
暗闇の中の一行
序章 - 「終わりの始まり」
朝の光が書斎の窓辺に差し込む頃、氷室遼一はノートパソコンを閉じて椅子を回転させた。まだ早い時間だが、彼の新作小説はすでに各所で絶賛され、編集部からは祝賀の電話が相次いでいる。重厚なプロットと繊細な心理描写。その独特の世界観が、新たなミステリーの旗手として彼を時代の寵児へと押し上げていた。
「パパ、おはよう!」
書斎の戸口には、小さな手を振る隼人の笑顔があった。小学三年生の息子は、さわやかな朝の空気をまとい、どこか誇らしげに父を見上げる。氷室は眉間に寄りかけた皺をほどき、椅子から立ち上がった。
「おはよう。今日は学校で何か楽しみなことはあるのか?」
「うん、図書室に新しい本が入ったんだって。僕、ミステリーも好きだけど、最近は冒険ものも読みたいんだ」
無邪気な声に、氷室は思わず苦笑した。血塗られた事件を描く作家の父と、純粋な読書欲を抱く息子。二人の視界に浮かぶ世界は、きっとまるで違う色彩を帯びているのだろう。
隼人が廊下へ駆け戻ると、美奈が台所から顔を出した。「朝ごはん、もうすぐできるわよ」彼女の声は、家中にしみわたる柔らかさを持っている。その声音だけで、氷室は日々の苦悩を忘れ、現実に確かな重みを感じることができた。
「ありがとう、美奈。新作、評判いいみたいだ」
「本当?よかったわね。でも調子に乗らないでよ?」彼女は軽口をたたきながらエプロンの裾を直す。
氷室は軽く首を振り、笑みを浮かべた。ここには彼を支える静かな幸せがあり、確かな温かみが存在している。家族という、小さな宇宙。それが彼の創作の源泉だと、氷室は知っていた。
リビングではテレビが低く流れていた。ワイドショーがいつものように騒々しく、アナウンサーが深刻そうな表情で「奇妙な連続殺人事件」のニュースを伝えている。被害者は増えており、犯行動機は不明。警察は捜査本部を強化し、犯人像の特定を急いでいるらしい。
だが、その時の氷室には、他人事のような遠い世界の出来事だった。彼が創作で描く闇と、現実世界に横たわる闇は、似て非なるもの。小説家として、内面に潜るほど闇に手を伸ばすことがあるが、同時に、現実には明るい食卓があり、愛する妻と息子がいる。
「変な事件ね……」と、美奈が小さくつぶやく。
「怖いよね」と隼人。
「大丈夫。こういうのは、警察が必ず解決してくれるから」氷室はそう言って二人を安心させたかった。モーニングコーヒーの苦味が舌に残る。その時、外の空はまだ青く、陽光は柔らかだった。
食事を終え、スーツケースを手にした氷室は玄関で靴ひもを結んでいた。今日は地方でのサイン会と講演があるため、一日ほど家を留守にする。
「気をつけてね」
美奈が微笑む。その温かな微笑を映すガラス窓には、隼人が少し寂しげに手を振る姿が映っている。
「行ってくる」
いつものように戸を閉める。いつものように駅へ向かうタクシーに乗る。そこには日常があった。
だが、この「気をつけてね」という言葉が、後にどれほど痛烈な記憶として氷室の胸を抉ることになるか、今はまだ誰も知らない。穏やかな日常の営みが、実は「終わりの始まり」だったことを、氷室自身さえ想像していなかった。
第一章 - 「静寂が切り裂かれる日」
夕暮れが迫る頃、氷室遼一はタクシーの窓から見える街並みに目をやっていた。出張先でのサイン会を終え、ようやく帰宅の途についたが、胸の中に奇妙な違和感が広がっていた。街路樹に絡む薄闇、点灯し始めた街灯、平日の夕刻らしく慌ただしく行き交う人々。それらは何も変わらぬ、いつもの帰り道のはずなのに、何かがおかしいと感じるのは何故だろう。彼は額の汗を拭い、首をかしげる。
「こちらでよろしいですか?」
運転手の声に促され、氷室は家の前で降りた。いつもなら、窓辺に美奈が立っているか、隼人がドアのすりガラス越しに影を揺らしているはずだ。だが、その夜は奇妙なまでに静まり返っていた。外灯が門柱を照らし、軽い風が生垣を揺らしているだけ。人気(ひとけ)はない。
玄関の鍵穴に鍵を差し込む。カチャリ、と音がしてドアが開くと、暗い廊下がただ虚ろな口を開けている。
「ただいま」
と声を掛けるが、返事はない。いつもなら「おかえりなさい」と、美奈の柔らかな声が響くのに。隼人が走り寄って抱きつくはずなのに。氷室は胸が重くなるのを感じ、スイッチを入れて玄関灯を点けた。
靴箱の上には、美奈が差し替えたばかりの季節の花があるはずだった。しかし花瓶は空のまま。それが些細な違和感となって、氷室の背を冷やす。背筋を強張らせながら、彼はリビングへ続く扉をゆっくりと引いた。
そして、視界に飛び込んできた光景は、氷室の思考を一瞬で凍りつかせた。
リビングは、どこまでも深い沈黙に包まれ、しかし床一面が赤黒い液体に染まっている。鼻を衝く鉄臭い匂い。明かりを点けるまでもなく、その異様さは明瞭だった。
「……美奈?隼人?」
薄闇の中、呼びかける声は震え、宙を彷徨う。返事はない。代わりに、微かな滴り落ちる音が耳に残る。
震える手で、壁スイッチを探り当て、蛍光灯が一斉に点灯した。その瞬間、氷室は絶句し、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われる。
リビングの中央に、美奈と隼人が横たわっている。二人の身体は赤い海に浸され、まるで雑巾のように放り出されている。悲鳴を上げることすら躊躇われるほどの惨状に、氷室は膝から崩れ落ちた。
「美奈……隼人……」
声を絞り出すように、名を呼ぶ。だが彼らは応えない。永遠に応えない。氷室は震える指先で美奈の腕に触れようとするが、その冷たさに息が詰まる。まるで別の世界に引きずりこまれたような不条理な感覚が、彼をむしばんでいく。
脳裏に激しく響く血の色、鼻腔を満たす生臭い匂い――それらは濃密な闇となって彼の意識を覆い尽くした。やがて激しい眩暈が襲い、氷室は視界が歪むのを感じる。現実か悪夢か、区別がつかない。振り払おうと必死でも、その光景は瞼を閉じても焼き付いて離れない。
「なぜ……なぜこんなことに……」
掠れた声は、空虚な部屋で消えていく。思い出されるのは、朝、美奈が微笑み、隼人が手を振っていた光景。あの穏やかな日常が、今、足元で無残に切り裂かれている。
警察に通報しなければ、と脳裏で叫ぶもう一人の自分。しかし、指は震え、スマートフォンを探ることさえ容易ではない。ようやく電話をかけた先から、どこか遠くの世界の声が聞こえた。警官の言葉が、やがて訪れるだろう喧騒が、この静寂を切り裂くのかもしれない。だが氷室には、その先の時間軸が想像できない。
リビングの電灯が残酷なほど全てを照らし出す中、氷室遼一は絶叫した。何度も何度も、美奈と隼人の名を呼ぶ。その声は、自分の耳にも響かず、ただ宙をさまよって消える。フラッシュバックが始まる。執筆中に描いた凄惨な場面が、現実となって眼前に広がり、記憶と錯覚が絡み合い、出口のない迷路へと氷室を誘う。
この夜、静寂は血と絶望によって切り裂かれた。氷室はその破片の中で、深い闇に堕ちていく。妻と息子を失った瞬間は、同時に彼自身が「壊れる」瞬間でもあった。これまで築き上げてきた全てが、崩れ落ちていくかのように。
呼びかけては消える叫び――それは、これから始まる長い長い苦悩への序曲であった。
第二章 - 「筆の重さ」
事件から数日後、氷室遼一は自宅の書斎でただ座り込んでいた。机には、まだ血痕の臭いが鼻腔に残っているような錯覚さえ誘う。ペン立ては倒れ、ノートパソコンは電源すら入れられないまま、冷たく光を反射している。
誰もいない家。その沈黙は、死後の静寂と言うには生々しすぎる闇を孕んでいた。かつて創作の拠り所だった場所は、今や視界をえぐる惨劇の残響と結びついてしまった。氷室は震える手でペンを握ろうとしたが、力が入らず、するりと指の隙間を抜けて床へ転がった。
事件は報道によってあっという間に拡散された。有名作家の家族殺害。世間は無責任な憶測と好奇心をもってこの悲劇に群がり、その過程でひとつの憶測が声を大にしてささやかれるようになっていた。
「氷室遼一の小説が、犯人を刺激したのではないか」
その言葉はテレビのコメンテーターや週刊誌の見出し、SNSの書き込みにあふれ、まるで氷室自身に凶器を握らせるかのような非難だった。
自宅のチャイムが鳴るたびに、彼は息を殺した。出版社からの連絡や記者の突撃取材が後を絶たない。警察も犯人の手がかりを掴めず、事件は暗礁に乗り上げている。
ある朝、編集担当の大澤が、玄関先で暗い顔をして頭を下げた。「このままでは作品にまで悪影響が出る、誤解を解くためにも何かコメントを」と言い残し、弁明用の声明文案を手渡していった。氷室はそれに目を落とせない。自分の言葉で死を遠ざけることなど、今の彼には不可能だった。
外界との接触を拒む日々。カーテンを閉め切った部屋で、氷室は繰り返し悪夢に襲われた。夜半、目を開けると、そこには血の臭いが漂う。窓外を横切る自動車のライトが、リビングの一角で揺らめけば、その光が被害現場をなぞるような錯視をもたらす。仮にペンを握っても、脳裏をよぎるのは散文化した断片的な死のイメージ。彼はもう言葉を紡ぐことができなかった。
そんなある日、出版社の勧めで氷室は心療内科を訪れた。待合室の白い壁は病的なまでに清潔で、反対に彼の内面は汚れた記憶で覆われているようだった。診察室に通されると、若い医師が柔和な表情で椅子を勧める。
「フラッシュバックは、脳が処理しきれない記憶が何度も再現される状態です。あなたは大きなトラウマを負っています」
淡々とした言葉に、氷室は眉をひそめた。事件のことを他人ごとのように分析する声が、どこか遠くから聞こえる。
「薬を使えば、ある程度症状は和らぎますが……」
医師の言葉に、氷室は強い拒絶感を覚えた。薬に頼ることで、彼が唯一持っていた「作家としての感覚」まで鈍ってしまうのではないか。筆を折った今、作家である自分など存在しないも同然だが、それでも完全に創作の感覚を失うことは、彼の人格をさらに希薄にしてしまう気がする。「もし薬を飲んでしまったら、自分はただの抜け殻になるかもしれない」――そんな不安が、頭の片隅で囁く。
診察を終えた帰り道、炎天下の街角で週刊誌の立ち読みをする若者たちが目に入った。表紙には、氷室の顔写真が無断で使用され、大きな文字で書かれた見出しが踊っている。
「有名作家の筆が招いた惨劇?」
氷室は息を呑み、下を向く。己の存在が加害性をもって語られることに、身も心も軋む感覚を覚える。彼は犯人でもなければ、殺人を煽ったつもりもない。だが、現実はそんな内面の真実を顧みてはくれない。
自宅へ帰ると、ドアノブを回す手が震えた。内部には、まだ事件の跡が色濃く残っている。清掃されたはずなのに、心の中でこびりつく血痕は消えない。
ペンは机上に転がり、原稿用紙は真っ白なまま。「なぜ書けない?」と自問するが、その答えは闇の底に沈んだまま浮かび上がらない。凄惨なイメージがちらつくたび、頭痛と吐き気がこみあげる。創作行為はかつて自分を救い、輝かせてくれたはずだが、今は筆を握ることさえ罪悪感と恐怖に結びついている。
その夜、微かな物音が聞こえた。風が鳴っただけかもしれないが、氷室は過敏に反応した。赤黒い残像がまぶたの裏を駆け巡り、美奈と隼人の冷たい身体が再び脳裏に蘇る。
「うっ……」
声にならない嗚咽が喉を焼いた。ペンを握る力はなく、ただ震える指先が自らを責めているかのように感じられる。書くことは、もはや生きる術ではなく重荷そのものだ。
「筆の重さ」――それは、これまで彼を世に知らしめた武器であり、誇りであったが、今や家族を失った傷口を広げる凶器に思えた。書くことが他人に影響を及ぼし、時には狂気を呼び覚ましてしまったのではないかという疑念。自分が犯罪者の心を揺さぶり、命を奪う遠因になったのではと考えるたび、氷室は暗い淵へと沈んでいく。
氷室は依然としてペンを握れず、孤独と罪悪感、フラッシュバックに苛まれながら、外界との接触を拒み続けている。窓の外に光が射しても、それは彼の心を照らすことはない。彼にとって、執筆は遠い過去の記憶となりつつある。筆を握ること――それは、過去の自分と過去の家族を再び呼び起こす行為なのか。それとも、さらなる苦痛の扉を開くのか。その答えは、まだ見えない。
第三章 - 「残された手がかり」
それから幾日かが過ぎたが、事件はまったく進展しなかった。警察は捜査を続けていると公言しているが、報道陣は「捜査難航」を既成事実のように囁く。氷室遼一は、時折新聞やテレビを点けては、物憂げに視線を落とすだけだった。
自宅は無人となり、書斎は封印されたままである。リビングは清掃業者によって血の痕が消されたが、彼の内面には、あの日の鮮烈な記憶が濃密な闇として張り付いている。意識を手放すほど飲酒することも考えたが、より一層フラッシュバックが増すだけだと思い留まった。
そんなある朝、玄関ポストに一通の手紙が差し込まれているのに気づいた。無記名の封筒には、乱雑な筆跡で氷室の名前が書かれていた。差出人欄はなく、宛名だけが浮かび上がる。彼は一瞬、迷いと不快感を覚えたが、その手紙を開くと、そこには彼の作品から抜き出された一文が書かれていた。
「血の滴り落ちる静寂のなかで、命は深い嘲笑を秘めて消えゆく」
それは、かつて氷室が発表した短編「蒼い罠」の一節だった。犯人が氷室のファンであるか、あるいは彼の作品を模倣している可能性を示すような一文。氷室は指先が震えるのを感じた。続く文面には、「あなたは、まだ筆を握るべきではないか?」と挑発するような問いが添えられている。
氷室は手紙を握りしめ、唇を噛んだ。今まで避けてきた現実が、また別の形で迫ってきたのだ。この犯人は氷室が書いた残虐描写を手がかりに、あの惨劇を再現したのだろうか。もしそうだとすれば、自分の文章が、あの狂気を生み出す土壌になってしまったのか。氷室は吐き気を覚え、手紙を机の上に放り投げた。
警察にこの手紙を渡すべきだろう。だが、捜査はどうせ行き詰まったままに違いない。氷室は考え込む。自分が動かなければ、真相は闇に葬られてしまうのではないか。
「なぜこんな手紙を……」
自問しても答えはない。だが、この一節を正確に記憶し、引用できるほど読んでいる者は限られるはずだ。氷室の短編「蒼い罠」はデビュー初期の小さな雑誌に掲載された作品で、大衆的な知名度は低い。熱心な読者か、あるいは作品を遡って研究したストーカー的存在でないと、その文言を覚えてはいまい。
氷室はかつてのファンレターの山を思い出した。デビューから人気が出始めた頃、彼は多くの手紙に目を通し、それに込められた思いに応えようとしていた。だが、その中には奇妙な文面を綴る者もいた。行き過ぎた崇拝、猟奇的な憧れ、彼の描く暴力性を現実と混同する危険な兆候を示す読者が、ごく稀にいたことを思い出す。
氷室は書斎に入り込み、埃をかぶった段ボール箱を開けた。そこには今まで捨てきれなかったファンレターの束が詰め込まれている。開くのが怖かった書斎――妻と息子を失った忌まわしい記憶が濃厚に残る場所――だが、今はそこに手がかりを求めざるを得なかった。心は軋むように痛んだが、彼はペンよりも懐中電灯を握りしめ、古い手紙を一枚一枚確認する。
幾つもの熱い感想や励ましの言葉がある中に、異様な文面が紛れ込んでいる。死を讃える言葉、暴力を礼賛する乱筆、作品中の殺人者を「理解できる」と称える奇妙な読者像――こうした手紙は、当時はただ気味悪いと思っただけで、そのまま仕舞い込んだ。だが今、この中に犯人へと繋がる糸があるかもしれない。氷室の目は血走り、手紙の一文一文を追い続ける。
ふと、ある古い便箋が目に留まった。そこには「貴方の描いた死の情景が、私を生かしてくれます」という趣旨の言葉が記されている。差出人名は仮名か、判読しにくい筆記体で書かれており、住所は偽りなのか書かれていない。ただ、その文面には、今回犯人から送られた手紙と同質な狂気が感じられた。
読者やファンの中に潜む狂気。それを刺激したのは、氷室自身が描いた凄惨な世界だったのか――その考えが、じわじわと胸を締め付ける。フラッシュバックが再び頭をもたげ、あの日の血みどろの光景が脳裏に甦る。手紙の文字が、血文字のように滲んで見えた。
「書くことが、彼らを目覚めさせてしまったのか……」
視界が揺れ、汗が頬を伝う。罪悪感と恐怖、悲しみと怒りが渦巻く中、彼は椅子から立ち上がった。手紙と雑誌の切り抜き、過去のファンレターをもう一度整理し、頭の中で断片を繋ぎ合わせる。
警察に捜査資料として渡すべきか、それとも自分で追うべきか。迷いながらも、氷室は一歩前へ踏み出そうとしていた。恐ろしくも、自分が犯人を知る手がかりを持っているかもしれないという実感が、沈黙の中で彼を揺さぶる。
その夜、再びフラッシュバックに襲われた氷室は、どうしようもない悔恨に身を焼かれた。だが同時に、ただ怯えているだけでは何も変わらないことを、苦痛の中で悟る。あの挑発的な手紙は、あたかも犯人からの呼びかけにも思えた。「さあ、真相を探せ」と言わんばかりに。
氷室は手が震えながらも決意を固め始めていた。犯人は作品に潜む狂気を嗅ぎつけ、そこから自らの生きる意味を捻じ曲げて見出した存在かもしれない。家族を奪ったあの屈辱を晴らすために、彼は独自に動き出すだろう。フラッシュバックに苛まれ、筆を折った作家が、今度は探求者として闇に踏み込む――これが、さらなる苦悩と真実への道程の始まりだった。
第四章 - 「闇の中の追跡」
深夜、氷室遼一は微かな明かりに照らされた書斎で、乱雑に積み上げられた資料を前にうつむいていた。犯人からの手紙に記された引用文、過去のファンレター、そして警察が公開したわずかな手掛かり――それらを組み合わせることで、氷室は闇の中の糸をたぐり寄せようとしていた。外の街灯が雨粒に揺れ、窓ガラスに揺蕩う光は、まるで水底から見上げる月のように不確かだ。
「あなたの小説が私に生きる理由を与えた」――その言葉が、氷室の頭蓋内で何度もこだました。彼は作品を通じて読者の心へと潜る技術を持っていた。だが、今その矛先が逆転し、読者は彼の言葉を燃料に狂気を噴出させている。この殺人者は、氷室の文章の中に自らの生を正当化する拠り所を見出し、ついには妻と息子を犠牲にした。もし書いていなければ、美奈と隼人は今も穏やかな食卓を囲んでいただろうか? それを思うたびに、ペンは重くなるばかりだった。
翌日、氷室は意を決して、かつての編集担当・大澤を呼び出した。人気の出始めた頃、読者交流会などで出会った奇妙なファンについて何か情報が得られないかと思ったのだ。駅前の薄暗い喫茶店でコーヒーをすすりながら、氷室は声を低めて言った。
「昔、俺の初期作品についてしつこく尋ねてきた人物がいたはずだ。雑誌掲載時の設定や未収録稿について、異様な熱量で知りたがっていた読者。記憶にないか?」
大澤は困惑気味に眉をひそめた。
「確かに、妙な問い合わせがあった。『蒼い罠』の加筆前の草稿を見せて欲しいとか、『殺人者の心理をもっと深く描いて欲しい』とか、異常なほどこだわりを示す手紙が編集部に届いていた。名前は…確か“久遠(くおん)”と名乗っていたが、フルネームかは定かじゃない。」
氷室は心の中でその名を反芻する。久遠……過去のファンレターの束の中にも、それらしき記述があった。罪悪感と焦燥に苛まれながら、彼は小さく礼を言い、店を後にした。
自宅へ戻る途中、薄闇に包まれた裏通りで、氷室は何者かの視線を感じた。足音が止むと、相手も足音を止める。心臓が高鳴り、掌が汗ばむ。じわりと首筋に恐怖が這い上がる。彼は振り返りたい衝動を抑え、あくまで自然な歩調で歩き続けた。
次の角を曲がった瞬間、彼は意を決し、石畳に響く足音の主へ向き直った。その先には、人影が一瞬見えたが、すぐに路地裏の陰へと消える。尾行か、妄想か。それすら判別がつかないほど、氷室の神経は尖りきっていた。
夜、自宅に戻った氷室は、パソコンで過去の読者交流会やイベント参加者の名簿を細かく洗い直した。久遠と名乗る人物、あるいは似た偽名を使う人物がいないか。その検索作業は無謀にも思えたが、何かの手がかりが見つかるかもしれない。
深夜、薄暗い書斎で検索を続けていると、画面に妙なブログの記述が引っかかった。「死を謳う作家への賛美」と題され、氷室の作品を歪んだ愛情と残虐嗜好で分析する記事が残されている。書き手の名は明記されていないが、その文体と内容から、送られてきた手紙と似た狂気が滲み出ている。
氷室はそのブログコメント欄に、犯人と思しき者との痕跡を求め、片っ端から目を通した。そこには「あなたの言葉が私の背中を押した」などといった書き込みが散見される。筆名の使い分け、時折露わになる死への陶酔。そして「また会いたい」という謎めいたメッセージが、氷室に凍るような不快感を与えた。
そして数日後、ついに氷室は犯人と思しき人物への接触機会を得る。メールの返信用アドレスが巧妙に隠し込まれた古いコメントを発見したのだ。
意を決してアドレスにメールを送る。
廃工場跡での「再会」を示唆する奇妙なメッセージが届く。
「あなたが生み出した世界で、私は生きている。会いに来て、私を理解して欲しい」
――血が沸騰するような怒りと恐怖が、氷室の全身を駆け巡る。
廃工場跡は、人通りもない寂れた地区にあった。日が落ちる頃、氷室は意を決して向かった。足場の悪いコンクリート屑を踏みしめ、ひび割れた壁面をなぞるように奥へ進むと、そこに人影があった。薄闇の中、その人物はゆっくりと振り返った。
「来てくれたんですね、氷室先生……」
その声は抑揚が無く、恍惚とした響きを帯びている。氷室は一瞬、冷や汗が背中を流れ落ちるのを感じた。
「お前が、犯人なのか?」氷室の声は怒りと憎悪で震えている。
「犯人……そう呼ぶなら、そうかもしれない。でも、あなたの作品が無ければ私は生きられなかった。あなたが描く死と闇の中に、私は安らぎを見出したんですよ。」
その言葉を聞いた瞬間、氷室は激昂した。拳を震わせ、涙がこみ上げる。美奈や隼人を奪ったこの怪物は、彼の文章を歪んだ支えにして生き延びたというのか。
「お前は……」言葉にならない怒りと悲しみがこみ上げ、氷室はその人物に詰め寄る。しかし同時に、背後で物音がして、懐中電灯の光が差し込んだ。通報を受けた警察が、ようやくこの場所に踏み込んで来たらしい。犯人は抵抗もせず、ただ静かに笑っていた。
「ここまでしてまで何を求めるんだ!」氷室は怒鳴り声を上げる。しかし、犯人は一切動じることなく、穏やかな笑みを浮かべているだけだった。
「あなたの作品は、私にとって唯一の希望でした。家族を失い、生きる意味を見失った私にとって、あなたの描いた死は、再生への道しるべだったのです。だから、私はあなたの創造物を模倣し、自分の存在意義を見出そうとしたのです。」
その説明は、氷室には理解し難いものであった。彼の創作が、こんなにも歪んだ形で影響を与えるとは。彼は手のひらを握り締め、体が震えるのを感じた。
「だからこそ、あなたに書いてもらいたかったんだ。私の心の中の闇を、作品として形にして欲しかった。あなたの筆が、私を救う道具だったんだ。」犯人の言葉は、氷室の良心に刃を突き立てるようだった。
氷室はその言葉に反発しながらも、同時に深い悲しみを感じていた。「お前が俺の作品を救ったのか……なら、なぜ俺はこの惨劇を招いたんだ!」
怒りと悲しみが入り混じり、氷室は犯人に拳を振り上げた。しかし、犯人は一切避けることなく、ゆっくりと肩をすくめた。
「あなたの書く力が、私をここまで導いたのです。感謝しています。ですが、私の存在があなたにとっての負担となっているのなら、もう終わりにしましょう。」
突然、犯人は懐から一本のナイフを取り出し、刃先を自分の喉元に当てた。氷室の動きが止まる。
「おい、何をする気だ!」
「あなたの筆は、私に生きる意味を与えた。でも、もう十分です。あなたの物語の一部でありたい――だから、ここで終わらせるんです。」
その瞳には、狂気と絶望が入り混じった光が宿っていた。犯人の口元はかすかな笑みを浮かべ、刃をさらに喉元に押し当てようとした瞬間――
「やめろ!」氷室の叫びが廃工場内に響く。
次の瞬間、物音とともに複数の懐中電灯の光が鋭く犯人を照らした。警察が突入してきたのだ。
「ナイフを捨てろ!」警官の怒声が飛ぶ。
だが犯人は意に介さず、ナイフをさらに強く握りしめる。まるで彼にとって、警察の存在などどうでもいいかのように。
「終わらせるんだ……僕自身を、そしてあなたの苦しみも……!」
その瞬間、警察の一人が素早く飛びかかり、犯人の腕を押さえつけた。
「やめろ!」もう一人の警官がナイフを叩き落とし、地面に鋭い音を立てて転がった。
「離せ!」犯人は抵抗し、暴れようとするが、数人の警官が押さえ込み、ついに彼の動きを封じた。
氷室は呆然とその光景を見つめていた。犯人の抵抗は次第に弱まり、息を切らしながら微笑みを浮かべる。
「やっぱり、僕は……あなたの物語の終わりになりたかったんです……」
その言葉に、氷室の胸が締め付けられた。怒りと恐怖、そして拭いきれない罪悪感が彼を貫く。
その言葉に、氷室は思わず後ずさりした。犯人の瞳には、絶望と解放の色が宿っていた。氷室は深く息を吐き、冷静さを取り戻そうと努めた。
警察が犯人を連行する間、氷室は呆然とその場に立ち尽くしていた。雨が降り出し、氷室の頬を濡らす。犯人の言葉が、彼の中で重く響き続ける。
「創作の果てに、こんな形で他者の人生を狂わすことがあるのか…」
事件は解決の兆しを見せたが、氷室自身の心にはぽっかりと虚無が残る。家族を奪われ、自身の作品が犯人を駆り立てたかもしれない。そんな重荷を抱え、彼はまだ闇の中に立ち尽くしている。これまで筆を折った手のひらが、今後どんな道を辿るのか――その先には、まだ微かな光も見えぬまま。
犯人の逮捕後も、氷室の内面には葛藤が渦巻いていた。彼は家族を失った悲しみだけでなく、自分の創作が他者に悪影響を与えた可能性に対する罪悪感に苛まれていた。心の奥底では、創作行為自体に疑問を抱き始めていた。
しかし、彼の中にはまだ消えない思いがあった。美奈と隼人の笑顔、彼らとの日常が、脳裏に焼き付いて離れなかった。創作を通じてしか、その記憶と向き合えない自分がいることに気づき始めていた。筆を折ったままでは、過去の痛みと向き合う術を失ってしまったのかもしれないと考えるようになった。
その夜、氷室は再びフラッシュバックに襲われた。赤黒い残像がまぶたの裏を駆け巡り、美奈と隼人の冷たい身体が再び脳裏に蘇る。「うっ……」声にならない嗚咽が喉を焼いた。彼は無意識のうちに涙を流しながら、部屋の隅に崩れ落ちた。
「筆の重さ」――それは、これまで彼を世に知らしめた武器であり、誇りであったが、今や家族を失った傷口を広げる凶器に思えた。書くことが他人に影響を及ぼし、時には狂気を呼び覚ましてしまったのではないかという疑念。自分が犯罪者の心を揺さぶり、命を奪う遠因になったのではと考えるたび、氷室は暗い淵へと沈んでいく。
氷室は依然としてペンを握れず、孤独と罪悪感、フラッシュバックに苛まれながら、外界との接触を拒み続けている。窓の外に光が射しても、それは彼の心を照らすことはない。彼にとって、執筆は遠い過去の記憶となりつつある。筆を握ること――それは、過去の自分と過去の家族を再び呼び起こす行為なのか。それとも、さらなる苦痛の扉を開くのか。その答えは、まだ見えない。
第五章 - 「闇に沈む日々」
犯人逮捕の翌日から、氷室遼一の世界はさらに閉ざされていった。
世間は事件の終結を喜び、テレビやネットは「異常な犯行動機」と「氷室遼一の作品が犯人を狂わせた」という論調であふれかえった。書店には彼の過去作が並び、「氷室作品の暴力性」という特集が組まれる。だが、それらが彼の中の深い傷に塩を塗るだけであることを、世間は知らない。
氷室は自宅にこもり、ひたすら時間が過ぎるのを待った。廃工場での出来事がフラッシュバックし、犯人の狂った笑み、そして家族の姿が交互に脳裏をよぎる。
「あなたの小説が私に生きる理由を与えた。」
あの言葉が耳の奥で何度もこだまする。筆を握るどころか、立ち上がる気力さえ湧かない。カーテンを閉め切った部屋の中で、時間の感覚を失い、朝も夜もわからぬまま日々が流れる。
ある日、出版社の編集担当・大澤が氷室の元を訪れた。
「先生、いい加減に外に出ませんか。世間の目なんて気にしなくていいんです」
「帰ってくれ……俺に何も言うな。」
氷室の声は掠れ、焦点の合わない目で大澤を見つめる。その姿に、大澤は言葉を詰まらせた。
「先生、あんたの作品に救われた読者もいるんです。すべてがあんたのせいじゃないんだ――そう思ってくれ。」
大澤はそれだけ言い残し、氷室の書斎を後にした。だがその言葉も、氷室の心には届かなかった。
ある深夜、氷室は眠れぬまま、妻・美奈と息子・隼人の部屋に足を踏み入れた。事件以来、一度も開けることができなかったその場所。静まり返った部屋には、美奈が生前に使っていた料理本や、隼人の学校の工作物がそのまま残されている。
ベッド脇の小さな棚に置かれたアルバムを開くと、そこには穏やかな日々の写真が並んでいた。美奈が微笑み、隼人が無邪気にはしゃぐ姿――氷室が失ったすべて。
涙が止まらなかった。
「ごめん……ごめん、美奈……隼人……」
彼は崩れるように床に座り込み、嗚咽を漏らした。どれだけ謝罪しても、どれだけ泣き叫んでも、彼らが戻ることはない。それが、残酷なまでにわかっている。
ふと、アルバムの最後のページに、一枚の手紙が挟まっていた。それは、隼人が氷室の誕生日に書いたものだった。
「パパへ
いつもおしごとをがんばっているパパは、ぼくのじまんです。パパのおはなし、こわいけど、さいごまでがんばってよんでいるよ。
パパ、これからも いっぱいおはなしを書いてね!
だいすきだよ。」
震える手で手紙を握りしめ、氷室は天井を見上げた。隼人の言葉が、彼の心に微かな灯火をともす。
「お前は……俺を誇りに思ってくれていたのか……」
隼人の言葉と笑顔が、氷室の中で甦る。そして美奈の声が、頭の奥で優しく響いた気がした。
――「あなたなら大丈夫。書くことで、きっと見つけられる。」
その瞬間、氷室の心の底で、何かが小さく震えた。筆を折った自分、過去の自分に囚われたままでは、もう前に進めない。何もできなくてもいい。ただ、書くことで彼らとの時間に触れ、残されたものを見つめ直せるかもしれない。
第六章 - 「書くことの意味」
警察もマスコミも、いまは新たな話題へと移り始め、世間からの注目は薄れ始めていた。その夜、氷室は久しぶりに書斎へ足を踏み入れた。机の上のペンを見つめる。手はまだ震えているが、隼人の手紙がポケットにある。
「書くことで……もう一度、お前たちに会わせてくれ。」
震える指先でペンを握る。その感触は重く、しかし確かなものだった。
再び心療内科を訪れた日のこと。医師は穏やかな口調でこう言った。「氷室さん、フラッシュバックが少しずつ和らいできている気配は感じますか? いままで避けていたことに、少しずつ目を向けてみるのも良いかもしれません。」
「目を向ける……」氷室は繰り返した。「先生、実は……もう一度書いてみようと思うんです。」
医師はわずかに微笑み、「それは良い第一歩だと思います」と頷く。「書くことはあなたにとって、ただの職業ではなく、生き方そのもののはずです。それを取り戻すことは、あなた自身を取り戻す行為かもしれません。」
家に戻って書斎の扉を開けると、埃っぽい空気が鼻腔を刺激した。この場所は、筆を折った後、一度も腰を下ろしていなかった“戦場”だ。机の上に散乱した資料やノートを整え、ペンを手に取る。指先が微かに震える。
「書くことで、何を取り戻せる?」
それは、問いかけであり、祈りでもあった。
最初は何も浮かばなかった。空白の原稿用紙を見つめても、言葉は血のように凝り固まっている。だが、氷室は焦らなかった。深呼吸をして、ゆっくりと、ペン先を紙面に押し当てる。「美奈、隼人……」その名前を書いてみる。インクが紙を濡らす瞬間、心臓が締め付けられるような痛みと同時に、微かな光が射し込んだ気がした。
結局、その日は彼らへ宛てた手紙のような文章を書き留めるだけで終わった。物語にはなっていない。筋も構想もない。ただ心の内をさらけ出すための言葉が並んだ。それでもペンを握り続けることで、脳裏に焼き付いた惨劇の残像が、ほんのわずかに色を失う気がした。惨劇を言葉にし、悲しみを文字にする。その行為は、混沌とした苦しみを外在化し、整理しはじめるプロセスになっていく。
翌日、氷室はもう一度ペンを握った。少しずつ、物語の断片が立ち上がる。かつてのような残酷な描写ではなく、光を探す旅路の物語――痛みを負った主人公が、自分を見失いながらも、失われた存在に語りかけるようなストーリー。血塗られた過去を抱えつつ、いつか微笑むために、一行ずつ紡いでいく。
フラッシュバックはすぐには消えない。赤い色を見ると息が詰まり、深夜には惨劇の残影が襲う。それでも、ペンを走らせるたび、何かが溶けていく気がした。苦しみを語ることで、心の中にあった膿が少しずつ排出されていく。痛みは消えないが、痛みを「言葉」に変えることで、それは新たな形を持ち始める。
物語は、妻と息子に捧げるレクイエムでもあり、また自分自身を癒すための対話でもあった。書き進める中で、氷室は理解する。「犯人は僕の作品を間違った形で受け止めた。でも、僕は書くことで救われていたし、誰かを救える可能性もある。」創作は罪か、それとも救済か。答えは一意に定まらないが、だからこそ書くことに意味があるのだと。
日ごとに、原稿は増えていく。点と点を繋ぐ物語は、痛みと悲しみの河を渡りながら、その先に一筋の光を宿しはじめる。気づけば、フラッシュバックは和らぎ、赤い色を目にしても絶望の淵へ落ちることは減った。氷室は筆を握り、最後の行を綴る。「君たちに、もう一度会いたかった」――それは、誰にも見せない、彼自身への手紙のような一文だった。
ペンを置いたとき、彼は小さく息を吐いた。書くことで、彼は記憶のなかの妻と息子に再び出会えた気がした。悲劇は消えないが、その傷口に言葉という絆創膏を貼ることで、痛みは少しだけ和らぐ。氷室は、窓の外に差し込む淡い光を見つめながら思う。「書くことの意味」とは、闇に沈んだ心を、再び浮上させるための救命索なのだと。
氷室はペンを握る手に再び確かな感触を覚えている。家族を失った悲しみも、罪悪感も、すべてを抱えたまま、彼は紙上に新たな物語を紡ぐ。「書くことで悲劇と対峙し、乗り越えていく」――その行為の中に、微かながら確実な光が射しているように思えた。
終章 - 「一行の光」
翌年の春、気温が上がり始めた頃、書店の店先には氷室遼一の新作小説『光へ』が平積みにされていた。以前の彼が得意とした残酷な描写は影を潜め、代わりに静謐な悲しみと微かな希望が、行間に漂う物語だと話題になっている。
この店を偶然通りかかった一人の若者は、飾られた表紙と帯の文句に目を留めた。「何かを救うために書かれた物語」――その言葉は、昨今の殺伐とした世の中を渡るうえで、何らかの手がかりになりそうな気がした。彼は足を止め、ためらいながらも本を手に取る。ページをめくると、そこには押しつけがましくない優しい文章が並んでいた。
「この作者は、きっと何かを乗り越えたんだろうな……」
若者はそう思い、レジへ向かう。その背中越しに、店内の柔らかな明かりが書棚を照らしていた。
一方、その頃、氷室は自宅の書斎で、窓を開け放ち、春の風を胸いっぱいに吸い込んでいた。机の上にはペンがある。数ヶ月にわたる苦闘の末、彼は再び言葉の海へと漕ぎ出したのだ。新作を世に出したいわけではない。もう競う必要はない。ただ、書くことで、自分の中に失われた家族との対話が生まれ、痛みを抱えながらも前を向くための糸口が与えられる。そのことを、氷室は身をもって知ったから。
振り返れば、あの事件は氷室の人生を根底から壊した。美奈と隼人を奪われ、彼は闇の底へと沈んだ。筆を折り、狂気をのぞき込み、罪悪感に苛まれた。だが、どれほど苦しくとも、悲しみの先には言葉があった。言葉は創作者としての彼を再生させ、過去と向き合わせ、癒やしはしなくとも、痛みを形にすることで心の中に小さな光を灯した。
ペン先に視線を落とす。昔のような勢いはないが、確かな重みがそこにあった。彼は、その重みを大切にしたかった。もう一度、美奈と隼人に出会うために、記憶の中に笑顔で佇む彼らに語りかけるために、言葉を紡ぎ続ける。ペンが走るたび、氷室は彼らの存在を感じることができた。
窓外には淡い光が射し、庭木の新芽が風に揺られている。世界は容赦なく回り続けるが、その無慈悲な流れの中にも、人は希望のかけらを拾い上げることができる。氷室は、ペンを静かに机上に置いた。
「書くことで、僕は彼らともう一度出会えたんだ――」
その独白は、誰に聞かせるでもない、彼自身への確かな確信だった。
静かな部屋、穏やかな風、そして一冊の本。新作『光へ』は今、この瞬間も誰かの手で開かれ、誰かの心に小さな光の種を植えているかもしれない。氷室にはもう、それを確かめる必要はなかった。書くという行為が、自分を傷つけもすれば救いもする。その厄介な真実を抱えながら、彼はまた、ゆっくりとペンを握るだろう。
淡い光のなか、ペンを持つ氷室のシルエットで終わる。その背後には差し込む光の帯が伸び、かつての暗闇を穏やかに打ち消そうとしていた。