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軽井沢、その前

去年の秋「軽井沢、その後」に行ってから、

やっぱり「軽井沢、その前」も書きたくなって、色々と引っ張り出し思い返していたら、調子にノリ過ぎて膨大な長さになってしまいました。

本当は最初に小4くらいの時、「鬼押出し」限定の人生初軽井沢があったのだけど、あまり覚えていないので、それは省略。実質的最初の「その前」は中学1年の林間学校でした。


【軽井沢1972】
ミズナラとコナラ

信越本線「中軽井沢駅」(現在はしなの鉄道)からバスで1時間余り。北軽井沢大学村の、静かな林の奥の山小屋みたいな山荘での2泊3日。

照月湖(現在は2019 年の台風の土砂崩れで埋まってしまってるらしい)へ散歩に行ったり大滝までハイキングしたり、近くの原っぱでソフトボールしたり植物観察してスケッチしたり。

「小さい葉っぱの方がコナラです。
じゃあ葉の大きい方は何でしょう?」と尋ねられて、当然
「オオナラ!!」
とキャッキャと騒ぐ中1達を
「違います!!ミズナラです!!!」とあわてて制する生物のおばあさん先生。

自然の中で、新しいクラスメイト達と思いっきりのびのびと楽しく過ごしたこの3日間で、
入学したての5月のまだ慣れない中学生活が、水を得た魚のように活気づいて調子にのってきた。

それはべつに軽井沢じゃなくて野辺山だとしてもそうだったかもしれない。
地元の中学へ行った友人の林間学校は甲州の「野辺山」だったそうで、
「星がすごくきれい!!」と、現地から感動の絵葉書きをくれた。

たぶん人生は、そういうたまたまの積み重ねだと思う。
私はたまたまこの時の軽井沢の、観光地でも何でもないカラマツ林の道と素朴な山荘での生活と浅間山の雄大な眺めが、それから何度か行った軽井沢の原点みたいになった。


【軽井沢1978】
ミルク色の朝

2回目の軽井沢は、高校を卒業したばかりの同級生5人で夏休みに、中1時代に行った山荘で10日間くらいアルバイトをした。
その時の話はオフコースのBGMと共にここに書きましたが↓

この時に初めて夏の旧軽井沢銀座も歩いて「ここは原宿か!!?」と恐れ入ったのと、でも林の中の景色は何となく懐かしくてうれしくとても心地よかったことと、
そして友達と過ごした今思うとすごく濃密で貴重だった日々が、また軽井沢を印象づけた。

そして、今でも台所で洗い物をしてると、ふとこの時のもっとどうでもいいエピソードなんかを思い出すことがある。それは、

私達は毎日50人分くらいの食事の後片付けを5人でしていたのだが、私の担当は食器の熱湯消毒だった。
広い厨房の流し台で、他の友人らから流れ作業で洗いすすがれ廻ってくる大量のお皿やカップなどを、まとめて金属性のカゴに入れて煮えたぎった湯の中にくぐらす、この一見楽そうな仕事が私の役目だったのだが、、

実はこの10日間ほどの滞在中、生活環境が変わったせいかベンピになる友達が多々いた中、私だけは快腸だった。

それは、
この時みんなは定位置を動かずにお皿を洗ったりすすいだり拭いたりしているけれど、私だけ重い食器の入ったカゴを持って熱湯のコンロまで2メートルくらいを行ったり来たり繰り返し運動し続けていたことが勝因なのでは?
とかなんとか友達に指摘されてはウケていた。

そんな他愛もないことに賑やかでそしてベンピがちだった私達に、山荘での調理担当を担っていた家庭科のK先生は、大きなボウルにグレープフルーツの絞り汁と牛乳を泡立て器で混ぜてササッと作った即席のヨーグルトドリンクをふるまって下さった。
おかげで、みんなもたちまち快腸になった。

私は、滞在中のみんなの恋バナにはなかなか入っていけなかったけれど、それでもこういう多分誰も覚えていないどうでもいいエピソードが楽しかったことや、
恋にウカれる?友に付き合ってミルク色の朝を見た思い出などが、今となってはあの朝露に光るカラマツ林の風景と共に大好きな映画の世界のように脳裏に刻まれている。

たぶん人生は、こういうどうでもいいこととウットリすることのたまたまの積み重ねでもあると思う。


【軽井沢1982 】
雨に消えた音楽会

3回目はそれから数年後、社会人になってから。
鬼押出し浅間園での野外コンサートに行った。

「浅間園」というのは、当時鬼押出しの火山博物館の展望台があった所だ。
周りにはスキー場やキャンプ場があり、そこで夏に開催されたのが伝説?の浅間アサップコンサートだった。
何が伝説かというと、話は長くなるので端折ろうかと思ったけれど、やっぱり書いておきたいので書きます。


1982年8月1日、第2回浅間アサップコンサート(アサップとは「活火山」という意味)。

前年の夏からここで始まった、この北山修さん企画のフィールドコンサートは、
地元長野原町の商工会や青年団などが一丸となって後援・協力する野外イベントだった。

私が初めて出かけたその年は、折しも台風10号の接近で朝から空模様が怪しく、
友達と2人で信越本線と草軽バスを乗り継いで会場の鬼押出し浅間園に辿りついた頃には、既に不穏な風雨が降りはじめていた。
でも私達は、更に現地で落ち合った友人達と盛り上がり、その日予約していたユースホステルをキャンセルしてキャンプに合流することになった。

台風が来てるのにわざわざテントに泊まることも、この時はみじんも不安と思わずに、
横川駅で買ってきた鶏めし弁当を展望台の屋内で食べて、午後3時の開演を待ちながらわくわくと浮かれていた。

やがて主催者側から、
コンサート会場を広い草地のゲレンデから急遽「火山博物館」の屋内に変更して、2部構成で行うことが発表される。
観客を半分ずつ会場に入れて、凝縮した内容で2回行うという。
あれは初めから雨天決行という企画内での、想定内の対応だったのか?
それでも長野原町長さんの挨拶はかなり緊迫したムードだった。
会場に入る際にはひとりひとりに缶入りのポカリスエットが支給されて(当時発売されたばかりのポカリは殆ど未知の飲み物で、味がしなくてオイシクナカッタ…)、
締め切った館内はスシヅメむんむん状態の熱気と緊迫感で異様に盛り上がり、台風がいよいよ接近している窓の外は更に荒れ始めていた。

出演ミュージシャンは、ナターシャーセブンと北山修さんという当時のフィールドコンサートではお馴染みの面々だったので、何が起きても大丈夫?な雰囲気はしていたけれど、
ゲストのひと組だけ都会的なハイファイセットだけが、そのサバイバルモードに少し退いていた感があったような…?


コンサートも、たぶん予定よりかなり凝縮した(端折った)セットリストだったのだと思うけれど、
北山修さんとナターシャーセブンが開演直前に急遽作ったという新曲「雨に消えた音楽会」を聴いて、エラく感動したのを覚えている。
その時にドーンと台風が直撃していなかったら生まれていなかった歌だった。

そして、こんな台風の荒れ模様の中に取り残されたような会場で、高石ともやさんの
「我々はもうここで生き延びるしかありません!」
というトークも飛び出すステージの最後に、ハイファイセットも一緒に全員でPPMの「パフ」を歌った。

ハイファイセットの「パフ」はさすがハイファイセットだなぁと思うような、
それはうっとりする素敵なハーモニーだった。
それにナターシャーセブンはどんな時にもどんな所でも、泥臭くも洗練された地に足のついた独自のエンターテインメント(どんなのだ?)でいつも楽しませてくれるので、不思議な安心感があった。

そんな、一種異様な高揚と通常より凝縮した盛り上がりの中、2回に分けて行われたコンサートは夕方6時ころには全て終わった。
私達は暴風雨の中を友人達のテントサイトまで行き、
「今夜はここでひと晩明かすのか…」
と、時化の海の船のようなテントの中で(実際に時化の海は知らないしこんなもんではないと思うけど、私は土産話でそう盛ってた)、
まだ半ばわくわくと覚悟していたら、
やがて更にもうひと組来ていた他の友人達が近くの民宿を確保したと聞いて、みんなでそちらに避難することになった。
賢明な選択だった。
友人達に感謝だった。

民宿のご好意によって、飛び込みにもかかわらず、私達は普段使われていない新築の離れの部屋で休めたおかげで、テントごと台風に飛ばされずにすんだのだった。
新築の部屋は、何故か雨漏りしていたけれど。

夜中に、
「今頃この上を通過してるのかな…」と想像しながら、窓や屋根に打ち付ける暴風雨と雷の音を聞き天井を眺め、
お布団が時々ポツポツと濡れるのを気にしながら、台風をやり過ごし、
翌朝は温かい朝ご飯が、、
とてもありがたかった。

宿の食堂では「あなたもアサップ!?」というお客さんが結構というか殆どで、みんな避難していたんだなぁと仲間意識が芽生えて楽しかった。

コンサート参加者はこれを首からぶらさげてたのですぐわかる

台風一過の空の高いところで、小さな雲が風にちぎれてクルクル回っていた。
キャンプ場に置いたままの友人達のテントを片付けに行くと(飛ばされていなかった!)、すぐ脇に白樺の木が倒れていて「ひゃ〜!」となった。

テントや荷物を干してその辺をみんなで散策した。その辺と言ってもこの辺は鬼押出しなのでどこも溶岩だらけ。
溶岩の隙間の土から高山植物が顔を出している。
そして、所々に噴火の際の溶岩避けのシェルターがある。

あちこちで白樺や樅の木みたいな木が倒れていて、誰もいない。キャンプしていた人たちはさすがにみんなどこかへ避難したようだ。
私達は誰もいない静かなキャンプ場の炊事場で、7人で持っていた食料を集めてお昼にしたりお茶を飲んだりして午後までまったり過ごした。

静岡へ帰る友人達の車を見送ったあと、残った私達も軽井沢駅まで出た。
でも国道はまだむちゃくちゃ渋滞しているし、碓氷峠を通る信越本線も止まっているので、駅前の国道沿いの喫茶店で時間をつぶして夜になってから、
千葉へ帰る友人達にそのまま同乗させてもらった。
東京まで車で延々8時間?くらいかかって、翌日初めての朝帰りとなる。

何だか色々ありすぎた2日間の忘れられない軽井沢だった。


【軽井沢1983】
鬼押出しは軽井沢

前年のリベンジ?で今度こそ全天360度の下、
ゲレンデの草地に座ってフィールドコンサートを堪能したい!と、
第3回アサップコンサートへ。

この年はバッチリお天気に恵まれ、今回は最初からシュラフ持参でOさん達(去年もお世話になった友人方)の広いテントにおじゃました。

コンサートは、特設ステージでの公開リハーサルから見られるという最高な展開で、その時に何回も聴いたのが、
北山修さん作詞、ナターシャーセブン作曲の「鬼押出しの歌」?(本当のタイトル不明)だった。
この歌は前年の新曲「雨に消えた音楽会」よりもマボロシで、あれ以来どこでも聴いたことがないし、音源も残っていないんじゃないかと思うけれど、
軽井沢といえば思い出すこの歌…

軽井沢だと叫んでみても
軽井沢じゃないとこだまする…
それでも…
あなたの来るのを待っています…

「鬼押出しの歌」(仮)歌詞はサビのこの部分しか覚えていません…

北山修さんは、鬼押出しのことを
「軽井沢とは呼ばれないかもしれないけれど、でもとっても良いところだよ」
と、歌っていたのかもしれない。
アサップコンサートのこともあえて「軽井沢のコンサート」と言っていたし。笑
だから私も、鬼押出しこそ軽井沢だと、ずっと思っています。


この年は、前年の嵐の中のサバイバルとは打って変わって、キャンプサイトで作ったチャーハンを食べながらコンサートを見るという優雅さだった。
そしてコンサートも念願のフルバージョンで見られたし、終演後のキャンプサイトでも色んなところから集まったお客さん達のギターや歌声が聴こえてくる楽しさだった。

私はこの時点で「もう絶対来年も来る!!」と決めていた、
のだが、、
次の夏はいきなり?妊婦になっていたのでやむなく諦めた。という人生。
これもたまたまのゆくえ?か。

でも、この「浅間アサップコンサート」というのはその4回目で終わっていたのですね。
その頃、浅間山の活動が活発になっていたためもあったのかと…。


【軽井沢1986】
鬼押出し橋

その後、群馬県六合村の「野反湖フィールドフォーク」というのが始まって、
その第1回目に娘づれで行ったのは、行けなかったアサップの2年後でした。

その時のフィールドコンサートの楽しさが2歳の娘に根付いたのかどうかはわからないけれど、長女は成長して「ROCK IN JAPSN FES」へ毎年行くようになったのも、たまたまのゆくえかな。
娘は覚えていないらしいが。

野反湖の帰りには、またあの浅間園のキャンプ場に一泊して「鬼押出し橋」という吊り橋の前で写真を撮った。
今ではその橋は立入禁止になっているそうだが、展望台はこの時点ではまだ健在だった。


【軽井沢2005】
鬼押出し園から見た廃墟

お盆休み、菅平高原で仕事をしてた友人を訪ねた時に、
旦那氏と成人した長女と一緒に寄った鬼押出し。
この時入った園内の遊歩道に、観音堂などがやたらと観光地っぽく立派に建っていて少々面食らった。こんなのいつからあったの?

なんか違う。ここは鬼押出し浅間園?ではないの?
しかも横にそびえる浅間山の中腹に、見覚えあるあの展望台があるじゃないの!!??
(廃墟に見えるが…)

え?浅間園の展望台があんな遠くに、っていうか、あんな上だったの??

でも、この時は深く考えもせずにただ、20年の時の経過に、
「ああ、あれから浅間山も何度か噴火していたので、古い展望台は火口にも近くて危険だから閉館してこっちに移転してきたのかな?」
…くらいに思った。
そして、浅間山を背景にその廃墟にしか見えない旧展望台の建物を買ったばかりのデジカメに収めた。

1982年に台風の中でアサップコンサートがあった浅間園の展望台を鬼押出し園の駐車場から見る(2005年撮影)


そして、

【軽井沢2023】
軽井沢、その後

直近の「軽井沢、その後」
に行ってから、いろいろと思い出したり懐かしんだり、Googleマップと昔のイラストマップを照らし合わせたり、浅間園の歴史を調べたりするうちに、

前回今回に見た観光地然とした「鬼押出し園」と、昔コンサートに行った「鬼押出し浅間園」とは、同じ鬼押出しの溶岩地帯にありながら、
もともと全然別物で場所も離れていて、民間と町営の違いもあって、道路も立体交差で繋がっていなかったとか、相互に案内が無かったとか、
色々出て来て、、
その後もそれぞれの歴史を歩んできていることがわかった。
そうか、そうなのか。

↑当時のイラストマップ
↓同位置の現在の航空写真

台風の中でコンサートがあった浅間園のあの地球防衛軍みたいな火山博物館展望台は老朽化のため、1993年に新火山博物館が建てられたあとは廃墟となり、その後2013年に撤去されたそうだ。

その新火山博物館も2020年に閉館した後は、浅間園は「浅間山北麓ビジターセンター」として、その周りには素晴らしい眺望のハイキングコース(ここも鬼押出し)やキャンプサイトが今もあるという。
鬼押出し橋は立入禁止で渡れないようだけれど。

う〜ん
今度「軽井沢、その次」てのがもしあったら、
観光地「鬼押出し園」の遊歩道よりも、やっぱりこっちの「鬼押出し」に行ってみたいと思う。
少しややこしいけれどやっとわかったから(こっちも観光地だけどね)。


現在ストリートビューを見ると、丁度2013年頃の壊される直前だと思われる展望台の姿が、1993年に出来た新しい火山博物館の後ろに霧に包まれてひっそりと見える。これは貴重な画像…。


時間が止まっていた軽井沢を辿っていたら、どんどん時間が進んでいた鬼押出しを追いかけてストリートビューの果てまで来てしまった。
今度はまた自分の足でこの先へ行ってみたいな。

…そういえば1番最初の覚えていない軽井沢が鬼押出しだったのも、たまたまだったのかしらん。。

鬼押出しはやっぱり軽井沢。
…嬬恋村だけどね。

以下、色々と参考にさせて頂いたサイトです。

【おまけ】
浅間園の所在地は嬬恋村なのに住所が長野原町となっているのは、町の所有地だからだそうで、益々ややこしい。
って、やっぱり軽井沢でいいじゃんという事に落ちつきました(個人の意見です)。笑