漢字狂乱ロマンチカ ― 漢検1級に向けた青春
第1章:「漢字検定1級は男のロマン!」
昇降口を抜けた先の廊下を、神木シオンは胸を張って歩いていた。背負ったバッグの口からは、使い古されて角が丸まった分厚い漢字辞典がのぞいている。クラスメイトたちはその鞄の中身に気づいて苦笑いを浮かべるが、シオンの表情からは満足感すら感じられた。まるで、周囲の視線こそが彼を前へ押す原動力であるかのようだ。
「お前、また漢字辞典持ち歩いてんのか。……そんなもん日常で使わねえだろ」
後ろから声をかけたのは、幼なじみの虎尾タイガ。運動部仕込みのたくましい体格で、いつもシオンを“現実”に引き戻すのが役目だ。
「漢字検定1級を目指すなら、これくらい当然だろう?」
シオンが振り向けば、その顔には妙な自信が満ちている。背中から引っ張り出した辞典をひらひらさせると、なんとも得意げだった。
「ここには《嚠喨(りゅうりょう)》とか《靉靆(あいたい)》みたいに、声や雲を美しく表現する単語が載ってるんだ。そういう言葉に浸ってるとさ、ロマンが止まらないんだよ」
「いや、普通の会話でそんな漢字は使わねえし……第一、ロマンってのがよくわかんねえよ」
タイガは呆れながらも、どこか諦め半分で苦笑している。だが、シオンはその言葉を気にも留めない。まるで「そういう非常識こそが刺激的だろ?」と言わんばかりの様子だ。
朝のホームルームが始まる。担任の連絡事項には「進学説明会」のお知らせが書かれているが、シオンの目は黒板の端に小さく書かれた「漢検申し込み締め切り」の文字に釘付けだ。
「……今年こそ、受かる」
シオンが小さくつぶやいたとき、教室の後方でコツンと音がした。誰かが席を立ったようだ。振り返ると、黒髪のロングヘアを揺らした少女、烏丸カグヤがまっすぐこちらを見つめている。クラスメイトからは「ミステリアス」と評される彼女だが、その瞳に宿る光は尋常ではなかった。
休み時間になると、カグヤはシオンの机へ近づいてきた。
「漢字検定1級……あなたも受けるの?」
落ち着いた口調の裏に何か奇妙な熱が感じられる。タイガが「怖っ」と言わんばかりに身を引く横で、シオンは腰を下ろしたまま彼女を見上げて答えた。
「もちろん。1級を取るのが俺のロマンだからな」
それだけの言葉なのに、カグヤの目はさらに輝きを増す。
「いいわね。私も、江戸期の《魑魅魍魎(ちみもうりょう)》写本を見て、漢字が紡ぐ世界の深さに惹かれてるの。……壮大な文字って、ただ眺めてるだけでも宇宙を感じるわよ」
「へえ、俺はもっと単純なんだけどな。漢字がカッコいいからって理由で夢中になってるけど、そんなお前なら気が合いそうだ。……ところでさ、どんな漢字が好きなんだ?」
シオンが興味津々で問いかけると、カグヤは手にしていたノートをわずかに開き、その一部を見せてくれた。そこには旧字から変体仮名までがびっしりと並び、細かな注釈までも書き添えられている。
「毎晩、《厲(れい)》な心持ちで筆を取ってるわ。あなたみたいに《齷齪(あくせく)》動き回ってはないけど、地味に研究するのが好きなの」
「なるほどな。俺は暗記カードでガンガン覚える派。昨夜も《鸞(らん)》って字を夢の中でまで書いてたし」
「……あなた、正真正銘の漢字バカね」
彼女の口から“漢字バカ”と呼ばれて、タイガが「それは言いすぎだろ」といった顔をするが、シオンはまるで褒め言葉を受けたように喜んでいる。そこへタイガが割って入った。
「それはいいが、本当に1級なんか取れるのか? 2級で十分なんだろ、普通は」
「だけど、《彜(い)》とか《醬(しょう)》とか、“本気”を感じさせる漢字がまだ山ほどあるんだぜ。なぜ深めたくならない?」
「俺には皆目わからねえけどよ……少なくともクラスじゃお前、“漢字辞典背負ったヘンなヤツ”扱いだからな。そこらへん自覚してんのか?」
タイガが呆れながら言うが、シオンは全く意に介さない。代わりにカグヤが小さく笑う。
昼休み、二人は購買で焼きそばパンを買ったあと、廊下の隅で腹ごしらえをしていた。焼きそばパンをかじった瞬間、シオンは急に顔を上げて「そうだ、タイガ」と肩を叩く。
「お前も手伝ってくれ。1級、俺は一人じゃ心細いんだ」
「はあ? 俺、漢字とかさっぱりなんだけど。無理だろ」
「力が必要なんだよ。体力とか精神力とか、そういうフォロー。もし《暗闇書道》とか《百枚古文書模写》みたいなヘンな修行思いついたら、支えてほしい」
「結局ヘンなんじゃねえか……。でもまあ、お前のこと放っとくのもアレだし……いいか、付き合ってやるよ」
タイガは渋々ながらも、結局断りきれない様子だった。
放課後、廊下でまたカグヤと出会う。シオンは勝利宣言とばかりに声を上げる。
「よし、決めた。俺は1級を取るために色々試す。タイガも巻き込む。いや、巻き込まれてもらう」
カグヤはタイガをちらっと見てから、小さく微笑む。「お似合いだわ」とつぶやく。何を意味するのかタイガにはわからないが、シオンはそれだけで上機嫌だ。周りのクラスメイトも呆れ顔だが、彼らの熱気には及ばない。
廊下の窓の外には、まるで《靉靆(あいたい)》という言葉で形容したくなるようなどんよりとした雲が漂っている。けれど、シオンの心は晴れ晴れとしていた。1級を目指すなんて世間から見れば“無謀”かもしれないが、男のロマンを抱く彼にとっては、それこそが最大の“刺激”なのだ。
「一緒に頑張ろうぜ、タイガ」
何度もそう言う姿に、タイガは「やっぱりイカれてる」と嘆きながらも、どこか楽しげ。カグヤは窓の外を眺めながら、「私も試験に向けて計画を立ててるから、あなたたちにも協力してほしい」と静かに告げる。その目がシオンと交わり、かすかに挑発的な笑みを浮かべた。
「おう、望むところだ」とシオンが言えば、タイガは「ああ、やっちまったな」と頭を抱える。しかし、その表情に暗さはない。
この奇妙な漢字バカたちは、すでに道を踏み出しているらしい。《鷆(てん)》や《鷺(さぎ)》などレア漢字をどう日常で使うかを真剣に考え、しかも漢検1級という“難関”を正面から突き破ろうとしている。どれほどの苦難が待ち受けようとも、彼らの足は止まりそうにない。
――少なくとも、シオンの胸は高鳴っていた。男のロマンとやらをとことん追い求める覚悟はできている。新たに仲間となったタイガ、それに同じ漢字狂を名乗る謎めいたカグヤとの出会いが、どんな〈厲(れい)なる試練〉どんな大騒動を生み出すのか。
放課後の褪色(たいしょく)した校舎には、かくも幽玄(ゆうげん)なる予感が稠密(ちゅうみつ)に漂っていた。
第2章:「変人集合! 漢字オタク同好会へようこそ」
翌日の放課後、シオンはカグヤと共に、校舎の北側に位置する旧校舎へ足を運んだ。かつては使われていたらしいが、今は人気がなく薄暗い空気が漂っている。その突き当たりに、小さな教室がぽつんと残されていた。扉には「漢字オタク同好会」と力強い筆文字で書かれた手づくりの看板が貼りつけてあり、角が黄ばんでいるあたりに古い歴史が感じられる。
「ここが噂の‘変わった人たち’のたまり場ってわけか?」
シオンは胸の内に期待と好奇心を抱えつつ、低い声で漏らす。カグヤは「ああ、面白い連中ばかりよ」と、どこか得意げに微笑みながらドアを開けた。
中に踏み込むと、まず目を奪われたのが壁一面の漢字ポスターだ。「瀟洒(しょうしゃ)なる筆致を究めよ」「蹉跌(さてつ)を恐れるな」など、ただ文字を羅列するだけでなく、それぞれに筆遣いの解説や由来のメモが添えられている。いかにも“漢字オタク”の巣窟(そうくつ)という印象で、シオンの胸が高鳴る。
その壁際には、白いブラウスとチェックのスカート姿の女子生徒がいた。姿勢のよさは上品とも言えるほどで、手には古い辞書を抱えている。彼女はシオンたちの姿を見ると、すっと振り向いて涼しげに言った。
「初めまして。私は下鴨リリカ。この同好会の会長を務めているの。あなたが神木シオンくんね?」
見た目こそ“優雅”の一言だが、その背後からは不思議な熱量がにじみ出ている。シオンが「そうだけど……」と答えると、リリカは微笑みながら、手元にある分厚い古書をテーブルへそっと置いた。
「漢字検定1級を目指すって聞いたわ。あなた……かなりの変人だって噂よ?」
「変人て……まあ否定はしないけどさ」
シオンは苦笑しつつも、先ほど置かれた古書に強く心を惹かれていた。表紙に箔押しされた「欒(らん)」という字からして、よほどの骨董品らしい。
そこでリリカが「それじゃ、さっそくメンバーを紹介するわ」と言い、教室の隅を手で示す。そこには長身の青年が無言で立っていた。髪は淡い茶色で、瞳の色も日本人離れしている。彼はそっと細長い紙を広げてみせた。そこにびっしりと並んだ文字は、どれも印章に使われる篆刻(てんこく)のような独特の書体だった。
「摩天スバル。留学生らしいけど、経歴はよくわかっていないの。篆書(てんしょ)や刻字の研究を熱心にやっているわ」
「篆刻って……あの印章なんかに使う書体を刻むアレだよな?」
シオンが思わず顔を近づけると、スバルは片言で「漢字……深い。僕、もっと極める。1級……当然」と言い切る。その語調に冗談の気配はなかった。刀で刻む作業は膨大な集中力と古い文字の知識が必要だからこそ、彼にとって漢検1級は“通過点”なのかもしれないと感じさせる。
「私も1級を狙っているの。古書コレクションが趣味でね、祖父が持っていた江戸期の文献や明治の刊本なんかを研究してるの」
リリカはそう言いながら、机の下からさらに分厚い大判書物を取り出した。〈蚩尤(しゆう)〉や〈螻蛄(けら)〉といった、一見では読みすらままならない題名のものがゴロゴロ出てくる。カグヤがそれらを興味津々で覗き込む姿は、いつものクールさとは違う熱っぽささえ感じさせた。
「ところで今日は、あなたたちの正式入会を歓迎しようと思って、お茶と茶菓を用意したわ。座ってちょうだい」
リリカが湯呑を差し出してくるので、シオンとカグヤは向かい合うように席につき、スバルも無言のまま隣に座った。お茶を一口飲んだところで、リリカが突然、A4用紙の束を取り出す。
「これは同好会恒例の‘地獄の漢字修行スケジュール’。読んでみて?」
シオンが目を通すと、《滂沱(ぼうだ)の百枚模写》《暗黒篆刻夜会》《漢詩朗誦マラソン》……と、常識では考えられないメニューがずらりと並んでいる。以前、カグヤが「暗闇書道」なんて口にしていたが、こちらは「暗黒篆刻夜会」ときた。さらに篆刻を暗闇でするという、どう見ても危険な特訓らしい。
「……こんなの、本当に意味あるのか?」
シオンが半ば呆れながら問うと、リリカは「あるわよ」とはっきり言う。
「暗黒篆刻夜会では、視覚が制限されるぶん、文字を‘立体’として捉える力が養われるわ。篆刻って、ただ刀を入れるだけじゃないの。彫る文字の形や筆順を深く理解しないと、ちょっとしたズレですぐ別の字になってしまうから」
説明を聞くうちに、シオンは奇妙な納得を覚える。現にスバルは篆書を驚くほど精巧に使いこなしているわけで、“非常識な修行”もあながち冗談ではないのだろう。
「ほかには、《漢詩朗誦マラソン》っていうのもあるわ。何十首もの漢詩を暗記したうえで、グラウンドを一周しながら大声で詠むの。身体を動かして息が乱れても、正確に朗誦できるように練習するのが狙いよ」
「どうしてそこまで漢詩にこだわるんだ?」
シオンが思わず突っ込むと、リリカは微笑んで答える。
「漢字を知るには、やっぱり古来の詩文が手っ取り早いわ。読みのバリエーションや特殊な熟字訓が詰まってるから。それを覚えるには、脳も身体も使ったほうがいいでしょ?」
カグヤはポスターを眺めつつ、「私も気になるわ。連続写経や古典鑑定もあるみたいだし、どれも奥が深そう」と呟く。彼女が持つノートにも、既に膨大なメモや引用が走り書きされている。それを横目に見たシオンは、妙な熱さを感じた。
「で、あなたたちは実際どうなの? 本当に1級なんて取れると思ってる?」
リリカが探るような声で尋ねてきた。シオンはごくんと喉を鳴らしつつ、「1級はやっぱり甘くないよな」と吐露する。難読漢字はもちろん、四字熟語、熟字訓、故事成語――普通の勉強じゃ間に合わないほどの知識量を要求される試験だ。
「でも、その‘理不尽’さが燃えるんだよ。なんか、文字の深淵って感じがしてさ」
シオンが本音を言うと、リリカは苦笑しながらも同意を示す。「私も同じよ。未知の文字に出会うたびに、自分がどれほど浅いか思い知らされるけど、逆に言えば“まだ伸びしろがある”って思えてわくわくするわ」
スバルも小さく頷き、「漢字……無限」とつぶやいた。日本語としてぎこちないが、その一言だけで強烈な情熱が伝わってくる。カグヤは黒髪をかき上げながら、「私の場合は、文字が作り出す歴史の息遣いを味わうのが好き。漢字が変化してきた過程を知ると、人の営みが垣間見える」と小声で添えた。
そんな話をしていると、リリカが「ちなみに」と切り出す。
「この同好会、‘漢字オタク’なんて呼ばれてはいるけれど……実は以前、他校との交流とかもしていたのよ。そこには『対抗戦』みたいな要素もあって、お互いにどれだけ難読漢字を使いこなせるかを競ったり、タイムアタックで筆記したり」
シオンは思わず「へえ」と目を見開く。まるで“漢字版スポーツ大会”のようだ。やたらと燃える展開があるなら、その“対抗戦”もぜひ参加してみたいと思う。
「つまり、私たちはただ奇妙な修行を楽しんでいるだけじゃない。いつか来る大舞台や1級試験に備えて、効率的……とまでは言わないけど、独自のやり方で挑んでるの」
リリカがそう言うと、スバルが紙にさらさらと何か書き加える。それは篆刻体で書かれた「挑戦(ちょうせん)」という字のように見え、独特の曲線が美しかった。
「……なるほど。すげえわ。俺、こんなディープな世界があるなんて想像もしてなかった」
シオンは湯呑を持ち直し、心底感心したように呟く。お祭り騒ぎのように見える特訓メニューも、それぞれに“理に適った”理由がある。漢詩朗誦も篆刻も、表面的には奇抜だが、そこには漢字の持つ多彩な側面を活かすための工夫が秘められているらしい。
「そういうわけで、あなたたちを正式に歓迎するわ。地獄の漢字修行を共に楽しみましょう」
リリカがそう言って軽く会釈すると、カグヤは満足げな顔で「あたたかい歓迎とは言い難いけど、嫌いじゃない」と返す。スバルは無言のまま笑みを浮かべてうなずいている。
シオンもおかしな胸の高鳴りを感じつつ、「もちろんだ。俺もこれを機に、さらに深く漢字にのめり込むつもりだからな」と力を込めて言った。
するとリリカがスケジュール表の下のほうをトントンと指先で叩き、ふいに声のトーンを落とす。「ただし、1級は本当に厳しいわよ。レア漢字や当て字だけじゃなく、旧字や造語、熟字訓まですべて網羅しなきゃいけないから。下手をすると、単なる辞書丸暗記じゃ太刀打ちできない領域に踏み込む。覚悟はいいかしら?」
その問いかけに、シオンはじっと表を見つめた。そこには《百枚模写》や《暗黒篆刻夜会》だけでなく、《連続写経+古典鑑定》や《変体仮名大辞典読破》なんて代物まで載っている。確かに常識で考えれば“狂気”の所業。しかし、その先に漢字の果てしない深淵が広がっていると思うと、むしろ燃える気持ちが強まった。
「……やってやろうじゃん。俺はもう、どんな荒波だろうが乗りこなす覚悟だ」
「では早速、来週から始動しましょう。まずは《滂沱の百枚模写》。みんなで在りし日の文献を大量に書き写すわ。霧吹きで薄く濡らした和紙に筆を入れるから、普通よりずっと難しい。集中しないと墨が滲(にじ)んで読めなくなるからね」 リリカの説明を聞きながら、シオンは無意識に手を握りしめていた。カグヤが横で「ふふ」と笑う。その目にも同じ熱が宿っているのを、シオンは察した。スバルは相変わらず多弁ではないが、その目が熱を帯びているのは誰の目にも明らかだ。これだけ変わり者が揃っていれば、修行の先でどんな“大舞台”が待っていようと不思議じゃないだろう。思わず胸が高鳴ってくる。
窓の外は夕陽が赤く染まり、古びた旧校舎の木製扉や廊下を黄金色に照らしている。この教室だけが、周囲とは少し異質な雰囲気をまとっているように感じられた。
リリカが古書のページを軽くめくって、「改めて、ここへようこそ。地獄かもしれないけど、漢字好きには天国よ?」と柔らかく笑う。その瞬間、スバルが筆で何かを紙に書き始め、カグヤはノートを開いてメモを取る。
シオンはそんな光景を眺めながら、「ここでなら、俺の知らない漢字の魅力が見つかるかもしれない」と思わず口元を緩めた。勢い任せのギャグのように見えていた特訓メニューも、こうして話を聞けば、漢字の奥深さを探求するための“本質”が詰まっているようだ。
――こうして“漢字オタク同好会”へ足を踏み入れたシオンにとって、これから繰り広げられる修行や検定への道のりは、単なる暗記や体力勝負をはるかに超えた、“漢字そのもののロマン”を体感する場になる。
そして、彼やカグヤ、リリカ、スバルたちの内面にも、文字に触れるごとに小さな変化が生まれつつある――れは、これから繰り広げられる波瀾の大計(たいけい)において、単なる前宴(ぜんえん)にすぎなかった。
第3章:「修行初日から阿鼻叫喚! 謎の特訓オンパレード」
朝のうちに降った雨の名残がグラウンドの隅に小さな水たまりをいくつも作っていた。放課後のチャイムが鳴ると同時に、シオンは体育館裏の空きスペースへ足早に向かう。今日は漢字オタク同好会主催、“初回の修行”が挙行される日だ。
あたりを見回すと、白いシャツの袖をまくり上げたタイガがすでに待機していた。彼は「お前も物好きだな」と言いたげな視線を向けるが、その横顔にはどこか憂いも混ざっている。きっと、これから行われる修行が尋常でないことを、薄々勘づいているのだろう。
「シオン、あんた遅いわ」
ぴしゃりとした声が飛び、振り返ると、カグヤが書道用の大きな袋を提げて立っていた。目には鋭さすら宿り、その意気込みがまざまざと伝わる。
「せっかちだな。まだ集合時刻には余裕が……」
「言い訳しないで。さっさと準備にかかりましょう」
ちょっとした口火に火薬をぶちまけるかのような、刺々しいやりとりにタイガが「落ち着けって」と割って入る。だがカグヤは手をひらりと上げて制する。
「緩みは敗北の始まりよ。漢字検定1級はそんな生易しいものじゃない。それがわからないなら帰りなさい」
声の温度が低く、シオンも一瞬、言い返す言葉を失ってしまう。だがすぐに「俺は帰らない!」と頬を張り上げた。2人の火花が遠くからでも見えそうなほど、周囲がピリつく。
そこへリリカが涼やかな笑みをたたえて登場し、空気を和ませようと声をかける。
「喧嘩は後にして、まずは《百枚古文書模写》から取りかかりましょう。今日のノルマは思ったより多いわよ。霧吹きも潤沢(じゅんたく)に用意したから、紙がすぐに乾くことはないはず」
彼女が示したテーブルには、和紙やら筆やら、そしてまがまがしいほど古めかしい文献のコピーが山と積まれている。しかも必要分よりはるかに多そうだ。タイガがそれを見て唖然(あぜん)としている隣で、カグヤはさらりとペンライト付きの拡大鏡を鞄から取り出していた。
「よし、百枚やるぞ。どんな艱難(かんなん)だろうが、なんとか捻出(ねんしゅつ)してこなしてみせる」
シオンが気合いを入れると、カグヤが冷たい微笑みを浮かべる。
「あなたがすぐ音を上げないことを祈るわ。筆跡が微妙に違う旧字体系もあるから、些末(さまつ)な箇所を見落とさないで」
「言われなくてもな。……それより、お前はちょっと厳しすぎるんじゃないか?」
「漢字に対して甘い人間は、最後に破綻(はたん)をきたすのよ」
火薬庫に火種を投げ込むような物言いに、タイガは目を泳がせる。「お、お前ら気張りすぎだろ」と呟くが、両者の耳に入ったかどうか。
しばらくして、皆で腰を下ろし、百枚模写に取り組み始める。古文書の文字は実に胡乱(うろん)で、墨が掠れている箇所も多い。なまじ漢字とわかっていても、崩し字に近い表現が多く、カグヤですら首をひねるところがある。シオンは気合いとは裏腹に、さっそく何度も筆を持ち替えながら二度見、三度見を繰り返し、じわじわと疲労が溜まっていく。
「すぐ飽きた顔してるわね」とカグヤが横目で指摘する。
「飽きてない。ちょっと嚼(か)み砕く時間が要るだけだ」
「いいから、黙って手を動かしなさい。集中すれば筆先が勝手に走るはず」
苛立ちと闘志が入り混じる声に、シオンも思わず黙り込んで紙へ向き合う。彼女の言葉の重みは、単なる鞭撻(べんたつ)ではないようにも聞こえた。
やがて夕日が傾き始めたころ、百枚のうち六十枚ほどが終わった。頭の中はすでに囂囂(ごうごう)たる混沌が渦巻いている。リリカが保温ポットから緑茶を注いでくれたので、シオンは一気に喉へ流し込む。視界の隅ではタイガが完全にバテており、「お前ら……何のためにこんな無茶をしてるんだ?」と弱音を漏らしている。
「1級合格のためなんだから、贅言(ぜいげん)は控えましょう」リリカが淡々と告げる。「まだまだこれからよ。次は‘暗闇書道’の準備を始めます」
日が落ちると、校舎の空き教室には暗黒とまではいかないが、蛍光灯の明かりを消しただけで、奥のほうはじわりと見えなくなる。スバルは懐中電灯を携えて、そっと床を片づける。今回の特訓は、“ほぼ闇”という環境の中で巨大な筆を使い、異体字を中心とした難解な熟語を書き上げるものらしい。緊張感がまるで増幅されるかのようだ。
「めちゃくちゃだな……本当にやるのか?」
タイガは半笑いだが、リリカはきっぱりと首を縦に振る。
「暗闇だからこそ集中力が高まり、筆の動きを恍惚(こうこつ)とした感覚で捉えられるらしいの。祖父いわく‘感覚が鋒鋩(ほうぼう)を増す’のだとか」
「そりゃ酔狂(すいきょう)にも程があるわ……」
シオンが呟いたそのとき、教室の電気がバチッと落とされ、ほとんど何も見えなくなる。わずかに外の街灯から差す明かりだけを頼りに、リリカが「始めるわよ」と声を響かせた。
暗闇のなかで大筆を手にするだけでも足元が覚束ないのに、書き下ろすのは《鷹揚(おうよう)》《鸞翔(らんしょう)》《磊落(らいらく)》など、あえて異体字を多用した複雑な熟語だ。
「いつも以上に紙の位置を意識して、匂いとか微かな紙の感触を頼りにしなさい」とカグヤが促す。
「言われなくても……うわっ、やばい!」
シオンは一筆目から紙を踏みそうになって慌てる。カグヤはその動揺を鼻で笑うようにしながら、自分はスラスラと書を進めているらしい。筆先が紙と擦れ合う心地よい音が聞こえてくると、その余裕が一層シオンの焦りをかきたてる。
気合いを入れて書き始めたものの、ひとたび線をはみ出してしまうと、もはやどこが文字の中心かさっぱりわからない。シオンは頭の中で文字を彌縫(びほう)しようとイメージするが、暗がりがその思考さえ攪乱していく。隣でタイガがうめき声をあげ、「もう無理、俺は限界だ。さっきの百枚模写で腕がパンパンなんだよ」と倒れかけているのがなんとも悲壮だ。
「あんたたち、こんな程度で怯むの?」カグヤがきつい口調で言い放つ。
「怯んでない。だけど、お前こそ、やりすぎなんだよ」シオンは闇のなかで声を荒げる。「俺だって精一杯やってるのに、いちいち指図してくるのはどういうつもりだ?」
「指図じゃないわ。事実を言っているだけ」
「ならもう少し言い方ってもんがあるだろ? お前はいつも上から目線で……」
「あなたが下手だから、そう聞こえるだけじゃないの?」
その一言にシオンの苛立ちが爆発寸前になる。暗がりの中で睨み合う2人の間に、思わずタイガが入ろうとするが、足を滑らせてずりこけてしまい、床に筆をぶちまける。リリカが「まあ、まあ」となだめようとする声を上げるが、それもどこか遠く感じられる。
重たい空気が教室に充満して、誰の筆も動かなくなった瞬間、ふいに小さな光が灯った。スバルが手にしていた懐中電灯だ。照らされた床には、流れ出た墨と倒れた筆。タイガが呆れ顔で腰を押さえ、カグヤとシオンの視線はまだ交錯している。するとスバルが、たどたどしい日本語でぽつりと言った。
「練習……もっと要る。まだ終わり……じゃない」
その素直すぎる一言に、シオンもカグヤも一瞬面食らったように黙り込む。彼の発言は叱責でも侮蔑でもなく、ただ単純な事実を言っているにすぎない。実際、まだ目標の文字数はこなせていないのだ。
気まずさを拭い去るように、リリカが大きく息を吐く。
「そうね。ここで終わるのは惜しい。せっかく暗闇での集中を体験しているんだから、一緒にやり切りましょう」
彼女の声には、さっきまで感じられなかった暖かい響きが混ざっていた。カグヤもすっと視線を外して、自分の筆を持ち直す。そしてシオンも腹の奥に渦巻く感情をなんとか抑え、「わかったよ、やる」と呟く。
その後、暗闇の中での筆運びは以前よりも静かに進んだ。激しい言い争いこそなかったものの、カグヤとシオンの間には何かしら未解決の火種がくすぶっているのかもしれない。タイガは呆れながらも「仲間割れは勘弁してくれよ……」とため息をついているが、彼自身、この修行の厳しさに嫌気が差していないわけではない。
やがて全員の腕が鉛のように重くなり、筆を動かす力も尽きかける頃、リリカがやっと明かりをつけてくれた。蛍光灯の下に現れた紙には無残な墨の跡が散乱していて、果たして何が書かれているのか判別しがたいものも多い。だが、暗闇の中で必死に書き上げたその跡には、妙な達成感が漂っていた。
「破綻するかとヒヤヒヤしたけど、なんとか終えたわね」リリカがそう言って丸い卓上ライトを持ち上げる。「今日の成果はこの程度だけど、回数を重ねれば感覚は鋭敏になるはず。試験当日、役に立つはずよ」
教室の隅に腰を下ろしたシオンは、腕の痛みを揉みつつ、書き上げた紙を見やる。失敗だらけの文字たちが不思議な迫力を醸し出していて、何かを訴えているようにも見える。カグヤは自分の紙を無表情でじっと見つめていたが、そっと手で触れて、ふぅと微かに息を漏らした。
「あなたの筆、さっきよりは力強くなってるわね」
不意にそんな言葉をかけられ、シオンはドキリとする。先ほどの険悪さは消えてはいないが、その声には少しの認める気配が宿っていた。
「お前はずっと余裕そうだったけどな」
「そうかしら。私も、ぎりぎりまで踏みとどまっていたのよ」
かすかなやりとりだったが、タイガが「お、なんだか丸くなった」と囁いてニヤついているのが見えた。
結局、この日の修行は夜も遅くまで続き、全員くたくたになるまで紙と墨に向き合った。《百枚古文書模写》から始まり、《暗闇書道》で仕上げるという流れは想像以上にきつく、体力も精神力も削られた。けれど、それ以上に不羈(ふき)の情熱が駆け巡ったことは事実だ。
帰り際、リリカが口を開く。
「今日は初日だったし、かなり荒っぽい内容になっちゃったけれど、これからもっと斬新(ざんしん)なプログラムを取り入れる予定よ。みんな、準備はいいかしら?」
その言葉に、タイガは「もう勘弁してくれ」と嘆くし、カグヤは「望むところ」と小さく頷く。スバルは不思議な笑みを浮かべたまま、また奇妙な文字らしきものを紙に書きつけている。シオンはその様子を見てどこか胸が熱くなり、「もちろんだ」と力強く答えた。
まだしこりの残るカグヤとの関係、そして地獄の修行に巻き込まれたタイガの行く末も気になる。過酷な道を進む彼らに、どれほどの試練が押し寄せるのか。答えはわからないまま、星屑が稀薄(きはく)に瞬く校庭の片隅で、彼らはまだ燻(くすぶ)る熱を抱えたまま語らずに立ち去った。墨に塗れた紙が示すのは破綻か、それとも新たな扉への道しるべか。少なくとも、放課後の闇を穿(うが)つその激情だけは、誰にも抑え込めそうにない。
第4章:「心乱るること多々あり—挫折と仲間の絆」
午前中の天気予報では晴れだったはずなのに、放課後の校庭には薄い雲がかかり、どこか息苦しさを感じさせる空模様が広がっていた。シオンは昇降口で靴を履き替えながら、まだ重たい疲れが抜けきらない自分を自覚する。近頃続く過酷な漢字修行の影響なのか、体が鉛のようにだるく感じられるのだ。
「おい、シオン。今日も同好会だろ?」
声をかけてきたのはタイガ。彼の顔にもくまができているが、その瞳には何かしらの決意が宿っているようにも見える。運動部で鍛えた体力をもってしても、あの“漢字の魔境”は容易ではないらしい。
「行くさ。……正直、きついけどな」
率直な言葉にタイガは渋い顔をする。ごまかしがきかないほど疲弊しているのは、お互い様というわけだ。
二人が旧校舎のほうへ歩み出すと、廊下の角からカグヤが姿を現した。黒髪に一筋の飾り紐をつけ、視線はまっすぐシオンたちへ向いている。以前のような尖った空気は若干和らいでいるようだが、どこか張りつめた雰囲気は変わらない。
「あなたたち、今日は少し遅かったのね」
チクリとした言い方だが、以前より棘(とげ)は少ない。シオンは肩をすくめて言い返す。
「遅刻にはなってないだろ。……最近、いろいろと疲れがたまっててさ」
「そんなことで音を上げるなら、漢検1級を目指す資格はないわ」
きっぱりとした言葉にタイガが苦笑する。「もうちょっと手加減してくれよ。こっちは根性で踏みとどまってんだぞ」
カグヤは目を伏せるようにして唇を結んだが、すぐに無表情を装い、来た道を引き返すように歩き出した。
旧校舎の扉を開けると、部室内にはすでにリリカとスバルが待っていた。リリカは書棚から何やら分厚い書物を取り出して、テーブルに並べている最中だ。
「みんな来たわね。今日は例の‘古典鑑定’に挑もうと思うの」
聞けば、江戸から明治期にかけて編纂されたという稀覯(きこう)本の一部を抜粋し、その筆致や用字を見極めるらしい。誤字脱字の類いを発見すればポイントが加算されるという、いかにもディープな企画だ。タイガは「ますます意味がわかんねえ」と頭を抱え、カグヤは「面白そうね」と妙に静かな声で呟く。シオンもその書物を手に取ってみたが、小さく虫食いのある紙にびっしり書き込まれた文字は、彼の“やる気”を明確に試しているようだった。
「けど……もう相当へばってるのも事実なんだよな。最近、あんま眠れてないし」
シオンは観念したように思いを吐露する。するとカグヤがちらりと彼を横目に見る。
「ふうん。じゃあ、やめるの?」
「やめるって……そういう意味じゃない。俺はただ……」
後ろで聞いていたタイガが「ちょっと休憩が欲しいってだけだろ。お前もわかるだろ?」とフォローを入れるが、カグヤの表情は固く、リリカも沈んだ様子だ。すると、いつも無口なスバルが、おずおずと口を開く。
「休む……もちろん大事。でも、皆……1級狙い、強い意志、あるはず」
言葉こそ拙いが、その瞳には熱がある。スバルの何気ない言葉で、部室に漂っていた重苦しい空気がわずかに和らいだようにも見えた。
しかし、新たな問題は別のところに起きていた。鑑定作業を進めるうちに、リリカが急に表情を曇らせたのだ。大切な古書をめくっている最中、紙の奥に微かな瑕疵(かし)があるのを見つけたらしく、しかもそれが致命的な破損に繋がる可能性があるのだという。
「私、ずっと祖父の蔵でこの本を保管してきたの。もし万が一、虫喰いが広がったら……取り返しがつかなくなるかもしれないわ」
まるで大切な宝物が危機にさらされているかのような青ざめた声に、タイガはぎこちなく肩を叩く。「気にすんなって。直し方とか、調べりゃわかるんじゃねえの?」
だが、リリカは首を振る。「曖昧(あいまい)な処置をして、却って紙を痛めるかも……。そう思うと怖いの」
彼女が沈み込んだ様子を見て、シオンはたまらず口を挟む。
「簡単には直せなくても、俺たちで手伝えることがあるんじゃないか? それに、この本って、あんたがずっと守り続けてきたんだろ。無駄にはならないさ」
必死に励ますつもりで発した言葉だったが、リリカの悲痛な面差しは晴れない。彼女はそっと本を閉じ、俯いたまま小さく息を吐いた。
カグヤも隅で黙り込んでいるが、視線はリリカの古書へ向けられている。横ではスバルが所在なげに立ち尽くし、タイガはどう声をかけていいのかわからない様子だ。すると、唐突にカグヤが重々しい口調で口を開く。
「……私だって知っているわ。大切にしてきた書物を少しでも傷つけられると、心まで抉(えぐ)られるような思いになるの。だからこそ、その痛みを軽減する方法を、一緒に考えていきましょう?」
意外にも思いやりが感じられる物言いに、リリカは目を潤ませながら弱々しく微笑む。「ありがとう。……あなたたちに手伝わせるのは気が引けるけれど、正直、心強い」
その場の空気は少しだけ柔らかくなったものの、疲れは確実にメンバー全員の心を乱しているようだ。かといって修行をストップするわけにもいかない。1級へのプレッシャーは日に日に増し、彼らの体力と気力を剥ぎ取っていく。
やがて、鑑定作業を再開したものの、カグヤが急に激しい口調でシオンを責め始めた。「なんでここを見落としてるの? こんなに明らかに変体仮名が紛れ込んでいるのに」
「別にわざと見落としたわけじゃない。集中が切れたんだよ」
「それが甘いのよ。私たち、合格するために集まったんでしょう?」
たちまち膨れ上がる不穏なムード。リリカが間に入りたいそぶりを見せるが、カグヤの剣幕は止まらない。
「あなたは少しでも真剣にやってるの? それとも、ただ‘カッコいい’とか言いたいだけ?」
その言い方にシオンは目を見開く。「言いすぎだろ。俺は本気でやってる。それはあんたが一番よくわかってるはずだろ!」
「わかってる? そんなの知らないわ。勝手に自分の浪漫とやらを押しつけてるだけじゃないの?」
言い争いを遮るように、タイガが「おい、いい加減にしろ!」と声を上げる。めったに感情を表に出さない彼の怒声に、部室内が静まりかえった。
「みんなぐちゃぐちゃになってるだろ。疲れすぎてピリピリしちまってる。そんなの分かってて言い合いを続けるのか? 意味ないじゃねえか」
カグヤは乱暴に視線を逸らし、シオンは机に拳を押し当てたまま黙り込む。すると、リリカがそろそろと立ち上がり、奥にあったポットで人数分のお茶を淹れ始めた。
「……ひとまず休憩にしましょう。落ち着いてから、話をしない?」
彼女の提案に全員が渋々うなずき、それぞれカップを手に取って腰を落ち着ける。苦味の強い煎茶が空気を静かにしてくれるのか、しばし沈黙が続いた。そこへ、誰ともなくスバルがぽつりとつぶやく。
「僕……なぜ漢字好きか、はっきり言ったこと、ない」
視線が彼に集中する。スバルは拙い言葉をゆっくり継ぎ足しながら、紙に何かを書き加えている。
「母国では……この文字、憧れ、崇拝(すうはい)に近い。漢字は深く、美しい。僕は書いていると、心が燃える」
日本語があやういせいで説得力が薄れそうだが、その真摯な声色は誰の胸にも真っ直ぐ届いた。
リリカが小さくうなずく。「そうね。私も、漢字が古来から受け継いできた歴史や文化を思うと、胸が震えるの。祖父から譲り受けた古書たちは、その結晶みたいな存在。だから、壊したくない、守りたい。……でも、一人じゃ無理なのよ」
続いてカグヤは視線を下に落としながら、「私……漢字っていう構造体に魅了されたの。とくに、歴史が紡いだ複雑な字形を見ると、自分がまだ知らない世界が無数に広がってるようで。だからこそ、妥協するのが嫌なの。浅はかな情熱で終わらせたくない、そう思ってる……」
声は控えめだが、その言葉には切実な響きがこもっている。隣のシオンは、これまで感じたことのない不思議な熱量を覚えながら、ゆっくり口を開いた。
「俺は単純に、漢字が格好いいから始めた。でもやっていくうちに、その奥にある壮大な歴史や、複雑な成り立ちにときめいてる自分がいる。合格すれば……そんな未知が少しでも掴めるんじゃないかと思ってるんだ」
言葉を交わすうちに、部室の空気はさっきまでの殺気立ったものから、一転して穏やかさを帯び始めた。タイガがタオルで汗を拭きながら目を閉じ、ひと息つく。
「まあ、俺は正直、そこまで漢字にロマン感じてねえ。でもな、こんなに真っすぐ突き進む連中を放っておくのももったいない気がしてきた。だからもうちょっと頑張ってみるわ」
そのひょうひょうとした言い方にシオンが苦笑いすると、リリカがふっと微笑んだ。
「ありがとう、みんな。まだ道半ばどころか入り口かもしれないけど……こうして話せただけでも、私、少しだけ前を向ける気がしてきたわ」
カグヤは難しそうな顔でカップを両手に包み込みながら、ゆっくりと上目遣いでシオンを見る。「さっきは悪かったわ。無神経なことを言って……。私も焦ってたのかも。あなたが妥協してるわけじゃないのに、私自身がそれを避けてたのかもしれない」
シオンは一瞬びっくりしたような顔をして、それから照れくさそうに首をかしげる。「いや、俺も言い返し方が悪かった。……お互い様だろ?」
二人のわだかまりが、少しだけ雪解けしたような空気に、タイガが「やれやれ」と笑い、スバルはほっとしたように頷いている。リリカは胸にしまいこんでいた不安を和らげるように、古書をそっと撫でていた。
いつもより短めの時間で部活を切り上げた彼らは、廊下の窓を覗いて驚く。外は、さっきまでの曇天が嘘のように晴れて、夕陽が朱色に校舎を染めていた。
「こんな景色も、久しぶりな気がするな」
シオンが呟くと、カグヤも同じ窓の向こうを見つめたまま、小さく息を吐いた。「そうね。ずっと曇り空ばかり見てた気がするけど、意外と太陽は近くにあるのかもしれない」
彼女の目には、疲れの合間から希望の光が差し込んでいるようにも見える。
そうは言っても、1級取得という目標は険しく、これからも苛烈な試練が待ち受けているのは変わらない。古書の保護問題も解決したわけではなく、メンバー個々の不安は尽きないだろう。だが、互いが抱える“漢字への思い”を初めて表に出せたことは、彼らにとって大きな一歩になるはずだ。
翌日の放課後、リリカが大切に保管していた古書の虫喰いを防ぐべく、メンバー全員で修復法を調べていた最中、気づけば窓の外が深い藍色に染まっていた。いつもならとっくに部活を切り上げて帰る時間だが、今日ばかりは妙な充実感に背中を押され、そのまま居残ってしまったらしい。
「なんか、月が綺麗だな……」
シオンが何気なくつぶやき、部室の窓を開け放つ。外は夜の静けさが増しているのに、空には不思議なほど明るい月が浮かんでいた。時折、雲がかすめて形を微かに歪めるが、むしろその揺らぎが神秘的に見える。
カグヤは遠慮なく窓辺に近づき、上着の袖をまくって夜風を受けながら、月をじっと見上げる。
「今夜の月、少し青みがかってる気がするわ。こういうのを、古典では《蟾宮(せんきゅう)》と呼ぶこともあるのよね。昔の人は月を、ときに‘宮殿’になぞらえて、その光を崇めていたと聞いたわ」
彼女の声は先ほどまでの険が削がれ、どこか穏やかな響きを持っている。窓の手前でスバルが首を傾げ、「サンキュウ……?」と怪訝な顔をするが、すぐに「蟾宮、月……」と呟いて納得したようだ。リリカはそのやり取りを見て、くすっと笑みを浮かべる。
「そうか。古来の伝承では、月の中には蛙(かわず)の姿をした仙人が住む、なんて言い伝えもあるからね。だから‘蟾’の文字が月を指すこともあるってわけ」
彼女の説明にタイガが「蛙……」と眉をひそめるが、どこか面白そうでもある。何かが腑に落ちたように「試験を乗り越えることを‘蟾宮に上(のぼ)る’って表現することもあるらしいぞ」と思い出したように口走った。
シオンは窓枠に肩を預け、夜空に浮かぶ月を見つめたまま大きく息を吐く。
「なんか、こうして見ると、不思議と余裕が出てくるな。俺たち、あれこれ大変だったけど……まだ続きはあるんだもんな。試験だって、修行だって、終わったわけじゃない」
前までの厳しい空気が、この月夜の下では嘘みたいに柔らかい。焦りや苛立ちが消え去ったわけではないが、それでも今だけは穏やかでいたい。それぞれの胸にまだ小さなトゲが刺さっているとしても、この夜風がほんの少し癒やしてくれるように感じられる。
「蟾宮……か。それぞれの想いを抱えたまま、いつかそこへ辿(たど)り着けるのかな」
カグヤがぽつりと漏らす言葉は、夜気に溶けるように静かだ。リリカは小さく頷いてから、丸テーブルの上に開きっぱなしになっていた古書をそっと閉じる。先ほどまで悩んでいた虫喰いの件も、大切なこの時間を思えば、乗り越える方法が見つかるかもしれないという気がしてくる。
タイガは少し照れくさそうに鼻をこすりながら、「月を見てちょっとやる気が出るって、お前ららしいよな」と低く笑う。スバルは「蟾宮……僕も、行きたい」とつぶやいて、また何やら紙に文字を書き込み始める。そこには一見して読めないような線が複雑に絡んだ文字が描かれ、彼の頭の中で新たな思考が芽吹いているのだろう。
部室の窓からそよぐ夜風に、全員の髪がわずかに揺れる。月の光は少し濁った雲を透かしているが、それすらも幻想的に映る。誰ひとりとして、すぐに帰ろうとは言い出さない。ただ、しばし蟾宮の光を見つめ、いつかこの漢字修行の頂点まで上り詰める光景を思い描いていた。蟾光(せんこう)宿る幽寂が、彼らの胸臆(きょうおく)に一縷(いちる)の新たな覚悟を映し出すかのように思われた。
番外編:「漢字バトル対抗戦 ― 五番勝負の熱狂!」
秋の夕暮れ、旧校舎の特設ステージには独特の緊迫感が漂っていた。そこにはシオンたち漢字オタク同好会のメンバーと、他校からやってきた“漢字マニア”の一団が向かい合っている。どうやら、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の五人制で行われる「漢字バトル対抗戦」が本格的に始まるらしい。勝負の内容は実に単純――各対戦相手が、一つずつ“インパクトの強い難読漢字”を提示し、その“印象度”を審査員が判定する勝ち抜き戦。なんともバカげているが、ここではその非常識こそが最大の見どころなのだ。
先鋒戦:
先鋒として相手校から出てきたのは、小柄ながら瞳に燃えるような闘志を宿した少女。彼女は深呼吸をひとつしてから、ホワイトボードへ素早く一字を書きつけた。
「欷歔(ききょ)」
まるで風を切るように書かれたその文字は、見たことのない画数と、どこか寂しげなニュアンスをまとっている。意味は“すすり泣く様”らしいが、耳慣れないこの字形は見た者の心を妙に揺さぶる。
一方、シオン側の先鋒はリリカ。彼女は品良く頷いてから筆をとった。先ほどまで笑みを浮かべていたが、今は視線が鋭い。
「なるほど、《欷歔》……なかなか趣深いわね。でも、こちらも負けないわよ」
淡々と筆を走らせ、リリカが書いたのは妖艶な気配を漂わせる一字。審査員が近づいて覗き込むと、紙にはこう記されていた。
「罨(あん)」
読みだけでなく、その字が放つ不気味ともいえる迫力に、先鋒同士が火花を散らす。二人とも難読漢字を選んだだけでなく、字形の美しさにもこだわっているようだ。見ている人々の間から、思わずどよめきが起きた。
しばし審査員が“印象度”を測り、採点を集計。結果はリリカ側の《罨》に軍配が上がる。「あの奇怪な画数が目に焼きついた」「読めないどころか、何だかゾワッとする強烈な字形」といった評価らしい。
先鋒戦はシオンたちの勝利。会場は拍手と歓声に満ちた。
次鋒戦:
続いて登場したのは、相手校でいちばん背の高い男子。どう見ても運動部風なのに、手元には漆塗りの筆を構えているのが妙にシュールだ。
「俺の番だな。じゃあ、イカれた漢字をお見せしよう」
彼は躊躇なくホワイトボードに書きつける。
「驫馬(ひょうば)」
書き終えた瞬間、周囲から「馬が三つ!?」と驚きの声が飛ぶ。その馬三頭が重なったような“驫”は、見慣れない者にとって強烈なインパクトを与えることは間違いない。
それに対するはスバル。日本語がやや拙い彼だが、黙々と自前の紙に独特の書体で大きく一字を記す。
「……燼滅(じんめつ)……」
どうやら“燃え尽きて灰になる”ような意味をもつ二字熟語らしいが、篆書(てんしょ)体に近いカーブが相まって不気味な迫力を漂わせている。馬三頭の《驫馬》と、炎の残骸を想起させる《燼滅》。どちらも重々しい印象の漢字たちだ。
審査員たちは悩みに悩んだ末、「イメージしやすいインパクト」という点で《驫馬》を勝者に選んだ。“馬の暴走感”がより視覚的で分かりやすい、というのが理由のようだ。こうして次鋒戦は相手校が取り返す形となる。
中堅戦:
一勝一敗の拮抗(きっこう)した状況で登場したのは、運営役の指示で「雰囲気を変えたい」と手を挙げたカグヤ。相手校からはロングヘアの気迫ある少女が歩み出て、まるでライバル同士のように視線を交わす。
先攻は相手校の少女。紙にひと筆で鮮やかに刻みつけたのは、
「瀰漫(びまん)」
どこか霞が広がるような字体と意味を内包した熟語。部屋じゅうに霧が漂うイメージを喚起させるようだ。うっとりするほど流麗な筆跡に、観客から感嘆の声が漏れる。
「悪くないわね」
カグヤはそうつぶやくと、これまで見たことのないほど色気のある微笑をたたえ、スッと筆を走らせた。
「欷歔や驫馬に比べても見劣りしないわ。私の一手はこれ……」
書かれた字は、
「黼黻(ふふつ)」
左右対称を意識したような筆遣いで、より一層不可思議な魅力を放っている。あまり耳にしないこの語は、“礼装や模様に使われる特殊な織り模様の呼び名”として知られるが、周囲にはピンと来ない人が多いらしい。
しかし、そのレア度とビジュアルのインパクトには圧倒的なものがあった。判定はカグヤの勝利。中堅戦はシオンたちがリードを取り戻す。
副将戦:
2対1とリードを奪ったシオンチーム。だが油断はできない。相手校も本気を出してきたのか、急に陽気な男子が副将として前に出る。ハイテンションな掛け声とともに提示されたのは……
「瓊蘂(けいずい)!」
「これぞまさに宝石のような文様!」などと大声でアピールしている。ごちゃごちゃと画数の多い二字が合わさり、見ただけで“何か高級そう”という雰囲気を発していた。
副将を務めるのはタイガ……ではなく、なんとリリカが指定したのはシオン自身。「お前、まじで俺が副将!?」とタイガが文句を言うが、どうやらリリカいわく「シオンの漢字センスが一番“普通”だからこそ、副将で勝負を決めるのが狙い」らしい。
そう言われたシオンは困惑しながらも、用意された半紙に向かう。心臓がバクバクするが、ここで逃げるわけにはいかない。目を閉じ、深呼吸一回――そして筆を下ろす。
「俺の難読漢字は……」
ぐいっと力を込めて書いたのは、
「罨(あん)……じゃない、あれはリリカが使ったし……何を書くんだ!?」
――と、焦りつつも間違いを犯すわけにはいかない。実はもう一枚の紙にあらかじめ書きかけていた候補があった。思い切って筆を滑らせて完成させたのは、
「廛闐(てんでん)……!」
小声で読みを添えながらシオンはホワイトボードに貼り出す。こちらは“商店や家々がぎっしりと詰まっているさま”を示す、非常にレアな表現だ。画数の多さだけでなく、濃密な雰囲気を漂わせる文字列がインパクト抜群。
相手の《瓊蘂》も豪華絢爛な印象だが、審査員の判定は「この《廛闐》の方が脳裏に焼きつく」とのことで僅差ながらシオンに軍配が上がる。これにより対戦成績は3対1で、シオンたちの勝利が確定。大将戦を残さずして勝負は決まったかに思われた。
大将戦:
しかし、最後の大将戦も儀式的に行おうじゃないかという流れになり、両校とも大将がステージ中央へ。タイガは「やっぱり俺が大将なのかよ」と渋い顔をしながら、相手校の大将と対峙する。
相手校の大将は、いかにも冷徹そうな眼差しをもつ青年。彼は無言のままノートを開き、確信的な筆致で一字を提出する。
「嶄絶(ざんぜつ)」
“山がそびえ立って他を寄せ付けない”イメージを持つ二字だという。その鋭いスパイクのような文字形に、見ている者の息が詰まる。
「えーと……俺はこういうの苦手なんだが……負けるわけにもいかねえしな」
タイガはまともに勝負する気がなさそうだったが、周りの応援に後押しされ、仕方なく筆をとる。普段はシオンのサポート役に回っていた彼だけに、みんなの期待値はそこまで高くない。
だが、何を血迷ったのかタイガは筋肉で培った安定感を活かして、ブレない字を書き上げてしまう。
「薨去(こうきょ)! ……ってなんだよこれ、全然わかんねえけど、漢字辞典で見つけたときに“お、スゲー”って思ったんだよな」
“身分の高い人が亡くなる”ことを意味するらしいが、観客は「えっ、そんな意味なの!?」と動揺が走る。しかし、字形の難解さと重々しいニュアンスがなんとも言えない衝撃を与え、しーんと静まり返った会場に独特の雰囲気が漂った。
審査員は「やはり意外性で言えばこちらが勝りそうだ」と一言。結果、大将戦はタイガの《薨去》が勝利となり、最終的には4対1という圧倒的スコアでシオンたちの漢字オタク同好会が勝ち名乗りを上げる運びとなった。
会場には拍手もあれば、唖然とした顔もある。そもそも何がどう凄いのかイマイチわからないまま、熱狂と脱力が入り混じった空気が生まれるあたりが、この「漢字バトル対抗戦」の醍醐味(だいごみ)なのだろう。
難解漢字という黒々とした深い森のような世界で、互いに一歩も譲らずに競い合った先鋒から大将までの五番勝負。その狂騒のなかで、誰もが本来の常識を吹き飛ばし、ただ字形の美と異様さに身を委ねていた。
立ち尽くす観衆の視線を浴びながら、シオンたちはその勝利を噛みしめつつ、同時に文字が持つ底知れぬ魅力を改めて感じていた。雄々(おお)しくも怪しげな画数たちが織りなす光景は、さながら深淵へ続く階段のよう。それはまるで《悍騰(かんとう)》の渦に巻き込まれたような、ひとときの奇妙な祝祭だった。
第5章:「いざ、試験当日! そして運命は…」
実はその朝、シオンはいつもより早く家を出た。漢字検定1級の試験当日、約束の集合時刻よりだいぶ余裕を見込んだのに、心臓の搏動(はくどう)が尋常ではない。眠ったようでほとんど眠れず、脳裏にはこれまでの修行の光景が朧気(おぼろげ)に揺れている。
駅前でタイガと合流すると、彼は赤いハチマキを巻いていた。
「な、なんだその出で立ちは?」
シオンが愕然(がくぜん)と問いかけると、タイガは気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「いや、こうでもしねえと気合いが入んねえんだよ。だってお前らの漢字修行、正直、俺の常識を超えすぎてて……最後は根性頼りだろ」
確かに珍妙な姿だが、その胸に宿る熱意は隠せない。シオンは半笑いになりながら、「まあ、ジンクスなんてそんなもんだよな」とうなずいた。
しばらく歩くと、今度はカグヤが小さな枕を抱えて待ち構えている。
「何それ……?」
タイガがぎょっとした顔をするが、カグヤは冷ややかに肩をすくめた。
「試験の合間に少しでも脳を休ませるための道具よ。短時間の微睡(まどろ)みが記憶の定着を高めるって聞いたから、準備しておいたの」
「なるほど。徹底してるな」
あまりに真剣すぎて、シオンまで焦りを覚える。しかしカグヤは視線を外し、「あなたたちもせいぜい怺(こら)えてちょうだい」と小声で言い放った。彼女なりの気遣いかもしれない。
リリカとスバルも加わり、五人で会場へ向かう電車に乗る。静かな車内で、彼らの胸には緊張が滔滔(とうとう)と押し寄せていた。リリカは祖父の古書を大事そうに抱え、スバルはカバンにぶら下げたお守りをそっと擦っている。タイガは「腹減った……」とぼやくが、誰もまともに取り合わない。シオン自身も心が上ずっているのを自覚していた。
電車を降りた途端、シオンは試験会場から放たれる独特の緊迫感に圧倒された。そこここに「1級」の文字が印刷された受験票や問題集を片手にした人々がいて、その空気からしてもはや“並み”の試験ではない。
「まさにラスボスって感じだな……」
タイガがぽつりと呟くと、カグヤは小さく頷き、「ええ、今さら逃げられないけどね」と目を細めた。恐れよりも、“未知”に惹かれるわくわくさえ宿っているようだ。
実際、1級は“常識外”と呼ぶにふさわしい難度だった。熟字訓(じゅくじくん)や当て字まで網羅され、たとえば「海月(くらげ)」「猪口(ちょく)」など、日常にない単語が平然と並ぶ。さらに、難読四字熟語も容赦なく登場するらしい。
「五風十雨(ごふうじゅうう)」「鷹視狼歩(ようしろうほ)」「鞭辟近裏(べんぺききんり)」――一度書けと言われても、どの画から取りかかるか迷うほどだ。故事成語やレア熟語も例外ではなく、普通の国語辞典では引ききれないような単語が出題されることも珍しくない。
「怖いくらいだよな。読むだけでも混乱しそうな熟語がズラッと並ぶんだぜ?」
タイガが眉をひそめると、リリカは淡い笑みを浮かべて、「でも、それこそが1級の醍醐味よ。自分が知らない世界がまだまだあるって、ちょっとロマンを感じない?」と語る。その声には、祖父譲りの古書への愛着と、漢字という“海”を自由に探検できる喜びが混ざっていた。
会場の椅子に腰を下ろしてからも、シオンの耳には周囲の受験者の声が断片的に飛び込んでくる。
「最近は読み書き中心とはいえ、難読当て字が多いらしいぞ」
「四字熟語は大幅に増えたって聞いたな……意味まで知らないと厳しいとか」
「準1級じゃ満足できなくなったから、ここまで来ちまったよ」
皆それぞれ不安と期待を抱いているのが伝わってくる。カグヤは席に座ったまま目を閉じ、これまでの地獄のような修行を思い起こすように静かに呼吸を整えていた。
やがて試験官の合図で問題用紙が配られると、教室の空気がビリビリと張り詰める。シオンが紙面を開いた瞬間、そこには日常を大きく逸脱した漢字の山が怒涛の勢いで迫ってきた。
「うわ……こりゃ本当にすげえ……」
思わず息を吞む。〈黠鼠(かっそ)〉や〈蹙眉(しゅくび)〉など、普段絶対に使わないような熟語が堂々と並ぶ。読みを問うだけでなく、書き取りでも罠が潜んでいそうだ。隣からカグヤの小さな笑い声が聞こえた気がしたが、シオンは焦りを振り払ってペンを走らせる。
――こんなの、まるで未知の深淵だ。だが、それこそが“1級のラスボス”らしさなのだろう。熟字訓や当て字、難読四字熟語や故事成語、そしてレア熟語の総攻撃。半端な覚悟では突破できない最終試練が、ここに凝縮されている。
「でも、これまで俺たちは、めちゃくちゃな修行をしてきたんだから……やるしかねえ!」
息を詰めたシオンは、脳裏に無数の暗記カードと部室での猛勉強を思い浮かべながら次々と回答欄を埋めていく。ペン先がわずかに震えるのを自覚しながらも、奇妙な高揚感がわき上がるのを抑えられなかった。
1級はやはり“最終ボス”に相応しい。しかし、だからこそ、ここまで食らいついてきた努力と情熱が確かなものになる――そんな妙な確信が、教室の張り詰めた空気の中でシオンを奮い立たせていた。
終了の合図が鳴ると、五人は机に突っ伏しそうになるほどの疲労に襲われた。肩が軋(きし)み、指が震え、頭の中は白濁したようにぼんやりしている。
「お、お疲れ……俺、生きてるのかな」
タイガが息も絶え絶えにつぶやき、カグヤは額の汗を拭いながら「本当にしんどかった」と吐息を漏らす。スバルは「難……淵(えん)深」と片言で呟き、リリカはホッとした表情で「まだ結果はわからないけれど、やりきったわ」とささやいた。
シオンは試験監督の指示に従って筆記用具を片付けながら、不思議な恍惚(こうこつ)と虚脱感が同居しているのを感じる。全身が鳴動(めいどう)したような疲労に包まれつつ、何かが甦(よみがえ)るような高揚もあった。
「やっと……終わった、か」
そう呟いた瞬間、視界がじんわり滲(にじ)む。これまでの修行と苦闘が脳裏を駆け巡り、一時的な感泣(かんきゅう)さえ押し寄せそうだ。
会場を出た五人は、誰からともなく顔を見合わせる。いつもの部室ではない場所なのに、その空気は確かに同好会のそれと同じだった。
「どうだった?」
シオンが問いかけると、タイガは深く息を吐く。
「正直、半分も解けたか怪しい。けど、不思議と悔いはねえんだよな」
「私も、半分行ってるかしら……」
リリカが自嘲気味に微笑み、カグヤは静かに目を閉じる。「精一杯やった。それだけは言えるわ」と低く応じた。
スバルはカバンから篆刻(てんこく)のような文字が刻まれた紙片を取り出し、言葉少なに差し出す。「みんなで…持って」そこには「昇華(しょうか)」を思わせる独特の書体が記されていた。
「ありがとう、スバル。これ、宝物にするよ」
シオンが言うと、スバルはわずかに顔を赤らめて頷く。
「結果が届くのはまだ先だけど……ちょっと一緒にご飯でも食べて帰らない?」
リリカの穏やかな誘いに、カグヤは「いいわね。今日はたくさん脳を使ったから、栄養を補給しないと」と賛同する。タイガは「やっと飯か」と歓喜し、スバルも「賛成…僕、空腹」と頬を緩めた。シオンはそんな光景に目を細めながら、「じゃあ決まりだな」と笑みをこぼす。
その夜、家に帰りついたシオンは、疲れですぐに倒れ込みそうだった。だが、布団に潜っても目が冴えてしまい、試験の問題や仲間たちの顔が脳裏を巡る。すると、不思議な高揚感がこみ上げてきた。
「ああ、終わったんだ。本当に終わったんだ……」
声に出してつぶやくと、部屋の暗がりでじわりと涙が浮かびそうになる。しかし、それは悲哀ではなく、欣快(きんかい)に近い感情。やりきった充足感と、まだ見ぬ未来への期待が入り混じり、胸を熱くする。これまで培った漢字への情熱は、終わりではなく、また新たな扉の前に立たされているのだろう。
あのマニアックな仲間たちと過ごした日々を思い返すと、半ば狂気じみた修行や挫折寸前の対立でさえも、今では愛しく感じられた。結果がどうであれ、この体験はきっと彼らの青春の煌(きら)めきそのもの――シオンはそう信じて疑わない。
「合格してるといいな……いや、どんな結末でも、後悔はない」
かすれた声でそうつぶやき、シオンはゆっくりまぶたを閉じる。疲労の波が一気に押し寄せ、深い眠りが意識を包み込んだ。
夜の静寂のなかで、これまでの修行と試験のすべてが、シオンの意識を満たしていく。結果がどう転ぼうと、仲間と踏破した道程こそが揺るぎない勲章だと確信しながら、彼はほんのりとした充足感に身を委ねる。部屋の窓から差し込む僅かな街灯の光が、その勲章をそっと照らしているかのようだった。
最終章:「漢字の向こう側へ」
翌週の月曜、朝から雲行きが怪しく、驟雨(しゅうう)が校庭を叩きつけるように降っていた。試験から十日以上が経ち、それぞれがやきもきした思いを抱えていたが、ついに漢字検定1級の結果が学校へ届くという噂が広がっている。
シオンは昇降口を入ってすぐの掲示板に目をやると、既に数名の生徒が貼り出された封書を覗き込んでいた。しばらく様子を見ていると、リリカが傘を畳みながら駆け寄ってくる。
「見た? どうやら成績通知書がまとめて担任に渡されてるみたい。あとで呼び出されるかもね」
彼女の声には上品な冷静さがあったが、その瞳はどこか落ち着きを欠いている。
廊下を歩いていると、カグヤが傘を片手にこちらへ近づいてくる。外の雨に濡れた黒髪が首筋にしずくを落とし、まるで叢雲(むらくも)のように艶めいて見えた。彼女はチラリとシオンを見たあと、無言のまま少し先を歩き出す。リリカは笑みを含んだ視線でその様子を眺めている。
「気になるなら、声をかけてあげれば? 今朝からずいぶんそわそわしてるみたいよ」
リリカがそう囁くと、シオンは気恥ずかしさに軽く頬を抑える。自分もまた、忸怩(じくじ)たる思いを抱えていた。試験の出来は微妙で、合否の可能性に胸が乱されているのは事実。けれどそれ以上に、先日からのカグヤとの妙な空気を持て余していた。あの夜、月を見上げながら交わしたささやかな視線の温かみが、頭から離れないのだ。
朝のホームルームが終わり、担任の先生が成績通知書を大切そうに抱えて教室へ入ってきた。その瞬間、教室全体がざわめく。やがて名前が呼ばれた生徒たちが順に前へ出て受け取っていくが、漢字検定1級を受けたのはシオンたち数名だけらしく、とくにクラスメイトの視線が集中していた。
「神木、烏丸、下鴨、そして留学生の摩天くん、あと……虎尾は別室で待機って言われてるわね」
先生が戸惑い気味に告げると、シオンはなんだか胸騒ぎを覚える。タイガは別の教室か。実は漢字検定の受験票の名前にミスがあったとか、そういう話をしていたのを思い出す。
一足先に職員室へ呼び出されたシオンとカグヤ、リリカ、スバルは廊下で結果の紙を開く。まるで一斉に宝箱の蓋(ふた)を開けるようだった。
「やった……合格……」
リリカの瞳が潤んでいる。彼女の紙には鮮やかに「合格」の文字が印字されていた。スバルも、日本語がたどたどしいまま「僕……合格。漢字……燃えた」と呟き、手の震えを抑え切れない。
カグヤは紙をじっと見つめていたが、そっと息をついて小さく頷く。合格通知のその文字が、彼女のこわばっていた表情をわずかに崩している。
シオンは……受験番号の横に書かれた結果を見て、一瞬頭が真っ白になる。合格だ。恐る恐る紙面を撫でても消えることはなく、現実としてそこに刻まれている。
「俺……受かったのか……」
そのつぶやきに、カグヤが薄く笑みを刻む。「どう? あなたのロマン、ちゃんと形になったでしょ」
シオンは喜びより驚きが先立ち、言葉が出ない。たとえぎりぎりだとしても、あの苛烈な修行と試験を乗り越えた結果がここにあるのだ。浮足立ってしまいそうになるが、ふとタイガのことを思い出す。
「……そうだ、タイガは?」
四人が声を合わせて探し回ると、別室の前のベンチでタイガがうなだれていた。顔を上げると、思いのほか晴れやかな苦笑いを浮かべている。
「残念ながら不合格だってさ。でも、正直ほっとしてる。俺、漢字なんてやっぱりよく分かんねえし。けど……悔しくはない。意味不明なくらいの勉強量だったのに、よくここまで付き合ったなと思うと自分を褒めてやりたいよ」
タイガの言葉に、シオンは胸がいっぱいになる。書き込み式の問題に苦戦しながらも、最後まで走り続けた姿を間近で見てきたからだ。
「お前、一度も逃げなかったもんな。ちゃんと最後まで俺たちに付き合ってくれて……ありがとう」
シオンがそう口にすると、タイガは照れくさそうに頷く。「イカれた漢字オタクどもの熱量が意外と居心地よかったんだ。……これからも、俺はお前らを応援する。まあ、1級は真っ平ごめんだけどな」
それから放課後、同好会の部室へ戻った五人は、リリカが用意したお祝い用のお菓子を囲んで穏やかに過ごしていた。思わぬ合格報告が続いたことで、いつもに増して笑い声が絶えない。
ただ、カグヤはどこか落ち着かない様子で窓の外を見つめている。シオンはそんな彼女にそっと近づき、視線を同じ方向へ向けた。
「どうした? やっと目標を達成できたんだし、喜んでいいんだぞ」
するとカグヤは横目でシオンを見て、小さく首を振る。「違うわ。喜んでるわよ、もちろん。でも……これで終わりじゃない、と思うの。せっかく1級を取れたっていうのに、まだ私の知らない漢字が、もっともっと無数にあるでしょう?」
シオンは思わず笑みを漏らす。
「俺も同じことを考えてた。合格がゴールじゃなくて、ここからが本当の冒険なんじゃないかって」
二人が小声で話していると、タイガが口を挟む。「おーい、なんかもう次の特訓を考えてるのか? 勘弁してくれよ!」
リリカは微笑みながら、「私も、祖父の蔵にまだ読めていない古書がたくさんあるの。これからゆっくり探検しましょう?」と声を弾ませる。スバルは相変わらず無言だが、嬉しそうに頷いて紙に新しい文字らしきものを綴っている。
「漢字なんて日常じゃ使わないだろう?」と周囲から思われるかもしれない。だけど、彼らはそんなこと気にしない。むしろ、その常識から外れていることこそが最大の魅力だと知ってしまったのだ。
カグヤが窓の外に目をやると、さっきまで降っていた驟雨がやみ、薄日が射し始めている。雨の雫で濡れたグラウンドが淡い輝きを放ち、まるで彼らの未来を照らす舞台のように見えた。
シオンはその光景を確かめるように眺め、それからカグヤに向かって自然に笑いかける。まだぎこちなさは残るものの、その笑顔にはしっかりと“次”へ踏み出す意志がある。
「これからも、俺たちのロマンは続いていくんだな」
大仰な言葉を吐くシオンを、カグヤは横目で睨むようにしてから、けれど口元を少し緩める。「ええ、たぶん終わらないわ」
リリカとスバルも楽しげに頷き、タイガは溜息混じりに「まぁ、そいつも悪くない」と呟いて肩をすくめる。
厚い雲は晴れ始め、午後の光が窓から部室を満たしていく。テーブルの上に広がる古書やノート、そして合格証が並ぶ光景は、どこか言葉にならない高揚感をもたらす。自分たちが選んだ不思議な漢字の世界――それは単なる試験合格に留まらず、その先へ延々と続いていく道なのだと、誰もが感じていた。
これから先、どんな珍妙な漢字に出会うか。新たな目標や、さらなる無茶な修行が彼らを待ち受けているに違いない。しかし、誰もが心の底で思っている。ならばこそ漢字は面白い、と。
カグヤが微かに笑みを浮かべ、シオンはそれに応えるように胸を張る。彼らの視線の先には、無盡蔵(むじんぞう)のロマンが広がっている。必ずや、あの唐突無稽(とうとつむけい)なる修行を共に凌駕(りょうが)した紐帯(ちゅうたい)があれば、いかなる幽邃(ゆうすい)なる難字といえども踏破し得るという予感が胸奥に漲(みなぎ)った。