
闇に呻く双頭の蛇
第1章:闇の胎動
夜の帳が街を覆うころ、過疎化の進む地方都市では看板の電飾も虚しく鈍色の光を放つだけだった。人影の薄いシャッター街には、コンクリートの隙間から滲み出すような埃と錆のにおいが満ち、歩くたびに肌へ冷たくまとわりつく。そんな薄暗い路地の奥にある小さなスタジオへ、天野漆黒はゆっくりと足を運んでいく。
スタジオという響きとはほど遠い――もともと倉庫だったビルの一室だ。壁の防音は不完全で、配線や古い機材が雑然と積まれている。床には水滴が溜まり、かび臭さが鼻を突く。けれど天野にとっては、まるで“異界”へと続く門のような場所だった。
「もっと鋭くて冷たい音が欲しいんだ。血が通ってないような、死の空気を孕んだリフを刻めたら……」
肩まで伸びた黒髪をかき上げながら、天野はギターを抱えて低く呟く。アンプから吐き出される轟音に耳を傾けては、微妙な調整を繰り返している。その目つきには危うい陶酔がにじみ出ていて、まるで音の奥に潜む何かと対話しているかのようだ。
彼には、常識では測れない“黒い磁力”がある。言葉では説明しきれない、皮膚から立ち上る独特の空気。そこに惹きつけられるかのように、周囲には天野を崇拝にも似た気持ちで慕う者たちが少しずつ集まり始めていた。ある者はSNSで見かけた廃墟の演奏動画に魅了され、またある者は匿名掲示板で天野と直接やり取りを重ねていた。天野はそうした人間たちを狙うように、ネットの闇を器用に利用している。
古びたノートパソコンの画面には、真っ黒い背景に不吉なシンボルが踊る怪しげなサイトが映し出されている。
名前: “イークト=ラマヴィス” (Iekt-Lamavis)
象徴: 双頭の蛇を掴む漆黒の手
設定:
太古の時代に地底世界から現れ、人々の絶望や破壊衝動を糧として力を得る存在。
血や闇、悲嘆を栄養源とし、供物を捧げることで信徒の魂と引き換えに願いを叶える。
思想:
現世の秩序を否定し、混沌と苦痛の果てにこそ「真の自由」があると説く。
信徒たちが邪悪な行為を行うほど、この暗黒神の力は増し、最終的には世界を滅亡へ導く。
儀式:
血塗られた生贄の祭壇で蛇の紋章を刻む。
音楽による崇拝を重視し、不協和音や轟音によって神を呼び出す。
そこに並ぶ意味不明の呪文や、血塗れの祭壇の写真を眺めながら、天野は低い声で呟いた。
「“イークト=ラマヴィス”……か。
太古からある暗黒神、破滅を糧に肥大化する力……。いいね、そそるじゃないか。」
まともな宗教の文献などでは見たこともない胡散臭さ。それなのに、天野の胸を熱くさせる何かがその文字列の奥から立ち上ってくる。高校生の頃から社会への無力感に苛まれ、漠然と「破滅こそが人間の本質ではないか」と感じていた天野にとって、この暗黒神イークト=ラマヴィスはまさに“理想”の象徴に映った。
ノートパソコンのキーを乱雑に叩き、地下サイトへメッセージを打ち込む天野。
「人間が持つ黒い感情を――嫉妬、殺意、自己破壊願望――煮詰めた先には何があるのか。よかったら教えてくれ」
それは半ば独白だったが、彼にとっては“闇”を追い求める最初の儀式に等しかった。
狭苦しいスタジオにはか細い電球があるだけで、周囲はどこか薄寒く感じられる。天野はアンプの音量をさらに上げると、耳障りなノイズが金切り声のように鳴り響いた。その瞬間、かすかな“ぞわり”が背筋を走る。
「人間の心の闇をありのまま解放すれば、きっと何かが呼び起こされる……。俺たちが演奏で、それを可視化するんだ。」
そこへ一人の若い男が姿を現す。蒼白い額に汗が浮かぶ彼の名は相沢愁。SNSで天野からの呼びかけを見つけ、まともな感性を捨ててでも“本物の破滅”に触れたいと願った一人だ。
「天野さん、いい場所を見つけました。夜になれば人の気配もない、廃棄されたショッピングモール……。ステージセットくらいは組めると思います。」
「そうか。じゃあ、近いうちに一度、下見だな。」
天野は振り返りもせず、ギターの弦を鳴らしながら淡々と返事をする。
「ところで、この前話してた“生贄の演出”、どうする気なんだ?」
「蛇とか、そういう直球のモチーフを使うんですか?」
「まだわからない。ただ、暗黒神の名を唱えるなら衝撃が必須だ。どこかの誰も真似できないほどグロテスクで、なおかつ背徳的な演出を……。」
天野が言葉を噛みしめるように口にすると、相沢は微かな戦慄を覚えながらも、同時に得体の知れない興奮がこみ上げてくるのを抑えきれなかった。社会の表通りでは到底許されない行為が、“神への奉納”という名のもとに肯定されているように思えるからだ。
スタジオの隅では、佐伯瑛太がスマートフォンを片手に、ダークウェブのチャットルームを睨んでいる。
「天野さん、ここ……他の連中も覗いてるみたいで、やばい雰囲気ですね。血塗れの儀式写真とか、呪文の断片ばかりアップされてる。何か、本当に呼び起こそうとしてるかも……」
天野は奥の方でにやりと笑い、不気味な光を瞳に宿す。
「いいな。その“底なしの絶望感”が音に宿れば、人間は抗えなくなる。俺たちが作りたいのはそういう曲だ。」
音楽に酔いしれる瞬間は、天野にとって唯一の“救い”だった。今さらまともな生活になど戻りたくもない。こうして闇を掘り下げ、深みへ落ちていくことだけが生きる手応えに思えた。彼が外の社会に抱いている鬱屈や虚無感――それらは胸の底でドロドロに燻っており、破壊的な音をもってすれば晴らせると信じている。あるいは、それが自分の存在価値を証明する行為だと思っているのかもしれない。
ギターを置き、天野はノートパソコンの画面を再び眺める。不可思議な暗号めいた文字列と、太古の神を崇拝する呪術のような記述。
「イークト=ラマヴィス……信じる者に破滅の力を与える、か」
そうつぶやいた瞬間、スタジオのわずかな灯りがちらりと揺れ、かすかな不安が空気を伝う。天野はそれを気にも留めず、深い笑みを口元に浮かべた。
「信じられないなら、すべてを疑えばいい。破滅に転がり落ちるのも、一種の自由だろう。」
そのとき、アンプから鳴り続けるハウリングが一段と強まった。金切り声のようなノイズがコンクリートの壁に反響し、まるで“何か”が目覚めたかのように聞こえる。天野は表情をゆがめるでもなく、ただ薄く嗤う。そして相沢は胸の奥にぞわりと走る寒気に気づくが、一度踏み込んだ道を後戻りできるとも思えなかった。
“蛇炎ノ禍”という名前を名乗り始めたのは、この数日後のことだ。
天野漆黒――破滅指向のカリスマを自称する彼を中心に、奇妙な人間たちが闇の奥へ吸い寄せられていく。どこまで倒錯しようと、誰にも止められない。狂気に身を委ねることでしか埋まらない虚無があるなら、彼らはその虚無を神と呼ぶのかもしれない。
かすかな風の通り抜けるスタジオで、天野は最後にひと言だけ呟いた。
「これは闇への序章だ。もっと深い地獄を、この音に宿らせてやる――」
その声は薄暗い部屋のどこにも届かないようでいて、確かに“何か”を呼び覚ましているようでもあった。血の匂いはまだしない。だが、蛇がとぐろを巻くように、黒い旋律がすでに胎動を始めていた。
第2章:蛇炎ノ禍の結成
闇を帯びたスタジオの中で、天野漆黒は静かにメンバーたちを見回した。その瞳には、どこか悲壮な決意と狂おしいほどの執着が混ざり合っている。
生まれながらにして空虚を抱え、社会に溶け込むことすら億劫だった彼は、ある晩ネットの奥深くで見つけた“イークト=ラマヴィス”の教義によって救われたと語る。
「破滅を肯定するかのような思想に触れた瞬間、やっと“生きている”実感を得られたんだよ。」
彼がときおり口にするその言葉は、真意を測りかねるほど淡々としていたが、同時にどこか不気味な熱を孕んでいた。
九条ユリカは天野の隣でスマートフォンを操作している。長い黒髪に真紅の口紅、白いシャツとライダースジャケットを合わせた姿はどこか退廃的な魅力を放ち、もはやこのスタジオにおいても異質さを感じさせないほど溶け込んでいた。画面に表示されるのはSNSの通知やダークウェブの書き込みで、彼女の表情には微かな興奮が浮かんでいる。
「曲のイメージ、形になってるの?」
落ち着いた声色で問うユリカに、天野はギターを軽く鳴らして頷く。
「確実に方向性は見えてきた。だけど、ただ凶暴にするだけじゃなくて、もっと“禍々しさ”を剥き出しにしたいんだ。イークト=ラマヴィスの名を掲げるなら、安易な音じゃ生ぬるい。」
「イークト=ラマヴィスって、ほんとに存在する神様なのかねえ。」
相沢愁が眉を寄せて不安げに呟く。彼はどこか常識人めいた雰囲気を残しているが、それでもここにいるということは、“深淵”に惹かれる素養を秘めているのだろう。
「存在かどうかなんて関係ないわ。私たちが狙ってるのは、人間の内奥に潜む狂気――そのきっかけを与えてくれるかもしれない教義でしょ?」
ユリカはどこか楽しげに返し、スマートフォンの画面を見せる。そこにはダークウェブの怪しげな掲示板が映し出されていた。血飛沫のイラストや呪詛めいた文字列が乱立し、まるで狂気を競い合うかのようだ。
「さっき相談してた“赤蛇ノ咎呼(せきじゃのとがよび)”って曲、構成はどうします?」
佐伯瑛太が割り込むように問いかけると、天野は音の組み立てを思い描くかのように目を細める。
「冒頭はどんより沈んだリフ。そこから一気にブラストビートで爆発――暗黒神の名を叫んだ後は、混沌を叩きつけるようなカオスパートを入れる。」
「確かに、破滅的な流れがいいですね。ドラムは狂乱のように叩きつけるイメージで……」
佐伯の言葉に頷きながら、天野はユリカの書き留めた歌詞メモを覗き込む。
「血に饐(す)えた 蛇の舌
深淵より這い寄る声
我が漆黒の瞼を裂き
屍より湧き立つ死神の息吹
イークト=ラマヴィス……」
紙に走る文字はどこか禍々しく、ギターの不協和音と組み合わさるとスタジオの空気が一段と冷たくなるようだった。相沢は腕を組み、その妙な寒気を飲み込みつつも、刺激的な期待を捨てきれない表情を浮かべる。
そんなとき、そっと扉を開けて入ってきたのが神渡皐月だった。小柄で華奢な体つきだが、目の奥には暗い溝のような光が宿っている。
「皐月、また何か奇妙なものを集めてきたのか?」
天野がそう問いかけると、皐月はバッグの中から半ば腐敗した鳥の死骸を取り出して見せる。鴉らしき羽根は折れ、黒い血の塊が付着し、腐臭がすぐに空気を侵食した。
「見て。この腐敗臭、堪らないわ。羽根が千切れ飛ぶ瞬間を想像すると、痛みよりも優越感を感じるの。」
皐月の声は冷ややかで、狂気じみた恍惚を隠さない。その残酷な趣味を止める者は誰もいない。天野が微かに笑みを浮かべながら、
「イークト=ラマヴィスへの供物かな? 皐月、おまえの“信仰”は期待してるよ。」
と口にすると、皐月は目を細めてほのかに嗤う。彼女はすでに“死”や“腐敗”を愛で、そこに異形の美を感じ取るほど精神の均衡を失っているようだったが、その衝動を受け止めるのが天野にとっても心地よいらしい。
そんな不吉な空気の中、ユリカはスマートフォンを閉じて本題を切り出す。
「次の動画を撮るなら、やっぱり例の廃墟ショッピングモールでしょう。ドローンで上から撮って、もっと大掛かりな演出を混ぜたい。どうせなら“儀式”を盛り込んで、視聴者を本気で怖がらせたいわ。」
「儀式か……血を使うとか、聖書を燃やすとか、そういうのがウケるかもな。」
天野の言葉には、あえて背徳を煽ろうとする意図が透けて見える。単なる音楽の枠を超え、暗黒神への“本物の奉納”をしたいという欲望――それをネットに晒すことで得られる衝撃こそ、蛇炎ノ禍の名を広める最短距離だと考えているのだ。
そのとき相沢が遠慮がちに口を開いた。
「だけど、機材やカメラ、警備システムの破壊とか、それなりに金が要るんじゃないですか? どうやって工面する? まさか……」
「簡単さ。人気(ひとけ)のない倉庫や夜間営業の店舗を狙って、一気に盗み出してくりゃいい。そもそもこの手の窃盗や破壊工作を厭うようじゃ、暗黒神への礼拝なんてできないだろ。」
天野は歪んだ笑みを浮かべ、その発言をあまりにも自然に放つ。視線を交わすユリカや佐伯も、とくに止める様子がない。違法行為すら“儀式”という名のもとに正当化される――それが“蛇炎ノ禍”の歪んだ思想なのだ。
「どうせ周りは気味悪がるだけ。
それでいい。理解なんてされなくて構わない。
むしろ“わかり合えない”方が燃えるってものさ。」
天野はアンプのつまみをひねり、さらに音量を上げる。ノイズがごうごうと唸り、腐臭を漂わせた皐月がその響きを楽しむかのように目を細める。
そして、その数日後――蛇炎ノ禍は初の映像をSNSに投稿する。
タイトルは「血ヲ喰ラウ双頭ノ影」。
フードで顔を隠したメンバーたちが、蝋燭の炎だけを頼りに不穏な音を鳴らし始める場面から映像は始まり、途中でギターリフが凶暴に加速。ドラムが疾走するや否や、カメラは双頭蛇をかたどったシルエットを映し出す。視聴者を呪縛するようなブラストビートへ突入すると、天野の咆哮が濁流のように重なり、血走った狂気が画面を満たす。
再生を終えた者たちは大なり小なり衝撃を受けた。
「本物の邪悪を感じる」「背筋が凍る」「こんなの正気じゃない」
SNSのコメント欄は賛否両論で埋まり、さらにダークウェブのコミュニティでは「俺も参加したい」「血の供物はどうやるんだ?」などという参加希望の投稿まで沸き起こる。
一方、スタジオでは皐月が相変わらず鴉の死骸を弄んでいた。その瞳には奇妙な光が宿り、深く息を吸い込むように腐臭を嗅ぎながら、どこか愉悦に浸っている。
「天野さん、ほら……たくさんの“死”や“破滅”を捧げれば、イークト=ラマヴィスはもっと力を増すんじゃないかしら……」
彼女の声には迷いの欠片もない。その嗜虐と狂信がどれほど危険な道へ向かわせるか、誰も想像することすらできないのだろう。
「まだ始まったばかりさ。
俺たちはもっと深い闇を覗き込む必要がある。
誰も見たことのない神の顔を、この世界に引きずり出してやる――。」
天野がそう呟くと、相沢と佐伯はわずかに顔を見合わせて固く頷いた。ユリカはスマートフォンを片手に、次の動画に向けた準備を進め始める。血と暗黒の演出、腐臭を纏う皐月の存在……あまりにも非日常的な光景が“バンド活動”の名のもとで進行していく。
誰もが感じていた――これはもう、ただの音楽ではない。深淵を覗き、闇に溺れようとする者たちの狂信と倒錯。その目的地は、イークト=ラマヴィスが“破滅”と呼ぶ場所なのか、それとも彼ら自身も見えないまま踏み入れてしまった奈落なのか。
だが、いまの蛇炎ノ禍にはそれを考える余裕などない。自分たちの内なる虚無を埋めるように、さらなる狂気を求め合っている。それが破滅に繋がると知りながら、なおも深く闇を覗き込んでいた。
第3章:黄昏ノ血宴の台頭
草加洋介は天野漆黒のように薄暗いスタジオにこもるのではなく、機材が整ったリハーサルルームを借り切ってメンバーを集めていた。表向きには「黒い音楽の可能性を探る」などと宣伝しつつ、深夜のSNSで鋭く勧誘するその手際は商売人さながらだ。口ぶりも陰鬱さとは無縁で、むしろ自信満々という印象を与える。だが、彼が標榜するバンド「黄昏ノ血宴」の目的が何であるかを知る者は、まだ多くない。
「うちは本格的に攻めたい。表立って血を撒き散らすより、じわじわ精神を侵すイメージだ。
破滅願望を口にするだけじゃ、世間は見向きもしない。もっと巧妙に盛り上げていくんだ。」
草加の狡猾さは、蛇炎ノ禍のような露骨な“生贄儀式”に頼るよりも、段階を踏んで狂気を浸透させようという考えにある。集まった若いメンバーは、彼の戦略的な語り口に新鮮さを感じていた。天野のカリスマ性とは違う薄明の輝き――それに惹かれ、「草加こそ暗黒神イークト=ラマヴィスを正しく継ぐ器だ」と言わんばかりの者も現れ始める。
黄昏ノ血宴の初音源は、まだ短いデモにすぎなかったが、「死神ノ境界線(しにがみのきょうかいせん)」という仄暗い曲名と、美しくも冷たいイントロで一部のリスナーを虜にしている。落ち着いたクリーンギターから入り、シンセで仄暗い雰囲気を盛り上げる。やがてドラムが打ち鳴らされると、一瞬で場が逆転するように豪快なリフとダブルバスが襲いかかる。その残響には、“破滅”という単語をあえて具体的に使わない工夫があり、聴き手に妄想の余地を与える。草加の狙いは、激しさと商業性を同時に成立させることだった。
「深閑ノ闇ヘ堕チ
裂ケル胸底ニ蟠ム影
血色ニ霞ム星ノ瞬キ
黄昏ヨリ産声アゲル腐蝕ノ神…」
囁きとも呻きとも判別しがたい草加のボーカルは耳障りなほど冷ややか。だが、“官能”と呼んでもいいほどの妖しい甘みを孕んでいる。それは天野の咆哮とは対極にあるアプローチだ。映像にせよサウンドにせよ、蛇炎ノ禍が“血と暴力の直球”なら、黄昏ノ血宴は“薄闇に浸透する毒”を狙うという構図が見えてくる。
もっとも、こうした草加の巧妙さが天野の目に快く映るはずもない。一方は“飢えた蛇の舌”を突き出し、血に塗れる儀式を撮影してはSNSに上げる。もう一方は、ほどよく洗練された映像美や演出で“暗黒神”をアピールする。両者に共通するのは同じ名前――イークト=ラマヴィス――を讃えるという点だけだ。
だが、その呼び方もニュアンスが違う。草加は「神を呼び寄せるには、膨大な数のファンをまず巻き込むべきだ」と思考し、天野は「破滅と血を捧げ続ければ、神はその匂いに引き寄せられる」と信じてやまない。
暗黒神の名の下でも、目指す先はまるで異なるのだ。
黄昏ノ血宴の勢いを増幅するのは、ネットでの評価だ。蛇炎ノ禍が汚れ仕事や暴力シーンを積極的に発信する一方、草加はよりスマートな手法で好奇心を煽る。メンバーたちが洗練された演奏風景を短く切り取り、映像の最後にだけ“イークト=ラマヴィス”の名を挿入する。グロテスクさは抑え気味だが、かえって不気味な空虚感を誘う演出が受けているのだ。
「天野なんか単純な破滅狂いさ。派手に荒らしてるようで、いずれ警察に潰されるだろう。
俺たちはもっと静かに、そして根深く浸透する……それこそが神への道だ。」
草加はそうメンバーに語り、資金や機材を整えるためのパイプを活用している。スポンサーめいた存在が裏にいるという噂もあるが、真実は定かではない。
少なくとも、今の黄昏ノ血宴は経済的にも安定しており、ライブや動画制作への投資を積極的に行う余裕すらあるらしい。その背景にあるのは「闇の出資者」としか言いようのない人物か、あるいは複数の企業がダークなイメージを売りに支援しているのかもしれない。いずれにせよ、天野がやっているような“深夜の窃盗や破壊工作”とは次元の違う手段で楽曲を拡散しているわけだ。
しかし、蛇炎ノ禍がまとう“純粋な狂気”に惹かれる層もまだ一定数いる。そして、黄昏ノ血宴の“静かなる侵攻”に酔わされる者もいる。
二つのバンドが競い合うように暗黒神イークト=ラマヴィスを掲げ、暴力と洗練を極端に演出する図式は、ただでさえ不穏なネットユーザーたちを面白がらせていた。
「天野はいつ大規模な儀式をやるんだ?」「草加は爆弾でも使うつもりらしいぞ?」
そんな噂が飛び交い、ダークウェブの掲示板には両派を比べるスレッドがいくつも立つ。そこには「どちらが真の破滅を具現化するか」といった書き込みが並び、“邪神を仰ぎたい”と切望する闇の住人たちを興奮させているのだ。
そんな中、神渡皐月の存在は相変わらず歪な輝きを放っていた。蛇炎ノ禍で“供物”を集め続ける彼女は、破滅への欲求を純粋に突き詰めるタイプで、血や腐肉を集める嗜虐趣味すら憚らない様子だった。行為の理由を問いただす者はほとんどいないが、その危うさを内心恐れるメンバーもいる。床に血と羽毛が散らばるような場面を目撃しても、誰も止められないからだ。
そして、皐月が一層深い思考へ沈んでいるという話がスタジオにも伝わっていた。彼女が抱える破滅嗜好は、蛇炎ノ禍での“血と腐肉”の収集に留まらず、さらなる深みを求めているらしい。
「皐月、最近ほとんど寝てないみたいで……いつも血走った目をしてる。」
佐伯が漏らした言葉は、やがて天野にも届く。彼女の衝動を適切に制御できるのかどうか、それすら不明なまま時間だけが進んでいる。
自ら加担している闇にさらに沈んでいく――その微かな予兆は、誰もが目を逸らしたいほど嫌な気配を漂わせている。
草加洋介が影で囁く「次のステップ」と、天野漆黒が掲げる「血の奉納」は、やがて大きな波となりぶつかるのかもしれない。
黄昏ノ血宴の台頭を歓迎する者は、「もう蛇炎ノ禍みたいな直接的暴力は古い」と嘲笑する。
一方で、「草加の商業路線は邪神への冒涜だ」と憤る者も少なくない。
どちらにせよ、闇の深い場所を覗き込むほど、人間は狂気に絡め取られていく。神渡皐月もまた、さらなる闇へ潜り込んでいく気配がある。この先をどう転がるにせよ、誰も無傷ではいられないと感じさせる不穏さが、SNSの書き込みやダークウェブのレスを通じてじわじわと膨れ上がっていた。
草加は“優雅な毒”を秘めた黄昏ノ血宴を急速に拡散していく。天野は“咆哮と凶行”を激化させる蛇炎ノ禍をさらに先鋭化させる。皐月は死と狂気への欲求を底なしに強める。
いずれ崩れる土台の上で、それぞれが暗黒神を求め合い、互いを牽制しつつ、闇の奥で絡み合い始めている。そんな危うい対立は、この都市の片隅から始まっていたが、徐々に凶暴な火種を孕みながら広がっていくように見える。
神が微笑むかどうかは誰にもわからない。しかし、黄昏ノ血宴という新たな魔の芽が顔を出し、蛇炎ノ禍を刺激しはじめた今、それぞれの“破滅”への足音が大きくなりつつあった。
第4章:狂信の淵—神渡皐月の自殺
神渡皐月の瞳には、不穏な光が絶えず宿っている。小柄で華奢に見えるのに、どこか危うい熱量を携えたまま、彼女は暗黒神イークト=ラマヴィスの教義へ没入していった。自室の壁を見渡せば、赤いペンキで描かれた双頭蛇の紋様が生々しく主張している。血のような色彩に染め抜かれたそれは、他のメンバーですら一歩引くほどの執着と熱狂を体現していた。
ある夜、彼女はダークウェブの掲示板に書き込んだ。
「私こそ、生贄にふさわしい。神が笑うなら、喜んで身を裂く」
声は低く、どこか陶酔を孕む。皐月は蛇炎ノ禍に加わった当初、狂気的な音楽に惹かれる程度だったが、破壊工作や闇の儀式へ深く足を踏み入れてから、内面の破滅衝動がとめどなく噴き出していた。深夜、金属部品倉庫へ忍び込んだときも、彼女は工具を選びながらぼそりと呟いていた。「もっと激しい炎が要るかも」――まるで罪悪感とは無縁の独白に相沢愁が背筋を粟立たせる瞬間があったが、誰もそれを止めなかった。抑えきれない衝動を抱える彼女に、常識的な諫言など通じるはずもないという空気が、スタジオ内を漂っていたからだ。
皐月のSNSには不穏なメッセージが散見されるようになる。
「赤い血が集まるほど、神は喜ぶ」
「儀式が近い。私の血を捧げるまであと少し」
天野漆黒は「焦りすぎるな」と淡々と忠告こそしたが、彼女の耳はもうイークト=ラマヴィスへの“奉仕”以外の言葉を拒絶していた。誰にも邪魔されない深夜に、彼女のアパートからは奇妙な物音がたびたび漏れ、そのたびに近隣住民を戦慄させる。だが、警察沙汰にならないのは、彼女が巧妙に行動しているからかもしれない。少なくとも、蛇炎ノ禍のメンバーで皐月の狂気を本気で抑えようとする者は見当たらない。
薄暗い部屋の隅にはライブ配信用のカメラアプリが開かれたノートパソコンが置かれ、視聴待機の数字がひっそりと増えていた。誰も止める者のいない空間で、皐月は震える手つきで短剣を握りしめながら、小さく笑う。「イークト=ラマヴィス……どうか私を抱きしめて」――薄く流れているのは蛇炎ノ禍の最新音源。金属質なリフが遠くで鳴り響き、その上に彼女の呼吸音が重なると、まるで異界が一瞬開くかのような不気味な空気が立ちこめる。
配信は始まっていた。視聴者の中には興味本位の若者もいれば、邪悪な連帯感を求める者もいた。チャット欄には、あからさまに煽る書き込みや、怯えた悲鳴のような言葉が次々と流れていく。だが、それらをまるで無視するかのように、皐月は短剣を左腕へ当てる。渇いた音がほんの一瞬響くと、鮮血が白いシャツを染め始めた。痛みの色を乗り越え、彼女の瞳はどこか別の世界を覗くかのように揺れている。「私は、生贄」――その声がマイクを通じて伝わると、チャット欄には絶叫にも似たコメントが溢れた。
画面を揺らすほどの恐慌が走っていた。視聴者の中には通報を促す者もいたが、配信は止まらない。皐月はさらに短剣を胸元へ向け、躊躇なく深く押し当てる。
「捧ぐ……ここに私の器を」
その最後の声は、悲鳴と熱狂が入り混じった恐怖の渦のなか、配信の画面に鮮烈な赤を広げて消えていった。
気付けば床一面、血の斑模様を映すカメラが数秒ほど無人の光景を捉え続ける。その間に同時接続の視聴者数は跳ね上がり、断片的に録画されたファイルが瞬く間に拡散されはじめる。SNSでもダークウェブでも「蛇炎ノ禍のメンバーによる自殺配信」として話題になり、呆然とする一般人と、狂気を礼賛する闇の住人とが入り乱れる。メディアが煽るように報道を繰り返し、テレビや新聞は「過激なメタルバンドの女性メンバーが、配信中に自殺」というセンセーショナルな見出しを掲げる。
警察はこの事件を契機に、蛇炎ノ禍に関連したあらゆる動きに対して大規模な捜査を開始する。破壊工作や放火の断片的証拠が相次いで洗い出され、メンバーの身元特定が急速に進む。スタジオへ向かう足も重くなる。天野漆黒はただ黙って薄汚れた床を見つめ、草加洋介に近い者たちも状況を見極めかねて苛立ちを募らせていた。
誰もが分かっていた。これほど生々しい死を晒した以上、社会も警察も無視できない。蛇炎ノ禍を取り巻く闇はいまや「カルト集団」と呼ばれ、その禍々しい映像がメディアで繰り返し報じられる。血で汚れた儀式の断片や、皐月という少女の痛ましい最期に対する憶測が加速し、ネット上では「彼女を追い詰めたのは誰か」「暗黒神イークト=ラマヴィスの恐ろしさを知らしめるための自殺だったのか」と騒がれる。
スタジオの空気は張り詰めたままだ。相沢愁は「こんなことになるなんて」とうわ言のように繰り返し、佐伯は耳障りなほどの沈黙で何も語らない。誰も想像しなかった結末が目の前で現実化したという衝撃が、全身を浸している。皐月の部屋には赤黒い痕跡と、未送信のメッセージがいくつか残っていたと聞く。中には「まだ足りない。もっと血を注ぎ込むべき」といった異様な文言もあったという。
自殺映像が大々的に報じられ、警察が動き出したことで、蛇炎ノ禍全体がまるで巨大な網に絡めとられようとしている。破壊の隠蔽や闇の取引に携わってきたメンバーは、情報漏洩が一気に進むことを悟り、逃亡や内輪もめが増える。草加の一派は「これをチャンスに自分たちを正統とアピールするか」「いや、下手に動けば危険だ」と意見が割れているようだ。天野は沈黙を貫いたまま、ギターの弦を何度も撫でている。
皐月が断ち切った命は、この闇にさらなる波紋を広げた。彼女の死を食らうように、イークト=ラマヴィスの名がネットの底で狂気を増幅し、ひとつの“事件”では済ませられない衝撃を与えている。
誰もが予感している。これほど直接的で悲惨な終焉を目にすれば、世間は決して黙って見逃しはしない。「またあのバンドか」「暗黒神を崇拝する狂気集団」というレッテルが一挙に広まり、警察は初動を早めて蛇炎ノ禍の拠点やメンバーを洗い出す。ユリカが震える声で「ヤバいわね。あいつら本気で狩りに来る」と呟いても、天野は何も返さない。ただ、「皐月は俺たちに血をくれた」と低く呟き、アンプのノイズを爆音で鳴らす。
スタジオの壁を震わす轟音がどこかむなしく反響する。
血に染まった少女の命が、闇の引き金を弾いた。配信画面に残った深紅の痕跡が、さらなる狂信と怒りと恐怖を招いている。皐月の姿が消えたことで、蛇炎ノ禍の命脈はむしろいっそう危うい熱を帯び始める。
死に絶えた少女の叫びは、破滅を望む者と、それを止めようとする社会とをいっそう激しく衝突させる。かすかな蛍光灯の下、漆黒のギターが深い唸りを上げても、もう誰もそれをただの音楽とは捉えない。
自殺配信という“狂信の淵”がここにあった。皐月の血が乾く間もなく、蛇炎ノ禍の名は夜の闇を駆け巡っている。
第5章:内部の亀裂と暴走
神渡皐月の自殺がもたらした余波は、メンバーたちの内側に隠されていた熱狂や背徳感をさらに濃密に染め上げていた。儀式めいた葬式など行われることもなく、薄汚れたスタジオには静まり返った空気が張りついている。床に散乱している機材や紙屑、そして血染めの呪文が走り書きされたメモが目に入っても、誰も片付けようとはしない。
天野漆黒はギターを抱え、アンプに手を置いたまま、どこか渇ききった瞳で弦の感触を確かめていた。
「皐月が血を捧げた以上、俺たちもさらなる血を求めなきゃならない」
乾いた響きで吐き出されるその言葉に、相沢愁は息を飲む。なぜ、そこまでしなくてはならないのか――疑念が頭をもたげても、もはや口にできる雰囲気ではない。警察が蛇炎ノ禍に鋭い視線を注ぎ始め、メンバー同士で顔を合わせるのさえ避ける者が増えたが、天野はむしろ行動を過激に変化させようとしているように見える。
夜更けに連れられるように廃墟へ集まる者たちは、誰もが心の奥に混沌を抱えていた。焦げ跡の残るコンクリート床にはヒビが走り、天井からむき出しの鉄筋が暗闇に伸びている。終末の空気が満ちるなか、天野はギターを構え、相沢はドラムスティックを握る。ユリカがカメラを回し、佐伯は暗黒神の象徴を大きく描いた布を掲げる。彼らは銃撃戦のように火炎瓶を投げつけ、壊れかけの発電機を無理やり回し、不安定な照明を点滅させた。騒々しい風のうめきが響く中、アンプから飛び出すリフは容赦なく耳を裂く。
ギターの音は極寒の金属を削るような冷たさを孕み、ドラムは時折狂ったようにビートを刻む。重く沈むベースに心臓を掴まれたような圧迫感が加わり、最後に天野の声が絡む。
「闇ヲ裂ク 深渊ノ声
飢エタ舌ヲ振ル 赤黒ノ幻
イークト=ラマヴィス
我ガ肉ヲ齧リ尽クセ…!」
不穏な映像に合わせ、シンボルとして描かれた蛇の紋様が画面を支配する。天野が持ち込んだガラス瓶から炎が噴き上がり、スタジオ録音の轟音と現場のノイズが混ざり合って飲み込まれそうな混沌を生み出す。映像を荒々しく編集してSNSへ投下すると、視聴者は嫌でもその破滅的な熱量を感じ取り、同時に警察がこの投稿を見逃すわけもない。
草加洋介が率いる「黄昏ノ血宴」にも緊張が走る。皐月の自殺を機に、メンバーの中には「こちらも過激な手段を試さないと暗黒神に近づけない」という声が囁かれ始める。ダークウェブには爆弾の作り方やテロの実行マニュアルが出回っており、「自殺配信以上の衝撃」を追い求める発言も散見される。だが草加は、無謀に血を流すより世間を大きく揺さぶる方法を模索する道を選ぶ。
「血を垂れ流すだけじゃ、生き残れない。爆発的な衝撃を与えて、それからイークト=ラマヴィスの名を響かせるんだ」
彼の理屈は終始、数字と注目度にある。無意味な破滅ではなく、“計画的な破滅”をもって暗黒神を呼び寄せようとする。実際、彼に惹かれて集まったメンバーの一部は、それを合理的だと感じていた。蛇炎ノ禍よりも狡猾でスマートな手段でこそ、“神”は振り向くのではないかと。
一方、天野と草加の軋轢はますます煮詰まっている。ダークウェブの掲示板には「どちらが暗黒神イークト=ラマヴィスの真の継承者か」という論争スレッドが立ち、蛇炎ノ禍派と黄昏ノ血宴派の信者が互いを罵倒している。天野はさらなる破壊の噂を漂わせ、草加は大規模爆破をちらつかせる――混迷は深まるばかりだ。
ただ、皐月が自死したことで悲嘆や恐怖を覚えた者もいる。自分の命がいつ“奉納”されるか分からない不安が、離脱を望ませる。しかし内部で離反の動きが見えれば、“裏切り者”の烙印を押され、暴力によって黙らされる。すでに警察が迫ってきている今、どこにも逃げ道など存在しないかのようだ。
禍々しい音楽と映像がSNSに氾濫し、ダークウェブには血や死を賛美する会話が溢れる。「燃える廃墟で演奏してみた」という破滅的な短編動画や、「人体を供物に捧げる儀式」の仮説が書かれた投稿までもが歓迎されている。放火で焼け焦げた建物の前で弾き叫ぶ動画が、暗黒神の名を冠してアップされる。視聴者は唖然とするか、あるいは熱狂の虜になるか。
人々をひたすら不安と嫌悪へ誘うように、蛇炎ノ禍と黄昏ノ血宴の煽情が加速していく。警察がマークを強化するほど、彼らは自暴自棄な破壊へ傾斜していく。生と死の境界を跨ぐ倒錯の昂りだけが、この破滅的集団の心を束ねているようでもあった。
草加洋介は冷淡な計算を隠さず、数字と結果を最優先に考える。一方で天野漆黒は、血と呪詛めいた狂信を掲げ、痛みや屍の上に神の声を聞こうとしている。どちらも引き返せない域に踏み込み、派閥間の融合などあり得ない。
皐月の死後、すべてが境界を失ったかのように暴走が始まった。血まみれの儀式か、大爆発による社会への衝撃か。メンバーの多くは次の行動に怯えつつも、深い闇に吸い寄せられる。
圧迫感を伴う轟音、荒涼とした廃墟の灰の匂いが絡まり合う。皐月の血の記憶が還ってくるたび、蛇炎ノ禍のメンバーたちは平衡感覚を失っていく。「神」に捧げる行為と自らの破滅が表裏一体だと分かっていながら、逃げ出すタイミングを失っている。草加一派に身を寄せるか、天野を追従するか――狂信へ飲み込まれるか、潜伏して裏切り者呼ばわりされるか。いずれにせよ、理性を取り戻す余地はもう薄い。
SNS上では「蛇炎ノ禍、次は公共施設を襲うらしい」「黄昏ノ血宴が爆破計画を立てている」といった噂が渦巻き、多くのユーザーが物見遊山的に盛り上がる。警察は容赦なく捜査網を広げ、マスメディアが危険視を報道するほど、また別の層がその闇に魅了されていく。
禍々しいショーのように拡散されているが、当事者たちは命を賭した狂信を掲げている。どちらが先に破滅を降ろすか、それとも同時に崩れ落ちるのか――理不尽な暴走はもう止まらない。
神渡皐月の死が呼び寄せた亀裂は、蛇炎ノ禍と黄昏ノ血宴の双方をより苛烈な破滅へと煽り立てる。抱えきれないほどの闇を垂れ流し、残酷な展開を想定する声がネットを席巻する。
誰もが薄々感じている。いずれ、その末路は血の宴に塗り潰されるだけだと。そして、そこに救いなど存在しない。狂信と破壊がもはや自然の摂理であるかのように、メンバー同士の暴走は勢いを増し、社会を巻き込みながら加速度的に深淵へと突き進んでいく。
第6章:破滅への序曲
警察がついに腰を上げた。深夜のガソリンスタンドから燃料を盗み出す姿や、倉庫荒らしをする面々の画像がネットを回り始め、あちこちの掲示板やSNSで「蛇炎ノ禍」の名とメンバーの容貌が並べ立てられている。気づかぬ間に撮られた映像がバズり、匿名の通報が続発するたび、薄闇に潜む彼らの姿は丸裸にされていく。数日前までは“暗黒神イークト=ラマヴィスへの奉納”だとばかりにやりたい放題だったが、表社会が警戒を示せば簡単に身動きが取りづらくなる。それを悟る者も少なくなかった。
ダークウェブには新たなユーザーが次々と現れ、蛇炎ノ禍に関する断片情報を売る者や、愉快犯じみた煽りをぶちまける者が沸騰している。血に飢えた狂信的な連中まで混じりはじめ、「もっとグロい供物が見たい」とか「火あぶりの儀式はやらないのか」といった声が一気に騒がしくなった。ユリカはその書き込みを読んで、空虚な笑いを漏らす。
「隠れろって言われても、連中が勝手に情報暴露しまくるから、もう誤魔化しようがないじゃない。……おもしろいわね」
警察の捜査で逮捕者が出るかもしれないと噂される一方、映像は伸び続ける。天野漆黒の映るデモ動画や儀式の残骸を撮ったクリップは、むしろ“禁断”の味を帯びて急上昇していく。背徳への興味や破滅への憧れをくすぐられる層が、ネットの闇にさらなる熱狂を持ち込んでいる。
天野は拡散される映像を眺めては、どこか薄く笑っていた。
「こんな闇を怖がる奴らが、いったい何をするつもりだ。警察? 罰則? くだらないな。破滅を受け入れない弱虫どもに、神の裁きなどわからない。」
相沢愁はその隣で、あからさまな不安を隠せない。警察から逃げるにも、もう顔が割れている。新しく投稿されたスクリーンショットの中には、破壊活動に関与した証拠のようなものまでが含まれている。
「このままじゃ捕まるかもしれない。SNSには俺たちの手配みたいな情報が流れてる……」
天野はそんな相沢の動揺を楽しむように口元を歪めた。
「逃げ道なんて必要ない。死刑にでもしたけりゃ、好きにすればいい。どうせそれこそが暗黒神の思し召しだろう。」
一方、草加洋介の“黄昏ノ血宴”でも、逮捕者が出るという噂が囁かれる。違法薬物所持や爆弾製造に足を踏み込んでいたメンバーが個別にマークされ、何人かが姿を消したと耳にした者もいる。草加は焦る素振りを見せないが、実際は「自分の手を汚さずに手下を使う」やり方が綻びを見せつつある。裏社会のルートを使ってリスクを減らしてきたはずが、警察の追及は想像以上に速い。
「爆弾を作るなら、もっと金と時間をかけて緻密にやるんだよ。噂を流すバカがいるから穴ができるんだ」
苛立ちを吐き出すように拳を机に打ちつける草加を、部下たちが怯えた目で見つめている。彼らの中には天野漆黒を畏怖する勢力もいて、草加に忠誠を尽くしきれない者も混じる。今さら引き返せない闇へ踏み込んだという現実が、内側からも悲鳴を上げさせている。裏切り者は暴力か恐怖で黙らせるしかない。綻びはもう止まりそうにない。
ちょうどそのタイミングで、また一本の動画がダークウェブへ放たれる。
「蛇ノ血統—漆黒ノ序章」
屋上を吹き抜ける夜風と、首のない人形が血塗れのまま吊り下がっている凄惨な映像が、破滅的なギターリフとともに再生される。天野漆黒が神への叫びを上げる姿が画面を染めるたび、人々はSNSで拡散を繰り返した。コメントには「狂気に魅せられた」「本物の破滅を観たい」といった文言が絶えず流れ、ネットの住民が二派に割れている構図があらわになっている。
「蛇炎ノ禍が真の暗黒神を呼ぶのか」
「いや、黄昏ノ血宴こそ洗練されている。あいつらの方が高みに達する。」
荒唐無稽な盛り上がりだが、そこには警察のマークも混ざっており、取り締まるべき対象として彼らを監視する。それでも闇は止まらず拡散を続ける。“テロリズム”と批判されながらも、一部の若者たちには絶頂のカルト美学に見えているのだ。
草加洋介は苛立ちを噛み殺しながら周囲を見回し、声を低く落とした。
「天野はわかってない。下らないパフォーマンスを垂れ流して、神になれると本気で思ってる。奴を黙らせるには、やはり一撃で世界を揺るがすしかない」
支援金や闇ルートで集めた薬品を前に、彼は最後の一線を越える決意を硬める。
「警察が来る前にやる。派手に爆破を決行して“本当の崇拝”を示してやる。どちらが正統後継者か、見せつけるんだ」
歯ぎしりの音に似た声が、仲間たちの背筋を凍らせる。危険すぎる賭けだが、引き返す道を誰も思いつかない。
天野もまた、さらなる放火や破壊を示唆しているという噂が絶えない。街中の雑居ビルを狙ったテロまがいの行動を計画していると囁かれ、ダークウェブでは血の匂いを嗅ぎつけた闇の住人たちが盛り上がっている。
「神渡皐月の死なんて始まりに過ぎない。もっと多くの血を捧げてこそイークト=ラマヴィスは目覚める」
そんな書き込みすら散見され、メンバー以外のエセ信者を巻き込んだ暴走が起きる兆しもある。裏切り者たちの自首も相次ぎ、バラバラになった組織は先鋭化と暴発を同時に抱えている。
ネット上では「彼らはどこを襲うんだ」「爆破予告が出ている」といった流言が駆け巡り、マスメディアは「暗黒神崇拝テロリスト集団」と大々的に報道を始めた。ある雑誌では「狂信テロと若者たち」という特集が組まれ、滅びに憧れる歪んだ若者の心理を解説するコラムまで載せられる。
天野と草加、蛇炎ノ禍と黄昏ノ血宴。どちらが先に最悪の引き金を引くのか。すべてが破局へ向かう一歩手前の稜線を踏みしめているかのようだ。
廃墟で鳴り響く狂気の演奏と、SNSを埋め尽くす破壊の動画。人形や死骸、燃えさかる火の手に絡む絶叫。どこまで過激化すれば終焉が訪れるのか、その予測さえ無意味に思えるほど深く闇に侵食されている。
破滅への序曲はもう止まらない。自分たちの“死”すら神への奉納と見なす連中は、警察の追い込みをむしろ“終わりにふさわしい舞台”と受け止めている。死を儀式として装飾し、世界がそれを目撃するまで突き進むしか道は残されていない。社会の網が狭まるほど、命を捨てても構わない狂信は募っていく。
闇の奥でうごめく彼らは、どんな結末を望んでいるのか。爆音で流される咆哮と血の跡だけが、不吉な祭壇のように積み上がっていく。誰も逃げ出さないまま、破滅への階段を一段一段上っている。ふと耳を澄ませば、遠くでパトカーのサイレンが響いていた。
第7章:天野漆黒の死—殺意の夜
雨に打たれた工場跡の空気には、焦げた煤と鉄の臭いが混じり合っている。天井の鉄骨はむき出しのまま、半ば倒壊したコンクリート壁には数々の爆発と放火の名残が黒々と焼き付いている。湿った床には金属片が散乱し、薄暗い残響がどこからともなく響いてくる。その廃墟の奥へ、草加洋介がゆっくりと足を踏み入れた。
彼の手には小さなビニール袋。中身を覗けば、黒ずんだ柄の刃物が荒んだ光を帯びている。怒りと興奮が入り混じった呼吸を吐き出すたび、雨音の冷たさをなおさら鋭く感じる。工場のさらに奥には、いまや宿敵と化した天野漆黒の姿があった。雨で湿ったコンクリートの闇が、二人の対立を一層際立たせている。
「ずいぶん好き勝手やってくれたようだな。手下どもが暴れまわるせいで、俺たちまで巻き添えを食うはめになったじゃねえか。」
ギターを抱えた天野が、朽ちた作業机に腰かけたまま、乾いた弦の音を鳴らしている。痛々しいほどに薄い響きは、降りしきる雨の中で不吉に反射する。草加は険しい顔つきで口を開いた。
「そっちこそ計画性なんて皆無だったろうが。神の名をほざいていただけで、何の算段もなく暴れてりゃ世話ねえよ。崇拝? 破滅? 口先だけで飾り立てる神なんぞ、腰抜けの証拠だ。」
天野の唇が少しつり上がり、嘲りを含んだ表情になる。
「おまえは本当に血を啜ったことがあるのか? 破滅がただの舞台演出だと思ってるなら、商売人気取りの愚か者と変わらない。」
雨脚が強まり、廃墟の奥まで水滴が吹き込む。草加はビニール袋に手を入れ、刃物の柄をじっと握りしめる。
「イークト=ラマヴィスは、そんな張りぼての“破滅”を許さない。おまえが血と破壊でしか取り繕えないせいで、堅気の連中まで巻き込まれちまったんだ。神の意思を踏みにじったんだよ。」
天野はギターを止め、ゆっくりと首をかしげた。
「血こそが真実だ。小賢しい言葉で飾りたてる方がよほど下劣じゃないのか? 破滅を知らずに数字を追いかけるおまえは、神を利用するただの商売人だ…。」
倉庫の窓枠に雷光が走り、ドンッという轟音が雨音に混ざる。一瞬の閃光を縫うように、草加が刃を勢いよく振り下ろした。警戒する隙を与えないほどの速さで、天野の肩口へ鋭く突き刺さる。
「ぐ…」
天野の短い呻きが廃墟にこだますると、鮮血がじわりとコンクリートに広がった。転がったギターは弦を軋ませ、不穏な音を吐き出す。雨の冷たさが取り払えないほどの生々しい血の匂いが漂ってくる。
「これで邪魔者が消える。俺が暗黒神の意志を継ぐんだよ。」
草加の目は興奮にぎらつき、荒れた呼吸に殺意が滲んでいる。雨が容赦なく降り注ぐ中、肩で息をする天野の姿は地面に崩れ込んでいた。
「…血の…呪い…いつか、おまえを…」
天野は掠れた声でそう言いかけたものの、そのままうなだれるように沈黙する。白塗りの顔に生気はなく、青白い雨の光だけがぬめりと反射している。草加はひとつ、浅い息を飲み込んだ。
「おまえから吹き込まれた破滅遊びなんかじゃ足りないんだ。俺が本当の崇拝を教えてやる。」
背筋に走る怖気を言い聞かせるように首を振り、震える手から落ちそうになる刃物を握り直す。煮えたぎる自己顕示と狂熱の余韻が、背後から覆いかぶさるように絡みつく。
そこへ、廃材の山に隠れていた佐伯瑛太が現れ、悲鳴をあげて後ずさった。
「なにやってるんだ…草加…天野さんが…死んだ…」
血がべっとり染まったナイフを振り払った草加は、赤黒い雫を床に撒き散らす。
「今さら天野に縋るな。暗黒神は俺を選んだんだ。裏切るなら、おまえも生け贄にしてやる。」
その殺気は雨で冷まされることなく、廃墟の鉄骨に反響するほど狂おしく響いている。
佐伯がスマートフォンを取り出すと、SNSのメッセージが無数に届いていたようで、どこにいるのか、なにが起きているのか、怒涛のように通知が押し寄せているらしい。やがて遠方からパトカーのサイレンが聞こえ始めた。
「逃げなきゃ…このままじゃ捕まるぞ…」
「神がいる限り恐れるものはない。俺はこの血を捧げて、破滅を現実にするんだ。」
草加はそう吐き捨てると、天野の亡骸に目をやりもしないまま廃墟の外へと向かい始める。血に染まった刃物は雨の中で妙に鈍い光を放ち、周囲のメンバーも怯えた顔を見合わせ、仕方なく草加の後ろへついていった。逃げ遅れれば同じ刃を向けられるかもしれない。その恐怖だけが背中を押している。
暗がりの奥へ姿を消した彼らが去るころ、荒れ果てた工場跡には赤い水溜まりと壊れたギター、そして血の気を失った男の屍が残されていた。騒ぎを聞きつけた警察がサーチライトを光らせる頃には、誰もその場にいない。
「天野漆黒、殺されたってよ……」
ネット上は瞬く間に荒れ狂い、報道陣も血の匂いを嗅ぎつけたように押し寄せる。リーダーを失った蛇炎ノ禍は、その支柱を折られた格好だ。闇の住人たちは「これで草加が暗黒神を掌握するのか?」「ただの狂人だろう」と好き勝手に囁き合い、さらなる混乱を招いている。崇拝と破滅を旗印に激しく競い合っていたふたつの勢力は、この夜を境に不可逆の崩壊へ向かう。
第8章:崩壊と逮捕
焦げついたショッピングモールの外壁には警告テープが幾筋も揺れている。生暖かい風が吹きつけ、廃墟の傷痕をゆっくりと撫でては、雨上がりの湿り気を重苦しく引きずっていた。蛇炎ノ禍と黄昏ノ血宴が崩壊へ向かったあの晩から、警察は裏社会の影すら躊躇なく捜索している。
コンクリートの割れ目や深夜のアパート、ダークウェブに巣食う裏口のやり取り。放火や自殺配信を示す動画ファイルが次々と押収され、告発や裏切りの投稿が矢継ぎ早にダークウェブへ投げ込まれていた。いまだ隠れ場を探す者たちが、血塗れの儀式をどう誤魔化そうと、警察の捜査網は遠慮なく浸透していく。何もかも、「単なるカルト」で済ませられないほどの放火と殺人の痕跡が累積していた。
「まったく正気とは思えないやつらだ」
捜査関係者がそうSNSに漏らしたという噂も走り、蛇炎ノ禍に属していた残党は恐怖を隠しきれなくなっていた。繁華街の隅で膝を抱える者、廃墟の闇に紛れようとする者、ダークウェブで仲間を売る者が入り乱れ、とっくに秩序は崩壊している。
「ユリカはどうした?」「相沢が内情を警察に話したんじゃないか?」「もう草加には期待できない」
そんな声が匿名チャットに渦巻き、多くのメンバーが保身のために互いを陥れる。裂け目だらけの集団が、最後の抵抗すらできず蜘蛛の子を散らすように崩れていく。
荒れ果てたアパートの一室では、佐伯瑛太がスマートフォンを握りしめ、画面に映る逮捕者のリストを見つめていた。
「もう終わりにするしかないか」
うわ言のようにそれを繰り返しながら、過去の自分を振り返る余裕もない。あの夜、目の前で天野漆黒が血まみれになった場面がちらつくたび、歯を食いしばって床を殴りつける。そんな佐伯を横目に、相沢愁が落ち着かない声で低くささやいた。
「どうやってごまかすんだ? おまえ、天野さんの殺害を止めもしなかったんだろう。警察に捕まれば、共犯にされるぞ」
「わかってる…わかってるさ。でも、どこにも隠れる場所なんかない。逃げたら逃げたで、草加に殺されるか、警察に捕まるか……」
言い返すような力はもう無く、相沢もまた追い詰められた顔で沈黙する。外ではパトカーのサイレンが渦巻いており、ダークウェブでは「草加が最後のメンバーを売った」などという流言まで漏れ伝わっていた。
草加洋介自身は、血の付いたナイフを処分したあとも興奮から抜け出せずにいたようだ。天野を殺した手応えを「神の選定」と思い込みたい一心だが、裏社会の資金も尽き、仲間も散り散りになった今、ただの暴力犯として追われる現実にぶち当たる。
「暗黒神がいる以上、俺は捕まるわけがない」
そう呟いたところで現実は無慈悲だ。ネットカフェで息をひそめた瞬間、捜査員に踏み込まれた。SNSでは「暗黒神の後継者、あっさり逮捕」と揶揄され、草加に憧れていた少数の信者たちも失望や怒りをまき散らしている。大半は茶化しのネタにしかしておらず、カルトはもはや誰からも真剣に崇拝されていない。
そこから先は早かった。草加が拘束されたことで、彼に従っていたメンバーや蛇炎ノ禍・黄昏ノ血宴の関係者が芋づる式に逮捕されていく。相沢も佐伯も、あるいはユリカすらも、殺人や放火、爆破計画にどこまで関わったかを徹底的に追及される。とくにダークウェブのやり取りは証拠として残りやすく、あらゆる“黒い取引”が露見していく。どこに属していたかを問うより、どんな凶行を指揮または実行したかが法廷の争点となる。
「脅されていた」「暗黒神が降りたから仕方なかった」「商業的に煽ってただけ」
そう必死に言い訳しても、裁判は冷徹に進行する。大量の写真と動画には血の儀式や放火の瞬間が鮮明に映っており、一部には殺人をほのめかす書き込みのログまで残っている。
「神? 破滅? そんな主張で罪が消えるとでも思っているのか」
裁判官や検察の声が突き刺さり、傍聴席にはメディアのカメラが並ぶ。血と狂気にのめり込んだ若者たちが、その場であらゆる事実を暴かれていく。音楽だの芸術だのと言い繕っても、放火や爆弾製造といった数々の凶行が消え去るわけではない。草加は天野殺害を含む複数の罪状を抱え、実質的に終身刑に匹敵する量刑を背負う。護送車に乗り込むとき、まだ「神は見捨てない」とつぶやいていたものの、そこにかつての狂熱は感じ取れない。
逮捕と法廷での断罪によって、蛇炎ノ禍と黄昏ノ血宴の名は地に落ちる。カルトとして認知され、組織は解体されたと報道が流れるにつれ、人々の興味は目まぐるしく次の事件へ移ろっていく。あれほど闇の住人を騒がせたカリスマたちは、獄中や拘置所へ吸い込まれる形になり、もはや立ち上がる余地はない。
「ただの犯罪者集団だった」「ネットの妄言に踊らされた」
世間は口々にそう言い捨てて、日常へ戻っていく。けれど廃墟に染みついた黒いシミは簡単には洗い流せず、一度その音に魅了された一部の者たちが、ダークウェブの片隅で未練がましい囁きを続けている。
カメラのフラッシュが消えたあとの裁判所前では、取り乱した親族が泣き崩れる姿が見られる一方、一部の過激派が「暗黒神は滅びていない」と小さく叫んでいる。警備員が追い払うまでの短い間、最後の抵抗を演じる姿は痛ましい。
結局のところ、蛇炎ノ禍も黄昏ノ血宴も、崇拝を語る資格など持たずに瓦解したことが世間の見方だ。爆発的な闇の祭典は、法の下で裁かれ、残る者たちもひしめき合うように刑務所へ送られる。廃墟の壁にはまだ焦げ跡がこびりついているが、それをわざわざ見に行く者はいない。雨上がりの生ぬるい空気に溶けた血の記憶は、ただの過去の戯言として葬られそうな気配を漂わせている。
警察は「カルトの壊滅」を宣言し、メディアも騒動を締めくくる報道を行う。SNSは好奇の芽を出す者たちで一瞬だけ盛り上がるが、いつしか話題は新たな猟奇事件へ移り変わる。
破滅を謳った若者たちの結末は、警察と法廷を経て“犯罪”に分類される。崇めたはずの暗黒神イークト=ラマヴィスは、今や冷たい鉄格子の向こう側でしか語れない幻となった。闇にうごめいていた者たちは裏切り合い、その果てに自分自身を焼き尽くすようにして終わった。
残るのは、ひどく生々しい後味だけ。多くの血と哀しみを伴いながら、蛇炎ノ禍と黄昏ノ血宴は取り返しのつかない破滅へ沈んだ。今も廃墟の床には焦げ跡と赤黒い液痕がこびりついている。その光景は、闇を信奉した者たちが何も得られずに砕け散った事実を示しているかのようだ。
第9章:闇の残響
街を覆う鬱屈は一見かき消えたように見える。蛇炎ノ禍も黄昏ノ血宴も、警察の手で潰され、主要メンバーは裁かれた。廃墟に転がっていた血塗れの機材や、狂気を煽り立てる落書きは撤去され、壁を覆っていた警告テープさえ消え失せている。表向きには「すべて終わった」と言いたげな安堵の空気が流れ、メディアも新たな炎上事件へと目を向け始めた。
ところが、夜の底をじっと見つめる者たちがいる。SNSの片隅では廃墟での演奏動画をまだ所持していると自慢し合い、ダークウェブには未編集の放火映像や自殺配信の断片を売り買いする者がいる。誇張まじりの噂が新たに出回り、どこかで「イークト=ラマヴィスを再興する」と呟く若者が姿を消すように書き込みを残す。その多くはただの虚勢かもしれないが、なまなましい闇の匂いがまだ立ち上っている。
取材と称して草加洋介や他の幹部に面会を試みる記者が現れるものの、彼らが語るのは破滅を謳う歪んだ断片ばかりだ。過激なバンド活動がなぜ「暗黒神崇拝」に発展したのかと問われても、社会への絶望や鬱屈という曖昧なキーワードが飛び交うばかりで、具体的な答えは出てこない。尋ねる側も答える側も、目の奥に沈んだ漆黒を真に捉えきれないまま、会話は泥濘のように濁って終わる。
一方、いまだにダークウェブには重苦しい呼吸が残っている。草加や天野が自滅したあとでも、「未編集ファイルを手に入れた」「供物の再演を撮影する」と宣う投稿が時折浮上する。警察は「組織的再結成の兆しはない」と断言するが、その裏で小さな連帯を探り合う連中は確かに存在する。「神はいなくても、あの血と痛みがたまらなく官能的だ」と口にする者がいるかもしれないし、奇異なアート気取りで死の演出を持ち出す輩もいるかもしれない。
廃墟が燃えた映像を何度も観返した者は、そこに染み付いた詩の一節を忘れることができない。
「血に饐(す)えた 蛇の舌
深淵より這い寄る声
我が漆黒の瞼を裂き
屍より湧き立つ死神の息吹
イークト=ラマヴィス……」
天野漆黒が生み出した歌詞とされるが、すでにその由来はあやふやで、本当に天野の手によるものなのか誰も定かではない。けれど、一度でもその音声や映像を耳にしてしまった者は、不気味な呪縛のように脳裏にこびりついて離れないと言う。
結局、蛇炎ノ禍や黄昏ノ血宴が呼び寄せた破滅の衝動は、警察と裁判によって封じ込められた形になった。メンバーは長い刑に服し、ある者は自白の代償に仲間を売り渡して散り散りになった。しかし、不気味な火種はまだ底にこもっている。血塗れの映像や未公開音源を探る好奇心は尽きず、あの廃墟の燃え跡を夜中にこっそり見に行く若者もいる。そこで撮った写真をアップロードしては、SNSでいいねを稼ぐ者がいる。それを見た一部の人間が「まさかまだ続いているのか」と過敏に反応し、恐怖と興味が入り混じった言葉を残す。
世間から見れば、すべてが闇に沈んだ悪趣味なカルト事件でしかない。それでも、深夜の匿名掲示板には「闇を再燃させる新たな教義」が云々と書き散らすユーザーがいて、人々はそれを茶化したり挑発したりしている。おそらく何も起きないと思いつつも、血走った想像が背筋を冷たく撫でていく。かつての暴走を知る者は「あんな惨状にはもう二度とならない」と思いたがるが、踏み入れてはいけない扉の取っ手に手をかける者が後を絶たない。
破滅からの反響が遠のいた廃墟は、いまはただの廃材置き場にしか見えない。あの熱狂に加わっていた若者たちは獄中で後悔に苛まれるのか、それともいまだ“選ばれし者”を気取るのか。知る者は少ない。だが、廃墟に残った焦げ跡と呼び起こされる噂話が、耳を澄ます人間の心を確実にざわつかせる。誰もが日常の闇を抱え、その闇が破滅へ通じる扉になり得ると知ってしまったからこそ、あの惨劇に共鳴する者が絶えず現れるのかもしれない。
目の前にある現実が平穏に見えても、ネットやダークウェブの下層では、歪んだ興味がくすぶり続けている。激しい衝動を求める若者が、わずかなきっかけで再び血と放火の動画に惹かれるかもしれない。表面上は何事もなかったかのように人々が過ごす夜、どこかの画面の奥に「イークト=ラマヴィス」の名が浮かび、あの呪わしいフレーズが再生ボタンとともに鳴り響く可能性は消えない。
こうして蛇炎ノ禍と黄昏ノ血宴は、多大な犠牲と苦痛をもって表舞台からは消え去ったかに見える。けれど、その濃い影を覗きたがる指先は必ずどこかにある。扉をこじ開けるほどの力がまだないにせよ、人間の好奇と闇は耐えず繁殖する。闇を収束させたはずの街には、ほんの一滴の毒が警告のように息づいている。放火の痕跡はもう薄れ、血の汚れも洗われ、破滅を叫ぶ声さえ聞こえない。にもかかわらず、血塗られた蛇の邪神が夜の狭間でチロチロと舌を出しながら、ゆっくりと息を吐き続けている。