファン向けのサイトを開くと、回送運転などの細かい情報が書き込まれている。SNSで話題になった日付を照合するうちに、新宮の表情が変わった。ちょうど事件の前後に当たる時期に、SL整備のための特別スケジュールが組まれている。しかも一部区間では“旅客扱いあり”と小さく記載されていた。
早朝に新津駅を出発して会津若松方面へ走るSL。通常の検索サイトでは表示されないタイプだ。新宮はペンで印をつけながら、独り言のように言う。「やはりこれか。誰かが知っていれば、事件の朝に乗ることも可能だった」
硬券が落ちていた津川駅を地図上で追うと、ちょうどその“回送扱い”のSLが立ち寄れる区間に当たる。水野巡査が息をのみながら尋ねる。「じゃあ犯人は、普通列車じゃなくて、この臨時SLを使って現場付近へ行ったんですかね? 実際に乗れる時間帯だったんでしょうか」
新宮は資料を閉じ、椅子にもたれかかった。「普通に考えれば“そんな列車はない”と思われてしまう。しかし紙の時刻表やファンサイトの情報を見れば、わずかな隙間が見える。これがもし本当に走っていたなら、犯行時刻に間に合う移動手段になるはずだ。実際に現場近くに煤のにおいが漂っていたという住民の話もある」視線は確信に近い色を帯びる。
その後、ふたりは車で津川方面へ向かった。新宮は道中、鉄道会社から運行実績を取り寄せる段取りを電話で進める。水野は助手席でメモ帳を開き、複数の目撃証言を細かく並べている。「もしこれが事実なら、検索サイトが見落とした“早朝SL”を犯人が利用した可能性は高いですよね。どう考えても車じゃ時間が合わないし…」
話を聞きながら、新宮はフロントガラスの向こうに広がる景色を見つめた。森林の緑が深まる先に、JR磐越西線のレールが小さく続いている。まばらに白い煙が揺れたような錯覚を覚え、「蒸気機関車かもしれない」という思考がぐっと濃くなる。彼はまるで線路の向こうに何か隠れているとでも言うように、ハンドルを握る手に力をこめた。
ひとたび疑問を抱いてしまえば、答えに近づかずにはいられない。車内にはカーナビの電子音だけが低く鳴り、水野も新宮の沈黙を崩さずにメモを見返す。確たる形はまだ見えないが、黒い煙が残したかすかな痕跡が真相を指し示しているかのようだ。そんな考えが二人の頭を占めていた。
第4章 犯人の計画
新宮は津川駅の改札口で手渡された資料に目を通していた。わずか数日前、望月が駅近くの駐車場で車を乗り換えたという話をちらほら聞きつけたからだ。関係者の記憶は曖昧だが、日付と時間帯が一致するらしい。ほどなくして隣にやって来た水野巡査が、声を落としてささやく。
「駅員さんが言うには、あの日の始発前後、見慣れない車が二台ほど駐車してたそうです。しかも、車内で待機している人がいたとかいないとか…」
新宮は眉根を寄せた。望月は「ずっと車を走らせていた」と言い張っていたが、これが本当なら、彼は一箇所に長時間滞在していないと説明がつかない。ところが目撃情報をたどると、新津駅周辺で車を停めていた様子もある。動線があまりに不自然だった。
署に戻ると、捜査主任が席を立ち上がって新宮たちを迎えた。「望月の動きを追ってみたが、どうも変だ。高速道路のICを通った形跡は確かにあるが、領収書やドライブレコーダーが見つかったものの、タイムスタンプに細工のあとがあるそうだ。車で延々移動したわりには給油記録も乏しい。つまり彼はどこかで車を置いて、別の手段を使った疑いがある」
新宮は視線を地図に落とす。新津と津川の位置関係を考えれば、早朝にSLを使うことができれば塩谷の殺害時刻に間に合わせられる。そのあと駅近くに車を用意しておき、林道付近へ移動し、再び車で逃走――そういう筋書きが頭に浮かんだ。「望月は観光列車の運行予定を事前に知る方法があったのかもしれない。鉄道会社の知り合いがいるとか、そういう線はあるんですか」
捜査主任はファイルを開いてうなずいた。「実際、望月は以前から鉄道関連イベントのスポンサーをしていたらしい。裏方の人と親しくなれば、通常公表しないスケジュール情報を手に入れることも不可能じゃない」
そこへ、別班が上原についての報告を持って来る。上原には事件当日のアリバイを立証する物証が出たという。会津若松の知人宅で防犯カメラに写っていたのだ。どうやら彼の疑いはほとんど晴れたといっていい。上原を追っていた刑事たちは肩の荷を下ろしたような表情を見せるが、真宮と水野は一層気を引き締める。
「望月は都合の悪い質問に対して“朝イチから車で動いていた”しか言わない。それを明文化した書類も提出してない。でも捜査陣は、車移動=犯行は不可能という前提に乗せられてしまったんだ」水野が言葉をつなぐ。「あれだけ資産に困った塩谷と衝突していたなら、動機は十分ですしね。問題は、どうやって犯行時刻に津川のあたりへ着けたかの一点だった」
望月本人は「俺はICを出てしばらく下道を走ってた」と主張しているが、ドライブレコーダーの動画は部分的に上書きされていて、証拠としては頼りない。さらにICから津川までの実際の所要時間を考えると、彼の言う経路では辻褄が合わない箇所が目立つ。あえて曖昧にすることで、早朝から津川にいたはずがないと思い込ませているようにも見える。
新宮はテーブルに広げた資料をじっと見つめていた。「望月が新津駅近くに車を置いてSLで津川へ向かい、林道で塩谷を襲い、その後は駅から別の車で逃げる――これなら移動時間の説明がつく。車のドライブレコーダーを偽装すれば、あたかもずっと走っていたように演出できる」
改めて複数の時系列を照合すると、望月の車が高速道路を降りたタイミングとSLが新津を出たであろう時刻とが重なり合いそうだ。水野が画面をスクロールしながら言う。「そこまで手間をかけるとは思いませんでしたが、アリバイづくりには確かに有効ですね。普通列車なら物理的に無理でも、臨時SLなら“ないはずの列車”で移動できるわけだ」
捜査室の奥では、事件資料のファイルが小さく散らばっている。新宮は一つずつページをめくるようにして、望月の資金繰りトラブルや塩谷との口論記録を思い返す。そこには一点の曇りも見当たらない。望月ほどの人物が、なぜここまでリスクのある手段を選んだか――その背景まではまだわからないが、SLの盲点を突いた計画の全容がはっきりしつつある。
一方、上原のシロが確定しかけているという知らせを聞いた望月の態度が急に硬化したとの報告も入ってきた。まるで誰かが自分の首元に手を伸ばしているのを感じたかのように、供述を濁し始めたらしい。新宮は自席から立ち上がり、カレンダーを見やった。「近いうちにこいつは尻尾を出す。ダイヤと車の移動記録、その矛盾を突いていけば、確実にほころびが見えてくるはずだ」
外の夕空は茜色に染まっている。署の廊下からは消灯間際の控え室がのぞけるが、誰もそこにいない。水野は一息ついてから、巡査仲間から集めたメモを再整理していた。行き交う刑事たちも、望月が浮上してきたことで気が張り詰めている様子がある。休憩する間もなく次の手を考えるような緊迫感が漂っていた。
新宮は窓際に立ち、遠くの山々を見やる。地形図で見れば、山間を縫う磐越西線が殺害現場近くを通る。それが単なる偶然ではなかったと確信していた。「望月が目をつけたのは、この路線の早朝便。誰もが“ない”と決めつける時間帯でこそ、足がつきにくい。そこに観光列車という盲点まで加われば、まさしく完璧なアリバイになると踏んだんだろう」
手元の時刻表は端が少し折れ曲がっていて、何度も開いた痕がある。新宮はそれを鞄にそっとしまった。捜査主任や水野と顔を合わせながら、小声で確認する。「あとは決定的な証拠だ。臨時SLに望月が乗った事実をつかめれば、すべてが繋がる」そうつぶやく彼の瞳には、迷いの色が微塵も見えない。
第5章 時刻表の勝利
捜査本部の一角で電話が鳴り、新宮がそれを取った。受話器の向こうからは鉄道会社の担当者が低い調子で話し始める。特別運行のSLに関する運転日報をようやく確認できたという連絡だ。運行区間と停車駅、そして旅客扱いをしたかどうか。その一点が知りたくて何度も問い合わせた結果、担当者が渋々応じたらしい。電話を切ると同時に、新宮は水野を手招きする。
「当日、SLが新津駅を発ったのは午前四時五十分。津川到着は五時半。さらに観光客のためにごく短い停車時間があったそうだ。そして乗客名簿にも…望月の名前がある」
水野は驚きに目を見開いた。通常の検索サイトでは出てこない“臨時SL”を、望月が的確に利用したのは確実だ。さらに津川駅の係員が回収し損ねた硬券が先日見つかったことも報告されている。それには「望月」と書かれたメモが挟まっていたという。役割を終えた切符が駅の片隅に落ちていたという証言ともつながる。
ほどなく捜査主任が望月を本部に呼び出した。書類を机に並べ、早朝SLの運行日報と名簿を見せつけると、望月は顔を強張らせて視線をそらす。「車で県内を移動していたはずじゃなかったのか」と問いかけられると、当初は曖昧な言い訳を続けたが、やがて沈黙した。
新宮は淡々と話を進める。まず、望月の経歴と鉄道会社の裏方との接点。そして新津駅付近で目撃された車。ほかにも高速ICを利用した偽装経路――すべてが臨時SLを使った犯行を隠す目くらましだったと指摘する。その動線を時刻表と照合したうえで、殺害後に津川駅へ戻った時間まで整理したフローチャートを示すと、望月の唇がかすかに震えた。
「塩谷との事業が思うようにいかず、金銭トラブルに追われていた。いっそ消えてくれれば投資損失を隠せると考えたんだ」望月は絞り出すように言った。静かな部屋にその声が落ち、捜査員たちが一斉に息を呑む。「臨時SLなんか誰も調べないと思った。あれはただの観光アトラクションだから。まさかこんなところを突かれるなんて…」
全貌を認めた望月を連行したあと、長かった捜査が一段落する。大半の刑事たちは車を使ったアリバイ工作の巧妙さに注目していたが、新宮だけは最初から“列車の可能性”を排除していなかった。紙の時刻表を丁寧に読み込み、臨時便や回送扱いまで洗い出した。そのうえで地元の住民が話した“煤煙のにおい”や“汽笛の音”を組み合わせ、古い硬券の存在に当たりをつけた。
署の廊下で控えていた水野は、新宮に礼を述べる。「ネット検索だけではダメだったんだなって、改めて実感しました。アナログの情報がここまで力になるとは…」
新宮は軽く肩をすくめた。「データは便利だが、全てが見える訳ではない。それを補うのが人間の勘や紙の時刻表、それから聞き込みやSNSでの目撃情報だろう。どれか一つでも欠けると、こういう手口は見破れない」
窓の外には磐越西線のレールが遠くまで連なっている。あの線路を朝早くSLが走っていたことを誰もが見落とし、そして望月はそれを逆手に取ろうとした。新宮は古い時刻表をそっと閉じる。そこにあったのは紙の情報だが、それは古臭いだけの存在ではなかった。デジタルとの併用を知る者にとって、それは思わぬ角度から真実を映し出す鏡だった。