ワセダの夢
少し前、
ワセダ大学の架空のサークル「ひもの研究会」の部屋の前から「アジのひらき」を取って来る…というヘンな夢を見た。
何故ワセダなのかどうして干物なのか、その謎は今となってもますますどうでもいいのだけれど、、
(ひもの(干物)研究会の略称はひも研じゃなくて干研の方がカッコいいな…と、もっとどうでもいいことも今思いついた)
現実のワセダについてはちょっとだけ、今でも何となくひっそり紐解きたい思い出がある。べつに封印しているわけでもなくて、思い出し始めると止まらなくて長いです。
(どうでも)よかったら読み飛ばして下さい。
ユメノハナシではなく現実の「夢」だった話です。
もう何十年も、ワセダと聞いても心はほとんど動かなくなっているけれど、実は胸の遠い所が少しクヮーンとなる。
私はその昔、ワセダの受験生だった。
受験生になら誰でもなれる。
そして大部分は落とされる。私も落ちた。
バリバリ不合格者代表みたいに落ちた。
先日、なんと当時の受験票が出て来た。
他の大学のものは(合格したところのも)捨ててしまったのに、ワセダのだけ何故か取ってあった。未練がましかったのか?
そんなに行きたかったのかといえば、そうでもなくて、いや、そうだったんだけど(ハッキリしろ)ただ憧れていただけかもしれない。
憧れは誰もが、別にワセダに限らずとも抱いていい。
でも、
「憧れるのをやめましょう…勝つことだけを考えて…」と言ったのは、
かの大谷翔平さん。名言です。
大谷さんにもっと早く生まれて来てほしかった…。笑
私は憧れるだけでもっと頑張らなかったので夢で終った。
とてもわかりやすい。
っていうか全然次元がちがうと思うけど。
もう50年近く昔の話だし、反省も後悔もないお茶のみバナシだ。
とっくに捨ててしまったと思っていた受験票を見つけたら、胸のクヮーンが少し密度を増してキューンとなった。
思い出し大会が止まらなくなりそうだ。
高2か高3のある時、雑誌「ビックリハウス」を読んでたら、
早稲田大学一文2年Jクラスの○○○○さんという人の、
「今、クラスでは『飛翔』という同人誌を作っています、云々…」
という投稿記事が、彼女がキャンパス内で傘をさしバインダーを抱えて立っている写真と共に出ていた。
ビックリハウスには、こういう巷の無名の人々の記事や人気投票がふつうに載ったりする。
それを見て、私はワセダに行きたいと思った。
石膏デッサンに挫けて美術部に行き詰まった頃かもしれない。
ー私もワセダに入って友達と同人誌を作りたいー
その頃、私が知った「同人誌」とは、文学史の教科書で習ったばかりの作家たちの経歴に出て来た。
「〇〇派から〇〇派の同人となる…」
この「○○(白樺など雑誌の名前)同人」という言葉がカッコよくて、
ー私もワセダで○○同人になりたいー
(何をエラそうに…)笑
べつにビックリハウスや文学史の教科書に載りたかったわけでもなくて、
その頃、ひとりで詩集とかエッセイみたいなのを時々作っていたので、友達と一緒にそんなことが出来るワセダは楽しそう…
と、漠然と憧れたのかもしれない。
同じ頃、
友人Kちゃんも、他ならぬワセダに熱い想いを抱いていて、彼女は、
「この温室のような女子校の狭い世界から出て、ワセダのように色々な人がたくさんいて、ぼんやりしてたら飲み込まれてしまいそうに広い海のような大学で勉強してみたい…」
という、
私よりも余程シッカリとした希望を語っていた。
夢見るところは同じでも、なんか根本的に違ってたような…。
志望校が決まっても体育祭や文化祭に燃えて?しまい、その準備に大半の時間とエネルギーを注ぎ込んでしまった高3の秋、私は高校生が集まるある真面目なイベントに参加した。
そこでワセダの付属高校に通う3年生と知り合って、彼らが有志で作った雑誌(同人誌)をもらった。
その学校では図書委員会でも文化祭に向けて雑誌を作っていて、
それは当時の人気DJかぜ耕士さんによって深夜放送で紹介されたりして私も知っていた。
どちらの雑誌も当時の週間漫画誌くらいの厚さで、手書きの手作り感満載で、中身には高校生達の等身大の青春がギッシリ詰まっていた。
女子校の小さな世界で過ごした6年間は、そりゃ掛け替えがえのない楽しいものだったけれど、外の世界にはまだ自分が知らない同世代がたくさんいるということを、当たり前だけれど実感した。とても新鮮だった。
そうか、私も高3なんだ、
そぉ言えば。
自分も残り少ない高3の日々を何かに懸けたい。
(受験勉強じゃないんかい??3年の秋だぞ)
折しも、体育祭実行委員と文化祭参加団体の活動はすでに始まっており、
私は休み時間や放課後に忙しく校内を駆け回っていた。
廊下の掲示板で、ふと他校の文化祭ポスターをみつけると、
「わたしも負けないぞ~!」
とかつぶやいたりして、気分はかなり青春していたと思う。
さらに、受験勉強以外のことをやりたい勢いで(というか触発されて?)私達も同人誌をつくろう!と友達数人を誘ったら、
みんな勉強の合間に文章や漫画を書いて来てくれて、レポート用紙ホッチキス止めのペラっとした創刊号ができた。
早稲田一文2Jクラスの『飛翔』にも負けてないかも…
と勝手に思い込んだ達成感と自己満足の極みみたいな、十数ページのペラっとした雑誌は、卒業特別号の4号まで続いた。
自校の諸行事が無事終ると、
Kちゃんと共にワセダの本校舎を見学に行ったついでに、はるばる上石神井の付属高と信濃町の国学院高校の文化祭まで覗いてきた。
国学院の落研の高座を見て、さだまさしさんの青春にも思いを馳せた私とKちゃんだった。
そして秋も深まりやっと私も本格的に受験勉強に突入するのだが(遅い)、、
結果から言って、私もKちゃんも第一志望のワセダには落ちた。
少なくとも私には自分の成績から考えて、第一に志望することさえおこがましかった。
記念受験?はい何とでも。
けれども、高3当時の自分なりの充実っぷりは結構気に入ってる。勉強への頑張りがいちじるしく足らなかったことを除いては…。
ワセダ(受験)に行く前に、「同人誌」も作れたし。笑
試験前日に、会場の西早稲田校舎まで1人で下見に行ったら、案内のお兄さん達(学生)が
「どこから来たの?」
「…○群?(高校のこと)」
などと聞いてきて、
「頑張って!」と情報カードみたいな小さな紙に試験会場までの順路を書いて渡してくれた。
そこは理工学部校舎で、私は文学部受験だったけれど願書をあえてゆっくり提出して会場がここになった。
理由はちょっとした気の迷いで、その校舎に1度入ってみたくなったから。
今思うと、どうしてそっちにしたかねぇ。
絶対、文学部キャンパスの方で受験すればよかったのに!!
こっちだってもう2度と入れないのに…。笑
試験当日のことと言えば、
すごく寒い日だったけどお弁当に母が作ってくれたジャムとたまごの萎びたトーストサンドがとても美味しかったのと、
隣の席の男子受験生が、新聞紙に包まれた四角いお弁当箱を広げるのを見て、そこにもヨソのお母さんの愛を感じたことと、
世界史がメチャ難しくて(モチロン国語と英語もだけど)こんな問題と互角に相まみえることが出来るには、どのくらい勉強すれば良いんだろう…周りのみんなはどんなに頑張ってきたのだろう…などと、要らんことを考えながら回答欄を埋めていったことと(埋まりきれなかったけど)、
迷路のような理工学部校舎の女子トイレの場所がわからなくて、結局最後まで行かずにガマンしてたこととか、、
それくらいしか覚えていない。
全ての試験が終わって、バスで渋谷まで戻り駅ビルのトイレに寄ってから家路についた。
合格発表は、文学部の戸山校舎だった。
キャンパスのあの長い道(坂道?)を、ドキドキもせず何故かシミジミしながら歩いて行った。
途中、劇団「木霊」と書かれた青い看板が見えたのがワセダっぽくて、束の間のワセダ体験?だったかもしれない。
張り出された掲示板に、あるわけ無いと思っていた受験番号はやっぱり無くて、
周囲の番号も飛び飛びでうんと離れているのがさすが早稲田だなと妙なところに感じ入った。
ちなみに、新聞紙のお弁当箱の彼の番号も無かった。
「ああ、同士よ…」と少しだけ思った。。
キャンパスのゆるい坂道をまた引き返しながら、充実した現実の夢からだんだんと覚めていったのか、
夢見てた時間がもう終わったと気づいたか、最初からわかっていた結果だと潔い気分だったのか、
もっと死ぬ気になって勉強すれば良かったと、この期に及んで悔やんだのか、、??
よく覚えていないけれど、
たぶん、全部が一緒くたにぐるぐるしていてよく分からなくて、
でもそれなりにスッキリしてたんじゃないかと。
それに、コマ切れになった一瞬一瞬を今もふと思い出すってことは、あの頃の時間も自分の成分となってまだどこかに息づいてるのかなぁ、と思う。
ご縁の無かったワセダのワの字くらいは、懐かしんでも良いかな。
後に、まさか「さだまさし研究会」なんぞが出来るなんて、夢にも思わなかった頃の、ワセダの夢。
ちなみに、私はすでに受かっていた短期大学に入学後、
新しい友人3人に「同人誌を作ろう!」と言って、またレポート用紙ホッチキスどめ回し読みのペラっとした雑誌を作った。
こっちは2号くらいで終わったけれども。
なんだかんだと言っても、
結局通って来たのは身の丈に合った道で、
そしていつも友達には恵まれました。。