見出し画像

籠絡幻燈

主な登場人物

  1. 鏡谷縁(きょうや えにし)
    若き辞書編纂者兼探偵。知識欲が強く、誰もが知らぬような漢字や熟語を自在に使いこなす。

  2. 桐葉新策(とうよう しんさく)
    被害者。古語・古漢字の研究者。誰も理解できない難解な論文を書き続けていた。

  3. 杠葉馨(ゆずりは かおる)
    桐葉の助手。古文書に詳しく、複雑な知識を持つ女性。事件のカギを握る存在。

  4. 伊吹鏤(いぶき るり)
    人相書き(肖像画師)を生業とする隠遁者。知識の闇を覗き見る「裏社会の語り部」。

  5. 常葉樒(ときわ しきみ)
    資産家の娘であり、文学愛好家。事件に巻き込まれ、危険な目に遭う。

第一章:辞書編纂の幻(げん)

しんしんと降り積もる冬の夜、蒼白き明かりが辞書の頁(ページ)を照らしていた。
鏡谷縁(きょうや えにし)は、自身の書斎にある大机の前で筆を止め、硯(すずり)から染めた濃墨の滴が紙上に小さな黒点を生むのを呆然と見つめていた。

「どうして、こうも羸弱(るいじゃく)な紙が辞書の行を阻むのだ……」

彼の唇から零れ出る言葉は、もはや思考というより独り言に近かった。机上には辞書編纂中の原稿が山と積まれ、傍らには崩れそうなほどの古辞書が並ぶ。蒐集癖(しゅうしゅうへき)とも揶揄される彼の辞書愛は、幼少の頃より続く。

――人が言葉を紡ぐ限り、私はそれを網羅せねばならぬ。

そんな彼の信念を揺るがすような事態が、今宵もまた手紙一通で訪れた。


手紙は、旧友・桐葉新策(とうよう しんさく)からの急報であった。いや、正確には、桐葉の助手を務める杠葉馨(ゆずりは かおる)からである。便箋には達筆にして異様に緊張感漂う筆跡でこう綴られていた。

「桐葉先生、逝去せられ候。
書斎は密室。傍らに残されたる古文書に奇怪なる文字多数。
鏡谷先生、辞書編纂の御知識を以(も)て御助力願いたし。
杠葉馨」

「逝去、か……」

手紙を握りしめた縁の掌(てのひら)に、じわりと冷汗が滲んだ。

桐葉新策――それは鏡谷にとって、師とも呼ぶべき人であった。彼の業績は古語研究に尽き、埋もれた古典辞書や文献を蒐め、廃れた言葉を甦らせることに一生を捧げてきた男だ。しかし、その情熱の中には、時折偏執狂(へんしゅうきょう)のような狂気も垣間見えていた。

「古文書に奇怪なる文字、か……」

心当たりはある。桐葉が最期に取り組んでいたのは、廃語(はいご)や逸語(いつご)を辿る研究だ。日常生活においては決して使われぬ難解な熟語――それこそ、桐葉の生涯の研究テーマだった。


翌日、鏡谷は常暮町の桐葉邸を訪れた。黒煙を噴き出す汽車が駅舎を出る頃には、既に夜霧が重く町を覆い尽くしている。

「先生……よくいらしてくださいました」

出迎えた杠葉馨の顔は蒼ざめ、唇はわずかに震えていた。長い黒髪を束ねたその姿は、いつか桐葉の研究発表で見かけたときの聡明な助手そのものだったが、どこか今は別人のように陰を落としていた。

「詳細を」

縁は無駄な言葉を挟まぬまま邸内に足を踏み入れる。書斎に通されると、彼は息を呑んだ。

四方の壁には巨大な書架が並び、その上には無数の辞書、古書、そして破れかけた古文書が詰め込まれている。中央の机に倒れ伏す桐葉の姿を想像してしまい、縁は一瞬目を逸らした。

「ここが現場だ」

「はい……どうぞ、ご覧ください」

杠葉が示した机には、開きっぱなしの古文書があった。そこには見るも不可解な文字が綴られている。

「籠絡幻燈(ろうらくげんとう)
懿徳(いとく)の者、墨染めにして影と成らん」

縁は唖然とした。

「……籠絡幻燈、懿徳?」

「意味がお分かりになりますか?」

「懿徳……それは立派な徳を意味する、極めて古典的な語だ。しかし……籠絡幻燈とは、聞いたことがない」

鏡谷はそっと文書を指先でなぞる。この筆跡は確かに桐葉のものだ。しかし、書かれている意味が分からない。いや、これこそが彼の探し求めていた「未発見の言葉」ではないか――そう直感する。


書斎の隅には、黒光りする木箱が置かれていた。鏡谷が箱に触れようとすると、杠葉が思わず制止の声を上げた。

「先生、それには――」

「何が入っている?」

「……先生が最後に見つけた古文書です。ただ、開けると危険かもしれません」

「危険、だと?」

鏡谷の眉間に皺が寄る。古文書が人を危険に晒す――それは馬鹿げた話だ。だが、桐葉はその直前に死を遂げたのだ。籠絡幻燈、そして懿徳の言葉。彼は何を残し、何を伝えようとしたのか。

「真相は、ここにある」

鏡谷は木箱の蓋をゆっくりと開けた。そこには、息を呑むような美しい筆致で書かれた一篇の書があった――それこそが、物語の始まりだった。

第二章:密室の古文書

桐葉邸の書斎は、いまだに死の気配を滲ませていた。開け放たれた窓から冷えた風が入り込み、紙の擦れる音が部屋に響く。風に舞う古文書の破片がまるで亡霊の囁きのようだ。

「奇態(きたい)なものだ……」

鏡谷縁(きょうや えにし)は呟いた。室内を見渡す彼の目は、わずかな違和感も見逃すまいと光っている。床に散乱する文書、開かれた辞典、そして中央の大机の異様な静寂。

密室。それが今この部屋に突きつけられた最大の謎だった。

「鍵は、確かに内側に掛かっていたんですね?」
縁は杠葉馨(ゆずりは かおる)に目を向けた。

「ええ。私が最初に発見した時には、扉には内掛(うちが)けがありました。それを警察にも確認していただきましたから……」

杠葉の声には微かな怯えが滲む。彼女は桐葉新策の助手として、この部屋に日々出入りしていたはずだ。それでも、今目の前に広がる光景が現実のものとは思えないのだろう。

「密室、か……」

縁は椅子に腰掛け、倒れたままの硯(すずり)や筆の具合を確かめる。桐葉は何かを書き残そうとしたのか――机上の紙には何も書かれていない。ただ、驚くべきことに、紙の下からはうっすらと文字が浮き出ているのが見えた。

「これは……透かし文様か?」

縁は手早く紙を持ち上げ、光にかざした。するとそこに浮かび上がる異様な一文があった。

「幻燈に籠る者、必ず鏤む(かがむ)」

「鏤む(かがむ)……?」
縁は思わず声を漏らす。古語として知識にはあるが、現代に使われることはまずない単語だ。それは「刻みつける」ことを意味するが、なぜこの場にこの言葉が?

「先生、それは――」

「見覚えがあるか?」
縁は問いかけながら、もう一度紙の文様を凝視した。まるで蛇の鱗のような細かな装飾が、文字の周囲を囲んでいる。

杠葉は口を開いたものの、言葉が出てこないようだった。その目は、何かを恐れている。

「この言葉、まるで呪詛(じゅそ)のようだな。籠る者――とは、言葉に囚われた者のことだろうか……?」

その時、縁の視線が書斎の隅に置かれた机の引き出しに止まった。鍵が掛けられているが、何かを隠すような意味ありげな様相だ。

「この鍵は?」

「先生の大事な書物が入っている引き出しです。しかし、亡くなる前、桐葉先生は誰にも触れさせないようになさいました。『開けてはならぬ』と……」

杠葉の言葉に縁は眉をひそめた。

「開けてはならぬものほど、真実を隠しているものだ」

懐から細工用の小刀を取り出すと、縁は鍵穴に細工を施し始める。かすかな金属音が部屋に響くと、やがて引き出しは開いた。そこには、古びた反故紙(ほごし)が重ねられていた。

「これは……」

縁は一枚を取り上げると、そこに書かれていた文字に息を呑んだ。

籠絡幻燈図
語を忘るる者は賢し、覚ゆる者は影となる

「籠絡幻燈図、か……」

縁は頭の中で反芻した。桐葉が残した古文書には、何度もこの言葉が登場する。まるで執拗に訴えかけるかのように。

「籠絡(ろうらく)……人を巧みに引き入れ、操るという意味だ。だが、幻燈とは?」

「それは桐葉先生が研究していた言葉です。幻燈――もともとは映写機を指す言葉ですが、先生はそれを『人の知識を映し出す幻影』と定義していました」

「知識を映す幻影、か……」
縁は冷たい風が吹き抜ける部屋の中、そっと反故紙を机に置いた。

籠絡幻燈――知識に囚われ、影と成る者の物語。

「先生、これは単なる密室殺人ではない気がします」
杠葉の声が震えていた。

「そうだな。知識に囚われた者の末路――桐葉新策がその道を辿ったのなら、これは単なる偶発的な事件ではない」

縁の脳裏に不吉な予感が過ぎる。知識が人を狂わせる――それは、彼自身も心のどこかで恐れているものだった。

「真相を知るには、これ以上の文献を調べねばならん。だが――」

その時、書斎の窓が音を立てて閉じた。誰もいないはずの部屋で、風が起こるはずもない。

「……誰だ?」

縁は静寂の中で、闇に向かって問いかけた。知識の迷宮は、確実に彼を引きずり込もうとしていた。

第三章:知識の迷宮(めいきゅう)

夕暮れの常暮町(じょうぼまち)は、煤けた空にひっそりと溶け込んでいた。街路を覆う煤煙と湿り気が、まるで町そのものを沈黙へと導くかのようだった。鏡谷縁(きょうや えにし)は襟を立て、目的の建物を前に立ち止まった。

「文燈会(ぶんとうかい)」――それは知識人たちの秘密めいた集いであり、学問の名を借りた一種の狂宴でもあった。桐葉新策(とうよう しんさく)が最後に姿を見せたのも、ここだという。

「よくぞ参られたな、鏡谷先生」

扉を開けたのは、主催者のひとりである遠州院良真(えんしゅういん よしま)であった。遠州院は長い法衣に身を包み、禅僧のような面立ちをしているが、その瞳の奥には光とは別の冷たさが宿っていた。

「我らの競書会(きょうしょかい)へようこそ。どうぞ、言葉の深淵を覗かれるとよい」

「招かれた覚えはないが、興味はある」

縁は冷静に返し、重厚な扉をくぐった。中へ入ると、そこには異様な光景が広がっていた。


巨大な円卓の周囲に座る学者たちは、異様な静けさを保ちつつ、各々が羊皮紙や墨書に向かって筆を走らせていた。硯の音、筆の擦れる音、そしてどこか遠くから聞こえる祈祷のような声――まさに「知識の迷宮」というべき光景だった。

「これが……競書会か?」

縁は呟いた。遠州院が隣に立ち、淡々と説明する。

「競書会とは、廃語や逸語を発見し、それを再び書き記す儀式でございます。ここに集う者は皆、知識の影を追い求める者たち。真の学問とは、忘れ去られた言葉を掘り起こし、そこに鏤(かが)むことにある」

「鏤む……」
縁の目が鋭く光った。その言葉が、桐葉の死の間際に残されていたものと同じだ。

「ふむ、やはり引っかかるか。桐葉先生も最後までこの会に心を奪われておった――もっとも、彼は禁忌に触れ過ぎたのだろうがな」

遠州院の言葉に、縁はわずかな違和感を覚えた。禁忌に触れ過ぎた――その言葉の裏に何が潜んでいるのか。


円卓の一角に、縁の視線を釘付けにするものがあった。
それは、一冊の黒革の装丁で覆われた書物。墨が滲んだような、いや、それとも生き物の皮膚を思わせる質感である。

「その書は……?」

籠絡幻燈図(ろうらくげんとうず)ですな。彼が触れてしまった“影”そのものよ」

遠州院が含み笑いを浮かべた。

「これは禁書だ。幻燈――人の知識と心を映し出し、その者を籠絡するもの。我らはこうも言う。『籠絡とは知識の罠、幻燈とは心の牢獄』と」

縁は目を細めた。桐葉の死とこの「禁書」の関わりは明らかだ。しかし、その正体は未だ朧(おぼろ)である。

「それで、何をしている?」

「“競う”のだよ。誰が最も廃れた言葉を見つけ、それを正確に書き記せるか――それが競書会の本質だ。だが、そこにはもうひとつの掟がある」

「掟?」

知識を知りすぎた者は、影と成る――

遠州院の声には不気味な抑揚があった。


その時、円卓の一角で突如として声が上がった。

「駄目だ……書けぬ……!」

振り返ると、一人の学者が震える手を見つめていた。彼が手にしていた筆からは、墨がまるで黒い血のように垂れている。顔は青ざめ、口からかすれた言葉が漏れる。

「見えた……影が……籠絡……幻燈が……!」

「何があった!」

縁が駆け寄ると、その学者は半狂乱のまま書物に顔を伏せた。彼の目は虚ろであり、既に常人の理を超えていた。

「影に囚われたのだ……」
遠州院は低く呟き、沈痛な面持ちを作ってみせる。

「鏡谷先生、あなたもお気をつけなされ。知識に溺れれば、桐葉先生と同じ道を辿ることになる」

「脅しのつもりか?――ならば、見届けさせてもらう。この迷宮の中で、真実を見つけるまで」

縁の声には微かな苛立ちが滲む。知識は道具であり、武器である――それに籠絡されるなど、彼にとっては許されざる愚行であった。


その夜、競書会の終了後に、縁は遠州院に問いただした。

「桐葉は何を見た? 何が禁忌とされているのだ?」

遠州院は唇を引き結び、やがて小声で言った。

「――籠絡幻燈の中心には、影の言葉がある。それは記せば必ず影に囚われ、己を見失う言葉だ」

「影の言葉……?」

「桐葉先生も、その言葉に触れたのだ。だが、あの方は賢しすぎた……」

縁は遠州院を睨みつけた。知識の果てに何があるのか――そしてその「影の言葉」とは一体何なのか。

知識の迷宮はさらに深く、そして冷たく、縁を誘おうとしていた。

第四章:語り部の鏤み(かがみ)

常暮町(じょうぼまち)の裏路地を進むにつれ、空気は次第に淀み、どこか血の気が抜けたように冷えていた。煤けた壁には染み付いた墨のような痕が散見され、どこからか軋む音が幽かに響く。鏡谷縁(きょうや えにし)は、その異様な静けさを感じつつ、人相書き師――伊吹鏤(いぶき るり)の住処に辿り着いた。

古びた二階建ての長屋。表札には、枯れた墨跡で「伊吹鏤」と書かれていた。

「――どうやら、ここだな」

縁は戸を軽く叩いた。すると、数秒の静寂の後、奥から微かな声が聞こえた。

「入れ……鏤(かが)む者よ」

その声は底の知れない静けさと、滲むような諦念に満ちていた。縁は躊躇なく扉を開け、中に足を踏み入れた。


室内は、まるで墨染めの世界のようだった。障子、襖、畳の端々に墨の痕跡が散らばり、無数の人相画が乱雑に壁に貼られている。描かれた顔は皆、何かに怯え、或いは微笑を浮かべつつ虚空を見つめていた。

「……伊吹鏤か?」

「鏡谷縁――お前か。言葉に絡め取られる愚者が、また一人」

部屋の奥から現れたのは、痩身の男だった。伊吹鏤の顔はまるで刻まれた木彫りの像のように皺だらけで、彼の細い指先には常に墨が絡みついていた。

「お前が何を求めてここに来たかは知っている。桐葉新策(とうよう しんさく)の死、そして籠絡幻燈――それが何たるかを知りたいのであろう?」

縁は伊吹の目を真っ直ぐに見つめた。その目には奇妙な光が宿っていた。まるで知りすぎた者だけが宿す、底冷えするような虚ろな輝き。

「教えてくれ。あの“言葉”とは何だ? 知識が人を惑わし、影に堕とすというのは――」

伊吹は縁の言葉を遮るように、薄い笑みを浮かべた。

「ふむ……お前も、もう片足を踏み入れているな。知識とは毒だ。言葉とは鏡だ。 その両方を解そうとすれば、人は必ず鏤まれるのだよ」

「鏤まれる……?」

伊吹は筆を手に取り、机上の紙に滑らかに文字を書き始めた。書かれた言葉は、禍々しいほどに美しい筆致でこう綴られていた。

「籠絡幻燈――知識の闇を覗き、己を映す者」

「籠絡幻燈は、もともと逸語だ。それを知る者は少ないが、桐葉は気づいてしまった。知識は、知れば知るほど自身を映し出す幻燈に堕ちる。 その幻燈に映ったものこそ――影だ」

「影……」

縁は呟き、頭の中で遠州院良真の言葉を思い出した。
「知識を知りすぎた者は影と成る――」

「つまり、人は言葉に囚われ、影に成り果てるというのか?」

伊吹は筆を置き、縁に目を向けた。

「そうだ。知識に溺れた者は次第に、己が本物か幻かを見失う。幻燈に映る影を真実と信じ、己の心を籠絡される。鏤むとは、魂に言葉を刻まれることだ」

その時、縁の脳裏に一瞬、桐葉の書斎で見た透かし文様の文字が浮かんだ。

「幻燈に籠る者、必ず鏤む」

「では、桐葉は――」

「奴は言葉の迷宮を解こうとした。そして禁忌に触れた。籠絡幻燈とは、知識を愛しすぎた者たちへの罠なのだ」

伊吹の声はひそめられ、しかしその言葉には確かな力が込められていた。


縁は机の上の一枚の人相画に目をやった。その絵の中の顔は、どこかで見覚えのある男――桐葉新策であった。しかし、その目には正気の欠片もなく、虚ろな笑みが描かれている。

「……これは、桐葉なのか?」

「ああ、死の直前に奴を描いた。彼は既に籠絡され、言葉に囚われていたのだ」

縁は喉元に鋭い冷たさを感じた。知識は武器であり、守るべき理(ことわり)だ――そう信じて疑わなかった彼の心に、今、初めて影が差した。

「お前も気をつけろ。お前の瞳には桐葉と同じ光がある――それは知識に執着する者の目だ」

伊吹の言葉が鋭く胸を刺した。縁は拳を固く握り締める。

「――それでも、進むしかない。知識は光であり、影でもある。ならば、その影を暴いてやる」

「ふん……ならば、堕ちるがいい。だが、覚悟しておけよ、鏡谷縁――」

伊吹の声が背後に響く中、縁は冷え切った部屋を後にした。足元には影が伸び、言葉の迷宮へと彼を誘うように蠢いていた。

第五章:幻燈に籠る者

常暮町(じょうぼまち)の夜は、まるで黒墨を流し込んだように暗く淀んでいた。人の気配も絶え、遠くで鳴く烏の声が町の隅々まで響き渡る。鏡谷縁(きょうや えにし)は深い溜息をつき、手にした古書を開いた。

その書は、資産家の娘・常葉樒(ときわ しきみ)が秘蔵していたものだ。書名は不明、表紙は劣化して文字が滲み、もはや原形を留めていない。しかし、縁が見逃すはずのない「籠絡幻燈」の言葉が、そこに微かに浮かび上がっていた。

語に籠る者は幻と成り、己を映す影となる……

縁は呟いた。伊吹鏤(いぶき るり)が語った「影と成る者の末路」、そして桐葉新策の書斎で見た文言が次々と繋がっていく。

その時、扉の外から慌ただしい足音が駆け寄ってきた。杠葉馨(ゆずりは かおる)が勢いよく部屋に飛び込む。

「鏡谷先生、大変です! 常葉様が――」


常葉樒の屋敷は喧噪に包まれていた。邸内に駆け込むと、縁の目に飛び込んできたのは、打ち砕かれた硝子窓と室内に散らばる書物の数々。その中心に、青ざめた顔の樒が息を切らしながら座り込んでいた。

「どういうことだ?」

縁が問い詰めると、樒は怯えた目で顔を上げた。

「……何者かが、私の部屋に侵入してきたのです。窓を割って、何かを探しているようでした。私が悲鳴を上げると、姿を消しましたが――」

彼女の手には、薄くて黒ずんだ一冊の古書が握られていた。

「これは?」
縁は慎重にその書を手に取った。樒が怯えながら答える。

「桐葉先生が残してくださったものです。『決して開けてはならない』と言われていたのに、怖くなって……」

縁が書物を開くと、そこには呪詛のように書き連ねられた文字が浮かんでいた。

「籠絡幻燈図――心は映され、影となる者を喰らう」

「喰らう……?」

縁は眉をひそめた。まるでこの書が意思を持つかのように、見た者の精神を蝕むのだ。

「常葉、あなたはこの書を開いたのか?」

樒は震えながら頷く。縁は唇を固く結び、その書を閉じた。

「これは危険だ。触れれば心を蝕まれ、影に堕とされる――桐葉はそれを知っていたのだろう」


その時、邸内の廊下から鈍い音が聞こえた。

「……何者かが、まだいるな」

縁は机に置かれていた蝋燭を手に取り、足音の方向へ向かった。廊下は暗闇に沈み、わずかな光だけが縁を導く。突如、影が動いた。

「誰だ!」

縁が声を上げると、その先には煤けた衣を纏った一人の男が立っていた。顔は墨で塗り潰したように黒く、目だけが爛々と光っている。

籠絡……幻燈……影、影……

男は低い声で呟きながら、縁に向かって駆け出した。手には古びた短刀。縁はとっさに身をかわし、廊下の壁際へ飛び退いた。

「……やはり、幻燈に囚われたか」

その瞬間、男の目が虚ろに縁を見つめ、笑い声とも呻き声ともつかぬ音を立てる。そして、彼は自ら短刀を己の胸に突き立てた。

「影は……逃げぬ……籠る者の……運命よ……」

男の身体が床に倒れる。だがその口元には、笑みが浮かんでいた。


縁は冷えた空気の中で膝をつき、倒れた男の傍に散らばった紙片を拾い上げた。そこには、再び同じ言葉が繰り返されていた。

「言葉に籠る者、必ず影となる」

「桐葉も、この男も、知識に囚われた者の末路か……」

その時、縁は唐突に恐ろしい確信に至った。

「――そうか。籠絡幻燈は、言葉そのものが罠だ。書かれた文字に触れ、読んだ瞬間に心が囚われる」

樒が震える声で縁に問う。

「どうすれば……どうすれば、この呪いから逃れられるのですか?」

縁は立ち上がり、手にした古書を凝視した。

「言葉を知れば知るほど、人は影を生み出す。だが、真実はその先にある。桐葉は最後に、それを見極めようとしたのだ」

「見極め……?」

「――言葉をただ解き放てばよい。鏤まれた知識を、人の手から解き放ち、呪いの根源を断つ」

縁は書を机の上に置き、その上に蝋燭の火をかざした。

「桐葉、お前はこれを燃やそうとしたのではないか?」

だがその瞬間、紙面に書かれた言葉が揺らぎ、まるで影が逃げるように文字が滲んでいく。部屋中に異様な圧が満ち、樒が耳を塞ぐ。

「やめて! 何かが……何かが来る!」

縁は一瞬手を止めたが、唇を噛み締め、蝋燭を落とした。火が紙を舐め、黒煙が立ち昇る。その煙は壁を這い、天井へと伸び、まるで影が逃げ去るように揺らめいた。

――それは、言葉の呪いが解けた瞬間であった。

第六章:真相と廃語(はいご)

冬の夜が更け、常暮町(じょうぼまち)は不気味なまでの静寂に包まれていた。蒼白い月光が桐葉邸の書斎を照らし、微かな風が紙の端を揺らしている。鏡谷縁(きょうや えにし)は机の上に並べた古書と反故紙(ほごし)の束に視線を落とし、深く息を吐いた。

「……ようやく全てが繋がったか」

目の前の紙片には、繰り返される文言――「籠絡幻燈」「影となる者」、そして何より「鏤む(かがむ)」という言葉が幾度も記されている。それらを繋ぎ合わせることで、見えないはずの真実が浮かび上がりつつあった。


杠葉馨(ゆずりは かおる)が静かに問いかける。

「先生、解けたのですか……? あの密室の謎が……」

縁は頷き、ゆっくりと口を開いた。

「桐葉新策(とうよう しんさく)は、自ら幻燈に籠ることでこの事件を完成させたのだ――密室殺人を偽装した自死だよ」

「密室……自死?」

杠葉の顔が蒼ざめる。縁は机上の紙を一枚手に取り、彼女に示す。

「これを見よ。桐葉は最後に残した手記にこう書いている――『籠絡幻燈図は知識を愛した者の終焉であり、真実の器である』。奴はこの書の呪いを解明しようとし、知識に籠絡されていく自らの姿を観察した」

「……観察、ですか?」

「ああ。そして密室という舞台を用意し、誰かにこの謎を解かせることで――知識に囚われた者がどう堕ちるのか、その結末を記そうとしたのだ」


縁は、桐葉の書斎を指差した。

「机に散らばっていた反故紙には、桐葉の思索の痕跡が残されていた。おそらく彼は最後の瞬間まで籠絡幻燈を解き明かそうとしていた。だが――」

「だが……?」

「――その真実に触れたことで、彼自身が影に堕ちた」

縁の声には、僅かな震えがあった。自身もまた、その罠の縁に立っているという自覚が胸を締め付ける。

「しかしなぜ、自死を選んだのですか? 誰かに殺されたのではないのですか?」

「違う。桐葉は気づいてしまったのだ――この言葉が、人間の精神を蝕む呪いそのものだということに。そして自らが解き放つ代わりに、こうして知識の罠を完成させた」

縁は静かに続けた。

「書斎は密室ではなかった。窓の鍵は、彼自身が工夫した偽装だ。彼は最後に一筆書き残し、墨を滴らせながら命を絶ったのだ――知識に囚われた者として」


杠葉は震える手を口元に当て、息を呑んだ。

「知識が……人を狂わせる……」

「そうだ。そして、この籠絡幻燈図がその象徴だ」

縁は机の上に置かれた黒革の書を睨んだ。書物はまるで何かを訴えかけるかのようにそこに鎮座している。

「これは、知識の闇を映し出す鏡だ。読んだ者はその闇に囚われ、自分自身の影に堕ちる。桐葉はこの禁忌を暴こうとし、そして果てた」

「では、真犯人は……」

知識そのものだ

縁の声が静かに響く。


その瞬間、室内の蝋燭が一つ、ふっと消えた。影が壁を這うように揺らめき、縁の視界の端に一瞬、何かが動いた。

「……幻燈が、こちらを覗いているのか」

縁は己の手が震えているのに気づいた。知識を解き明かすこと。それは光であるはずが、同時に影でもある――。

「籠る者は幻と成り、影となる」

桐葉はこの罠に堕ちた。そして今、縁自身もその言葉の呪いに囚われつつあるのを感じていた。

「……鏡谷先生」

杠葉の声が、わずかに怯えている。

「あなたも、言葉に囚われているのではありませんか?」

「――かもしれん」

縁は静かに答え、書物の上に手をかざした。

「だが、私は進む。知識の影を暴き、その呪いを終わらせるために」

終章:幻滅の語(ご)

静寂が支配する鏡谷縁(きょうや えにし)の書斎。卓上の蝋燭は小さく揺れ、墨の匂いだけが部屋に満ちていた。彼の手には例の「籠絡幻燈図」はなく、代わりに新たな辞書編纂の原稿が整然と並べられている。

彼は机に向かい、筆を取った。

「……執筆再開だ」

硯(すずり)に筆先を浸し、縁は静かに書き始める。だがその筆跡はどこかおぼつかず、手がわずかに震えているのを自覚する。

――言葉に囚われた者は影となる。

その文言が頭の奥底から離れない。心の隅に棲みついた何かが囁いてくる。


時は少し遡る。事件の解決直後、桐葉新策(とうよう しんさく)の葬儀が行われた。葬列は簡素なもので、参列者も少なかったが、その顔触れの一人ひとりがどこか無言の重圧をまとっていた。

「桐葉先生は、自ら言葉に殺されたのですね……」

杠葉馨(ゆずりは かおる)が呟くように言った。

縁は冷たい空を見上げ、静かに答える。

「いや――桐葉は言葉そのものの罠を作ったのだ。自らを犠牲にしてな」

「それが……真実なのですか?」

「真実だ。だが、それを知ってもなお、私たちは言葉を使わねばならない」

「なぜ?」

縁は答えなかった。杠葉の問いは正しい。知識の果てにあるのが影であるのなら、なぜ追い求めるのか――彼自身、答えは出せなかった。


日々は過ぎた。

鏡谷は辞書編纂に戻ったものの、その日常はどこか異様に静まり返っていた。言葉に触れるたび、筆先から逃げるように別の影が湧いてくる。

「……廃語(はいご)。逸語(いつご)。呪詛(じゅそ)……」

彼はかつてのように辞書の中の言葉を集め、整理しようとする。しかし、筆を進めれば進めるほど、彼の中に違和感が広がっていく。

言葉は武器か、それとも毒か――

ふと窓ガラスに映る自分の顔を見た。そこには、まるで桐葉の人相書きで見たあの男の顔が重なっている。

「……影か」

縁は呟き、書き続けた。


ある日、杠葉が書斎を訪ねた。

「先生、お加減はいかがですか?」

「問題ない。進んでいるさ」

縁は短く答えたが、彼女の視線は彼の手元の原稿へと注がれる。そこには、明らかに異様な文字――何度も繰り返し書かれた同じ言葉が並んでいた。

「籠絡幻燈、籠絡幻燈、籠絡幻燈……」

「先生、それは……」

「何でもない。ただの反復だ」

縁は紙を裏返し、杠葉を見つめた。

「言葉は生き物だ。知れば知るほど、心に絡みつく。それが知識の宿命だろう」

「――それでも、辞書を編むのですか?」

杠葉の問いに縁は一瞬黙し、そして微かな笑みを浮かべた。

「誰かがやらねばならないからな」

その表情には、かすかな疲労と諦観が滲んでいた。


夜、縁は独り書斎に佇んでいた。窓の外には月が光り、その光が彼の顔に陰影を作る。

彼はふと、辞書の一頁を開き、意味もなく目を走らせる。

――籠絡(ろうらく)。巧みに人を操り、引き入れること。

「知識は呪いだ……」

その言葉が、部屋の静寂に沈んでいく。

彼の瞳に宿るのは、言葉の迷宮を覗き見た者だけが持つ「影」であった。だが彼は、筆を置くことはない。

言葉に囚われ、影を抱きながらも――彼は前に進む。


蝋燭の灯りが、ふっと消えた。

室内は暗闇に沈み、ただ机上の辞書だけが静かに佇んでいた。

いいなと思ったら応援しよう!