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虚鏡劇場:無限分岐の台本

第1章:劇場への招待

夜の静寂を切り裂くように、理一郎のスマートフォンが振動した。画面には差出人不明のメッセージ。

「あなたの作品を待っています。劇場でお会いしましょう。」

劇場――そんな言葉に覚えがあるはずもなかった。それでも、彼の心には妙な既視感があった。行かざるを得ない気がした。深夜の空気を切り裂くような寒さの中、彼は指定された住所に向かった。


劇場

劇場は古びた建物だった。外観は赤レンガ造りで、時代に取り残されたような佇まい。ドアの上には錆びた看板に、「オーロラ劇場」と掠れた文字が刻まれている。

理一郎が扉を押すと、軋むような音とともに内部が露わになった。


内部の異様な雰囲気

内部は広大でありながらも、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。観客席は闇に沈んでいて、その全貌は見えない。唯一目に飛び込むのは、舞台の上にぽつんと置かれた机と脚本。それ以外には人の気配すら感じられなかった。

舞台に足を踏み入れると、不意に背後で扉が閉まった。振り返った理一郎の心臓は跳ね上がる。そこには誰もいなかった。それでも、扉が閉まった音は確かに聞こえた。

「……誰かいるのか?」

返事はない。ただ、観客席の闇の向こうに何かが動いた気がした。


脚本との邂逅

理一郎は慎重に机へと近づいた。脚本は古びた革の装丁で、まるで時間を超えて存在しているかのようだった。表紙には金色の文字でタイトルが刻まれていた。

「虚鏡劇場:無限分岐の台本」

彼はその脚本を手に取った。重いページをめくるたび、インクの匂いが漂ってくる。その内容は奇妙な事件の記録だった。連続殺人、消えた証拠品、不明瞭な目撃者――そして一つ一つの事件には、信じがたいほどに理一郎自身の特徴が投影されている。

やがて目に飛び込んできた一文が、彼を凍りつかせた。

「1978年10月5日、椎名理一郎は最初の殺人を犯した。」

「馬鹿な……これは冗談だろう?」

彼の頭は混乱し、手が震えた。その日付は、彼の誕生日だった。まるで自分の人生がこの脚本に仕立て上げられているかのようだ。


観客席からの視線

壁の方から、規則的な音が響いてきた。カチ、カチ、カチ……。

理一郎が振り返ると、劇場の壁一面に巨大な時計が現れていた。その針はゆっくりと逆行し、過去へと戻るように動いている。

その瞬間、観客席の暗闇からふと視線を感じた。理一郎は目を凝らしたが、何も見えない。ただ、そこに誰かがいると確信した。

「……誰かいるのか?」

返事はない。それでも、舞台の上を見下ろす無数の視線が彼を貫いているようだった。


幕開け

舞台全体が淡い青い光に包まれた。そしてどこからともなく声が響いた。

「さあ、始めよう――あなたの物語を。」

理一郎は叫び声を飲み込み、背筋に冷たい汗を感じながら脚本を握り締めた。この劇場で何が始まるのか、彼にはまだ知る由もなかった。

第2章:舞台での事件


理一郎は舞台の中央に立っていた。劇場全体を満たす静寂の中で、手元の脚本だけが現実味を持つ存在だった。観客席には誰もいないはずなのに、どこかで息を潜めた何者かの気配を感じる。

「気のせいだ……ただの空間だ……」

自分にそう言い聞かせながら、理一郎は脚本を開き、第一場のセリフを声に出して読んだ。


舞台の変貌

「探偵が語る真実とは常に曖昧である――だが、それは人の心を救うための方便だ。」

理一郎が読み上げた瞬間、舞台が振動した。次の瞬間、足元に広がる木製の床が砂利道に変わり、舞台の風景は急激に変貌を遂げた。彼は不安定な地面の上に立ち尽くし、周囲を見渡す。

目の前には巨大な洋館がそびえ立ち、頭上には雨が降り始めている。理一郎は震える手で脚本を握り締めた。


探偵の登場

遠くから足音が近づいてきた。その足音の主は、紳士的な帽子をかぶった探偵らしき男だった。彼の顔はぼんやりとしており、表情が認識できない。

「君が、事件を目撃したのか?」

探偵は冷静な声でそう問いかけたが、理一郎は答えることができなかった。彼の喉は張り付いたように動かない。次の瞬間、洋館の中から女性の悲鳴が響き渡った。

「行くぞ!」
探偵が言い放ち、理一郎の腕を掴む。その力強さに抵抗できず、彼は洋館の中へと引きずり込まれていった。


洋館での事件

館内は薄暗く、壁には無数の絵画が飾られていた。その中にはどれも意味ありげな目が描かれており、彼らをじっと見つめているようだった。中央には血の池が広がり、その中に女性の遺体が横たわっている。

「どうして……こんな……」

理一郎は息を呑んだ。舞台の演出として説明がつくレベルを超えていた。目の前の光景は、あまりに生々しかったのだ。館内には鉄の臭いが漂い、女性の血が床を染めている。

「これは、君がやったのか?」

探偵が静かに問いかけた。その声に理一郎は震えた。

「俺じゃない! 俺がやったんじゃない!」

そう否定するが、探偵の表情は変わらない。

「ならば証明してみせろ。」
探偵が差し出した書類には、理一郎の名前が赤いインクで記されていた。その瞬間、理一郎の脳裏に不意に映像が流れ込んできた。


記憶か、脚本か

理一郎の頭に浮かんだのは、女性を見下ろしている自分の姿だった。血にまみれた手、崩れ落ちる女性の身体。しかし、それが彼自身の記憶なのか、脚本に書かれた内容を想像しているだけなのか、判断がつかなかった。

「これが現実……いや、違う……演劇だ……」

理一郎は混乱し、足元がふらついた。探偵が言葉を続ける。

「君がやったのかもしれないし、そうでないかもしれない――だが、この舞台は君の存在を中心に動いている。観客たちがそう望んでいるからな。」

「観客……?」

その言葉に、理一郎はぎくりとする。観客席を振り返るが、暗闇の中に何も見えない。しかし、不気味な気配は確かに感じられた。


拍手の音

突然、どこからともなく拍手が聞こえた。それは一人ではなく、無数の人々が同時に手を叩く音だった。観客席を見つめても、暗闇しか見えない。それでも、その音は確かに理一郎の耳に響いていた。

「誰だ! 誰がそこにいるんだ!」

理一郎は叫んだが、答える者はいなかった。ただ、拍手は次第に遠ざかり、静寂が戻ってきた。


舞台への回帰

洋館の風景が徐々に崩れ、理一郎は再び劇場の舞台に立っていた。机の上には、先ほどと同じ脚本が置かれている。しかしそのページは、血のような赤い文字で新たな言葉が刻まれていた。

「第二の殺人が、観客の一人に起こる。」

理一郎は目を凝らし、観客席を見つめた。暗闇の中で何かが動いている。しかし、それが何なのかは分からない。ただひとつ確かなのは、舞台の外で起きている出来事が現実に飛び火しているという感覚だった。

第3章:過去との対峙


舞台上での光景が消え去り、再び静寂が訪れた。しかし、理一郎の心は決して静まり返ることはなかった。彼の手にはまだ脚本が握られており、その文字は赤黒く不気味な光を放っている。

「第二の殺人が、観客の一人に起こる――」

理一郎はその一文を何度も読み返したが、意味が掴めない。「観客」とは誰なのか? そもそも誰もいないはずの観客席から、何度も感じた視線や拍手の音――それが現実なのか妄想なのか、彼には区別がつかなくなっていた。


役者たちの追及

突然、舞台に強烈なスポットライトが灯り、理一郎は思わず目を細めた。その光の中から、ミサキをはじめとする役者たちが現れた。彼らの顔は陰影に包まれ、何を考えているのか全く読み取れない。

「椎名理一郎――君がやったんだろう?」
ミサキが冷たい声で問いかけた。

「やったって、何のことだ!」
理一郎は必死に否定しようとしたが、彼の声は虚空に吸い込まれるようだった。

「君が第一の殺人を犯し、そしてこれからも犯し続ける運命だ。」
別の役者が冷たく言い放った。

「俺じゃない! 俺が書いた脚本にはそんなこと書いてない!」
理一郎は震える声で答えたが、役者たちは無表情のままだった。


記憶の断片

理一郎の脳裏に、またしてもフラッシュバックがよぎった。

  • 洋館の中で、倒れた女性のそばに立つ自分。

  • 血に濡れた手。

  • 無数の視線が彼を見つめる感覚。

それらの映像は瞬間的でありながら、異様に鮮明だった。しかし、それが現実の記憶なのか、舞台の演出による幻覚なのか、彼には分からなかった。


現実と虚構の揺らぎ

「そんな馬鹿な話があるか!」
理一郎は脚本を投げ捨てようとしたが、ページは指に貼り付くように離れない。まるでこの脚本そのものが彼の存在に取り憑いているかのようだった。

その時、舞台が揺れ、劇場の風景が再び変わった。理一郎は気づくと、自分の自宅のリビングルームに立っていた。


自宅での幻影

リビングには、過去の自分が座っていた。机の上には未完成の脚本が広がり、彼はペンを走らせている。その背後からは、女性の声が響いた。

「それ、本当に書いてしまうの?」

声の主は誰か。理一郎は振り返りたかったが、体が動かない。過去の自分が書いている脚本の内容は、先ほど舞台で見たものと同じだ――事件の詳細が、克明に記されている。

「書かなきゃいけないんだ。これが俺の罪を消す唯一の方法なんだ……」
過去の自分がつぶやいた言葉に、理一郎は震えた。

「罪? 俺が何をしたって言うんだ?」
しかし、その声は誰にも届かない。自宅の光景が徐々に歪み始め、再び劇場へと引き戻された。

オーロラ・ディレクターの言葉

舞台袖から、聞き覚えのある声が響いた。オーロラ・ディレクターだ。彼は仮面をかぶったまま、ゆっくりと舞台の中央に歩み寄った。

「脚本はただの物語だと思っているかね? 君が読めば読むほど、それは現実になる。」

「どういう意味だ?」

「君の手の中の脚本が、君の存在そのものなんだよ。観客たちが望む限り、君の物語は終わらない。」

「観客……観客って誰なんだ!」

理一郎は叫んだが、ディレクターは答えなかった。ただ仮面越しに彼を見つめるだけだった。


脚本の欠けたページ

理一郎は怒りと恐怖に駆られ、脚本を乱暴にめくった。しかし、あるべきページが抜け落ちていることに気づいた。

「何だ……? ここに何が書いてあったんだ?」

脚本の最終ページは白紙だった。だが、その表面にはかすかに血痕のような跡が残っていた。

「その欠けたページを埋めるのは君自身だよ。」
ディレクターの声が冷たく響いた。


観客席との対峙

理一郎は再び観客席の闇を見つめた。そこには誰もいないはずだった。しかし、じっと見つめるうちに、観客席の中で何かが動いていることに気づいた。

黒い影のようなものが次々に現れ、それが次第に形を取っていく。目を凝らしてみると、それは全員、理一郎そっくりの顔をしていた。


観客の正体

「お前たちは……誰なんだ?」

理一郎は震える声で問いかけた。観客席に座る無数の「理一郎」たちは一斉に笑い出した。

「俺たちはお前の可能性だよ。」
「選ばなかった人生の残響だ。」
「お前がここに立つ限り、俺たちは永遠にお前を見続ける。」

観客たちの声が次々に重なり、理一郎の頭をかき乱した。


第二の殺人

その瞬間、観客席の中で一人の「理一郎」が突如倒れた。彼の胸には赤黒いナイフが突き刺さっており、血が観客席の床を染めた。

「やめろ! 俺じゃない、俺がやったんじゃない!」

理一郎は叫んだが、周囲の声は笑い声でかき消された。オーロラ・ディレクターが静かに言葉を紡いだ。

「君がやらなくても、観客たちが望む限り、物語は進む。次は君自身が第三の殺人を目撃する番だ。」


次への暗示

理一郎は観客席から目を離せなかった。無数の自分がこちらを見つめ、嘲笑を浮かべている。そして再び脚本に目を落とすと、次の一文が浮かび上がっていた。

「第三の殺人が舞台上で起こる。」

劇場は完全に静寂に包まれ、次の瞬間、全てが暗転した。

最終章:無限の観客


暗闇に包まれた舞台で、理一郎は息を切らして立ち尽くしていた。脚本を握る手は汗ばんでおり、ページをめくる指が震えている。先ほど現れた文字――「第三の殺人が舞台上で起こる」が、脳裏に焼き付いて離れない。


観客席の暴露

不意に、舞台を囲む観客席が淡い光に包まれた。理一郎は目を凝らした。そこに座っていたのは、やはり彼自身だった。

無数の理一郎が観客席に座り、それぞれ異なる服装や表情をしている。スーツ姿の成功者、作業服を着た労働者、刑務所の囚人服に身を包んだ男――その全てが理一郎の顔をしていた。

「お前たちは……何なんだ?」

理一郎が震える声で問いかけると、観客席の「理一郎」たちは一斉に笑い出した。その笑い声はどこまでも重なり、劇場全体に響き渡った。


無限の分岐

「俺たちは、お前が選ばなかった人生の断片だよ。」
「無数に分岐した可能性、それがお前自身だ。」
「そして、この舞台は、お前がこれまで逃げてきた罪そのものだ。」

声が次々と響き、理一郎の頭をかき乱した。

「そんなはずはない! 俺は何もしていない!」

「そうか?」
観客席の一人が嘲笑しながら立ち上がった。彼は脚本を手に持ち、そのページを理一郎に見せつけた。


脚本の最終ページ

理一郎の手元の脚本が不気味に震え、最終ページが勝手にめくられた。そこにはこう記されていた。

「君が見る限り、物語は続く。そして真犯人は、君自身だ。」

理一郎はその文字に目を疑った。「君」とは一体誰なのか? その瞬間、脚本の文字がにじむように歪み、次第にこう変化した。

「真犯人は――読者。」

理一郎は目を見開いた。「読者」とは誰だ? その答えを探そうとする間もなく、劇場全体が再び揺れ動いた。


読者の視点の切り替え

劇場の視界が急激に暗転し、次の瞬間、読者自身が観客席の中にいることに気づく。読者は理一郎の視点を抜け出し、観客席から舞台を見つめている。

舞台上の理一郎は、怯えた目で観客席を見つめている。そして、彼の口から言葉が漏れた。

「君たちが犯人なんだ……」

読者が観客席に座っている他の「理一郎」と同じ存在であることが徐々に明らかになる。読者自身がこの物語を読み、観察し、物語を進めてきた張本人である――その事実が突きつけられる。


劇場の崩壊

「物語は君の意志で作られた。」
オーロラ・ディレクターが舞台袖から現れ、最後の言葉を告げる。

「読者である君が見る限り、この舞台は永遠に続く。そして理一郎は、君の意志の中で踊り続けるんだ。」

舞台全体が崩れ始め、観客席の「理一郎」たちは次々と消えていく。しかし、読者の視点だけは残り、舞台中央に立つ理一郎を最後まで見届ける。

「終わらせてくれ……俺を……」

理一郎が懇願するように叫ぶ。だが、読者がページを閉じない限り、物語は終わらない。劇場の崩壊がピークに達し、全てが闇に包まれる直前、脚本が最後のメッセージを伝える。


最終メッセージ

「物語の終わりは、読者の手による。」

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