死ぬまで踏みにじって
第1章 歪んだ種子
じっとりと湿ったリビングの奥から流れてくるのは、テレビのくだらない音だけだった。沢村修一はソファに沈みこんだ父の背中を見つめ、呼びかけようか迷い続ける。手には、ぐしゃぐしゃに折れ曲がった学校のプリント。
「……父さん、これ……」
か細い声で言いかけるが、父は返事をしない。声を荒らげたところで何も起こらないのはわかりきっている。テレビの映像が彩る背中は、まるで修一の存在を初めから認めないまま時間を浪費しているかのようだった。
諦めじみた吐息を漏らして、修一はプリントを丸めたまま自室に引きこもる。雑然とした床には壊れたおもちゃや散乱した本が放り出され、部屋全体が乱雑な思考の映し鏡のようだ。無関心と放置に満ちた家庭。その空虚さから逃れられない息苦しさを感じながらも、同時にこの混沌とした空間こそが自分を守っている気もしてしまう。
「……どうして、誰も何も言わないんだよ」
天井を見上げて呟いても、返ってくるのは白い虚無。親も教師もクラスメイトも、修一の感情には一切干渉してこない。その「何もしない」という見えない暴力に、子ども心はじわじわと蝕まれていく。
学校でも同じだった。机の中にくだらないゴミが押し込まれていたり、わざと椅子を引かれて転ばされそうになったり、くだらない悪ふざけが日常になっている。教師に訴えても、取り繕うだけの笑顔と「気にしないで」が返ってくるだけだ。誰も助けてくれない。その無力感が、修一の心にさらに暗い影を落としていく。
ところが、ある日の帰り道――公園で鳩の群れを見たとき、修一の中に「なにか」を吐き出したい衝動が突き上げてきた。誰もが自分を無視する無関心のモヤモヤを晴らすかのように、修一は石を拾って迷いなく鳩へ投げつける。
ばさばさと羽ばたいて逃げる鳩の姿に、胸がじわりと熱くなった。可哀想とか申し訳ないとか、そんな感情は湧かない。それどころか、自分が投げた石に反応して飛び散る鳩たちを見て、体が軽く震えるほどの興奮を感じた。
「逃げるんだ……そうだよな、当たり前だ」
逃げ惑う生き物を支配する――その一瞬、自分が「強い側」に立ったような錯覚が心を満たす。もし怪我をした鳩がいたらどうしただろう。羽を掴んでどこまで苦しめられるのか、ふとそんな危ない想像がよぎる。けれど同時に、そこまではできなかった自分に少し安堵しているのが笑えてくる。
さらに遡れば、修一が十歳頃のある出来事が脳裏をかすめる。庭の物置で飼っていた小さな甲虫――わざと羽をもぎ取るように弄んだあの日。
きっと嫌悪感を抱くのが普通なのだろう。それなのに、潰れて体液がにじむ甲虫を見下ろすときのあの背徳感と、身体がじわりと熱くなる奇怪な昂揚。それが、まだ幼い修一の胸に「怖いけど、やめられない」甘美な震えを刻み込んだ。
「これが……痛み、なのか」
誰かを、何かを、自分の掌で握り潰せるかもしれないという絶対感。小さな子どもにとっては凶暴な力の表れに他ならないが、それが当時の修一には痺れるほど刺激的な体験だった。誰にも知られたくない、しかし自分だけが知っている秘密の悦び。
この悦びは、単なるいじめや復讐心とも違う。あの吐き出されない鬱屈を、弱い生き物を踏みにじることで一瞬だけ解放できる――その感覚が修一の中で、じわじわと根を張り始めていた。なにかが胸の奥で蠢き、煮え立つように叫んでいる。
「このまま……誰にも理解されないまま、消えるわけにはいかない」
無関心の海に沈められるなら、いっそ誰かを踏みにじってでも「俺はここにいる」と叫びたい。両親や教師、クラスメイトに突き放されるたびに、その思いはさらに強くなっていた。
思春期に差し掛かるにつれ、修一の心の乾きは一層激しくなる。人間なんて誰も信用できやしない。けれど、その虚無と屈辱に埋もれていたくないなら、自分が誰かを押さえつけて上下関係をハッキリと描けばいい――そのひどく乱暴な結論が、少年の内側で密やかに育っていく。
他の連中を見て、「こいつらだって弱いくせに、俺を笑ってる」と思うたび、どうしようもない憎悪か、または欲望に近い興奮が込み上げるのだ。
夜の自室で、散らかった床に身を投げ出しながら、修一は自問する。
「……本当は、誰かを思いきり痛めつけたい。潰したい。そしたら、俺はスッキリできるのか」
そう考えるたび、小さな虫を弄んだあの感覚がフラッシュバックする。じわりと体温が上昇していくのを感じつつ、それと同時に「他人がこんな俺を知ったらどうなる?」という妙な興奮も胸をかき乱す。
家庭の無関心、学校のからかい、教師の冷淡な笑み。それらが修一を追い詰める度に、彼の中の淫靡なサディズムの芽は少しずつ育っていく。モノクロームだった世界に、まるで血のような赤い色がじわじわと滲むように――踏みにじる快感こそが、自分の存在を証明する唯一の方法かもしれないと思い始めているのだ。
「もっと強くなりたい……誰も俺を笑えないくらい、支配してやりたい」
それは復讐でもあるし、快楽への渇望でもある。両方が混ざり合い、言葉にならない熱を修一の胸に生み出す。
そして、そんな自分に気づきながらも、まだ断ち切ることができない。いっそ暴れて周囲をぶっ壊すことは可能かもしれないが、どこかでブレーキをかける理性がある。じわじわと形を成すサディズムは、甘く淫靡な炎となって修一を蝕んでいる。
「このままなら、きっと……」
夕日の赤が差し込む部屋に、陰鬱な影が伸びる。散らかったプリントや雑誌を照らすその光景は、修一の心中にある黒い欲望をさらに鮮明に浮かび上がらせる。まるで現実全体が薄赤いフィルターをかけられたように見えるのは、彼が瞳に宿した歪んだ種子のせいなのかもしれない。
弱い命を弄んだときに感じた背徳的な熱さ――あれさえも、自分を“生かしてくれる”要素なのではないかと、薄々分かり始めている。もう、普通に人を信じて笑い合う世界とは縁がない。だったら、自分が「踏みつける側」でいられたら、少なくとも惨めにはならないだろう。
「……やめられるわけがない」
小さく呟いて、修一は窓の外を眺める。どこかで誰かが楽しそうに笑っているかもしれない。それを想像するだけで、嫌悪と羨望が入り混じったドロリとした塊が胸を締めつける。ならば、いずれ誰かを支配しなければ、この感情は晴れないのだ。
こうして、誰も気づかぬうちに芽生えたサディズムの種は、密やかな水を吸うように修一の心の奥で根を広げていく。身体を焼くような興奮と、周囲への絶望を糧に、歪んだ幼芽は静かに育ち始めていた。愛や優しさに裏切られた子どもは、誰かを傷つけることで自分を確かめるしかない――そんな危うい衝動を、彼はまだ幼さゆえの曖昧さで包み隠しているだけ。
けれど、その曖昧さすらも時間とともに剥がれていくだろう。モノクロに見えていた世界の中に、血の赤がにじみ出してくるのは間違いない。踏みにじられるだけの日々から脱するためには、踏みにじる側に回るしかないと、修一は理解している。そしてその歪んだ種子が、やがてはどんな花を咲かせるのか――まだ幼い瞳に宿った淫靡な光が、その未来を暗示しているようだった。
第2章 荒んだ日常
薄曇りの空をなんとなく見上げながら、沢村修一は東京郊外の安アパートを出る。視界に入るのはくすんだ色合いのビルと電線ばかりで、まともに息をする気力さえ失せている。部屋の床には古着とも新品とも知れない服が無造作に投げ散らかされているが、片づける気になどならない。そんなことをしても、この虚無は埋まらないからだ。
「……くだらねえ」
そう吐き捨てるように呟いても、誰も聞きはしない。寝起きのまま洗面所で目をこすれば、鏡に映る自分の目が泥水みたいに濁っているのに気づく。けれど、それを見たところで何も変わらない。空虚が貼りついたまま、修一は身支度もそこそこにバイト先へ向かった。
町の雑踏はひどく無機質だった。吐き捨てられたガムやちらしが足元を舞い、車のクラクションが遠巻きに耳を打つ。人々が行き交う様子を黙って眺める修一は、心のどこかで「誰かを壊してみたい」という危険な欲望にかき立てられる。その衝動は、一日をやり過ごすたびに少しずつ大きくなっているような気がする。
バイト先は飲食チェーンの厨房。開店前に仕込みをし、単調な調理をしては皿を洗い、帰るだけ。味気ない日常の繰り返し。バイト仲間や店長と交わす会話はごく表面的で、心が揺れる瞬間など一つもない。
「おはようございます」「お疲れさまでした」
そんな定型句が店内にこだまするたび、修一は内心で舌打ちする。こいつら全員、ちょっとしたきっかけで自分を避けるようになるのだろうか、と妄想が頭をよぎる。もし今ここで食器を叩きつけたり、包丁を振り回したりしたら、どんな顔をするのか。想像するだけで薄ら寒い愉悦に襲われるのだが、それを行動に移す勇気までは湧かない。
「……まあ、今はまだいい」
ささやかな抵抗心を自分の中で育みながら、修一は流れるように作業をこなしていく。それが彼の言う「まともな人間」の仮面なのだろう。衝動に身を任せて破壊してしまえば、翌日からの安定すら崩れる。何もかもを失うリスクを取るほど、まだ飢えてはいない――いや、それは単に「機会」を待っているだけの話かもしれない。
昼休憩のわずかな時間、裏口近くの喫煙スペースに立ってみる。自分は煙草を吸わないが、「外の空気」を感じないと窒息しそうになるからだ。そこで同僚たちが下らない噂話を垂れ流しているのを遠巻きに聞きながら、修一はどこかで彼らを痛めつけたい衝動にとらわれる。
「……どうでもいい下品な笑い声だな。何か言ってやろうか」
口には出さない。しかし、彼らの背後にまなざしを忍ばせるだけで、わずかなスリルと支配欲が胸をぎゅっと締めつける。ふいに店長が出てきて、「沢村、休憩終わるぞ」と声をかける。修一は「ああ」と短く返事をするだけ。特別な感情など湧きもしない。笑い合う彼らの輪に、自分が入っていく光景は想像するだけで吐き気がするから。
日が落ちた頃、バイトを終えた修一が見つめる夜の街は、どこか浮ついた照明が醜悪なほどに地面を彩っている。仕事帰りのサラリーマンや嬉々としたカップルが往来する。その顔をぼんやり眺めながら、修一は舌打ちしたくなる。
「……あの女、こっち見たか?」
信号待ちで遠目に視線が合った気がする女は、すぐスマホへ視線を戻してどこかへ去っていく。もし、自分をはっきりと“怖い人間”だと認識して逃げてくれるなら、それはまだ関心を抱かれているということだ。だが、ほとんどの人間は修一の存在など最初から眼中にない。そんな無関心に塗れた世界が、彼の内側で小さく苛立ちを増幅させる。
「どうせ誰も、俺なんて見ちゃいない」
自嘲がこぼれる。その呟きすら街の喧噪にかき消されてしまう。
アパートに戻ると、扉を開けた瞬間に鼻をつくカビ臭さが身体にまとわりつく。雑然と積み上げられた服、床に転がる空き缶――誰も来やしないから掃除をしなくても構わない。むしろ、この荒れ果てた空間が、自分だけの“聖域”だと感じる。孤独な廃墟を前にして、修一は小さく笑う。
「ここに誰か呼んで、押し込めてみたいもんだな」
そんな妄想が脳裏をかすめる。かつて感じた歪んだ愉悦が、またくすぶり始めたのだ――虫を弄んで得た背徳感の延長線。誰かの表情を歪ませることで満たされる興奮。もし人間相手にそれができたら……と考えるだけで、胸の奥がざわつく。
スマホを開いてみても、連絡をくれる相手はほとんどいない。SNSを覗いてもくだらない写真や笑顔の投稿ばかり。皆、似合いもしない友情や恋愛を誇示している。
「白々しいんだよな……でも、この社会じゃそれが“普通”なんだろ」
普通の仮面をかぶれない自分が歪んでいるのか。あるいは、彼らこそ見せかけで飾り立てているだけで、本当は歪みを抱えているのか――答えを知るのは無駄な気がして、修一は不快げに画面を閉じる。
ベッドに仰向けになり、天井をじっと見つめる。孤独な空気が肌に馴染み、頭の中で「明日もバイト」程度の認識が渦巻く。それは退屈と諦観にまみれた時間だが、修一の中には別の“飢え”がまだ潜んでいる。
誰かの弱みを握り、その心を壊してみたい――そう渇望する自分がいるのだ。少年時代に芽生えた淫靡なサディズムは、大人になって形を変えてもなお、魂の奥で息を吹き返そうとしている。
「ああ……本当、誰か捕まえて踏みにじってみたいな……」
物騒すぎる呟きが夜の静寂に溶けて消える。薄暗い部屋の片隅で、修一は自分の存在を痛感する。外では無数の人が動き回っているのに、この部屋だけが生と死の境界に取り残されているようだ。どこかの誰かが幸せそうに愛し合い、誰かが気楽に笑い合っている現実が、鼻につくほど遠い。ならば、自分はどんな手段でこの無気力を破壊できるのか。
「きっかけがあればいいんだ……」
そんな危険な結論に至りかける。だが、まだその“きっかけ”が見当たらない。社会の最下層でするすると息を潜めるように日々をやり過ごす中で、修一の猟奇的とも言える欲求はどこで噴き出すのだろう。
考えているうちに、疲弊した思考はゆっくりとまどろみに沈んでいく。頭の中には、名も知らぬ他人の顔が浮かんでは歪み、浮かんでは歪む。それが恐怖の表情か欲望の表情か、自分でも区別がつかない。ただ確かなのは、そこに「自分を強烈に意識している視線」があるという妄想が、甘美な麻薬のように心を疼かせることだけだ。
「……いつか、絶対になにかをやらかすんだろうな……」
夢うつつの状態でかすれた声が零れる。夜の街にネオンがきらめき、どこかで誰かがくだらない人生を歩んでいる。そんなものは修一の目に入らない。彼は自分だけの飢えと欲望を飼いながら、闇に潜り続ける。じっとりと潤んだサディズムが、今はまだ檻の中で牙を研いでいるにすぎない。
――むせかえるほどの抑圧と孤独。そして、その奥底に潜む、誰かを徹底的に支配する願望。荒んだ日常が続くほどに、修一の中の獣はさらに力を増していくのだ。昼の穏やかな仮面と、夜の狂気に染まった欲望とのギャップは、次第に取り返しのつかない境地へと彼を導いていく。世間に背を向けたまま、黒い渇望に舌なめずりしている猛獣が、いつ檻を破るのか――この退屈な日常は、その“衝動”を肥やすための下地に過ぎないのかもしれない。
第3章 誘う瞳
人いきれが立ちこめる街の通りを、沢村修一はただ無表情に歩いていた。生きた心地のしない会社員たちや、絵に描いたようなカップルがひしめき合うビル街。少し湿った風が肌をかすめるたび、胸の奥に暗い火がちらつく。それは、うずまくサディズム――いつどこで噴き出してもおかしくない危うい欲望だ。どこかに“踏みにじる対象”を探して、獲物を求める捕食者のように意識を研ぎ澄ませる。
そんな中、見つけたのはガラス張りのカフェ。
「……ここで休むか」
大して行きたい場所などない。たまたま目についた場所に流れ込むように足を向ける。表向きは何の感情もない顔だが、心臓はどこか落ち着かない。自分の薄汚れた内面を誰かに見抜かれやしないか、と神経を張り詰めているのだ。
カウンターでコーヒーを注文し、奥まった席に腰を下ろしてから、ふいに強い視線を感じた。ざわり、と全身の血が逆流するような感覚が走る。
「……誰だ」
視線を返すと、入り口近くのテーブルにいた女性が、まるで修一の存在を見透かすようにこちらを見ている。艶のある長い髪、淡白な色のコート、無機質な表情……なのに、瞳だけは底知れない闇を湛えているようだ。人混みのカフェでは普通なら気にも留めない他人――それが、まるで修一の“内側”をのぞき込んでいるかのように思えて仕方ない。
「……妙だな」
警戒というより、この奇妙な視線に妙な興奮が先立つ。修一がそのまま相手を見返すと、女性は視線を逸らすどころか、むしろかすかに頬を染めたようにも見える。まるで「あなたをもっと感じたい」という合図じみた挑発。修一の胸に、つい最近までくすぶっていたサディスティックな衝動がさらに燻り始める。
女性の方は本を開いたまま、指先でそのページをなぞっている。だが、注意は明らかに修一のほうへ向かっているらしく、時折こちらをちらりと盗み見ては、本へ視線を落とす。
「こいつ……何なんだ。俺のことを知ってるのか? それとも」
まるで毒牙を隠した獣が、舌なめずりをしてこちらをうかがっているように感じられる。いや、もしかしたら「喰われに来た獲物」なのかもしれない――その両極のイメージが、修一の脳裏を刺激する。
コーヒーを飲み終わる前に、修一は思いきって席を立った。自分が“捕食者”として彼女を狙うのか、それとも逆に“喰われる”のか。その区別さえ曖昧だが、なぜか突き動かされるように近づかずにはいられない。
「あの……ここ、いいか」
ぎこちなく切り出した声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。反応は薄い。ところが、その瞳は先ほどと同じ暗い奥行きを漂わせ、修一の存在を丸ごと呑み込もうとしているかのようだ。
「……どうぞ」
小さくうなずいた声は低く、湿度を含んだ響きがある。無意識に修一の血が騒ぐ。まるで獲物を見つけた狼が、じゅるりと唾を飲み込むときの感覚。いや、相手からも似たような波動が伝わってくる――まさにサディストとマゾヒスト、あるいは捕食者と捕食されたい生き物が、無言で惹かれ合っているような奇妙な空気だ。
「読書ですか」
薄っぺらな会話を装いながらも、修一は刃先を隠し持って相手の反応を伺う。実際、本なんか読んでいないに等しいだろう。むしろ彼女は、修一の歪んだ獰猛さを感じ取り、その牙にわざわざ近寄ってきたのではないか――そんな予感が湧きあがるから怖い。
「普段は……だけど、今日は少し違うかも。あなたが気になったの」
その言葉に、修一の心臓が一瞬だけ暴れる。見たところ彼女は、無防備に見えながらも奥底で「喰われたい」と願っているような、倒錯した魅力を放っている。抑圧されたマゾヒズムの香りがむせ返るほど漂ってくるのだ。
「俺……変な奴かもしれませんよ」
わざと相手を試すように言い放つが、女性の瞳はまるで「もっと危険になれ」と誘っているかのように笑っている。言葉にはしないが、その微かな微笑が、「私を好きにしていいのよ」という倒錯的なサインに見えて仕方がない。
二人の会話は他愛もないはずなのに、まるでカフェの中だけがサウナのように蒸しあがっている。彼女の呼吸が、かすかに荒い。指先は本の角を弱く撫で続けている。その姿が、まるで「この手で首を絞めてほしい」とでも言わんばかりの淫靡さを漂わせていた。
「あなた……もしかして、私と似てるの?」
ふいに彼女が口を開き、深みのある瞳で修一を見つめる。修一は返す言葉を探せない。似ている、か。たしかに、まともじゃない雰囲気を感じ合っているのは確かだが、具体的に何が同じなのかは言えない。ただ、お互いの中に隠した狂気や飢えがシンクロしている気がする。
「……似てる、かもな。俺も……変だって言われることあるんで」
辛うじてそう返すと、彼女は唇に僅かな弧を描いた。それは、隠しきれない期待と悦びの笑み。捕食されたい獲物が、自ら虎の檻へ入る姿に酷似している。あるいは、喰う側がその弱った獲物を好むように、もしかしたら“強い捕食者”を欲している雌狼なのかもしれない。どっちがどっちでもいい――そう思わせるほど、空間が官能的な狂気に満ちていく。
結局、互いの名前を明かさないまま、会話は途切れた。修一は湧き上がる興奮を抑えきれず、早々に席を立つ。名残惜しいような彼女の瞳が「また会いましょう」と誘っているようにしか見えない。
「……じゃあ、また」
生返事を返しながら店を出ると、夜の風がひどく生々しい。心臓がドクドクうるさい。あの瞳――決して弱々しいだけではない、ある種の狂気を孕んだ瞳。自分が長年抱いてきたサディズムを受け止めたうえで、さらに深みへ誘うような……そんな倒錯の匂いを放っていた。
翌日も、落ち着かない気分のまま同じカフェへ足を運んだが、彼女はいない。代わりに見つけたのは、近くの書店で働いている彼女の姿だった。エレベーターで上階に上がり、柱の陰からそっと覗き込む。彼女の、あの白い指先が本を整理しているのが見えた。驚くほど静かな書店。その陰鬱な照明が彼女によく似合っている。
「ここか……なるほど」
思わず柱の影に身を隠す。会話もままならないくせに、少しでも近くに行きたい衝動が抑えられない。彼女の動きひとつひとつに呼吸が乱れる。獲物を見つけた捕食者が、しかし逆に獲物から手招きされている――そんな倒錯が、修一の体を熱くする。
棚越しに気配を察したのか、彼女はふいに手を止め、視線を投げかけてくる。
「……!」
ばちり、と視線が合う。焦って身を引くが、すでに遅いかもしれない。どこか含みのある笑みがかすかに浮かんだ気がする。恥ずかしさよりも背徳的な悦びに近い感情がこみ上げ、修一は冷や汗をかく。まるで「隠れてないで出てきてよ。あなたに喰われたいの」と言いたげな、誘う瞳の残像がまぶたに焼きついた。
逃げるように書店を飛び出した帰りのエレベーター。ガラス張りの壁に映る自分の表情は、まるで飢えた野獣のようにギラついていた。
「なんだ……この感じ。まるで向こうから自分をおびき寄せてるみたいに」
胸の奥で暴れる衝動が止まらない。すぐにでも彼女の手を掴んで、自分の部屋に連れ込みたくなる。あるいは、彼女の前で思いきり暴力的な態度をとり、そこでひたすら服従させてみたい――そんな危険な妄想がぐつぐつと煮え立っている。
だが同時に、彼女もまた、自分の餌になりに来ているのではなく、むしろ自分を喰らい尽くすつもりなのかもしれない――そんな予感さえある。サディストとマゾヒストが入り混じった倒錯的な欲望を持つ者同士だからこそ、お互いを傷つけながらも求め合うのか。
「あいつ……たぶん、同じ匂いを感じたって言ってたよな」
小さくつぶやく声が震えている。真の獲物はどちらだろう。捕食者と呼ぶべきか、それとも自ら進んで喰われたい生き物なのか。いや、お互いが同時に捕食者であり、同時に捕食される側なのか――それが危険なほどに甘美だ。
夜の町を歩く修一の足取りは、いつになく軽い。不安や恐怖よりも、あの倒錯的な興奮が身体中を支配していた。脳裏には、彼女の瞳とその底に潜んでいそうな狂おしいマゾヒズムがチラつく。こちらのサディズムを見透かして笑う彼女の姿が、思考を焼き尽くすほど鮮烈に残っている。
「もし次に会ったら……どこまで踏み込んでしまうんだろう」
どちらが主導権を握るのかさえ分からない。獲物を喰らいたい捕食者と、喰われに来る獲物が、同時に互いの血の匂いに惹かれている。そんな矛盾が、いっそう倒錯の炎を煽る。
修一はすでに、完全に彼女という存在に取り憑かれていた。自分の内側でうごめいているのは、突き刺すようなサディズム。それを受け止めたいのか、吸収したいのか、彼女もまた異様な欲望を抱え込んでいるに違いない。二人が出会ったのは、偶然ではなく必然――修一はそう確信し始めていた。
「……いいだろう。どんな形でも、あの女を手に入れてみるか」
闇夜に呟いた声に、自分自身でゾクリとする。危険な香りしか感じられないのに、どうしてこんなにも嬉しいのか。まるで地獄の底で繰り広げられる饗宴に招かれたような、高揚が体を包んでいるのだ。
捕食者と自ら喰われにいく女――互いの傷や闇を嗅ぎ分けた同類同士の邂逅。それがどれほど淫らで破滅的なのか、今の修一には考える余力すらない。どこまでも異常なほど甘く、湿った快楽の誘いを拒めなくなっていた。
こうして、まるで運命を嘲笑うかのように、修一は自分の歪んだサディズムを満たす相手をついに見つけた。そして、彼女もまた、抑圧されたマゾヒズムを抱えたまま、喰われること自体を望む獣のような危険な匂いを放っている。もし再び二人が顔を合わせたとき、何が起こるのか――社会の常識など通じない、危険で淫靡な香りが周囲を毒していく。後戻りなどできない悪夢の入口が、すでに開かれていた。
第4章 仕掛けられる蜘蛛の糸
濁った夕刻の空気を切り裂くようにして、沢村修一はあの書店を目指していた。建物の入口から見上げると、まるで蜘蛛の巣のような鉄骨のラインが薄暗い光を受けてうっすら浮かぶ。妙に生臭い風が鼻をかすめ、胸の中で燻り続けていたサディズムの炎が熱を帯びる。
店内へ足を踏み入れると、まばらな客と埃の匂い。それらを背景に、レジに立つ早川澪を見つけた瞬間、修一の心臓がどくりと高鳴った。彼女は軽く顔を上げ、修一の姿を認めるや薄く笑う。その瞳はまるで「待ってたわ」とでも言わんばかりに、底知れない色を帯びている。
「また来てくれたのね」
柔らかな声なのに、奥底で危険な灯が揺れているのが分かる。その灯は、修一の抑圧されたサディズムにじくじく絡みつく悪魔の誘いだ。自ら喰われに来る獲物のように見えながら、実際には相手を翻弄しようとする“魔性”を隠し持った女。そんなイメージが脳裏をかすめる。
「うん……この間、もう少し話してみたいと思ってさ」
聞こえのいい言葉を選んでみせるが、本心はまったく別。サディズムを満たす餌に喰らいつくか、あるいは彼女のマゾヒズムに自分が絡め取られるか――どちらの展開も背筋を甘く震えさせる。
「ここじゃ人目があるわね。奥へどうぞ」
軽く首を傾げる澪の視線は、まるで蜘蛛が獲物を巣へ誘い込むような淫靡さに満ちている。実際、彼女は“喰われたい獲物”のようでいて、同時に“獲物を舌なめずりして待つ雌獣”のような倒錯した匂いを放っている。修一は言われるがまま、書店のさらに奥へと足を踏み入れた。
店の奥には大きな柱と暗がりに埋もれた棚が乱雑に並び、客足は滅多にやってこない。ちょうど死角になるその場所で、澪は「少しだけ席を外します」とだけ貼り紙を残して、修一に向き直る。
「これで、誰にも邪魔されない」
その声色が微妙に低く、仕掛けてくるような響きに変わった。修一の中に潜むサディズムと、この女の中に沸き立つマゾヒズムが、まるで歪んだジグソーパズルのピースのように噛み合おうとしている――そんな感触に陶酔を覚える。
「お前……どこまで知ってるんだ。俺のこと、探ってたってわけでもないだろ」
わざと強めの口調を出しつつ、探りを入れる。澪は「口汚いわね」とでも言いたげに微笑んで、棚から何冊かの本を取り出す。
「別に詳しく知ってるわけじゃない。ただ……あなたの“匂い”がね。私の中の“空虚”と同じ場所に触れた気がしたのよ」
“空虚”――彼女はそれを自分のマゾヒズムと形容しているのだろうか。修一はその表現にかすかな興味を覚えつつ、同時に自分の内奥にあるサディズムがうずくのを感じた。
「俺の“匂い”に惹かれるって、危険じゃない? 俺は……まともじゃない」
わざと相手を突き放すように言い放つが、澪の瞳はむしろ歓喜しているように見える。
「まともかどうかなんて、どうでもいいの。あなたも私も、似てるんでしょ? 人には言えない欲望を抱えてる」
さらりと彼女の口から飛び出した“欲望”という言葉が、修一の心をさらに煽る。置いてきぼりになった理性より、圧倒的にサディスティックな衝動が優勢になる瞬間が目の前に迫っている。
「……俺のどこが気になるって? 具体的に言ってみろよ」
強い言葉で迫りながら、修一は澪の反応を窺う。ここまで踏み込めば、普通の女なら恐れを見せる。だが、澪は目を伏せて唇を噛み、まるでその攻撃が心地いいかのように微笑む。まるで獲物が自ら牙を押しあてに来ているようだ。
「たとえば……誰かを追い詰めたり、壊したりすることへの渇望、あるんでしょう? でも、まだ自分でハッキリ言葉にしてないだけ。でも、私には分かるの」
その言葉に修一はごくりと唾を飲む。ここまで切り込んでくる女など初めてだ。恐怖心を抱くより先に、興奮が全身を満たす。悪魔が“もっとやれ”と囁いているかのようだ。
「そういうお前は……どうなんだ? まさか、ただの好奇心で俺に近づいてるわけじゃないんだろ」
指先で棚の角を軽く叩きながら問い詰めると、澪の肩が僅かに震える。だが、それは拒絶の震えではなく、歓喜の痙攣だ。
「私は……誰かに壊されたいのかもしれない。だけど、そいつに支配されるだけじゃ物足りない。私自身も相手を道連れにしたいのよ。……そういう倒錯って、理解できる?」
言いながら、澪は小さく吐息を漏らす。その吐息すら艶めいて感じられるのは、確実に二人が倒錯した同類同士だからだ。
「道連れか……。だったら、どちらが上か、試してみたくなるな」
修一の口調は微妙に攻撃的だが、澪は楽しんでいる。背筋が焼けるような緊張の中で、二人は蜘蛛の糸のように細く、しかし強靭な狂気を手繰り寄せ合っているのだ。まさにサディズムとマゾヒズムが相互に呼応する瞬間。
棚の陰で、周囲の目から逃れた空間。かすかな照明が二人の顔に影を落とし、柔らかい紙の匂いに混じって、きな臭い興奮の匂いが立ちこめている。
「一歩間違えれば、ほんとに壊れるかもな。お前だって覚悟が要るだろ」
修一は低い声で呟く。そこには優しさも気遣いもない。ただ冷酷な挑発だけが混じっているが、澪はむしろその冷たさに陶酔めいた表情を浮かべる。
「覚悟なんて、とっくに決めてる。……あなたに潰されるくらいなら、望むところよ。でも、もしあなたが甘さを見せたら、私が牙を剥くわ」
言い切った澪の声には、抑えきれないマゾヒズムの深みが宿っている。それと同時に、相手をも引きずり込むという隠れたサディズムさえ感じられる。徹底的に痛めつけられながらも、相手を引きずり下ろす――そんな共倒れの誘惑がぞくりと修一を打ちのめす。
「いいじゃん。どこまでやれるか試してみたくなる」
顔を近づけると、澪の瞳は満たされない闇を求めるように震えている。お互いが歪んだピースとして見事に噛み合う予感――それが危なすぎるほど甘美だ。
「名前……言わないの?」
不意に澪が囁く。修一は短く鼻で笑う。
「別に。今さら必要か?」
澪も微笑む。そう、二人には名乗り合うよりも先に、体の奥に棲む狂気をさらけ出すほうが大切。そういう空気がある。むしろ、名前など知らなくても、もうすでにお互いを求めあってしまったのだから。
「じゃあ、あなたは“あなた”のままでいいわ。……私も“私”のままで」
ぞくりとするほど歪んだ合意。魂の奥深くでこびりついた傷や汚濁、それらを埋め合うピースをようやく見つけたかのように、二人は危険な微笑を交わす。
「そろそろ戻らないと、店の人に怪しまれるわ」
澪は貼り紙に視線をやったまま、名残惜しそうにため息をつく。修一も、ここで捕まって長居するのは得策ではないと薄々感じている。だがこのまま終わるわけにもいかない。
「じゃあ……次はいつ会える?」
「さあ。あなたは私を探っていたんでしょ。見つけられるなら、また見つけてみて。それが“仕掛ける”ってことなんじゃない?」
最後に飛び出したその挑発めいた言葉が、修一の心臓を鷲掴みにする。ひと足先に「誘う」ポーズを見せたのは彼女かもしれないが、実際には澪が糸を手繰っているのかもしれない。あるいは修一が仕掛け人なのか――もう区別はつかない。
「分かった。俺なりに探してみる。お前は逃げるなよ」
言い放つと、澪はかすかに肩を揺らして笑う。そこに宿るのは、絶対的な悦びと底なしの不安が綯い交ぜになった狂気。
「逃げやしないわ。……むしろ、もっと踏み込んできて」
床に積まれた本の隙間から、澪の細い足首がちらりと見える。行き交う客の足音が遠い世界のようだ。ここだけが異常に濃厚な空気を孕んでいる。最後に修一は軽くうなずき、踵を返す。背後で澪の微笑がさらに深まった気配が伝わってきて、背中を寒気が這い登る。だがそれは嫌悪でも恐怖でもなく、甘酸っぱくも狂気的な快感に近い。
「お待ちしてます……ね」
後ろからそう囁く声が聞こえた。振り返ることはしない。けれど、あの瞳に再び舌なめずりをされているのが分かる。この女こそ、自分の埋められなかったピース。淫靡なサディズムとマゾヒズムが歪んだジグソーのようにガチリと噛み合う相手――そう確信した修一は、早足で店を後にする。
まるで蜘蛛の糸に巻き取られる昆虫か、あるいは獲物を巣へ誘導する毒蜘蛛なのか。二人とも、その境界を曖昧にしたまま、相手を欲してやまない。次に相まみえたとき、どちらが仕掛けてどちらが仕掛けられるのか――それすらもわからないほど、今のやり取りは倒錯に満ちていた。糸を張っているのは修一か、それとも澪か。答えは誰にも分からない。
ただ一つ言えるのは、二人の危険なジグソーパズルが、確実に嵌まりつつあるということ。淫らに、危うく、そして甘く――支配と被支配、喰うか喰われるかの関係が、新たな段階へと進もうとしていた。
第5章 囁きと嘲り
人々のざわめきがうつろに響く夜の街。その雑踏を、沢村修一は小さな缶コーヒーを片手にただ眺めていた。誰もが通り過ぎていく中、彼の意識はそこにはない。視線の先にあるのはただ一つ――「奴の存在」。抑えきれない淫靡なサディズムを抱えた捕食者である自分が、ついに歪んだ理想の被食者として出会ってしまった、早川澪のことだけだ。
彼女との付き合いは、いつの間にか異常なほど急速に深まっていた。とりわけ夜になると、お互いが何も言わずとも当然のように引き寄せ合う。何かの符丁のように交わす短いメッセージ、それだけで、人気のない裏通りや狭いバー、あるいは誰の目も届かない部屋で密会するのが暗黙の習慣になっていく。まるで二人の歪んだ“渇望”に抗うすべがないかのように。
「……今どこ? 会いたい。」
その夜も、修一のスマホに届いた短いメッセージが胸をぎゅっと締めつけた。彼女もまた、この倒錯した欲望の共鳴に振り回されているのだという証拠。修一はすぐに返事を打ちたくなる衝動を堪え、わざと数分放置する。そんなじらしの行為さえ、彼のサディストとしての小さな愉悦を満たす手段。しかし、次の瞬間には結局、我慢できなくなった自分に苛立ちを覚えつつ、待ち合わせ場所の指定を送っていた。
いつものように雑居ビルの二階にある小さなバーで落ち合う。外からはネオンすら漏れない隠れ家じみた空間。扉を押し開けると、微かに古びたランプの光が揺れていた。その薄闇の奥、澪が既にカウンターでグラスを傾けている。
「……早いな。俺を待ちわびてたのか?」
修一の口調は嘲るようだが、澪はグラスを置いて色っぽく笑みを浮かべる。
「待ってた。……いいかげん、あんたに会わないと息が苦しいのよ」
言葉と裏腹に、その瞳には黒い影がちらつく。抑えきれない淫らなマゾヒズムがむせ返るほどに宿っていて、彼女自身もその底知れぬ飢えに侵されているのがはっきりわかる。修一は空いた席に腰かけ、店主を睨むように一瞥してから目を伏せる。互いに会話はわずか。だが、淡々と酒を口に含みながら、濃厚な緊張が二人の間に漂っている。
「……お前、どうしてそんなに、俺に会いたがる?」
挑戦めいた言葉を投げる修一に、澪はかすかに肩をすくめる。
「そんなの、あんたが一番わかってるでしょう。だって、お互い似てるんだから」
似てる――サディストとマゾヒスト。捕食者と被食者。どちらかが一方的に追い詰めるだけの関係ではなく、喰らい尽くす側も喰らわれる側も、実は同じくらい異常な熱を求めてやまない。そういう「歪んだ理想の相手」がようやく出現したのだと、二人とも薄々感づいているのだ。
「ふん……俺がいつお前を踏みにじると決めた?」
嘲笑交じりにそう突き放すと、澪はひどく愉快そうに微笑む。
「だったら、私があんたを踏みつける? それでもいいけど……ねえ、どっちが先に我慢の限界を超えるかな」
言うなり、澪は赤い舌先で唇を軽く舐める。誘惑というより挑発――被食者でありながら、相手を破滅させる快感すら味わいたいという歪んだ欲動。修一はそんな様子に苛立ち半分、興奮半分の複雑な衝動を駆り立てられる。
結局、その夜もバーを出て、人気のない建物へ潜り込む。二人とも無言のまま、路地裏を抜け、階段を昇り、ただ施錠もままならない一室に転がり込む。湿ったシーツと埃のにおいが鼻を突き、わずかに生温い空気が肌にまとわりつく。
「……何だよ、この部屋」
「文句があるなら帰れば? 私、あんたと会えれば場所なんかどうでもいいの」
短い舌戦を交わしながら、修一は澪に近づく。彼女はベッドの縁に腰を下ろし、ゆっくりと足を組む。その動作すら、サディストの視線を引く計算があるように見える。
「……余計な芝居なんざいらねえ。お前の汚い欲望を、そのままぶちまけりゃいいんだよ」
修一の冷たい言葉に、澪はかすかに笑う。心底うれしそうに、というより、ぞくぞくするような得体の知れない愉悦に溺れながら。
「これが私の“汚い欲望”なの。あんたに喰われて、あんたを喰らってみたいのよ」
痺れるほど醜悪で淫靡な台詞に、修一は思わず唇をひき結ぶ。負けず劣らずに、「じゃあ、喰ってやろうか?」と返したくなるが、自分の胸の中でサディズムの槍が暴れ出す。どこかで「こいつを貪り尽くしたい」という飢えと、「こいつに貪り尽くされたい」と思わせる奇妙な倒錯が同時にうごめくのだ。
「お前、ほんとに……喰われたいのか?」
険のある声で聞きながら、修一は澪の胸元へ視線を落とす。彼女は明らかに妖艶な呼吸をしていて、薄いシャツの隙間からうっすらと汗ばむ肌がのぞき、甘く湿った匂いさえ漂ってくる。これは単なる女の色気ではない。獲物が捕食者を誘う匂い――あるいは、捕食者が獲物を狩るときに垂らす淫らな唾液の香り。
「もちろん。あなたにメチャクチャにされたいの。踏みにじられ、蹂躙されて、二度と元に戻れないくらい……でもね、あなたもただじゃ済まないわよ」
その意地悪な笑みは、まるで毒をもった獲物だ。喰おうとした捕食者をも内部から食い破るような、狂気に溢れるマゾヒズム。互いの弱さや闇を突きあううちに、快感が増殖していく。
「だったら、試してみろよ。どっちが先に耐えきれなくなるか、な」
修一がそう吐き捨てると、澪は足を開くようにしてゆっくり立ち上がり、彼に近づく。夜のビルの一室、誰もいない湿った空気が一層濃密になる。まるで周囲の世界が消し飛んだように、二人だけしか存在しない閉塞感。
「そうね……とことん踏みにじって。だけど、終わるのはあなたかもよ」
艶やかな声音を響かせ、澪は修一の胸元に手を置く。その指先はあからさまに震えていて、恐怖と悦びが混ざり合っている証拠だ。どこまでも被食者としての恍惚を味わおうとしながら、相手をも飲み込む意志を秘めている。
部屋の照明は弱く、二人の影がうごめくように壁に映る。修一は徐々に昂ぶりを隠せなくなる。自分の中のサディズムは、相手を完膚なきまで虐げたい、支配したいという飢えを叫び続けている。一方で、澪の顔には明らかな陶酔が浮かんでいる。捕食される立場でありながら、その歪んだ愛撫に心を奪われるのを待ち焦がれているかのようだ。
「……狂ってやがる。お前も、俺も」
修一は吐き捨てながら、澪の細い肩を掴む。彼女は嬉しそうに目を細め、喉を鳴らす。
「狂ってるから、こうして出会えた。まともだったら、絶対にお互いに近づかない。……だけど、いまはあなただけが欲しい」
破滅的すぎる甘言。危険極まりないのに、耳に心地よく響くあたりが恐ろしい。修一はその言葉に心を揺さぶられながら、さらに腕の力を強くこめる。澪は少しだけ苦しげな声を漏らすが、それを嫌がるどころか、かすかな笑みを浮かべるのだ。
「待ってたのよ、こんなにも……歪んだ相手を」
互いが互いを“理想の獲物”“理想の捕食者”と呼ぶような出会い。それは快楽と破滅が背中合わせに螺旋を描き、いつか二人を共倒れにさせるに違いない。それでも、もう止まる術はない。捕食者が美味しく貪りつくし、被食者は貪り喰われる自分の姿に恍惚の笑みを浮かべる。その危険な描像が、部屋の薄暗い空気のなか、はっきりと浮かび上がっている。
そして二人は、言葉にできない衝動に身を任せるまま、まるで暗い淵へ沈むかのように重なり合う。究極の“捕食”と“被食”の狭間で、どちらが主導権を握っているのかすら分からない。むしろお互いが相手を支配し、同時に支配されている。このデタラメな共犯関係こそが、彼らを狂わせているのだ。
やがて、汗ばんだシーツの上で二人はわずかな会話を交わすでもなく、ほのかに微笑んでいる。捕食者としての修一は確かに彼女を喰らった。けれど澪もまた、“喰われながら喰う”という歪んだ快楽に陶酔している。その背中合わせの倒錯に、修一は半ば呆れつつも自らも落ち込んでしまう。
「……ごちそうさま、って感じか」
修一が嘲りを混ぜて言うと、澪はクスリと笑う。
「私も、お腹いっぱいだわ。……でも、不思議と、もっと欲しくなる」
グロテスクなほどの幸福が、部屋の空気を充満させる。表面上はささいな皮肉を交わしているだけに見えるが、その内側では双方の暗い熱がさらなる高みを欲している。
「まだ……終わりじゃねえよ」
修一の呟きに、澪は小さくうなずく。誰もが踏み込めない闇の底で、歪んだ愛を育てる者同士。いつか本当に壊れきるまで、この危険な捕食と被食の関係を続けるのだろう。
同じように、澪は心の中で「喰われて死ぬまで、きっと離れられない」と囁く。死ぬまで互いを喰らい合う関係――それが幸せか、破滅か、その見分けなどもうつかない。
何を失っても、ふたりは共依存をやめられない。サディズムとマゾヒズムという歪んだピースが噛み合い、捕食者と被食者が渇望しあっている。
夜の闇がますます深くなり、やがて外で始発電車の音が鳴り始めても、誰もいない湿った部屋の中、二人はただ互いの存在を確かめあうように静かに呼吸を繰り返していた。破滅の匂いに埋もれたまま、甘美で致命的なひとときを貪り続けるのだ。
第6章 見えない鎖
夜の地下街はどこか湿った空気を孕み、濁った光が床面にまばらな影を落としていた。そんな通路の奥で、沢村修一は柱にもたれる早川澪を見つける。お互いに深い闇を抱えている――それを知っているがゆえに、会わずにはいられない。足早に通り過ぎる通行人など初めから眼中にない。二人の視線が交わった瞬間、むせ返るような抑圧された欲望が夜の底で火を噴きそうになる。
「……遅いわね」
澪が少し嘲るように微笑んだ。修一はかすかに肩をすくめる。
「お前が早すぎただけだろ。ずっと待ってて、そんなに俺に縛られたいのか?」
わざと棘のある言葉を放り投げる。すると澪は嫌に艶めかしい声で鼻を鳴らし、肩のバッグを抱え直した。
「ふふっ、縛られたいかどうかは、あなたが思い知らせてくれるんでしょう? あのときみたいに。……私、あんまり待たされるの好きじゃないわよ」
彼女の囁きには、挑発と甘やかな毒が混ざり合っている。それが修一の身体をざわりと疼かせる。人目につかない場所で逢いたいという合意があるだけで、なぜここまで濃密な緊張を生み出せるのか。お互いの歪んだ性癖が、まるで見えない鎖のように二人を縛り合っている。
「……行くぞ」
修一は澪の腕を引き、地下街を抜けるように階段へ向かう。周囲の視線が気になるわけではないが、なるべく早く“人の目が届かない闇”に浸りたいという衝動が強い。それは、彼の胸の奥で燻るサディズムが「早く相手を追いつめろ」と命じているからだ。
路地裏へ誘導されるように足を運んだ澪は、それでも微塵の抵抗も見せない。むしろ、ほくそ笑むような表情だ。まるで餌食が自分から捕食者に喰われに行くという倒錯的なマゾヒズムを、存分に楽しんでいるかのよう。
「ねえ、また私を“壊したい”んでしょう? あれからずっと、どうやって追い詰めようか考えてたんじゃないの?」
唇を歪ませて囁く声は、興奮と嘲りが混ざり合って妖しく揺れる。その声に修一は少し鼻で笑い、路地の角を曲がる。両側をビルに挟まれた薄暗い通路は、まさに人目につかない密室のようだ。
「お前こそ、俺の踏みつけ方を試そうとしてるんだろ? あちこち嗅ぎまわってんじゃねえか。“秘密”を探り出そうとしてるって聞いたぞ。いい度胸だな」
わざと探りを入れるように言うと、澪は視線を伏せて小さく含み笑う。その仕草に、修一は心臓をきつく鷲掴みにされる。たかが言葉のやりとりなのに、視界がじんわり赤黒く染まるほどの興奮を覚える。
「ねえ……本当は誰が仕掛けて、誰が仕掛けられてるの? 私も分からなくなってきたわ」
澪は不意に立ち止まり、夜風を背にしながら修一を見据える。まるで雌獣が牙を剥き、相手を試すかのような瞳。
「さあな……でも、お前はもう逃げられねえだろ。ここまで来ちゃったんだから」
修一は低い声で笑いながら、彼女の手首を掴む。その力は決して優しくないが、澪は拒否しない。むしろ、痛みを受け入れるように細く息を漏らす。
「逃げる気なんかない。……もっと強く握ってくれていいわよ。私がどこにも行けないように、ね」
その一言が、修一のサディズムを激しく煽る。捻じ曲げられた共依存の快楽――お互いに異常性を引き出し合っている自覚があるからこそ、より深く沈んでしまう。
「ああ、そうかよ。なら……もしお前が誰かに情報漏らしたら、俺は容赦なくお前を潰す。いいな?」
挑戦的な脅し文句。しかし、その声にはどこかで“不安”も混じっている。澪が離れてしまうことが怖いのだ。歪んだ欲望を満たす相手は、この女以外にいない――そう痛感しているからこそ、言葉が荒くなる。
「潰すって……期待しちゃうじゃない。ねえ、本気で潰してよ。ずっと私を引きずりまわして、逃げられないようにして」
澪はさらなる刺激を求めるように囁く。その倒錯ぶりに、修一は苛立ちを押し殺せなくなる。こんな女は普通に考えれば手放しにすべきだが、にもかかわらず離れられない。視線を合わせるたびに、体内の凶暴な炎が噴き上がる。
ビルの裏手へ回り、薄暗い非常階段へ足を運ぶ。人気のない階段の踊り場で、二人は再び向き合う。複雑に張り巡らされた鉄骨が、見えない檻のように上方を覆っている。ここは、まるで閉鎖された見世物小屋のようだ。
「お前さ、本当に俺のことを探り回ってたわけ? 誰かに頼まれて? それとも、自分が知りたいだけ?」
修一は冷たい笑みを貼りつけながら問いかける。一方、澪は首を傾げて微笑む。
「知りたいって、言ったじゃない。あなたの底……全部。そこを覗き込めるの、私くらいしかいないと思うの」
言いながら、澪の目は「さあ、もっと脅してよ」と誘うように光る。修一はその表情を見て、わずかに唾を飲んだ。この女の目は、確かに甘美な破滅の輝きを放っている。
「だったら、望みどおり全部見せてやってもいい。……そのかわり、お前も逃げるなよ?」
「ええ、もちろん。あなたから逃げるなんてできない。私が“普通”だったら、とっくにやめてるわ。……でも、やめたくないの。むしろ、もっと深く踏みにじられたい。あなたが離れようとしたら、私が喰い殺してあげる」
互いの言葉が、まるで鋭利な刃物の応酬のようだ。どちらが実際に優位なのか分からない。主導権を握ろうとする修一に対して、澪は隷属するようでありながら、本質的には相手を束縛して離さない獣の執着を隠していない。二人の境界には見えない鎖が何重にも張り巡らされ、強く、しかし官能的に、相手を縛りつけている。
「ああ、もう逃げられねえ。俺も、お前も、な」
修一は荒い息を吐きながら、澪の髪をざらりとつかむ。澪はそれに身を預けるようにかすかな笑みを浮かべる。痛みと支配の狭間で、二人の歪んだ性癖がぴたりとはまっているのを実感する。その瞬間、世界にはもう二人しかいない。
「もっときつく縛って……私から目を離さないで。ねえ、あなたがいないと……飢えて死んじゃうかも」
卑屈にも聞こえるその言葉こそ、澪の真情に違いない。歪んだマゾヒズムの末に見つけた、理想の捕食者。この男を失うわけにはいかない。その姿勢がむしろ、修一の心にさらなる媚毒を注ぎ込む。
「じゃあ、俺もお前を放さない。何かに弱みを握られる心配はあるが……それでも、今さらお前を手放して他へ行くのは無理だろうな」
差し出がましく言いながらも、実のところ修一は自分のサディズムを理解し、受け止めるどころか喜んで飲み込む“獲物”が澪以外にいないと悟っている。どれほど脅し合いを演じても、最終的に求め合う歪んだ共依存からは逃げられない。
踊り場の片隅で、冷えた階段の手すりに身体を預けながら、二人は言葉を繰り返し叩きつけ合う。脅迫、嘲笑、甘い囁き――すべてが混然一体となり、見る者がいれば戦慄するような淫靡な空気を醸し出す。
「私、あなただけの“奴隷”でもいいわ。でも……あなたに飽きられたら困るから、私もあなたを縛るの。分かる?」
澪の声は、震えているのに、その震えが恍惚感ともとれる艶めきさを伴っている。修一はふっと笑う。
「好きにしろよ。俺だって、お前以外にこんな性癖を暴ける相手はいない。……失いたくないし、壊したくもある。でも逃げないでくれ。お前がいなくなると、俺は行き場を失う」
これが究極の矛盾だ。相手を支配して破滅へ追い込んでも、同時に失いたくないからこそさらに束縛する。束縛しなければ相手は離れていくかもしれない――そう思うほど、相手の存在が重要になってしまっている。共依存の鎖はきつく絡まり、もはや切り離せない状態に達していた。
階下から聞こえる微かな靴音が、二人を現実に引き戻しかける。しかし彼らは耳を貸さない。濃厚な闇に溶け込みながら、互いの心に食い込み続ける言葉をぶつけ合う。
「……お前、もう俺なしじゃダメなんだろ」
「言わせないでよ。あなただって同じくせに。……ねえ、わざわざ確認したい? それなら一晩かけて全部証明してもいいわ」
挑発する言葉に、修一は冷たい笑みを返す。見えない鎖が何重にも絡まっていく感覚が快楽へと変わる。この危うい快感こそが二人の歪んだ性癖を満たし合う世界なのだ。
一歩引けば相手に飲み込まれる。踏み込めば相手の首を絞める――その隙間を駆け引きの快感だけで繋ぎとめている。生き延びたいのか、自滅したいのか、自分でも分からない。けれど、いまはどうしようもなく激しい依存を感じている。そうでなければ、ここまで危ないやりとりを重ねるはずもない。
「分かったよ……。離さない。お前も、死ぬまで俺のものだ」
修一がにやりと嗤うと、澪は小さく目を伏せ、陶酔に震える。互いの心が闇に落ちるほど、別の明るさを感じるという倒錯。もう救済など要らない。破滅へ向かう共依存こそが何よりの生き甲斐。
「ええ……そうよ。最後まで付き合って。……私が離れるなんて、あり得ないわ」
澪の声は上擦りながらも確信に満ちていて、その態度に修一はさらに血が沸き立つ。束縛されることを渇望しながら、同時に修一を束縛する存在――こんな危険な関係など誰も許容しないだろう。しかし二人は許容どころか、さらに燃え上がっている。
どこからが被支配でどこからが被支配なのか、境目が融解したような世界。見えない鎖が妖しくきしむ音さえ聞こえそうなほど、彼らは絡みついたまま離れない。このまま最悪の結末を迎えるか、それとも歪んだ関係を生涯にわたって貫くか――結論はまだ闇の中だ。ただ一つだけはっきりしている。お互いが手を放す気など、まるでないということだけ。
「……逃げるなよ。俺が好き勝手にしていいんだよな?」
「好き勝手、ね……それが私の望みよ。あなたも、もう止まれないくせに」
歪んだ笑みと笑みが重なり、二人は闇の奥へとさらに沈み込む。見えない鎖が、そのまま二人の首を強く結びつけ、どこまでも共倒れの道を誘っていることを理解しながら――それでもその高まりから抜け出せない。どちらが先に壊れても、互いを手放す気などない。深夜の底でいよいよ狂気が昂ぶるほど、二人はますます深く互いの破滅へと踏み込んでいくのだ。
第7章 背徳という蜜
夕暮れが街を血の色に染める頃、沢村修一は早川澪の手を引き、車道から離れた人影の薄い遊歩道へ足を向けた。明かりもまばらにしか届かないその一角は、ビルとマンションが薄暗い壁を作っている。遠目に見ればただ二人のシルエットが並ぶだけ――しかし、その実、彼らはまるで捕食者と被食者が正面から相手を見据えるような緊張感を漂わせている。
「疲れた?」
修一が尋ねる声には、刺が潜んでいる。澪は首を傾げて短く笑う。
「あなたが私を追いつめるから、息が苦しいだけ」
言葉のわりに、その視線は潤んだ色を宿していた。むしろ「もっと追いつめてほしい」と誘うかのようで、修一の胸に抑えきれないサディズムの炎が燃えあがる。二人は何も言わず、人気のない角に腰を下ろした。
「そろそろ、ちゃんと話してくれよ。お前がどんな過去を背負って、どうしてこんな危険なマゾヒズムを求めるのか」
苛立ちを噛み殺すように、修一は澪の肩をぐっと引き寄せた。彼女は一瞬だけ嫌そうな顔をして、しかしすぐにうっすらと微笑む。
「話して……あなたは私をもっと追い詰めたいんでしょう? 痛みをえぐられれば、私も……あなたに縛られる」
その言葉は、まるで自分の傷を差し出すことで相手をより深く絡め取る巫女にも似た狡猾さを帯びている。修一はなおさらその誘いに苛立ちを募らせつつ、喉が熱くなるのを感じる。
澪は小さく息を呑むと、彼の腕をそっと振りほどき、自分の髪を耳後ろへかき上げた。その仕草には微かな震えがあり、どこか「本当の自分をさらけ出す」ための決心めいたものが滲む。
「……私、親が厳しくて、何もかも押しつけられて育ったの。家の体裁とか、女はこうあるべきだとか、とにかく縛られまくりだった。自由がないまま、ずっとガチガチに固められたのよ」
言葉の端々が痛むように震えている。
「だからって、痛めつけられるほうがいいのか?」
わざと冷酷な言葉をぶつける修一に、澪はわずかに笑う。
「甘ったれた理由かもしれないわね。でも……私、叩かれたり、押さえつけられたりする瞬間だけ“ああ、今は確かに自分がここにいる”って感じられるようになっちゃったの。どんなに優しくされても、嘘みたいに聞こえて……何かが疼いて落ちつかないの」
いつからそうなったのか――澪は掠れた声で続ける。
「大学生のとき、一人暮らしを始めてから“自由”を手に入れたけど、逆に何もかも意味がないように思えて。……こんな自由、望んでなんかいなかった。結局は誰の興味も向けられないなら、いっそ痛みに溺れたほうが私なんだと実感できると思った」
淡々と語られる内容は、あまりにも背徳的なのに同時に脆い。胸を締めつけるような孤独から抜け出せず、「痛み=生」を感じるに至るほどにすり減った心情。修一は耳を傾けながら、どこか自分の傷にも共鳴する響きを受け取る。
「……ふん、だからって、無様に殴られるだけで満足なのかよ」
強い言葉をぶつけながらも、修一はその目を逸らすことができない。澪は頬の涙を乱暴に拭って、わざとらしく唇を歪めてみせる。
「“殴られる”だけじゃ足りないの。……傷つけられても、相手を心から信じきれないなら無意味。痛いだけで終わっちゃうじゃない。私は……共倒れするほど踏みにじられたいのよ。私を壊す相手を、逆に壊したいくらい……」
その歪んだ欲求。家の中で築かれた過度な束縛と、自己否定。人との繋がりを疑い、代わりに“痛み”という確かな感覚を生として求めた末の倒錯。修一は思わず舌打ちをする。
「話すって……何を?」
再び澪が問い直す。それは先ほどまでと同じ口調だが、修一にははっきりとわかる。彼女はもう少しえぐられることを、そしてさらに互いを鎖で結びつけることを望んでいるのだ。
「どうせ俺を誘い込む気だろ。お前自身の痛みをチラつかせて、俺のサディズムを煽る……そのくせ、俺が別のところへ行くのは絶対に許さない」
「当たり前よ。他の誰かに行かれたら困るのは、私だけじゃないでしょう?」
唇から漏れる笑みは、挑発と哀れさが同居している。だが、自分を嘲笑っているようにも見える。まるで「こんなにも歪んだ欲望を抱えた私だけを喰い尽くせるのは、あなただけなんだから、逃げられないわよ」と言っているかのようだった。
「ちょっとした束縛や、軽い暴力なんかじゃ満足できなくなったってわけか。……底なしの深みにはまってるな、お前も」
鼻で笑いつつ、修一の胸には複雑な熱が渦巻く。これほど危うい相手が、なぜこんなにも魅力的に思えるのか。その答えは分かりきっている――自分のサディズムを本気で受け止められる存在など、そういないからだ。
「私さ……自分が痛めつけられてるときだけ、嫌になるくらい“生”を感じるのよ。うまく説明できないんだけど、ちっぽけな頃からそうだった。殴られたわけじゃないのに、親に“言う通りにしろ”って叱責されるたび、私は体のどこかをつねって確かめたの。……痛いと、ああ、ここにいるんだって」
声がかすれる。何度も酸っぱいものを呑み下すように、澪は思い出の苦さを噛みしめる。「それが、どんどんエスカレートしたのよ。……周りに本気で怒ってくれる人なんていないから、だったら私をめちゃくちゃにしてくれる相手を見つけよう、って。変よね。頭がどうかしてる」
そう自嘲しながらも、どこか誇らしげ。歪んだプライドが「自分に合うのは死ぬほど踏みにじってくる相手だけ」と確信させている。修一はその顔を見て、苦い熱が胃を満たすのを感じる。
「変だよ。だが……合うじゃねえか、俺たち。俺も、壊したい相手を探してた。お前みたいに“壊されるのを待ってる”やつなんて、そういないからな」
淡々と言い放ちながら、修一は澪の顔をじっと見つめる。二人の目が交錯し、闇のなかで火花を散らす。どちらが先に相手を飲み込むのか、もしくは同時に爆発するのか。ハリネズミのように棘を立て合い、甘美な血を分かち合いながら破滅へ向かう。それが二人の“愛”なのかもしれない。
「……いつからこんなふうになったのか、自分でも分かんないくらい複雑よ。けど、あなたと会って、確信したの。私みたいな女は、こんな歪んだ関係でしか救われないんだって」
「救われる……? バカだな。救いなんてあるかよ。破滅だろ、こんなの」
修一は澪の言葉を鼻で笑う。だが、澪はあくまでも静かに目を伏せる。その奥には、「破滅でもいい、そこにしか本当の自分がいない」という激しい執念がこぼれ落ちている。
「……どうせ、自分でも分かってるよ。結末なんかロクなもんじゃない。けど、私を踏みにじってほしいし、あなたもそれを望んでる。ねえ、この感じ……たまんないでしょう?」
かすれた声で囁く澪は、余裕のない笑みを浮かべる。修一もまた、答えられずに喉を鳴らす。痛みと快楽が背中合わせに立ち上り、背徳の蜜が口の中に広がるような感触がある。血を流すのはどちらだろうか。いや、きっと両方に傷は広がる。それでも、お互いを手放さない。
「馬鹿だな……こんな女、まともな男ならぜったい避けるぞ」
「ええ、そうね。あんたもまともじゃないから、こうして私をとことん探ろうとしてるんでしょう」
澪は短く鼻を鳴らして言う。その表情にはちらりと自嘲が浮かぶが、それこそが彼女を歪んだ光で彩る。痛みがなければ生を感じられない。そんな毒のある花を、美味しく貪り尽くそうとする修一。どっちが被害者で、どっちが加害者なのか、もはや分からない。
「……絶対に逃がさないからな」
「それを待ってる。いいのよ、どんなやり方ででも。最終的にあなたが私を完全に喰い尽くしてくれても構わない。……だけど、そのときはあんたも道連れになるのよ?」
まるで死刑宣告にも似た愛の表明。破滅へ向かう共依存が、さらに二人を固く結びつける。やめられない。生々しい痛みをとおしてしか脈打たない心の充足を、今さら放棄などできるはずがない。
「よし……。じゃあ、もっと暴いてやるよ。お前のことも、お前の汚れた欲望も、根こそぎな」
修一の低い声が痺れるほど澪の耳を打ち、彼女は小さく頷く。逃げる気などまるでない。むしろ凶暴な捕食者の牙をさらに鋭くするように、澪は自分の過去を晒し、痛みを暴かれている。くちづけよりも残酷な行為が、彼女にとってはそのまま愛撫に等しいのだ。
「踏みにじり合いながら血を流す関係――普通の奴らが笑っても、私たちにはこれしかないんだから」
そう言いきる澪の目には、もう冷静な光はない。修一も似たような有様で、彼女の“生きづらさ”にすら共鳴している自分を嘲笑いたくなる。結局、二人は傷だらけのハリネズミとして寄り添い合い、甘美な血を分かち合っているにすぎない。もしそれが破滅だとしても、まるで構わないと感じるほど酔い痴れているのだ。
背徳という蜜は、舐めれば舐めるほど舌が痺れて死んでいく。だが、その病みつきになる味から逃げられる道理がない。歪んだ関係こそが尊いと思い込むほど、ふたりは互いの棘を突き刺し合ってはその痛みに酔いしれている。そして、その痛みが癒えぬうちにさらに深入りする――終わりの見えない悪夢を楽しむように。
「……いいよ。もっと、私の血を味わって。代わりにあなたの血も、美味しくいただくからね」
澪の囁きが、いっそう危険に響く。互いの肌を切り裂くたび、そこから流れ出る血で相手を染め上げる。この狂気的な構造のなかでしか自分の居場所を見つけられない二人は、もはや戻れない崖の先を見据えるだけだ。
そうして夜は深まり、一歩進むごとに地獄が色濃く迫ってきても、二人は足を止めるつもりなどない。サディズムとマゾヒズム、それぞれが理想の捕食者と被食者を見つけた以上、手を離す理由もなくなってしまった。愛などと呼ぶには醜い。それでも、これこそが彼らにとってはかけがえのない“生”だ。
そして、まるで痛みを確かめ合うほど結びつきが強くなるように、二人は夜の中を彷徨し続ける。ハリネズミの棘同士が血を滴らせながらも離れないように、修一と澪は背徳という蜜にすべてを溶かしていくのだ。痛みを抉り合い、さらに相手の奥へ奥へと沈み込み、“最後の最後まで離れられない”と知っているからこそ、どうしようもなく求め合ってやまない――それが二人の宿命なのだ。
第8章 狂おしい共依存
人気のない午後の喫茶店は、妙に湿った空気が漂っていた。窓際の席に陣取った沢村修一は、目の前のコーヒーを押しやるようにして、早川澪の顔だけを見据えている。ふたりを隔てるのはテーブルの端だけ。まるで、その数十センチの間合いすら疎ましいとでも言うかのように、互いの瞳が激しく絡み合う。
「……こういう場所に連れ出すなんて、変な気でも起こした?」
澪が笑いかける口元は薄く引きつり、どこか焦燥感がにじんでいる。修一は鼻を鳴らし、わざと嘲るように唇を動かした。
「誰の目があろうが、気にするほどの話じゃねえよ。どうせ周りなんて、俺たちに興味もないんだ。……いや、お前にも興味ある奴はいないだろ?」
その言葉に澪のまぶたがわずかに震える。小さく苦笑したところで、修一の攻撃的な視線は少しも揺らがない。
「そうね。いまは、あなたしか目に入ってない。だから……外野なんてどうでもいいの」
澪の喉がひくついている。ここにいる誰もが、興味どころか、一瞥すら投げないと承知しているからこそ、ふたりは堂々と危うい空気を漂わせることができる。
修一がコーヒーを乱暴に一口すすってから、テーブルの下へ手を伸ばす。澪の手首を強引につかみ、自分の膝の上へと引き寄せる。
「……やめて。そんなところで」
一応、弱々しい抗議の声を上げてみせる澪だが、手首を振り払おうとはしない。むしろ期待すら感じるその微妙な表情に、修一は胸の奥がぞわつく。
「黙れ。お前は俺以外の奴と話すんじゃねえよ。――いいか、他の人間にかまう暇なんてないだろ」
わざと静かな声で吐き捨てるその言葉は、完全に相手を縛る呪いのようだった。澪は観念したかのように細く息を吐く。
「……分かってる。あんたが嫌がるのなら、誰とも話さない」
少し歪んだ笑みを浮かべながらの従順は、同時に彼女自身の倒錯的な欲求を裏打ちしている。彼女は自ら望んで孤立しているのだ。修一は澪から目を逸らさず、テーブルの向こうで小さく声を殺している彼女の様子を嘲笑うかのように見つめる。
「いい子じゃねえか。誰も、お前を必要とはしないんだから……俺だけ見てればいいんだよ」
「そう……たとえどんなにヒドいこと言われても、あんたじゃなきゃ嫌って、もう分かってるでしょう?」
軽薄なノイズを立てて、店内のエアコンが冷たい風を吐き出す。客のまばらなこのカフェには、ふたりの歪んだ会話だけが異様な熱を帯びていた。まもなく、修一は金を払い、澪を引きずるようにして店を出る。外の空気にさらされた瞬間、澪が少し身を震わせる。まるで檻の外に出た動物が怯えているような姿だ。
「あんたんとこ、行くわ」
そこに自分の意思などなさそうな、澪の投げやりな言葉。修一は無言でうなずくと、わざと歩調を合わせずに先を行く。澪も黙ってついてくる。通り過ぎていくビルの群れなんか全く目に入らない。視界にあるのは、修一の背中と脈打つような残響だけだ。
アパートにたどり着き、荒んだ生活の痕跡が散乱する部屋の鍵を開ける。ドアを閉めると同時に、外界の音が一気に遠のく。この閉鎖感が、ふたりには他愛もない安心をもたらしている。カビ臭い匂いが鼻腔を突き、揮発しきれない澱んだ空気が身体にまとわりつく。
「落ち着く? こんな汚い部屋でさ」
修一が冷やかすように尋ねる。澪は肩をすくめ、「他の奴を入れたくない空間、なんでしょ」と、つぶやくように応じる。
「……そうだ。ここは俺の巣だからな。お前だけが、かろうじて入ることを許されてる」
「そっか……嬉しいよ、そんなふうに言ってもらえるなんて」
澪の笑みはどこか上ずっていて、危なっかしい。修一はそのまま彼女の腕をつかみ、ドサリとソファに押し倒す。僅かに埃が舞い上がり、澪は咳き込むように顔を背ける。
「汚いのね、ほんとに」
「文句あるなら出て行け」
「出てくわけないでしょ。……あんたが嫌がらない限り、ずっとここにいたい」
その台詞に、修一は歪んだ安堵を感じる。けれど同時に、自分もこいつを失うことを恐れているという滑稽さが、心の奥に巣食っている。まるで、お互いが首を絞め合いながらも、離れられなくなる関係を満喫しているようだ。
「嫉妬してんのか、澪。俺がほかの女と寝るかもしれないって」
試すように、わざと残酷な問いをぶつけると、澪の目に殺気めいた光が浮かぶ。
「……あんたは私を裏切れないでしょ。それが分かってるから、嫉妬なんてしない。ただ……そういうウワベの刺激が欲しいなら、好きにやれば。私はその時に、あんたを噛み殺すだけ」
言葉の終わりで唇が微かに歪む。蛇のように冷ややかな笑みだ。修一は一瞬、息をのむ。澪の内側で狂気が渦巻いているのが手に取るように分かる。否――それこそが、自分が澪に執着する理由かもしれない。
しばらく黙り合ったあと、修一が口を開く。
「お前……こんだけ痛めつけられて、まだ俺が大事なのか?」
「痛めつけてくれなきゃ、意味がない。わかるでしょ」
低く呻くような声が澪の喉から漏れる。そこには隠しきれない恍惚が含まれている。修一は不快感とたまらない興奮を同時に覚え、彼女の頬を軽く叩くように手を伸ばす。頬に触れた瞬間、澪は目を閉じて、小さな笑い声を立てる。
「ほら……もっとやって。私だけを見て。……ほかの誰にも興味ないくせに」
“ほかの誰にも興味がない”――それは紛れもない真実だ。修一にとって澪は、誰よりも深く自分の闇に飛び込んでくれる唯一の存在。逆もしかり、澪は修一という歪んだ渦に飛び込みたい。もはや、お互いなしでは生きられないほど依存しているのを、本人たちが一番分かっている。
「お前だけ踏みにじっていられたら、それでいいんだよ。口うるさいやつも、偽善者も、全部シャットアウトしてな」
「いいよ……あんたの中で、私だけを飼い殺して。外の世界なんて、消えてしまえばいい」
テーブルの上に積まれていた読みかけの雑誌が、修一の乱暴な動作で床に落ちる。微かな埃が宙を舞う。そんな些細なことすら気にならないほど、部屋の空気は暑苦しく、二人の依存と偏執が満ちていた。
狂おしいまでの共依存――普通なら尻込みして逃げ出すような状況だというのに、二人は壊れるまでアクセルを踏み続ける。ときおり理性が「ここまでおかしくなるのは間違っている」と警告を鳴らしても、その声を握りつぶすように互いの存在を絡ませ合う。
ベッドに倒れこむように引きずられていく澪の体を、修一は容赦なく抱きすくめる。衣擦れの音と湿った呼吸が部屋に滞る。身を縮めて苦しがる澪の表情を眺めては、修一は得意げに肩を震わす。屈辱と快感が背中合わせになった情景――その異様さこそ、二人を強く結びつける。
「……なあ、お前。こんだけ苦しいのに、なぜ逃げない?」
「逃げるわけない。……あんた以上に強い薬、知らないから」
澪の声には悲鳴めいた色が滲んでいる。それを聞くたびに、修一の支配欲がくすぐられる。世間から見れば異常だろうと、これほど深く溶け合える存在など、どこにもいるはずがない。
しかし、その歪な城は脆いガラスのように儚いことを、二人は直感的に理解している。いつ何時、ひびが入り、崩れ去るかもしれない――だが止まれない。もはや理性ではなく、本能の快楽が全てを支配している。
「いつか……壊れるかもな、この関係」
修一がぽつりと漏らすと、澪はベッドのシーツを強く掴み、抑えきれない泣き笑いを浮かべる。
「いいじゃない……壊れれば。どうせ、まともじゃいられないんだから」
永遠に続くわけがないと分かっていながら、なおさら相手を縛りつけるのをやめられない。痛みすら愛だと錯覚したまま、破滅へ疾走する。そのむせ返るような熱狂に、修一も澪も完全に溺れきっていた。
夜が更け、部屋の電球が微かに点滅を繰り返す。狭い空間に閉じ込められているはずの二人は、どこまでも自由に倒錯を謳歌する。外の世界とは遮断され、自分たちの闇が無限に広がっていくような錯覚すら感じるのだ。
「俺だけ見ろよ……他の奴と話すな、そばにも寄るな」
「分かってる。あなた以外に興味なんてない。……ねえ、離さないで。ずっとこうしてて」
凄まじいほど身勝手で相手を追いつめる言葉なのに、そこに甘美が宿り、痛くもあり幸福でもある。二人が求めるのは、ただ「ここにいてくれ」という絶対的な依存関係――それ以外はすべて消えてしまえばいい。
そうして夜が更け、息苦しさすら甘い毒になっていく頃。修一は痛む肩を気にしながら、澪を抱えたまま目を閉じる。澪もまた、むせ返るほど密着した体勢のまま、弱々しく微笑んで目蓋を閉じる。どこかに逃げ道はあったのかもしれないが、探そうという気すら起こらない。
このまま壊れてしまっても構わない。絶望と欲望とが結びついたこの狭い世界のなかで、どこまでも狂っていこう。二人はその“答え”を選んだのだ。歪んだ抱擁のまま、朝を迎えてもきっと離れやしない。カビの生えた空気が流れ込み、胸を締めつけるような痛みを生み出しても、それがすでに心地いい。
まるで地獄の入り口を扉代わりにして、そこに二人分の鍵をかけてしまったかのように――修一と澪は狂おしいほどの共依存の中で、互いを支配し、支配される至福を噛みしめ続ける。どれほど危うく、歪んでいようが、もう何も怖くない。それこそが破滅への最短ルートだと知りながら、加速するしかできないのだ。
「私だけを見て」「お前だけを踏みにじりたい」――
世間の常識など通じない倒錯した合言葉が、部屋の闇をさらに濃く染め上げていく。どこかから聞こえる人の暮らしの音も、遠い別世界の雑音にしかならない。二人は、その闇の深みへと沈みながら、互いの存在を求め合う声を繰り返す。まともになど戻れない、戻りたくもない。夜はまだまだ、底なしの暗さを二人に与えていた。
第9章 決壊の予兆
血のように濁った月の下、沢村修一と早川澪は、まるで周囲の風景がすべて消え失せたかのように互いだけを見つめ合いながらビルの谷間をさまよっていた。通りかかる車も人影もなく、風が鉛色の夜気を揺らしている。見上げれば、そびえ立つビル群が薄汚れた空を覆いつくし、足元の路地は人ならざるものの喘ぎ声さえ聞こえそうなほど凍りついた沈黙に包まれている。
「澪、お前……ほんとはもう、ボロボロなんじゃねえのか?」
修一がかすれた声で言う。問いというより、どこか嘲笑に近い響きだった。澪はその嘲りを甘受するように唇をほんのり歪ませる。
「ボロボロ? 違うよ、まだ壊れ足りない。あんたがもっと踏みつぶしてくんないと、私……楽になれないし」
言葉の端々からは、生々しい執着と狂気が垂れ流されている。常識的な人間なら背筋を凍らせ、二度と近づかないだろう。けれど二人は、そこからすらさらに深い闇へ突き進もうとしている。
人気のない廃墟めいたビルの脇にたどり着くと、修一は鉄扉のところで足を止める。
「ここだ……たぶん、入れるはずだ」
目をこらすと、扉には鍵どころかまともな錆止めも施されていない。まるで誰かが意図的に残していった抜け道のようだ。澪の目が僅かに輝き、修一は扉を押し開ける。まるで呪われた地下墓地に通じる入り口のように、かび臭く冷たい空気が濁流となって流れ出す。
二人は無言のまま、裏口に続く階段へと足を運んだ。きしむ鉄骨の音が響き、陰鬱なコンクリートの壁に跳ね返る。狭い踊り場で修一は立ち止まり、じりじりと澪に迫る。まるで獲物を壁際に追い込み、爪先でいたぶる猛獣のような眼差しだ。
「ここなら……邪魔が入んねえだろ。たとえ誰か来たって、すぐには分かんねえ」
胸を締めつけられるほどの暗がりのなか、修一は澪を掴む腕に力をこめる。澪は身震いしながらも、それを拒まない。むしろ、「もっと縛って」と言わんばかりの熱い息遣いで応じる。
「いいよ……あんたに壊してほしい。こんな身体も、心も、くちゃくちゃにしてさ」
口調だけなら艶めかしいが、その底にはまともな愛情など存在しない。あるのは、泥沼のような共依存。澪を破滅へ導くのは修一だし、修一もまた澪と共に落ちるしかないのだと暗黙のうちに知っている。それを言葉にしないのは、互いが本当の恐怖から目を背けているからに他ならない。
錆びついた鉄骨の匂いにむせ返りつつ、修一は澪の肩を壁に押しつける。
「こんなとこで何してんだろうな、俺たち。……そろそろ死ぬまで踏みにじるって宣言してもいいか?」
語尾が震えている。焦っているのか、あるいは期待に狂わされているのか、その顔からは読み取れない。だが澪は自嘲気味に、けれど幸福そうに唇を吊り上げる。
「初めからそうでしょ? あんたは私を殺す気満々。私も、あんたに道連れにされたいだけ」
唐突に階上から重い足音が響く。誰かが夜勤か何かで動いているのかもしれない。しかし二人は息を潜めるどころか、むしろその足音に軽く陶酔したかのように見つめ合う。まるで人目があるほど燃え上がる倒錯のエネルギー。足音が遠のいていくと、修一は薄く舌打ちをした。
「さっさとどっか行きやがれ……俺たちは、これから地獄を作るんだよ」
地獄。澪の胸に甘い痛みが走る。言葉とは裏腹に、こうして二人きりで何もかも投げ出している瞬間、彼女は生まれて初めて「生きてる」と実感できるのだ。
「だったら、もう迷わなくていいのに。私、あんたの負担になってない? ……もっと苛めてよ。そうしたら、あんたのほうが俺にすがりついてくるんじゃない?」
その言葉に修一はムカついたように顔をしかめるが、同時に興奮で喉が詰まる。実際、澪の言うとおりだ。支配するつもりで相手を踏みにじっているはずなのに、気がつくと相手の喉首をしっかりと掴んで離せなくなっているのは自分なのかもしれない。
「……調子に乗るな。お前もたいがいイカれてるよ。まあ、その方が面白いんだけどな」
灰色の壁に引きずりつけるようにして、修一は澪を乱暴に押し込む。乾いた摩擦音が微かに響き、薄暗がりに二人の吐息だけがやけに生々しくうごめく。まるでここが地獄の入口だと宣告するように、錆びた階段の隙間からビル風が唸り声を上げた。
「最近、仕事とかどうしてんだ、お前。休みがちなんじゃないか?」
「仕事? どうでもいい……。会社の連中なんて皆、私のことなんか見ちゃいないし、興味もない。私も興味ない。……もう辞めてもいいや。あんたさえいれば」
澪の声音には絶望的とも思える解放感が混ざっている。二人以外の世界なんてどうでもいい、会社も家族も友達も、全部切り捨ててしまえ。修一が呆れたように鼻を鳴らす。
「何だそりゃ。……でもまあ、似たようなもんだ。俺もな、バイト先ほぼ行ってねえわ。あいつら全員気持ち悪いんだよ、仕事仕事ってさ」
彼らはすでに、生活のすべてを投げうっていた。仕事に行かない、家族も連絡しない、友人も疎遠。それでも生きていると思えるのは、ただ二人だけが狂気の中で繋がっているから。
「結局、俺たちにはお互いしかいないってわけだ」
修一の呟きに、澪はうっとりと目を細める。社会的にも人間関係的にも孤立している現在の彼らは、まさに外界を放棄して二人だけの黒い水槽で呼吸しているようなものだ。息苦しく、腐臭が立ちこめているのに、それを甘美と勘違いできるほどに毒されてしまった。
「いいじゃない。誰もいないんだから、好きに踏みにじってよ。どうせ私も誰も助けてくれないし、あんたしかいないんだからさ」
言いながら、澪の瞳は狂気に濡れている。まるで家族からも職場からも見放され、自らを修一の業に差し出すことでしか満たされないように見える。修一もまた、自分が同じ穴のムジナだと分かっていた。
「もう守るものなんかないんだし……壊れるとこまで行っちまうか」
皮肉を含んだ笑いが彼の喉を震わせ、澪は熱い息を漏らしながらその言葉に頷く。階段の踊り場は、廃棄物のような匂いと緊張した空気で満たされ、二人が極度の緊張感を共有するほど、その関係は破滅に向かって加速していく。
「あんたと壊れられるなら、それでいい。地獄に行くのも一緒なら怖くない。……ていうか、むしろ早く道連れにしてよ。ちゃんと死ぬまで踏みにじって」
「踏みにじってやるさ。……お前こそ、俺に最後までしがみついて、共倒れしろよ」
人間としてどこまで墜ちればいいのか、答えなどない。けれど彼らには選択の余地もない。否、自分たちでそんな余地を捨て去ったのだ。仕事、社会、友人――すべて切り捨て、破滅に捧げるいけにえとして“二人だけの世界”を育てている。もはや正常な再生など見込めない。
「そうだ……もう、どうなってもいい。全部捨ててきたんだから」
澪の言葉は、どこか享楽的にも聞こえる。そろそろ決壊が来る。それをどちらも分かっていながら、あえて踏みとどまらない。むしろ、決壊という名の狂乱を、自分たちの愛の証と呼ぶように――。
コンクリート壁の縁に額をくっつけ、澪は獣のように荒く鼻息を吐く。修一は彼女の後頭部に手を回し、まるでこれが最後の瞬間だとでもいうように強く抱きすくめる。痛いほどの力がこもり、澪の体が小刻みに震える。だが嫌悪の表情は浮かばない。むしろ悦びに似た歪んだ嗤い声が漏れた。
「ほら……もう逃げないから、あんたも私から逃げないでよ。死ぬまで、ずっと一緒に堕ちよう」
「……逃げねえよ。最後までめちゃくちゃにしてやる……」
二人の言葉が階段の奥へと震えながら吸い込まれていき、まるでビル全体が冷酷な笑みを浮かべているように感じられた。決壊しそうなダムの水位が限界に達するとき、最後に轟音を上げてすべてを飲み込むように、彼らの共依存は破滅へ向けて加速している。
誰の手も届かない。誰かの助言や救済の言葉があっても、耳を貸す余地はもうない。この薄汚れた階段こそが、二人の小さな終焉に向けた祭壇なのだろう。息を切らし、目を血走らせ、互いの隙間に入り込もうとする執着と快感は、普通の人間なら悲鳴を上げて飛び退くほどの狂気に違いない。
それでも、修一と澪はそこにしかない幸福を見出してしまった。それが“破滅の予兆”であろうと、止めることなどできない。いや、止める気など毛頭ない。むしろ狂気を昂らせながら深く沈み込み、歪んだ愛の名の下に今日も踏みにじり合うことをやめられないのだ。
――壊れるのは時間の問題。けれど、その時間すらいとおしむように、二人は不気味な階段の踊り場で身体を絡め、息を詰まらせ、互いの破滅を味わおうとしている。もう何ひとつ、常識や理性の差し出口など入り込む余地はない。心も身体もズタズタに引き裂いて、それでも離れない。そんな共依存が、綻びを見せることなく美しくも醜く輝きを増していた。まさに決壊は、すぐそこに迫っている。
第10章 死ぬまで踏みにじって
ビルの屋上には底冷えのする風が吹き、すすけたコンクリートの床が夜の湿気を絡め取っていた。沢村修一と早川澪は、そんな不快な環境など意にも介さないかのように、無造作に身を投げ出すようにして座り込んでいる。
まともな人間なら、一歩でも早く退散しそうな暗い夜の頂上――だが、彼らはそこが「自分たちだけの世界」だという事実に陶酔していた。街の喧騒や社会の道徳など、ここにはまるで存在しない。あるのは、歪んだ欲望と依存、破滅の予感に満ちた二人だけの静寂。
「なあ、澪……これだけ踏みにじってんのに、お前まだ生きてんだよな」
あくび混じりの声で修一が問いかける。確かな優しさも配慮も微塵も感じられない、ただの確認。澪は、その問いを嘲笑するようにかすかな笑いを漏らしながら、乱れた髪を手ぐしで整える。
「生きてるわけじゃないよ。あんたに殺されるか、道連れにされるか、それだけを待ってるみたいなもん」
唇の端をわずかに釣り上げるその表情には、心底からの絶望と、それを超えた安堵が入り混じっていた。いつ破滅が来てもいいとさえ思っているからこそ、ありとあらゆる束縛を断ち切り、修一に縋りついている。
「……全部捨てたよな。お前も俺も」
「うん。家族も仕事も友達も、煩わしいだけだったし。あんたがいれば、それだけでいいし、いらないし」
吐き捨てるような言葉の中には、一般常識を粉々に砕き捨てた者の虚無が透けて見える。澪はわざと鉄柵に背をもたれかけ、修一の方へ足を伸ばす。靴先が彼の腰あたりに触れると、修一は軽く舌打ちする。
「勝手に触んな、クソが……」
「ふふ、嫌なら踏みにじってよ。そうしたら、もっと楽になるんじゃない?」
挑発の言葉に、修一のまぶたが重く動く。嫌味な嘲笑を浮かべようとするが、喉の奥でうまく息が詰まる。
「結局、お前も俺も、一緒に狂うしかなかったんだろ。……そうじゃなきゃ、こんな深みまで落ちねえよ」
「落ちたかったんじゃないの? とっくに気づいてたくせに」
澪はささやくような声で言い放ち、足を修一の腰から離す。身を乗り出すように近づき、彼の耳元に顔を寄せると、ひそめる声もなく、ハッキリとした声量で囁く。
「死ぬまで続けようよ。あんたにとっても地獄が心地いいんでしょ? ねえ、逃げるとか言い出さないよね」
修一は刹那的な苦笑を浮かべつつ、澪の首を掴むように手を添える。力加減は「殺し合い」というより「もたれ合い」に近いが、そこにはやはり狂気の雰囲気が漂っていた。
「地獄を選んだんだろ? 最後まで付き合えよ」
「当たり前。死ぬまで踏みにじって、それでも離れてやんないから」
風がひときわ強く吹き、ビルの縁に立つ古びた看板がガタガタと音を立てる。いつ崩壊してもおかしくないほど風化した鉄枠が、不吉な影を二人の背後に落とす。けれど、彼らの耳にそんな危険音は心地よいBGMでしかなかった。この世の終わりのような薄汚れた光景が、まるで自分たちのために用意された舞台だと思い込んでいる。
「ねえ、修一、今のままじゃまだ物足りないでしょ?」
「……ああ、まだまだ足りねえよ。お前が息もできねえくらい踏みつけて、それでももっとやってほしいって泣き叫ぶくらいじゃねえとさ」
言葉に宿るのは、人道から大きく逸脱した嗜虐の熱。だが澪は目を潤ませ、頬を紅潮させてしまう。痛みの深みこそが、自分を生かしてくれるエネルギーだと錯覚しているのだ。
「いいよ。やって。もっと、ここじゃ言えないような卑劣な言葉で罵って……そしたら私、喜んでスカッと壊れるから」
「お前、壊れたら俺はどうすんだよ」
「壊れても、離れないよ。私を粉々に潰しても、きっとあなたにすがりつくから。……だからあんたも、俺から目を逸らすな」
異様な迫力で見つめ合う二人の目は、もう常識や倫理などとうに反転させてしまっている。そこには人の愛ではなく、狂気の糸が縦横無尽に張り巡らされ、どこを切っても抜け出せない迷路のような依存関係が広がっているのだ。
ビルの端で立ち上がった修一は、鬱陶しそうに髪を掻き上げ、柵の向こうに目をやる。闇に溶けかかった街の光が微弱に揺れる。下界でいくら誰が生きようが死のうが、もはや自分たちには関係ない――そんな割り切りを、彼は残酷な表情で噛みしめる。
「俺さ、いつまで踏みにじれば満足なんだろうな……。お前だけじゃ足りねえのか、いや、足りるのか……」
「あなたも迷ってる。けど、私を手放さないのも本当でしょ? もっとメチャクチャにしたいクセに」
この絶対的に歪んだ関係を否定する術は、最早彼らの中には存在しない。社会的信用など地に落ち、生活も崩壊寸前だが、そんなものは取るに足らない。むしろ、それこそが彼らの望む「自由」だった。
「お前に飽きたら、それはそれで終わりだろ。飽きねえけどな。……死ぬまでお前を踏みつぶす」
言葉がまるで刃物のように投げつけられ、澪はその衝撃でわずかに肩を震わせるが、浮かべるのは破滅的な笑み。
「いいじゃん、死ぬまで。私だってそこにしか生き甲斐感じない。……あんたが私に飽きるまで、しがみついて、どこまでも墜ちていく」
澪は身体を寄せて肩を預け、修一もその存在を拒絶しない。そうして二人は、不気味なまでに満足した表情で、ひたすら堕落を愛し合っている。人々から隔絶されたこの高所は、彼らにとっての聖域であり、同時に墓場でもある。何もかも断ち切り、社会の枠組みも倫理も投げ捨てた今、残ったものは狂った愛と名付けるにすらおぞましいほどの共依存だけ。
「ねえ、こんな関係になってどのくらい経ったっけ?」
「さあな。もう時間の感覚なんてねえよ。お前といるときが昼か夜かさえ、どうでもいい」
「同じ。ううん、もっと言えば、生きてるか死んでるかすら大差ないよね、あたしたち」
柵越しの街の灯りは徐々に薄れ、遠くで朝焼けの気配が立ちこめる。しかし、二人にとっては光が差し込むほどに安寧が遠のく気もしている。あえて迎える朝は、ただ新しい罵倒と嫌悪と愛憎を繰り返すだけの延長に過ぎない。それすら――二人には待ち遠しい。
「……お前が完全に壊れたら、泣き叫んで俺を恨むか? それともまだすがりつくか?」
「どっちもするかも。恨みながら、離れられない。……あんたもそうでしょ? ここで私を放り出して、どこかへ消える度胸なんかないくせに」
修一は感情を抑えこもうとするが、唇が引きつって笑いをこぼす。そう、逃げるなどもはや選択肢にない。地獄に落ちていくのは二人一緒。足枷をはめあいながら、最期まで傷つけ合う道を選んだのだ。
ビルの屋上に薄明かりが射し始めた。街のざわめきがゆっくりと復活しつつある。しかし、彼らはその光を“穢れ”としか思わない。邪魔をするなとばかりに、背を向け合うように柵から離れる。
「……行くか?」
「どこへ? もう行く場所なんてないよ。あんたと踏みにじり合えるなら、ここでもどこでもいいし」
「ふん、そうだな。どこだって関係ねえ。お前をゴミのように扱って、それでも俺から離れられないんなら……好きにしてやるよ」
澪は軽く鼻先で笑う。彼女の足元には、いつ転がってもおかしくない絶望が敷き詰められているが、その上で踊り続けることに狂おしい快感を得ている。
「あなたが飽きるまで、踏みにじって。私も、飽きないから……何度だって泣いてすがってやる」
「俺も絶対に飽きねえよ。死んでも一緒に腐ってやる……」
冷えきったコンクリートを背に、二人はいつまでも引き離せない視線を交わしている。まるでお互いの壊れゆく様を、最後の息まで見届けようとしているかのように。どうあがいても、ここが帰る場所。そしてここが最期の場所。正常な生を捨て、自分たちの淫靡な壊死にしか居場所を見いだせなくなった以上、外界など必要としない。死ぬまで相手を求め、踏みにじり続けることが彼らのたどり着いた唯一の答えなのだから。
「死ぬまで踏みにじってやる……それがお前の望みなら、俺も望みだ」
そう呟く修一の瞳には、痛みと歓喜、両方の涙がにじんでいるようにも見える。澪もまた、それが自分の未来だと理解しながら、一歩も引かない。
「最後まで、あんたから逃げやしない。……もっと、地獄の底まで一緒に行こうよ」
やがて朝の雑踏がビルの下を埋め尽くしても、二人は屋上を離れない。互いを罵り合い、殴り合い、そして抱き合うように寄り添い合う。この倒錯した共依存の終焉など、本当は誰にもわからない。ただ言えるのは、死ぬまで続く究極の破滅のかたちが、ここにあるということ。
世界がどれだけ光を増そうが、彼らは暗い闇の底でぴたりと寄り添っている。それを愛と呼ぶのか狂気と呼ぶのか――もはや定義などどうでもいい。死ぬまで踏みにじって、踏みにじられ続ける。それだけが、二人の確かな“生”の証明なのだ