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四重の影、揺れる灯

プロローグ:四重の影、揺れる灯


南風のように音を纏った男、リヨン。彼の背丈は高く、痩せていて、どこか木の幹のような静かな威厳があった。黒いコートの襟が風に揺れ、その影が彼の頬を斜めに切る。彼の目は深い青で、月明かりを湛えた湖のように冷たく、遠くを見つめているように見えるが、実際には何も見ていないようでもある。額にかかる黒髪は、潮風を浴びたかのように軽く乱れている。肩に乗る黒い鳥は、リヨンの外見の一部であるかのように溶け込み、彼の存在に一層の影を与えていた。

そのホームには、イレーヌがいた。イレーヌの髪は黄金色で、波のようにゆるやかに肩へ流れ落ちている。陽光の下ではないにもかかわらず、その髪は仄かに輝いていた。肌は陶器のように滑らかで、その冷たさを感じさせる。彼女の眼差しは灰色の霧の中に浮かぶような、淡く透き通ったものだった。背丈はリヨンよりも低いが、直立した姿勢には軽やかな強さがあり、どこか触れることを許さない孤高を感じさせる。赤いコートが彼女の体に柔らかく沿い、その動きに合わせてまるで炎の尾を引くように見える。

リヨンとイレーヌの距離は決して近くはない。だが、リヨンが彼女を視界に捉えるたび、周囲の空気が揺れるのを感じる。リヨンの肩の鳥が小さく鳴き、イレーヌはふと顔を向けるが、すぐに視線を外す。その一瞬の動きさえ、リヨンには永遠のように感じられる。


遠く、まったく別の街。赤い雨が午後の空から降り注ぐ中、ギデオンは歩みを止めた。彼の髪は栗色で無造作に短く切り揃えられ、雨粒がそれを濡らして光らせている。背丈は平均的だが、肩幅が広く、その体格には彫刻のような均整があった。瞳は暗い琥珀色で、雨粒が瞼にかかるたびに微かに輝く。ギデオンの顔立ちは険しいが、どこか物憂げな表情がその印象を柔らげていた。彼の手には何も持たず、ただ雨の中に静かに立ち尽くしている。

目の前に立つルーシーは、灰色のコートを羽織り、その裾が濡れた石畳に触れるたび、音のない波紋を作るようだった。彼女の髪は夜空のような黒で、首筋に沿って滑らかに流れ、濡れた雨粒がその一筋一筋を際立たせている。顔立ちは細く、彫刻的だが、瞳は澄んだ水面のように透明で、まるで底に隠された別の世界を見せようとしているかのようだった。彼女の唇は薄く、それでも微笑むたびに周囲の冷たさを溶かすような柔らかさを持っていた。

「これ、あなたのもの?」
彼女が差し出した切符の表面には、不規則な模様が浮かび上がっている。ギデオンは彼女の手元を見つめる。その指先は白く細いが、冷たい雨に晒されているせいか、かすかに震えているようだった。ギデオンは何かを言おうとするが、彼の言葉はまるで雨粒のように地面に消え、ルーシーの視線だけが彼を刺すように残る。


リヨンの影とイレーヌの旋律、ギデオンの迷いとルーシーの微笑み。それぞれが異なる空間にいながら、その姿は既に互いを映し始めている。リヨンの肩の鳥が小さく鳴き、遠く離れたルーシーがその声に微笑むかのように顔を上げた。その瞬間、赤い雨が紫の光を帯び、遠く響く鐘の音が、リヨンの耳元に届く。

まだ気づかぬまま、それぞれの影が交差し始める瞬間だった。

第一幕:影と切符


リヨンとイレーヌの物語

朝のホームは音で満ちている。列車の鉄の叫び、人々の足音、アナウンスの断片。それらすべてが波のように押し寄せては消えていく中、リヨンにとって唯一鮮明な音は、イレーヌの靴音だった。それは石畳を撫でる風の音と調和し、リヨンの中に生まれた言葉にならない感情を掻き立てる。

その日、リヨンは黒い鳥の視線を追いかけていた。鳥は天井の鉄骨を滑るように移動し、そのたびに影がリヨンの足元で形を変える。そして、イレーヌの姿がホームの隅に現れると、鳥の動きがぴたりと止まった。

イレーヌはゆっくりと歩いてくる。今日の彼女は薄い青のコートを纏い、その色がまるで空の欠片を切り取ったようだった。彼女のイヤリングは揺れ、金の涙が彼女の頬を飾る影を作り出している。その影は、リヨンの視界をぼんやりと滲ませるほど強烈だった。

いつものように、二人は言葉を交わさない。リヨンは彼女の動きの全てを音楽として捉え、イレーヌはリヨンの存在を風として感じる。ただそこにいるだけで、お互いの中に微細な振動が生じているのを知っている。

だがその日は違っていた。黒い鳥が突然翼を広げ、ホームの天井へと消えた。その瞬間、イレーヌの手がポケットに触れる。彼女は驚いたように眉をひそめた。イヤリングが片方、なくなっている。

リヨンは鳥が消えた方向を見る。次の瞬間、彼の手の中に黄金の涙が握られていた。それがどこから来たのか、どうしてそこにあるのか、説明できるものは何もない。ただ彼の手の中に、それは確かにあった。

「これ、君の?」
リヨンがそのイヤリングを差し出すとき、彼の声は海鳴りのように低く響いた。その音は、イレーヌの胸に小さな波紋を作る。彼女は微笑むでもなく、ただ首をかしげる。その仕草は、問いに答えるというよりも、問いそのものを消し去るかのようだった。

リヨンの手からイヤリングを取る瞬間、イレーヌは彼の指先に触れる。その一瞬の接触が、二人の間に風のない静寂を生み出した。その静寂の中、リヨンは初めて、自分がただ音ではなく感情そのものを感じていることに気づく。


ギデオンとルーシーの物語

赤い雨が降る午後。ギデオンとルーシーの出会いは、まるで既に書かれた劇の幕開けのように感じられた。ギデオンは雨に濡れた街角に立ち、ルーシーがその影の中から現れるのを見た。その姿はまるで夢から引き出された絵画のように鮮烈だった。

「切符の行き先は?」
ギデオンの声は、雨粒の中で言葉に形を与えるようだった。その言葉が空気を切り裂き、周囲の景色をわずかに歪ませる。

ルーシーは答えない。ただ切符を握りしめたまま、ギデオンの手を取る。その手は冷たく、それでいて確かな温度を持っていた。その瞬間、赤い雨が紫色の光に変わり、街角がゆっくりと溶け出した。

建物の壁が金色の砂となり、地面が波のように揺れ始める。二人を包み込む世界は、渦を巻きながら崩壊し、代わりに紫と金色の渦巻きが現れる。

「何が始まるんだ?」
ギデオンがそう呟くと、ルーシーは初めて微笑む。その微笑みは、すべてを知っている者の余裕と、不確かさへの挑戦が混じり合ったものだった。

「行き先なんてないわ。ただ進むだけ。」

その言葉と共に、二人は渦の中に飲み込まれていった。その先にあるのが夢か現実か、彼ら自身もわからない。ただルーシーの手がギデオンの手を離さない限り、すべてが繋がっているように感じられた。


交差する影

リヨンの手の中に残った感覚と、ギデオンの手に残った冷たさ。それらは見えない糸となって、二人の世界を少しずつ近づけていた。リヨンが黒い鳥を見上げるとき、遠く離れたどこかで、ルーシーの瞳にその鳥の影が映り込む。

それぞれがまだ互いを知らない中で、その影は確かに広がり、彼らを包み込み始めていた。

第二幕:「溶けゆく現実」


リヨンとイレーヌの物語

黒い鳥が再びホームに戻ってきたのは、イヤリングを返した翌朝だった。鳥の目はどこか笑っているようで、リヨンに「次は何をする?」と問いかけているようだった。リヨンは答えなかった。彼はただ、いつものようにホームに立ち、イレーヌを待つ音楽のような緊張感を抱えていた。

イレーヌが姿を現す。今日の彼女は、深い緑色のコートを纏い、イヤリングを両耳につけていた。その輝きは雨上がりの葉に宿る光を思わせた。リヨンは息をのむ。この瞬間だけ、彼は自分の鼓動が音楽と同期しているように感じる。

イレーヌがふとリヨンを見た。その目は何も語らないが、視線の先には明確な焦点があった。リヨンはついに耐えられなくなり、少しだけ彼女に近づく。だがその瞬間、黒い鳥が低く飛び、イレーヌの足元を掠めた。

イレーヌは驚き、一歩後ずさる。そして、リヨンに向かって囁くように話しかけた。
「この鳥、あなたの?」

彼女の声は小さかったが、それは初めて聞く旋律のように美しかった。リヨンは答える代わりに、手を伸ばし、黒い鳥を呼び寄せる。その仕草に、イレーヌの瞳がわずかに柔らかく揺れた。その一瞬、リヨンは彼女の中にある別の風景を見た気がした。音楽のようで、静寂のような何か。

イレーヌは短く微笑むと踵を返し、ホームの端へと歩いていった。リヨンは彼女の背中を見送りながら、自分の中で何かが大きく動き出しているのを感じた。


ギデオンとルーシーの物語

紫と金の渦に飲み込まれた先で、ギデオンは目を覚ました。周囲は無限の海のような空間で、上下左右の概念すら曖昧だった。目の前に立つルーシーだけが、現実の端を繋ぎ止めているかのように鮮明だった。

ルーシーの手には切符がまだ握られている。その切符は、今や光を放ち、そこに刻まれた文字が浮かび上がっていた。「選ばれし道」と読めるが、次の瞬間にはその文字が波のように形を変える。

「これがどこに行くのか、教えてくれる?」
ギデオンが尋ねると、ルーシーは静かに首を振った。
「行き先を知る必要はない。ただ歩くの。」

彼女の言葉は抽象的だったが、ギデオンの心には奇妙な安堵をもたらした。彼は、ルーシーが彼を導いてくれる存在であると信じたかった。だが、なぜ彼女が自分を選んだのか、その理由は分からないままだった。

ルーシーは切符をギデオンに手渡す。その瞬間、切符が熱を帯び、ギデオンの掌に焼き付くような感覚を残した。彼が驚いて手を開くと、切符は既に消えていた。代わりに、彼の掌には奇妙な紋様が浮かび上がっていた。それは鳥のような形をしており、ルーシーの目がそれを見つめるとき、彼女の微笑みが少しだけ深まった。

「あなたは選ばれたわ。」
ルーシーはそう言ってギデオンの手を取る。そして二人は再び歩き出した。目の前には何もない空間が広がっているが、それでも彼らは進む。ギデオンは彼女の手の温もりを感じながら、自分がどこに向かっているのかを問うことをやめた。


それぞれの道

リヨンとイレーヌ、ギデオンとルーシー。互いの存在がそれぞれの心に波紋を作り始める。リヨンは、イレーヌの背中を思い出すたび、彼女の視線が自分を貫いたような感覚を覚える。イレーヌは、黒い鳥が空を舞う音に耳を澄ましながら、その影にリヨンの存在を感じる。

一方で、ギデオンは、ルーシーの手の中に自分の道を見出そうとしていた。ルーシーの微笑みは謎めいていて、それでいて何かを確信させるものがあった。彼女の手を握るたび、彼の中の迷いは少しずつ消えていくようだった。

二つの道はまだ交わらない。だがそれぞれが進む先で、影は少しずつ濃くなり、物語の境界線は静かに溶け始めていた。

第三幕:「揺れる影、囁く灯」


リヨンとイレーヌの物語

リヨンは夢を見た。黒い鳥が彼の肩を離れ、果てしない空を飛び続ける夢だった。その鳥は時折振り返り、リヨンの名前を呼ぶが、声は風の中に溶けて消える。目を覚ますと、リヨンはいつものホームに立っていた。だが、今日は何かが違う。空気が湿り気を帯び、音が重たく感じられる。

イレーヌが姿を現した瞬間、リヨンの心に奇妙な既視感がよぎった。彼女は髪を上げ、銀のピンで留めていた。そのピンには小さな羽のような装飾があり、黒い鳥の羽を思わせた。リヨンの視線がそれにとらわれたのを感じたのか、イレーヌは立ち止まり、ピンに手をやる。

「気になる?」
彼女の言葉は短く、静かだった。リヨンは小さく頷いた。

「このピン、昔から持っているの。」
イレーヌの声には、懐かしさと軽い哀愁が混じっていた。リヨンは言葉を探したが、うまく見つからない。ただ、彼女の目に映る自分の姿が、何か欠けた影のように見えた。

「君には、鳥が見える?」
リヨンが尋ねると、イレーヌは少し驚いたように目を見開き、その後、ふっと笑った。

「ええ、時々。」
彼女の答えは、リヨンの心に新たな波紋を作る。鳥がイレーヌにとって何を意味するのか、彼は尋ねたくてたまらなかったが、言葉はまたしても喉元で消えた。

その日の帰り道、リヨンは初めて鳥の声が彼を導いているのではなく、何かを隠しているのだと感じた。彼が知るべき何かが、鳥の影の中に潜んでいる気がしてならなかった。


ギデオンとルーシーの物語

ルーシーは笑っていた。その笑顔は、ギデオンが今まで見た中で最も生々しく、同時に最も作り物めいたものだった。彼女は小さな店の前に立ち、何かを指さしている。そこには古びた時計が飾られており、文字盤には数字の代わりに奇妙な記号が刻まれていた。

「この時計、気に入ったわ。」
彼女の声には、意味のない確信があった。

「動かないじゃないか。」
ギデオンは時計に触れてみた。針は動いておらず、ガラス面はひどく曇っている。

「動くのは時間じゃないもの。」
ルーシーの言葉に、ギデオンは答えを見つけられない。彼は時計を店主に買い求め、ルーシーに手渡した。その瞬間、時計の針がわずかに震えたように見えた。

「時計が何を示しているのか、分かる?」
ギデオンが尋ねると、ルーシーは首を振り、笑みを深くするだけだった。

二人は歩き続ける。街は徐々に色を失い、白と黒のモノクロームの世界へと変わっていく。建物は影のように揺れ、人々の顔が歪み始める。だが、ルーシーは気にするそぶりもなく歩を進める。

「君は、何を探しているんだ?」
ギデオンの問いに、ルーシーは立ち止まる。そして、ゆっくりと振り返り、真剣な瞳で彼を見つめた。

「私は、探してなんかいないわ。ただ、待っているだけ。」

その言葉の意味をギデオンが理解する前に、街全体が大きく揺れ、遠くから鐘の音が聞こえた。その音は次第に大きくなり、ギデオンの耳を覆い尽くした。


揺れる影

リヨンとイレーヌ、ギデオンとルーシー。それぞれの世界で、影が深まり、灯が揺らめく。リヨンの鳥、イレーヌのピン、ギデオンの紋様、ルーシーの時計。それぞれが断片として存在し、互いに干渉し合う気配があった。

だが彼らはまだ気づいていない。世界が少しずつ繋がり始めていることを。それは目に見える形ではなく、心の奥底に囁く灯のようなものだった。

第四幕:「境界線が崩れるとき」


リヨンとギデオンの夢

リヨンは深い闇の中にいた。目を開けても閉じても同じで、ただ周囲を満たす黒が音のない静寂を伴って広がっているだけだった。しかし、その闇の中で、一羽の黒い鳥が宙に浮かび、羽ばたきもせずに静かに揺れていた。

鳥はリヨンの方を見つめている。だが、その瞳には何か別の存在が映り込んでいた。それは、見知らぬ男だった。

「君は誰だ?」
リヨンの声が闇を震わせた。

その男、ギデオンは答えなかった。ただ彼の顔はリヨンが見たことのない色で描かれているようだった。その色は動き、形を変え、つかみどころがなかった。ギデオンの指が鳥を指差す。その鳥はゆっくりと動き出し、リヨンの肩に降り立つ。次の瞬間、その鳥はギデオンの手にも止まる。

二人の視線が交錯したとき、世界が歪んだ。闇がひび割れ、亀裂から記憶の断片が流れ出す。

リヨンの中に、知らない街角の情景が広がる。それは赤い雨に染まり、彼が訪れたことのない場所だった。同時に、ギデオンの中には、駅のホームと音楽のように歩く女性の姿が映り込む。二人は互いに互いの記憶を共有していることを知るが、それがどうして起きているのかはわからない。

「君はなぜ、ここにいる?」
ギデオンが初めて言葉を発したとき、その声はリヨンの耳に馴染み深い旋律として届いた。だがリヨンは答えなかった。言葉を紡ごうとするたび、鳥がそれを呑み込んでしまうかのようだった。


イレーヌとルーシーの出会い

鏡のような湖のほとりで、イレーヌは立ち尽くしていた。その湖は風も波もなく、ただ静止したまま、夜空を映している。イレーヌはふと水面に目を落とす。そこに映る顔は彼女自身のものではなかった。それはルーシーの顔だった。

水面から現れるように、ルーシーが姿を現す。その動きは滑らかで、不自然なほど自然だった。イレーヌは一歩後ずさるが、ルーシーは微笑みながら近づいてくる。

「あなたは誰?」
イレーヌが尋ねると、ルーシーは湖の水を指で触れ、その指先に広がる波紋をじっと見つめた。

「私はあなた。」
ルーシーの言葉は静かで、それでいて鋭かった。その言葉を聞いた瞬間、イレーヌは自分の影が湖面に映るルーシーの影と完全に重なっていることに気づいた。

「どういう意味?」
イレーヌが問い詰めるように言うと、ルーシーは再び微笑んだ。その笑みは鏡の中に映る自分自身のもののように馴染み深く、それでいて異質だった。

「意味なんてない。ただ、あなたが私だということ。」

イレーヌはその言葉を信じることも拒絶することもできなかった。ただ、彼女の心の中に何かが欠けていたことに気づき、その欠片が今目の前の女の中にあるように感じられた。


崩れる境界

リヨンとギデオン、イレーヌとルーシー。それぞれが出会い、それぞれが重なり、互いの記憶と感情を侵食し始めていた。夢と現実の境界が消え、彼らはどちらにいるのかを確信できなくなる。

リヨンが目を覚ますと、鳥は肩にいなかった。その代わり、彼の手には切符が握られていた。その切符には、ギデオンの記憶の中にあった赤い雨の街の風景が描かれていた。

イレーヌが目を覚ますと、髪に留めたピンが消えていた。その代わり、彼女の耳にはルーシーが触れていた水滴が滴り落ちていた。

それぞれが自分の世界に戻ったはずだった。だが、二人の心の中には、確かに境界線を超えた者の影が残っていた。

そして、その影が再び彼らを引き寄せる運命を、誰も止めることはできなかった。

第五幕:「交差する運命」


リヨンとルーシー

リヨンは駅のホームに立っていたが、もうその場所は彼が知るホームではなかった。鉄道の線路は消え、代わりに果てしなく広がる砂漠がそこにあった。砂粒は黄金に輝き、彼の足元を覆うようにして緩やかに流れていく。その視界の中、黒い鳥が空を舞い、その影が砂漠に長い線を描いた。

その影の先に、ルーシーが立っていた。灰色のコートを羽織りながらも、その輪郭が砂の熱に揺らいでいる。彼女の瞳は湖面のように静かで、すべてを見透かすようだった。

「どうしてここにいる?」
リヨンの声は砂嵐に溶けるように消えたが、ルーシーはその意味を理解したかのように微笑んだ。

「あなたが私を呼んだからよ。」

その言葉にリヨンは戸惑い、目を伏せた。その瞬間、彼の肩の鳥が羽ばたき、ルーシーの肩へと移動した。その動きは自然すぎて、まるで鳥がもともとルーシーの一部だったかのようだった。リヨンは初めて、鳥が自分のものではなかったことを知った。

「私はずっと、あなたの影を見ていた。」
ルーシーの声が柔らかく響く。それは彼女の言葉というより、風そのものが語っているようだった。

リヨンはその言葉の意味を理解できなかった。ただ彼の胸の奥に、誰にも触れられたことのない感情が芽生え始めているのを感じた。それは暖かさであり、不安であり、終わりの予感でもあった。


ギデオンとイレーヌ

ギデオンは赤い雨の街にいた。だが、雨はもはや彼に触れることなく、彼の周囲を漂う霧のようになっていた。街の建物は溶け出し、形を失いながらもどこか美しい模様を描いている。その中央に、イレーヌが立っていた。

彼女の髪は黄金の波のように流れ、その瞳は灰色の空を映していた。ギデオンが近づくと、彼女のイヤリングがかすかに揺れた。それは涙の形をしていたが、今は赤い雨を吸い込み、光を放っているようだった。

「ここで、何をしている?」
ギデオンの問いに、イレーヌは視線を彼に向けた。その目には、彼が知るはずのない懐かしさが宿っていた。

「あなたの中に、私の探していたものがある。」

その言葉に、ギデオンは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。彼はイレーヌを知らないはずだった。だが、彼女の声が彼の記憶の奥底に触れ、閉じ込められていた何かを解き放とうとしていた。

「僕の中に何がある?」
ギデオンが尋ねると、イレーヌはゆっくりと微笑んだ。その微笑みは壊れかけた彫刻が崩れる瞬間のように脆く、それでも美しかった。

「あなた自身も、まだ知らないもの。」

イレーヌの指がギデオンの頬に触れる。その瞬間、街が大きく揺れ、赤い雨が火花に変わった。二人を包む世界が崩れ始める。だが、ギデオンは恐れなかった。彼女の指先が触れている間だけ、すべてが正しいと感じられた。


終わりの始まり

リヨンとルーシー、ギデオンとイレーヌ。それぞれが互いの中に、自分の欠けた部分を見つけていた。だが、その繋がりが深まるたびに、世界は次第に形を失っていった。砂漠の風が砂を巻き上げ、駅のホームを飲み込む。赤い雨の街は燃え盛る炎の中に溶けていく。

それぞれの選択が迫られる中、影の鳥が再び空を舞った。その翼は黒い夜のように広がり、切符が灰となって消える瞬間、世界が完全に静寂に包まれた。

「あなたは誰を選ぶの?」
その声はリヨンの声でも、ギデオンの声でもなかった。それは彼らの心そのものが問いかけているようだった。答えはまだどちらの口からも発せられていない。ただ、彼らの瞳の中に、互いの姿が揺らめいているだけだった。


世界は歪み続ける。彼らの選択が何をもたらすのか、まだ誰にも分からない。ただ、その影と灯が交わる瞬間が、全ての運命を決定づけるだろう。

エピローグ:「溶け合う影と灯」


リヨンとルーシーは新しい街の住人となった。その街は地図にも記されておらず、空には常に淡い薄明かりが広がっている。街路は静寂に包まれ、家々の窓には見たことのない花が飾られていた。

リヨンはその街の中で、鳥の影を追い続けていた。鳥は時折現れては、ルーシーの肩に止まり、また飛び去る。ルーシーは静かにその鳥を撫でながら、微笑むことを忘れない。彼女の瞳には、街全体を包み込む穏やかさが宿っていたが、その奥に何かを失った寂しさも隠れていた。

「この街は、夢の中のどこかにある気がする。」
リヨンがそう呟くと、ルーシーはただ頷いた。

「そうね。でも夢と現実の違いなんて、大して意味はないわ。」

リヨンはその言葉に答えなかった。ただ彼の胸の奥で、何かが揺れるのを感じた。それはこの街に来る前に失われた何かを思い出すような感覚だったが、それが何なのかを正確に掴むことはできなかった。


一方、ギデオンとイレーヌは、赤い雨の街が消えた後の残骸を探し続けていた。彼らの旅は終わりが見えず、街角を曲がるたびに新しい風景が現れ、すべてが彼らの記憶を拒絶しているようだった。

イレーヌはときおり立ち止まり、耳元のイヤリングに触れた。それは涙の形をしていたが、もう輝くことはなかった。その代わり、その表面にはギデオンの紋様が映り込むように浮かび上がっていた。

「この旅は、何のために続いているの?」
ギデオンが尋ねたとき、イレーヌは静かに目を閉じた。

「あなたがその答えを見つけるためよ。」

ギデオンはその言葉の意味を考えながらも、イレーヌの背中を追う。彼女の存在が、彼にとって唯一の灯となっていることを知っていた。だが、彼女の視線の先にあるものが何なのか、ギデオンには知るすべがなかった。


世界が交わるたび、彼らの影は再び出会った。リヨンが街の片隅で鳥の影を追うとき、ギデオンの瞳にはその影が映り込んだ。ルーシーが微笑むとき、イレーヌのイヤリングが微かに震えた。

「私たちは、いくつの夢を見たんだろう?」
その声がどこから聞こえたのか、彼らには分からなかった。それはリヨンの声か、ギデオンの声か、あるいは風そのものの声だったかもしれない。だが、その問いは四人全員の心に同時に響いた。

答えは、どこにもなかった。だが、灯が揺らぎ続ける限り、影はまた重なり合い、消えた記憶の中で新しい物語を紡ぐだろう。それが終わりであるか、始まりであるかは、もう誰にも関係のないことだった。

ただ、灯は灯り続け、影はその下で揺れる。それが彼らの運命であり、永遠の瞬間だった。

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