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飛び魚殺人事件

第一部:静かな海の殺人


第1章:凪の朝の惨劇

 真渡(まわたり)島は、四方を青く穏やかな海に囲まれた小さな離島だ。島の中央にはなだらかな丘があり、その裾野には数十軒ほどの民家が肩を寄せ合うように並んでいる。普段は静かで、朝には波打ち際からトビウオが水面をかすめて跳ねる音がかすかに聞こえるほどだ。
 この島には唯一の高級旅館「潮見館」があった。崖に近い高台に建つその木造の建物は、伝統的な造りで島の古い気風を残しつつ、近年は観光客向けに内装を改めたばかり。漁で獲れた新鮮な魚介類をふんだんに使った料理が評判となり、特にとび魚料理は名物中の名物。観光シーズン前の今は、仕込みや試作が本格化する時期だった。

 その朝、空は曇り一つなく晴れわたり、海面はまるで鏡のように凪いでいた。島の人々は出漁前の準備に追われたり、畑で野菜を摘んだりと、いつも通りの日常を送っていた。そんな穏やかな時間を引き裂くような叫び声が、「潮見館」の裏手から響き渡ったのは、朝の6時を少し回った頃だった。

「きゃあああっ! 誰か来て! 大瀬さんが、大瀬さんがっ!」

 悲鳴を上げたのは、潮見館で長く仲居を務める初老の女性、末永だった。彼女は慌てた様子で玄関から飛び出し、島民に助けを求める。近くにいた若い漁師や配達人が声に気づき、旅館へ駆け寄る。末永は顔面蒼白で、声は震え、指先まで小刻みに揺れている。そんな彼女の言葉を整理する間もなく、男たちは旅館の裏手にある調理場へ足を向けた。

 調理場は、調理人が仕込みや新メニュー開発を行うため、早朝から火が落ちることなく使われる重要な空間だ。中へ入ると、香ばしい出汁の匂いと湿った潮風が入り交じる、独特の空気が漂っていた。だが、その朝はいつもの活気が消え、異様な静寂に包まれている。

 入り口付近の床には、小さな水たまりができていた。海水なのか、氷が解けた水なのか、判断がつかない。そしてその奥、まな板台の前に倒れこんでいる人物――潮見館のオーナーであり、著名な料理人、大瀬哲郎が横たわっていた。

 大瀬の身体は、白い調理服の胸元が大きく染まるほど深紅に汚されていた。その様相は凄惨を極め、彼の胸には、まるで悪意が突き立てた旗印のように、一本の魚が突き刺さっている。それはとび魚だった。

 透き通るような青い背びれと、空気を切り裂くような翼のような胸びれを持ったとび魚は、本来、生きてこそ美しく、料理されて旨みを振るうべき食材だった。それが今、氷のように冷たく硬い状態で人間の胸を貫く「凶器」として存在する。その異様さに、集まった者たちは言葉を失う。

 大瀬は、この島で一目置かれる存在だった。幼少の頃から島の漁師町で腕を磨き、海外で修行を積み、帰郷後は潮見館を繁盛させた立役者である。観光客のみならず地元民からも慕われ、料理長として成功を収めていた男が、なぜこのような残酷な終わりを迎えねばならなかったのか。

 外から新たな足音が近づく。島の駐在所からやってきた警官が、震える末永を宥めながら中へ入り、すぐに状況を確認した。その表情は見る間に曇り、言葉少なに応援を要請する。離島ゆえ、捜査が本格化するには本土からの応援が必要だろう。

 外では、駆けつけた島民たちが入口付近で不安げに身を寄せ合っていた。誰もが顔を見合わせ、何が起きてしまったのかを計りかねている。美味なるとび魚を凶器に変えた殺人者は、この小さな島のどこかに潜んでいるのか。あるいは、島外から入り込んだ何者かの犯行なのか。

 潮見館の板の間に薄暗い朝の光が差し込み、遺されたとび魚の影が、床に青黒い輪郭を作り出している。その影は、まるでこれから始まる波乱を予告するかのように、不吉な形を揺らめかせていた。
 凪いだ海が、事件の衝撃を受けて波立ち始めるのは、もう間もなくだろう。
第2章:現場検証と不可解な凶器
 翌朝、まだ島の海面が淡い光を受けて群青色に染まりきらない時間帯、真渡(まわたり)島の小さな港に一隻の巡視艇が到着した。船から降り立ったのは、黒いスーツに細身のネクタイを締めた若い刑事・早瀬光輝(はやせ こうき)だった。島出身の彼は十数年前に島を出て以来、本土で刑事として経験を積んできた。彼がこの島に戻ってくることになろうとは、本人も思わなかっただろう。

 地元駐在の警官が出迎え、挨拶もそこそこに二人は潮見館へ急ぐ。警官は険しい顔つきで状況を説明した。
「被害者は潮見館のオーナー、料理長の大瀬哲郎(おおせ てつろう)さん。昨日の早朝、調理場で遺体が発見されました。凶器は……とび魚。冷凍されて、まるで槍のように使われていました」
 早瀬は聞きながら眉間に皺を寄せる。
「冷凍された魚で人を刺した――冗談みたいな話だな」
「ええ、誰も信じられないでしょうが……現場を見れば納得するしかありません」
 そう告げる警官の声は落ち着きを欠いていた。

 潮見館に着くと、既に入口付近には本土から来た鑑識班が器材を運び込んでいる。昨日の衝撃がまだ残るのか、館の使用人たちは怯えた目で廊下の片隅に集まっていた。仲居の末永は、心身耗弱しているのか、他の仲居が介抱しながら声をかけても上の空だった。男衆も、いつもの快活さを失い、深刻な表情で捜査陣を見つめている。島民たちも館の外で固唾を呑んで様子を伺っていた。

 鑑識班に続いて調理場へ足を運んだ早瀬は、その異様な現場を目にする。床には既に遺体はないが、血痕と水滴が残る跡が黒ずんだシミとなり、まな板台には調理器具がきちんと揃えられたまま横たわっている。大瀬の死後、手を触れられないよう封鎖した空間は、かすかに潮と血の匂いを混ぜ合わせた重苦しい空気に支配されていた。

 鑑識員が冷凍とび魚のサンプル写真と遺体写真をタブレットに映し出し、早瀬に説明する。
「傷口は胸部中央。衣服を貫通し、致命傷に至っています。とび魚は、丸ごと一本、鋭い頭部側から突き刺されたと見られます」
「魚は通常柔らかい。どうやってそんな芸当を……?」
「極めて低温で冷凍された魚は、硬度が増し、刃物のような鋭さを帯びることもあるとのこと。ただし、普通の冷凍庫程度ではそこまで硬くはなりません。業務用の特殊な冷凍設備か、あるいは氷漬けなど、特殊な手が加わっている可能性が高い」
 早瀬はふと「潮見館」にある設備や、島の漁獲処理施設のことが頭をよぎる。特殊な冷凍設備を使用できる人物がいたのかもしれない。

 加えて鑑識員は続ける。
「刺し込む際にはかなりの力が必要と見られます。軽く押し込んだ程度で致命傷にはなりません。相当な意思と力、あるいは計算が働いている」
 殺意が明確であることは間違いない。早瀬は、ふと視線を流し、厨房の一角に置かれた大きな冷凍ストッカーを見つめた。ここで魚を冷凍保存していたのか? 館の使用人や出入り業者に聞き込みが必要だ。

 捜査が進む中、館の外では島民たちが不安げに立ち尽くしている。この小さな島は狭い人間関係に支えられ、誰もが顔馴染みだ。そんな場所で殺人事件など滅多になく、その上、凶器が魚とあっては、疑心暗鬼が渦を巻くだけだ。
「まさか、誰がそんなことを……」「島に他所者なんて入り込んでないだろうか?」
 かすかな囁きが人々の間を行き交い、彼らは外の青空の下でさえ閉塞感を感じているようだった。

 遠くから、漁船に乗り込む漁師たちの姿が見える。本来ならとび魚漁のために海へ出るはずだが、その足取りは重く、誰もが上の空だろう。とび魚はこの島にとって誇りであり、命を支える資源である。それが今、恐ろしい殺人凶器へと変貌した。この出来事は、島の日常を大きく揺るがしていた。

 一方、早瀬は調理場を丹念に見回した後、駐在警官と共に次の手配を考える。まずは大瀬哲郎の人間関係、外部との取引や新メニュー開発の計画、その日は誰が館に出入りしていたのか、事細かな事情を洗い直す必要がある。
 さらに、特殊な冷凍技術を必要とするこの殺害手口には、一定の知識や準備が必要と見られる。大瀬に恨みを持つ者、何らかの利益を奪いたい者、裏取引に関わる者がいないか探らねばならない。

 早瀬は生まれ故郷の島を見渡す。この静かで、風情に満ちた漁村にそんな闇が潜んでいるとは想像もしがたい。けれど、この不可解な事件は紛れもない現実として彼の前に横たわっている。
 頬に当たる潮風は、どこか冷たく感じられた。島民の不安が風に混ざり、島全体を包み込みつつあるかのようだ。
 これから本格的に始まる捜査で、早瀬は何を見出すのか。とび魚という不可解な凶器は、犯人の何を示し、どんなメッセージを内包しているのか。島の謎は、まだ氷の中で凍りついている。

第3章:容疑者たちの横顔
 海鳴りが微かに響く朝、早瀬光輝は小さな漁港近くにある倉庫前に立っていた。波止場には何艘かの漁船が停泊し、網の手入れをする漁師たちの姿もちらほら見えるが、全体的に島は沈鬱な空気に包まれている。殺人事件による動揺が未だ収まらない中、彼はひとり、これから面談すべき容疑者たちの顔ぶれを頭の中で整理していた。

 まずは島唯一の仲買人、長谷川だ。
 この島で獲れた魚介類は、基本的に漁協や長谷川を通して本土へ出荷される。特に最近、大瀬哲郎が新たな商品として売り出そうとしていた「とび魚を使った特別メニュー」は、長谷川と利益配分を巡って揉めているという噂があった。
 早瀬は長谷川が営む小さな事務所を訪れる。漁港から少し離れた倉庫群の一角に、雑多な発泡スチロール箱が積み上げられたその場所は、いかにも裏方という印象だ。
 長谷川は五十代半ばで小柄な男だった。銀縁眼鏡とスラックス、襟付きシャツという出で立ちは、漁村にはやや場違いなほど整っている。
「新商品? 確かに大瀬さんと議論はしたが、あくまでビジネス上のことだ」
 彼は低い声でそう言い、慌てた様子はない。むしろ慎重な口ぶりで、特許やブランド化などのアイデアは大瀬から持ちかけられ、配分を巡って数度意見を交わしたと語る。
「真渡島が有名になれば私にもメリットはある。殺す理由などない。むしろ彼には成功して欲しかった」
 そう言いつつも、長谷川が冷凍設備や出荷ルートに精通している点は見逃せない。彼が関与すれば、不可能な冷凍条件もクリアし得るのではないか、と早瀬は考える。長谷川は否定したが、その瞳の奥には一種の計算高さを感じる。

 次に、若き漁師・中田を探した。
 中田健吾はまだ二十代半ばで、筋肉質の体格。港の片隅で網を点検していた彼は、早瀬が声をかけると手を止めて振り返った。
「大瀬さんを尊敬してましたよ。俺たち若い漁師にとび魚漁の新しい技術を教えてくれたり、島を発展させようとしてくれてた。それは本当です」
 そう言いながら、中田はどこか歯切れが悪かった。早瀬が突っ込むと、彼は少し視線を逸らす。
「ただ……正直、最近は大瀬さんの要求が厳しかった。仕入れる魚の品質や数、漁に出る時間、細かく言われて不満がなかったと言えば嘘になる。若手が芽を出す余地がないように感じてたんです」
 中田が不満を抱えていたのは明らかだった。だが本気で殺す動機になるだろうか? しかし、冷凍とび魚が凶器だった点を考えると、漁師である彼はとび魚に精通している。常に大量の魚を扱う中で、特殊な冷凍条件を満たすこともできたかもしれない。

 そして、大瀬の弟子である松下については、潮見館の裏手にある離れで話を聞くことができた。
 松下悠貴はまだ三十手前で、都会から来て大瀬の下で修行中の料理人だった。長身で痩せぎす、身なりは清潔だが神経質そうな面持ちで、細かな癖として右手の指先で左手首を撫でる仕草が目立つ。
「師匠である大瀬さんには感謝しています」
 松下はそう口にするが、声は平板だった。
「ただ、私はいずれ独立したいと思っていました。大瀬さんは卓越した才能を持ちながら、その名声を私のような弟子たちにあまり分け与えなかった。新メニューが完成すれば、その名誉はまた大瀬さん一人のものになる」
 かといって、師を殺してまで名声を手に入れる意義はあるのか? 料理人として成功を志す彼にとって、この島で殺人など愚行以外の何物でもないだろう。しかし、島の設備やルートを知り尽くした弟子であれば、冷凍魚を武器にする着想を得る可能性も否定できない。その内面に渦巻く嫉妬と焦燥感が何を生み出したか、簡単には断言できない。

 最後に大瀬の妻、美知子に話を聞くため、潮見館の奥へ足を進める。
 美知子は三十代後半、白いブラウスにロングスカートを身にまとい、落ち着いた雰囲気の女性だ。だが、その瞳には深い悲しみと戸惑いが漂っていた。
「夫は島を愛し、料理を愛していました。確かに最近は忙しく、ほとんど家族の会話もままなりませんでしたが……」
 美知子は唇を噛む。
「確執なんて、そう……なかったと言えば嘘になるかもしれません。夫は新商品の開発に心血を注ぎ、私が提案した宿の内装変更やイベント案にはあまり耳を貸さなかった。経営について意見が食い違うこともありました」
 だが、彼女は涙を浮かべながら語る。
「だからといって、私が夫を……そんなこと、できるはずもありません」
 その言葉は真実味を帯びていたが、事件後の悲劇的感情が混ざり、真偽を測りにくい。一方で、妻であるからこそ、夫の作業場や設備に自由に出入りできたのではないかという思いが早瀬の頭をかすめる。

 その他にも、漁協関係者や島の有力者にも話を聞いた。
 漁協の理事は、大瀬が開拓しようとした新ルートによって既得権益を揺さぶられたことをほのめかし、大瀬を「やり手」と言った。
 また、旅館の仕入れを担当する業者が、最近になって品質チェックが厳しくなったと愚痴る声もあった。
 さらに、地元の老人たちは、「大瀬は島を本土客相手の商売で変えすぎた。島の風土を歪める」と陰口を叩く者もいた。

 疑惑はまるで蜘蛛の巣のように広がっていた。誰もが何らかの不満や不安を抱えているように見える。
 冷凍とび魚という異様な凶器が意味するところは何か。ビジネス上の対立から生まれた皮肉なのか、それとも魚料理に人生を懸けた被害者への奇妙なメッセージなのか。
 早瀬は、聞き取りを終えた後、再び穏やかな海を見つめた。青い水面の向こうには、どこかに犯人の痕跡が隠されているような気がする。

 この島では、大瀬哲郎という存在が中心軸として機能していた。彼の死によって、島中に張りめぐらされた人間関係が音を立てて揺らいでいる。
 長谷川、中田、松下、美知子、そしてその他の関係者――誰もが何かを隠し、何かを失い、あるいは何かを得ようとしている。早瀬は心中で、その顔ぶれを一人ずつ並べ、冷凍庫の鍵ととび魚の行方を結びつける糸口を求めた。

 海風が微かに吹き、夏を迎える前の潮の香りを運ぶ。
 真渡島は沈黙を保ちながら、次第に事件の底に沈む秘密を炙り出す準備をしているようだった。

第二部:潮の流れと秘密のレシピ

第4章:とび魚冷凍庫の謎
 早瀬光輝は、朝の弱い光の中、潮見館の裏庭に立っていた。ここ数日、島中を歩き回っては聞き込みと現場検証を重ね、少しずつ事件の輪郭が見えつつある。だが肝心の謎――なぜ、そしてどこで、あの凶器となった冷凍とび魚が作られたのか――は依然として霞んだままだ。
 冷凍魚は一般的に、旅館や漁港の加工場、あるいは漁協が管理する倉庫などでストックされる。外部業者も出入りしない小さな島では、そう多くはないはずだ。早瀬は、犯人が凶器を生み出した“現場”が、この島内のごく限られた範囲に存在すると確信していた。

 まず、潮見館の裏手にある専用の冷凍庫を改めて調べる。ここは大瀬哲郎が新メニュー開発のため、仕入れた食材を保管する場所として使われていた。扉は業務用の頑丈な冷却室で、定期的なメンテナンスが必要なほど精密な機械が並ぶ。
 鍵は基本的に大瀬と、信頼の厚いスタッフ数名しか持っていない。だが、その「数名」について詳しく尋ねると、潮見館の若い板前見習い・松下が「自分は預かったことがない」と即座に否定。仲居の末永も「大瀬さんに申し付けられるまで絶対触れなかった」と主張した。
 ならば、他に誰が鍵を管理していたのか。館の下働きの中には、生活用品を取りに冷凍庫へ入る者もいる。だが通常、それは決められた業務時間内のみで、単独で立ち入ることは稀だ。
 さらに扉周辺には微かに乾いた泥が付着していた。裏庭から少し離れた、崖下へ続く小道は雨が降るとぬかるむ。最近は小雨があったというが、犯行当時、裏手から冷凍庫へ忍び込む者がいたのではないか。その人物は、鍵か、または鍵を開けられる手段を得ていたはずだ。

 次に早瀬は、漁港近くの加工場へ足を運んだ。ここは島で獲れたとび魚を一時的に保存・処理する施設で、島の漁師たちがしばしば利用する場所だった。
 加工場の管理は年配の夫婦が長年続けており、鍵は厳重に管理しているらしい。夫婦は、「夜間に無断で入る者はまずいない」と口をそろえる。
 「最近、倉庫や冷凍庫の鍵を紛失したり、誰かに貸したりは?」
 早瀬の問いに、夫婦は一瞬顔を見合わせる。すると、夫がしぶしぶ思い出したように答えた。
 「いやあ、先週ちょっとした用事で、漁港倉庫の合鍵を長谷川さんに貸したことがあったな。確か漁協の書類整理を手伝うとかで……」
 長谷川――この島の仲買人で、漁師と旅館側の間に立ち、魚の卸売を調整する人物だ。大瀬との間で新メニューの食材契約が難航していたという噂もある。
 「いつ、どのくらいの時間返ってこなかったか、覚えていますか?」
 夫婦は曖昧な表情で首をかしげる。
 「確か半日ほど持ち歩いていたかな。書類整理と言ってたから、そのまま帰宅が遅れたかもしれんが……返却されたときには特に泥や傷もなく、普通だったよ。気になるなら長谷川さんに聞いてみるといい」
 加工場での成果は、長谷川が合鍵を借りたという小さな手がかりのみ。しかし、その合鍵が漁港倉庫用であり、犯行現場で使われたとび魚がそこから出された可能性はまだ断定できない。

 最後に早瀬は、漁港の倉庫へ向かった。ここは冷凍した魚介を出荷まで一時保管するための施設で、低温管理が行き届いた大規模な冷却室がある。
 管理者に頼んで倉庫内を確認すると、そこには業者向けに整理された大量の箱やパレットが並ぶ。その一角、とび魚が大量にストックされている棚を調べる。箱には出荷予定日やサイズ分けが記載されている。だが、特定の魚が欠けているかは確認が難しい。
 とはいえ、倉庫の扉と通路には古いコンクリートの隙間があり、そこに靴跡が乾いた泥としてこびりついていた。足跡は大きめで、靴底の模様が一部不鮮明ながら、明らかに誰かが雨上がりにここへ来た形跡を残している。通常は倉庫内で長靴を履くため、こんな足跡は残りにくい。何者かが、不正な目的で出入りした可能性が浮かび上がった。

 今回の調査で得られた断片は、まだはっきりした絵を描き出せない。しかし、不審な足跡、合鍵の貸し出し、そして凍てつくほど強力な冷却手段を要する犯行手口は、確実に“島内の誰か”が特別な準備をしていたことを示している。
 特に長谷川の存在はひっかかる。彼は大瀬とビジネス的な対立関係があったと噂される人物だ。その彼が合鍵を手にしていたという事実は、事件当夜の行動を改めて調べる価値がある。

 潮風にあてられながら、早瀬はふと子供の頃の記憶を思い出した。この島で当たり前だった漁や加工作業、そして人々の暮らし。それらは互いに助け合い、信頼しあうことを前提としていた。だが今、信頼はほころび、不安と疑念が広がっている。
 あの硬く凍ったとび魚は、単なる凶器ではなく、誰かがこの島の秩序を壊すために用いた“記号”のようにも思えた。犯人は冷たく凍った魚と同じく、心までも冷え切っているのだろうか。
 早瀬は、次に誰を問い詰め、どの細い手がかりを拾い上げれば核心へ迫れるかを思案する。鍵の貸し借り、泥の足跡、そして冷凍庫の裏口に残るかすかな痕跡。それらは点と点として拡散し、まだ一条の光にはならない。
 しかし、探偵の目が光を求めている限り、必ず真実が形を成す日は来る。島の潮風は冷たく、そして僅かに湿っている。何かを含み隠しているかのように。

第5章:隠されたレシピノート

 海風が微かに湿気を孕み、潮見館の中庭に設えられた小さな池の水面を揺らしている。早瀬光輝は、館の主だった大瀬哲郎の私室に踏み込んでいた。そこは数日前まで名料理長の創意と熱意に満ちていたはずの空間だが、今は主を失い、静寂のうちに閉ざされている。床の間には観光客に贈られた感謝状、海外のコンテストで獲得したメダルなどが飾られ、彼が生前いかに才腕をふるってきたかを物語っていた。

 早瀬は書斎机の前に腰を下ろす。部屋には整然と料理本や食材辞典が並ぶ棚があり、その一角に大瀬自身が記したノートが束ねられていた。使用感のある手帳、少し大判のスケッチブック風ノート、綴り紐でまとめた雑記帳。いずれも味付けメモや試作メニュー案らしき断片的な記録が記されている。

 事前の聞き込みによれば、大瀬は最近、新たな「とび魚フルコース」開発に注力していたらしい。単なる干物や姿揚げにとどまらず、前菜からメイン、デザートに至るまでトビウオを多彩に用いる画期的な試みだったと聞く。その完成度次第では、潮見館のみならず島全体の名声を高め、さらには他所からの投資やブランド化を加速させる可能性があったという。

 早瀬はノート類を丁寧にめくる。肉料理や地魚の調理法、海外で学んだ技術を基にした創作アイデアが断片的な走り書きで残されている。その筆跡は勢いがあり、柔軟な発想が散りばめられていた。だが、最も重要な「新とび魚フルコース」の核心部分とおぼしきページを探すと、あるノートが不自然な形で綴じ紐ごと裂かれていることに気づく。

 ノートは一冊の中ほどのページが乱暴に破り取られ、その断面がささくれ立っている。痕から考えるに、犯人が急いで持ち出したか、あるいは誰かが大瀬の死後に慌てて隠した可能性がある。手帳の残り部分には、前菜やスープ、メインディッシュの大まかな構成がメモされているが、肝心の“高級化戦略”を示す詳細なレシピや特別な調理法、あるいは希少な仕入れルートを示す部分が欠落していた。

 「これが事件を引き起こした鍵かもしれない」
 早瀬は鼻先で息をつく。この島の規模で新たな高級コースを打ち出すには、ただ良い食材を使うだけでなく、流通やブランド戦略といったビジネス的な仕掛けが必要だ。島外の有力店との提携、観光局との連携、さらには輸出先との商談など、何らかの“利権”が生まれた可能性がある。そこに絡む人間関係が暗い影を落としているのではないか。

 机の引き出しに手を伸ばすと、細長い封筒が一通、他の書類の下に押し込まれていた。宛名は大瀬宛、差出人は明記されていない。中には短い手紙があり、
「この計画が成功すれば、我々はより大きな市場へ踏み出せる。必要な書類は例の場所に」
 とだけ書かれている。差出人は名乗らず、合図のような曖昧な言い回し。その「例の場所」とはどこか。もしこの計画がフルコースの新メニューを世に出すことに絡むのであれば、破かれたページに書かれていたのは、その肝心な“特許”や“秘伝の調理法”、または高級レストランから事前に得た約束などかもしれない。 

 もう一つ気になる点があった。大瀬は既に一部の人間に、この新フルコースの構想を漏らしていたらしい。旅館関係者はもちろん、仲買人や、漁師の中田など、外部にも相談していた可能性がある。誰かがこの計画を盗み取るために、もしくはその成功を阻むために動いたとなれば、動機は金銭的なものか、権利関係か、嫉妬や怨恨か。

 部屋から出ると、廊下には仲居の末永が立っていた。彼女は緊張した面持ちで、ちらりと早瀬を見る。
「刑事さん……大瀬さんは、最近ずっと何かに追われるように忙しそうで、でも誰にも全貌を話さなかったんです。よく深夜まで書斎でノートを見て、考え込んでいたっけ」
 早瀬は微笑みで応じる。
「そのノートは今、一部が破られている。思い当たることは?」
 末永は目を伏せる。
「詳しくは分かりませんが、最近あの人、長谷川さんや外から来た商社マン風の客と密談してた様子です。高級化戦略とやら……私には理解できませんが、島のとび魚を特別なブランドに仕立てようとしていたとか。もしそれが成功すれば、大瀬さんは大金を手にする、あるいはこの島が一躍脚光を浴びることもあったかもしれない。でも一方で、昔からこの島で生計を立てている漁師さんたちには複雑な思いもあるでしょう」
 末永の言葉は仄かな不和を感じさせる。新たなビジネスチャンスは、常に誰かの既得権益を揺るがす。昔からのやり方を好む者もいれば、変化を嫌う者もいる。大瀬の計画は島にとって福音であると同時に、一部の者にとっては脅威だったかもしれない。

 破り取られたレシピノートのページが欠けている今、早瀬は、そこに記されていた“秘密”を突き止めなければならないと強く感じた。それは凶器となったとび魚同様、この事件を理解する鍵として存在している。
 廊下を抜け、外へ出ると、海風が少し強まっていた。葉の擦れる音が低く鳴り、島の小道を渡る。少しずつ繋がりつつある点と点。その結び目にあるのは、大瀬の名声、金銭、ブランド化、そして裏で渦巻く疑念と欲望だ。
 潮見館の軒先から見下ろす海原は、依然として穏やかだが、その奥深くには、冷たく硬い“氷”がまだ溶けずに沈んでいるかのようだった。

第6章:島を離れた者、戻る者
 真渡(まわたり)島の朝は、潮騒と風の歌で始まる。早瀬光輝は、丘の上の一本松のそばに立って、遠くを眺めていた。ここは彼が幼い頃、よく友人たちと遊んだ思い出の場所だ。木々越しに港が見え、木陰には昔使っていた手作りの木刀を隠したこともある。あれから何年が経っただろうか。十年、いやもっとか。
 島を離れて久しかったが、彼がこうして戻ってきたのは、刑事としての要請に応えたからだけではない。あの大瀬哲郎が殺された、という報せを受けたとき、彼の中にいつか埋め込まれた古いトゲが少し疼いたのだ。

 子供の頃、早瀬は家族ぐるみで大瀬に世話になっていた。大瀬はまだ若手の料理人で、海外修行から戻って間もない頃だったが、既に腕の良さは島民に知れ渡っていた。早瀬の父親は漁師で、時折いいとび魚を獲ると大瀬に持って行った。大瀬は丁寧に礼を言って、料理にして家族へ少し分けてくれることもあった。早瀬少年は、その時に食べたとび魚の出汁の澄んだ旨さを今でも覚えている。透き通ったスープに潜む繊細な甘み――あれは料理人としての大瀬の真髄の片鱗だったのかもしれない。
 だが、大瀬が名声を得て潮見館を盛り立てる頃、島の伝統的なとび魚漁と新たな事業計画との間に歪みが生まれ始めた。昔ながらの素潜りや小規模の網漁を大事にする漁師たちは、大瀬や仲介人が狙うブランド戦略に戸惑った。早瀬はその頃、進学を機に島を離れる決心をした。狭い島で、小さな争いや閉塞感に巻き込まれて生きることに耐えられなかったからだ。そして父は「外の世界を見ろ」と背中を押してくれた。
 あれから早瀬は戻らず、今ようやく島に立っている。その時、この丘から見下ろす港は、まだ昔とあまり変わっていないように見えるが、人々の心の中には大きな裂け目ができているようだ。

 早瀬は丘を降り、集落の細い路地へ足を運ぶ。近頃、島から外に出て行った者が増えたという話を調べるためだ。人口減少と産業の変化は、こうした離島にとって深刻な課題である。若者たちは大都市へ出て、戻らない。あるいは漁業が不振になれば、別の仕事を求めて本土へ向かう。
 中田という若い漁師は、近年一度島を離れ、外の漁船で経験を積んで戻ってきたと聞いている。彼は大瀬殺害事件の日、どこで何をしていたのか。早瀬は彼に話を聞くため、港近くの網小屋に足を運んだ。

 中田は頬に塩焼けのあとを残した細身の男で、早瀬に気づくと微かに苦い顔をした。
「何か用か、刑事さん」
「中田さん、あなたは数年前、一度島を出たと聞いた。どこで何を?」
「……本土の大規模な漁船に乗って、効率化された漁法を学んだよ。島の伝統的な漁には限界があると感じたからな。でも結局、俺はここに戻ってきた。それが間違いだったかは、わからない」
 中田の言葉には諦観が混じる。
「戻ってきてから大瀬さんと話す機会はあった? 新メニューのこととか」
「ちょっとはな。俺は大瀬さんが考える高級路線にも興味があった。まあ、今思えば、彼は俺なんかに秘訣を明かすわけもないが。けど、新しいブランド化が成功すれば、漁師も潤うんじゃないかと思ったんだ。あんたも知ってるだろ、昔からのとび魚漁は労力の割に儲けが少ない。俺はもっとマシな生活がしたかった」
 中田は無念そうに首を振るが、特段怪しい挙動はない。ただ、彼の眼差しには、大瀬への期待とそれを得られなかった失望が混じっていた。

 続いて、島を離れた者たちについての記録を駐在所で確認すると、ここ数年で数名が永住を諦めて本土へ移住している。中には長谷川の甥、あるいは漁協関係者の親戚筋など、事件に絡むかもしれない繋がりを持つ者もいるが、確たる手掛かりにはならない。
 ただ、その中で一つ引っかかる情報があった。
 ある人物――数年前に島を出た若い男が、最近になって数日だけ島に戻ってきていたという噂がある。その男は漁協内部で不正行為を疑われ、一悶着の末に島を離れたらしい。帰省の目的はわからないが、時期的に事件前後と重なる。

 その男は誰に会い、何をしていたのか。大瀬の計画を阻止しようとする勢力が外部にいた可能性もある。以前島を出た人間が、密かに戻ってきて、破られたレシピノートのページを持ち去ったり、凶器となる冷凍とび魚を用意したりすることはできただろうか。
 だが島のコミュニティは閉鎖的で、戻ってきた者がいれば噂は立つはずだ。それなのに曖昧な情報しか出てこないのは、誰かが隠しているからかもしれない。

 夕暮れ、早瀬は再び丘へ戻る。遠くに広がる海は黄金色に染まっている。幼い頃、この海で父と一緒にとび魚を獲った記憶が蘇る。網を張り、跳ねる魚を巧みに捕らえる。獲った魚をどう料理するかは母や近所の女性たちの腕の見せどころだった。
 それは単なる食材調達ではなく、島が生きるための儀式でもあった。昔からの慣わしは、魚が生き、島が生き、人が繋がるためにある。だが時代が変われば、慣わしは足枷にもなる。大瀬が挑んだ高級戦略は、そんな伝統を裏返して島を変えようとする大いなる挑戦だったのかもしれない。

 島を離れた者、戻る者。そして島に留まり続ける者。それぞれが自分たちの正しさと損得を抱え込み、それが今、殺意と謎を生み出している。
 早瀬は唇を引き結ぶ。遠く、水平線には微かな輝きがある。そこには、この閉ざされた空間から外に通じる道があることを示唆するように。
 だが、ここには外では見えない闇がある。この島に戻った彼は、その闇の正体を突き止めなければならない。そうしなければ、かつての思い出や尊敬、そして大瀬哲郎が目指した未来までもが、冷たい海の底に沈んでしまうような気がした。

第7章:潮見館の裏側
 潮見館の裏手には、料理長室がある。そこは、大瀬哲郎が新メニュー開発や仕入れ計画、時には外部の取引先とのやり取りを整理するための“頭脳”とも言うべき空間だった。
 事件後、現場保存のため、部屋の捜索は慎重に進められてきたが、今になって新たな証拠を求める早瀬光輝は、旅館の女将やスタッフたちに許可を得て部屋を再度調べていた。

 書棚には海外料理本や経営書、地元食文化に関する資料が並ぶ。その一角、ファイルが詰め込まれた古い段ボール箱が埃をかぶっている。早瀬はその箱を持ち上げ、机上へ移して一枚一枚書類をめくってゆく。過去の仕入れ記録、取材記事の切り抜き、取引先との往復書簡――その中に、黄ばんだ新聞記事を発見した。

 新聞記事の日付は十数年前。当時の大瀬はまだ島に戻ったばかりで、若手料理人として注目され始めた頃のものだ。記事によると「将来有望な若き料理人・大瀬哲郎、海外修行から凱旋。地元のとび魚文化を新たな形で発信することを目標に――」とある。その横に、小さく付随する人物名が目に留まった。
 「長谷川の名が……」
 当時、長谷川はまだ表舞台にほとんど出ていなかったが、記事には「地元仲買人・長谷川氏、流通網拡大を模索」という一文がある。二人は既にこの頃から接点を持ち、それぞれの思惑を抱えていたようだった。
 さらに別の記事の切り抜きには、大瀬とある漁師との間で起こった小さな軋轢が報じられている。名前は伏せられているが、漁師が出荷量で虚偽報告し問題になったらしい。その後、島を離れた人物がいたとの噂と合致するような断片的情報だ。
 こうした過去の記録が、最近の事件へと陰鬱な影を落としているように感じられた。

 一方、早瀬はこの数日、潮見館のスタッフへの追加聴取を続けていた。新たに分かったことは、事件前夜の冷凍庫への出入りに関する証言が微妙に食い違い始めていることだ。
 例えば、若い板前見習い・松下は最初「自分は夜、冷凍庫近くに行っていない」と言っていたが、後になって「仕込み用の出汁を確認するため、夜10時頃に一度だけ近づいた」と訂正した。
 仲居の末永は「夜は早く部屋に引き上げた」と言い張っていたが、同僚の仲居が「いや、末永さんは夜遅くまで何か探していたようで、廊下をうろうろしていた」という。
 別の下働きの青年は、「大瀬さんが冷凍庫に入り、何か重そうな箱を運び出しているのを夕方見た」と証言したが、他のスタッフは「大瀬さんはその時間、書斎で資料を読んでいたはず」と否定する。どちらが本当なのか。いずれにせよ、誰もが小さな嘘や曖昧な記憶の修正を重ねているようだった。

 なぜ食い違いが生じるのか。
 ひとつには、事件後の緊張感が人々の記憶や発言を歪めていることが考えられる。もうひとつは、各自が自分または特定の人物を庇おうとしている可能性だ。互いに顔見知りの狭い島社会、さらに旅館内は上下関係も厳しく、簡単に本当のことを口にするわけにはいかない。
 彼らは、自分が疑われることを恐れ、少しずつ記憶を作り替え、言い訳を増やしている。あるいは、犯人がいるとすれば、その犯人に脅されている者もいるかもしれない。

 冷凍庫への出入りはこの事件で極めて重要なポイントだ。あの冷凍とび魚を“凶器”として成立させるには、相応の準備が要る。通常の冷凍庫であの硬度を出すのは難しい。大瀬が使っていた特殊な冷却設備を誰が使い、いつ魚を持ち出したのか。それを隠そうとする証言の食い違いが、事件の輪郭をじわじわと浮き上がらせている。

 また、料理長室で見つかった古い新聞記事は、大瀬が過去から引きずる因縁を匂わせる。長谷川や一部の漁師との間に生じた利害対立、輸出路線やブランド化構想をめぐる軋轢――それらが計画された“フルコース”の成功と直結するならば、誰かが大瀬を排除する理由も理解できる。

 その日の夕方、早瀬は潮見館の縁側に腰を下ろし、眼下に広がる海を見つめた。嘘と真実が入り交じる中で、次第に焦点が定まろうとしている。冷凍庫への出入り時間を偽った者、過去に大瀬と確執があった者、そして今まさに罪を覆い隠そうとしている者たち。
 夜風が、足元を吹き抜ける。過去と現在が交錯するこの旅館の裏側で、事件の真実が冷たい魚の刃のように潜んでいる。早瀬は、その刃を掴むため、さらに深く人々の秘密へと踏み込む必要があると覚悟を固めるのだった。

第三部:波紋の拡大と解明

第8章:証言の綻び
 漁港の脇にある小さな広場で、早瀬光輝は島民たちのささやきを耳を澄ませて拾っていた。事件発生から日が経ち、初めは固く閉ざされていた人々の口も、わずかながら綻び始めている。
 この島は幼い頃に過ごした故郷だ。昔の仲間や近所の顔なじみが、彼を「島を捨てた男」として警戒気味に見ていたが、ここ数日の聞き込みで多少の信頼を取り戻しているらしい。まだ完全ではないにせよ、その隙間から漏れ出した言葉が、早瀬にヒントを与えていた。

 「この頃、とび魚の漁獲量が妙に合わないって話を聞いたんだけど、あれは本当かい?」
 早瀬は木箱に腰掛け、漁師の一人に尋ねる。その漁師は目を泳がせ、口篭りながら答える。
「さあな、記録ミスかもしれねえし……島の連中はみんな忙しいからな」
 だがその横にいた若い漁師が、焦れたように口を挟む。
「記録ミスじゃない。確かに、出荷予定数と実際の数が何度も合わなかったことがある。その度、上の者が『黙っていろ』って言うんだ」
 上の者とは漁協や、仲買人、あるいは大瀬とも関係のあるルートかもしれない。かねてから不審に思っていたという若い漁師の声には、隠しきれない苛立ちがにじんでいた。

 とび魚が不正なルートで横流しされていた可能性が浮上する。もしそれが真実なら、大瀬哲郎はそのことを掴み、新メニューのブランド化に向けて関係者を絞り上げようとしていたのかもしれない。
 この島に根差す古い慣習の中には、表沙汰にできない取引や裏契約が存在していたとしても不思議ではない。大瀬の死は、その腐った部分に光を当てようとした結果だったのだろうか。

 加えて、ここ数日の聞き込みで、島民たちが発する「微妙な言い回し」も見逃せなかった。例えば、仲買人の長谷川は「大瀬さんとは些細な誤解があった」と濁していたが、別の関係者は「長谷川は大瀬に対し、海外輸出路線の計画を断たれた」と告げる。
 また、潮見館に出入りしていた業者は「大瀬さんは最後に誰かとひそかに会っていたようだが、自分は見ていない」と首を振るものの、近くにいた下働きの男は「裏庭の方で低い声が聞こえた。大瀬さんが誰かに『嘘をつくな』と言っていたような気がする」と思い出したかのように打ち明ける。

 こうした矛盾した断片が積み重なっていくと、何が見えてくるのか。早瀬はメモを取りながら脳裏で線を結んでいく。
 —とび魚の不正取引、あるいは密かな横流しがあった
 —大瀬はその不正を突き止め、犯人か関係者を問い詰めた
 —大瀬が最後に会った人物は、不正の当事者、もしくはそれに関与する人物のはずだ
 —口論が起き、もはや隠しきれない対立が発火点になったのかもしれない

 夕刻、早瀬は潮見館の縁側で、これまで集めた証言を頭の中で組み立てていた。
 誰もが小さな嘘を紡いでいた。当初は「大瀬さんは立派な人だった、皆が慕っていた」と押し並べていた島民たちが、実は大瀬を疎ましく感じた者や、新路線に不満を持つ者、あるいは彼から不正を暴かれることを恐れていた者が少なくなかったことが分かってきた。
 大瀬が最後に会った人物、そしてその人間がなぜとび魚を凶器に用いるほどの復讐心か嘲笑を抱いたのか。

 島民たちが繰り返す「些細な誤解」や「勘違い」、そして「信じられない話だけれど」といった曖昧な言い回しの裏には、隠したい事実が潜んでいる。事件前夜、冷凍されたとび魚が用意されるには、特定の設備と時間、それを扱える者が必要だ。さらに不正なルートで魚が消えれば、その経路を熟知する者が関与している可能性が高い。
 嘘で覆われた証言たちの綻びから染み出す秘密が、真実へ誘う小さな道標となっていた。

 夜空には星が瞬き、静かな波音が聞こえる。早瀬はメモを閉じ、深呼吸する。
 この島には、閉じた社会特有の不文律がある。追い詰められれば誰もが自分と家族、仲間を守ろうとする。その中で飛び出した微妙な言い回しは、逆に彼らが抱える闇を浮かび上がらせている。
 あと一息。その綻びをもう少し引っ張れば、犯人の名が露わになるだろう。そして、その犯人は確かに、この島で暮らし、海と魚とともに呼吸しているはずだ。

第9章:再現実験

 潮見館の裏手には、業務用冷凍庫を備えた小屋がある。事件発生以来、鑑識や警察が調べ上げ、その中は何度となく点検された場所だ。だが、早瀬光輝は今、まったく別の角度からその冷凍庫を見ていた。
 凶器となった冷凍とび魚。その不条理な凶行を、実際にどれほど困難なのか検証するためだ。

 夕暮れが近づくころ、早瀬は地元の駐在警官や、協力を申し出た漁師の青年・中田を伴い、小屋の中へ入った。氷点下の冷気が頬を刺す。彼らは実際にとび魚を同等の条件で凍らせ、その硬度や鋭さを確かめることにした。
 中田は網で獲ってきたばかりのとび魚を一匹、手にしている。魚の体はまだ柔らかく、その鮮度を物語る。
「これをどれくらい冷やせば、あんな凶器になるんだ?」
 中田が怪訝そうに尋ねる。
「相当に低い温度と、十分な時間が必要だろう」
 早瀬は観察用の温度計と時計を手に、少し考え込む。

 通常、家庭用冷凍庫では魚は硬くはなるが、生身を貫くほどの刃物にはならない。だがこの島には業務用の冷凍設備がある。温度を極めて低く維持し、長時間凍結すれば、魚体は氷の刃のような硬度を帯びるかもしれない。
 早瀬は魚を冷凍庫に入れ、蓋を閉め、指定の低温を保つように設定する。彼が用意した計測器によって、庫内温度は通常よりもずっと低下させられ、一定時間維持できるはずだ。

 待ち時間の間、彼らは小屋の隅で立ち話する。中田は言葉少なに、時折深呼吸しながら、低い声で呟いた。
「こんな手間をかけなきゃいけないなら、犯人は相当な計画を立ててたんじゃないか。衝動的な犯行って感じじゃない」
 早瀬は頷く。
「その通り。考えられるのは、犯人は事前に冷凍庫に魚を仕込んでいたってことだ。そして事件前夜、適切な硬度に達したと判断して持ち出した。強い殺意と計画性がなければ不可能だ」

 しばらくして、彼らは冷凍庫を開き、魚を取り出す。
 氷点下の世界で数時間置かれたとび魚は、艶やかな青い背びれを固まらせ、その体は石のように硬直している。中田が恐る恐るその先端部分を指で叩くと、コンコンと固い音がする。
 早瀬は用意した布切れを胸の高さで張り、魚を軽く突き立ててみる。通常の押し込み程度では布は破れないが、尖った頭部を力強く押し込むと、布がわずかに裂ける気配がした。
「なるほど、相当な力が必要だが、十分硬ければ可能だ」
 彼は少し目を細めながらつぶやいた。
 だが、ここで重要な点がある。どの程度の温度、どの程度の時間が必要か。そして、その温度を安定的に維持できる環境とは?

 再度、魚の硬度を確認する。庫内は通常よりも低い設定温度を必要とし、それを長時間維持できる電源や管理が要る。また、魚が十分硬化するまでの時間も考えなければならない。犯人は事件当夜までに計画的に魚を仕込み、かつ人目につかずに取り出せる環境を持っていたことになる。
 潮見館や漁港の倉庫、加工場にはそれなりの冷凍施設があるが、出入りが厳しく管理されているところもある。逆に、比較的自由にアクセスできる場所を知っている人物なら可能だろう。

 さらに、冷凍した魚は取り出せば徐々に温度が上がり、硬度を失う可能性がある。犯人は大瀬を殺害するタイミングを計って、ベストな硬度と温度を保ったまま凶行に及ばなければならない。
 「ここまで精巧な計画を立てられる人間は限られる。行き当たりばったりじゃ無理だ」
 早瀬は冷凍魚を手に取り、半ば確信めいた言葉を発した。

 つまり、条件は三つ。
 一つ、適切な温度管理ができる特殊な環境を利用できること。
 二つ、硬度が刃物同然になるまで十分な時間を確保すること。
 三つ、事件当夜その魚を人目を避けて取り出し、直ちに犯行に及べるほど現場に近いこと。
 これらを満たすには、潮見館や漁港にある特定の設備や鍵へのアクセス、島民やスタッフとの信頼関係が必要となる。島に長く関わり、設備を熟知している人物なら、不可能ではないだろう。

 再現実験によって明らかになった事実は、犯人が緻密な準備を行ったことを裏付ける。衝動的な犯行よりも計画的な暗殺に近い。そして、その計画を可能にしたのは、凶器となった魚が身近なものであったことだ。島特有の食材であるとび魚を武器にするという、残酷な皮肉が込められているようにも思える。

 残照が薄れ始め、空が群青色に染まっていく中、早瀬は駐在警官と中田に礼を言って別れた。足元を吹き抜ける風は冷たいが、彼の心には一筋の光が差し込んでいた。
 これで謎の一端は解けた。誰がこの条件を満たし得るのか――それを探ることで、犯人の輪郭はより鮮明になるはずだ。魚が鋼鉄のような刃物に化けるまでの奇妙な実験は、真犯人の周到な手口を証明し、早瀬を事件解決へ一歩近づける糸口となった。

第10章:暴かれる動機

 夜の闇が島を包み、港町の明かりが波間に揺れている。潮見館を見上げる丘の上で、早瀬光輝は静かに考えを巡らせていた。ここ数日の捜査で得た事実は、ある人物像を濃く浮かび上がらせている。

 まず、あの冷凍とび魚を凶器にするためには、特別な冷却設備を長時間使い、事件直前にそれを取り出す手間と知識が必要だった。さらに、島独自の裏事情――とび魚の漁獲・出荷ルートに不正が行われていた可能性と、そのルートを巡る利害関係。
 状況を整理すれば、犯人は大瀬哲郎が新メニューで目指していた“高級ブランド化”計画を脅威と感じ、阻止しようとした者に違いない。その計画が成功すれば、これまで不正を働いていた裏ルートの摘発や、権益の損失、あるいは島外への正規流通が確立されることで犯人の立場が危うくなる。犯人はそれを恐れた。

 漁港や加工場、そして潮見館への出入り状況、鍵の貸し借り――これらを吟味した結果、早瀬が最も怪しいと睨んだのは、仲買人の長谷川だった。
 長谷川は大瀬との口論をひた隠しにし、“些細な誤解”と言葉をぼかした。だが、その裏には海外輸出をめぐる重要な利権があったと考えられる。彼は古くから地元漁師たちとのつながりを利用し、正式な記録に残さない形で一部のとび魚を横流ししていた可能性がある。輸出を規制しブランド化を進める大瀬の戦略は、長谷川が築き上げた裏取引ネットワークを一挙に崩壊させ得るものだった。

 大瀬は最後に手に入れた「秘密」を盾に、長谷川を揺さぶっていたのだろう。その秘密とは、裏取引に関する証拠か、新ブランド計画への協力を強いる契約書か、あるいは長谷川が噂される外部業者との不正な金銭授受を示す書類だったのかもしれない。いずれにせよ、大瀬はその秘密によって長谷川の暗部を暴く寸前だった。

 犯人がとび魚を凶器に用いたのは、単なる思いつきではない。とび魚はこの島の象徴、そして大瀬が情熱を注いだ素材だ。その大瀬が自ら育てようとした“とび魚ブランド”が、彼を殺す刃となる。これは犯人から被害者への皮肉なメッセージでもあり、犯人自身の境遇を象徴している。
 とび魚は、長谷川が長年握っていた利権の源泉でもあった。海を飛び、富を運ぶはずの魚が、今や血塗られた凶器と化し、長谷川の内なる屈折した感情を映し出しているように思える。被害者大瀬は革新者であり、正道を行く者として未来を切り開こうとしていた。一方、長谷川は裏で操る立場を維持しようとし、ブランド化による正規ルートの確立が、彼を闇から引きずり出すことを恐れた。

 大瀬が最後に会ったのは、おそらく長谷川だろう。事件当夜、裏庭で小声で争っていたような証言や、冷凍庫の鍵を借り出していた事実、漁獲ルートの不正に関する噂、すべてが長谷川の存在へと収束する。
 冷凍魚を凶器に仕立てるためには、計画性が必要だ。長谷川は仲買人として、冷凍設備を利用しやすい立場にあった。漁港倉庫や加工場、あるいは潮見館へ出入りする際の口実も作りやすい。信頼を得ていたからこそ鍵の貸し借りもできたし、海産物管理の裏側も知り尽くしていた。

 夜風が潮見館の屋根をかすめ、遠くで波が砕ける音がする。
 早瀬は大瀬が残したメモや、破り取られたレシピノートの行方を思い返し、犯人の胸中を想像する。正規のブランド化が進めば、長谷川はもう闇取引に頼れない。下手をすれば告発され、地位も収入もすべて失う。大瀬は彼にとって、深海で築き上げた暗い王国を崩壊させる“光”だった。そして、その光を消す手段として、長谷川はとび魚を選んだ。
 この行為は、自分がこれまで築いた利権構造と、この島が誇る魚を反転させる残酷な暗喩だ。新たな希望を示すはずの素材を刃に変え、未来を示す大瀬を葬る――そこには、犯人の皮肉な意思が込められている。

 ついに真犯人像が明確になった。
 欲望と恐怖に駆られ、闇を守るため、また大瀬の秘密による圧迫から逃れるために殺人へ至った長谷川。
 残される課題はただ一つ、確固たる証拠を突きつけ、長谷川を追い詰めること。早瀬は決意を新たに立ち上がった。
 今、島の夜空には星が瞬いている。その星明かりの下、閉ざされた真渡島の謎が、もうすぐ明るみに出るのを、海風が静かに見守っているようだった。

第四部:決着と波打つ海

第11章:対決の朝

 島の朝は、これまでになく張り詰めた空気を宿していた。真渡(まわたり)島の村広場には、漁師、仲買人、潮見館のスタッフ、そして一般の島民たちが集まっている。ざわめきが波打つ海の音と混じり合い、緊張感が高まっていく。
 警察の要請で呼び出された全員の前に、若き刑事・早瀬光輝が静かに立った。かつて島を出た彼が、今、真実を暴くためにこの場にいる。

 「皆さん、この数日、私たちは島中を回って捜査をしてきました」
 早瀬の声は、潮風に乗って広場中に響く。人々は言葉少なに彼の言葉を待ち、視線は一様に鋭い。
 「被害者・大瀬哲郎さんは、島の高級ブランド戦略を進めようとしていた。そのために特殊なレシピと仕組みを整え、一部の不正な流通を断ち切ろうとしたようです。それが誰かの利権を脅かし、殺意を生み出した――」

 長谷川は人ごみの中で腕を組み、険しい顔をしている。潮見館の仲居や板前、漁師たちも神妙な面持ちで早瀬の次の言葉を待つ。

 「大瀬さんは、事件直前に不正な漁獲ルートと裏取引の証拠を掴んでいました。冷凍庫への出入り、合鍵の貸し借り、不自然な漁獲記録――これらは、表面上は些細な行き違いに見えますが、点と点を結べば、闇に通じる線が浮かび上がる」
 早瀬はメモをめくる。
 「特定の人物は、表向きは大瀬さんと協力するふりをしながら、裏で不正な取引を行っていた。ところが大瀬さんが新しいブランド戦略を本格化させ、外部との公的な提携を進めれば、裏稼業はすべて露見する。そこで、その人物は大瀬さんを消す必要があった」

 人々がざわめく中、早瀬はぐっと声を張り上げた。
 「犯人は、あの冷凍とび魚を特別に硬く凍らせ、刃物代わりに使用しました。そのためには通常の冷凍庫以上の低温管理が必要です。事件直前、業務用の鍵を借りた人物がいた。漁港倉庫の鍵を長時間預かり、その後返却した人物――仲買人の長谷川さん、あなたです」

 一斉に視線が長谷川へ注がれる。長谷川は一瞬息を呑み、表情を険しくする。
 「馬鹿な、俺はただ漁協の書類を整理するために借りただけだ!」
 彼は声を荒らげたが、早瀬は淡々と続ける。
 「では説明しましょう。漁協の関係者は、あなたが『整理』したという書類の存在を確認していない。むしろ、あなたが倉庫に入ったことで、いくつかの出荷記録が不自然な形で紛失したと証言しています。それに冷凍とび魚を最大限硬くするには、通常より低温で長時間凍らせる必要がある。漁港倉庫にはそうした特殊な設備がありました」

 長谷川は抗議しようと口を開くが、早瀬はさらに言葉を重ねる。
 「大瀬さんは新レシピと流通計画のメモを握っていました。そこには、裏取引の存在をほのめかす断片も記されていたようです。大瀬さんはそれを使い、あなたの不正を明るみに出そうとした。あなたは追い詰められ、口論の末、殺害を決意した。そして、島の象徴であるとび魚を凶器に使うことで、大瀬さんへの皮肉と、自分が牛耳ってきた闇の利権を暗示したかったのでしょう」

 人々がどよめく中、潮見館の使用人が小声で言う。
 「確かに、事件前夜、裏庭で大瀬さんが誰かと口論していたと聞いたわ。長谷川さんがあの晩遅くまで島を出歩いていたことを、漁師仲間が目撃してる」
 別の漁師も勇気を得て口を挟む。
 「出荷記録の改竄を長谷川さんに命じられたと、小声で不満を漏らしていた仲間がいた。俺は黙ってたが、もう隠せない」

 視線が一気に重く長谷川を押し包む。長谷川は蒼ざめ、唾を飲み込む。口元が震え、強がりを捨てたように、目を伏せる。
 「…違う、俺は…あいつが全部ぶち壊しにするつもりだったんだ…! 大瀬が、俺の苦労を、俺の築いた道を…!」
 言葉にならない憤りが空しく広場に響き、島民たちの表情は驚きと怒り、そして深い落胆で満ちていた。

 早瀬は静かに一歩前へ出る。
 「あなたは、この島の未来を脅かす存在と大瀬さんを決めつけた。しかし、大瀬さんが目指した新たなブランド戦略は、島を光の下に導くためのものだったかもしれない。あなたはそれを闇に引きずり込むため、島の誇りを汚し、血で染めた」

 長谷川は崩れ落ちるように膝をつく。もう反論する気力はない。駐在警官が彼の両腕を取り、逮捕を宣告すると、広場は静寂に包まれた。どこかで風に煽られた網が揺れる音がするだけだった。

 早瀬は人々を見回す。
 「これで事件は終わります。ですが皆さん、これからが本当の試練です。この島は、闇に潜んだ不正を捨て、もう一度、正しい形でとび魚と向き合うことができるのか。大瀬さんが紡ごうとした未来を、どう受け止めるかは、あなた方次第です」

 朝陽が東の空に昇り、光が広場を照らす。人々は沈黙の中で互いを見つめ合う。波音が遠くで囁くように続いている。
 事件は収束へと向かい、島には新たな一歩を踏み出すための光が差し込もうとしていた。

第12章:真相の告白

 村の広場で逮捕された長谷川は、警察署代わりに使われている古い駐在所の一室で、手錠を掛けられたまま木椅子に座っていた。窓の外では朝日に照らされた島の風景が広がる。白い波頭が遠くで砕け、潮の匂いが僅かに漂い込んでくる。

 早瀬光輝は、静かに部屋に入った。長谷川は疲れ切った表情で、うつむいている。今はもう、隠し立てできる状況ではない。彼は観念したように、か細い声で口を開いた。

 「……昔、この島はもっと質素だった。大瀬が島に戻る前は、俺たちはあり合わせの魚を売って細々と暮らしていた。だが、大瀬が海外仕込みの料理技術を持って戻ってきてから、状況は変わり始めた。島のとび魚がブランド化できると彼は信じ、確かな腕で観光客を呼び込んだ。俺も最初は喜んだよ。だが、いつからか、俺は裏で取れる利益に目がくらんだんだ……」

 長谷川はどこか遠くを見つめるような虚ろな目で続ける。
 「この島は小さすぎる。正攻法で商売したって限度がある。だから俺は、一部の漁師や外部の仲介業者と裏で組んで、正式な記録に残さずに魚を売り捌くルートを築いた。稼ぎは悪くなかった。大瀬も薄々感づいてはいただろう。でも、奴は大目に見ていた、あるいは放置していたんだと思っていた。まさか奴が、あの新メニュー“フルコース”を契機に、本格的に利権を洗い直そうとしているなんて……」

 机に肘をつき、早瀬は黙って耳を傾ける。長谷川は唇を噛んで、苦い顔をする。
 「大瀬は最後に、俺の不正を示す証拠を掴んでいた。輸出計画書の中に、正式ルートにはない量と値段の食い違いをメモし、それを密かに別の権威ある審査機関に送ろうとしていたらしい。それを見れば、俺が不正に魚を流していたことは一目瞭然だ。俺が築いた隠れた利権は、一瞬で崩れる……俺は追いつめられたよ」

 長谷川は青ざめた笑みを浮かべる。
 「奴と口論した夜、俺は最初、土下座してでも許しを乞おうと思った。だが大瀬は冷ややかな目をしていた。『こんな島の恥は、俺が新メニュー発表の席で明らかにする。正しい道を示すためだ』と言われた時、俺は目の前が真っ暗になった。俺の苦労も、網を張り巡らせた闇ルートも、すべて泡と消えると分かったんだ」

 早瀬は小さく息を吐く。
 「それであなたは、とび魚を凶器に……」
 長谷川は嗤うような表情を浮かべ、しかし目は涙を孕んでいる。
 「なぜ、とび魚か……? 皮肉と怨恨だよ。大瀬が信じていた島の誇り、その象徴を使って彼を殺せば、この島が抱える矛盾を突きつけることになると思ったんだ。とび魚は大瀬が愛した素材であり、俺が財を得た闇の種でもある。あの魚こそ、二人の関係を象徴していた」

 彼は苦しげに続ける。
 「俺はまず、業務用の鍵を借りて特殊な冷却室に魚を入れ、数日かけて硬度を上げた。犯行当夜、裏庭で大瀬に最後の嘆願を試みたが、奴は聞かない。ならばと決めた。凶器を取り出し、作業着で顔を隠して、調理場へと誘い込んだ。あの硬く凍った魚を突き立てた時、俺は分かっていたんだ。これで何もかも終わると……」

 沈黙が訪れる。遠くでカモメの声が聞こえる。
 長谷川は俯き、声を震わせる。
 「俺は愚かだった。とび魚は、もともと島の宝だ。それを利用して金を得た俺が、最後にはその宝で人を殺すとは……なんという皮肉だろう。大瀬は料理によって未来を作ろうとした。俺は闇取引で過去に留まろうとした。とび魚は、その差を嘲笑うかのように、凶器へと変貌したんだ」

 早瀬は静かに立ち上がる。
 「あなたは、大瀬さんとの過去の関係を憎んでいたわけではないんだな」
 「……憎む? 違う。奴は俺なんかよりよほど聡明で、島を変える力があった。俺は恐れたんだ。島から出られない自分が、光を放つ大瀬に飲み込まれるのを。だから闇へと引きずり込んでしまった……」

 長谷川は涙を流す。後悔も絶望も混ざったその涙は、もう取り返しのつかない行為を示している。早瀬はそれ以上何も言わず、見守るしかなかった。
 とび魚は、この島の命であり、希望であり、悪意を映す鏡にもなった。犯人自身が握っていた漁獲利権、そして大瀬が目指した未来。二人が過ごした過去は、互いの道を分かつ岐路だった。

 外では、日差しが強くなり、陽光が窓枠を越えて室内に差し込む。長谷川は光に目を細め、何かを呟いたが、聞き取れなかった。もう言葉は必要ないだろう。
 早瀬は戸口へ向かい、その背中に長谷川の啜り泣くような息遣いが響く。事実は明るみに出た。犯人は観念し、動機と手口を明かした。とび魚という凶器が、互いの宿命を暗示していたことも。

 これで事件は真相を迎えた。大瀬が握っていた秘密と、犯人の破滅的な選択。闇を払い、この島は何を選び、どこへ行くのか――それは、これからの海風が教えてくれるかもしれない。

最終章:揺れる島の未来
陽光が海面に反射し、数えきれないほどの小さな光の粒が揺らめいていた。事件から幾日かが経ち、真渡(まわたり)島は、ようやく静穏な日々を取り戻しつつある。
 長谷川が犯人として逮捕され、彼が仕組んでいた不正な漁獲ルートの一端が明らかになると、島民たちは大きな動揺とともに、それを糧に前を向こうとしていた。これまで隠されていた闇を曝け出し、誰もが一度立ち止まる。
 「これからは正々堂々と、とび魚をブランド化していこうじゃないか」
 潮見館の新たな料理長候補が、そう口にすると、漁師たちはわずかにうなずいた。彼らもまた、過去のしがらみや不透明な取引から解放され、島の資源を正しく活用するために意識を改めている。

 大瀬哲郎が目指したのは、島を光の下へ導くことだったに違いない。新メニュー構想は失われたが、その精神は残った。
 観光客向けの小規模なイベントを開き、漁や干物作り体験など、かつての枠組みを超えた交流が生まれ始めている。若い漁師・中田は、「俺たちだけじゃない、外の人にもこの魚の本当の価値を感じてもらおう」と、生き生きとした目で語った。
 島の人々が再び網を張ると、跳ねるとび魚は相変わらず美しく、命が漲る。もう裏取引に使われることはないだろう。正直な労働と、正当な評価が、この魚をより輝かせてゆく。

 その日の昼下がり、早瀬光輝は荷物をまとめ、港で出航を待っていた。十数年ぶりに戻った故郷は、幼い頃とは違う現実を突きつけた。島には光も闇も存在する。それはここに限らず、どの土地でも同じかもしれない。
 しかし、早瀬は今回の事件を通して、この小さな島が今後どう変わっていくのか、その可能性を感じていた。大瀬哲郎の志を継ぐように、島民たちは道を選び始めている。失われた命は戻らないが、その意志は人々の心に芽を出し、成長していく。

 小さな漁船の上で、早瀬はふと足を止めた。微かに吹く海風が、彼の顔を撫でる。振り返れば、坂の上にある潮見館が陽光を浴びて佇んでいる。どこか懐かしい、その風景には不思議な静けさがあった。
 「あの人は、正しいことをしようとしていたんだな……」
 早瀬は心中で大瀬へ語りかける。かつて家族ぐるみで世話になった料理人は、世界を広げようとしていた。
 長谷川が選んだ闇の道も、この島の一部だった。だが今、それを精算し、新たな一歩を踏み出す機会が訪れている。

 桟橋の向こう、海面をよく見ると、とび魚が跳ねた。水面を滑空するその姿は、青い翼で空気を切り、光を散らしている。島の象徴が、再び生き生きと跳ねていることが、何よりの希望だろう。
 早瀬は小さく微笑む。自分は島を離れたが、こうして戻って事件を解いたことで、故郷に少しは貢献できただろうか。もう過去のしがらみはない。彼自身、この島を心の奥底で愛していることを感じていた。

 エンジンがかかり、巡視艇がゆっくりと岸を離れる。空は澄み渡り、潮風は軽やかだ。遠ざかる島影を見つめる早瀬の心には、静かな満足感が漂う。
 とび魚が跳ねる光景は、まるで新しい始まりを告げる合図のようだった。波が煌めき、すべてが前へと進み出すためのエネルギーに満ちている。
 こうして、真渡島は再生への道を歩み出した。事件が遺した傷は、時とともに癒えていくだろう。そのとき、とび魚はより高く跳ね、より明るい未来へ島を導く――そんな予感を、海風が伝えているようだった。

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