苦(dukkha)をなくすには?
私が、苦(dukkha)「苦しみ」「不安」がどこから来ているのかを観察してわかったのは、「一切が不如意である(一切皆苦)」という真実に気づいていなかったことが原因だということです。
我々は、思い通りにならないことには、怒ったりイライラしたり不快感を抱きます。
では、眠くなったり腹が減ることに怒りを覚えるでしょうか。イライラしたり不快感を抱くでしょうか。「それはしゃあない」と受け入れていますよね。当り前のことだからです。
四苦八苦もまた、当り前のことなんです。
生れた環境や生育歴をあとから変えようとしても不可能です。老いないことを期待しても無理です。病にかからないことを期待し、不死を望む、それは不可能なことです。
ところが、人はこの当り前の四苦八苦に対してジタバタします。
何とかならないものかとあらがい、怒ったり不安になったりします。
「如実知見」という言葉があります。「物事をありのままに見ること」で、如来にしかできないとも言われています。
しかし、「一切皆苦」というありのままの現実を受け入れることは、凡夫にも可能です。「苦」というとやはり漢字に引きずられますね。ここは「一切不如意」と言い換えることにします。
当然、「一切不如意なんてことはないだろう。目の前のコップをとることくらいはできるだろう」という反論が出るでしょう。
まあ、「一切不如意」くらいに思っておけば、いざという時にさらっと受け流せる、くらいに思ってください。
同じように、我々が普段から知っておくべき真実があります。
「諸行無常」と「諸法非我」です。
「諸行無常」とは、何事も永遠に続く物はない、ということです。これはわかりやすいですね。どんなに立派な建物も、いずれは経年劣化を起こします。会社や組織、教えなどもそうです。時代により環境により変化していきます。そして、諸行無常だからこそ救われる場合もあります。知己が亡くなった悲しみもいずれは風化して心をさいなまなくなります。
「諸法非我」は、「諸法無我」の古い漢訳です。諸法無我ですと、どこにも我という物はない、ということになります。諸法非我では、どんなものも真実に我といえるものはない、という意味になります。肉体が我が物なら、思うがままに走ったり跳んだりできるでしょう。しかし、運動していれば筋肉は痛み息はあがってきます。精神もまたしかり。朝起きたときは一日勉強をしようと決意しても、いつの間にかその決意を忘れて他のことをしてしまう、それが人間です。記憶違いに物忘れ。肉体や精神が真実に自分自身なら、そこまで不如意なもののはずがないでしょう。
そして先に述べた「一切不如意」。
この三つを合わせて「三特相」と言います。初期仏典には、「無常・苦・無我」が法印として多く示されています。字面に反して何も特別な相ではないのです。世の中の真実、当り前の事なのです。これらを見極める智慧を得ることで解脱(苦しみの連鎖からの脱出)・涅槃(心の安寧)に至れる、と。