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真理を見通す眼と同胞について
以下は先程連続ツイートしたものを軽く修正したものである。
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まだまだ自分の世界とリアルの世界には接点が殆ど無いと思っている人がいるかもしれない。しかしそうではない。認識している時点で既にこの世界は自分の存在の一部分として機能している。ある意味絶望するかもしれないが逆に観れば、それは自分で自分から覆せる可能性を持ってすらいるとも言える。
何故そんな事を自分は考えるのかと言うと、自分の想念の根拠と実在する世界の根拠が実は全く同じところにあるからである。この部分が読み解けると、世界は自分が引き寄せたと言えるし、その根拠となる世界とは自分自身のことだと分かるからである。つまり自分が世界と1:1で関係性を決定しているのだ。
自分の仕業で世界がこうなっていると分かると、この世界が自分で思い描いた絵と同じところにあると判るだろう。それは自分が自分であるというアイデンティティ(自己同一性)の崩壊とも言える。自分が他者である可能性と世界が自分である可能性は不可分である。つまり分けられないという意味だ。
この世界と自分が同一である根拠は何かあるのか?と言うなら、それは見ている観測者が世界を作っているからと即答できる。真のビルダーとは他でもない自分の目と言える。神の目とは眼球ではなく松果体である心の眼のことだ。それは真理を見通す眼とも言われる。それはつまり心である。
心は次元を越えられる。何故ならば次元という概念を映し出しているのも心の眼だからである。心の眼を開くには物理的なものを見ようとしない方が分かり易い。それが間違いと言うのではない。心に投射されたイメージが物理法則のお陰としか認識しない盲目さを取り払う為に眼球を使わないで観るのである。
心を目と認識するには何かを思い浮かべることが、心の目でしていることと気付くことである。既に分かっている人には蛇足この上ない説明だが、心が目である認識のできない人が余りにも多過ぎる。心の存在すら信用していない人もいる。しかしそうではなく、それは自分がそう思っているのだ。
自分が自分でそう思う状態こそが心の目を使っている状態である。【心を使って思うこと】が真理を見通す眼の使い方だ。これができないと世の中を誤解して誰かにその様にされているとしか考えられない凝り固まった脳を自分の中に作り上げてしまう。それを物理的にそうしてしまうのが松果体である。
松果体が心を物理的に作用させていると見ることによって、心が動いたり動かなくなったりするのである。松果体はフッ素で石灰化すると言われている。フッ素は歯磨き粉やガムの中に入れられており、それを摂取する程石灰化が進んで、心が余り動き難くなるのである。石灰化は石化と一緒で化石化した心だ。
では心が無くなるとどうなるのか?心が無いと感じる様な横暴な性格になるのではなく、如何にも心が美しいかの様な理想的性格を心を使わずに演出する様な性格となるのだ。この意味がすぐに分かる人は少ないだろう。即ち自分で物事が感じられなくなって、人の感じ方や感受性をコピーした感じ方だ。
この状態が何かに似ていると感じられるならあなたはとても勘が鋭い。行動パターンがAIの様に機械学習した結果を出す状態と一緒である。そんな状態なら人間が人間である必要が無くなるのである。メタバースの餌食になってしまうのである。自分で道理を感じて自分で思って行動する心の眼が失われるのだ。
この表現は、社会的な理想像としての人間を目指す人々には理想的に眼に映るのかもしれない。しかしそうではなく、物事が自分では何も判断できなくなっているのである。自分の意思が必要ないので消滅し掛けているのである。心の重要性が見えない者に、心は必要ないと石屋から心を搾取されてしまうのだ。
石屋に心を石化されるのは、このくらい深刻なことである。陰謀を仕掛ける者に仕掛けられると見ている場合にはそれに一切気付けない。何故ならばそれを仕掛けてくるのは我々の同胞であって、為政者が仕掛けるのではなく同胞がエージェント(代理人)になって間接的に為政者のやり方を代行してくるからだ。
これは思い込みではなく『シオンの議定書』にそのやり方が懇切丁寧に記されているのを読めばすぐに理解できる。陰謀を陰謀としか見られないものの見方もコピーされた認識である可能性がある。我々は同胞に常に仕掛けられて仕掛けた彼らは悪として処罰されるのである。この意味の根本が分かるだろうか?
物事の根本を理解せずに同胞に罠に掛けられ、罠を掛けた同胞は悪として処分される。これが為政者のやり方である。これが分からないと我々はどこまでも味方を見殺しにしてしまうのである。ユダヤのやり方はそこが徹底しているのである。何故ならばユダヤは異邦人(異教徒)に容赦しない。人間ではないと!
勿論その様なユダヤ教徒の発想は少数派に見えるかもしれない。しかしそのユダヤ教徒が世界を席巻している場合には、少数が多数を凌駕するのだ。これらが現代人がこれまでの歴史で無関心故に、無頓着に過ごして来た代償を支払うことになっている。我々はユダヤ教徒に直接やられるのではない。
直接手を下さずに同胞の剣を差し向けさせて、自分達には一切それらの火の粉が降り掛かることがない仕組みを歴史の中で作り上げたのが事実である。昨今の大きな社会的騒動の殆どが、その様な形で石屋から攻撃されたものばかりである。お役割というには余りにもお粗末な自殺行為であるとどの様に伝える?
余りにも現代人がズレた判断をしているので、その解説をしているのだが、分かれば分かる程その深刻さは絶望的であると分かる筈である。自分で自分の首を絞めている図式が明らかになるのである。自分が敵だと思っている敵は元々は自分の味方である。そのことに気付かないとどこまでも自分の味方を疑う(失う)。