愛しの「もとさん」
もとさん(今20歳のうちの娘)は私のことを小さい頃から「ちづる」と呼ぶ。なぜそう呼ぶようになったのかはっきりしないが、いつの間にかそうなっていた。しかし「ママ」や「おかあさん」と呼ばれず「ちづる」と呼ばれることはある意味、私たちの関係を象徴している。
自分を含めこれまで会ってきた人から考えると、育てられ方や社会通念が影響しているのだと思うが、日本の、特に女性は自己肯定感が低く、たとえ自分がきちんと扱ってもらえなくてもそれに抗議できない人が多いような気がする。私もずっと低い自己肯定感や自分を愛せないことに苦しんできたため、もとさんには私のようになってほしくなかった。
そのため、もとさんを育てるときに心理面で心がけていたのは
・ただ「無事に生まれてきてくれてよかった」という気持ちを忘れずに、多くを求めない。
・愛情を出し惜しみしない、態度だけでなく言葉でも毎日伝える。
・頭ごなしに叱らずに、まず子どもの言い分(そうした理由)を聴く。
・子どもの意見を否定しない。
・変に子ども扱いしない(変なところで甘やかせすぎたり、どうせわからないからと適当にごまかさない)
・私がまちがったり、言い方がきつくて傷つけたりしたら、きちんと謝る。逆の場合は謝ってもらう。
・もちろんほめることもするが、それを子どもにとっての賞罰として親の意向に沿うように利用しない。そのためには、何かができたからほめる、できないからほめないというのではなくて、「何ができようができまいが、愛しているしあなたの存在自体が私はうれしい」と常に肯定する。
・どんな小さなことでも、子どもがやってくれたことにはきちんとありがとうと言う。
・本人の意思を尊重する。
もちろん、毎回全てできたわけじゃないし、何度も失敗してそのたびに反省もしてきた。しかしもともとあまり大人や子どもはこうあるべきというような考えもなかったし、年齢が上だから偉いわけではないと思っていたので、もとさんと目線を合わせていきやすかった。
もとさん自身もこの「自分とちづる」というフラットな関係は楽だったらしい。でも年々、もとさんより私の方が反省することが多くなってきて、少し前からはもとさんに説教されることがある。しかも「わかった?もうこれ以上言わんけどね」と言って説教を早めに切り上げるあたりは私より上手い。説教は短いほど効果がある。
今はありがたいことに、もとさんは私より自己肯定感をしっかり持っているし、自分は大切に扱われるべきだとわかっている。我慢することもあるが、嫌なことは嫌だと私よりちゃんと言える。心配性な私に横に「なんとかなるよ」と落ち着いていられる。それに「ちづるはもとさんのことほんとに好きねー」と本人が言うくらい私がもとさんのことを大切に思っていることをちゃんとわかっている。
しかし、こうやってちゃんともとさんと向き合おうとしてきた一方で、恥ずかしい話だが私は小さなもとさんにかなり苦労と心配をかけた。
自分がうつになるなんて思ってもみなかったが、それはやってきた。病院からは「入院が一番いいが、それができなければゆっくり休むように」と言われたが、まわりに誰も助けてもらえる家族や親戚がいなかったし、入院どころか仕事を休めば即、収入がなくなるので休むわけもいかなかった。
抗うつ剤を始めてからは、とにかく1日フルで起きていられず、まずは朝、なんとかもとさんを学校に送ったあと仕事に行って12時までとりあえず働き、昼休みに車に戻って眠り、また夕方までなんとか働いて、その足でもとさんを迎えに行き、お弁当を買って帰ることで日々をしのいでいた。
しかし、帰ってからもうその日のエネルギーはほとんど残っていなくて、すぐ寝てしまっていたと思う。一番うつがひどかった時は、ご飯も、もとさんの相手もちゃんとできてなかったと思う。思う、と書いたのは実は、その頃のことをあまりはっきり覚えていないからだ。どうやってふたりきりで生きていたのだろうか。
でもひとつだけはっきり覚えていることがある。
以前に、買ってきていた瓶詰めのフルーツシロップづけを一度、私が開けようとして開けられずにそのままにしておいたことがあった。私はすっかり忘れていたが、ある日、目が覚めると、もとさんがそれを自分で開けて食べたようで空になった瓶が転がっていた。
当時、6歳くらいだったもとさんは、ナイフを使ってテコの原理でその堅く閉まった蓋をこじ開けていた。そんなことを教えてもらってないだろうし、小さいなりにいろいろやってみたんだろうと思う。開けるまでどれくらいかかったんだろうか。
その間、もとさんは私を起こさなかった。きっとそれはもとさんの私への優しさだったんだと思う。もとさんはそういう子だった。ひとりで必死に開けたんだろうなと思われる空の瓶。どれだけお腹が空いていたんだろうと思うと本当に心がつぶれそうになった。自分の不甲斐なさと、もとさんの健気さに涙がでた。
あの時期、死んだように寝ているか泣いているかの私を見て、他に誰もいない部屋で小さなもとさんはどれだけ不安だっただろうか。この頃のことを考えると今でも、もとさんに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
その後、幸い抗うつ剤がだんだん効いてきた。日毎に6時、6時半、7時と徐々に布団に入る時間が遅くなって、最後は夜10時や11時まで朝から起き続けられるようになっていった。それに伴い、もとさんとの生活もだんだん取り戻し、普通になっていった。もちろん、その後も紆余曲折あるが、それはまたの機会に書こうと思う。
しかし、このいちばん暗い時期の経験や私が必死に働いても経済的にそんなに楽させてあげられなかったことなどで、もとさんは早く大人にならざるをえなかったんだろうと思う。
あれから14年。
あの頃、周りは暗闇だけで先なんて全く見えなかったし、ちゃんと働けるかさえ不安だったから将来ふたりでオーストラリアに来れるなんて思ってもみなかった。だから、今こうやってふたりでここにいられることはとても感慨深いし、ありがたい。
もちろん、ここでも私が稼げていないし、まだもとさんには苦労をかけているけど、あの頃に私を覆っていた闇はもうないし、また明日もがんばろう思える。
これまで私は決して良いおかあさんではなかったと思う。でもこれからも、もとさんの「ちづる」としてそのままのもとさんを応援していきたい。
こんなえらそうなことを言ってると「いやいや、私のほうがちづるを応援しているよ」という、もとさんの声が聞こえてきそうだけど。
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