家事権とは。⑵
※こちらの記事は2020年7月からキタハラの過去のホームページに掲載していたものの転載です。食洗機使ってたのかな、この頃。心配になる。
終わりなき家事の中で生まれる問い
朝起きて、洗濯物回している間に着替えて、精米して米を炊いている間に乾いた洗濯物を畳む。
うっかり昨日は寝落ちしてしまったから、より強固に汚れの付着した洗い物達が流し台で僕を待っている。
39℃に設定されたお湯を垂れ流しながら、洗い物達の汚れを手荒く削り落としていく。
気がつけば時計の針は5時半をさしている。下手したら娘が起きてくる時間になってしまった。
スタートは4時だったはずなのに。
徒労感が伴うのは、この日々の家事という営みに「終わりはない」からだという認識があるからだ。
「やべっ」
と、一人声をだす。そう、やばい。この無限ループ感を家事に感じてきているときは、まずいのだ。
手を止めて、ノートを広げる。
『やらなければならないことだからやらなければならない』
では、気持ちが保たない。
『家事で得られることって何だろう』
これを考えないと、脳がやられる。
結論:家事で得られる利益とは、私の快適生活を作れるということ。
結局この部分なのかな。
洗濯物をある程度ためて、一気に洗濯・乾燥しておくこともできなくはない。
けど、そうすると汚れは落ちづらいし、下手したらこの時期カビるし、臭くなりやすい。
臭くて汚れた服を着て外出しても、不快な気分がどこかに残ってしまう。
コインランドリーに駆け込めば、乾燥は一気に出来るけどお金がかかる。
コインランドリーにお金を吸われる回数が増えると、「このお金があれば…」とさもしい思いが生まれてくる。
だから、定期的に洗濯・乾燥をすることで、僕は衣類に関する「快適」を保っているのだと思う。
洗い物も同様だ。僕はちょっとでも汚れが付着した食器類を使ってご飯を食べるのは不快に感じてしまう。
ご飯を美味しく食べるには、綺麗な食器が必要だ。だから、綺麗に保ちたくて洗うのだ。
暮らしに関する営みをするのは全部そう。
僕の生活を快適に保つためだ。
前日のゴミ出しを忘れた土曜の朝は、臭いを放つゴミ袋が視界に入り大変不愉快な気持ちになる。
この不快感は日曜・月曜と二次関数のグラフのように倍増していく。
ゴミの臭いのしないすっきりした空間で過ごしていたいから、僕はゴミ出しをする。
でも、僕の快適と妻の快適、子どもたちの快適は違う。
そう、問題はそこにある。僕は一人で生活をしているわけじゃない。
妻と子ども二人がいる。だからこそ、「家事」はちょっと複雑な様相を呈してくる。
自然に鍵をかける場所が、僕と妻では違っていたように、家族全員「快適」のポイントは微妙に違っているのだ。
妻は僕より清潔好きで臭いに敏感。
臭いと汚れを落としたくて洗濯機内にお湯を入れる混合水栓を導入したほどのツワモノだ。
だから、僕の雑な洗濯の仕方だと、彼女の快適ラインを守れないことも結構ある。
一方で僕は敏感肌だ。
風呂の浴槽の汚れ具合を細かく感じ取ってしまうものだから、疲れた妻が風呂を入れた時の「シャッと洗い」にはどうしても不満を感じてしまう。
鍵をかけてないわけじゃない。洗濯をしていないわけじゃない。風呂を洗っていないわけではない。
でも、僕・彼女が求める「快適」ラインとは違っている。
だから疲れてきた時「んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん!」心の中で不満がたまってしまうのだ。
この、快適のすれ違いを「互いの落とし所」に持って行くまでは不満はくすぶってしまう。
ここを越えないと、「家事で得られるもの」は得られない。
「家事」の難しさはきっと、ここにある。
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