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世間の目が厳しいので、極悪ダンジョンの最下層で不倫相手と密会します
カトレアは城下町の裏手にある古びた広場で、辺りを警戒しながら佇んでいた。
普段はほとんど人が通らない場所だが、彼女は深いフードをかぶり、顔を隠すようにうつむいている。
夫は高位貴族で、王宮でも大きな発言力を持っている。
自分がこうして夜陰に紛れてこそこそと動いているなど、決して知られてはならない。
「今夜も、無事に会えるのかしら」
そう小さくつぶやき、カトレアは自分の胸の鼓動に気づく。
実は彼女には、どうしても忘れられない男がいる。
リオン。
王国軍を率いる将軍の息子で、かつては武術の稽古場で彼女と知り合った。
しかし、リオンもすでに別の貴族の令嬢と結婚している。
それでも、二人は互いの心を抑えきれず、密かに想いを通わせるようになった。
だが王宮の目を欺くには、危険すぎる場所しか残されていない。
極悪ダンジョンの最下層でなら、誰にも見つからずに密会できる。
昼間はさすがに目立つので、カトレアはこうして夜に出発し、隠された通路からダンジョンに潜る準備を進める。
それは高レベル冒険者でもしり込みするほど危険な行為だが、彼女は早くリオンに会いたい気持ちを胸に秘めている。
カトレアは自分の腰に下げた剣を一度抜いて刃を確認し、そのまま鞘に収めた。
「これで大丈夫……行こう」
そうつぶやき、彼女は広場の片隅にある扉を開け、地下へと続く細い階段を降りていった。
一方、リオンは王都の反対側にある古い石橋の下で、同じように夜を待っていた。
彼もまた、自分がどれほど危ない道を進もうとしているか理解している。
けれど、上流階級のしがらみや政略結婚の窮屈さに、もう耐えられなくなっていた。
「カトレア……今日こそは必ず、会いに行く」
リオンは短剣の切れ味を確かめながら、そう心に誓う。
やがて、彼は橋の下に隠された鉄扉を見つけ、その奥へと踏み入った。
通路はすぐにダンジョンへと繋がり、凶暴な魔獣や呪われた亡霊たちが生息する領域へ続いている。
彼は、まず毒虫がはい回る蟲の巣窟を抜けなければならない。
足元には腐食性の液体がしみ出た痕があり、うっかり踏むと装備が溶けてしまう危険がある。
リオンは慎重に足を運び、鋭い毒針を放つ巨大な蜘蛛が天井から降りてきた瞬間、短剣で正確に仕留める。
「ここで手間取っているわけにはいかない」
そう言い聞かせ、深い闇を進んでいく。
カトレアも同じダンジョンの入り口から奥へ進む中で、呪術師の亡霊に襲われていた。
灯りを絶やしてはいけない場所にもかかわらず、亡霊はまるで息をするように闇を操ってくる。
さらに、不快なささやき声を響かせ、精神を蝕む幻影を見せつけてくる。
「幻には惑わされない……」
カトレアは剣に魔力を込め、一気に霊体を断ち切る。
すると、不気味な悲鳴とともに亡霊は霧のように散っていった。
その直後、足元の床石が沈み込み、毒矢が横から飛び出す罠が作動した。
カトレアは一瞬で反応し、身をかがめてそれを回避する。
「本当に……えげつないダンジョンね」
そうつぶやき、彼女は汗を拭きながら先へ進む。
リオンは別のルートで、すでに中層の魔獣が徘徊するエリアに差しかかっていた。
そこには巨大な竜族の化石から生まれたアンデッドがうろついており、骨ばかりの腕で周囲を薙ぎ払っていた。
「……こんな化け物までいるのか」
リオンは骨竜の動きを見極め、隙をついて短剣を振る。
しかし相手は骨格そのものが硬く、通常の一撃では損傷が少ない。
そこで彼は床に転がる朽ちた柱を利用し、骨竜の足元に投げつけて一時的なバランス崩しを狙った。
その一瞬で、首の関節部に短剣を突き立てる。
骨竜は軋む音を立てて倒れ込み、そのまま砕け散った。
「よし……これで先へ行ける」
リオンは体中に滲む汗を拭きながら、さらに奥へと足を進める。
長い時間が経過した後、カトレアとリオンはダンジョンの下層手前にある石造りの広間に、ほぼ同時に辿り着く。
そこは昔、祭壇のように使われていた跡があり、薄暗い魔法灯がかすかに光っている。
お互いが姿を認めると、胸が詰まるような感情に襲われた。
「リオン……」
カトレアが駆け寄ると、リオンもまた彼女の手を取る。
「会えてよかった……無事で何よりだ」
周囲にまだ敵が潜んでいないか確認しつつ、二人は次の言葉を探す。
しかし危険なダンジョンを抜けてきた緊張はまだ消えない。
「下層に行けば、さらに強敵がうようよしているはずだ」
リオンが剣の柄を握りながら言う。
「ええ、でも……私たちはそこへ行くのよね」
カトレアは意を決したように頷く。
一瞬でも安心できる場所は、誰も近づかない最下層しかない。
二人は再び気を引き締め、広間の先にある階段を下り始めた。
下層では今まで以上に死の気配が濃厚だった。
時折、床の隙間から毒霧が噴き出し、天井にはこちらをうかがう魔獣の赤い瞳が光る。
カトレアが剣を構えると、リオンはすばやく背後を守る位置につく。
二人は息を合わせるように進んでいく。
途中で遭遇した巨大な毒虫は、体液が腐敗の瘴気を帯びていて接触するだけで感染しそうだった。
カトレアは射程外から魔法で牽制し、リオンは懐に飛び込むように突進して弱点を狙う。
罠も多く、床板が突然持ち上がって壁に押しつぶされそうになる仕掛けまであった。
一歩のミスが命取りだが、互いに声を掛け合ってすぐに反応し、何とか切り抜けていく。
そしてようやく、最下層の一角にある半崩壊した部屋へたどり着く。
そこには石造りの棺がいくつも並び、古代の呪いが今も残る気配があった。
しかし、王宮や町のどこよりも静寂が支配していた。
「ここなら……誰も来ないわ」
カトレアは肩の息を整えながら、部屋の奥を見やる。
「この場所……一度来たことがある」
リオンはそう言い、部屋の中央に残された魔法陣を指差す。
「昔、軍の探索隊にいた頃にね。
確かにここは危険だけど、立ち入ろうとする者はまずいないはずだ」
二人はほっとしたように微笑み合い、その場に腰を下ろす。
長い道のりを乗り越えて、ようやくたどり着いた。
「あなたとこうして会えるのは、ほんのわずかな時間だけ」
カトレアはそう言いながら、リオンの手をそっと握りしめる。
「でも……ここでなら、誰の目も気にしなくていい」
リオンは疲れた様子を見せながらも、カトレアの手を力強く握り返す。
激戦をくぐり抜けた後だからこそ、二人の心はさらに求め合う。
世間で指をさされる関係でも、ここでは何も遮るものはない。
石棺の隙間から吹き込む冷たい風を感じながら、二人は視線を重ねる。
「今夜は、ずっと一緒にいられるわ……」
カトレアはリオンの肩にもたれかかり、静かに目を閉じる。
リオンもまた、その髪にそっと触れ、彼女を引き寄せる。
深い闇の底で交わされる口づけは、世間から隠された愛の証だった。
極悪ダンジョンの暗闇の底で、誰にも見つからぬ愛を求める二人は、黙ってその時間を噛みしめていた。