血字の残響
第一章:魑魅魍魎(ちみもうりょう)
1
午後四時の新宿。夏の陽光が都会のビル群を斜めに突き刺す中、殺人事件の現場に刑事・橘明子は辟易とした表情で立っていた。現場は高級マンションの一室。白い壁紙に、禍々しいほど濃い赤い血液で書かれた巨大な漢字――「魑魅魍魎」――が浮かび上がっている。
「ちみもうりょう……」
彼女は眉をひそめ、ひとつ息を吐いた。「何だこれは、呪いのつもりか?」
鑑識班がバタバタと動く中、明子は嫌でもその漢字の意味を思い出してしまう。「魑魅魍魎」とは、邪悪な霊や化け物たちの総称。まさに「化物じみた」出来事にふさわしい血文字だ。しかし、それ以上に――被害者の遺体の状況が恐ろしかった。
遺体は部屋の中央にうつ伏せに倒れていた。被害者の名は江藤俊一(えとう しゅんいち)、42歳。経済アナリストとしてテレビにもよく出ていた男だ。彼の背中には無数の傷跡が刻まれ、まるで何者かに「喰い荒らされた」かのような惨状だった。
「これは単なる殺人じゃないわね」
明子は腕を組み、再び壁の「魑魅魍魎」に目を向ける。「化物じみた」という言葉が、これほどまでに似合う現場も珍しい。
「江藤は経済アナリストよね? どうしてこんなことに……」
「被害者の手元に、妙な資料が残されていたんです」
鑑識員が差し出した袋には、古びた書物の一部のような紙片が入っていた。そこには画数の多い漢字が並んでいる。
「……何これ? 見たこともない文字ばかりね」
「どうやら古い文書らしいです。何か関係があるのかもしれません」
明子は袋を手に取り、書かれた文字を一瞥する――だが、意味の分からない文字列の羅列が、不気味な余韻だけを残していた。
「どう見てもただの殺人じゃないな。犯人のメッセージか? 魑魅魍魎――」
明子の隣に立っていた鑑識の男が声を潜める。「まるで書道家のように丁寧に書かれているんですよね。あれだけ血で書いたってのに、筆跡に乱れがない。これは何か意味がある……そうとしか思えません」
「書道家?」
明子はふと、ある人物を思い出した。
2
「――突然、呼び出してすみません。君の力が必要なんです」
その日の夕方、明子は書道家・墨谷諒一の工房を訪ねていた。工房には墨の香りが漂い、壁には掛け軸や書の作品が整然と並べられている。まさに「静謐」の空間だ。しかし、諒一本人は驚くほど無頓着な格好で現れた。
「刑事さんが僕に何の用です?」
墨谷諒一――25歳の若き天才書道家。その目には冷静さとどこか他人を遠ざける無機質な光が宿っている。
「これを見てください」
明子が広げたのは現場写真。血で書かれた「魑魅魍魎」の文字だ。諒一の目がわずかに細められた。
「……見事な筆致ですね。いや、こんなことを言うのも不謹慎ですが、書道の心得がある人物でなければ、この文字は書けませんよ」
「心得がある、というのは?」
「筆を扱う技術――そして、漢字そのものに対する異常な理解と執着です。『魑魅魍魎』は日常で書ける文字ではありません。これほどの書を血で、しかも遺体の傍で描く……普通の精神状態ではないでしょう」
諒一は写真を見つめながら呟く。「まるで――それが"作品"であるかのように……」
「作品?」
明子は引き締まった表情で彼を見つめる。
「書道家にとって、字を書くという行為は単なる表現ではありません。魂を込め、命を削って書く――そういう覚悟が必要なんです。犯人は何かを訴えている。『魑魅魍魎』――これが第一の鍵になるでしょう」
3
その夜、明子は墨谷諒一の言葉を反芻しながら事件ファイルを整理していた。
「何かを訴えている……」
その時、彼女の机の上に置かれた辞書が目に入った。彼女はふと、"魑魅魍魎"の成り立ちを調べてみる。
「魑(ち)=山の神の化け物」
「魅(み)=死人の霊の化け物」
「魍魎(もうりょう)=川や沼に潜む妖怪」
「山、死人、川……?」
彼女は手元の写真に目を落とす。血文字の「魑魅魍魎」の下、かすかに見える何か――それは「もう一つの漢字」だった。
明子の背筋に冷たいものが走る。
「まだ……何か隠れている?」
4
翌朝、墨谷諒一の工房に明子が駆け込んだ。
「墨谷先生! あの血文字の下に、もう一つ別の字が書かれていた。見てもらえるか?」
諒一は微かに驚きながらも写真を受け取る。そして顕微鏡のような拡大レンズを通し、血の文字をじっと見つめた。
「……これは――」
その唇が一文字に引き締まる。
「『殤』だ」
「殤?」
「『殤(しょう)』――夭折、つまり若くして死ぬという意味です。犯人はこの字で、何かを訴えようとしている」
諒一の言葉に、明子の胸中に不吉な予感が過ぎる。
「若くして死ぬ――つまり、次の犠牲者は若者か?」
「恐らく。そして――これは連鎖する。次の字が現れるだろう」
5
その予感は二日後に現実となった。
次の犠牲者が発見された。血文字に書かれていたのは――「驫(ひょう)」だった。
連続殺人はまだ序章に過ぎない。画数の多い、禍々しい漢字が、まるで呪いのように人々の命を蝕んでいく――。
第二章:驫(ひょう)
1
乗馬クラブ「青嵐(せいらん)」は、早朝の湿った空気に包まれていた。白い厩舎の建物に陽が差し込み、どこか重厚な静けさを漂わせている。しかしその静寂は、ひとつの異様な光景によって破られていた。
「……何だ、これ……」
橘明子は厩舎の前に立ち尽くし、言葉を失った。
「驫(ひょう)」
血で書かれた巨大な一文字が、白壁に異様な存在感を放ちながら浮かび上がっていた。三つの馬が重なる形のその漢字は、整然と、だがどこか歪なまでに力強く書かれている。まるで犯人の狂気がそのまま文字に宿っているかのようだった。
「朱墨じゃないな……血だ」
傍らの鑑識員が、近くに残された飛沫を指差しながら言う。明子は唇を噛みしめ、壁とその真下に横たわる遺体を見下ろした。
被害者は篠宮英介(しのみや えいすけ)、38歳。企業経営者であり、この乗馬クラブの上級会員だった。彼の身体は泥と草にまみれ、苦痛に歪んだ顔が早朝の陽光にさらされている。
「……一体何があったんだ」
明子は呟く。視線を戻すと、壁の「驫」が不気味に目に焼きついた。
2
「――三頭の馬の字?」
その日の午後、墨谷諒一は工房で「驫」の写真を手に取り、静かに呟いた。彼の声にはいつも通りの冷静さが宿っていたが、その瞳にはどこか陰りがあった。
「『驫』という字は三つの馬が重なる形です。古くから"力の集結"や"繰り返し"を象徴する漢字だとされています」
「力の集結……繰り返し……」
明子はメモを取りながら呟く。諒一は手元の写真を見つめたまま続ける。
「それにしても、血で書かれているのに筆跡にほとんど乱れがない。まるで本当に"書"として仕上げたかのようだ……犯人には相当な技術がある」
「……やっぱり、ただの殺人じゃないな」
明子は苛立つように溜息をつき、言葉を続けた。「でも、この篠宮って男――何かおかしいんだ。聞き込みをした限りじゃ、ビジネスで一旗揚げた成金気質だが、最近は妙に焦っていたらしい」
諒一が目を細める。「焦っていた、ですか?」
「ああ。知り合いのクラブ会員が言っていた――"最近、変な筋の人間と繋がっていたんじゃないか"って。金儲けのためなら何でもやる奴だったらしい」
「金儲け……」
諒一が写真に目を落とし、静かに言った。「もしかしたら、彼が"手にしてはいけないもの"を手に入れてしまったのかもしれませんね」
明子が顔を上げる。「手にしてはいけないもの?」
「……いや、ただの推測です。ですが、この字――犯人にとっては何かを"浄化"するための一手かもしれません」
「浄化?」
「はい。『驫』という字の形自体が、何かを重ね、力を増す意味合いを持つ。それが繰り返されることで、何かが"完成"する――犯人の計画の一部、ということも考えられます」
明子は黙り込む。「繰り返し、力を集めて……完成させる?」
彼女の胸の中に、冷たい違和感が浮かび始めていた。
3
夕暮れ時、明子は乗馬クラブの事務所で、篠宮英介に関する資料を再確認していた。表向きは優雅な上級会員だが、その裏にはいくつかの気になる情報があった。
「オークション……?」
彼が最近、古い書物や骨董品を集め、それを密かにオークションに出そうとしていたという噂があった。明子が見つけたクラブの会員記録には、最近出入りしていた"怪しい男"たちの情報が書き込まれていた。
「金のためなら何でもする――そう言われる男が、古い何かを売ろうとしていた……」
明子は手元の資料を見つめながら呟く。「犯人はそれを許さなかったのか? それとも……」
「――手にしてはいけないもの、か」
諒一の言葉が頭の中で反響した。
4
夜、警察署のデスクで明子は事件を整理していた。
「魑魅魍魎」――自然や死者の怒りを示す最初の血文字。
「驫」――力の集結、重なる何かの象徴。
「犯人は何かを揃えようとしている……?」
だが、その目的は未だ見えない。犯人は"三"に拘り、連続する血文字を残している。その一方で、被害者・篠宮英介は「金儲け」に手を出し、何かを穢した――犯人にとっては、許されざる行為だったのではないか?
その時、電話がけたたましく鳴り響いた。
「橘さん! 第三の被害者が発見されました!」
「――!」
受話器を置くと同時に、明子は立ち上がった。
事件は確実に連鎖している――そして犯人の目的もまた、着実に形を成しつつあった。
第三章:麤(そ)
1
廃墟となった工場は、鉄骨の錆びた匂いと湿った埃に覆われていた。工場の中央にそびえ立つ白い壁――その異様な光景が刑事たちを沈黙させていた。
「……これで三度目だ」
橘明子は血の臭いに耐えながら、その壁を見上げた。
「麤(そ)」
壁一面に描かれた鹿が三つ並んだ不気味な漢字。赤黒い血で書かれているにも関わらず、その線は奇妙に歪んでいた。これまでの「魑魅魍魎」や「驫」とは明らかに異なる――まるで書いた者の精神が乱れているかのようだ。
遺体は壁の下に横たわっていた。被害者は天野和也(あまの かずや)、27歳。製造業の工場員で、職場を最近辞め、生活も荒れていたらしい。
「何か、荒れてるわね……」
明子は呟きながら、周囲を見回す。被害者の周りには古びた紙片が散乱していた。墨の跡が残る紙には、何かの古い文書の断片が書かれているようだ。
「鑑識さん、この紙片、調べてもらえる?」
「わかりました。かなり古そうなものですね……」
明子は再び壁の「麤」を見つめ、ため息をついた。
2
「――『麤』?」
午後、墨谷諒一の工房。彼は壁の血文字の写真と、被害者の周囲に散乱していた紙片を静かに見つめていた。
「『麤(そ)』は鹿が三つ並ぶ字で、粗雑や乱雑を意味します。しかし、これほどの大きさで描かれた血文字に、この乱れ……犯人は精神的に不安定になっているように見えます」
「精神的に不安定?」
明子が聞き返すと、諒一は頷いた。
「前回の『驫』や『魑魅魍魎』の筆致は整然としていた。しかし、今回は線が微妙に歪んでいる――これは、書き手が動揺している証拠です」
「焦っている……?」
明子は手元の紙片を見つめた。
「そしてこれ、遺体の周りに散らばっていた紙なんだが……ただの古書って感じじゃない。書いてある文字も意味が分からない」
諒一はその紙片を手に取り、目を細めた。
「……これは、かなり古い書物の一部ですね。しかもただの古書ではなく――おそらく、禁字(きんじ)の断片です」
「禁字……?」
その言葉に明子は眉をひそめた。「何よ、それ」
諒一は静かに紙片を置き、説明を始めた。
「禁字とは、古代に特別な意味や力を持つとされた漢字のことです。これらの字は呪術や儀式で使われ、人や物を縛る力があると信じられていました。あまりに強い力を持つため、一部の書物では禁字は封印され、表に出てこないようにされたんです」
「封印……力を持つ漢字?」
「伝説の話です。しかし、禁字の一部は古文書や古い書籍に残り、時折闇市場で売買されることもある――書道や歴史をかじっている人間なら、噂くらいは聞いたことがあるでしょう」
明子は驚きながらも、先日の被害者篠宮英介がオークションに関わっていた件を思い出した。
「じゃあ、今回の事件……禁字が関係している?」
諒一はゆっくりと頷いた。「その可能性はあります。そして、犯人がこの禁字を"浄化"するために何かをしている――あるいは手にしてはいけない者たちへの罰だと考えているのかもしれません」
3
被害者・天野和也が最近まで通っていた古書店を明子が訪ねたのは夕方のことだった。
「――天野和也? ええ、ここによく来ていましたよ」
老舗の店主が老眼鏡を掛け直しながら答えた。
「彼は最近、やたらと古い書物ばかりを探していました。高く売れるものを手に入れようと、あちこちの業者に問い合わせていたようですね」
「高く売れる?」
「ええ。特に"力のある書"だの"禁じられた文字"だの、妙なことを口走っていたこともありましたよ」
「禁じられた文字?」
明子の胸が冷たくなる。
「その書物、どこで手に入れたんだ?」
「さあね。どうやら闇市場経由で手に入れたものもあるみたいですが……彼も危ない橋を渡っていたんでしょう」
4
夜、明子は署内で事件の報告書を整理していた。
「天野和也――禁字の断片を闇市場で取引していた。そしてその結果……?」
机の上には、これまでの被害者の情報が並んでいる。篠宮英介がオークションで禁字の古文書を出そうとしていた件、そして天野和也の行動――これらは犯人の逆鱗に触れた結果なのだろうか。
「禁字……力のある文字、穢されるべきではないもの……?」
ふと、これまでの被害現場に残された文字を思い出す。
「魑魅魍魎――自然や死者の怒り」
「驫――力の集結」
「麤――乱雑、焦り」
「犯人は何を成そうとしている……?」
その時、電話がけたたましく鳴った。
「橘さん! 第四の被害者が見つかりました!」
明子は息を呑み、立ち上がった。事件はさらに深く、そして危険な領域へと進んでいる――。
第四章:齉(のう)
1
冷たい地下室の扉は、重厚な錆びついた鉄で固く閉ざされていた。刑事・橘明子は鑑識が工具を使って南京錠を切断する様子をじっと見つめていた。扉が開くと、部屋の内部から冷気と異様な臭いが一気に溢れ出す。
「……これはひどい」
狭い部屋の中央には被害者が倒れていた。
井原俊二(いはら しゅんじ)、35歳。劇団員で舞台俳優をしていた男。布で口を塞がれ、両手は後ろ手に縛られている。窒息死――息絶えた表情には苦痛と絶望が滲んでいた。
そして、床に広がる赤黒い血で書かれた巨大な文字――
「齉(のう)」
「……鼻が詰まる、という意味の字か」
明子は震える声で呟く。その文字は、これまでの現場と同じように異様に整っている。しかし、今度はその筆跡にどこか不自然な乱れがあった。
「どうやって書いたんだ……こんな密室で」
地下室には窓も通気口もなく、唯一の出入り口である扉は外から南京錠が掛けられていた。鑑識員が壁に取り付けられた小さな鉄枠を指さした。
「ここ……空気が完全に抜けないように設計されていますね。まるで、何かを閉じ込めるための部屋みたいだ」
「閉じ込める……?」
明子の胸中に不吉な予感が走る。
2
午後、墨谷諒一の工房。彼は井原俊二の現場写真を食い入るように見つめていた。
「……また違う形だな」
「違う?」
明子が怪訝そうに聞き返すと、諒一は静かに頷く。
「『齉』という字の乱れです。これまでの『魑魅魍魎』や『驫』は完璧な筆跡でした。しかし、今回の『齉』はわずかに乱れている……まるで書き手の手が震えているかのようだ」
「震えている……?」
諒一は写真を指でなぞりながら続ける。
「『齉』は鼻が詰まる、息ができないという意味を持つ字です。同時に、封印や閉塞を暗示する文字でもある――古い呪術や祭祀に使われた記録が残っています」
明子はハッと息を呑む。「封印?」
「はい。犯人はこの文字で"閉ざされたもの"を象徴しているのでしょう。息詰まるような密室――まるで、何かを外に出さないために作られたような場所です」
「何かを外に出さない?」
諒一の視線が一瞬だけ揺らぐ。しかし彼はすぐに表情を戻し、冷静に続けた。
「――それだけではありません。井原俊二はただの俳優ではありません」
「……何?」
「井原は禁字の研究に執着していた人物です。さらに、墨谷家の一部とも接触があった」
明子の眉がひそめられる。「接触って、どういうこと?」
「彼は禁字の封印を解く方法を探っていました。何か"禁忌"に触れようとしていた……それが彼の死と関係しているかもしれません」
「禁字の封印……」
諒一は少し視線を落とし、静かに言った。
「――これが"禁字の呪い"でなければいいんですがね」
3
その晩、明子は署内でこれまでの事件を整理していた。
「井原俊二は禁字に執着し、封印を解こうとしていた……。篠宮英介は古文書をオークションに、天野和也は禁字の断片を闇市場に流していた――」
明子の手が止まる。これまでの被害者に一つの共通点が浮かび上がった。
「……禁字に関わった者たちだ」
そこに共通するのは、禁字を"穢す"行為。犯人は、禁字を守るために一人ずつ浄化しているのかもしれない――。
4
明子の考えがまとまりかけた時、署内に呼び出しがかかった。
「橘さん! 捜査本部に匿名で包みが届きました!」
「包み?」
急いで捜査本部に駆け込むと、机の上に置かれた小さな木箱が目に入った。封は厳重に紐で括られ、表面には達筆な墨文字が書かれていた。
「――籲(よ)」
明子の心臓が跳ね上がる。
「籲……訴える、叫ぶという意味の字だ」
捜査員が慎重に箱を開けると、中には一枚の古びた紙が入っていた。そこには血で書かれた"籲"の文字と共に、たった一行の文が添えられていた。
「次が終わりだ。すべては封印のために」
明子は息を詰めた。「――次が、最後……」
5
翌日、明子は墨谷諒一の工房を訪ね、木箱とその中身を見せた。諒一はしばらく無言で血文字の"籲"を見つめていた。
「――やはり、そうか」
「どういうこと?」
諒一は静かに答えた。
「この字が示しているのは、犯人が最終的な"叫び"を残そうとしているということです。そして、その叫びは禁字の最後の封印に繋がっている」
「封印……?」
「真犯人が現れる時が近づいている。橘さん、近々全てが明らかになるでしょう」
諒一の言葉には、どこか確信めいた響きがあった。そして、その視線の奥に――明子は一瞬、迷いと決意が入り混じる光を見た。
「あなた、何か知っているの?」
「――言葉には触れてはいけない真実があるんです」
諒一はそれだけを残し、静かに紙を見つめた。
第五章:籲(よ)
1
夜の深い闇が、都心の一角を呑み込んでいた。廃墟と化した古い図書館。その存在はすでに人々の記憶からも忘れ去られていたかのように、静まり返っていた。
「ここか……」
刑事・橘明子は現場に到着し、暗闇を懐中電灯の光で照らす。長い年月を経た本棚はホコリをまとい、どこか不気味に並んでいる。その中央――まるで劇場の舞台のように、被害者は座り込んでいた。
古川達郎(ふるかわ たつろう)、56歳。言語学者であり、長年「失われた漢字」の研究に没頭していた人物だ。
明子は足を止め、光を被害者に向けた。その姿に思わず息を呑む。
両手を天に向けて捧げるように固まったまま、顔は天井を見つめ、口は大きく開いたまま――まるで何かを訴えながら絶命したかのようだった。
胸元に広がる血の文字――
「……籲(よ)」
明子は震える声で呟く。
「訴える、叫ぶ……か」
現場に響くのは、かすかな風音と遠くから聞こえる虫の声だけ。その静けさがかえって、文字の持つ異様な存在感を強調していた。
2
「『籲』――これは何を意味する?」
数時間後、墨谷諒一は現場に到着し、血文字を見つめていた。遺体の姿にも一瞥を送り、眉間に皺を寄せる。
「……犯人の"叫び"でしょうね」
「叫び?」
明子が問い返すと、諒一は静かに頷く。
「『籲』は訴えや叫びを象徴する漢字です。特に古い文献では、心からの"訴え"や、封じられた者の"叫び"として使われることがありました」
「封じられた者の叫び……」
明子は何かに気付いたように呟く。「……まるで、これまでの事件の流れそのものだな」
諒一はゆっくりと図書館内を見渡しながら、言葉を続けた。
「気付きましたか、橘さん。これまでの事件で選ばれた漢字――すべてが"閉塞"や"力の集結"を暗示していた。そして『籲』は、封印されていた何かが訴えを発しようとしていることを示している」
「訴え? でも……犯人が何を伝えたいのか分からない」
諒一の表情が微かに陰る。「犯人は恐らく、ここで"最後の訴え"を形にしようとしたのでしょう。そして……真相に繋がる道筋も、ここに残されているはずです」
「真相……?」
明子の胸中に、一つの仮説が浮かぶ――だが、その答えはまだ霧の中だ。
3
捜査が進む中、古川達郎の遺品として発見された古びた研究ノートが明子の前に広げられた。そのページには、異様に複雑な筆跡で漢字が書き連ねられている。
「これ……『禁字』か?」
明子は墨谷諒一にノートを見せた。彼は手袋越しにページをめくり、その目が一瞬だけ鋭くなる。
「そうです。禁字――古代の呪術や祭祀に用いられた、"触れてはならない漢字"です」
「古川は、この禁字を研究していたのか……」
諒一はふと、あるページで手を止めた。そこには古びた血痕のようなものが滲んでいた。
「見てください。このノートには封印を解く方法も記されている」
「封印を解く?」
明子の手が震える。これまでの事件が一気に繋がるような感覚がした。
「井原俊二、篠宮英介、天野和也――彼らは禁字を穢そうとし、力を解放しようとした者たちです。しかし古川は……」
諒一が言葉を飲み込んだ。
「古川の動機は、まだ別にあるのかもしれません」
「別の動機?」
明子が食い下がるが、諒一は目を細め、思案するように口を閉じた。
4
その夜、捜査会議が開かれた。机上には古川のノート、事件の写真、そして各現場に残された血文字が並べられている。
「『魑魅魍魎』『驫』『麤』『齉』、そして『籲』――」
明子は現場写真を並べ、手元のメモに目を走らせた。
「これらの字は、すべて"力の封印"や"閉塞"を暗示している。そして『籲』は犯人の最後の訴え――いや、"警告"のように感じる」
その時、静寂を破るように古い木箱が警視庁に届いた。差出人は不明。箱には封がされており、厳重に括られた紐がそれを守っている。
明子が慎重に箱を開けると、中には一枚の古びた紙――そしてそこに書かれていたのは、
「龘(たつ)」
「……龘?」
明子は硬直したまま、その一文字を見つめる。
「龍が天に昇る様を意味する、最難解漢字の一つです」
諒一が低い声で答える。その顔には、これまでにないほどの緊張が浮かんでいた。
「犯人は……これで最後の舞台を示している」
明子が息を詰める。「最後の舞台……?」
「次がすべての終わりです。橘さん――僕には確信があります。犯人の正体、そして真の目的が……」
「分かったの?」
明子の問いに、諒一は静かに頷く。だが、その目にはまだ言葉にできない何かが揺れていた。
「――もう一つだけ、確かめる必要があります。最後の現場で、すべてが明らかになるでしょう」
事件は、最終局面へ。禁字の力、封印、そして真犯人――すべての答えが、次の「龘」に託されることとなる。
最終章:龘(たつ)
1.
墨谷家古文書館の地下深く。壁に沁みついた古い墨の香りと湿った空気が、閉ざされた時間の重みを物語っていた。暗がりを進む二人の足音だけが静寂を揺らし、橘明子は手にした懐中電灯で冷たい石壁を照らしていた。
光が天井へ向かうと、そこには古びた石碑――無数の細かな文字に彩られ、その中心に刻まれた巨大な一字が浮かび上がる。
「龘(たつ)」
龍が天を飛翔するさまを象ったその字は、不気味な威圧感とともに、異様なほどの静けさを放っていた。
「これが最後の字……」
明子の囁きに応えるように、墨谷諒一が静かに立ち尽くし、石碑を見据える。
「『龘』――龍が天を飛翔する力強さの象徴。力の解放と再生を意味する禁字です。これを書き終えることで、すべてが終わる――そう桐子叔母さんは信じているんです」
「信じるって、どういうことよ?」
明子の声には焦りが混じる。彼女はこれまでの事件を通じて、諒一という人物が持つ静かな強さと冷静な頭脳を信頼するようになっていた。しかし、「桐子」という名が突然持ち出され、目の前の事態がさらに不可解なものに感じられた。
諒一はふと、かすかに目を伏せる。
「叔母の桐子は――禁字に人生を捧げた人です。墨谷家の中でも、古文書の管理と研究を一身に背負ってきた。そして、禁字に潜む力に魅入られてしまった……」
2.
墨谷桐子――彼女は諒一の父の妹にあたり、墨谷家の一員として幼い頃から書道と古文書の管理に従事してきた。彼女の才能は諒一が幼少期に見ても驚くほど卓越しており、わずかな墨の筆跡だけで歴史や書き手の心まで読み取ることができた。
「叔母さんは、僕に書の『生きる力』を教えてくれた人でした」
諒一の言葉に、明子は黙って耳を傾けた。
「――幼い頃、僕が初めて書道に触れた時、桐子叔母さんは僕にこう言ったんです。『文字には魂がある。書く者の心がそのまま字に宿り、人を導くことも、呪うこともできる』と」
「呪う……?」
「そう。桐子叔母さんは、墨谷家が禁字――つまり、人の魂や自然の力を縛るために作られた文字――を研究し、その"罪"を知ってしまった。そして、それを終わらせるために……次第に禁字の力に取り憑かれていったんです」
3.
諒一が書の道に進んだのは、桐子の影響が大きかった。子供の頃、両親を早くに亡くした諒一を育てたのは、家のしきたりを重んじながらも書に深い情熱を持つ桐子だった。
「でも、叔母さんは変わってしまった。ある時から、書を書くたびに『禁字の力を解放しなければならない』と言うようになって……」
諒一は、石碑の前で桐子を見つめたまま、明子に向けてゆっくりと語り始めた。その声には、重い真実を伝える者の覚悟が滲んでいる。
「叔母さんは本気で信じているんです。禁字を解放し、魑魅魍魎――自然の怒りと死者の霊を鎮めることが、墨谷家の罪を終わらせる唯一の方法だと」
「……墨谷家の罪とは一体何なの?」
「橘さん……墨谷家の罪とは、単なる禁字の研究ではありません。その根源にあるのは、権力と禁字の『力』を巡る過去の罪なんです」
明子が眉をひそめた。「権力……?」
諒一は静かに頷く。そして石碑を指さし、その表面に刻まれた無数の細かな文字を指でなぞった。
「今から数百年前――江戸時代初期、墨谷家の先祖たちは、書の力を用いて人々を統べることを夢見たんです。古文書の中に記された禁字――人の魂を縛り、自然の理を操るとされる文字の存在を知り、その力を手に入れようとしました」
「そんな……文字で人を縛るなんて」
「当時の墨谷家は、藩主や幕府の一部と結託し、禁字を用いた呪術や祈祷を密かに行いました。表向きは書道家や学者としての活動をしていましたが、裏では『禁字』を書き、権力者の意に反する者たちを精神的に破壊し、あるいはその命を奪ったんです」
「それって、暗殺――?」
諒一は眉をひそめながらも続けた。
「直接的に手を下したわけではありません。禁字を含む書を人目につかない場所に仕込み、あるいは持ち物や家屋の一部に『封じ』ました。禁字には呪詛の効果が宿ると信じられており、対象者は次第に心を病み、衰弱し、最後には命を落とす――そういう事例が少なからず記録に残っています」
明子は背筋に冷たいものを感じながら言葉を絞り出した。「じゃあ、墨谷家は……その禁字の力で、何人も死に追いやったのね」
「はい。しかし、彼らの行為はやがて裏目に出ました。禁字の力は書き手自身をも蝕む――という真実に気づかなかったからです」
諒一は目を伏せ、暗い石碑を見上げる。
「禁字を書くことは、書き手の精神と生命力を削り取る行為です。墨谷家の先祖の中には、禁字を書き続けたせいで狂気に陥った者、若くして命を落とした者も多くいました。さらに禁字が広まると、民衆の中に不安や疑念が生まれ、反乱や災厄の象徴とされるようになった」
「つまり、禁字そのものが――人々に害を及ぼす存在となった」
諒一は頷く。「最終的に、墨谷家は禁字の存在を封印する道を選びました。すべての禁字を石碑や古文書にまとめ、厳重に隠し、二度と人の目に触れぬよう誓ったんです。それが、この地下に残された禁字の封印です」
明子が驚愕の表情を浮かべる。「……でも、それが『罪』だというの?」
「封印したところで、禁字によって奪われた命が戻るわけではありません。それに、墨谷家は書道という文化の表舞台で栄え続けながらも、その裏で歴史の暗部に関わってきた過去を隠し続けました。そして――その罪の意識が代々、家族を縛り付けたのです」
明子は息を詰め、禁字に刻まれた歴史の重さを感じていた。言葉が人を縛り、狂わせる――それが本当に人間の手に負えるものなのだろうか? 彼女の胸中に、刑事としての理性とは別の、底知れぬ恐怖が広がり始めていた。
4.
明子が息を飲むと、暗闇の向こうから微かな音が響いた。かすかに擦れる布の音――それが次第に近づき、やがて部屋の奥から墨谷桐子が現れた。
彼女は黒い着物をまとい、手には朱色に染まった筆を持っていた。顔は穏やかな微笑みを浮かべていたが、その瞳には静かな狂気と哀しみが宿っていた。
「来たわね……諒一」
「叔母さん、これ以上はやめてください」
諒一は桐子に目を向け、静かに告げる。
「叔母さん、あなたがしたことは過去の罪を償うためではなく――禁字の力に呑まれただけだ」
桐子がゆっくりと首を振り、震える声で答える。
「違う……私は、墨谷家の罪を終わらせたかったのよ! 先祖たちが行った所業は、呪われた歴史そのもの。禁字が人を害し、争いを生んだ――だからこそ、その力を解放し、すべてを浄化しなければならないの!」
「それは破壊です!」諒一が叫ぶ。「禁字の力を解放すれば、再び人を呪い、争いが起きるだけだ!」
桐子の手に握られた朱色の筆が震える。その目には涙が滲み、狂気と絶望が同居していた。
「禁字を書き終えれば、世界は均衡を取り戻す。私たちの罪が――墨谷家の罪が、すべて許される……!」
「そんなものは許しじゃない!」
諒一は、強く言い放つ。「叔母さんの信じた浄化は――ただの破壊と自己満足だ!」
桐子は禁字の研究に没頭するあまり、墨谷家の他の者たちと対立し孤立していった。そしてついには、墨谷家が封印してきた禁字の力を"浄化"することで、罪を償おうと考えるようになった。
5.
墨谷家古文書館の地下には冷たい闇が沈んでいた。蝋燭のように揺れる明かりが石碑に浮かぶ「龘」を照らし、その異様な輪郭が壁に影を落としている。真紅の筆を握る桐子の手が微かに震え、その瞳は、諒一を見つめながらも何かを拒むように揺れていた。
「…、なぜ被害者たちは殺されたんですか?」
桐子は目を伏せた。その姿に怒りではなく、諒一の顔には静かな哀しみが滲んでいた。
「彼らは――禁字を穢そうとした者たちだったんです」
諒一は振り返り、明子に語り始めた。
「最初の犠牲者――江藤俊一。彼は禁字の存在に気づき、その力を『経済的価値』に変えようとした。"神秘の力"として禁字を利用しようとしたんです」
諒一は語り始めた。
「次に篠宮英介。彼は禁字の古文書を高値で売りさばくため、オークションに出そうとしました。禁じられた文字を"商品"として扱う行為は、禁字を穢すことに他ならない」
明子は静かに頷きながら聞き入る。
「三人目――天野和也。彼は禁字の断片を闇市場に流し、禁字の力を"ばらまく"ことで利益を得ようとしました。そして四人目、井原俊二――彼は桐子さんの計画に加担しつつも、その力を『舞台芸術』の名の下に利用しようとした。己の欲望を満たすために禁字を解放しようとしたんです」
明子の視線が鋭くなる。「そして古川達郎――あの男は何だったの?」
桐子が微笑みを浮かべながら答える。「古川達郎……彼は真実を知っていたのよ。禁字の力を使えば、全てを浄化できる――そんな理論を彼の研究は裏付けてしまった。彼は知識を広めようとしたけれど、同時に禁字を"解き放つ"危険を生んだの。彼の学問は禁字を世に解き放つ扉となるはずだったわ」
「だから、殺したんですね」
明子の声が震える。
桐子がようやく口を開く。「禁字は穢れ、歪んでしまった。だから私は――浄化するために彼らを殺したの」
「浄化? 違う!」諒一の声が鋭く響く。「叔母さんは、ただ禁字の力に溺れただけだ!」
桐子が顔を上げる。「いいえ。彼らの命は――自然や死者の怒りを鎮めるための犠牲だった。これでようやく均衡が取れる。『龘』を書き終えれば、すべてが終わる!」
「その先にあるのは破壊です!」
6.
桐子は真紅の筆を握り、石碑に向かって進み出た。
「これが最後の一筆――『龘』を書き終える!」
諒一が駆け出す。「止めろ、叔母さん!」
しかし、桐子の筆は止まらない。筆跡が石碑に刻まれた「龘」をなぞると同時に、地下全体が唸りを上げた。天井から石が落ち、床が震え始める。
明子は強烈な風圧に立ち向かいながら叫んだ。「諒一! このままじゃ――!」
諒一が顔を上げ、切迫した声で言う。「橘さん! 『龘』が完成すれば、封印されていた禁字の力が解き放たれる! 禁字は言葉の呪いそのものだ! 人の心の闇、憎悪や欲望を増幅し、理性を崩壊させる。それだけじゃない――自然界の均衡も壊れ、土地は荒れ、天変地異が頻発する。人も、自然も、世界そのものが狂ってしまうんだ!」
「世界が……終わる……?」明子の声が震えた。
石碑が異様な光を放ち、空間にねじれた波動が広がる。石に刻まれた禁字が浮かび上がり、まるで巨大な龍の形を取り始めた。その影が天井まで届き、咆哮するかのように壁を震わせる。
「叔母さん!」諒一が叫ぶ。「これは浄化なんかじゃない! 罪を終わらせたいなら、力に頼るんじゃなく、受け止めることだ!」
「それじゃ遅いのよ!」桐子が叫び返す。涙が滲む瞳は、狂気と絶望が入り混じっていた。「罪は私たちの代で終わらせなければならない! この力を解き放ち、すべてを浄化すれば――」
「違う!」明子が強い声で割って入る。桐子に向かい、一歩ずつ足を進める。その瞳は真っ直ぐ彼女を見据えていた。
「あなたは、"罪"を終わらせることに囚われすぎたのよ! 本当に大事なのは過去を"なかったことにする"ことじゃない――これからどう生きるかでしょう!」
桐子の手が震え、筆の軌道が一瞬だけ揺らぐ。
「……どう生きる……?」
「そうよ!」明子がさらに強く言い放つ。「罪を認め、その重さを背負って生きる――それが、本当の浄化じゃないの? あなたが選ぼうとしているのは、ただの"破壊"よ! 残るのは争い、災厄、そして……あなた自身の後悔だけ!」
桐子の目に迷いが浮かぶ。その一瞬を逃さず、諒一が筆を取り出し、力強く宣言する。
「――だから、僕が止めます」
床に膝をつき、諒一の筆が紙ではなく空間に走る。彼が書き始めたのは――
「静」
墨の音が重く、重力を帯びたように館内に響いた。筆先から流れた「静」の字が石碑へと向かい、「龘」を包み込むように染み込んでいく。
「何を……!」桐子が叫ぶ。
諒一が静かに語り始めた。「――『静』。この字は『青』と『争』から成り立つ。『青』は自然の穏やかさを示し、『争』は乱れを意味する。争いを鎮め、自然と共存し、静けさの中に平穏をもたらす――それが『静』の意味です」
桐子の筆が震え、彼女の手から滑り落ちる。石碑に刻まれた「龘」の文字は、次第に光を失い、諒一の書いた「静」に飲み込まれていった。まるで天を舞い上がろうとした龍が、静かな湖面に吸い込まれるかのように――。
「破壊ではなく、静けさこそが答えなんです」
7.
石碑が静かに沈黙すると、その表面に刻まれた禁字の光は完全に消え去った。空間に漂っていた不穏な波動が収まり、重く淀んだ空気が、まるで清浄な風に入れ替わるかのように澄んでいく。
「――禁字は無力化された……」諒一が息を吐き、石碑に手を触れる。
石碑は静寂を取り戻し、かつての威圧感は消え去っていた。桐子はその場に崩れ落ち、力なく呟く。
「……私は、何を……していたの……」
諒一が静かに彼女を見つめる。「叔母さん、あなたがしたことは罪です。でも――その罪を終わらせる方法は、破壊じゃなく、静けさなんです」
桐子の瞳から涙が零れ落ちる。「私は……墨谷家の呪いを終わらせたかっただけなのに……」
明子は、ゆっくりと桐子に近づき、手錠をかける。その手には迷いがなかった。
「これで終わりよ、桐子さん。あなたの苦しみも、罪も――そして、この禁字に縛られた時間も」
そう言った瞬間、明子の中に、確かな安堵が広がる。彼女は初めて事件に対する答えを見つけたように感じた。争いは怒りや力で終わるものではない――静けさこそが、人の心に平穏をもたらすのだ。
諒一は石碑に触れ、深く息を吐いた。「言葉は力です。でも、その力が争いを生むなら、それは本来の意味を失ってしまう。だからこそ、僕たちはその責任を忘れちゃいけない」
その言葉に、明子はそっと微笑んだ。そして、彼女自身が心の中で呟いた。
「――静けさ、か」
静寂の中に、一筋の光が差し込むように――それは、彼女自身が新たに見つけた答えでもあった。
エピローグ
数日後、事件の中心であった墨谷家古文書館は完全に封鎖された。古い石碑と禁字が記された巻物は、再び地下の奥深くに収められ、人の手が届かない場所へと戻されることとなった。報道陣が一時騒然としたものの、事件の詳細や禁字の存在が表に出ることはなかった。
墨谷諒一は、すべてを終えた後、自らの工房に戻り、日常の静謐な空間へと帰ってきていた。墨の香りが漂う室内。硯にゆっくりと水を垂らし、筆を手に取ると、諒一は白紙に一文字を書き上げる。
「静」
真っ黒な墨の線が、紙の上でしっかりと息づいているように見えた。その一字には、争いと混乱を鎮め、平穏を求める静かな願いが込められていた。
「……いい字ね」
工房の引き戸が開き、橘明子が姿を見せた。明子は扇風機の風に髪をなびかせながら、薄暗い室内に足を踏み入れる。
「刑事さん、もう来ないと思っていました」
諒一が淡々とした声で言いながらも、どこか柔らかな表情を見せる。明子は工房の中心に立ち、並べられた書の数々を見渡した。
「落ち着く場所ね。ここにいると、あの事件のことが嘘みたいだわ」
「そうでしょうね。――けれど、あの事件は現実でした。『魑魅魍魎』から始まった一連の流れが、どれほど多くの命を巻き込んだことか……」
諒一が筆を硯に戻し、静かに続けた。「叔母さんは、禁字に囚われた人でした。でも同時に、墨谷家が背負ってきた過去そのものでもあった。彼女が犯した罪は許されないものです。それでも――彼女の心の奥には、禁字を穢した者たちへの怒りと、墨谷家の『呪い』を終わらせたいという想いがあったんです」
「呪いを終わらせるために、命を奪った……皮肉な話ね」
明子は小さくため息をつき、諒一を見つめた。「でも、あなたは違う道を選んだ。あの時、『静』を書いて全てを収めた――あれは、あなたにしかできないことだったんじゃないかしら」
諒一は一瞬だけ目を伏せ、再び顔を上げる。「僕は、叔母さんの想いが間違っていると分かっていました。でも、それを否定するだけでは何も変わらない。言葉は力です――だからこそ、最後に必要だったのは破壊でも解放でもなく、『静けさ』だった」
「静けさ、ね」
明子は書き上げられた「静」の字を見つめ、その筆の流れに思いを馳せる。あの石碑の前で感じた狂気と禍々しさが、今はまるで遠い過去のもののように感じられる。
「……結局、あの禁字たちは何だったのかしらね。力の象徴? それとも、ただの文字?」
諒一は微笑んだ。「どちらでもないでしょう。禁字は、使う者の心によって形を変える。それが力にも呪いにもなる――僕たちが『言葉』にどう向き合うか次第なんです」
「言葉か……」
明子は小さく頷き、工房の窓の外を見やった。青々とした木々が風に揺れ、夏の光が柔らかに差し込んでいる。新宿の事件現場で感じた冷たい空気や血の臭いは、もうここにはない。
「――ねえ、墨谷さん。あなた、これからどうするの?」
諒一は少しだけ驚いた顔を見せるが、すぐに口元を緩めた。「書を書き続けます。禁字ではなく、穏やかな言葉を――人を導き、救う力としての文字を」
明子はその答えに満足げに微笑む。「いいわね、そういうの。……あんたがこれから書く字が、きっと誰かを救うんでしょうね」
「そうなることを願っています」
諒一の言葉は静かだが、その声には確かな強さが宿っていた。彼が選んだのは破壊でも呪いでもなく、「静けさ」と「平穏」の道だった。それは、禁字に囚われず、書の本質――人と人を繋ぐ力を取り戻す道でもある。
「それじゃ、私はこれで。次は平和な事件で会いたいもんだわ」
明子はそう言い残し、工房を後にする。引き戸が閉まると、再び静けさが工房を包んだ。
諒一は一息つくと、もう一度筆を手に取り、真っ白な紙に向かい合う。そして、迷いなく書き上げたのは――
「静」
窓の外では蝉の声が遠くで鳴き、葉擦れの音が優しく響いていた。青々と茂る木々が風に揺れ、光が柔らかに降り注ぐ。その静かな風景に、すべての争いが収まり、安らぎが戻ったことを実感するようだった。
「争いを鎮め、平穏を守る――それこそが、僕たちが言葉に託すべき本当の意味なんだ」
諒一の囁きは、墨の香りと共に工房に溶けていった。
完