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槇文彦とアソシエイツ: 個人であること、仲間であること。そして「独りのためのパブリックスペース」

槇文彦さんが令和6年6月6日に逝去された。1928年生まれ。95歳でした。

槇さんの建築論を論じる前に、自分の1995年から2002年までの、7年間という限られた間、槇総合計画事務所(MAKI AND ASSOCIATES、以下 槇事務所と記載)で所員として働き、槇さんの働き方の一端や、そこに見える建築論に触れた経験から考えたことを書いてみたいと思います。もっと若い頃からご存じの諸先輩や、後輩たちはまた別の体験をされていると思うので、あくまでも山代個人の経験に基づくものであることをお断りしたいと思います。また、尊敬すべき偉大な建築家ではありますが、槇事務所では徹底されていた、目上でも目下でも、相手を「さん」付で呼ぶスタイルで「槇さん」と書かせていただきたいと思います。

槇建築との出会い

自分が一年間の浪人生活を経て島根県出雲市から東京にやってきたのは1989年の春でした。バブル景気の最中であり、全てのものが輝いて見えました。東京大学の駒場キャンパスに通っていたので、遊び場は渋谷が一番便利でした。しかしながら、自分には渋谷の雑踏は刺激が強すぎ、青山や代官山といったファッショナブルでありつつも、もう少し緩やかな空気が流れている場所の方が心地よかったことを憶えています。流行の先端の空気を感じられるのに、なにかゆったりとした空気が流れている代官山のヒルサイドテラスもお気に入りの場所でした。

そんな大学生活のなかで、1985年に竣工しオープンしていた青山の「スパイラル」は、お気に入りの居場所でした。授業の後、駒場から渋谷を通り抜けて青山へ。そしてその先はその日の気分で表参道に出たり、外苑に抜けたりといった散歩コースの中で、スパイラルは格好の休憩スペースでした。お金のない大学生にとって、スパイラルのエスプラナードにならぶマリオボッタの椅子に座り、青山通りを行き交うファッショナブルな人々を眺めるのは、単に足の疲れを癒す以上の楽しみでした。時には長い時間本を読んだりして過ごしました。

その後建築学科に進み、大野秀敏先生のもとで建築を学びました。大野先生は槇さんの事務所の元所員であり、「見えがくれする都市」の執筆にも参加され、東京大学での助手も勤められた建築家でした。学部の卒業論文生時代、そして大学院修士課程にはいろいろなことを勉強、研究しましたが、大野先生の教えを通じて、槇さんの都市観や建築観に触れることも重要な学びでした。卒業論文を「江戸東京の橋詰空間の変遷に関する研究」としたのは槇さんを含めての東京論の影響でした。その後、修士論文のテーマを決めるにあたっては、江戸東京の中核部の話しをしたとしても、槇さんや大野先生に論をぶつけたとして「いや、東京はこういうものなんです」と言われた時に言い返せるだけの十分な肉体化した経験が自分にないと感じ、テーマを都心や田園都市ではなく、遠郊外とし「郊外ロードサイドショップの表層領域に関する研究 : その1 国道16号線の場合」と題した論文としたのでした。そのように主に書籍を通じて槇さんの思想には触れていましたが、槇事務所でアルバイトをすることもなく、生の槇さんには会わないままでした。

そんな大学院生の頃、日本建築学会の学生部会のメンバーのひとりとして、建築文化週間の学生企画のリニューアルを担当し、1994年当時はまだ30代、40代であった小嶋一浩さん、妹島和世さん、内藤廣さんらにワークショップの講師をお願いすることにしました。学会のスタッフの方と講師をしていただくようにそれぞれの事務所に依頼しにいき、ワークショップのスタジオを指導してもらったことは強烈な体験でした。ワークショップを同世代の仲間と企画運営する中で、若い建築家のもとで建築を学びたいと思うようになりました。先の3人も非常に強い引力を感じる素晴らしい建築家でしたが、それまでも指導を受けていた大野秀敏先生のもとで働きたいとお願いをしました。しかしながら回答はNO。いまはちょうど良いプロジェクトがないということで落胆しましたが、大野先生から「槇さんのところで人を探しているということだから面接を受けてみたら」とお話しをいただきました。戸惑い、その場では返事ができなかったのですが、一晩考えて面接を受けてみたいとお願いしました。

槇さんが想定していた建築家たちよりずっと上の世代(とは言っても、槇さん当時66歳だったんですね、、失礼しました、、)であることに戸惑ったのですが、自分のお気に入りの散歩コースでいつも疲れた自分を癒してくれた場所はスパイラルであり、テピアであり、東京体育館の芝生広場でした。お金のない学生にも開かれていて、それでいて居心地の良い空間や家具に癒される感覚。人間として大切に扱われている感覚を感じられる場が、槇さんの設計によるものだったことに改めて気付いたからでした。

槇総合計画事務所での仕事

槇総合計画事務所での仕事は、驚くことが多くありました。自分が入所したころ槇事務所まだ八重洲のグリーンビル(コーセー化粧品のビル。いまは建て替わっていますが)にあり、中央通りの向こうにあった分室もありました。その後ヒルサイドウエストが鉢山町にできると、そこのC棟に引っ越すことになりました。国内外での打ち合わせや現場が動いているし、分室や別フロアもあるので、当然いつも槇さんと顔を合わせて一緒に仕事をする、という感じではありませんでしたが、出張などがなければ、槇さんとお話しをすることはそれほど難しいことではありませんでした。当時はそのことに何の疑問も感じませんでしたが、世界的に高い評価を不動のものとした建築家(山代は1995年に就職しましたが、1993年にはプリツカー賞を丹下健三に次いで日本人2人目としてすでに受賞されていた)でしたが、外部の委員会などの役職をほとんど引き受けられることもなく、できるだけ長い時間を事務所の中で過ごされていた槇さんならではのスペシャルな体制だったのだと今になって思います。

槇さんの方針で、各スタッフが担当する実施プロジェクトは同時にはひとつのみ。ひとつのプロジェクトに没頭できる環境でした。その分、ひとつのプロジェクトにアサインされると数年そのプロジェクトしか考えることができなくなります。一方で、時々はいるコンペやプロポーザルは別で、いくつかのプロジェクトからスタッフが集まって、槇さんを含めて議論しながら提案をつくっていきます。このプロポーザルの初期の打ち合わせが一番槇さんと近く話せるチャンスなので、忙しいながらに充実した時間でした。

仕事をするなかで様々なシーンを覚えていますが、自分にとって一番印象的だったのは、調布のスタジアムのプロポーザルの打ち合わせの際の槇さんの言葉でした。大きな体育館でしたが、市民利用もされるものということで、槇さんがスケッチを描きながら「こういう体育館では、子どもが競技や練習をしているのを、親が見守りに来て『お弁当を持ってきたよ』と話しかけた時に表情がはっきり見えて、声が届くくらいの距離感がいいんですよ」と、体育館のフロアと観客席の間の段差を描きながらお話しされました。1/2000くらいの小さなスケッチを描きながらなので、その線の段差は1ミリ、2ミリくらいのものですが、こういう大型の施設のことを考えながら、こういうスケールのこと、ひとびとの過ごす姿をイメージできているからこそ、スパイラルのエスプラナードの空間や、東京体育館の芝生広場など、人々の居方がデザインできるのだなと胸が熱くなりました。

槇さんと槇事務所

このような都市観や建築観は槇事務所の所員の中で共有されていたと思いますが、もちろん明文化されたルールやガイドラインがあるわけではありません。槇さんが使われる言葉で、入所当時なんと言われているか聞き取れなかった言葉に「ぼわち」というのがありました(他の諸先輩にはどう聞こえていたかわからないが、自分にはこう聞こえた)。これは「僕たち」のこと。槇さんが何かを判断する際に「ぼわちは、こうするんです」とか「ぼわちは、そういうことはしません」というように使われていたように記憶しています。例えば案を議論している際に、「自分はこれは良くないと思う」というかわりに「ぼわちは、そういうことはしません」というように(コンペの案だしの際に、自分が出した案に対して「ぼわちは、そうはしません」と言われると、自分はまだ「ぼわち」の輪に入れていないのかとがっくりするわけですが、、、)。槇文彦という個人の意見のまえに、槇事務所のカルチャーとはこういうものだよね、というように。

後年、槇事務所のOBOG会に出るようになってから、槇さんが「自分にとって最も重要なデザインプロジェクトは槇事務所であった」とお話しされていていました。建築作品だけではなく、槇事務所というカルチャーを大切につくられてきたということでしょう。新建築の2000年1月号の槇さんと磯崎新さんの巻頭対談「時代の中の建築家像 来世紀の建築家へ」の中で、磯崎さんが建築家の役割を映画監督に例えられていたのに対して、槇さん自分は小編成オーケストラのコンダクターだと言われていたことも印象深く覚えています。

そのように槇事務所という場を大切にされていた槇さんでしたが、槇さんと一緒にご飯に行くとか、ましてや飲みに行くということはほとんどありませんでした。時々スタッフとの食事会はありましたが、極めてフォーマルなもの。また国内外への出張でも、スタッフの誰かと一緒に移動するということはあまりなかったのではないでしょうか。海外出張へもスタッフや秘書を同行させることはなく、基本はお一人で移動されていたと思います(もちろん現地では一緒になるわけですが)。

自分にとって忘れられない思い出として、2016年4月に福島県二本松市で開催されたJIA東北支部福島地域会2016市民講座 槇文彦講演会「建築空間における歓びとは何か」にディスカッションのコーディネーターとして参加したことがあります。講演に先立って、槇さんから山代の事務所に電話があり、「山代さんも担当した二本松のセンターで講演をするので、一緒に行きませんか」と誘ってもらいました。槇さんから直接いただいた最初で最後の電話でした。

事務所の秘書さんと事前に相談し、東京駅からの同じ新幹線を予約し、東京駅のホームで一度槇さんにご挨拶し、別の車両に乗りました。その後、郡山駅のホームで槇さんと合流して、新幹線駅前でJIA東北支部の方と合流して、同じ車で二本松の会場まで移動。おそらくこういう移動パターンはよく取られていたのではないかと思います。

福島県二本松市の福島県男女共生センターにて。講演会の壇上で

槇事務所というカルチャーをつくるアソシエイツ(仲間)ではあっても、群れるわけではない。「孤独」を楽しめるような自立した個人、あるいは自律した個人。そんな個人がアソシエイツとして集い、ともにカルチャーを醸成する。そのような組織が目指されていたのではないでしょうか。

「独りのためのパブリックスペース」

自分にとっての、槇さんの最も印象深いテキストのひとつに「独りのためのパブリックスペース」(槇文彦 https://shinkenchiku.online/column/4560/?f)があります。テキストで触れられている東大での卒業設計合同講評会では自分も助教として運営や司会をしていました。

「都市の孤独という言葉は近世以後、多くの文学にしばしば現れる。その孤独とは決して「さびしさ」あるいは「ひとりぼっち」といった感情をさしているのではない。むしろ「群れる」というもうひとつの都市の本質の対極にある、都市に住むものが持つ根元的な欲求なのである」

「確かに集団としての精神の高揚を目指した意図からパブリック空間の歴史の始まりがある。そして建築をめぐる壮大な、内外のパブリック・スペースは建築史の中核を彩ってきた。
(中略)しかし都市のパブリック・スペースとはその場所、規模、性格のいかんに関わらず、独りの人間にとって、時に安らぎを、また時に感動を与えるものでありたいという願望は常に存在し続けているという認識を放棄してはならない」

「本来、パブリック・スペースとは人を集め、流す道具立てだけではないはずである。つくる側の、設計する側の、そしてそれを利用する人びとのこうした現象に対する批判能力が停止した時、われわれの都市から「優しさ」が次第に消失していくのではないだろうか」

「独りのためのパブリックスペース」(槇文彦)『新建築』2008年1月号

このテキストを読んだ時は、最初「孤独」という言葉がピンときませんでした。自分の頭には英語でのLonelinessが思い浮かんでいたからではないかと思います。しかし、槇さんの頭にあったのはSolitude(ご本人に直接確認したことはありませんが)。Soloを語源とする、自ら選び取る孤独だと思います。それは、自立し、自律できる個人。自分自身と向きあう孤独の大事さを解かれていたのではないでしょうか。

そのような個人が大切にされる都市空間、建築空間。人々のための居場所となる建築。そして、それを実現できるアソシエイツが集まってできる顔の見える組織。

書いていて、あまりに自分が何も真似できていないことに愕然としますが、すこしでもそれに近づければと槇さんの訃報に接し、さまざまな思い出を辿りながら、想いを新たにしました。

槇文彦さんのご冥福をお祈りいたします。

2010年のSDレビューに入賞した際に、決死の覚悟でお願いして、ふたりで撮った写真。嫌そうな顔をされるのがわかっていたので、、


(余談。「ソロキャンプ」のソロ。これはLonlinessなキャンプではなく、Solitudeなキャンプなのです、、、槇さんなら分かってくださったと思いますが、、、)

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