見出し画像

光の果て

第一章:灼熱

真昼の太陽は容赦なく世界を焼き尽くしていた。砂浜は白く、白すぎるほど輝き、その明るさが視界の端をじんわりと溶かしていく。遠くで海が小さく波打つ音がするが、それはまるで別の世界の音のように聞こえた。風は吹かず、空気は重たく、膨張しているかのようだ。目を凝らして見つめれば、地面がゆらゆらと揺らめき、現実が熱に歪んでいた。

佐伯はその中を歩いていた。無意識に足が砂を踏みしめるたび、音が遠くへと流れていく。乾いた砂が皮膚に絡みつき、首筋を伝う汗が服の中に染み込んでいく。彼の頭の中は空っぽで、ひとつの音も、ひとつの感情も浮かんでこない。ただ太陽だけがそこにあり、強烈な光が皮膚と視界を無慈悲に侵食していく。

彼は立ち止まり、額の汗を手の甲で拭った。視線の先には、白い光に揺れる遠くの岩場。何もない。いや、ある。そこに一つの影があった。

岩陰から、誰かがこちらを見ている。見知らぬ男だ。短い髪に、浅黒く日焼けした顔。男は腕をだらりと下げ、岩に凭れかかりながら、じっと佐伯を見つめている。表情は読めない。ただ、目だけがこちらを追っていた。

だが佐伯にとって、その男の存在は限りなく無意味だった。海も、砂も、空も、男も、すべてが同じ光の中に溶け、見分けがつかない。ただ太陽だけが、唯一の事実として佐伯の目の中に焼きついていた。

彼は無意識に右手を動かした。銃だ。黒い金属の塊が手の中に収まり、その重みが掌に馴染んでいく。指が自然と引き金に掛かる。佐伯は何も考えない。ただ光の中に浮かぶ銃口を見つめた。

光だ。銃口が太陽を受けてギラリと反射する。その一瞬、視界が鋭く刺されたように白くなる。

――撃て。

銃声が乾いた音を立て、白い砂浜の空気を裂いた。遠くの海が一瞬静まり返ったように思えた。

男が、倒れる。何が起こったのか理解できないまま、男の顔はゆっくりと地面に向かい、岩に擦れて止まった。血が砂に染み、白い世界に暗い赤が広がっていく。

佐伯はぼんやりと立ち尽くした。手の中の銃がまだ重い。太陽は何も変わらず、同じように照り続けていた。彼は目を細めて、その太陽を見つめる。

「眩しいな」

彼はただ呟き、そして歩き出した。背後には、白い砂と赤い染みと、静かな海が残された。

第二章:何もない動機

事件が起きてすぐ、白い砂浜に散った血の色は町を揺るがすほどの騒ぎを生んだ。海辺には警察が集まり、野次馬が遠巻きにその光景を見つめた。佐伯は抵抗もせず、ただ銃を手に持ったまま、呆然と立ち尽くしていた。彼の顔には何も浮かんでいない。ただ茫漠と、そこに立っていた。

警察官が駆け寄ると、彼は素直に銃を差し出し、静かに逮捕された。連行される道すがら、佐伯は一度も振り返らなかった。周囲の騒音も、ざわめきも、彼には何の意味もないように思えた。


取調室は灰色の壁に囲まれ、天井の電球が淡く光を投げていた。佐伯はテーブルの向こうで椅子に座り、手錠の掛かった手を無造作に前に置いていた。刑事はテーブルを挟んで向かいに座り、訝しげに彼を見ている。

「なぜ撃った?」

佐伯はゆっくりと視線を上げた。少し考えるように間を置いてから、淡々と口を開いた。

「太陽が眩しかったからです」

刑事は思わず口を開けたまま、佐伯を見つめる。

「……は?」

「太陽が眩しかったんです。それだけです」

刑事は短く息を吐くと、手元のメモ帳にペンを走らせる。

「ふざけてんのか?」

佐伯は静かに首を振る。顔には真剣さも、悪びれた様子もない。ただ事実を告げているだけの、無機質な表情だ。刑事は苛立ちを隠せず、椅子の背に身体を預ける。

「お前、何言ってんだ? 何か他に理由があるんだろう。恨みとか、トラブルとか――」

「ありません」

「じゃあ何で撃ったんだ!」

「太陽が眩しかったからです」

「おい!」

刑事の声が取調室に響いた。だが佐伯は微動だにせず、静かにその目を刑事に向けていた。まるで、彼が問いを理解できていないようにも見えるし、その答え以外は存在しないと確信しているようにも見える。

刑事はペンを投げ出し、苛立ちに肩を震わせた。取調室の外には別の刑事たちがガラス越しに彼らのやり取りを見ている。中の刑事がこちらを向いて、疲れ切った顔で首を振った。


取り調べは何度も繰り返された。刑事が代わり、日を改めても、彼の答えは一貫して変わらない。

「太陽が眩しかったからです」

検事も、精神鑑定の医師も、弁護士も、誰もが彼の言葉を理解しようとした。しかし、言葉の裏には何もなかった。ただの光。眩しさ。

「動機がない、というのか?」とある刑事が呟く。

「いや、ある。彼にとっては――それだけだ」

取調室の中、佐伯は一人、静かに座っていた。誰かが何かを言い続けても、彼にはもう意味がなかった。ただ白い光だけが、頭の中に揺らめいているようだった。

「太陽が眩しかったから」

その言葉だけが、どこまでも深く、空っぽなまま繰り返された。

第三章:動機を求める人々

裁判が始まると、町全体が異様な熱を帯びた。被告・佐伯の「太陽が眩しかったから」という動機は、あまりに理解を超えていた。人々はその言葉の単純さに戸惑い、そして恐れを抱いた。なぜなら、人は「わからないもの」を恐れるからだ。


弁護士の主張

弁護士は開廷初日から、佐伯の精神状態に焦点を当てた。

「これは明らかに精神の異常が引き起こした突発的な行動です。正常な判断力を持つ者が、太陽の眩しさを理由に人を撃つでしょうか?」

弁護士の声は冷静だったが、その言葉の裏には焦りがにじんでいる。精神鑑定医が呼ばれ、佐伯の心理状態が語られる。

「被告は社会から孤立し、長期間にわたり孤独の中で生活してきた形跡があります。社会的なつながりの希薄さが、自己と外界の関係を歪ませた可能性があるのです」

精神鑑定の医師は、佐伯の幼少期を遡った。

彼の両親は普通の人々だった。父親は工場で働き、母親はパートをしながら家庭を支えた。しかし、その生活には何の色もなかった。佐伯は一人っ子で、友達もほとんどおらず、学校でも目立つことなくただ存在していただけだ。ある同級生が法廷で証言する。

「佐伯って、何考えてるかわからなかったんですよ。いつも遠くを見てる感じで、話しかけても返事が薄くて……」

「いじめられていたんですか?」弁護士が問うと、同級生は首を横に振る。

「いじめじゃないんです。誰も興味を持たなかっただけです」


検察側の反論

検察は真っ向から異議を唱える。

「孤立していようが、社会から切り離されていようが、それは犯罪の免罪符にはなりません! 彼は銃を手にし、構え、撃ったのです。これは計画性を伴う殺人です!」

法廷内には緊張が走る。しかし、彼らが求める「計画性」や「動機」の存在はどこにも見当たらない。ただ銃声と太陽の光がそこにあった。

「では、なぜ彼は撃ったのか?」検察官が強く問いかける。

佐伯は被告席から静かに顔を上げ、言った。

「太陽が眩しかったからです」

彼の声には何の感情もなかった。驚きや反発すら呼ばないその答えが、法廷全体に静寂を落とした。


人々の不毛な議論

裁判は連日ニュースで報じられ、評論家や専門家たちがテレビや新聞で好き勝手に論じ始めた。

社会学者は「現代社会の孤立」を指摘した。

「彼のように孤立した個人は、自己の内側に閉じこもり、他者とのコミュニケーションを喪失していきます。それが意味の不在に耐えられなくなった瞬間、衝動的な行動に走るのです」

心理学者は「光」に象徴される精神的な圧迫を語った。

「太陽の光は無意識の領域に強烈に作用し、無意味な行動の引き金になることがあります。あの時、彼にとって光は耐えがたい何か、彼の存在を脅かすものだったのではないでしょうか」

コメンテーターはしたり顔で結論付ける。

「人間は理由のない行動には耐えられないんですよ。だからこそ、動機を見つけようとする。たとえそれが空虚な議論だとしても、人は理由を付けることで安心するんです」


傍聴人と町の人々

法廷に足を運ぶ傍聴人の間でも、議論は止まらなかった。

「幼少期の影響だろう。愛情不足だ」
「あれはきっと精神的な病だよ」
「いや、社会が彼をそうさせたんだ」

理由を探す人々の声は、被害者や佐伯自身から遠ざかるほど大きくなり、抽象的になっていく。誰もが安心するために、納得のいく答えを探していた。しかし、何も見つからない。

その日、法廷を出た佐伯に記者が群がった。一人が叫ぶように問う。

「本当に太陽が眩しかっただけなんですか?」

佐伯は立ち止まり、その声にゆっくりと振り向いた。

「ええ。それ以外に何があるんですか?」

彼の言葉は皮肉でも、挑発でもなかった。むしろ、その無垢な純粋さが周囲を一層困惑させた。記者たちは言葉を失い、ただシャッター音だけが響いた。


理由の不在

人は何か理解できないものに出会うと、それを埋めようとする。理由を求め、物語を作り、意味を与えることで安心しようとする。しかし、佐伯の「太陽が眩しかったから」という言葉は、その試みを何度も破壊する。

動機はなく、理由はない。そこにはただ光と引き金があっただけだ。

佐伯の姿は、彼らにとって鏡のようなものだったのかもしれない。世界が無意味で、理由がないのだとしたら――人はどう生きていけばいいのか?

答えはなく、ただ法廷に夏の陽光が射し込んでいた。光は白く、眩しく、人々の目を刺した。

終章:光の果て

判決の日、法廷の空気は重く、まるで真夏の空の下に閉じ込められたかのようだった。傍聴席には詰めかけた人々が息を潜め、目の前の被告を見つめている。佐伯は手錠をかけられたまま、静かに被告席に座っていた。彼の顔には相変わらず何の表情もなく、ただ真っ直ぐに裁判官の言葉を待っている。

「主文、被告人を有罪とする。刑は……」

裁判官の声が響き、世界が一瞬だけ止まった。判決が読み上げられる間、佐伯は微動だにしなかった。ただ淡々と、その言葉を聞いていた。彼にはもはや、自分自身の運命がどうなるかなど関係がないかのように見えた。

判決が下され、法廷がざわつき始めた頃、佐伯はゆっくりと立ち上がる。まるでそれが何かの儀式であるかのように、時間が流れるのを拒むかのように、彼の動きはゆっくりだった。

その時、法廷の窓から一筋の光が差し込んだ。午後の太陽が低く傾き、彼の顔を照らした。眩しい光が彼の目を射抜き、佐伯は僅かに目を細めた。

「人は光を見つめると、その果てに何があるか知りたくなるものです」

佐伯は呟いた。それは独白のようでもあり、誰かに語りかけているようでもあった。声は小さく、かすかに揺れていたが、その言葉は空間に滲み、傍聴人や弁護士、検察官の耳にゆっくりと届いた。

法廷内は再び静寂に包まれた。誰もがその言葉の意味を理解しようとしたが、光が眩しすぎるように、答えはどこにも見つからなかった。ただ佐伯の後ろ姿が警備員に連れられ、ゆっくりと消えていく。その瞬間、彼が何を見ていたのか、何を感じていたのか――誰にもわからないままだった。


結び

事件は終わり、佐伯は刑に服することになった。それでも人々は、彼の「太陽が眩しかったから」という言葉を忘れることができなかった。評論家は事件を哲学的に解釈し、学者は心理学や社会学の視点から彼の行動を分析し続けた。しかし、何を論じても真実は空白のままだった。

「光の果て」に辿り着こうとした男の行動は、理解されることなく終わった。いや、理解など、そもそも必要だったのだろうか? 理由のない行動、不条理な現実――人々はその中で、答えを見つけ出そうともがく。そして、それでも世界は何事もなかったかのように続いていく。

灼熱の太陽は今日も変わらず輝き、光は世界のすべてを飲み込む。人は光に向かって歩き続け、理由を探し続けるだろう。その理由がどこにも存在しないことを知りながら。

砂浜には白い光が降り注ぎ、波の音が静かに響いている。太陽は高く、ただ眩しく、ただそこにあるだけだ。

いいなと思ったら応援しよう!