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唐揚げレモン殺人事件

第一章:夜の居酒屋に響く悲鳴

「鈴乃屋」は下町の一角にあるこぢんまりとした居酒屋だ。店に入ると、活気ある笑い声やジョッキ同士がぶつかり合う乾杯の音がすぐに耳を打つ。カウンター席では常連客らしき中年男が店主と世間話をし、奥の小上がりでは会社帰りのサラリーマンたちが出来たての唐揚げをつまみながらビールをあおっていた。

店内はいつも通りだが、そう見えたのは一瞬だけだった。やけに張り詰めた空気が突然生まれたのだ。男の怒鳴り声が、にぎやかな雰囲気を一瞬でかき消した。

「唐揚げにレモンかけんな!」

声の主は、やせ型の中年男。テーブルを挟んだもう一人は頬を赤らめており、こちらも挑発的に言い返す。

「なんだと? おれが好きにかけて何が悪い」

注文が立て込んで忙しそうだった店員が、慌てた様子で二人の間に入ろうとする。しかし、その瞬間にテーブルの上の小皿が倒れ、揚げたての唐揚げが床に散らばった。やせ型の男は椅子を蹴って立ち上がると、一気に体ごと相手に向かっていく。乱暴な音がして、テーブルが揺れ、周囲の客が驚いたように身を引いた。

「落ち着いて下さい、誰がレモンかけようが――」

店員の言葉は最後まで続かなかった。悲鳴が上がり、そこから先は大混乱だった。カウンターの客が「おい、まじかよ!」と立ち上がり、店主は電話をつかむ。何かが床に倒れ込む音がしたあと、血がにじむような気配が広がり、店内は恐怖と混乱に飲み込まれる。

警察の到着は意外に早かった。通報を受けたらしいパトカーが店先に横づけされ、若い警官が店の奥へ駆け込んでいく。店長の説明によると、犯人はまだ酔いの抜け切らない様子でそこにうずくまっていたが、あっさり確保されたという。被害者は客たちが必死に抱え、店の隅で倒れている。いずれも顔は蒼白で、さっきまでの和やかな空気がうそのように張り詰めていた。

現場検証が始まったころ、黒いジャケットを羽織った刑事が店に入ってきた。相楽――こう呼ばれるその男は、長年刑事をやってきた人物という雰囲気を漂わせている。いつもは捜査に没頭する前に「とりあえず一服だ」とたばこに手を伸ばすのが習慣だそうだが、この場ではそうもいかなかった。目の前には荒れ果てたテーブルと、割れた醤油差し、そして半分ほど搾られたレモン。傍らではビニールシート越しに被害者が救急隊に運ばれていく。

相楽は店主と店員に矢継ぎ早に確認を取り、まわりの客にも状況を尋ね始める。すると、驚くほど多くの人間が同じことを口にした。

「こいつ、勝手に唐揚げにレモンかけんなって大声でキレてたんです」

「それで、被害者が『いいじゃないか』って言い返したら、急に刺したみたいで……」

「店員が慌てて止めに入ったんですけど、もう手遅れで」

相楽はめまいを覚えたように眉をしかめている。店員の女性が畏縮した声で言葉を継いだ。

「本当に、ただそれだけで争いになったんです。あの人、何度も“唐揚げにレモンかけるなんて最悪だ”って叫んでました」

「レモン……かけることが原因、か」

相楽は店の奥に目をやった。そこにはしゃがみこんだまま動かない男がいる。警官が声をかけてもぼんやりと宙を見つめ、自分の拳をじっと握りしめていた。相楽は深いため息をつき、部下の若い刑事に尋ねた。

「状況はどうだ?」

「犯人はすぐに取り押さえられたんですが、正直動機がよく分かりません。周囲の証言では、唐揚げにレモンをかけたことが引き金になったという話が一致してます。そんなくだらない理由で人を殺すなんて信じられませんけど」

「くだらないかどうかはさておいて、事実は事実ってところか」

相楽は首を振りながら現場を一通り見回した。テーブルの上には食べかけの唐揚げがあちこちに散らばり、血痕と混じって異様な光景を作り出している。やりきれない事件だ。だがその後ろめたさはどこから来るのか、自分でも答えが出ない。

外ではパトカーのサイレンが遠ざかり、誰かが「マスコミが来たぞ」と声を上げる。店員たちには急いで事情聴取しなければならない。残された客たちも口々に「いや、そりゃレモンぐらいかけるだろ」「でも人の皿に勝手にかけるのもどうかと思うぞ」と妙な議論を始めていて、もうどっちが正しいのか分からない様相だ。

相楽は小さくため息をつくと、低い声でつぶやいた。

「どうやら、これが動機ってことなんだろうな」

これまで無数の事件を見てきたつもりだったが、“唐揚げにレモンをかけた・かけない”が原因の殺人など、耳にしたことすらなかった。相楽の表情からは戸惑いと、ほんの少しのあきれが混ざったような色が消えない。そのまま店先に控えていたパトカーのほうへと足を向けると、逮捕された男の顔を一度、まじまじと見下ろした。男はぼう然としたまま、ぽつりと呟く。

「レモンなんか……ありえないんだよ、ありえない……」

そう繰り返しながら、もはや相手の言葉に耳を貸そうともしていない。相楽は大きく息をついてから、部下に視線で合図を送る。事件としては始まったばかりだ。どういうわけか、店中の視線がいまさらのように唐揚げの皿を気にし始めていた。もともと人気メニューだったはずの唐揚げが、血の色と混じって息苦しい存在になっている。

捜査を続けるために店をあとにする頃、相楽の頭にはひとつだけはっきりとした疑問が残っていた。いったい何が、男をそこまで苛立たせたのか。レモンの酸味がそんなに彼の気に障ったのか。にわかには信じられないが、客や店員の言葉は皆おしなべて同じである。唐揚げにレモン……それがすべての発端だというのだから、始末に負えない。

夜の熱気がまだ残る外の路地に出ると、相楽の頭の中には事件のイメージがちらついた。無邪気に盛り上がっていたはずの食卓と、店内に散らばる唐揚げ。それが動機とはにわかに理解できないまま、彼は現場を後にした。

第二章:取り調べと「唐揚げ論争」の開始

取り調べ室には古い蛍光灯の灯りがぶんぶんと唸るように点っていた。壁際には机がひとつ、そして向かい合わせにふたつの椅子。そこに座るのは、昨夜の事件で逮捕された男・芳賀。うつむいているのかと思うと、ふいに顔を上げる。ぐったりした様子ではあるが、視線だけはぎょろぎょろと動いて落ち着きを感じさせない。相楽が書類を確認しながら声を掛けると、芳賀は意外なほどはっきりと口を開いた。

「唐揚げは、鶏肉そのものの旨味を最大限に引き出す調理法だ。それを下味や衣や油の温度管理で仕上げている。そのバランスを崩すものをかけるなんて、言語道断なんだよ」

声音は低いが、どこか憎しみを含んでいるように聞こえる。相楽は正面に座り直し、資料を一瞥してからあえて穏やかに促す。

「つまり、酸味が嫌いだった……ということか?」

「酸味が嫌いなんじゃない。酸味が混ざることで唐揚げ本来の旨味と香ばしさが台無しになる。それが許せないんだ」

芳賀は机の上に手を組んで、まるで講義でも始めるかのように話を続ける。取り調べ室で見慣れない姿だが、彼の中では明確な“正しさ”があるらしい。

「レモンの果汁は、フライの油分を分解してあっさりとした味に変えてしまう。そうすると衣の香ばしさや鶏肉のジューシーさは減る。香りだって、シンプルな塩や醤油の風味に酸っぱい香りが混ざる。それは、唐揚げに敬意を払っているとは言えない」

「そんなことより、どうしてそこまで怒った? 勝手にかけられたら嫌だって程度の話で、殺すまでやるか普通」

相楽は書類に目を落としながら問いかける。無論、すでに事件としては「人を刺した」という重大な結果があるわけだが、そこに至るまでの感情の爆発が読めない。それは防犯カメラの映像や証言では分からない、本人の内面の問題だ。

「みんなは分かってないんだ……唐揚げを口にするときは、唐揚げと自分が一対一で向かい合わなきゃいけない。言うなれば、おれは鶏肉に敬意を払っているんだよ。どうあっても、勝手に酸味なんか加えてほしくない。それを無視して、他人が好き勝手に味を変えるなんて暴挙だ」

「でも、ただの食事だろ。人には好みがあるし、ましてやあんたの皿でもない。そこまで激昂するものか」

「簡単に“好み”で済ませられる話じゃない。唐揚げは料理の完成形なんだ。余計なものを加える必要がない。油っぽいなら別の方法で食べればいい。わざわざあの酸味で誤魔化すのは裏切りに近い」

芳賀の言葉は熱を帯びていく一方だ。相楽はさすがにあきれたように息をつき、「そりゃあ分かった」と肩をすくめる。そのまま刑事の定番ともいえる追及に移ろうとしても、芳賀は話をそらすかのように更なる持論を展開する。

「おれはずっと唐揚げを研究してきた。ほかの料理とは違う。外はカリッと、中はジューシーで、余計な調味料を足さなくても完成される。わざわざレモンをかけるなんていう行為は、邪道以外のなにものでもない。一度レモンを絞ったら最後、もう衣は酸っぱくなって元には戻らないんだ」

相楽はここが取り調べ室であることを忘れそうになるほどの勢いに、思わずカップに注いだ冷えたお茶をすすった。通常は「黙秘します」「弁護士を呼んでください」という反応を想定していたが、今回の被疑者は違う。まったく止まる気配がない。
 

同じ頃、捜査本部では相楽の先輩刑事にあたる小早川が、資料を手に溜息まじりに言葉をこぼしていた。

「芳賀って男、相当なグルメ通らしいぞ。ネットでも、自作の料理写真を公開して有名だとか。自費出版で“究極の唐揚げ”って本を出してたらしい」

「殺人事件の容疑者とは思えない経歴だが……しかし唐揚げへのこだわりってのは、本当みたいだな」

部下がファイルをめくりながら口を挟む。小早川は机にファイルを放り出し、呆れたように苦笑する。

「本気すぎるだろ。やれ下味の塩加減が大事だとか、衣の配合を数グラム単位で調整するとか、油の温度を二段階で変化させるとか……ここにはそんな記述ばかりだ。こんな執念をもっと別のことに活かせなかったのかね」

「真面目な話、これが犯行動機なんでしょうか。単にレモン嫌いってだけで刺すか?」

「本人は嫌いだから許せない、じゃなくて、唐揚げの本質を損ねたことへの怒りだと言っているらしい。どうやら“おれの研究を踏みにじられた”という感覚なんじゃないのか」

部下の言葉を聞き、小早川は「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てるようにつぶやいた。そのまま書類を閉じて椅子を引き、机の上のどっしりした灰皿を片付けようとする。喫煙者が減ってからは灰皿の存在意義も薄れたようで、雑然とした部署の中で取り残されている。この事件そのものが、そこにぽつんと放置された灰皿のように奇妙に浮いているように見える。

「相楽はどういう感想なんだ?」

「さあ……何と言うか、呆れてるようにも見えるし、分からなくもないって顔もしてる。基本的に相楽さんは“事件に大も小もない”が口癖ですからね。それでも、今回はだいぶ面食らってるみたいです」

部下は苦笑いを浮かべ、再び資料に目を落とす。ページをめくるたびに飛び込んでくるのは、芳賀が料理学校に通っていた履歴やグルメ番組に一度だけ出演したことなど。そこには彼なりの食への飽くなき探求心が散りばめられていた。

「こいつ、本当に食事へのこだわりだけは本物だな」

小早川は閉じたファイルを指先でとんとんと揃え、眉間にしわを寄せる。殺人容疑者であることは間違いないが、犯行の強い動機がそこにあったのかといえば、やはりしっくりこない部分が残る。しかし、店の客や店員の一致した証言を無視することもできない。芳賀は“レモンをかけられた”という一点だけで怒りを爆発させたように見える。

「そこまで言うなら、唐揚げにレモンをかけるのがそんな大罪なのか、いっそおれも教えてほしいよ。実際、事件が事件じゃなけりゃ、ちょっと聞いてみたくもなるが……」

小早川は静かに椅子から立ち上がり、部下と目を合わせる。相楽の取り調べがどう転がっているかはまだ分からないが、いずれ芳賀の過去についてより詳しく調べる必要があるだろう。彼がこれまでどれだけ“唐揚げ”に人生を注いできたのか。それを知ることで、何か別の真相が隠れていないとも限らない。

捜査本部の外に出ると、廊下から一瞬だけ殺風景な窓の景色が見えた。相楽が戻ってきた様子はない。小早川は休憩室の前で足を止め、どうにも腑に落ちないという顔で天井を見上げる。たかが“唐揚げにレモン”で人の命を奪うような激情が生まれるものなのか。そこにはまだ答えの出ない“こいつ、本気で唐揚げのレモンを許せないらしい”という不可解な一点だけがやたらと強く残っていた。

第三章:浮かび上がる“罪の意識”

相楽は昼下がりのうちに「鈴乃屋」を再訪した。昨夜の騒ぎが嘘のように、店内はまだ開店前の静けさに包まれている。広くない店の奥には、雑巾掛けを終えた店主が立っていた。相楽を見つけると、彼はふかぶかとおじぎをし、「どうぞ、こちらへ」と小上がりの席を勧める。

「昨夜は、本当に大変でした……あんなことになるとは思ってもみなくて」

店主はうなだれるようにして言葉をつなぐ。相楽は汚れの落ち切っていないテーブルを見つめながら、静かにうなずいた。テーブルには、事件後に乱暴に片付けられた跡があった。ささくれだった木目にシミがしみこんでいるのは、血痕の残りだろうか。それだけでも胃のあたりが重たくなる。

店主の話では、犯人の芳賀と被害者は初対面ではなく、どうやら同じグループの一員として来店していたらしい。会計表を確かめると、ふたりは同じテーブルで注文をした形跡がある。ビールと唐揚げの追加オーダーを何度も繰り返していたのは、数字からも明らかだった。

「店員の証言だと、犯人は“レモンなんて絶対にかけるな”と、最初からずっと言っていたとか?」

相楽が問いかけると、店主は申し訳なさそうに首を横に振る。

「ええ、まだ酔いが回り切らないうちから、唐揚げに関する語りが始まってましてね。『どうして酸味なんてものを混ぜる?』とか『フライはフライのままで完成されている』とか……最初は“変わったこだわりをお持ちですね”くらいに受け流していたんですよ。まさかそこまで本気だとは思わなかった」

店主が声を落とすと、小上がりから顔を出した若い女性店員が、気まずそうに顔を見合わせながら続けた。

「私も止めに入ったんですが、全然聞いてくれなくて。『レモンは健康にもいいし、油っぽさを抑える効果もあるんですよ』って言った途端、ものすごい剣幕で怒りだしたんです。“唐揚げに脂っこさがあるのは当然。そこに敬意を払わず酸味でごまかすなんて最悪だ”って……」

「具体的にどういう言葉を?」

相楽が確認すると、店員は少し思い返すように目を伏せた。

「“レモンは邪道だ、唐揚げの本質を踏み躙る行為だ”と。香ばしさや肉汁といった『一体感』こそが大切だと力説してました。こちらが何を言っても“酸味で上書きされる味は唐揚げとは呼べない”って……正直、あんなにこだわる人、初めて見ました」

相楽は書き留めたメモを見返す。被害者は別段そこまで強く反論する気もなく、「ちょっとくらいいいじゃん」と笑い混じりに返しただけだった。だがそのひと言が引き金になり、たちまち芳賀が手を出してしまったのだ。店内の他の客が「からかうような口調ではあった」と証言している点から見ても、それほど重大な挑発には思えない。それなのに、芳賀は“台無しにされた”と思い込んだのだろう。

「それで、最後まで止まらなかったんですか?」

相楽が改めて尋ねると、店員は明らかに嫌な記憶を呼び起こすように口を引き結ぶ。店主が代わりに首を横に振って答えた。

「はい。周りの人が必死に説得しても、まったく聞き入れず。『鶏肉が泣いてるぞ』とか訳のわからないことまで言い出して……こちらも困ってしまいました。うちは、唐揚げにレモンをかけるかどうかはお客さんの自由ですからね。誰にどう食べてもらっても構わない。でも、あの人にとってはそれが我慢ならなかったようです」

「被害者の方も、“嫌なら見るなよ”と返したみたいで。あのやりとりを聞いていたほかのお客さんが教えてくれました」

相楽は客から集めた証言を思い出した。被害者の言葉はほんの一瞬、悪態をついた程度だが、芳賀にとっては最大の冒涜として受け取られたのかもしれない。唐揚げを崇拝に近い形で捉えている者にとって、レモンをかける行為は“神聖なる領域への侵害”でしかなかったらしい。相楽としては、大半の人間にとって普通の食べ方であっても、芳賀にとっては断じて容認できない“邪道”だったとしか言いようがない。

店から出て、捜査本部に戻ったころ、相楽の部下が新たな調査結果を報告してきた。栄養士や調理師免許を持った専門家に話を聞いたところ、「唐揚げにレモンをかけることでビタミンCの吸収率が上がる。油分が中和されて食べやすくなるのは事実」とのことだった。加えて、フライ全般にレモンを添えるのは広く浸透している食べ方だという。一般的な見解を揃えれば揃えるほど、犯人の怒りがいかに異端なのかが際立つ。

「要するに、栄養面でも悪いことじゃないのに、一切受け入れない姿勢みたいですね」

部下が資料を広げながら苦笑いする。相楽は資料を眺め、「そうか」と呟いたあと、どこか遠くを見るような表情になった。芳賀があそこまで強固な態度を崩さない背景には、単なる“酸味嫌い”以上の執着があるとしか思えない。何かトラウマのようなものがあるのか、あるいは彼の独自の価値観が、料理の世界を歪めて捉えさせているのか。

「前にも言ったけど、こいつはただの頑固じゃ済まされないな。ある種の狂信だ。唐揚げのアイデンティティを守るためには、どうしても酸味を排除しなきゃならない。そう思い込んでいるとしか……」

相楽は腕を組んで、深い溜め息をつく。今回、被害者が本当に罪深い行為をしたのだろうか。一般常識をもってすれば、“ただの味付け”に過ぎないのに、犯人は殺意さえ生むほどの執着を発揮した。

「店員の話だと、あのとき犯人は“わざわざフルーツをかけるなんて、鶏肉に対する冒涜だ”とまで言い切ったらしい。何度も止めるように声をかけたのに、全然聞かなかったそうだ」

部下が証言メモを読み上げる。相楽はそれを一語一句胸に収めるように聞き終えると、革靴の底で床をコツコツと叩いた。事件としては異常だが、厳然たる事実として人が死んでいる以上、真相を究明しなければならない。芳賀が抱える“罪の意識”は、世間一般の感覚とはかけ離れている。だが、彼にとっては“唐揚げを守る”ことが絶対の使命なのだろう。

そう考えると、相楽はまたしても複雑な気持ちになる。被害者の落ち度があったとは言えない。店員たちも押しとどめようとした。にもかかわらず、芳賀は引き返せないほどの確信を持って唐揚げの“純粋性”を主張し続けた。その結果が惨劇を生んだのだ。

部下に資料を返しながら、相楽は呟いた。

「“異質な酸味こそがフライ料理を冒涜している”か。ここまで固執する理由が、まだ見えてこないな」

部下が首をかしげる。相楽も答えは出ないまま、目の前の書類を再び手に取った。そこには芳賀の取り調べ調書に添付された新たなメモ書きがあり、“レモン否定論”をとうとうと述べる彼の言葉が続いている。どうやら今後も、芳賀のこだわりはさらに過激な主張として表面化していくことになりそうだ。世間の常識からかけ離れているとしても、彼は一切の妥協を許さない。

相楽は眉間に力を込め、事件の先行きに思いを馳せた。唐揚げをめぐるこの異様な争いは、まだ終わりそうにない。被害者が軽い気持ちで口にした一言が、ここまで大きな波紋を呼ぶとは誰が予想しただろうか。レモンをかけるか否か、そんな取るに足らない話で人が死ぬなど、本来あってはならない。それでも、唐揚げという料理が“最大級の神聖さ”を帯びている以上、芳賀の“罪の意識”はどこか別の次元にあるのかもしれない。そんな不可解な結論だけが、相楽の頭の中にいつまでも重くのしかかった。

第四章:激情の「唐揚げ裁判」

初公判の日、法廷には奇妙な緊張感が漂っていた。殺人事件ではあるものの、動機が「唐揚げにレモンをかけられたから」という常識破りの内容であるため、傍聴席も興味半分の人間で埋め尽くされている。被告席に立つ芳賀は、弁護士の肩越しにじっと裁判官を見上げている。弁護士が「落ち着いて、ここは私に任せて」と声を掛けても、まるで耳を貸す様子がない。

開廷すると、まず検察官が事実関係を淡々と述べた。店で起きた殺人事件であり、被害者を刺したのは被告人であるという物理的な証拠と証言の一致。それを裏づける客観的資料も揃っている。争点はただひとつ、被告が「なぜ殺意を抱いたのか」という点に尽きる。

「今回の犯行動機が、唐揚げへのレモンの使用に対する反発だったというのは本当ですか?」

裁判官が問いかけると、弁護士が割って入ろうとした。しかし芳賀は小さく息を吸い込み、まるで壇上で講演でも始めるかのように声を張り上げた。

「それは誤解です。おれはレモンそのものを憎んでいるわけではありません。唐揚げという料理の神髄に何ら敬意を払わず、安易にフルーツの酸味を加える行為が許せないのです。唐揚げは塩や醤油、そして揚げられた衣の香ばしさとしょっぱさが綾を織りなして完成する。そこに酸っぱさを加えるなんて、濃厚な旨味を根こそぎ奪うも同然でしょう?」

検察側の席から小さな失笑が起こり、同時に傍聴席もざわついた。あまりにも突飛な主張なのだ。それでも芳賀は一歩も引かない。むしろその反応が彼をさらに掻き立てるようだった。

「レモンをかければ油っこさがマシになる? だから何なんだ。脂質は唐揚げの魅力のひとつだ。口に広がる濃厚なコクこそが鶏肉への礼儀じゃないのか。酸味でそれを切り捨ててしまうのは冒涜以外の何ものでもない。しかもフルーツだぞ? 甘みと酸味の混ざった異質な存在を、おれは唐揚げに押しつけたくない。香ばしく揚がった衣に果汁を搾る瞬間、それは肉に染みこんだ塩や旨味を壊しているようにしか思えないんだ」

弁護士が必死に「芳賀さん、少し落ち着きましょう」と腕を引く。心神耗弱を狙うような弁護方針をちらつかせるが、芳賀はまったく意に介さない。

「いいか、はっきり言う。おれは正気だ。唐揚げという料理は、外側のカリカリと内部のジューシーさが合わさって一体の美を完成させている。そこにフルーツの介入を認めれば、味わいの統一感が損なわれる。たとえレモンが体に良いとしても、それは唐揚げを食べる至福の瞬間には合わない。それが分からない連中が多すぎる。被害者も、あろうことか勝手にレモンを搾って、そのうえ“ちょっとくらいいいだろ”なんて言ったんだ」

「被告人」と裁判官が穏やかに呼びかけるが、芳賀はまるで説教でもするように続ける。

「鶏肉という素材の尊厳に、もっと目を向けるべきだ。料理教室でもグルメ本でも、唐揚げという料理を語るとき、多くの人間が“下味や二度揚げのコツ”ばかりに注目する。でも、いざ完成した瞬間に、半ば当たり前のようにレモンをかけられることが多い。誰かがそうしない自由を奪ってしまうんだ。ほんの少しだけでも酸味が加われば、もはや元の唐揚げとは別物だ。なぜ分からない? なぜ誰もそこに目を向けないんだ? この国は唐揚げの文化を甘く見ている!」

法廷の端で聞いていた検察官が、あまりにも激しい主張にあ然とした顔でつぶやく。「本当にこれが動機なのか……?」傍聴席の一部は吹き出しそうに肩を震わせ、別の一部は呆れたようにため息をついている。どの反応も、芳賀の主張に真面目には向き合えていないようだった。

「殺意があったのは否定できません。それは事実です」

検察官が促すように口を開くと、芳賀は歯を食いしばった。

「おれは最初から殺そうと思ってたわけじゃない。だが、あのときは我慢の限界に達してしまった。唐揚げを守るために、言葉で言い聞かせても伝わらなかった。まるで聞く耳を持たないんだ。鶏肉のために命をかけるくらいの覚悟がない限り、あの侮辱は止まらなかっただろう。それでも結果的に人を傷つけたことは反省している。だが、“おれが間違っている”とは決して思わない」

弁護士が慌てて「ここは控えめに」と制止するが、芳賀は目を血走らせたまま弁護人の手を振り払う。

「おれは心神耗弱でもなんでもない。本当に分かっているんだ。唐揚げこそが王道の料理であり、余計な味つけは一切不要であると。世の中にはレモンをかけるという風習が広がっている。逆にいえば、だからこそおれが声を上げる必要がある。そうしなければ、唐揚げそのものが歪められたまま、人々に受け入れられてしまうじゃないか」

法廷内に響く芳賀の声は、ただ怒りをぶつけるのではなく、ある種の確信と信仰を伴っていた。弁護士が再三「もう止めなさい」と叱るが、返事はない。

「被告人、発言は弁護士を通してください」

裁判官が少し強い口調で注意する。しかし芳賀は、その視線も気にとめず、まっすぐ前を向いたまま嘆きにも似た口調で続ける。

「鶏肉に敬意を払わない者には、唐揚げを口にする資格などない。“香ばしさとしょっぱさの絶妙なハーモニーに、フルーツなど介入させてはならない”のが道理だ。油と塩、そして衣に凝縮された肉の旨味を、わざわざ酸味で切り裂くなど愚の骨頂。おれがやったことは決して正当化しないが、あの夜は唐揚げの神聖性が踏みにじられているようにしか感じられなかった」

そう言いきると、芳賀は荒い息をつきながら、ようやく弁護士の方に目を向けた。弁護士は顔をしかめつつも、なすすべがない。何度か尋ねた「心神耗弱」は、芳賀本人が完全に否定してしまっている以上、もはや成立しそうにない。

検察官は冷静に書類を読み上げる。「殺人は殺人です。レモンをかける行為がどのような挑発であろうと、あなたはナイフを持ち出した。それが取り返しのつかない重大な過失を生んだのです」。法廷全体の雰囲気は、すでに有罪への流れを確定させているかのようだ。

「あなたの持論がどうであれ、人の命を奪っていい理由にはならない」

裁判官が静かに告げた。その一言に、芳賀はうつむいた。だが、後悔や動揺というよりは、訴えが届かないことへの苛立ちがにじんでいる。唐揚げへの純粋な信奉心こそが彼の原動力であり、一部の者が抱く“料理へのこだわり”というレベルをはるかに超えている。結果はほぼ動かない。だがこの男は、最後まで自分の信念を曲げるつもりはないようだ。

法廷を包む沈黙の中、芳賀は一瞬だけ裁判官を睨み、再び小声で何かを呟いた。それは弁護士にも聞こえないほどの声量だったが、「なぜ、みんな分からない……唐揚げは……」という断片的な言葉だけがかすかに聞き取れた。押し黙る傍聴席には、笑いも同情もない。あまりにも異質なこの裁判は、すでに結末に向かって動き出している。だが、芳賀の頭の中ではまだ、“レモンを掛ける罪深さ”が終わりなく燃えさかっているようだった。

第五章:終わりなき“レモン論争”

唐揚げ専門店のシェフが証言台に立ったとき、傍聴席からかすかに笑みがもれた。殺人事件とは到底思えない話の流れに、法廷内の緊張感が変な具合にゆがむ。シェフはやや緊張した面持ちで、「レモンをかけることは一定の理にかなっている」と自身の見解を述べ始める。油で揚げた鶏肉をより食べやすくするためのひとつの方法として、医学的にも栄養学的にも説明がつくというのだ。

「唐揚げの衣は油分が多いため、口当たりが重くなりがちです。そこにレモンを少量加えれば、脂が分解されてさっぱりとした風味になる。ビタミンCも摂取しやすくなりますし、客にとっては良い食べ方だと考えられます。もちろん好みによりますが、まったくの間違いではありません」

シェフが言い終えた瞬間、被告席の芳賀は声にならないため息をつき、すぐさま鋭い眼差しを向ける。弁護士がそれに気づき、抑えるような仕草をするが、芳賀は頑として止まらない。

「それは単に“健康的に食べたい”と考える人間の押しつけじゃないのか。唐揚げという料理が濃厚な油分と肉汁のハーモニーを持っていることを否定する言葉にしか聞こえない。栄養をとるために唐揚げがあるんじゃない。あの香ばしさと独特の塩気、それらが混ざり合うからこそ、唐揚げは揚げ物の王だと言える。そこに果汁を垂らして油を中和したら、唐揚げ自体の存在価値が弱まるじゃないか」

シェフが視線を落とし、小さく首を振る。検察官が続きを促すと、今度は栄養士が席に呼ばれ、レモンの効能についてさらに科学的なデータを開示した。衣の酸化を抑えるとか、揚げ物による胃もたれを軽減するとか。傍聴席も「へえ」と興味を示す中、芳賀は机を両手で叩き、身を乗り出す。

「ちょっと待て! 胃にもたれるなら、別のメニューを食えばいいだろう。揚げ物には揚げ物の覚悟ってものがある。油っこいのが嫌なら、唐揚げに手を出す資格なんてないはずだ。鶏肉に含まれるうま味と油分を、そのまま堪能してこそ唐揚げを食べる意味がある。 レモンを使えば胃が楽になる? 鶏肉が持つ本来のコクや塩のキレを蔑ろにしてまで、そんな上辺だけの理由を通そうっていうのか?」

腕時計をいじっていた検察官が、ため息まじりに質問を返す。「確かに過度な脂は体に良くないケースもあります。被告人はそれでも構わないというお考えなんですか?」 芳賀は反射的に強い口調で言い返した。

「油がいけないなんて誰が決めた? 鶏肉のジューシーさは、その油分によって生かされる。肝心なのはバランスだろう。そこに酸味を足すと、味の重心が崩れる。香りの層だって変わるんだ。中華料理で酢豚を作るときの酸味とはまた別の問題だ。あっちは甘酢を使うから成立するが、唐揚げは塩味と衣の食感で完成している。レモンを絞った瞬間、塩味の輪郭がぼやけて、肉のうま味が酸っぱさに塗り替えられる。それを“あっさり”という言葉でごまかしている人間が、あまりにも多すぎる」

傍聴席の前列にいた数名は吹き出しそうになっている。専門店のシェフや栄養士とのやり取りに、まるでテレビ番組の討論会を見ているような空気が漂っているからだ。それでも芳賀はひとり熱気に包まれ、ほとんどプレゼンテーションのように力説を続けている。

「唐揚げってのは、そう簡単に科学的な効率で割り切れるものじゃないんだよ。たとえば塩麹を使うかどうか、下味のスパイスをどうするか、人によってレシピは違う。だが共通するのは“香ばしい衣と肉汁”を生かす点だ。それを壊してしまう行為が、なぜ正当化される? 魚の切り身にレモンをかけるのとは訳が違う。唐揚げは肉そのものが柔らかく、熱い油で閉じ込められた旨味を最大限に味わう料理なんだ」

検察官も呆れ顔だが、どこか冷静に立ち回ろうとしている。「専門家が有益だと言っていることを、あなたが完全に否定するだけでは説得力に欠けると思いますが……」 その言葉を聞くなり、芳賀は椅子から半分浮き上がるほど身を乗り出す。

「説得力? そうやって物事を簡単に数値で捉えようとするから、本質を見誤るんだ。おれは唐揚げを科学的に食うために作っているわけじゃない。口にしたときに広がる感動こそが、真の目的だ。そりゃあレモンをかければ、ある程度はさっぱりするだろう。それが何だ? 唐揚げを“さっぱり”なんて形容すること自体、すでに一線を踏み越えてる。揚げ物の味を台無しにして、むしろその罪から目を背けているようにしか思えない。唐揚げの醍醐味はこってりとした中に、鋭い塩味がキレを加えている状態なんだ。それを刈り取るかのように酸味が割り込む時点で、終わりなんだよ」

傍聴席からは明らかに失笑が起きているが、芳賀はまるで気づいていない様子だ。弁護士が「落ち着きましょう」と小声で咎めるも、彼の声はますます熱を帯びる。

「鶏肉を大切に扱うなら、余計なものをかけない。それが一番の礼儀だろうに。香味野菜や塩こしょうのバランスを整えて、そこにちょうどいい揚げ加減を施す。重要なのはその工程や技術だ。カットレモンを添えるなんて手段は、唐揚げへの侮辱に他ならない。本来の旨味を破壊しておいて、“健康にいい”とか“油っこさを抑える”とか、そんな理由を正義のように掲げるのは偽善的だよ。 唐揚げは脂っこくていいんだ。だからこそ特別な料理なんだから」

検察官が、やれやれという表情で裁判官を振り返る。裁判官も苦い顔だ。何か言い足りない様子の栄養士が口を開き、「でもビタミンCは……」と言いかけたところで、芳賀は耳を塞ぎたくなるように叫ぶ。

「ビタミンCなら他のもので摂ればいいだろう! 何も唐揚げを酸っぱい味にしてまで摂取する必要はない。大事なのは、唐揚げを崩さないことなんだ。出来上がった唐揚げをわざわざ酸味で洗い流すなんておれは認めない。おれの言葉が極端かもしれないが、その極端さを理解してくれる人間こそが“本当の唐揚げ好きを名乗れる”んだ」

証言台に立つシェフや栄養士はもはや“目の前のこの男には何を言っても無駄”という様子で口をつぐんだ。傍聴席のあちこちで失笑と溜息が入り混じる。法廷という場が、いつしか“レモン論争”の討論会と化している。

そんな光景を見守る刑事の相楽は、静かに背もたれに身を預けたまま、目を伏せている。傍聴席の端に控えている相楽にとって、このやり取りはもはや“事件の本質”から逸脱しているようにしか思えない。隣に座る同僚刑事がこっそり耳打ちする。

「相楽さん、これ本当にどっちが正しいんでしょうかね……?」

相楽は小さく肩をすくめ、苦い笑みを浮かべて答える。

「分からん。少なくとも事件としては、人を殺したあいつが間違ってるよ。けど、唐揚げの話になると、妙に説得力もあるように思えてくるから始末に負えない。ここまで来ると、もう誰が正しいとかじゃないんだろうな」

同僚刑事は「そうですね」と視線を落とす。法廷はまだ続いているが、何度このレモン論争を聞かされたところで、結論など出るはずがない。相楽は心の中で、唐揚げへのこだわりそのものを責める気はないが、それを動機に人を殺すという事実を飲み込めない。芳賀は一体、何を目指してここまで声を張り上げているのか。

被告人席で憤る芳賀の言葉に、シェフも栄養士も完全に黙りこくってしまった。裁判官がやや困惑した様子で、ひとまず今日の証言を終えることを告げる。審理はまだ続くのだが、唐揚げとレモンの是非をめぐる議論が果てしなく拡大してしまう気配に、相楽は頭が痛くなる思いを拭えないでいる。事件の動機がただの“殺意”ではなく、“宗教”に近いものに変貌しているかのようだとすら感じるからだ。

法廷の廊下に出た相楽は、同僚刑事に向かって小声でこぼす。

「いつになったらこいつは反省するんだ……」

同僚刑事はタブレット端末に目を落とし、さまざまな報道サイトが“奇妙な殺人事件”として大々的に取り上げているのを見せる。唐揚げの専門家と栄養士の意見も記事としてまとめられ、SNSでは大盛り上がりの様子だ。なかには芳賀の主張を“ある意味筋が通ってる”と擁護する声すらある。

「相楽さん、もうこれ事件というより……」

「分かってる。まったく、どっちが正しいのか分からなくなってきたよ」

相楽は頭を振る。殺人事件の動機としては破天荒すぎて捉えどころがない。ただ、ひとつはっきりしているのは、芳賀がずっと“唐揚げにレモン”を咎め続けてやまないという事実だ。あれほど強い情熱で語る姿を見ると、誰もが手を焼くのも仕方ないだろう。事件捜査を担っている刑事ですら、もはやその熱量に圧倒されるばかりだ。

廊下の窓ガラス越しに落ちる光は傾きかけている。相楽は立ち止まり、視線を足元に落として小さくため息をつく。「これ以上、何を言ってもあいつの耳には入らないんじゃないのか」。同僚刑事も同じ思いらしく、首を横に振った。こうして世間を巻き込んだ唐揚げ論争だけが際限なく膨らみ、肝心の事件は当事者がすでに有罪となる流れに差しかかっている。にもかかわらず、芳賀はますますヒートアップするばかりだ。唐揚げにレモンをかける行為をめぐる戦いは、まだ終わりの気配を見せないまま続いていくように思えた。

第六章:永遠の主張

判決の当日、薄暗い法廷の空気は静まりかえったままだった。裁判官が書類を確認し、「被告人・芳賀、殺人罪により……」と主文を読み上げ始めると、被告席で拘束されている男が一瞬だけ眉をひそめる。弁護士が耳元で何かを囁いても、芳賀はじっと前を見つめたまま微動だにしない。
判決内容は有罪。それ自体は傍聴席にとっても想定内だったが、この事件の動機が動機だけに、誰もがどう受け止めればいいのか分からない。相楽は後方の席で静かに聞き入り、検察官や傍聴人の視線が被告の方へ集中していくのを感じた。

「殺人は重大な罪です。どのような事情であっても、人の命を奪ったことの責任は免れません」
裁判官が淡々と告げると、いつもならここで被告人はうなだれるか、何か取り乱すかという反応を見せるところだった。だが芳賀は違う。告げられた判決を聞き届けた直後、なぜか目を輝かせて口を開いた。

「判決には従う。だが言わせてくれ。おれは、レモンをかけたあいつこそ真の加害者だと思っている。唐揚げの油分を酸味で侵食するなんて、あまりにも横暴じゃないか。もともと揚げ物はそのままの姿で完成しているのに、なぜ余計な味を足そうとする。何度言っても誰も分かってくれないが……唐揚げとは、鶏肉の美学の極地なんだ!」

小声のざわめきが法廷を包む。裁判官が「被告人、静粛に」と注意を促し、弁護士も焦ったように制止するが効果はない。傍聴席の最前列にはテレビ局と思しきレポーターがメモを取る姿が見える。判決が下された今も、男はまるで講演会に出ているかのように唐揚げを語るのをやめない。

「過去の法廷で散々主張してきたが、まだ足りない。おれは唐揚げにレモンをかける行為が罪深いと心底思っている。フルーツなんてものはデザートでこそ輝くものだ。揚げ物に酸味を合わせるなんて愚の骨頂。裁判所がどう言おうと、おれの信念は揺るがない。あの被害者は確かに命を落としたが、それは唐揚げという聖域を壊した代償なんだ」

場内には失笑と恐怖が入り混じったような空気が広がる。一部の人間は首をすくめ、弁護士は完全に諦めた顔をしている。裁判官が「これ以上の発言は控えてください」と再度告げたとき、芳賀はようやく声を弱めた。だが、その瞳にはまだ燃えるような執着が残っている。

「レモンをかけた奴が悪い。唐揚げへの冒涜は、許されるわけがない」
最後の言葉を吐き捨てるように言うと、芳賀は連行される。手錠をかけられたままの姿で振り返りもしない。見守っていた相楽は、一瞬だけあの目と視線がかち合った気がした。向こうは「理解者ではないのか」とでも問いかけるような顔をしていたが、相楽は目をそらすしかなかった。

法廷の外に出ると、マスコミのフラッシュが一斉に焚かれる。相楽は慣れた手つきで記者の問いをかわすが、「なぜこんな動機で殺人が?」とか、「唐揚げにレモン論争がブームになりつつありますがどう思いますか」といった声があちこちから飛んでくる。結局、まともに答えられるわけもなく、相楽は押し寄せる人並みの隙間をかいくぐり、警察車両の陰に身を寄せる。

同僚刑事が苦笑まじりに声をかけた。
「一応、事件は解決ですよね。まさかこんな話題でここまで騒がれるなんて……」
「から揚げか、レモンか、それ以前の問題だろうにな。人を殺してまで貫きたかった思想って、いったいなんなんだか」
相楽は額の汗を拭きながら呟く。自分の中でも割り切れない思いが渦巻いている。被害者が受けた不運と、犯人のどうしようもない固執とが、一体どんなふうに世の中で消化されるのか見当もつかない。

署に戻るタクシーの中で、相楽はスマホをちらりと見た。SNSのタイムラインには、早くも“唐揚げにレモンをかける派か、かけない派か”を論じる投稿があふれはじめている。あるニュースサイトでは「唐揚げ論争は新たな社会現象か?」と見出しをつけ、専門家がそれぞれのメリットを解説していた。記事の末尾には、何やら“レモンを拒否する徹底派”が一定数存在し、その急進派が今回の犯人・芳賀に共感を示しているとの情報まで書かれている。

「これはもう、事件が終わっても終わらないってことかな」
相楽は車窓の向こうに広がる街並みを眺めながら、複雑な気持ちでつぶやく。くたびれきったスーツの襟元を緩めると、助手席に座る同僚刑事も「ほんとですね」と相槌を打った。

署に到着すると、報道陣がまだ外で待ち構えている気配がある。相楽は深いため息をついてから、そそくさと建物の中へ入った。同僚刑事と並んでエレベーターを待つ間、またしても「今夜は唐揚げにレモンをかけるか?」などと軽口を叩く記者が背後で聞こえる。相楽はちらりと同僚の顔を見て、小さく首を振った。あんな男の所業が冗談混じりに語られていくうちに、事件の核心なんてすぐに風化してしまうのかもしれない。

「正直、これが動機って……」
相楽は言葉を継げず黙り込んだ。隣の同僚刑事も同じ表情をしている。そのままエレベーターの扉が開き、中へと乗り込む。フロアのボタンを押しながら、ふと相楽は思う。もし芳賀が今もどこかで唐揚げを目にしたら、きっと同じようにレモンは許さないと息巻くだろう。判決で有罪が確定した今も、あの男は自分の主張が正しいと信じて疑わないに違いない。

夜になって署を出るころ、ニュース番組のワイドショーでは「唐揚げにレモンをかけるのはアリかナシか」と、大まじめにコメンテーターたちが話し合っていた。SNSでも「レモン必須派」と「そのまま派」が激論を交わし、さらには「塩にレモンを混ぜるのはOKか」など話題が拡散している。さまざまな意見が交錯するなか、事件そのものは少しずつ後景に退いていく。しかし、画面の隅には“唐揚げ殺人”の文字がまだくっきりと残っている。

相楽はモニターを横目で見つめ、何とも言えない感情が胸に広がるのを感じた。あんなに熱を込めて語る男を、誰が止められるのか。たとえ社会から罰せられても、その声が消えることはないだろう。あの耳を塞ぎたくなるようなこだわりは、おそらくずっと続いていく。

記者会見の準備であわただしい署内を離れ、夜風にあたりながら相楽は目を閉じた。唐揚げにレモンをかけるかどうか――それだけの問題で人が死んだという、あまりに理不尽な事件。世間の好奇心をかきたてるだけで、本質的には何も救っていない気がする。それでも人は“ブーム”という形で盛り上がり、自分がどちら派なのかを主張し合うのだろう。

誰もがそのうち話題を忘れるかもしれない。あるいは、新たなブームやニュースが起きれば記憶の片隅に追いやられるだろう。だが、芳賀のあの執念深い声だけは、たぶん今もどこかで轟いている。唐揚げこそが至高の料理であり、レモンは絶対に許されない――そんな狂気にも似た言葉が、冗談とも真実ともつかない微妙な狭間で漂い続けているに違いない。

相楽はポケットから煙草を取り出しかけ、やめた。いつのまにか周囲にマスコミの姿は見えなくなっている。あの男の大声での叫びに耳を塞ぎながら、彼らもまた新たなセンセーショナルな話題を追いかけに行ったのかもしれない。唐揚げにレモンをかける是非をめぐる論戦は大衆の関心を集めているが、肝心の“人命が失われた”重みはどこかに置き去りにされている。

唐揚げへの異常なほどのこだわり。そこまで料理に情熱を注げるのはある意味すごいことだが、それが凶行の理由になるのはどう考えても異常だ。相楽はだらしなく歪んでいたネクタイを直し、夜の街を歩き始める。過ぎ去ったはずの事件が、けっして終わったとは言えない名残を引きずっているように思えてならなかった。

通りの奥で、居酒屋ののれんが風に揺れている。看板メニューは鶏の唐揚げ。かすかに聞こえる客たちの笑い声の中で、レモンをかけるのを楽しみにしている人もいるかもしれないし、かけないでそのまま味わう人もいるかもしれない。どちらが正解なのかは、もう誰にも判断できないような気がする。ただひとつ言えるのは、あれほど強烈な主張を抱えたまま有罪判決を受けた男が、今も“レモンをかける奴が悪い”と息巻いているという事実。

深夜にかかる空はほとんど星が見えない。相楽は唐揚げの匂いが漂う小さな居酒屋の前を通り過ぎるとき、一瞬だけ足を止めた。あの男なら「無断でかけるな」と怒鳴り込むだろうな、と思いながら、虚空を見つめる。

酔いどれた客たちの笑い声が路地裏にこだまする中で、彼は苦く笑い、再び歩き出した。唐揚げをめぐるこの騒ぎが一時的なものなのか、それとも長く尾を引いて人々を巻き込んでいくのかは分からない。しかし、その始まりが血なまぐさい事件であったことは間違いない。どこかに連行されていった男が叫び続けている限り、この論争は完全に消えることはなさそうだった。

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