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遺書

今日は9/1
夏の終わりとも言える季節になってしまった。
やっていたバンドは活動休止、待ち構えるのは受験勉強。思えば1年前は何もかも失っていた。ずっとひとりぼっちだった。何度も命を断とうとしたし、死んでも良いって心の底から思っていた。
それでも僕は、気まぐれでバンドを組んだ。たしか9/23とかそこらへんだったと思う。どうせすぐ解散するかゆるく続けていくんだろうなと皮肉った感じで続けていたバンドはなぜだか本気で打ち込むことができた。不思議なくらいに。このメンバーならどこまでもいけるんじゃないかとさえ思えた。
続けているときっとそんなことはないはずなのに、ひとりぼっちになるのが怖くなっていった。

ひとりぼっちになりたくなかったから、曲を書いていた。

でも案外ひとりぼっちっていうのはすぐ近くにあるもので、家の部屋に1人になったりしたときにふとした時に顔を覗かせてくる。僕は一体どうしたらこのひとりぼっちから抜け出せるのだろう。そう思い始めたのが今年の4月ごろだった。4月といえばバンドの解散騒動とかもあった気がする。たしか今日ジョージロックで優勝した三節棍と初対バンをした月でもあるな。ジョージロックでもカッコよかった。

自分のバンドが自主企画をしてからは、それはもう夢のようなライブばかりだった。このバンドは売れる!となにか確信めいたものまで感じた。でも、僕らは8月で活動休止することが6月あたりから決まっていた。8月終わったらどうなるんだろう。とぼんやり考えていたらあっさりと過ぎ去ってしまった。

九月になって思うことは漠然としたひとりぼっちだった頃のあの感覚だった。何かしないといけないような焦燥感なのか何もしていないことへの羞恥心なのか自分のレールを示すものがないことへの恐怖心なのか真偽は定かではないけれど、なんだか心が不安のふた文字で満たされていた。tetoの「九月になること」を聞いてもなにも前を向けなかった。

ひとりぼっちだった頃の自分が決めていたこと、「2024年の4月に死ぬ」ってことは叶えられなかった。だって死なない方が夢を見られるから。でも現実はそう甘くなかったね。躁鬱を患ってしまうし、うまいこと曲は作れない。そうこうしている間に同年代のバンドはどんどん上へ進んでいく。
だから今日、ひとりぼっちになってしまうことがわかってしまった今日死んでしまおうと思ってしまった。


それでも希望を差し示してくれる貴方が、この文章を読んでくれている貴方が、俺の作る音楽を好きだって言ってくれる貴方が、僕の生きる希望でした。ありがとう。



そういえば、友達に緩やかに生きるんだよ。って言ったことを思い出しました。緩やかに生きるってなんだよ。わけわかんねーよ。でもさ、惰性で日々を過ごしてたらそれもわかるようになるのかもしれないね。

楽しかったよ。ありがとう。
ひとりぼっちだった頃の何も持っていなかった頃の僕が今の僕に宛てた遺書になります。

読んでくれてありがとうね。

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