見出し画像

【この世界を自分はどの様に捉えているか】[2024年9月9日時点]

【この世界を自分はどの様に捉えているか】
[2024年9月9日時点]

自由とは
この世界をどの様に捉えるのかは「自由に捉えても構わない」と思っている。

しかしながら、この言葉に紐付いている「自由」とは何なのか、自ら十分に理解しているとは思えないのである。

そもそも自由とは「何から自由なのか?」が重要である。

何故なら、単に自由という場合には、その対象が何も定まらないからである。

しかし、自由とは「自由」と述べた時点で、「自由ではない」ことが前提となる。ここで「自由ではない前提とは何なのか?」の焦点を纏(まと)めて理解しなくてはならない。

記憶
私は、この大前提に於ける最重要点は【記憶】だと思っている。

この記憶に紐付いていることが、悉(ことごと)く全てに於いての「不自由」を生み出していると感じるからである。

この現世に於いて、自由を阻む記憶とは、人間に於いては、【ルール】と呼ばれる法律や習慣化された約束事など「ありとあらゆる場面での決まりごと」は確実に自分の行動を縛っていくのである。

そして、その約束事としてのルールを仕向けてくるのが、このルールに於ける「記憶」である。

ルールと言えど無数にあるが、あらゆる社会的に複合的な都合によって出来上がるルールは、私をあらゆる側面から、そのまま拘束するのである。

そこから自由になりたければ、記憶を消してしまえば、あらゆる縛りからは自由となる。勿論それだけでは短絡的故に本来の解決策にはならない。

ルール
では、この記憶内容の【ルール】とは何なのか?
この部分については誰一人同じ人はいない。

社会的ルール一つ取っても、先天的・後天的の両側面の環境が、どちらも同じ人は一人としていない筈である。これは社会的には「個性」と呼ばせている縛りである。

かなり捻くれた視点と思うかもしれないが、その人の個性とは、「どの様に社会から自分を縛らせているか?」の違いでしかない。

そうであるならば、個性的だと思う人格やその人の性格は、「どんな一個人の歴史が裏側にあるのか」がそのまま評価される部分でもある。

こんなに分析的に観ることは、あまり宜しくないのかもしれないが、実際には、その通りな筈である。その人の人と形(なり)を観れば一目瞭然なところもある。

不自由
さてでは、この「不自由」の本質をこの様に定義したところで、自由とは何なのか?を解説してみたい。

不自由が、「社会的ルールの環境的縛り」であるとするならば、自由とは、「本来ならどの様な部分から全てが自由であるのか」を知ることから始まる。

それは自分としては「何をしても構わない」状態を指す。勿論これは社会的に観れば単なる【放縦】つまり「何の規律も無く勝手気儘に振る舞うこと」である。生まれた赤子がそのまま振る舞う状態が社会的には最も自由であることに近い。

自由の真似事
とはいえ、人はいろいろなことを不自由から学び取り、不自由から学んだことを使って自由の真似事をしているのが、この不自由な社会の本質だと私は表現できる。

「自由の真似事」というのは、決して侮蔑的な表現からではなく、常態的な本質を見抜いた上での観察から得られた表現である。

これは、社会のせいにする訳には、いかないものである。そもそもが不自由に慣れさせる教育が施されている上でのルール作りがある訳だが、それはどういう方向性から「自由の真似事」ができるのかを散々分析した結果、多くの人々にある現状があると観ている。

では、この社会には、ざっくりと「どんなルールがあるのか?」を見てみたい。

・ワザと間違った修正的歴史観(捏造を含む)
・地理的詭弁
・あると喧伝する宇宙論
・何よりもお金で全て解決できると思わせる経済
・何一つ自由を許さない法律
・ガス抜きと称する下らないエンターテインメント
・破壊するべき自然界と思わせる工業の隆盛
・農業の破壊
・多様性という詭弁
・分かり易い産業ヒエラルキー
・何の発明・創出も許さない質量保存の法則
・神という幻想を与える宗教の数々

これらは逐一不自由の為に関わらせる社会が作り上げた前振りとしての神仕組みである。

自由の解除
ではこれらが解除になると何ができる様になるだろうか?

答えは「何もできない」

である。

自由を味わったこともない人々が何も創り出すことができないところで、今まで「自由の真似事」しかさせて貰えていないのに、一体何ができるというのか?

不自由の産物
ガチガチの不自由の産物であるコンピューターは、不自由だからこそ動いている仕組みである。何故なら1と0しかないのだから、自然界の真似は無理である。

自然数(笑)という名のデジタル化された記号としての数字は、整数の段階まではコンピューターで扱えるが、自然界の【無理数】は何一つ扱えない。例えばπは∞に続く。全部浮動小数点何桁…という近似数しか扱えない。

これは最新の量子コンピューターを使っても効率的な、より数えられない程のたくさんの近似数しか扱えない仕組みなのである。デジタルとは何か?これはスイッチのオン・オフの機械的計算が全てである。

コンピューターでは「真似事ができますよ」という大きな枠組みであると知れば十分である。

これも柵である。

氷の壁
南極は円いという意味をフラットアースは説くが、この視点は我々を取り巻く「氷の壁」という柵が南極であることを説いている。

ある意味に於いて、この視点はとても正しいのかもしれない。社会的枠組みと、南極もしくは国連の旗🇺🇳は、実際の社会の捉え方を暗喩しているとも言える。

それはそれとして、私は「この世界はダメだ」とかそういう駄目出しの為に、この文章を作っている訳ではない。

どの様に、この世界を捉えられるのかを基軸にしているのであって、その上での自由がどんな風に表現できるのかを示しているだけである。

「こうした方が良い」とか「こうするべきだ」などの不粋な発言はしない。

それこそ自分は「自由になりたい」と言いながら不自由に丁重に護られていることを公言する様な行為に他ならない。その為にプロレタリアートという言葉も準備されている。無産階級もしくは資本主義に於ける賃金労働者と訳される。

●霊的視点
ではここからは、自分の最も特質を活かした霊的な視点からの発言をしておきたい。

先ず、では自由な状態となると何ができるかという部分についてを説く必要がある。

自由とは、「不自由からの解放」が前提となるので、この世界からは拘束されることが無くなるのである。

つまり、霊体は肉体に拘束されることも無くなるので、どんな場所にでも思った時に瞬時に移行できるのである。

それは夢の中での自由と大差ない状態である。

ただ夢とは、この世界の中にまだ拘束されているので、この拘束から解けないと本質的な自由が味わえない状態にあることも含みおく必要がある。

では自由とは、どんな状態かというと、何をしても許される程に自由が常態化した世界である。

これを天国とか神代とかと表現することもできる。

しかし、その本質は、もっと自由が普通となると、そのことが当たり前に変化して、全て素晴らしいと感動するのは最初だけであるとも言える。

そもそも人の魂は、その完全なる幸福状態に慣れ過ぎて、感動が得られなくなった為に、この世界に幽閉されたとも言われている。

知恵の実
アダムとエヴァが蛇から「知恵の実」としての🍎を貰って食べたら、いきなり知恵が湧いて裸の身体が恥ずかしくなって服を着る様になったと言われているが、その状態は記憶を残す様になったことを表しているのだ。

その後、エデンの園から追い出されて、来たという話になっているが、これは現在の私達が「この世界に囚われに来ているのですよ」と教えられているに過ぎない。

だからこその聖書は預言書ともなっているが、最初からこうなると分かった上で招かれた客の様な存在が今現在の私達と言えるのである。

この話は、アダムとエヴァだけでなく、日本神話のイサナキとイサナミも同じ話を焼き直したもので焼き直したのは聖書側である。

元々は『竹内文献』に掲載されていたものが出て『古事記』にも載っているだけである。

まあ「そんな訳あるか」と思う人は、そのままそう思っていて構わないと思う。私は、そこは詳細を調査した上で述べているので、あとは、それをどう思うのかは、読んだあなたが自分で判断すれば良いと思うだけである。

どこまで書き込めるのか分からないので、そろそろこの辺りで締めて筆を置こうと思う。

sydneyminato

いいなと思ったら応援しよう!