鏡花水月の密室
登場人物
篁 義行(たかむら よしゆき):主人公。言語学者で古典文学と難読漢字の研究者。密室事件に興味を示す。
閼伽井 深夜(あかい しんや):篁の友人である著名な推理小説作家。事件の「語り手」でもある。
沙蘇 美紅(さす みく):繙読館の司書。不可解な遺書の発見者。古文や暗号に詳しい。
忌崎 重弦(いみざき しげつる):死者となった資産家。遺書には不可解な漢字の羅列が。
鬼灯 炯三(ほおずき けいぞう):晦蔽市警察署の刑事。密室トリックに頭を悩ませる。
第一章:繙読館の曖昧なる刻
晦蔽市(かいへいし)の中心を少し外れた場所に、鬱蒼(うっそう)とした樹木に囲まれた建物が佇んでいた。その館の名は「繙読館(はんどくかん)」。人の気配を拒絶するかのような重厚な扉が、ひっそりと時を止めている。
篁義行(たかむら よしゆき)は扉の前で息をつき、古びた表札に手を伸ばした。「繙読」と書かれた文字が、時の風化に抗うように浮き上がって見える。彼は一瞬、躊躇(ちゅうちょ)したが、意を決して扉を押し開けた。
館内に足を踏み入れると、靄然(あいぜん)たる空気が篁を包んだ。湿り気を帯びた紙の匂い――それは永劫(えいごう)の眠りについた書物が放つ、霊的とも言える香りだ。天井まで積まれた書架が迷路のように連なり、光は遠く霞(かす)んでいた。
「篁さん、こちらへどうぞ」
呼びかけたのは沙蘇美紅(さす みく)だった。彼女は司書の制服姿に身を包み、蠱惑(こわく)さすら漂わせるほど静かな佇まいで立っている。
「相変わらず、この館は時が止まっているようですね」篁は古書に目をやりながら言った。
「韜晦(とうかい)された歴史の蓄積ですから。人に触れられず、ただ佇む――それがここ、繙読館です」
美紅は篁を一番奥の閲覧室へと導いた。そこには閼伽井深夜(あかい しんや)が待ち構えていた。彼は著名な推理小説作家で、篁の旧友だ。
「やっと来たか。いや、待ちくたびれたぞ」閼伽井は机に頬杖をつき、書類の束を指で弾いた。「それとも、この『遺書』を見せれば、少しは興味を持つかな?」
篁は眉根を寄せ、机の上に無造作に置かれた紙片に目をやった。そこには筆圧の強い筆跡で、いくつもの難解な語が羅列されていた。
『――驟雨(しゅうう)の刻、慟哭(どうこく)の聲、燈滅(とうめつ)の果てに鏡花水月――』
「これは……?」篁が問いかけると、閼伽井は口角を引き上げた。
「忌崎重弦(いみざき しげつる)――この街の資産家の遺書だよ。つい昨夜、彼の死体が密室で発見された。しかも、窓も扉も完全に施錠されていてね」
「密室事件、ですか?」篁は思わず訊き返した。
「そうだ。そしてこの遺書が、また厄介でね。読めばわかるだろう?意味が曖昧どころか、まるで詩だ。だが、どこか冷ややかな意思が感じられる」
篁は遺書を改めて見つめた。その紙には、確かに「文字」としての強い存在感がある。しかし、その意味は靄の中に霞み、正体を掴ませない。
「この言葉……単なる韜晦(とうかい)ではないな。忌崎氏の意図がどこかに隠されている」
美紅が控えめに口を開いた。「実は、この遺書が発見されたのは、密室事件が起きた部屋ではなく、ここ、繙読館です」
「なんだって?」篁の目が細められた。
「忌崎氏が書物を寄贈する際、一冊の古書に挟まれていたんです。『遺書』だと気づいたのは、つい数時間前のことです」
「ふむ。つまり、密室での変死体発見と、この遺書の発見――それが重なったというわけだ」篁は手を顎に当て、考え込む。「これは偶然ではないだろう。遺書に書かれた言葉が、何かを暗示している」
閼伽井が立ち上がり、窓の外を眺めた。曇天に覆われた空はどこまでも鈍色だ。
「晦蔽(かいへい)――この街が持つ不気味な閉塞感は、まるで忌崎が遺書で語る『驟雨』のようだ」
「――驟雨、慟哭、燈滅、鏡花水月か」篁は呟く。「一見すると無意味な単語の羅列だが、そこに彼の死を解く鍵があるのかもしれない」
「その鍵を探すのは君だ、篁。お前なら、この言葉の迷宮を解読できるかもしれない」閼伽井の声音は、どこか挑発的だった。
篁は古びた遺書を手に取り、文字に目を凝らした。筆跡に宿る不可解な力が、まるで亡者の呻きのように脳裏をかすめる。
――密室と遺書。重ねられた謎の幕開けに、篁は言葉を失いかけたが、その目は静かに熱を帯びていった。
そして、繙読館の中で聞こえたのは、古書が風に揺れる微かな音だけだった。
第二章:遺書の暗号と密室の謎
篁義行(たかむら よしゆき)は遺書を前にして、机上に視線を落としていた。紙の上に走る筆跡は、まるで蛇が蠢(うごめ)くように不穏な軌跡を描いている。墨痕(ぼっこん)深く刻まれた旧字体は、ただでさえ読む者を威圧するが、言葉の意味はさらに瑣末(さまつ)で、掴みどころがない。
『驟雨の刻、慟哭の聲、燈滅の果てに鏡花水月』
美紅(みく)が篁の横で小さく息を吐いた。「旧字体が混在していますね。現代の人が普通に書くものとは思えません」
篁は頷きつつ、筆跡の一画一画を目で追った。「瑕瑾(かきん)がないほど整っている。こういう文字は、書き慣れていないと書けない代物(しろもの)だ。忌崎重弦――彼の死がこれにどう絡むのか」
そのとき、閲覧室の扉が乱暴に開けられた。晦蔽市警察署の刑事、鬼灯炯三(ほおずき けいぞう)が姿を現した。彼の眼光は鋭く、灰色の背広が煤(すす)けた壁に馴染んでいる。
「篁先生、お手を煩わせて申し訳ない。だが、事態は少し厄介になっている」
篁は目を上げた。「密室事件の詳細がわかったのですか?」
鬼灯は少し口の端を歪ませ、「瑣末なことだが、興味深い現象だ」と言い、ポケットからメモを取り出した。
「忌崎の死体は昨夜、彼の邸宅の書斎で見つかった。部屋は完全に施錠され、窓にも瑕瑾一つない。内側から鍵がかけられ、扉にも外部からの痕跡は一切ない」
「――密室、ですか」と美紅が呟いた。
「さらに奇怪なことがある。書斎の壁には煤(すす)のようなもので描かれた円があった。中心には文字らしきものが刻まれ、そこに『驟雨』とあった」
「驟雨……」篁は声を潜め、鬼灯の言葉を反芻(はんすう)する。「それは偶然ではないな。遺書にも『驟雨の刻』とある」
「そうだ。そしてもうひとつ妙なことがある。重弦氏の部屋には一冊の古書が置かれていた。それが――『鏡花水月集』という名の、書籍だ」
篁と美紅は目を見合わせた。その名を聞くのは初めてではない。遺書にある「鏡花水月」という言葉が、彼らの脳裏を揺さぶる。
「その古書は今、現場にあるのですか?」と篁が訊ねた。
「いや、なぜか忽然(こつぜん)と姿を消している。まるで――本そのものが意志を持って逃げたようにな」鬼灯は皮肉気に笑った。
篁は立ち上がった。「まずは現場を見せてください。遺書と密室が繋がっているのなら、その齟齬(そご)を解き明かす鍵が、そこにあるかもしれない」
忌崎邸・書斎
忌崎邸は古びた洋館だった。灰色の外壁は風雨に晒され、どこか寂寥(せきりょう)感を漂わせている。重い扉が軋み、鬼灯に続いて篁と美紅が書斎へと足を踏み入れた。
書斎は静寂に支配されていた。部屋の中央には忌崎の死体があった場所を示す黄色いテープ。その周囲には、煤で描かれた不可解な円が残っている。
「これが噂の円……」篁は足を止め、その中心を見つめた。そこには微かに残る『驟雨』の文字。
美紅が窓に近づいた。「窓には確かに瑕瑾がありません。外部から侵入する余地はなさそうです」
「だがこの部屋の中で、彼は死んだんだ」鬼灯が吐き捨てるように言う。「どう考えても、内部から施錠された密室だ」
篁は部屋の壁を撫でながら、何かを考え込んでいた。「遺書に書かれた『驟雨の刻』――それは何かの合図なのか、それとも」
言葉を止めると、彼の目が書斎の天井へと向けられた。その瞬間、篁は小さく呟いた。
「匡正(きょうせい)された空間……か」
「何です?」鬼灯が問い返した。
「いえ」篁は口を閉じたまま、美紅に目配せをした。「何かがこの部屋にはある。しかし、それは現実そのものではなく――言葉が作る迷宮だ」
「言葉?」美紅が小首を傾げる。
「遺書、そしてこの部屋の円。忌崎は死の直前に何かを伝えようとしたはずです。それが言葉として残った――だが、それはまだ『暗号』に過ぎない」
鬼灯が息を吐き、帽子を目深にかぶった。「暗号だろうが何だろうが、解けるのか?篁先生」
篁は静かに目を閉じ、遺書に書かれた文字を脳裏に浮かべた。
『驟雨の刻、慟哭の聲、燈滅の果てに鏡花水月――』
――果たしてこの遺書は、死者の叫びか、それともただの幻影か。
篁は古びた書斎の空気を吸い込みながら、その答えを探し始めた。
第三章:言葉の迷宮
篁義行(たかむら よしゆき)は繙読館の閲覧室で一冊の小説を広げていた。著者は閼伽井深夜(あかい しんや)――彼の友人であり、名の知れた推理小説作家だ。
美紅(みく)は篁の隣で静かに立ち、開かれた本のページに目を落とした。そこには、昨夜起きた忌崎重弦の「密室事件」と酷似した状況が記されていた。
『驟雨の夜、閉ざされた書斎に死者あり。施錠された扉、瑕瑾(かきん)なき窓――ただ呪詛(じゅそ)の声が残るのみ。』
「……まるで、現実の事件そのままですね」美紅が小声で囁いた。
「閼伽井の小説は前々から虚構と現実を縒り合わせるのが得意だった。だが、ここまで曼荼羅(まんだら)的に一致しているのは異様だな」篁は呟く。
「まるで、忌崎氏の死が彼の小説に導かれたかのようですね……」
篁は顔を上げ、窓の外に目を向けた。午後の陽光は朧(おぼろ)に差し込み、館内を靄(もや)がかった光で染めている。
「言葉が、現実に作用する――そんなことがあり得るのか?」
「鏡花水月(きょうかすいげつ)」美紅がふと口にした。「そういうことかもしれません」
篁が美紅に視線を向けた。「つまり?」
「見えているものは、実体がないのに美しい。それが『鏡花水月』です。閼伽井先生の小説がそうであるならば、事件もまた実体ではなく、虚構が形を成したものかもしれない……」
「虚構が形を成す?」篁は書物のページをめくった。綺羅星(きらぼし)のように散りばめられた言葉たちが、不気味なほど強い存在感を持ってそこにある。
閼伽井邸
閼伽井深夜は自宅の書斎で、机に座りながら静かに煙草の煙を燻(くゆ)らせていた。篁と美紅が訪ねると、彼は薄笑いを浮かべて出迎えた。
「君たち、随分と真剣な顔だな。さて、何の用だ?」
篁は言葉を選びながら、机上に置かれた閼伽井の新作原稿を指さした。「お前の小説だ――事件がまるで、これをなぞったように展開している」
「それがどうした?」閼伽井は平然とした顔で答えた。「私の作品が先なのか、事件が先なのか――その差異(さい)は重要か?」
「だが、お前は知っていたはずだ。忌崎重弦の密室事件のことを」
閼伽井は煙草を灰皿に押し付け、篁に目を向けた。その目はどこか虚ろで、深い底に何かを隠しているように見える。
「言葉は呪詛だ、篁。書かれたものは、いずれ現実になる。あるいは――現実が書かれたものに追随するのかもしれない」
「呪詛?」美紅が思わず聞き返す。
閼伽井は手を広げ、周囲の書物を示した。「古来より、言葉には力が宿るとされてきた。書物の中に閉じ込められた言葉は、いずれ実体を求めて現れる。それが――お前たちが目の当たりにしているものだよ」
篁は黙って、閼伽井の言葉を噛みしめた。
「……ならば、お前の小説は何を意味する?」
「意味はないさ。言葉の迷宮に真実を求めるのは愚かだ。だが、もしもお前が探し続けるなら――その迷宮の果てに『鏡花水月』が待っているだろう」
「鏡花水月……」篁は低く呟いた。「忌崎がそれを知っていたとしたら?」
閼伽井は微笑し、机の奥から一冊の書物を取り出した。それは煤けた表紙の古書だった。
「『鏡花水月集』――忌崎が密室で所持していた本だ。どうやら君たちの探している鍵は、これにあるらしい」
「なぜ、お前がそれを……」
「篁よ、書物には触れるな。その先にあるのは言葉の呪縛だぞ」
閼伽井の言葉に篁は息を飲んだ。彼は手に取った古書の表紙を静かに撫で、そこに書かれた文字を見つめた――
『鏡花水月集』
その名は虚構のように美しく、しかし、篁にはそれが確かに忌崎の遺書と、密室事件の核心に触れていると確信できた。
「言葉が現実を支配する――これが事件の本質なのか」
書斎に漂う静けさの中、篁は言葉の迷宮にさらに深く足を踏み入れていった。
第四章:虚実の破綻
篁義行(たかむら よしゆき)は閼伽井深夜(あかい しんや)の書斎で、目の前の男を鋭く見つめていた。煤けた書物『鏡花水月集』が机上に横たわり、そこから何かが染み出すような、不気味な気配が漂っている。
「お前は知っていたんだな――いや、仕組んだのか?」篁の声は低く、しかし言葉の端には熱がこもっていた。
「仕組んだ? はは、それは少し違うな。これは偶然と必然が鞏固(きょうこ)に絡まり合った結果だよ」閼伽井は淡々と答えた。彼の目は相変わらず虚ろで、微笑みさえ浮かべている。
「閼伽井、忌崎の死は――お前の小説に書かれていたことだ。その密室も、遺書も……まるで、お前の書いた虚構が現実に籠絡(ろうらく)したようだ」
「そうだ。言葉の力を侮るなよ、篁」閼伽井は椅子に深く座り直し、天井を見上げた。「小説とは虚構だが、その虚構が現実に浸透することもある。絢爛(けんらん)たる物語は時に、人の心をも侵蝕するのだから」
「忌崎の遺書――あれも虚構か?」
「その通りだ。忌崎が書いたのではない。あれは私が作った遺書だ」
篁は拳を握りしめた。「……つまり、忌崎の死はお前が招いたものだというのか?」
閼伽井は苦笑を浮かべる。「違うな。私はただ言葉を書いただけだ。だが忌崎は、それに囚われた。『鏡花水月』という語に魅せられ、現実を虚構に捩花(ねじばな)せてしまったのだ」
篁は息を呑んだ。
「忌崎は虚構の世界に引きずり込まれた――?」
「言葉はただの記号だ。だが、人がそれを信じれば現実になる。忌崎は私の物語に触れ、現実を捨ててしまった。いや、虚構の中で死ぬことを選んだんだろうな」
「なら、密室はどうやって作られた?」
「それも含めて虚構だ。扉が施錠されていたかどうか、真実を見た者はいないだろう?」閼伽井は冷笑しながら指先で本を叩く。「真実と虚構の境目が曖昧になれば、そこに密室が現れる――それは物語の中にしか存在しない幻想だ」
篁は息を吐き、目を伏せた。虚構と現実が鞏固に絡まり合い、忌崎の死という現象が生じた――その言葉に説明のつかないほどの現実味を感じてしまう自分が、篁には恐ろしかった。
「つまり、忌崎は――お前の書いた物語に殺されたのか?」
「篁、それは違う。彼は物語を選んだんだ。『鏡花水月』――虚構の美しさの中で、自ら滅びることを選んだだけさ」
篁は言葉を失い、書斎を漂う静寂に耳を傾けた。虚構と現実の捩れは、まるで見えない渦のように彼らの周囲を蠢いている。
ふと、窓の外で風が唸りを上げた。篁はゆっくりと机上の『鏡花水月集』を閉じ、その表紙を見つめた。
「……だが、お前はまだ物語を書き続けるのだろう?」
閼伽井は深く笑った。「もちろんだ。虚構が現実を侵食する――こんなに面白い現象が他にあるか?」
篁は本を手に取り、背を向けた。「その物語が、次に誰を呑み込むのか……お前自身が気づいていないなら、それは滑稽だな」
彼の言葉は鋭利な刃のように閼伽井を貫いたが、男はただ笑うだけだった。
篁は静かに扉を開き、書斎を後にした。彼の手には『鏡花水月集』があり、その表紙はどこか、生き物のように脈動しているように見えた――
外の空はすでに曇天に覆われ、遠くで驟雨(しゅうう)が大地を打つ音が聞こえた。
「虚構は、現実を超えるのか……」
篁の呟きは、風にかき消されていった。
第五章:終幕は筆跡の中に
篁義行(たかむら よしゆき)は繙読館の最奥にある閲覧室にいた。手には煤けた古書『鏡花水月集』。重い沈黙が室内を支配し、書物に染み付いた時間の翳(かげ)が、彼をまるで異界に引きずり込もうとしている。
机に広げられた古書には、密室事件をそのまま写し取ったような筆跡が残されていた。
「……驟雨の刻、慟哭の聲、燈滅の果てに鏡花水月――」
篁はその一行を指でなぞり、ゆっくりと息を吐いた。「虚構と現実が交わる、この晦渋(かいじゅう)な言葉の迷宮……その果てに何があるのか」
美紅(みく)が彼の背後で声を絞り出すように言った。「閼伽井先生の言葉通り、言葉は現実を作り出す……この本の中の物語が、忌崎さんを呑み込んだんですね」
「いや、違う」篁の目が細められた。「本が現実を呑み込んだのではない。忌崎自身が――この物語を現実にしようとしたんだ」
篁はもう一度遺書に視線を戻す。「筆跡をよく見ろ、美紅。これは確かに閼伽井の筆跡に似ているが……微かに違う」
「違う?」美紅が顔を上げた。
「そうだ。筆跡はわずかに歪(いびつ)で、意図的に模倣されている。――だが、模倣した者は、まるで自らの手で現実を塗り替えようとしているかのようだ」
美紅の顔が青ざめる。「では、忌崎さんは?」
「彼は自分の死を――虚構として完成させたんだ」
篁の声は低く、確信に満ちていた。彼は椅子から立ち上がり、窓の外を見つめた。遠くでは驟雨(しゅうう)が大地を打ち、風が館の外壁を震わせている。
「忌崎は、あの遺書を遺すことで虚構を現実に繋ぎ止めた。閼伽井の物語に触発され、自らが虚構の中で生きることを望んだ――いや、死ぬことを望んだのだ」
「……まさか、そんなことが」美紅の声は震え、彼女の手が震えていた。
「だが、それが『鏡花水月』という言葉の意味だ。実体なき美しさ――真実はなくとも、人はそこに意味を見出す」
書物の終幕
その夜、篁は再び閼伽井の書斎を訪れた。閼伽井は薄暗い部屋で微笑みながら、書きかけの原稿を手にしていた。
「どうやら真相に辿り着いたようだな、篁」
「お前の物語に、忌崎は自ら命を捧げた」篁の声には怒気が滲んでいた。「だが、それで終わりではない。お前は今も書き続けている。次の犠牲者を生むために」
閼伽井は静かに笑った。「物語に始まりも終わりもない。書かれる限り、それは続く。そして――篁、お前自身も登場人物だと気づいているのか?」
篁は閼伽井を睨みつける。「何を言っている?」
「その本を見てみろ。最後のページに、お前の名前が記されているはずだ」
篁は『鏡花水月集』を開いた。そして――最後のページに、自分の名が筆跡として浮かび上がるのを見た。
『――篁義行、此処に在り。』
「……これは」篁の声が掠れた。
「お前も物語の一部なんだ。虚構と現実は彷徨(ほうこう)しながら混じり合い――やがて一つになる。お前がこの謎を解いたことも含めてな」
篁は書物を閉じ、息を呑んだ。背筋を走る寒気が止まらない。
「虚構が現実を侵食し続ける限り、お前はそこに囚われるだろう――いや、もうすでに」
終幕
繙読館に戻った篁は、誰もいない閲覧室で一人、机に向かっていた。目の前には『鏡花水月集』が置かれている。しかし、いつの間にかその本は煤け、文字が薄れ始めていた。
「俺は……登場人物なのか?」
篁は呟き、指で本を撫でる。その瞬間、背後の書架が風もないのに揺れ、どこからか微かな声が聞こえた――それは言葉にならない、呻きのような音だ。
彼は顔を上げ、無人の図書館を見回した。古書の山々は、篁に何かを語りかけているようだった。
「虚構と現実……言葉は、どこまで人を惑わせるのか」
その言葉を最後に、篁はふっと視線を下げた。机上にはすでに本は消えており、ただ一枚の紙片だけが残されていた。そこには墨痕深く、こう書かれている――
『驟雨の刻、慟哭の聲、篁義行、此処に在り。』
篁は息を止めた。何もかもが終わったはずなのに、彼はただ、筆跡をじっと見つめ続けた。
――それが虚構か現実か、もはや誰にも分からなかった。
外では再び驟雨が降り始め、繙読館は深い闇に包まれた。
物語は、そこに静かに幕を閉じた。