最後の花火#シロクマ文芸部
(1166文字)
夏は夜空に向かって歩いた
その街での最後の夏に
花火があがる川べりをめざして
20歳の夏は、育った街で過ごす最後の夏だった。
親の転勤でも自分の独り立ちでもなく、少しワケ有りの実家の転宅が決まって、住み慣れた土地を離れることになった8月。
そう言えば多摩川の花火なんて、もう何年も見ていないけど、この見慣れた街道沿いの街並みとも、もう少しでさよならなんだ。
「この街の最後に花火を見るのもいいな…」と思いながら、
私は郵便局の前の環状線を渡り、川へ向ってゆるい下り坂を歩いて行く。
星は数えるくらいしか見えないけど、目の前の空は広い。
この辺りには、小学校時代の同級生たちが住んでいる。
卒業以来、何度か集まったことがあったけれど、この街を離れてしまえば、もう会うことはないかもしれない。
親友というわけでもないけど、会えばうれしくて、きっと昔みたいにお喋りしてしまいそうなクラスメイトの顔顔が浮かんだ。
小学校の思い出には欠かせないみんなのこと。
でも、思い出は自分だけの思い出の中にそっと留めておいたほうがいいのかな。
誰にもその人の道があるから。
私みたいに、いつまでも昨日をズルズルとお芋みたいに掘り返して引きずって眺めて、ぼんやりと懐かしいスライドの中で遊んでたりする人ばかりではないよね。
でも、偶然会えたらいいな。
そんなことを思いながら、
懐かしい友達の顔を夜空に並べて描いていったら、川へ着くまでに空がいっぱいになってしまった(気がした)。
ある時間、ここの空の下には、たくさんの友達がいたんだよ。
今もまだ住んでいる人が何人かいるかも知れないけれど、
みんな、それぞれの道に別れ離れて行って、
みんな、自分の道を歩いているんだよね。
もし今、ふっと誰かがそこの曲がり角から出て来たら、
「やあ!」
と言って、昔みたいに話せるかな?
あの教室の後ろでふざけてた頃みたいに。
少し決まり悪くて、テレ臭くて、それでも思いっきり笑えちゃえば楽しかった時間を、思い出せるかな?
そしたら何を話すのかな?
話せたらいいな。
…
結局、その夜は知ってる誰にも行き合わなかったし、花火が見えたのかどうかの記憶も怪しい。
何故なら、どうもその年にはもうとっくに、私が小さい頃に見ていた多摩川の花火大会は、やや上流の方へと打ち上げ場所が変わっていたようだった。
私は川へ向って歩くうちに、花火も思い出の中の友達の顔も、一緒に夜空に並べて描いて、本物の花火を見た気になっていたのかもしれない。
多分、いやきっとそう。
それから30年くらい経った夏の終わりに、ふとラジオから流れたフジファブリックの「若者のすべて」を聴いたら、まるで自分の歌?みたいに思えて(おこがましい…)、、あの時見上げた夜空が一気に戻ってきた。
それから毎年この歌が流れると、
見ていない最後の花火をひとりで思い出します。