見出し画像

Exponential Murder

第一章:事件の幕開け


警察署の自動ドアが開くと同時に、三雲は湿った空気を一気に吸い込む。雨の気配が薄暗いロビーを包み、床にさざ波のような照り返しを映している。そんな場所へ駆け込んできた若い警官は、息を切らしながら三雲の前に立ち止まった。

「すみません、あれ、会議室、いや先に地図を……もう何がなんだか! とにかくこっちです」 慌ただしく頭を下げると、若い警官は半ば三雲を引きずるように廊下へ案内する。廊下の奥では、刑事や職員が入り乱れ、ひっきりなしに電話や無線の声が飛び交っていた。


部屋に足を踏み入れた瞬間、三雲は一枚の大きな市内地図に目を奪われる。
「三雲さん! 見てください、この赤いピンだらけですよ!」
先ほどの若い警官が指を差して声を上げた。
「最初は数本程度だったんですが、今じゃ二十本以上。郊外から歓楽街、工業地帯、駅前ビルまで、どこもかしこもバラバラなんです!」

「それだけ殺人が起きてるってことか?」三雲が思わず問うと、若い警官は大きく頷く。
「はい、しかも交通の便利不便や、治安が元々悪いかどうかもまるで関係ありません。公園だろうと商店街だろうと、関係なく赤ピンが増えてるんですって。どこに何が飛んでるのか、もう訳分かりません!」

三雲は地図の散らばり具合に、言葉を失う。まるで誰かがダーツを市内全域に投げつけ、命中した場所で殺人が連発しているようだ。

「こっち、資料も見てください!」
若い警官は紙の束を抱えて三雲のもとへ駆け寄り、ドサリと机に落とす。
「刃物による襲撃があれば、車でのひき逃げもあるし、一瞬の喧嘩で殴り殺したような事件まであって……何でもアリな感じなんですよ! 最初は似た手口の事件が3件ほどあって連続殺人かと思ったのに、今では手口もめちゃくちゃです!」

「なぜこれが“連続殺人事件”としてまとめられているのかさっぱり……」
三雲はファイルをめくりながら呆れ声をもらす。けれど、若い警官はさらに顔を強張らせて説明を続ける。
「もう、どこで何が起きてもおかしくないって上が判断したんです。そこらじゅうに被害者と凶器が散乱してる状況で、いまじゃ“連続”なんて言葉を超えてるんじゃないかって……とにかく、警部補が詳しく説明します!」


壁際では、警部補が荒い息を吐きながら別の捜査員とやりとりをしていた。
「ほら、また新しい事件ファイル。包丁だの鉈だの、今度は車でひき逃げに拳銃騒ぎまで……いったいどうなってる!」
ファイルを掴んで机に叩きつけると、書類がばらばらに散らばる。その上を先ほどの若い警官があたふたと踏み回って、紙を拾い集める。

「三雲さん、やっと来たか」
警部補は疲れた顔を三雲に向けると、深いため息をついた。
「この状況、あり得ますかね。どの事件も共通性がないのに、ひとつの連続殺人みたいにカウントされてる。時間が経つほど手口が広がりすぎて、わけがわからない」

三雲がファイルの写真を覗き込むと、血糊のついたコンクリート路地や、ベッドで倒れる被害者の姿が何枚も並んでいる。中には被害者の横に転がったぬいぐるみや、破れた紙切れ、空き缶など、まるで意図不明の“物”までも映り込んでいた。

「そ、それもですね!」
若い警官が口を挟む。
「現場に謎のメモが落ちてたり、仮面姿の人物をチラッと見たとか、通報がまとまらない。おまけに“黒いフード”だったって意見もあって……全部が微妙に食い違うんです! しかも指紋照合すると、一部が似てるようで似てなかったり、複数の容疑者が同時に浮上しては消えるし、今十人以上が捜査線上にいるんですよ!」

「十人以上?」三雲は思わず眼を見張る。
「ええ、あっちの事件に怪しい男が映ったと思ったら、別の事件では違う場所にいたかもしれなくて。逆に怪しいやつが何人もフラフラしてる説もあるし、どれが本当なのか、誰一人として絞れないんです!」
若い警官は早口でまくし立てると、慌ただしく別の刑事に呼ばれてそちらへ走っていく。


「あの若いの、テンパってるな……」警部補が苦笑する。
「でも気持ちはわかるよ。こうも事件が多発して、しかも手がかりが合致しないんじゃ。上からは『早く収束させろ』と怒号が飛ぶし、マスコミは『連続殺人鬼がいる』と煽る。現場は毎日パンク寸前だ」

「つまり、複数の犯人がいるかもしれないってことですか」
三雲が尋ねると、警部補は首を振る。
「それすら断言できない。グループ犯行かどうかもわからん。何しろ関連性が薄いし、事件ごとに違う凶器や目撃情報だらけ。仮面だフードだ、いろんなバージョンがあるが、本当に存在してるかも不明だ。なまじ容疑者が何人も浮かんでは消えて、みんな怪しいような怪しくないような……」

「こんな曖昧な連続殺人、聞いたことないな」三雲は頭を抱える。
「そりゃ私らも初めてだ。捜査員が書類を確認してるだけで頭がパンク。情報が多すぎるんだ……」
警部補が苛立ち混じりに息を吐き、足元に転がっている段ボール箱を指で押しやる。中にはラベルもざっくりな書類や写真、血痕付き凶器の鑑定依頼メモなどが詰め込まれている。


そこへバタンと扉が開き、先の若い警官が再び駆け込む。
「また新しい通報! 今度は公園で遺体発見だとか……場所も人もまるで関連不明です! どうしますか、どこにピン刺します?」
警部補は「ったく……」と舌打ちしながら壁の地図を振り返る。すでに赤いピンがぎっしり刺さった市内地図は、まるでダーツボードのようだ。今度の公園はどこなのか、ピンを差し込むスペースすら埋まってきている。

「点だったはずが、どんどん面になって広がってる気がするな」三雲がつぶやくと、若い警官は大きく頷く。
「そうなんです、ここも、ここも、全部、あちこち関係なく殺人が起こってます。関連性が見当たらないのに、なぜかぜんぶ‘連続殺人’として報道されて…もうカオスです!」

「このままじゃ手詰まりだ。被害者がどこでどう殺されるか予測不能で、容疑者は増えるばかり。話にならん」警部補が吐き捨てる。
「ですよねぇ……」若い警官も顔を曇らせる。
「何でこうなってるのか、動機もさっぱり掴めないし。あっち行って書類を見るほど混乱する。みんなもう眠る暇もなく対処するだけですよ」


三雲は散らばった書類に目を落とし、めまぐるしい通報の嵐にさらされる警察署のあり様を静かに見回す。
「普通の連続殺人なら、いずれは手口の類似や犯人像の絞り込みが可能だけど……これは動機も手段も関係性もバラバラだ。複数犯どころか“犯人”という概念すら曖昧になってるんじゃないか」

「正直、どう立て直せばいいのか……」警部補が頭を抱えると、再び電話のベルが鳴り響く。隣の刑事が「はい、ええ、また!?」と叫ぶ声が聞こえ、近くを通る若い警官が「あ、そっちは俺が受けます!」とあたふた移動していく。

雑然とした騒音のなか、三雲はいつもの冷静を保とうと深呼吸した。これだけの事件が散発的かつ連続的に起き、誰が犯人かもわからない——捜査方針が立ちようがないのも無理はない。まるで誰かが楽しむかのように混乱を投げ込んでいるようだ。

「何か糸口は……」三雲が声を絞り出すと、警部補は苦渋の表情を浮かべる。
「上の連中も『すぐに止めろ』と言うばかりで、具体的指示はなし。マスコミは『連続殺人が市民を脅かす』と煽るし、市民は『いつ自分が狙われるか』と怯えきってる。こんなの、どうしろってんだよ」

三雲は机からファイルを一握りつかむ。すぐ横には雨のしずくでしっとりしたトレンチコートが掛かっている。
「……やれることは、手当たり次第一件一件洗うしかないんでしょうね。誰がいつ、どこで、何を見て、何を残したか。ほんの小さな共通点があるかもしれない。そうでもしないと、先に進めない」

警部補は力なく頷き、目を伏せたまま「しかしなぁ……」と漏らす。けれど、そのときも室内の雑音は途切れることなく、また別の刑事が飛び込んでくる。
「警部補、聞きました? また似たような仮面男の目撃証言が! でも今度は反対方向の倉庫街で……」


三雲は頭が割れそうな感覚を覚えながら、会議室を出る。背後では無線や電話の呼び出し音が絶え間なく鳴り響き、若い警官や刑事たちが“もう勘弁してくれ!”とでも言いたげに走り回っている。あれだけの赤ピンが既に市内を埋め尽くしているのに、さらなる通報が加速するように追い打ちをかける。どう考えても普通のペースではない。

「点だったはずが、いまや面として広がってるとは、一体……」
廊下の先に見える窓は雨に濡れており、外の風景がじんわりと歪んで見える。誰もが“連続殺人”という言葉のイメージに囚われながらも、実態はそれをはるかに超えるカオスだ。

三雲はコートを握り直し、震えるように一度身を震わせる。雨音とともに、遠くからサイレンの響きが聞こえる気がする。“新たな事件”を告げる不吉な合図にしか感じない。

「もう一度最初から情報を洗おう。俺には嫌な予感がある。何か大きな仕掛けがあるのか、あるいは無秩序の極みに陥ってるだけなのか……」
誰にともなくつぶやきながら、三雲は目の前のドタバタをかき分けるように歩みを進める。警部補や若い警官、刑事たちはまた別の通報対応に追われ、いまにも倒れそうなほど焦燥をにじませている。

出口付近では、先ほど赤ピン地図を指し示していた若い警官が、電話を受けながら青ざめた顔でこちらを見ていた。三雲と視線が合うと、彼は唇を強く結び、何かを訴えるかのように小さくうなずく。
——もう、どうにかしてください。
その苦しげな表情がすべてを物語っていた。

「誰が犯人かなど、まだ闇の中か……」
三雲は誰にも聞こえないほどの声で呟き、トレンチコートの襟を立て直す。生温い雨が窓を打つ音だけが、形容しがたい不安を増幅させる。次の事件が発生するのはいつなのか、どこなのか。だが捜査の手は手掛かりを拾いきれず、混乱を極める一方だ。

探偵として、こんなにも先行きが見えないのは初めてかもしれない。まるで誰かが楽しむように複数の事件をばら撒き、証拠をかき混ぜ、捜査を撹乱しているようだ。と同時に、それぞれが独立して起きている可能性も否定できず、何が何だか分からない。
三雲は胸の奥でわずかに疼く違和感を抱えつつ、あふれる情報の波を少しでも整理しようと、紙の束を握りしめて足早に会議室を後にした。この街を覆う錯綜した殺意が、今のところどこへ向かうのか、誰にも見当がつかないまま

第二章:事件の加速

雨が上がったかと思えば、翌日にはまた降り出す――そんな不安定な天気が街を覆っていた。だが、それ以上に不安定なのは人々の心かもしれない。事件の被害者はあっという間に二桁を超え、それどころか三桁を視野に入れる勢いで増え続けている。どれだけの犠牲が出ようと、捜査は遅々として進まず、新たな通報だけが連日息つく暇もなく警察を叩きのめしていた。

「聞いてくれよ、これでまた三件追加だ。大通り近くで身元不明の男性が刺されたのと、郊外の空き家で二人同時に殺害されたらしい」 若い刑事が声を荒げて無線のメモを投げつけるように机に置くと、その音に反応して別の捜査員が顔をしかめる。室内には複数の電話が鳴り響き、同時にパソコンが警告音を発し、いたるところで誰かが誰かに指示を飛ばしている。その様子はまるで戦時下の司令室のようだった。

警部補も顔を歪めながら、何枚もの報告書を一気にめくっている。どこを開いても「被害者:無関係」「犯行時刻:目撃証言が複数」「容疑者:映像不鮮明」「物的証拠:未確定」といった単語が乱舞していて、読み返すだけでも気が滅入る。
「またかよ…関連性がないはずなのに、微妙に似たような点があるんだよな。刺し傷の深さが似通っているとか、遺体のそばに同じ柄のペンが落ちているとか。いや、だからといって何になるんだ…それだけじゃ事件同士が繋がる決定打にならない」

途切れ途切れの無線が新たな事件の断片を運んでは捜査本部を混乱に陥れる。たった数日で死者の数がこれだけ増大しているにもかかわらず、“連続”という確信が持てない奇妙さが一層ストレスを増幅させている。これほど大規模な殺人が頻発しているのに、統一感ある手口やはっきりした共通点が見つからないのだ。

「もうどうにかしないと、街がパニックになるぞ」
苛立ちを隠せない警部補が吐き捨てる。既に街は相当なパニック状態だった。テレビやネットで事件の報道が加熱するにつれ、あちこちで根拠のない噂や憶測が飛び交い始めている。
「犯人はカルト信者の集団だと聞いた」「いや、遠隔操作で人を操るやばい技術が使われてるらしい」「どうせ大企業の陰謀だよ、実験台にされてるんだ」
そんな真偽不明の声が街中を駆け巡り、市民は予想以上に怯えていた。すでに夜間の外出を控える人や、家にバリケードめいた柵を設置する人まで出てきている。

「三雲さん、メディアがもう騒ぎすぎて収拾つきませんよ。ここへきて“殺人鬼が複数いる”“実はただひとりの天才殺人犯だ”“裏で軍事組織が実験を”…なんて報道がごちゃ混ぜです。どれもこれも推測レベルなのに、視聴率狙いで勝手に煽ってるんでしょうね」
若い刑事がそう言いながら、SNSのタイムラインをスクロールしている画面を見せてくる。眼がチカチカするような派手な見出しがずらりと並び、世間の不安をさらに煽り立てる書き込みに拍車を掛けている。

三雲は警部補の机に腰掛けるようにして、深く溜め息をついた。手元の書類には“容疑者一覧”があるが、ページをめくるたびに名前が増えていく。ほんの数日前に十人だったはずが、すでに倍以上に膨れあがり、誰がどの事件でどんな容疑をかけられているのかさえ判然としなくなっている。
「容疑者を増やすだけじゃ意味がないんだ。誰かひとりでも確実に固めたいんだけど、それが難しい…確かな証拠が散らばっている割に全部が曖昧で、事件毎に状況が全然違う」
「しかも“見たような気がする”っていう目撃証言が毎日どっさり寄せられるから余計に混乱してるんです。仮面を被ったやつがいた、いやあれは白髪の老人だった、とか皆好き勝手言ってますから」
警部補が空の紙コップを握りつぶし、机へ放り投げる。

そこへデジタル捜査担当の警官がやって来て、タブレットを三雲の目の前に差し出す。
「AIを使って、ここ数日の“事件・目撃証言・防犯カメラ映像”を一括解析させてみたんですが、結果はこれです。何万件もの断片が出てきて、相関関係がありそうななさそうな…もうノイズの山です。見れば見るほどわけがわかりません」
表示された画面には、マップ上に数百ものマーカーが点滅し、最悪のハレーションを起こしていた。それぞれのマーカーには目撃情報や関連人物のデータが紐付けられているようだが、数が多すぎて立体的なクモの巣にしか見えない。AIは部分的な矛盾や誤情報をフィルタリングしているはずなのに、それでも膨大な物量を制御しきれていない。
「最先端のツールに頼りたくなる気持ちはわかるんだけどね。さすがにここまで無秩序だと、コンピュータも“何がなんだか”状態なんだろうな」
三雲はタブレットをそっと返し、唇を噛む。まさに情報過多によるパニックだ。

「それでも一部に不思議な傾向があるんです」
デジタル担当の警官が神妙な顔つきで続ける。
「時間帯や場所がバラバラなのに、被害者の職業や年齢に妙な偏りがある気がしまして。調べてみたら、結構な数がある企業の取引先だったり、もしくは同じコミュニティサイトを利用していたり、そんな些細な共通項が見え隠れするんです。でも決め手になるほど強い関係性とは言いがたい…」
うまく説明できず、彼は歯がゆそうにタブレットを握りしめる。

そこへ慌てた声が廊下から響き、今度は検証課の係官が飛び込んできた。
「怪しい物品がまた見つかりました! 公園のゴミ箱から何やら血痕付きのハンマーと、謎の注射器がごっそり出てきたって。過去の事件で使われた凶器の可能性もあるんですが、どこに紐付ければいいのか分からない。事件が多すぎて!」
室内を低いどよめきが走る。もうこれで何度目になるか分からない怪しい物品の発見報告に、誰もが頭を抱えていた。捜査本部には限られた人間しかいないのに、朝から晩まで次々と投下される情報や物証をすべて検証するなど到底不可能だった。こんな調子で毎日が経過すれば、事件は永遠に解決しないだろうという危機感さえ漂っている。

「三雲さん、どうします? もう一度AIで集約するか、それとも現場に出て手分けして洗い直すか……」
警部補が苛立ちを含んだ声で問いかけるが、三雲もはっきりとした答えを出せない。手作業で全件洗うには時間がなさすぎるし、コンピュータ解析はノイズだらけ。この泥沼のままでは、犯人像に辿り着く前に街が崩壊するかもしれない。被害者の数ばかりが膨れ上がり、それを報じるメディアも視聴率欲しさに扇情的な見出しを並べ立てるだけ。
「おまけに今朝の全国ニュースでは『犯人は複数どころか、もしかすると国内テロ組織が関与している』なんてコメントを流してました。いい加減にしてほしいですよ、証拠なんて何もないのに」
若い刑事の血走った眼が、その理不尽さへの怒りを物語っている。これ以上変な噂が広がれば、街中がさらなる混乱に陥るのは明白だった。

廊下の奥からは絶えず怒号や話し声が聞こえ、無線の音が遮られるほどに現場対応の声が交錯している。かれこれ何日も休みが取れない捜査員が増え、疲労と苛立ちでまともな判断力を失いつつあるような空気さえ漂っていた。
「このままじゃ、どんな小さなトラブルでも殺人につながる恐怖をみんな感じてる。市民は疑心暗鬼で、隣人を見れば『あいつは容疑者かも』ってなるんじゃないか?」
「それに、こういう時こそ犯罪が模倣されやすい。元から危険な連中が、これ幸いと自分の犯行を“連続殺人”に混ぜ込む恐れもある」
警部補が混乱を極めた表情で首を振り、近くにあった書類をバサリと机に叩きつける。

三雲はあえて冷静さを装いながら、胸中の焦りを押し隠そうとする。殺害現場だけでなく、周辺の目撃証言、さらには小さな手がかりがあるはずだと信じたい。しかし、あまりに情報が多すぎる。
「俺もAIにもう一度データを突っ込んでみます。今度はポイントを絞って解析させるとか、何か新しいアプローチを考えてみるしかない。網羅的にやるとノイズばかり増えるから、逆に少し条件を厳しくしてみると何か見えるかもしれない」
そう言いながら、タブレットを手に取り立ち上がる。警部補はわずかな期待を込めた目で三雲を見やるが、その視線にはやはり絶望の影が滲んでいる。

「頼みますよ、三雲さん。少しでも糸口が見つからないと、本当に手遅れになる。気づいたら被害者が何百人も…なんてことになったら、一体どう責任を取ればいいのか」
悲痛な声とともに警部補は力なく椅子に腰を下ろし、頭を抱え込んだ。無造作に積まれたファイルの山は、まるで街全体の地獄絵図を暗示するかのように膨れ上がっている。

そんな中、遠くから聞こえる報道番組の音声が「さらに被害は拡大する見込みです」「あの有名コメンテーターは、複数の殺人鬼が同時に行動していると予想しています」などと燃料投下を繰り返し、人々の恐怖を煽っている。市外からも続々と記者が押し寄せ、街のいたるところでマイクを突きつけて“凶行の理由”を探ろうとしている。しかし、探偵も警察も根拠のある結論を示せない以上、憶測だけが膨らむのも自然の流れだろう。

廊下ではカツカツとヒールの音を立てる女性刑事が、携帯端末をにらみつけながら足早に通り過ぎる。その後ろを追うように別の捜査員が「また通報だ! 西区の建設現場で遺体が発見された!」と声を張り上げる。冷房の利いた捜査本部の空気は重苦しく、誰の言葉も希望に繋がらないような雰囲気が支配していた。

三雲はタブレットを胸元に抱え、ひとまず外の空気を吸いに出る。曇り空の下、通りを見下ろすと道行く人々が早足で歩き、時折振り返って周囲を警戒している様子が分かる。死体が見つかったという現場へ向かうパトカーのサイレンが甲高く鳴り響き、予感だけがいやに生々しい悪寒を呼び起こしていく。増えすぎた犠牲者と山のようなノイズ情報が、街中を根こそぎ巻き込んで混沌へと押し流すのを、誰も止められないまま刻一刻と時間だけが経過していた。

三桁目前――あり得ない数だ。既に人々はテレビ画面の数字に戦慄し、日に日に怯えを募らせている。この歪んだ連続殺人を止めるどころか、真相すら見えないまま、三雲は手元のタブレットを握りしめ、街に広がる寒々しい空気を感じ取っていた。まるで見えない暗闇の大群が四方から押し寄せてくるような、そんな息苦しさが胸を締めつけている。捜査が一向に前進しない苛立ちと、新たな惨劇を告げるサイレンが、嫌でも耳から離れようとしなかった。

第三章:見えない全貌

市内の連続殺人がいつしか近隣の市町村へ、さらには遠方の沿岸部や内陸地帯にまで飛び火している。その様相は連鎖的というよりも、まるで乱雑にばら撒かれた火種が各所で勝手に燃え上がっているかのようだった。警察署に集結した合同捜査チームは、巨大な広域地図をモニターに映し出し、どの自治体でどんな事件が起きたかを把握しようと試みているが、さらに広がり続ける犠牲者情報に追いつけない。

「これ、見てもらえますか。さっきまで同じ件数だと思ってたのに、もう増えてる。赤ピンじゃ足りなくて…なんでこんな速度で広まってるんだ」 警部補がモニターを指し示し、苛立ちをあらわにする。
彼の言うとおり、マップ上には色とりどりのピンが混在しており、すぐ近くの街や遠隔地で起きた“類似のようで別物”の事件が次々と追加されていた。ときには目を疑うような報告書が届く。「犯行の瞬間を捉えた」という映像が添付されていても、よく見ると遠目に人影らしきものが走り去っているだけで、個人を特定できる情報はまったく映っていない。これまでなら頼りにしていた防犯カメラすら、ノイズ混じりの断片映像しか提供してくれない。

「警部補、またかよ。次の件は高速道路のサービスエリアで殺人事件だって。被害者は通りすがりの旅行者らしい。顔見知りじゃなかったみたいですよ」
若い刑事が慌ただしく無線を手に走り寄ってくる。一方で、ほぼ同タイミングで別の捜査員が、駅のロッカー付近で爆発があったとの誤報かもしれない情報を読み上げる。爆発物テロを疑わせる報告だが、結局は故障した電子機器から煙が出ただけらしい。こういう不確かなニュースが飛び交うせいで、本部のパニックは加速するばかりだった。

「もう整理が追いつかない。遠方の県警とはホットラインを繋いでるけど、向こうも似たような状況で焼け石に水です。いったい何が起きてるんだろうか」 警部補の嘆きに、三雲は短く息をつきながら首を振る。いつ、どこで事件が起きてもおかしくない現状は、まるで社会全体が“殺人モード”に突入してしまったかのようだ。

そんな中、警部補のスマホが甲高い通知音を立てると、彼は舌打ち混じりに画面を睨む。SNSを利用した防犯情報共有アプリの緊急アラートだった。
「何だこれ…また根拠のない噂か? “XXX駅近辺で集団殺人グループを見た”って、投稿主は撮影したと言ってるが写真が暗すぎて人影なのか何なのか」
警部補が困惑の表情を浮かべる。この手の不穏な反応はSNSでも日増しに増大していた。立ち入り禁止エリアに“黒尽くめの連中”がいたとか、ハッカー集団が裏で暗躍しているとか、荒唐無稽な話が飛び交い、一般市民の不安を煽っている。

「最新のハッシュタグを見てほしいんです。#カルト犯人説 とか #組織的殺人ネットワーク とか、下手な陰謀論がずらりと並んでます。しかも、その一部を鵜呑みにして『よし、あの連中を始末しよう』とか書いてる連中もいる」
隣にいたデジタル捜査担当がタブレットをスワイプしながら苦い顔をする。実際、オンラインの言説が危険な熱量を帯び始め、人々の憎悪や疑心暗鬼がひとり歩きしていることは否定できない。

さらに“殺人ゲーム”と称した悪質な投稿まで登場したらしく、「○○という場所を訪れたら加害者に仕立て上げられる」などという信じがたい煽り記事に、“いいね”が何千件もついているという。明らかに冗談や冗長なデマであっても、混乱している人々には格好の娯楽または恐怖拡散の材料となっていた。

「ひょっとすると、こういうデマや挑発に乗せられて、新たな模倣犯が生まれるかもしれませんね。自分は“正義の側”だと思い込み、“悪人を処刑する”と称して誰かを襲う、なんて最悪のシナリオがリアルになりつつある」 三雲はタブレット画面を見つめながら、画面に躍る刺激的な書き込みが不吉に光っているのを見逃さなかった。見知らぬ人間同士がメッセージで罵詈雑言を交わし、相手を「どうせ犯人だろう」「今すぐ捕まえろ」などと煽っている。常識的には相手にしない投稿でも、現実がここまで崩壊している以上、何が起きても不思議ではない。

「こうなってくると、もはや通常の事件捜査じゃ対処しきれない。ウチらが地道に証拠を集めて突き止めるとか、そんなレベルを超えちゃってますね」
若い刑事が天井を見上げる。市街地の警備は強化されたとはいえ、連日の事件と虚偽通報に追われ、すでに手薄になり始めているという。隊員の心身が限界に近づいているのだ。

「交通機関や物流も乱れ始めて、スーパーは棚がガラガラ。何かあったと勘違いした人たちが買い占めをして、さらに物資不足が広がってる」 警部補が別の資料に目を通しながら、心底参ったという声音を漏らす。経済活動も落ち込み、各地でイベントは軒並み中止。学校を休校にする動きさえ出始めた。人々の顔には理由の分からない怯えが焼き付き、日用品や食料が足りなくなる恐れからパニック買いが頻発している。結局のところ、事件が起きるかもしれないという漠然とした不安が社会を分断させ、孤立化させているのが現状だった。

「三雲さん、AIの解析どうでした? あれから何か新しいパターンは見えましたか」
警部補が一縷の望みにすがるように問う。三雲は申し訳なさそうに肩をすくめ、端末を開く。画面には統計や相関図が表示されているが、そこには断片的なキーワードや犯人候補の写真が並んでいるだけで、繋がりの強弱が色分けされているものの、すでに全体がほぼ真っ赤に染まったクモの巣状態だ。

「特定の人物が複数の事件に関与しているらしい、という仮説がいくつか示唆されてますが、検証するとどれも曖昧で確証に欠ける。要は、このツールでは“不確実な容疑者が数多く浮上しては消える”のを繰り返してるだけです」 三雲はタブレットを閉じ、唇を噛む。AIは決して無能ではないが、データそのものが混乱を極めているため、何度集計しても全体像が見えない。それだけ犯行が多発しているという事実もさることながら、虚偽情報の濁流が正確な分析を妨害しているのは間違いない。

そんなとき、廊下の奥から叫び声が聞こえる。
「至急、該当エリアへ出動しろ! SNSで拡散された“潜伏犯”を追いかけて、勝手に包丁を持って出て行った市民がいるって通報だ。下手すりゃ二次被害が出るぞ!」
あわてふためく刑事が無線を抱えて走っていく。どうやらネットで「犯人はあいつだ」と名指しされた人物の自宅へ、近所の住民が私的に“捕まえに”向かったという信じ難い騒動らしい。

「もう最悪だ。こんな状況じゃ疑いをかけられた人間も命の危険を感じるし、襲おうとしている連中だって正義を振りかざした自警団気取りかもしれない」 警部補はうなだれ、机に拳を落とす。三雲は彼の背後に立ち、言葉をかけることができない。ここまで社会が分断され、パニックに陥っているのは初めてだ。何か根本的におかしな力が作用しているのではないか、と疑いたくなるほど全体がギスギスしている。

「この広がり方と、殺人事件の無秩序さ…どう考えても普通じゃないです。犯人は複数なのか、一人なのか、それとも全員が予備軍なのか。正直、俺の頭じゃ無理だ」 三雲は苦悩に満ちた表情で目を閉じる。通常の推理手法や捜査連携では追いつけない。だがそんな弱音を吐いていては、いずれ市民同士が殺し合う地獄になるのではという恐れが募るばかりだ。

「人々が噂に踊らされて互いを襲うようになれば、被害者はゼロが一つ増えるかもしれない。今までの連続殺人とか関係なく、とにかく誰でもいいから疑って攻撃する…そんな狂ったスパイラルに陥るやもしれない」
警部補の言葉は耳に痛いほど現実的だ。SNS上で見られる不穏な書き込みの数々が、まるで現場の惨劇を後押ししているかのようだ。真犯人が笑っているとすれば、これほど上手くいった計画はないのかもしれない。

三雲はふと、手帳の余白に走り書きしたいくつかのキーワードを見つめる。
「“情報錯乱”“連鎖的犯行”“社会全体の不安”“どこでも可能性”“ハンドルできない凶器の多様化”」
自分で書いたメモがまるで悪夢のシナリオを要約しているように思えて仕方がない。

「謎の物品や凶器が全国で見つかる以上、何か意図的にばら撒いている勢力がいるのか。あるいは、それらも単なる偶然なのか…」 微かにそんな疑問を抱きながら、彼は頭を振ってノイズを振り払う。考えたい事は山ほどあるが、答えに繋がる根拠が足りない。連日、睡眠時間すらままならないまま捜査を続けて、警察組織や捜査協力者も疲労の極みに達している。この混沌を止める手立てが見えないまま、無関係な一般市民までもが互いを疑い、鎖のように絡み合っていく。

「こんなこと、あってはならないはずだ」
三雲が呟くと、警部補は険しい目を向けてくる。
「そうですね。あってはならないはずなのに、現実はまさにそうなっています。大げさじゃなく、社会そのものが破綻しかけてる。いっそ軍の力でも借りないと抑えられない事態になるかもしれません」

タブレットやスマホのSNS画面には、怒りや恐怖を吐き出す数えきれない投稿が流れ続けている。「次はうちの近所かもしれない」「誰も信用できない」「防犯のために近くの仲間と武器を買った」――そんな文面が列をなし、たまに「直接犯人狩りに出よう」「警察は当てにならない」と息巻くユーザーがいる。その書き込みに賛同する“いいね”やリツイートが伸びており、次なる騒動の火種を作り続けていた。

「こういう状況こそ、もう事件の捜査じゃなくて“社会の捜査”が必要なんじゃないかと思うんですよ。これがただの狂乱や集団ヒステリーじゃないとしたら、何か別の仕組みが働いてるのかもしれない」
三雲は目に見えない脅威を疑い始めている。常識的な推理で片付く事件なら、既にいくつかの犯行グループを割り出しているはずだ。だが、現実はその対極を行く無秩序さだ。むしろ人々の心の弱点や、ネット上の暴走、あるいは疑心暗鬼が一気に噴き出しているようにも感じる。

「俺たちが扱ってるのは、やっぱりもう“事件”なんかじゃないですよ。もっと大きな何か――言葉にするのも嫌だけど、見えない力が社会を侵食してるんじゃないかって疑いたくなる」
三雲が自嘲気味に言うと、警部補もそれを否定できない。SNSの画面を見れば見るほど、人々が勝手に殺人の悪循環を加速させているようにも映るからだ。

「結局、事件なのか、社会現象なのか、それすらも分からないまま拡大してるってわけか…」
警部補は天井を仰ぐように深く息を吐き、また新たに鳴り出した電話を取る。おそらく次の現場からの連絡かもしれない。備忘録のファイルには、既に大量の“未整理”タグが貼られた報告書が積み上がり、誰もが対応に追われている。混沌を認めるしかない、そんな絶望的な雰囲気の中でも捜査を止めるわけにはいかない。

「これだけの範囲に拡散し、疑心暗鬼が蔓延すれば、いずれもっと大きな惨事が起きるかもしれない。その前に、何とか突破口を見つけるしかない」 三雲はそう決意を新たにするが、具体的な策はまるで思い浮かばない。裏付けできる証拠も乏しい。
窓の外を見やれば、薄暗い曇天の下を、新聞社のヘリが低空飛行で飛んでいるのが見える。ヘリからのライブ映像を使った煽情的な報道でも準備しているのだろうか。いまこの社会に必要なのは冷静な視点のはずだが、現実には“もっと人々の注意を引く刺激的な情報”が求められているのかもしれない。さらなる混乱が約束されたような背筋の寒さを覚えながら、三雲はうつむいて深い思索に沈んだ。

脅威が日増しに広がるなか、混乱に拍車をかけるSNS投稿が止む気配はない。どんな誇張や出まかせも瞬く間に拡散され、正しい情報かどうかを検証する間もなく、人々の恐怖を増幅している。警部補も、若い刑事も、誰もが汗ばむ掌で端末を握りしめては、鳴り止まない警告音と通報に追われている。犯人を突き止めるどころか、社会全体がひしゃげていく状況に、探偵としての手腕を自負していた三雲さえ、ただ翻弄されるしかできない。

「連続殺人」の全貌が見えない――それを越えて、すでに“社会が大きく変調をきたしている”という仮説に思い至るものの、誰もが無力だ。もはやパニックそのものが一種の独立した存在で、あちこちを蹂躙しているかのようだった。SNSに投下される不穏な反応を眺めながら、三雲は“この暗闇をどうにか打開する手がないものか”と自問する。しかし、今のところ答えはない。電話が一つ鳴り止めば、また別の電話が鳴り、その合間にSNSには新たな噂が増え、次の通報が舞い込む――そんな泥沼の繰り返しが、街の光を蝕み、来るべき新しい惨事の予感をますますかき立てていた。

第四章:新手法の萌芽

研究機関の扉は重い金属製で、普段は静かな研究員たちが白衣姿で行き交う場所らしい。殺人事件のど真ん中に飛び込んでくる探偵の姿など、まったく想定外だったのだろう。白髪混じりの教授が三雲を出迎えた際に見せた驚きの表情が、そのまま空気を張りつめさせている。

「私どもの量子コンピュータを使って、まさか犯罪捜査の支援を依頼されるとは思いもしませんでしたよ」
教授が小声で苦笑いする。その背後で、若い研究員たちがこぼれんばかりのデータ端末を抱え、部屋の奥にある計算施設へ足早に消えていった。通常なら基礎研究や金融機関のリスク解析などに使われる高性能マシンに、“無数の殺人事件データ”をブチ込むなど前代未聞だ。

三雲も場違いな気配を感じながら、タブレットを両腕で抱え込む。警察側から提供された事件ファイルはクラウド上に断片的に存在しており、それを膨大な数だけ集約した。それらを全て圧縮し、一気に相関解析するというのが今回の狙いだ。すでに通常のAI捜査ではさっぱり歯が立たず、膨大な“ノイズ”をどうにかできないかという苦肉の策でもある。

「今回のデータ量、あくまでざっと見ただけですが、膨大どころの話じゃないですよ。SNS投稿や報道記事、未確定の目撃証言まで含んでますね? 量子コンピュータといえども、まずはある程度のフィルタリングが必要です」
教授はモニター上で幾何学的に並んだファイル群を指し示す。複数の殺人事件が絡み合うだけでなく、SNSによる噂や虚偽情報が何十万件も混在しているせいで、科学の粋を駆使しても正確なモデル化が難しそうだ。

「正直、自分でも無理筋だとは思ってるんです。それでも、今の状況を打開するには、何か新しい視点が要ると思いまして」
三雲は感情を抑えるように低い声で答えた。つい先ほども警部補から連絡が入り、「さらに10名以上の犠牲者が増えた」という混乱した報告を聞いたばかりだ。街だけでなく、隣接地域でもパニック買いと誤報が飛び交い、在庫不足や通勤トラブルが頻発している。まるで小規模な戒厳令下のような雰囲気の中を、三雲は“最後の切り札”にすがる思いで研究所を訪れたのだ。

「実験的に、一度すべてのデータを量子コンピューティングで整理してみましょう。ただ、既存のAIアルゴリズムとは違い、いくつかの段階で“量子ゆらぎ”による解の発散が起こるかもしれません。その際は誤差が膨大になり、結果が使いものにならない恐れもある」
教授はそう言いながら、部屋の奥へと三雲を案内する。そこには大型の筒状タンクのような装置があり、配線や冷却装置が複雑に絡み合っている。液体ヘリウムを使った超低温の世界で、高速演算が行われるらしい。

「まずは仮説をいくつか用意して、そこからパターン化したデータを入力していきましょう。何もかも無差別に放り込むと、ただのカオスが返ってくるだけですから」
教授の隣に立つ研究員が端末を操作し、画面に幾つかのチェックボックスを表示する。「容疑者プロフィール」「被害者の交友関係」「SNS投稿のキーワードクラスタ」「地理的情報の時系列推移」など、膨大な切り口がズラリと並んだ。どれも膨大な数字の渦だ。

「よし、やりましょう。まともに線形モデルを組んでも埒が明かないのは分かりきっているので、実験的に量子ビットで相関を探すしかない」
三雲は自分のタブレットからもデータを転送しつつ、胸の奥に一抹の期待を抱く。何かしら“気付き”が得られれば万々歳だし、仮にうまくいかなくても、もはやこれ以上の手詰まりは見当たらない。

数十分後、制御室のモニターが縦横無尽に走る数式とグラフで埋め尽くされた。研究員たちが息をのむなか、突然アラート音が幾重にも重なって響き始める。警告ウィンドウが出ては閉じ、赤いバーが画面を埋めるように伸びていく。
「量子アニーリングの計算領域がオーバーフローを起こしてます! 想定以上の不一致データが弾き返されてる!」
研究員の声が制御室に響き、教授もすかさずコンソールを操作した。しかし、モニターには矛盾の塊を示すエラーコードが断続的に表示され、事態は混沌を極める。

「おいおい、こんなに矛盾が多いのか。噂と証拠、容疑者の所在情報、目撃証言…どれも同時に成立しないものばかりだ。そりゃコンピュータも混乱するわけだな」
やや皮肉めいた口調で教授が言う。三雲はモニターを見つめて唇を噛む。これが単なるAIなら、まだスクリーニング過程で“ゴミ情報”が弾かれるのかもしれない。しかし量子計算はすべてを並列処理してしまうがゆえに、“これはゴミかもしれない”と仮定する余地が少ない。結果として、無数の可能性が矛盾を引き起こし、まともな推定すら導き出せなくなる。

「実行結果として分かったのは、『この事件群はそもそも一括りに扱えない』ってメッセージくらいですかね…。下の方に、量子アニーリングの推定メモが残ってます」
研究員の一人がスクロールしていくと、“関連性ゼロ”や“矛盾の塊”を示すアラートに混じって、不可解な注記が幾つも並んでいた。
「“犯行者不定” “多方向からの動機” “集団ヒステリーの数値的有意性” “未知因子の可能性”——変なキーワードばかりですね。まるで、そもそもの前提が違う、とコンピュータが言っているかのようだ」
教授は苦い表情を浮かべながら言葉を続ける。
「“人間が起こしている連続殺人事件”としての前提が間違いだ、と言っているようにも読めます。ただ、コンピュータが何を意味するのかは分からない。単にデータの食い違いが多すぎるだけかもしれない」

三雲は頭を抱えつつ、端末に表示されたワードを凝視する。「集団ヒステリーの数値的有意性」「未知因子の可能性」…こんなところにヒントがあるのかもしれない。そもそも「犯人が誰か?」「動機は何か?」という常識的な問いが、まるで裏目に出ているようにも感じられる。

「探偵さん、ここまで来てしまうと、普通の犯人像とか手口の統一を探すのは無理でしょう。私から言えるのは、この巨大な混乱は“何か別の仕組み”が働いているか、単に誤情報が肥大化しているだけか……いずれにしても、かつて見たことのないパターンです」
教授がマシンを冷却するために操作パネルのボタンを押すと、奥の装置から低い駆動音が漏れた。三雲は苦い思いを抱えたまま作業スペースの椅子に腰掛ける。手ごたえどころか、より一層深みにはまった気がしてならない。量子コンピュータですら“この事象は制御不能”と突きつけてきたようなものだ。

その頃、SNSでは新たな噂が一気に拡散されていた。大学の研究施設が“殺人犯養成の拠点”になっているという荒唐無稽な書き込みが爆発的に広まっているのだ。三雲がスマホの通知に気づいて画面を覗くと、見出しにはまるでホラー映画のような文言が踊っていた——「量子脳で洗脳!?」「教授と探偵は謎の研究で市民を実験している!」。どれも信憑性ゼロだが、混乱状態の世の中にあっては、こうした煽りが案外受け入れられてしまう。

「また変なデマが飛び火してる。“三雲探偵は頭がおかしくなって量子マシンを使ってる”とか書かれてますよ。もう何でもアリですね」
若い研究員が苦笑しながらSNS画面を指し示す。投稿欄には「こんな実験させるから連続殺人が起きるんだ」という極論も散見され、早くも数千件のコメントで溢れていた。

「まさに地獄絵だな。事件を解決しようとすればするほど、新たなデマと不満が生まれる。誰かにとっては犯人探しすら“陰謀”に見えるらしい」
三雲は思わずため息をつく。ここでもSNSがネガティブに働いているわけだが、それを放置している余裕など誰にもない。こうした誤情報がさらに人々の不安を刺激し、どこかでまた殺人事件が起きるかもしれない。あるいは実害のないデマでも、多くの人が先入観を植えつけられた結果、捜査が進められなくなる恐れだってある。

「探偵さん、この結果をどう見るかは分かりませんが、一つだけ言えるのは“通常の連続殺人”という枠組みにとらわれる限り、この事態の真相は掴めないでしょう。何か、もっと根本的に視点を変えないと」
教授が静かな口調で言い、モニターに映る“未知因子”という文字を見つめる。三雲も曖昧に頷くしかない。何がどう普通じゃないのか、未だに靄がかかったように把握できないが、これ以上「誰が犯人だ」「どの凶器が使われた」という点ばかり追いかけても泥沼だ。

「もう、事件がどうこうじゃなく、社会そのものが殺人を生んでる可能性はないのか…」
三雲がぼそりとつぶやくと、教授や研究員たちが怪訝な表情を浮かべる。突飛な発想にも聞こえるが、この量子計算の結果が指し示した“矛盾と不整合の塊”は、むしろそうした仮説を後押ししているように思えた。

そのとき、研究所の廊下から騒がしい声が聞こえてきた。「すみませんが、ここへは立ち入り禁止です!」という警備員の制止を振り切り、二人組の男が乱暴にドアを開ける。どうやら地元のネットニュース系メディアの記者らしい。手にはスマホのカメラ機能をオンにしたまま、三雲や教授を撮影している。

「やっぱりここが怪しいんだ! 量子計算なんて言って実験してるから、わけのわからない殺人が起きるんだろ? 国民をモルモットにしてるんだ!」
男の一人は高圧的に言い放ち、コンテンツを作るかのように相棒に向かって映像を撮れと指示する。警備員が追いかけてくるが、男たちはまるで確信犯のように部屋を物色して回っている。

「出て行ってくれ! ここは高度な研究施設だ、撮影なんて認めてない!」
教授が声を荒らげて追い払おうとするが、彼らは「こんなところで何を隠蔽してる?」などと挑発を続ける。その様子を見て、三雲は背筋が寒くなる。こうして根拠のない陰謀論がさらに拡散され、また別の人々の不安を煽ってしまうのだ。

「あんた、探偵の三雲だろう? 今回の連続殺人を利用して何か企んでるんじゃないのか?」
カメラが三雲に向けられる。三雲は険しい顔で記者を睨み返すが、はっきりした反論材料を持ち合わせていない。もはや“ウソも真実もSNS次第”という世界では、下手な言い訳をすれば逆効果だ。

「警備を呼ぶ。出て行け!」
教授が研究員に合図すると、数名の屈強な男たちが慌てて廊下から駆けつけ、記者たちを強引に押し出そうとする。そのわずかな間にも、カメラはぐるりと装置を撮影し続けており、映像や音声がリアルタイムで配信されている可能性もある。

ドタバタの末、どうにか記者たちを廊下へ排除すると、室内には重苦しい沈黙が落ちた。三雲は頭痛を覚える。無理をして量子計算などを試みた結果、真相に近づけないどころか、新たな誤解と混乱を招いてしまう危険すらある。

「これが今の社会ですよ、探偵さん。何をしようが勝手に解釈して、デマをつくって、炎上させる。そのあおりを食うのは、私たち研究者も同じです」
教授が深く嘆きながら椅子に腰掛ける。三雲も少し遅れて座り込み、乱れた息を静めようとする。

「でも、ここで分かったことが一つあります。“犯人を探す”という行為自体が、この混乱の本質から逸れているんじゃないのかもしれない」
三雲の言葉に、教授が目を上げる。
「ええ、量子計算の示唆したとおり、通常の“誰がやった?”という前提が間違いなら、根本的な見方を変えなきゃダメでしょう。事件じゃなく、むしろ“社会の病理”とでも呼ぶべき構造を暴く必要があるのかもしれません」

三雲は静かに頷いた。たとえ大量のエラーコードと矛盾が返ってきたとしても、そこには小さなヒントが埋もれている。「連続殺人」だとか「犯人は複数」などという考えすら、この事態を説明するには過去の常識にすぎない。異常な規模で殺人が乱発され、SNSや噂が燃料を投下する世界で必要なのは、“別の視点”を持つことだ。

「やっぱり、人間が殺人を“起こしている”という発想だけでは足りない。何か、人間を超えた…たとえば環境要因とか、精神面の連鎖とか、それこそウイルスのように伝染する何かがあるのかもしれない。いずれにせよ、一度誰が犯人かを問うのはやめて、違う角度から捉えてみる必要がある」
自分でも途方もない話をしていると自覚しながらも、三雲はそう思わずにいられない。量子計算が弾き返した“矛盾の塊”こそが、なぜだか真相に近づく扉のように感じるのだ。

廊下での騒ぎが収まり、警備員が「記者たちは追い出しましたが、外で待ち伏せしてるかもしれません」と報告する。教授はひどく疲れた顔でうなずき、そっとメガネを外した。研究施設の安全まで脅かされるこの事態は、もはや“連続殺人”の解決を超えたスケールで広がっている。

「事件データをぶちまけても、最先端の量子コンピュータは矛盾を指摘するだけ。要するに、『あらゆる要素が互いに食い違っていて、成立するストーリーがない』ということですね」
教授が肩を落とすと、三雲は小さく微笑む。通常の探偵なら絶望するかもしれない。しかし、この“ストーリーがない”という事実こそが、彼にとって次の一歩への糸口に感じられた。

「ストーリーがない…つまり、いま私たちが持っている“人間が起こす殺人”という固定概念を、一度崩して考えてみるのも手かもしれません。おかげで、そういう直感に行き着きました」
三雲の言葉に教授は目を丸くしながらも、「確かに通常の理屈では解けない事件なのは間違いないですね」とだけ応じる。室内には冷却装置の低い駆動音が響き、温度が下がっているはずなのに、誰もが不思議な熱気を感じていた。量子コンピュータの実験は大失敗に終わったように見えるが、この実験が示した“そもそもの前提が違う”という暗示は、もしかすると大きな転換点を呼ぶかもしれない。

「犯人が何者なのか? あるいは、犯人という概念すら的外れなのかもしれませんね」
三雲は瞳を細めてつぶやきながら、研究員がくれた解析結果の断片をそっと眺め続けた。歪んだ社会、歪んだ情報、そして歪んだ人々の行動。そのすべてが、殺人事件という形で吹き出したならば、従来の推理や捜査の枠組みでは掴めないのも納得できる。脳裏には、すでに“人間の犯行”とは呼べないような寒々しい予感が渦巻いていた。

第五章:画期的な手段

灰色の雲が低く垂れこめた日の午後、三雲は警察本部の会議室に再び呼び出された。そこには市長や警視正、自治体の危機管理担当者までもが集まり、あちこちで口論が起きている。増え続ける被害者、混乱を煽るメディア、収束の糸口がまったく見えない連続殺人。その深刻度を考えれば、こうして首脳陣が勢揃いになるのも無理はない。だが、誰も手詰まりの状況を打破するアイデアを持ち合わせていなかった。

「もう緊急事態宣言でも何でも出さないと、被害はさらに拡大する恐れがある」
市長がそう言って声を張り上げると、危機管理担当者は眉間に皺を寄せて反論する。
「宣言だけでどうにかなるなら、とっくにやっています。市民が外出を控えたところで、この無差別に見える殺人の連鎖が止まる保証はありません。人々は自分の身を守るために互いを疑い始め、かえってパニックが広がる可能性もある」

議論は平行線を辿り、もはや限界のように見えた。部屋の隅で黙っていた三雲が手を挙げ、重たい空気を切り裂くように声を発する。
「すみません、少々突飛な提案があります。正直、通常の捜査手法や緊急対策ではここまでの連鎖殺人を食い止められないと感じています。そこで…街を実験空間に変えるんです」

場が一瞬しんと静まる。突飛だ、常軌を逸している、そんな批判が飛んでくるだろうと三雲は予想していた。実際、何人かが目を丸くする。
「どういうことです?」
警視正が低い声で問いかけると、三雲は深呼吸ののち説明を続ける。

「従来の“犯人捜し”という前提を捨て、むしろ『社会全体がどうやって殺人を生み出しているか』を直接観察するための手段です。具体的には、街の外から入るあらゆる通信・情報・電波などを完全遮断し、中の人々だけの行動パターンを見極めたい。もし外部からの煽りやSNS情報が原因で殺人衝動が連鎖しているなら、遮断すれば変化が起きるかもしれない。それを確認するための実験です」

あまりにも大掛かりすぎる提案に、一同は息を飲む。街全体を“情報の檻”に閉じ込める――これまで誰もが考えもしなかった方法だ。市長は苛立ち半分で椅子から腰を浮かせる。
「無茶を言うな。もしそんなことを強行すれば、市民生活はどうなる? ネットも電話も使えず、経済活動も止まるだろうに」
三雲は言葉を選びながら続ける。
「もちろん、通常業務に支障が出るのは承知しています。しかし、全員が不安と疑心暗鬼に陥っている今、外部からの誤情報や煽りを絶つことは必要だと思うんです。さらに、同時にAIの仮想空間に“街の完全レプリカ”を構築し、現実と比較する形で観察を行います。もし現実の街で殺人連鎖がピタリと止まるなら、外部情報こそが元凶の可能性が高い。一方で、依然として連鎖が続くのなら、別の要因があると推測できる」

警視正はうなりながら腕を組み、市長と目線を交わし合う。すると自治体の危機管理担当者が机を叩くようにして口を開く。
「馬鹿げている、しかし他に方法がないのも事実です。何百人もの被害者が出てなお手詰まりなら、こういうラディカルな実験も検討するしかないのではありませんか」

こうして、誰もが「有り得ない」と思いつつも、その“有り得なさ”にすがるしかない空気が醸成されていく。結局、この場ではまだ正式承認は下りなかったが、三雲の提案は“議題として検討を進める”ということでかろうじて次のステップへ移ることになる。

数日後、大胆な実験案が報道陣や専門家から猛反発を受けながらも、事態の深刻さを前に最終的にゴーサインが出た。市民の中には「こんな暴挙は許されない」「人権侵害だ」と抗議する声があったものの、既に身近で殺人事件が起きている地区の住民からは「やれるだけやってくれ」「少しでも安全になるなら賛成」という声が寄せられた。

そして前代未聞の作業が始まる。街の外周をぐるりと取り囲むように設置されるジャミング装置、主要なネット通信回線を物理的に遮断する工事、衛星電話を含むあらゆる電波を封鎖する特別シールド。市内と外部を繋ぐ高速道路や鉄道のゲートには、厳重な監視と制限がかけられる。まるで都市全体を隔離するかのような光景に、あちこちで「これじゃまるで映画の撮影だ」「軍事実験に使われてるのでは」とSNS上が再び騒がしくなる。

「ここまでのことをして、本当に効果が出るんですか」
工事を監督する職員が不安げに三雲に声をかける。人々の不満はもちろん高いが、逆に「通信が遮断されたら誰かに襲われてもSOSを出せない」という恐怖も無視できない。三雲は胸の内に葛藤を抱えながらも、自分の仮説を信じるしかなかった。

「この実験の間、警察や救急は内側でしっかり機能しますし、非常時には限定的に外部に連絡を取れる仕組みは用意しています。重要なのは、市民がSNSや外部メディアの流す情報を一切見られない状態で、殺人の連鎖がどう変わるかを確認することです。可能性がゼロでない以上、やるしかない」

一方では、並行して“街の完全レプリカ”をAI上で再現する作業が進められていた。大手IT企業や研究機関の技術者が集い、市民の年齢や職業・行動パターンをビッグデータから推計し、バーチャル空間に“仮想住民”として配置する。道路や建物、店舗の配置だけでなく、日常の交通量や天候条件までも再現していくという。三雲はそのオフィスを訪れてモニターを覗き込む。

「すごいな、本当にそっくりだ。これなら、現実で人々がどんな行動をとるのか、シミュレーションできるかもしれない」
エンジニアは苦笑しながらキーボードを叩く。
「ただし、シミュレーションには何らかの前提が必要です。今回のように、殺人が続発する社会現象は前例が少ないので、初期設定が難しい。仮に通信が遮断された場合、仮想住民がどれだけ混乱し、どれだけ安心するかも未知数です。実測データを得るために現実と並行して観察し、両方を突き合わせるしかありません」

こうして、街全体を隔離する“現実の実験”と、同じ街を再現した“仮想実験”が同時に走り出すことになった。一方で現場の警察は相変わらず悲鳴を上げていた。実験開始直前にも連続殺人と思しき被害報告が何件も発生し、混乱を極めたまま日が暮れる。市内の住民たちはテレビとSNSの急激な制限に驚き、スーパーやコンビニで大行列が起き、在庫が瞬く間に底をつく。いわゆる「情報遮断パニック」だ。

「やめろ、そんなニュース流すんじゃねえ!」
警察署の前では、通信制限に不満を抱く市民がプラカードを掲げてデモをしている。マスコミも外部から撮影しようとするが、防音壁やシールドのおかげで電波が届きにくく、断片的な映像しか撮れない。そんな状況が逆にさらに陰謀論を煽り、「政府が街を封鎖して人体実験している」といった書き込みが拡散される始末だ。もはや事態は想像以上にカオスとなる。

そして二十四時間体制で運用される“通信遮断下の街”は、初日からいくつかの顕著な変化を見せ始める。朝から晩までテレビやネットに晒されていた人々が、外部情報を断たれて初めて隣人と直接会話し始めるケースが増えた。小さな商店では商品が不足しているため、客同士が「分け合いましょうか」と協力する場面も見られる。警察本部には妙に平和な目撃報告が届くようになり、逆に殺人事件の発生数がぐっと減った――もちろんゼロにはならないが、明らかに急減している。

「本部からの報告です。昨日から殺人事件らしき通報が三件しかありませんでした。今までのペースを考えれば異常に少ない数字です」
若い刑事が息を切らせてやって来る。警部補や警視正は顔を見合わせ、三雲の提案が功を奏しているのかと驚きを隠せない。
「まさか、本当に外部からの誤情報や煽りが殺意を増幅させていたのか…」

同時刻、仮想空間の“バーチャル住民たち”には、条件別に複数のシナリオが適用されていた。“遮断なし”の世界では、これまでどおり殺人や不安が連鎖して夜も眠れないような騒ぎが続いている一方、“遮断あり”のバージョンでは事件が大幅に減少する。三雲は巨大モニターで仮想住民たちの行動をリアルタイム観察しながら、現実の街から届く速報と突き合わせる。

「こちらのAIシミュレーションでも、想像以上に“通信断”が殺人の連鎖を断ち切っていますね。やはり外部情報の悪影響が大きかったのかもしれない」
エンジニアが興奮気味に説明する。三雲の中にはまだ不安がある。これほど大規模に外部を遮断しては、社会インフラが崩壊しかねないし、長く続けるのは不可能だ。しかし、少なくとも“人々を殺しの衝動に駆り立てていた何か”が、外部からの情報流入だった可能性が一歩近づいた。

だが、その夜遅く、またしても不気味な事件が発生する。通信遮断下にもかかわらず、閑散とした路地裏で二人の遺体が見つかったのだ。どちらも刃物による複数の刺傷があったが、騒ぎになった様子がまったくない。被害者同士には接点もなく、SNSやメディアを介しての誘導が一切考えられない状況だった。

「こんなことが起きるのか…通信がないのに、なぜ殺人が?」
警部補が頭を抱える。これで“外部情報説”は解決策にならないのではないかという不安が再び広がる。しかし三雲はむしろ冷静に、現場写真を睨みつけていた。通信がなくても殺し合いが起こるということは、原因はやはり一つではない。未知の要因がまだ見え隠れしている。

「ウイルスなのか電磁波なのか、あるいは社会そのものの精神状態なのか。とにかく人間の意志や動機に還元できない仕組みがあるのかもしれません」
三雲はこう呟きながらも、この実験がまったく無意味だったとは思っていない。事実、一時的には殺人のペースが激減したからだ。連日耳にしていたパトカーのサイレンが明らかに減り、人々が落ち着きを取り戻している地域もある。それこそが、部分的な成功を示していると言える。

「もう少し続けたい。まだ数日は情報遮断を続けてみて、殺人が完全に止まるのか、それとも局所的に残るのかを見極めたい」
三雲は指揮系統の面々にそう訴える。街の“社会実験”は混乱を伴いながらも継続されることになったが、完璧ではないことも明白だった。加えてバーチャル空間のデータとも整合しない“新たな殺人”が出てきた以上、外部情報の影響だけでは説明できない“別の要因”が依然存在するという伏線が濃厚になりつつある。

反対派の市民は「こんな人権無視の実験を即刻やめろ!」と盛り上がり、外部のメディアは「実験都市からの最新情報」と称して中途半端な映像を垂れ流す。中には「街が平和になっている」というポジティブな報道もあれば、「殺人は隠蔽されている」と疑う声もあり、国民全体が振り回されていた。まるで都市全体が巨大な檻にされ、外から観察されるモルモットのようだ――そんな厭世感さえ漂う。

「一歩前進かと思えば、謎がさらに深まる。だけど、やはりこれほど連鎖殺人が減ったのは事実だ」
三雲は夜の警察署で一人、遮断下で制限がかかった端末を睨みながら確信を深める。人間だけが原因ではない殺意の連鎖。それが何であれ、社会実験によって“一部の事象”は大幅に鎮静化した。しかし完全停止には至らない。つまり、外部情報以外にも“何か”が火種になっているとしか考えられない。

ドタバタのなかで始まった社会実験は混乱を生みつつも、三雲にとって大きな手がかりを与えてくれた。自分たちの常識を覆す規模で殺人が連鎖し、SNSや報道が燃料をくべている構図が少しずつ明確になる一方、通信を遮断してもなお起こる謎の殺人が、その常識破りの謎をさらに深めている。

「人間が起こしている殺人」という前提自体を捨て去った仮説。その仮説を具体化するために始めた大実験は、ある意味で成功しつつあり、同時にさらなる疑問も生んでいる。外部からの情報を断っても発生する殺人は何を意味するのか。ウイルスなのか、電磁波か、あるいはもっと得体の知れない“現象”なのか――三雲の思考は限りなく広がっていく。どんな結末を迎えるのかはまだ見通せないが、すでに街は社会実験とバーチャルシミュレーションの“二重の観察”という新段階に入っていた。少なくともこれまでにない“現実の法則を操作する”試みは、事態の真相にほんの少しだけ近づいていると信じたい。そんな微かな希望が、パニックの渦中にある街をかろうじて支えていた。

第六章:壮大な実験

警察署の非常灯が点滅を繰り返し、廊下にはどこか落ち着きのない気配が漂っていた。社会実験——通称「通信遮断プロジェクト」——が始まってから数日。市内から外部への通信が完全にカットされ、住民はインターネットも電話も使えない。あれだけ殺伐としていた街は奇妙な静寂に包まれつつあった。もっとも、全員が納得しているわけではない。警察署の正面には「こんな監禁も同然の手口は人権侵害だ」という横断幕が掲げられ、わずかに残る通行人の視線を集めている。

ところが、実験開始直後からあれほど混乱していた殺人事件は激減し、人々の表情にもわずかながら余裕が戻り始めていた。まるで、外部から流れ込むフェイクニュースや扇情的な報道がシャットアウトされたことで、“必要以上に刺激されていた不安”が沈静化しているかのようだった。

「やはり誤情報が殺意を煽っていた可能性が高いのかもしれません」
実験モニター室の一角で、警視正が低く唸る。数名の警察関係者と学識経験者、そして三雲(みくも)がディスプレイを見つめている。そこには、市内の監視カメラから送られる映像が並んでいた。以前なら流血やパトカーのサイレンが絶えなかった夜の街が、妙に落ち着きを取り戻している。もちろん、殺人がゼロになったわけではないが、一時期の“無差別状態”と比べれば、確実に減っているのは統計的にも明らかだった。

「統計班の資料によると、実験開始前の3日間の殺人事件件数を1とすると、遮断後の3日間はその6割ほどに落ち込んでいます。従来の“上昇曲線”を考慮すると、これは大幅な減少です」
メガネをかけた若い分析官がタブレットを手に説明する。グラフには赤い線で描かれた従来の増加傾向と、実験後に緩やかに下降へ転じた青い線が重ねられていた。それだけで見れば、誤情報やSNSからの煽りによって生まれていた殺意の連鎖が、いかに大きかったかを示唆している。

しかし、そこには決定的な矛盾も存在した。三雲はモニターにもう一つ映し出されている“AIシミュレーション画面”に目を移す。街の仮想レプリカ――通信が遮断されたバージョン――では、ほぼ完全に事件が起きていないのだ。住民キャラクター同士の微細なトラブルこそあるが、殺人に至るケースは“通信あり”のバーチャル街との比較で見ても桁違いに少ない。

「AI上の“通信遮断”モデルだと、ほぼ殺人が起きませんね。集団の不安や噂が拡散しないからでしょう」
エンジニアが画面を操作し、住民キャラクターたちが平穏に暮らす様子を拡大してみせる。数値モデルでも、殺人率はほぼゼロに近い。一方で、“通信あり”バージョンの仮想街は殺人や衝突が止まらず、荒れ果てた状態が続いている。まるで「同じ街」なのに天国と地獄ほどの差が出ていた。

「けれど現実では、通信を遮断しても殺人が完全には消えていない。昨夜も2件、無関係と思われる人物が刺殺されています。通信がないのに、どうやって殺意が連鎖しているのか」
三雲が苦悩の表情で呟くと、警視正は唸りながら腕を組む。
「仮説としては、電磁波で人々を煽る犯人がいる、あるいは元々この街には“殺人衝動”を抱えた人物が多数潜んでいる……など色々あるでしょうが、決め手はありませんね。外部情報を絶って一部は鎮静化したのに、まだ“残る要因”がありそうです」

“決定的なファクター”を示唆する統計解析

同じ会議室の奥で、統計担当の研究員がバタバタと駆け寄ってくる。
「今しがた解析が終わりました。仮想空間の比較結果をさらに詳細に調べたところ、事件減少のパターンが“情報遮断”と高い相関を示す一方、特定の周波数帯が消えた後も依然として殺意が継続される集団がいることが分かりました」
「周波数帯、ですか? 携帯電波以外に何か?」
三雲が問い返すと、研究員は大きく頷く。

「はい。厳密には電磁波だけでなく、人同士の接触や会話による“直接的な不安伝搬”も含まれます。通信を遮断しても、もし住民同士が疑心暗鬼を直接に煽り合えば、殺人の連鎖は完全には止まらない。今回のケースだと、実際に“隣人が犯人かもしれない”という噂が直接口伝で回っていて、SNSが無くても警戒し合ううちに“先に殺そう”と行動に移る事例がゼロではないようです」

「つまり、最初に“誰かが犯人だ”と疑いをかければ、SNSだけでなく対面での噂や目撃談も連鎖を起こしうるわけか。デマの媒体がネットか口伝かの違いだけ――そりゃ完璧には止まらないな」
三雲はため息をつく。通信遮断によってフェイクニュースは遮れたものの、人間同士の接触を完全に制限するわけにはいかない。そこから生まれる不安や噂話が、細々と“殺意の芽”を保ち続けるのだとすれば、説明がつく。

「ただ、それでも大規模な殺人連鎖は明らかに減った。統計的に見ても、通信のない仮想空間と現実の街を照らし合わせると、外部情報の大量流入が“殺人の指数関数的な拡大”に大きく寄与していたと推定できます。いわば“燃料”が絶たれた形ですね」
研究員の言葉を受け、警視正はモニターのグラフを指し示す。そこには“通信ありのバーチャル街”が依然として高い殺人発生率を示す一方、“通信遮断済みの現実街”は低い数値で安定していた。完全には止まらないが、確実に減っている。

「数字の上でも、誤報や煽りが殺人を生み出す大きな要因になっているのは明白だ。これは大きな収穫だろう」
そう語る警視正だが、その声は晴れやかではない。事件の本質が“誤情報”や“煽動”だけで片付くなら、通信遮断で殺意はゼロになるはずだからだ。いまだ底に潜む“何か”が解明されていない以上、人々が安心して暮らせる状態には遠い。

翌朝、三雲はAIシミュレーションの管理オフィスを訪れ、最新の統計モデルを確認していた。コンピュータ画面には「情報の伝搬速度」「人々の殺人衝動のしきい値」などが数値として並んでおり、それらを組み合わせたグラフがゆらゆらと動いている。とりわけ目を引くのは“集団無意識の暴発率”と名付けられた指標。学術的な裏付けはまだ浅いが、“誰が犯人か分からない”という不安が高まるほど、ある臨界点を超えて集団全体が“攻撃衝動”へ傾く可能性を示すパラメータだという。

「ここです、見てください。社会心理学の理論を参考にして作った推計なんですが、通信量が多いほど噂と恐怖が急速に拡散して全員が疑心暗鬼を高め、結果として“集団無意識の暴発”が起こりやすいんです。逆に通信が遮断されると、この赤い線が急激に下がる」
エンジニアが指差すグラフには、遮断前と遮断後で大きな差が描かれている。遮断前は“集団無意識の暴発率”が90%近くまで上がっていたのに対し、今は30%ほどにまで落ち込んでいる。とはいえ30%という数字も無視できるほど低くはない。それが“昨日の2件の殺人”のように、局所的に噴き出す原因になりうるのだ。

「なるほど。じゃあ外部情報のシャットアウトで大規模連鎖は抑えられたけど、近隣同士の口伝やもともとの恨み、あるいは無意識の警戒心が残っていて、それが今の殺人の原因になっている可能性があるわけか」
三雲は得心したように頷く。もはや一人の連続殺人鬼を捕まえたり、カルト組織を壊滅させれば解決する話ではないという事実を、誰もが痛感している。むしろ“社会の空気”そのものが殺人を生んでいる。

「こうした集団行動モデルを使った解析、実は経済や疫学の分野でも取り入れられているんです。たとえば『パニック買い』のメカニズムとか、『感染症が流行すると人々の不安がどう増幅するか』なんかを数理モデル化してきました。今回の殺人連鎖は、ある種の社会感染みたいなものかもしれない」
エンジニアの言葉に、三雲は歯噛みする思いを浮かべる。さながら“ウイルス”が人々の脳内に入り込み、互いを敵視させるかのように連鎖していた殺人。この通信遮断の実験によって外部からの煽りが絶たれ、多くの人々は平穏を取り戻した。しかし、根底にある「他者への不信」や「誰をも信用できない」という感情は完全に消えたわけではない。

夕方、警察署の特別会議室では簡易ブリーフィングが行われ、三雲は改めて実験の成果を報告する。

  • 被害件数:通信遮断開始前に比べ、明らかに殺人の発生数が減少。指数関数的に広がっていた連鎖が収まった。

  • 市内の秩序:パニック買い等の混乱は一時的に起きたが、慣れてきた住民はむしろ情報の少なさをプラスに捉え、直接コミュニケーションを取る動きが増加。

  • 残された謎:なお、完全に殺人が止まったわけではない。2~3日に1件ほど、不可解な凶行が続く。「外部情報」とは関係ない殺人の源が存在する可能性。

分析官が指し示したスクリーンには、“残された謎”を示すいくつもの仮説が映し出される。ウイルス説、電磁波説、社会ストレス説、あるいは相変わらず複数犯による無作為な犯行説まで——いずれも確固たる根拠はない。

「これで分かったのは、SNSやメディアが“殺人衝動”を劇的に増幅する“燃料”だったという点です。ただし、それだけじゃなかった。街の人々が心に抱える別の火種も見え隠れしています」
三雲はそう言って、通信遮断の統計結果を指し示す。市長や警察幹部たちは、やや複雑な表情ながらも成果を認めざるを得なかった。誤情報と不安の拡大が連鎖殺人の核心だった可能性は高い。実際、殺害数は確実に下がっているのだから。

「となると、あとは“残る数件の動機不明殺人”をどう解析するかですね。ここが突破口になれば、完全に連鎖を断ち切れるかもしれない」
警視正が希望を込めて言葉を続ける。だが三雲の胸にはまだもやが残っている。どこか直感的に、“外部情報”だけでなく“人々の内面”を伝播する何かがある。AIシミュレーションでも、完全遮断バージョンで極稀に殺人が起きるケースがシミュレートされ始めたのだ。エンジニアによると、“極度の心理ストレス状態”という初期設定を与えた仮想住民が、突発的な暴力を振るう可能性が低確率で発生するとのことだ。

「つまり、SNSやニュースがなくても、人が集合体として“殺人に向かう心理状態”になってしまえば、やはり事件は起こりうる。どちらにせよ“外部からの煽り”を断つのは有効だけど、完璧な解決策ではないんだな」
三雲は資料を閉じながらそう呟く。まもなく、この社会実験は終了する予定だ。数日中には通信制限が段階的に解除され、市民には再び外部と繋がる自由が戻ってくる。そのとき、街はどう変化するのか——再び殺人の波がぶり返すのか、それとも人々が学習して“情報との付き合い方”を改善するのか。

「ここまで来れば、あとは我々にできるのは“予防策”を整備することだけかもしれません。外部からのフェイクニュースを早期に検出してブロックするシステムを、国家レベルで導入できれば理想的ですが…」
危機管理の担当者がため息をつきながら言う。市長は苦い顔で黙り込んでいた。通信を強制的に遮断するのは、あくまで一時的な非常手段でしかなく、ずっと続けることはできない。それでも、今回の壮大な社会実験によって“誤情報や不安の煽り”が連鎖殺人を招くという証拠はほぼ固まった。

「これほど大がかりな実験をやって、元に戻せばまた混乱が再燃する危険はある。でも、手をこまねいていてもいずれ同じ未来が訪れたのかもしれません」
三雲は自分自身に言い聞かせるように言葉を発する。彼の頭の中では、電磁波やウイルスの可能性も依然捨てきれないが、最も大きかった要因は“外部情報の洪水”にあると結論づけられつつあった。今後の捜査は、残る局所的な殺人――“外部情報が無くても起きる”ケース――を突き止める作業に注力する形になるだろう。

廊下からはまだ抗議の声が聞こえる。「インフラ麻痺に文句を言う市民」もいれば、「街が平和になったのだから続けろ」という人々もいて、意見は割れている。だが、数字は嘘をつかない。誤情報と不安が互いを増幅していた事実が、これでほぼ証明されたのだ。

現実世界の法則を強引に変え、バーチャル空間と比較する――常識外れの実験は、少なくとも一部の真実を暴き出した。殺人の主要因は、“外部からの誤情報”と“人々の不安心理”が組み合わさって引き起こす“集団無意識の暴発”。まるで伝染病さながらに、噂が拡散し、互いに疑い合うことで“先に攻撃する”マインドが広がっていたのだ。皮肉にも、街を丸ごと封鎖して初めて、そのメカニズムが浮き彫りになった。

「あとは…いつ、どうやって通信を復旧させるか、その時にどれだけ慎重な情報管理を行うかが勝負でしょう。さもなければ、再び同じ惨劇が繰り返される」
会議の最後に警視正がそう宣言すると、参加者の間に重苦しい沈黙が落ちた。三雲は窓の外を見やる。試験的に設置したジャミング装置の向こう側には、灰色の空が広がっている。数日前まで聞こえていた絶え間ないサイレンが、今は遠く微かにしか響かない。その静けさが一種の不安をも誘うが、同時に“三雲の提案”が間違いではなかったことを示唆しているかのようでもある。

「これで連続殺人の原因がすべて解明されたわけじゃないが、大枠は見えた。SNSやメディアの誤情報が、こんなにも容易く人を殺人へ導くとは…」
三雲は、まだ遺されている“外部情報が無くても起きる殺人”の課題を意識しつつも、ここまでの成果に小さく安堵の息をつく。バーチャル実験が示した“通信がなければ殺意が抑制される”という劇的な結果は、ニュースでも大きく取り上げられ始めた。世間は“大掛かりな人権侵害”という批判と、“殺人連鎖を防げた”という称賛とに割れ、再び渦を巻いている。まるで情報が断たれた街と、依然としてノイズに満ちる外部社会のコントラストを浮き彫りにするようだった。

「やるべきことはまだ山積みですね。少なくとも、今回のデータから“外部からの煽動”が主要因だと示す論文をまとめ、政府や専門機関に働きかける予定です。統計的にも十分有意な結果を出せましたから」
統計担当の研究員がそう言うと、三雲は力なく笑う。
「ええ、後はこれを社会全体でどう受け止めるかですね。誤情報に踊らされないシステムを構築するのは、簡単じゃないでしょうけど…少なくとも私たちは、実際に“人が殺し合わないためには情報制御が効く”ことを体感したわけですから」

廊下へ出ると、相変わらず外の抗議の声が微かに聞こえる。だが、あの連日連夜のサイレンと絶望的な犠牲のニュースを思えば、街は確実に落ち着きを取り戻しつつあった。全てが解決したわけではない。残る殺人の謎もある。けれど、社会実験によって“真相の片鱗”は少なくとも見えてきた。誤情報と不安が“集団無意識の暴発”を起こし、想像以上に多くの人間を“殺すか殺されるか”の思考に追い詰めていたのだ。

しんとした空気のなか、三雲は踵を返して駐車場に向かう。ジャミング装置の設置場所には作業員の姿がちらほら見える。まだ数日は実験を続けることになるが、その間に今回のデータをさらに掘り下げるつもりだ。外部情報さえ封じれば殺人の連鎖は止まるのか。それとも、人々の心にこびりついた不信感こそが根源的な火種なのか――それを見極めるために、三雲は残された時間をフルに使うつもりだった。

周囲の空気には薄い緊張と安堵が入り混じっていた。住民たちはインフラの麻痺に苛立ちながらも、連日殺人報道に脅かされていた頃よりは心なしか穏やかだ。仮想空間のグラフは、それを裏付けるように通信量と殺人発生率の推移を示している。人間同士の接触において噂や疑念が伝播するメカニズムは依然残るものの、SNSやメディアという巨大な拡声器が無いだけで“指数関数的な連鎖”は回避できる。壮大な社会実験が、その“決定的なファクター”を突き止めようとしていた。

第七章:真犯人発覚

警察署の一室に集まった顔ぶれはいつもとやや違っていた。科学的捜査やデジタル分析に携わるメンバーだけでなく、大学や研究機関の専門家、さらには心理学や社会工学をかじる非常勤アドバイザーまで加わっている。巨大なホワイトボードには、多数の矢印とキーワードが記されていた。見る人が見れば、一種の“社会現象”を分解する試みなのが分かるだろう。

「まず結論から言えば、容疑者が何人いるかというレベルじゃないです」
三雲(みくも)がホワイトボードの前で語る声には、従来の“犯人捜し”を超えた確信めいた響きがあった。街を巻き込む連鎖殺人の根源を、これまでの捜査やAIシミュレーション、さらには統計解析と社会実験で洗い直していった結果——行き着いた仮説は「犯人は社会全体」であるという、常識破りなものだった。

「犯人が社会、ですか? もちろん、メディアの煽りやSNSの誤情報が大きな要因だったとは理解していますが、そこから更に一歩進んで『社会全体が犯人』とは…」
警視正は苦い顔で腕を組む。大それた物言いに聞こえるが、三雲はそれを半ば既成事実のように認める態度だ。

「ここからが本題です。社会全体が加害者として機能しているというのは、ただの比喩ではなく、複雑系やゲーム理論、ネットワーク理論、そしてカオス理論の観点からも説明できるんです」
そう断言すると、三雲はホワイトボードに描かれた図を指で示す。そこにはゲーム理論カオス理論ネットワーク理論フィードバックループ複雑系といった単語が散りばめられていた。


1. ゲーム理論――“先手を打て”の心理

「これまでの目撃証言や捜査記録を総合すると、人々は互いを疑心暗鬼で見はじめ、相手が殺してくる前に“先にやる”という行動を選択していました。一見、個人が勝手に凶行へ走っているだけですが、実はゲーム理論で解釈すると『相手が先に攻撃してくるかもしれないなら、自分が先手を打ったほうが得策』という“囚人のジレンマ”に近い構図なんです」
三雲は資料を示す。ある事件では容疑者が「自分が疑われるくらいなら、あの男を消そうと思った」と供述している。同じ発想があちこちで重なれば、そこかしこで殺人が発生して当然だ。
「つまり、多くの市民が“誰かの攻撃”を恐れ、論理的にはきわめて“合理的”な行動をとって殺人に至っていた。だから、犯行者が特定の組織や性格の人間に限られなかったわけです」


2. カオス理論――些細な誤報が連鎖殺人を誘発

「誤報やSNSの煽りが激しく拡散し、ちょっとした噂が大騒ぎになるのは、バタフライ効果に近い現象です。小さな誤解やデマが、社会という巨大システムで増幅され、結果的に多数の殺人を引き起こすカオスへと繋がった」
三雲が指すグラフには、たった数人のつぶやきや目撃談が波及して、殺人件数を指数関数的に押し上げた様が描かれている。単なる“偶然”や“人間の狂気”というより、ネットワーク規模が大きいほど微細なズレが爆発的影響を及ぼす典型例だ。


3. ネットワーク理論――繋がりすぎた社会

「SNSやメディアが行き渡っている現代は、スモールワールドネットワークと呼ばれる状態です。どんな情報でも数クリックで世界中に広がる。その結果、殺人衝動という過激な行動ですら、模倣や誘発が瞬く間に拡大してしまった」
端末に映し出されたのは、街を点と線で示した膨大なグラフだ。わずか数人がある噂を広めると、それが全市的に伝わり、住民全員が“誰かが危険だ”“次は自分かも”という疑心暗鬼で染まる。“犯人を直接目撃した”人は実は少数なのに、ネットワークを通じて全員が“そいつは殺人鬼だ”と信じ込む状況が生まれれば、誰もが先に仕掛けるという悪循環へ陥るのも無理はない。


4. フィードバックループ――殺人が恐怖を呼び、恐怖が殺人を呼ぶ

「ある殺人が起きる→それが報じられるor噂になる→市民が不安を募らせる→さらに“先に攻撃する”人間が出現→次の殺人…という負のフィードバックループが回転していたんです。個人の意思を超えて、システムとして“殺人を自己増殖”させていた」
三雲は資料を示しながら説明する。実際、短期間で数百件もの殺人事件が起きた背景には、犯人像が拡散するたびにさらに別の殺人が誘発される“連鎖構造”が確かに存在した。誰か特定の首謀者や凶悪犯を捕まえても、このフィードバックを断ち切れなかったのは必然だった。


5. 複雑系――“誰もが加害者にも被害者にもなりうる”システム

「社会は複雑系であり、無数の要素が絡み合って予測不能な振る舞いをします。今回の連鎖殺人は、社会そのものが“自律的分散システム”として暴走した例。誰か特定の陰謀ではなく、万人が無自覚に“犯人”となりうる構造が顕在化したんです」
三雲はホワイトボードの最上部に大きな文字で書かれた言葉を指さす。「犯人=社会」。最初はスローガンめいた提案にしか思えなかったが、ゲーム理論的アプローチからカオス理論、ネットワーク理論、フィードバックループ、そして複雑系までを総合すると、個々人が合理的に振る舞った結果、全体が“狂気”に陥ることが説明できるのだ。


「実際、人々が自発的に“誤情報を流そう”とか“殺人を誘導しよう”と思っていたわけではない。しかし、システムとしてはそう動いてしまったんです。これこそ複雑系が発する“大きな歪み”。SNSやメディアの拡散力が何重にも影響を与え、誰も意図していないのに、結果として社会全体が殺人を促進する装置になった」
三雲は視線を巡らせる。
「だから、特定の犯人を探しても収束しなかったのか。連鎖を止めるには、システム全体に介入するしかなかったわけですね」
警視正は悔しさを含んだ口調で言う。通信遮断実験をやって初めて、そのシステム介入が効果を発揮した背景が見えてきた――大雑把に言えば、“情報拡散”という燃料を絶つことで暴走を鎮めたのだ。けれど、それは応急処置でしかない。


「ゲーム理論でいうと、住民全員が“裏切り”を選ぶ均衡状態に陥っていたんです。誰もが『相手を先に殺せば自分が生き残る』と思えば、その選択肢が合理的だと信じてしまう。一方、通信を遮断することで、外部の煽りが入らなくなると、人々があえて“攻撃しない”メリットを感じやすくなる。協調均衡に少しずつ移行したんです」
三雲の説明に、若い刑事が頷く。実際、街では外部メディアの扇動が無くなると、隣人との直接的なコミュニケーションが活発になり、不安よりも“この状況を皆で乗り越えよう”という協調意識が生まれた例が多数報告されている。

「それに、カオス理論的には“小さなきっかけ”が大きな混乱を呼ぶ。逆に“小さな平静”が全体を安定へ導くケースもある。街を丸ごと隔離したことで、殺人を呼び起こすバタフライ効果を抑え込み、別の正の連鎖を醸成できた——ということですね」
教授が補足すると、警視正の表情もようやく納得の色を帯びた。この大がかりな社会実験こそ、複雑系における“初期条件の微妙な調整”を成し遂げたわけだ。


「通信遮断で大半の殺人は減りましたが、ゼロにはならない。それはネットワーク理論でいうところの“局所クラスタ”がまだ存在しているからでしょう。物理的な近さや既存の人間関係で、局所的にデマや疑念が連鎖しているんです」
三雲が端末に映る地図を指し示す。赤いピンが集中している特定の地区では、依然として殺人が起きている事例がある。そこは血縁や狭いコミュニティが強く、外部情報が無くても“疑念”がこもごもに伝わって殺意に発展している可能性が高い。
「フィードバックループは通信を絶っただけでは完全に止まらない。人間同士が対面で繋がっている限り、その“先制攻撃”のロジックが消えきらないからです」


「要するに、ここで言う『犯人は社会全体』とは“誰もが加害者になりうる”システムそのものを意味します。誰か一人が黒幕ではなく、全員が相互に疑心暗鬼を増幅し合い、不可避的に殺人を選んでしまう仕組みが働いていた」
三雲はその言葉を慎重に選びながら強調する。
「ゲーム理論的には“みんなが自分を守ろうとすると、全員が自滅する”最悪の均衡が生まれ、カオス理論による微細な誤情報が増幅し、ネットワーク理論で加速し、フィードバックループで自己増殖、そして複雑系として制御不能になる——まさに今までの連続殺人がそうでした」

誰かが意図的に操作したわけではない。あくまで“社会”というシステムが、自動的に“連続殺人”を生成していただけだ。だからこそ、SNSや外部メディアの制限を通じた介入で一気に抑制できた。その分、「完全にゼロにはできない」ことも示されてしまった。


「本件の捜査で見えたのは、犯人を特定して逮捕するという従来の警察手法では、こうした社会現象を止められない、という事実です。犯罪が“複雑系”として起きているなら、システムごと変えるしかない」
三雲はため息まじりに告げる。皮肉にも、それを実行したのが“大規模な通信遮断”という思い切った社会実験だった。効果はあったが、人権や経済への影響、そして外部世界からの批判を考えれば、そう何度も使える方法ではない。

「一方で、これだけの規模でデータを取り、AIで解析したからこそ、“連続殺人の主体は社会”と結論づけられました。誤情報を拡散させる媒体、疑心暗鬼を拡大させる心理構造、先手を取ることが合理的となるゲーム理論のジレンマ、それらが密に絡み合って殺人を一挙に膨れ上がらせたんです」
警視正は深く息をつく。「確かに、犯人を逮捕しても次から次へと別の事件が起きるのは、この理屈があったからか……もはや誰か特定の人物を追っていた我々の捜査観は時代遅れだったのかもしれん」


「今後も、局所的に“誤情報や先制攻撃の論理”がくすぶる限り、殺人は根絶できません。ただ、通信やメディアをきちんと管理し、誤報を早期に訂正し、人々に“他人を疑うより協力するほうが得策”と思わせる社会設計ができれば、大規模連鎖は抑えられる」
三雲はホワイトボードから視線を外し、静かに言葉を結ぶ。彼が先に口にした「犯人=社会全体」という言葉は、皮肉にも多くの捜査員や市民を納得させるに足る裏付けを持っていた。ゲーム理論やカオス理論が示したように、社会の仕組み自体が“お互いを攻撃し合う”状態に陥りやすい以上、“犯人探し”はいつまでも空回りする。

警察署の廊下には、社会実験の余韻がまだ残る。通信遮断によって連鎖は大きく減速し、人々はようやく平和を取り戻しつつある。しかし、それは完全な終結ではない。結局のところ、“この社会システム”が改まらない限り、またどこか別の街や別のタイミングで似た現象が噴き出す恐れは拭えない。

「犯人が社会——まさか、こんな形で結論が出るとはね」
三雲にそう話しかける若い刑事の声には、もはや驚きよりも諦念に近い色が滲んでいる。三雲はかすかに微笑を浮かべつつ、
「だからこそ、我々は捜査という枠組みを越えて、社会全体へ働きかけるしかないでしょう」
そう答えた。目の前には大量の統計レポートと理論的分析が残されている。数理モデルやAIシミュレーションで見えてきたものは、単なる“偶発的な連続殺人”ではなく、“システムとしての殺意生成”。人間が寄り集まる限り、どこにでも潜み得る危うい構造があった——犯人は“この社会”そのもの。その真実があからさまになった以上、社会に大きくメスを入れるのが、真に“連続殺人を止める”ための道なのだと、誰もが薄々感じ始めていた。

エピローグ:事件のその後

警察署の中庭を見下ろすガラス張りの廊下を、三雲はゆっくり歩いていた。実験騒ぎで散々荒れていた雰囲気は落ち着きを取り戻し、市民の抗議活動もいくぶん小規模になった。その一方で、かつて街を苛んでいた連日の殺人報道はめっきり姿を消し、捜査本部の電話も煩雑な緊急通報ではなく、後処理に関する連絡ばかりになりつつある。いわゆる「嵐が過ぎ去った」空気——しかし、それは完全なる解決を意味しなかった。


「通信遮断」が解除されてからしばらく経ち、街では情報が再び自由に流れ出している。ニュースサイトやSNSが復活し、外部からの取材も再開された。驚くべきは、多くのメディアが「今回の一連の事件はひとりの巨大犯人ではなく、社会そのものが犯人だった」という三雲の説に強く反応した点だ。噂や誤報が飛び交い、人々が互いを疑い殺し合ってしまう“社会システムの暴走”という視点が、まるで新種の疫病発生でも見つけたかのように大々的に報じられている。

だが、その影で「実験は行き過ぎだった」「通信を遮断すればなんでも解決すると思うな」と批判も少なくない。人権団体が「政府と警察は市民を丸ごと観察下に置き、無理やり実験台にした」と騒ぎ立て、SNSでは「裏に軍部や大企業の陰謀があったに違いない」といった陰謀論が次々と再燃している。

警察署の会議室では、そんな報道と批判の対応策に追われる幹部たちの姿があった。三雲は部屋のドアを開けるが、そこに漂う空気はかつての殺伐とした“無差別殺人”の時期とは異なる不自然な落ち着きと、微妙な緊張が入り混じったものに思えた。

「あなたには、今後の説明責任をしっかり果たしてもらいたいんです。三雲探偵」 市長が頭を下げつつ、どこか突き放すような口調で言う。
「我々としては、人権侵害だの独裁的手法だのと非難されても仕方ない状況です。ただ、あなたの斬新な発想と実行力がなければ、あの連続殺人は歯止めがかからなかったのも事実。そこが難しいところですよ」

「私が保証する」と隣の警視正が低く言葉を重ねる。
「殺人連鎖を止めるには“社会”へ介入するしかなかった、という点を、我々の報告書で整理します。もちろん賛否両論あるが、最悪の惨劇を回避した功績は大きい。今後は、通信遮断のような強引な方法に頼らなくて済むよう、別の対策を構築しなければならない」

三雲は重い口を開く。
「正直、全面的に認めてほしいわけではありません。実際、街を“実験空間”と化したのは、私自身もためらいがあったんです。ですが“人間の意志”を超えた何かが社会に入り込み、凶行を増幅していると確信した以上、従来の捜査では止められないと思いました」

情報をシャットアウトすれば、大規模な連鎖殺人が一時的に鎮まる——それは社会実験で証明済みだ。だが、同時に「情報がない状態でも、局所的にはまだ殺人が起きる」という事実も浮き彫りになった。完全な解決ではない。むしろ次なる課題は、普通の暮らしに戻ったあと“どうやって再発を防ぐか”である。


「それにしても、『犯人は社会全体だ』という理屈を、よもやここまで多くの人が受け入れるとは……」 市長は苦笑を交えながら、机上のニュース記事をめくる。三雲が記者会見で発したコメント、あるいは学識者がゲーム理論や複雑系を引用して説明する形で、大衆は“システムによる殺人現象”という捉え方を大々的に知った。人々が一斉に納得したわけではないが、「凶悪犯を捕まえて解決、という単純な話ではなかった」と認識する者が増えているのは確かだ。

「連日出てくる解説番組では、あなたの提唱した理論がやたらもてはやされていますよ。“誰もが犯人になる社会”とか、“見えない殺意がネットワークを通じて流布する”とかね」 警視正が皮肉混じりに微笑む。
「一方で、『この実験が成功したからといって、今後も情報遮断をやるのか』『本当は監視社会の第一歩なのでは』といった懸念も噴出している。市民はまた、煽動に踊らされる危険がある」

三雲は静かに首を振った。
「私がやったのは、あくまで非常手段です。再び同じことをする気はありません。それに、やっぱり“社会全体を制御する”なんて発想は強引すぎる。今回は切羽詰まっていたので、仕方なく踏み切ったに過ぎません」

厳粛な空気のなか、誰もがほっとしたように息をつく。社会実験はあくまで“破れかぶれ”の一撃だった。最悪の結末を回避するためには功を奏したが、長期的に見れば、これを常套手段にするわけにはいかない。


その日の午後、三雲は署のロビーで思いがけない人物に声をかけられた。抗議デモの代表を名乗る中年女性で、マスク越しに険しい視線を送っている。

「あなたが三雲探偵? 私たちは、今回の通信遮断を絶対に許さない。どうしてそこまで横暴な方法を取ったの?」 まっすぐな問いに対し、三雲は一瞬言葉を探した。嘘や誤魔化しは無意味だと思い、正面から応じる。

「私も、こんな乱暴な手段は本当なら使いたくなかったんです。しかし、街が無秩序な殺人の渦に巻き込まれていて、従来の捜査では止めどころか、さらに犯人像が混乱するばかりでした。SNSの煽りが人々を追いつめ、手遅れになる寸前でしたから」 女性は険しい表情をさらに険しくする。
「だからって、人の生活を人為的に封鎖して、勝手に実験するのは異常よ。人権侵害だわ。たとえ殺人が減ったとしても、それを認めるわけにはいかない」

三雲は小さく頷く。確かに批判は免れない。だが、誰にも止められなかった無関係な連続殺人が、あのまま放置されていれば更なる惨劇が拡大していたのも事実だ。
「あなたの言う通りです。メディアもまだまだ追及すると思います。けれど、私は未来のためにも、“社会が犯人になる”メカニズムを解き明かさねばならなかった。普通の捜査手法では見えない連鎖があったことは、もう否定できないでしょう」

女性は「ふん」と鼻を鳴らし、まだ納得できない様子で踵を返す。だが、その動きにはわずかな迷いが見て取れた。情報遮断が連鎖殺人を大きく減少させた結果を、完全には否定できなくなっているのだ。


“エピローグ”と呼ばれるのは物語の終わりだが、この街にとっては“これから”が始まる時でもある。通信制限という荒療治は、とりあえず惨事を鎮めた。しかし、ゲーム理論やカオス理論を用いて「犯人は社会全体」と分析したところで、その社会をどう変えればいいのか——容易には答えが出ないまま、市民は日常に戻り、再びネットやニュースを消費している。

それでも以前とは違い、「ひとりの殺人鬼を捕まえれば終わる」という短絡的な期待は、人々の中から薄れているようだ。根本問題が“疑心暗鬼と誤情報”の組み合わせにあるのなら、マスコミ報道の在り方やSNSの利活用、さらには教育現場での情報リテラシーなど、あらゆる分野で改革が必要かもしれない。そもそも「互いを信頼する社会」を作れなければ、連鎖殺人はいつ再燃してもおかしくない。


「前提を疑い、街全体を実験的にコントロールする」という三雲の発想は、今なお賛否両論を巻き起こす。通信遮断の期間中、大勢の市民が生活に困り、人権問題も持ち上がった。けれど、結果的に殺人の大規模連鎖は収まり、犯行の“仕組み”が多くの人に知られるようになった。
「社会が犯人」だという理屈は耳障りが悪く、ネットの一部では「都合のいい言い訳」と嘲笑されてもいる。だが、一方で「社会システムこそが最大の凶器になりうる」という警告を真剣に受け止める人々も確かに増えつつあった。

「結局、最悪の事態は回避できた。正直、これほど強引なやり方で真相が暴かれるとは思わなかったし、痛みも代償も大きかったが……」 警視正は署の廊下で三雲に語りかける。
「今後は、我々がこの教訓をどう活かすかですよ。あなたの行動が“型破りな探偵の英雄譚”として語られるのか、“危険な実験主義者”として罵られるのかは、私たち次第でしょう」

三雲は微笑むでもなく、かといって沈んだ表情でもなく、どこか達観したように口を開く。
「真実はいつも、一面だけじゃない。街全体を巻き込むこういう事件は尚更です。私がもし“探偵の思い付き”で行動したと誤解されるなら、正面からそれを受け止めるしかありません。重要なのは、社会そのものが再び殺人を生まない仕掛けを構築すること。自分の役目は、その入口を示すまで、だと思っています」

外へ出ると、どこか懐かしい“普通の夕暮れ”が広がっていた。薄暗い路地には人影がまばらに歩き、先日までの殺気立った空気は消えている。けれど、この平穏が本物かどうかは、まだ確信が持てない。
「社会は犯人——だからと言って、みんなが殺人者になるわけじゃない。条件さえ整えば誰しもが手を染める可能性があるということ。それを理解できれば、むしろ殺意の芽を摘む術も見えてくるはずです」
三雲の呟きに応じるように、警察署の明かりがゆっくりと落とされていく。連続殺人はとりあえず収束した形を取ったものの、“情報社会の危うさ”が完全に去ったわけではない。今は街を沈静化させることが最優先だが、いつかはさらに広範囲の議論が必要になるだろう。情報管理、教育、報道、ネット環境——すべてが絡んでいるのだから。

市内の主要テレビ局は、連日この「社会実験の賛否」をテーマに番組を組んでいる。過激なコメンテーターが「実験は明らかに人権侵害だ」と糾弾すれば、対立する専門家が「極限の連鎖殺人を止めるには仕方なかった」と擁護する。市民グループは再発防止のためのプロジェクトを立ち上げ、SNSリテラシーやフェイクニュース対策を普及させようと動き始めた。そこでは、三雲の名が賛美と否定の入り混じった形で飛び交っているという。

最初は「犯人はいったい誰だ?」の一点張りで動いていた社会が、今や「社会が犯人であり、どう再発を防ぐか」へと議論の視点を移している。混乱は続くが、少なくとも「正義のヒーローが真犯人を撃ち倒してハッピーエンド」という筋書きからは脱却した。まさに、先人が言う“物語の終わり”ではなく、“新たな問いの始まり”というのが相応しい。

廃ビルの薄暗い一角で、携帯端末を睨む男がひとり。通信は復旧したはずだが、画面には飛び交う噂とデマの断片。殺意と陰謀めいた単語が並ぶ掲示板を覗き見すれば、まだ「社会」そのものは安定していないと感じる。
「結局、またいつか同じことが起きるんじゃないかね……」
男が低く呟く声は、誰の耳にも届かない。再発防止策をどうするかは、三雲や警察上層部だけの仕事ではない。街に生きるすべての市民が“無自覚に加害者になりうる”怖さを理解し、噂や煽りに踊らされないように努めなければならない——それが今回の事件で浮き彫りになった最大のテーマだろう。

そして三雲は、あれほど強烈な手段を取った自分に対してすら懐疑的でいる。犯人はひとりではなく、社会全体。そう悟ったものの、その社会の一員である自分もまた要因の一部なのだという自覚がある。
「人間の理性や道徳心を、システムとしてバックアップする仕組みは今のところない。従来の“捜査”や“法”ではカバーしきれない部分を、これからどう埋めるのか……」
彼は夜風を感じながら、すべてが終わったわけではないと痛感する。大規模連鎖殺人は止められたが、それは“社会”に潜む闇が消えたわけではなく、ただ封印されたようなものだ。通信遮断という荒技で浮き彫りになった構造的な問題は、まだ始まったばかりである。

こうして、あり得ないほど荒唐無稽な“現実操作”を行った末に、街は一時的な平穏を取り戻した。だがその代償と宿題は山積みだ。人々は「通信遮断なんて危険すぎる」と非難しつつも、「どうやらデマと不安が連鎖して殺人を生む」という仕組みに一目置かざるを得なくなった。“犯人”とは何か、“殺意”とは何か、“社会”とは何か——この事件が投げかけた疑問は、依然として宙に浮いたままだ。

三雲の元に、いくつかの報道機関や大学研究室から講演依頼が届き始めたという。誰もが「新しい時代の犯罪対策」を模索し、“社会をどう守るか”に興味を示している証だ。
「犯人は社会であり、我々自身——そう認めるのは辛いけど、そこから目を背けずに建設的な議論をするしかないんでしょう」
市長がそう言いながら苦笑し、三雲に書類を手渡す。
「しばらくの間、あなたはヒーローにも悪魔にもされるでしょう。でも、連続殺人を止めるうえであなたの大それた方法は確かに大きな成果を出した。それを認めるし、今後も意見を聞かせてください」

差し出された書類には、“新・防犯対策委員会”の設立要項が記されていた。従来の警察捜査に、心理学や社会学、情報工学を本格的に統合していく提案だ。
「もしまた類似の連鎖が起きそうになったら、この街が“社会全体”という犯人に再び飲み込まれないように……?」
三雲はわずかながら安堵の気配を滲ませて、その書類を受け取った。どれだけ変わるかは未知数だが、少なくとも前向きな動きがある。誰もが確信しているわけではないが、もう“同じ悲劇”を繰り返すわけにはいかないのだから。

重いドアを開けて外へ出ると、終わりかけの夕陽が市街地を淡いオレンジ色に染めていた。殺伐としていた頃と比べると、街はかなり穏やかだ。すれ違う人々も警戒心を露わにする様子は少なく、あの無差別殺人の惨劇が嘘のように見える。
「これで完全に事件が終わりかって言われたら、素直にそうは言えませんよね」
同伴していた若い刑事が漏らす。三雲も小さく微笑んだ。

「もちろん。おそらく、この街だけじゃなく、どんな都市でも“社会が犯人になる”可能性はある。今回わかったのは、その連鎖を断ち切るために何をすれば一定の効果があるか……その一端だけです」

事件後、メディアや市民グループが巻き起こす賛否の嵐は容易には収まらないだろう。それでも、あの凄惨な連続殺人が止んだという大きな成果は消えない。たしかに、人々の心には深い爪痕が残ったかもしれないが、それすらも今後の糧になると三雲は信じている。誰が犯人かを問うのではなく、社会全体で“殺人を生成しない”方策を探る。それが、この混沌を乗り越えるための唯一の道だからだ。

そうして、歪んだ社会の連鎖殺人は終息へ向かい、多くの謎と課題を残したまま、この街は日常を取り戻していく。「前提を疑い、街全体を実験的にコントロールする」という三雲の度肝を抜く発想は、多くの批判と称賛を巻き起こしつつ、新たな可能性をも示した。結局のところ、“誰か特定の犯人”を倒せば済む話ではなかった。この物語が投げかけるのは、人が集まる限り、社会という複雑系がいつでも“犯人”になりうる、という警鐘なのだ。

人々が街を歩く姿を眺めながら、三雲は静かに息をつく。事件は収束しつつあるが、ここがゴールではない。通信遮断という極端な手段の成否は今も議論の的だし、犯行の残滓が完全に消えたわけでもない。だが、少なくとも、あの圧倒的な殺人ラッシュを封じ込めた現実を前に、誰もが学ばざるを得ない。誤情報が渦を巻き、人々の不安が連鎖して殺意に変わる社会。ゲーム理論、カオス理論、ネットワーク理論、そしてフィードバックループが複雑に絡み合うこの社会。そのシステムを改めて見つめ直す必要があることを、多くの人が知った——それが最大の収穫だったのかもしれない。

署を出る三雲の背後で、一台のニュース中継車が取材カメラを担いで待ち構えている。無数のマイクが突きつけられ、まるで最後のインタビューを求めるようだ。「強引すぎた手法ではないか?」「通信遮断の是非は?」と詰め寄る記者たち。三雲はちらりと視線を向けるが、足を止めずに軽く頭を下げるだけ。これからは行政や研究者たちに任せ、自分の出番はひとまず終わりだ。心には新たな宿題が残っている。社会の捜査はこれから始まる——そんな感覚を抱えながら、彼は穏やかな夕闇の街へと歩みを進めた。


いいなと思ったら応援しよう!