
虚構のマトリョーシカ
第1章:英雄再誕の彼方へ
かつて、この世界は光に満ちていた。
神々の加護を受け、人々は笑い合い、穏やかな日々を過ごしていた。しかし、その平和は突如として破られた。
『災厄の闇』——天を裂き、大地を呑み込む漆黒の波動が現れ、あらゆるものを滅ぼしていったのだ。王国は崩壊し、民は絶望に打ちひしがれ、光は永遠に失われた。
だが、伝説はこう語る。
「世界が闇に堕ちた時、選ばれし勇者が現れ、すべてを救うだろう」
その勇者の名は——リオン。
「はぁ……疲れた。そろそろ休んでいいかな?」
リオンは草原に寝転がり、太陽を見上げてあくびをした。
黄金の髪が風に揺れ、白銀の鎧が太陽の光を反射する。その横で、仲間の魔法使いリシェルがジト目で彼を睨んだ。
「……リオン、少しは危機感を持ったらどう? この世界は闇に包まれているのよ?」
「そう言われても、闇の魔王を倒すまでに何回も旅してるんだし、たまには休憩だって必要だろ?」
「……“何回も”? それに休憩なんてしたら、魔王軍が迫ってくるわよ!」
リシェルのツッコミを受けながら、リオンはへらりと笑う。
彼は自らの天命を知っていた。
そう、彼は伝説の勇者。世界を救う使命を持つ、選ばれし者なのだ。
……のはずなのだが。
「魔王城は、この先の崖を越えた向こうだ!」
仲間の剣士グラムが、力強く叫ぶ。これで三度目の「魔王城がこの先」発言だった。
リオンは小首を傾げた。
「あれ? 前もそんなこと言ってなかった?」
「……言ったか?」
「うん、言ったね。でもその時は魔王城に着いた途端、崩れて消えちゃったんだよな」
「……そんなことはないはずだ。今回こそ本物だ」
グラムの表情が少し引きつっているのを見て、リオンは首を傾げた。
「……ねぇ、これってデジャヴじゃない?」
その瞬間、草原に突風が吹き荒れた。
遠くに見える黒い塔——魔王城。
「行くぞ、リオン!」
リシェルとグラムが声を揃える。リオンは「しょうがないな」と腰を上げた。だが、その足元の大地が一瞬だけ“歪んだ”気がした。
彼は何かを言いかけたが、すぐに口をつぐむ。
(なんだろう……この感覚)
魔王城へ続く階段は、異様なほどに「完璧」だった。石畳の一つ一つが、まるで定規で測ったかのように並んでいる。
「なぁ、これって本当に人間が作ったものか?」
「何言ってるのよ! 魔王軍の仕業よ!」
リシェルがそう返したが、リオンは引っかかるものを感じていた。視界の端に見える空が、どこか「紙のように薄い」。
ついに、魔王の間に到達する。
「ついに来たか、勇者リオン!」
玉座に座る魔王が、深く低い声で言い放つ。しかし、その姿はどこか曖昧で、影が薄い。
リオンは剣を構え、魔王に向かって歩み寄る。
だが、その時。
「魔王城は、この先の崖を越えた向こうだ!」
「……え?」
リオンは足を止めた。
先ほど聞いたはずの言葉が、まるで録音を巻き戻したかのように聞こえたのだ。
「ちょっと待って……さっきもう、ここに来たはずだろ?」
仲間の二人は無言で立ち尽くし、顔が影に隠れている。
リオンは剣を握る手を震わせながら、天井を見上げた。
「——この世界は、おかしい」
その瞬間、空に巨大な文字が浮かび上がる。
『終章:勇者リオン、世界の真実を知る』
リオンの手から剣が滑り落ちる。
そして世界が、突然、途切れるように「真っ白」になった。
第2章:作家の卵・神崎透
落選通知が届いたのは、曇り空の午後だった。
メールの件名には「第◯回ライトノベル新人賞審査結果のお知らせ」と無機質な文字が並んでいる。それを見ただけで、胃の奥がじわりと冷たくなる。震える指でクリックした画面に表示されたのは——
「残念ながら、貴殿の作品は入賞には至りませんでした。」
その一文。
神崎透は何度も瞬きをした。画面の文字が、ぼやけて見える。
「は? ……ふざけんな」
部屋には彼の呟きだけが、冷え切った空気に響いた。
椅子の背もたれに体を預け、デスクの上に置かれたノートパソコンを睨みつける。その向こうには、乱雑に積まれた原稿用紙の束がある。
表紙には、はっきりと手書きのタイトルが書かれている。
——『英雄再誕の彼方へ』。
「なんで、これが落選するんだよ……」
目頭を押さえながら、神崎は顔を歪める。彼が費やした時間と労力が、一瞬で無に帰したような気がして、胸の内で何かが崩れそうになる。
「これ以上の作品が書けるのか? ……いや、書けるはずがない。これが本物なんだ」
そう呟いても、メールの文字は消えない。それどころか、彼の意識を苛立たせるかのように、その下には「審査員からの講評」という項目がある。
冷たい指でスクロールし、その言葉を目にした瞬間、彼の中で何かが“ぶつん”と音を立てて切れた。
講評
「全体的に設定の粗が目立ちます。物語の導入は王道的で興味を引きますが、いくつかの場面でキャラクターの行動が不自然に感じられます。例えば、魔王城への道を繰り返し『この先の崖を越えた向こう』と表現しており、場面転換の冗長さと物語の進行が停滞しています。また、魔王との対面シーンに至っては、空に『終章』と書かれた文字が浮かぶなど、物語内のリアリティを壊す違和感のある描写です。」
「……リアリティ?」
神崎の唇が引きつる。
「ふざけんな……リアリティがない? お前ら、何を求めてるんだよ!」
拳が机に叩きつけられる。パソコンの画面が揺れ、積み上げられた原稿が崩れる。神崎の息は荒く、目は真っ赤だ。
「これが落選? こんな完成度の高い作品が?」
彼は講評をもう一度読み返す。
「設定の粗? ……王道が駄目だって言うのか? 不自然な行動? それはあいつらが理解していないだけだ。魔王城が何度も同じ場所にあるのは、物語の構造を示唆するメタファーだ! 空に『終章』と書かれるのは……これは読者に対する挑戦だ!」
自分でも声が震えているのが分かる。だが、その震えは恐怖ではなく、怒りだ。
誰も理解していない——この作品の真価を、誰も。
「……おかしいのは俺じゃない。おかしいのは、こんなゴミみたいな審査をする業界だ」
神崎は呟く。ふと視界に入ったのは、書斎の壁に貼られた応募要項の紙だ。
「“次世代を担う新たな才能を発掘する”……? 何が次世代だよ。あいつらが欲しいのは、ただの無難な作品だろ」
彼は大きく息を吸い、手元に落ちた原稿の一枚を掴んだ。タイトルの「英雄再誕の彼方へ」の文字が、彼の目には燃え上がるように見えた。
「これは、世界を変える作品だ……絶対に」
だが、その「世界」を変えようとする自分を拒んだ出版社に対して、怒りが膨らんでいく。
目の前の景色が、ひび割れていくような錯覚。
「こんな連中に、この作品の価値は分からない……ならば」
神崎の目が、冷たく光った。
夜の闇が、カーテンの隙間から部屋に入り込んでいる。
机の上には、「英雄再誕の彼方へ」の原稿。そしてその横には、神崎が手書きで書き込んだ出版社への地図が広がっていた。
手に持ったペンが、カリカリと紙に何かを書き付ける。
「落選した作品が本物なら、それを証明する方法は一つしかない」
彼は呟き、ペンを置いた。
——証明する。世界が間違っていることを、全ての人間に知らしめる。
神崎はゆっくりと立ち上がり、机の引き出しを開けた。そこには、日用品ではない何かが隠されていた。
「俺は間違っていない。間違っているのは、この業界の方だ」
その夜、彼の部屋に静寂が戻ったが、そこにはどこか不自然な空気が漂っていた。
カーテンの隙間から覗く夜空は、奇妙なほど「平面的」な闇に覆われていた。
彼の手には、ラノベの原稿と地図が握られている——まるで儀式の証のように。
第3章:ホワイダニットミステリー小説『影の筆跡』
死体が発見されたのは、出版社ビル裏手の狭い路地だった。
警察が現場に到着した時、男はすでに冷たくなっていた。額には鈍器による致命的な一撃。背中には不自然に破れた薄手のジャケット。両手には何かを強く握りしめた跡があり、周囲には焦げ臭い匂いが漂っていた。
被害者の名前は、神崎透。
小説家を志す無名の若者であり、応募作が落選したばかりの作家の卵だった。
「奇妙な事件だな」
探偵・月村剛はそう呟きながら、現場を見下ろした。彼の足元には、捜査員が拾い上げた一冊の原稿が落ちている。雨に濡れて一部が滲んでいるが、表紙にははっきりと書かれていた。
——『英雄再誕の彼方へ』
「被害者が手にしていたものです。ラノベの原稿だそうですよ」
捜査員が皮肉交じりに言う。月村は眉をひそめ、その束を手に取った。冷たい紙の感触と、無機質なタイトルがやけに指先に重い。
事件の発端は、出版社に仕掛けられた爆弾未遂事件だった。
前日、神崎透は出版社に向けて犯行声明とも取れる内容をメールで送り付けている。
「世界に真実を示す。お前たちの罪を明らかにする日が来た」
現場となった出版社ビルの駐車場で、警備員が不審な鞄を発見し、爆発物処理班が駆けつける騒ぎとなった。しかし、鞄の中には爆発装置未遂の形跡だけが残されており、実際には起動する仕組みにはなっていなかった。
だが、その翌日——神崎透は殺された。
「つまり、動機は逆恨みというわけだ」
月村は警察からそう聞かされながらも、どこか腑に落ちない表情を浮かべていた。
「それにしては、事が妙に整いすぎている」
「整いすぎ?」
「ああ。原稿、爆弾未遂、そして死体の発見。まるで誰かが筋書きを書いたように進んでいる」
月村は手元にある『英雄再誕の彼方へ』のページをめくった。
——“魔王城は、この先の崖を越えた向こうだ!”
目が滑るように読み進める。しかし、そこで彼は違和感に気づいた。
「……同じセリフが二度出てくる?」
「探偵さん、ラノベなんてそんなもんでしょ? 読んだことあります?」
捜査員が笑うが、月村は真顔だった。
「この物語は、何かを繰り返している」
まるで「筋書き」が狂っているかのように。
神崎透の部屋に踏み込んだ月村は、異様な光景に息を呑んだ。
壁一面に、異世界の地図らしきものが貼り付けられ、赤いペンで「魔王城」「崖」「終章」といった文字が何度も書き込まれている。その中には、出版社ビルの図面まで混じっていた。
「……おかしいな」
彼の手があるノートに触れる。そこには、日記のような文字が乱雑に記されていた。
「魔王城はこの先の崖を越えた向こうだ。」
「繰り返している、繰り返している、繰り返している……!」
その文字がページを埋め尽くすほど、異様なまでに書き込まれている。
「これは……何を意味している?」
月村は眉間にしわを寄せた。
「まるで、誰かがこの世界のシナリオを書いているとでも言いたげだな」
事件の真相は闇に包まれていた。
神崎透はなぜ爆弾を仕掛けたのか。なぜ出版社を標的にしたのか。そして誰が、なぜ彼を殺したのか。
だが、月村には一つの仮説があった。
彼は部屋に戻り、崩れかけた『英雄再誕の彼方へ』の原稿を手に取る。そして、ラストのページをゆっくりとめくった。
そこには、勇者リオンが天井を見上げ、叫ぶシーンが書かれている。
「俺たちは……誰なんだ!?」
その瞬間、月村の脳裏にある言葉が浮かんだ。
「この物語は……現実を書き換えているのか?」
彼は息を詰め、無言で原稿を閉じた。
「すべては書かれた物語ではないのか?」
誰が書いたのか、誰が筋書きを作ったのか——その答えは、闇の中に沈んでいた。
部屋の窓から差し込む月明かりだけが、静かに原稿を照らしていた。
第4章:論文『虚構の迷宮:ホワイダニット小説におけるメタフィクションの試み』
はじめに
近年のライトノベルおよびメタフィクション作品において、物語と現実の境界を曖昧にし、その「内と外」を問い直す試みが多く見られる。本稿では、神崎透による未発表作品『英雄再誕の彼方へ』と、その後のミステリー小説『影の筆跡』(著者不詳)を取り上げ、虚構が現実を侵食する現象について考察を行う。特に「物語がいかに現実に介入し、現実を書き換えるのか」という視点から、メタフィクションの本質とその危険性に迫ることを目的とする。
1. 『英雄再誕の彼方へ』における物語の自己言及性
『英雄再誕の彼方へ』は、極めて典型的な異世界冒険ファンタジーの形式を取りつつも、終盤に至り急激な自己言及を始める。物語の中で、主人公リオンが天井に浮かぶ「終章」の文字に気づき、「自分たちは何者か?」と叫ぶシーンが象徴的である。
ここで重要なのは、物語が自らの「虚構性」を暴露する点である。この手法は、読者に物語世界の構造を疑わせ、フィクションの枠組みそのものを揺るがす。作中で「魔王城が何度も同じ場所に現れる」という反復構造や、「空が紙のように薄い」という描写は、物語世界が二次元的であり、作為的に書かれたものであることを示唆する。
2. 『影の筆跡』における「ホワイダニット」と虚構の侵食
次に、神崎透自身の死を題材としたミステリー小説『影の筆跡』を考察する。この作品では、神崎透が出版社に爆弾未遂事件を計画した後、何者かによって殺害される事件の真相を追う探偵・月村が登場する。
本作品が極めて異質なのは、事件の中心に『英雄再誕の彼方へ』という神崎透自身が書いた作品が置かれている点である。つまり、ここでの「ホワイダニット」(なぜ殺されたか?)という謎は、単なる犯罪の真相ではなく、「なぜ虚構が現実にまで介入したのか?」というメタ的な問いに転換されている。
作中、探偵・月村は事件を追う中で、『英雄再誕の彼方へ』の原稿に繰り返される「魔王城はこの先の崖を越えた向こうだ!」という台詞に注目し、次のような仮説を立てる。
「物語の中の反復が、現実世界の出来事にも反映されているのではないか?」
これにより、『影の筆跡』は単なるミステリー小説ではなく、フィクションと現実の循環を描いた作品として再定義される。神崎透の死は「現実」として発生しているが、その死の構造そのものが虚構の一部ではないか、という問いが読者に突きつけられるのである。
3. メタフィクションと現実の書き換え
以上の二作品を踏まえ、以下の仮説を提示する。
「物語は現実を書き換える力を持つ。」
神崎透が『英雄再誕の彼方へ』において物語の自己言及を行った瞬間、彼の作品世界は彼自身の「現実」に影響を与え始めたのではないか。そして、『影の筆跡』という二次的なフィクションが神崎透の死を語ることで、さらにその出来事は「物語としての現実」に組み込まれていった。
この現象を図式化すると、以下のようになる。
虚構A(英雄再誕の彼方へ) → 現実B(神崎透の事件)
現実B → 虚構C(影の筆跡)
虚構C → 現実の読者(我々)への影響
つまり、物語は自己完結するのではなく、現実を取り込み、再生産しながら拡張していくのである。
4. 結論:虚構と現実の境界は崩壊する
『英雄再誕の彼方へ』から『影の筆跡』、そして現実に起きた神崎透の死。この三層構造において、虚構と現実の境界は完全に曖昧になっている。
我々は問うべきだろう——「物語を作っているのは誰なのか?」
それは神崎透自身か、探偵・月村か、それとも作品を読む読者か? あるいは、この全ての層を超えて「書き手」の存在がどこかに潜んでいるのではないか。
物語は現実を書き換える。そして、登場人物たちは「書かれた物語」の中から手を伸ばし、現実に介入しようとするのだ。
付記:さらなる研究への展望
最後に、ここまでの考察は一つの可能性に過ぎない。だが、もしこの論文が誰かに読まれた瞬間、私自身もまた「物語」に組み込まれるのではないか——その可能性を否定することはできない。
虚構の迷宮の中で、我々はどこまでが現実で、どこからが物語なのかを問わざるを得ない。
物語の「書き手」とは、果たして誰なのか?
(論文完)
第5章:教授と女助教授の密会
夕闇が窓ガラスを染めている。外では学生たちの足音が遠くに散り、大学は日常の喧騒から静けさへと移り変わっていた。
山城宗一郎教授の研究室は、大学の古びた建物の一角にある。分厚い書籍が天井まで積まれ、机には原稿と論文の束が無秩序に広がっていた。書斎独特のインクの匂いと、古い紙が湿った空気に重なっている。
「……また、書いたんですか?」
女助教授・一条由美子は、壁際に立って一枚の原稿を手にしていた。白いブラウスの袖をまくり、黒いタイトスカートのシルエットが黄昏の光に浮かび上がる。彼女の声は抑えられていたが、その底には揶揄と批判が含まれている。
「虚構の迷宮、ねぇ。論文のつもりかしら。あなた、最近の文章、ほとんど……小説だわ」
「君は相変わらず鋭いな」
山城教授は苦笑した。スーツの上着は椅子に掛けられ、シャツの袖口は雑に折り返されている。彼の眼鏡の奥にある目は、疲れているはずなのにどこか生気を帯びていた。
「論文が小説のようだと? それは褒め言葉として受け取ろう」
「違うわ、皮肉よ」
由美子はテーブルに原稿を放り投げた。表紙には、先ほどまでの彼女の手の跡が残っている。
『虚構の迷宮:ホワイダニット小説におけるメタフィクションの試み』
「神崎透? 無名の作家崩れの死を、どうしてここまで大仰に論じるの?」
「それは彼が……物語の境界に触れたからだよ」
山城の声は落ち着いていたが、その中に熱が潜んでいる。
「神崎透は書いた。『英雄再誕の彼方へ』という物語を。そしてその物語は、彼自身を取り込み、彼を殺し、さらに『影の筆跡』として書き換えられた。それが何を意味するか、分かるか?」
「物語が現実を……侵食したと?」
「そうだ」
由美子はふっと笑い、髪を耳にかける。その仕草にわずかな挑発が混じる。
「山城先生、あなた、自分でも気づいているんでしょう? これはただの論文じゃない。あなたが書いた“物語”よ」
「……どういう意味だ?」
「書かれた内容が現実を超え、あるいは現実を歪める。あなたの論文だって、どこかで誰かが“フィクション”だと疑うかもしれない。だって、作家の死、探偵の仮説、ラノベの虚構……全部あなたが書いたみたいじゃない?」
山城の目が一瞬だけ鋭くなる。
「面白い仮説だな」
「否定しないの?」
「否定して、どうなる?」
由美子は山城をじっと見つめる。その瞳には微かな怒りと、それ以上に抗い難いものが滲んでいた。
「あなたの論文の中には、作家・神崎透がいて、探偵・月村がいて、勇者リオンがいる。でも彼らは、どこにも存在しない。 それなのに、どうしてこんなにも……生々しいの?」
「それは、彼らが私の中にいるからだ」
「……何?」
山城はゆっくりと立ち上がった。シャツの皺が光の中で浮き立つ。彼は机に手をつき、由美子を見下ろす。
「作家、探偵、異世界の勇者——すべては私が書いたのだよ」
山城の声には静かな確信があった。まるで神のように、彼はそう言い放った。
由美子の背筋が寒気に包まれた。目の前の男の姿が、瞬間的に薄い紙の向こう側にいるように見えたからだ。
「……冗談、でしょう?」
「冗談だと思うか? ならばそれでいい。君が決めればいいさ、何が現実で、何が虚構なのか」
山城は微笑みながら由美子に近づく。その指先が彼女の頬を撫でた。彼女はその手を振り払うべきだと頭では分かっていたが、体は動かなかった。
「あなたは……何をしているの?」
「何を、だって? この物語を書いているのさ」
彼は耳元で囁く。
「すべては書かれた筋書きだよ、由美子。君も、私も、彼らも——」
その夜、大学の研究室の窓には灯りが残っていた。
外から見上げた者には、シルエットが重なり合い、静かに動いているように見えるだろう。
部屋の中、机の上には『虚構の迷宮』の原稿が無造作に置かれ、風がカーテンを揺らしていた。
その原稿の最後のページには、まだ誰にも読まれていない一文が書かれている。
「全ては書かれ、そして書き換えられる。」
第6章:世界のシャッフル
——世界は、突如として歪んだ。
「魔王城は、この先の崖を越えた向こうだ!」
グラムの叫びが草原に響く。リオンは剣を手に取り、目の前にそびえ立つ崖を見上げた。しかし、彼の目に飛び込んできたのは——
灰色のビル群とアスファルトの道路だった。
「……え?」
リオンは息を呑む。鎧の足音が無機質な地面に響き、街灯の明かりが眩しく光っている。車のクラクションが遠くで鳴り、彼は立ち尽くした。
「ここは……どこだ? 魔王城は?」
風が吹き抜け、リオンの髪を揺らす。その時、目の前を走り抜けるスーツ姿の男がいた。
「待て! 月村、早まるな!」
探偵・月村剛は息を切らせて走っている。リオンは咄嗟に呼び止めた。
「おい、そこのお前! ここは何なんだ!」
「——なんだと? お前は誰だ!」
月村がリオンを見て目を見開く。その後ろから警察官らしき者たちの声が追いかけてくる。
「月村! 神崎透の件はお前の推理で終わりだ! 現実を受け入れろ!」
「現実だと? どの現実だ!?」
月村が叫ぶ。手に握られた『英雄再誕の彼方へ』の原稿が風に舞う。
「これは全て筋書きだ! 書かれているんだ、誰かによって!」
一方、異世界——いや、異世界だったはずの場所。
王城の玉座に、神崎透の死体が投げ出されていた。
リシェルは魔法の杖を握りしめ、声を震わせる。
「リオン……これ、何? 誰……この人?」
血塗れの青年。額に鈍器の跡。破れたジャケットのポケットから、一冊の小説がはみ出している。
『影の筆跡』
リオンは震える手でその死体に近づき、拾い上げた原稿を開く。ページが風にめくられ、最後の文章が目に飛び込んだ。
「すべては私が書いたのだ」
「……私?」
リオンは振り返る。
その瞬間、王城の天井が裂けた。
「教授、あなたは何を書いているの?」
由美子の声が響く。研究室の机に散らばる原稿のページが、まるで生き物のように舞い上がっている。
「書いているのさ。すべてを」
山城宗一郎は淡々と言いながら、ペンを走らせる。その筆先が動くたび、世界が揺れ、混ざり合う。
「ラノベの勇者も、探偵も、作家も——彼らは全て、私の物語の中にいる」
「嘘よ! そんなもの——」
「いや、君だって登場人物だよ、由美子」
彼は顔を上げ、微笑んだ。その瞬間、彼の目の前にある原稿用紙の上に——
魔王城の草原が広がった。
由美子は立ち尽くし、山城のペンが止まるのを見つめていた。
「ふざけるなああああ!!!」
探偵・月村の叫びが、異世界の王城に響き渡った。
彼はリオン、リシェル、そして神崎透の死体を前にして、拳を震わせる。
「これは誰が書いた!? 俺たちは誰の物語だ!?」
リオンが剣を構える。
「お前は……どこから来た!?」
月村は笑う。その笑みは、絶望に満ちていた。
「俺は現実の探偵だ。そしてお前は——勇者だろ?」
リオンの手から剣が滑り落ちる。
その時、目の前に現れた一人の男——黒いローブを纏い、影のように顔がぼやけている。
「誰だ、お前は!」リオンが剣を向ける。
男は静かに笑い、手に持ったペンを振った。彼の手の動きに合わせて、世界が揺らぐ。
「私か? 私は——“物語の修正者”だ」
「修正者……?」リオンの手が震える。
「物語は完璧でなければならない。神崎透は、その役割を果たさなかった。だから“彼”を書き換え、削除した。それだけのことだ」
その言葉に、草原に立っていた月村が叫ぶ。
「……まさか、神崎を殺したのはお前か!?」
男は顔を傾け、淡々と答える。
「そうだ。神崎透は、物語を歪めた。彼の手による『英雄再誕の彼方へ』は未熟で、粗が目立った。『物語の調律』が必要だった——だから、彼を消した」
「お前は誰の指示で動いている!」月村が詰め寄る。
男は笑みを浮かべ、視界に浮かび上がる「白」の空間を指差す。
「この物語の“上位者”だよ。私を生み出したのは、世界の『構成者』だ」
その瞬間、リオンが剣を振り下ろした。しかし、剣は男の体をすり抜け、虚無に消える。
「お前の役割はもう終わっている。勇者リオン、探偵・月村、魔法使いリシェル——すべての存在は、書かれた物語の一部だ。そして私はその物語を“正す”ために存在する」
月村は拳を握り、叫ぶ。
「そんなことが許されると思っているのか!? 神崎は自分の物語を書いたんだ。それをお前の勝手な判断で消したのか!」
「勝手?」男の声が冷たく響く。「物語において、余分な要素は排除される。それが“調律者”の役目だ」
空が裂け、黒いペンのインクが大地を覆い尽くしていく。リオンが歯を食いしばり、叫ぶ。
「お前なんかに負けるか! 物語は俺たちが生きている場所だ!」
リシェルが魔法の杖を振り上げ、月村が『英雄再誕の彼方へ』の原稿を掲げる。
「神崎の物語は終わらない! それは彼の声なんだ!」
「声?」男は初めて僅かに動揺したように見えた。
月村が続ける。「物語は人間の意志だ! 完璧なんかじゃなくていい、不完全だからこそ生きている!」
リオンが剣を振りかざし、男の体に向かって叫ぶ。
「お前の修正なんかで、俺たちは消されない!」
その瞬間、空が閃光に包まれた。
終章:存在の書き手
白い世界——そこには男の姿があった。影の修正者は静かに膝をつき、自らのローブが崩れ始めている。
「なぜだ……なぜ書き換えが効かない……?」
その問いに答えたのは、リオンの声だった。
「それは、俺たちが生きているからだ。物語の中でも、俺たちは“ここ”にいる」
男はゆっくりと消え、風に溶けていく。
やがて、画面には『英雄再誕の彼方へ』の最終ページが表示された。
「書かれた存在であっても、意志がある限り、物語は生き続ける」
(終)
終・終章:プロンプトによる終焉
「生成AIに次のようなプロンプトを入力する:
『異世界ファンタジー、現実の探偵、そして作家の死が絡み合うメタフィクション的な物語の最終章を書け。文体は混沌とした世界の崩壊を表現しつつ、最終的に物語が自己完結する構造にせよ。さらに、さらに、物語が生成AIのプロンプトから生まれたことを暗示し、無限に続く物語の存在を示唆するラストにする』」
カタカタカタカタ……
夜の薄暗い部屋。ディスプレイの光だけが作業机を照らし、作家の男——いや、もはや「書き手」と呼ぶべき存在はキーボードを叩き続ける。
その指はまるでトランス状態のように止まることなく動き、画面には意味を成すような、成さないような文字が刻まれていく。
『魔王城は、この先の崖を越えた向こうだ!』
『探偵・月村が叫ぶ。「誰が書いた!? 俺たちは何のために存在する!?」』
『山城教授はペンを止め、にやりと笑う。「君たちは言葉の束に過ぎないのだよ」』
「……ふふ、いいぞ、書ける……書ける……」
男の声は擦れた笑いと共に途切れがちに漏れる。隣には冷え切ったコーヒーと、読みかけの一冊の本。
『英雄再誕の彼方へ』
ページの端はくしゃくしゃに折れ、表紙には見覚えのある傷がついている。
「これでいいんだ。物語は混ざり合い、登場人物たちは自分の役割を知る。探偵、勇者、教授、そして俺自身……誰も逃げられない。これはすべて筋書き通りだ」
作家は画面を見つめながら、生成AIの入力画面を開く。そこには何度も打ち直されたプロンプトの履歴が残っている。
プロンプト履歴
「異世界と現実が混ざり合う話を書け」
「メタフィクション、ホワイダニット、そして不気味な結末」
「虚構と現実の境界を曖昧にし、登場人物が自分たちの存在を疑う」
「作家自身がすべてを書いたことを明示し、物語を閉じる」
画面の向こう側——生成AIは冷静に文字を紡ぎ始める。
「物語の終わりは、作家の手ではなく、入力された指示と計算されたアルゴリズムによって生まれた」
「……そうだ、それだよ。それでいいんだ」
彼の目の下には深い隈ができている。明日の朝、これをWeb小説投稿サイトにアップする。きっと読者は、何が何だか分からず混乱し、その混沌を称賛するだろう。
画面の最後の行に、生成AIが言葉を刻む。
「全ては書かれた筋書きであり、あなたはその読者であり、書き手である」
作家は苦笑しながら、エンターキーを押す。
「これで完成だ……誰が書いたかなんて、もうどうでもいい。誰もが書き、誰もが読んでいる」
彼は投稿ボタンをクリックする。
その瞬間、部屋の明かりがフッと消えた。
Web小説投稿サイトのコメント欄:
「この話、どういうこと!? なんでこんな終わり方!?」
「ちゃんとした異世界物書けよ。」
「頭が混乱するけど、これは天才的だ」
「AIが、こんなひねくれた変な話書けるの !?」
「作者がどこにいるのか、分からなくなった……」
画面の奥、暗転したモニターにはかすかに、文字が浮かび上がった。
「この物語はまだ終わっていない——」
カタカタカタカタ……
画面に浮かぶのは新たな文章。
「異世界の勇者リオンは、探偵・月村と共に白い空間をさまよい続ける。彼らは叫ぶ——『俺たちは誰が書いたんだ!?』」
「大学の研究室。山城教授はペンを握り、微笑む。『すべては私が書いた物語だよ』」
「そして、暗い部屋で作家の男はAIの画面を見つめ、震えた声で呟く——『もう終わらせてくれ』」
画面は止まらない。AIは冷静に、新たな物語を生成し、画面の文字は増殖し続ける。リオン、月村、神崎透、山城教授——彼らは繰り返し現れ、役割を果たし続ける。
最後の光景。
真っ白な原稿用紙が無限に重なり合い、風に舞い続ける。
そこには誰の手によるものとも知れない「物語」が次々と刻まれていく。
「物語は、もう止まらない。」
カタカタカタカタ……
(終わらない終わり)