「実行系」について、発達障害者における職業的訓練について、あるいはもう戻らない時間と壊れた身体について
これは次に出版される予定だった書籍のコアになる部分なのだけれど、最早次の本が出せるかわからない状況なので、ここで書けるだけ書いてしまおうと思う。
編集やブラッシュアップを経ていないので、些か言葉は足りていないか、さもなければ過剰になっているだろうけれど、書き散らしておけば誰かの役に立つかもしれない。
これは「理系」「文系」みたいなやつと合わせて「実行系」みたいな概念を持って鍛えるとすごくいいんじゃないかな、ってお話。
発達障害者、あるいは健常者の中にすら多いのだけれど、「他人のプランにケチをつけさせたら天下一品だけれど、自分では何一つ形にできない」みたいな人たちがいる。実際、「書籍を書かないか?」と打診されて結局書き上げられなかった才人、みたいなのは世の中にたくさんいて、こうなると「仕事をトバす」みたいなおっかない概念が出て来るから、不幸としか言いようがない。実際、彼らの「ケチをつける」能力は本当に高かったりするので、「この企画どう思う?」なんてコメントを貰う分には有益だったりする。ただ、世の中にそれで稼げる仕事はほとんど存在しないというだけで。
もちろん、そういうことは誰にでも起こり得る。やれると思った仕事に手をつけたら出来なかった、SNSにはあまり書かれない「よくある話」だ。だから、そんなことが一回や二回起きたくらいで人生を悲観する必要はないし、反省して次の打席に行けばいい。資本主義は、究極的に言えば500回三振して最終的にホームランを打って100万点入れた奴が偉いルールなので、「よくある失敗」はただ反省して繰り返さない努力をすればいいと思う。ここに書くのはそういう話じゃない。結局のところ、チャレンジなんてのは大方失敗するし、だから成功者がチヤホヤされるのだ。企画書が形になってセールスに結びつくことなんて、実のところそうそうない。それはそれで世の中の成り立ちがそうなっているということで、仕方がない。
例えば、ラーメンについて。
ラーメンの歴史や成り立ち、化学的組成や調理における科学的裏付け、そういうことを学ぶのは大事だと思う。すごくざっくりした話だけれど、前者は文系、後者は理系の範疇になるだろうか(たぶんならないけど、あくまで例ということで)。小麦にアルカリを加えるとモチモチした歯ごたえが出て、中華麺とうどんの差はここから生まれる。そういう知識がなければ製麺は出来ない。中華の技法と和食の技法、最近だとフレンチの技法なんかも取り入れられているし、家系から二郎まで時代におけるトレンドというものもある。そういったコンテクストを学ぶことも、美味いラーメンを作るためには大事な要素だ。
ところで、実際に麺を打ったことがある人ってどれくらいいるんだろう?
もちろん、普通に考えればラーメンが食べたければラーメン屋に行けばいい。麺が欲しければ製麺所から小ロットで注文すればいい。ラーメンみたいな大量調理が前提になる料理は(料理コラムでレシピなんて出しておいてなんだけれど)、自宅のキッチンで作るにはあまり向いていない。だから、自宅で麺を打つのはただの趣味であって、「打てるからエラい」なんてことはまったくない。それでも、僕は元気があれば麺を打つ。それが人生には必要だと感じている。何故必要なのか、ということを突き詰めて言語化すると「実行系を鍛えるため」みたいなことになる。
「知っている」ことと「出来る」ことの間には大きな差がある。中華麺の科学的、歴史的な成り立ちについては、本を2~3冊も読めば大体のところ理解出来るだろう。もちろん、ちょっとした雑学として本を読むのであればそれでいい。ただ、それは「知っている」だけであって「出来る」わけではない。そういうことが、人間はすぐわからなくなる。こういうタイプの人は、社会に出て仕事をする段になると高確率でけっつまづく。結局のところ、価値があるのは「出来る」ことであって「知っている」ことではないのだ。豆知識の先生に、資本主義は一切の価値を与えない。本当に悲しいことなのだけれど。
苦い反省がある。
「知っている」から「出来る」までステップアップするには、手を動かして試行錯誤するしかない。そういう事実を僕が理解したのはたぶん、30歳を過ぎたあたりだった気がする。本気で作家を目指していた大学生の頃、僕は2万字の文章をまとめることすら出来なかった。文章における構造や形式を理解していなかったし、「そこに技法がある」ことすら見えていなかった。詩をメインにしていたのである種の表現には長けていたけれど、文章に限らず大抵の仕事はボクシングというよりはMMA(総合格闘技)なので、ひとつの技術が突出しているだけでは商品にならない。あなたがラーメン屋に入る、食券を買って、席でお冷を飲んでいると丼が届く。箸をパキっと割って、アツアツのスープを一口啜り麺をすすりこむ、うまい。ここに至るまで、どれほどの「技術」が用いられているか、実感的に理解しているのは繁盛しているラーメン屋の店主だけだろう(言語化はしていない人が多いかもしれない、それは別の技術だから)。
実際に麺を打ってみると、「これはとにかく手を動かして試行錯誤してみるしかない」みたいなことに気づく。粉の配合から加水、練りの具合から麵切りまで、「美味い麺」に到達するまでに膨大な変数調整が存在している。加えて、麺は単独で食べるものではないからスープとの相性も考えなければならない。「濃厚なスープには太くて歯ごたえのある麵」と言ってしまえば簡単だけれど、スープの濃度と麺との絡み具合や長さに縮れまで(実際はもっとある)考えると起きるのは組合せ爆発というやつだ、実質的に選択肢は無限になってしまう。この無限の中を突っ切って「商業的に成立する美味いラーメン」に到達するのは、けっこう生半可な話じゃない。
ここから先は、持ち得る知識を総動員しながら同時に「おそらくこの辺りに正解がある!」みたいなある種の直感を働かせていくしかないエリアだ。もちろん、どこかのお店から完成品のレシピを盗んで来るのもいいだろう。「真空ミキサー(数トンあって数百万くらいする)で練り上げます」みたいな現実と直面するのもいい経験だし、「レシピを盗みだして、商用レベルで再現する」なんてことが出来るなら、その人は既にオリジナルレシピだって作れてしまう水準に到達している。つまるところ、それは「ラーメン屋(あるいは製麺所)で修行をする」という話なのだから。自分の用意出来る予算の範囲で本職に負けない美味い麺を打つ、というのは実際のところほとんど不可能に近い。だからこそ、訓練として価値がある。
お金を払ってぬるいラーメンが出て来ると、大抵の人は腹を立てる。二度と店に来てはくれない。カウンターや丼が脂でヌルヌルしていたら、もうラーメンの味なんてわからない。お冷のグラスに冷えたラードが白く固まっていたら、食べログに惨憺たる評価が書きこまれる。カエシを入れ過ぎた塩辛いラーメンにうんざりした経験がある人も多いだろう(あの調整がまた微妙なんだ!大盛りとかになると特に!)。これらの惨事を防ぎ、店舗の「オペレーションを回す」にはどんな技術が必要だろうか。想像して、実際に店舗図を組んで(実際にはそうそう都合のいい居抜き店舗なんて出てこないから、「居抜きに帳尻を合わせる」ことにはなるけれど)みることを想像してみよう。調整するべき変数の多さにウワーーーーー!!となる。つまるところ、仕事というのはそういうものなのだ。
もちろん、全てを予想出来る人はいない(それでも、レッドオーシャンで名高いラーメン業界で連続起業を成功させているバケモノは存在するけれど)。ある程度のところは「エイヤ」でやってみるしかないし、失敗したなら代償を払って学ぶしかない。僕も結構な代償を払って借金玉になった。だから、失敗した人を嗤うなんてとても出来ないし、他人のプロジェクトに口出しなんて怖くて出来やしない。人は経験を積めば積むほど、他人に口出しをしなくなる。怖いから。黙って麺を打ち、スープを煮る。組合せ爆発の中から「正解」のあるエリアを絞っていく。これは料理の話だけれど、料理の話じゃない。僕が十代くらいで学んでおけばよかったと悔いている話だ。
一応、社会には人間を「それなりに使える人材にするためのイニシエーション」みたいなものが存在している。それは例えば受験であり、就職活動であり、アルバイトであり、学ぶ力が強い人ならそこから「実行する能力」を学び取っていくのだろう。ただ、ある種の発達障害者や健常者(特に、高知能群に多い気がする)はここが見事に抜け落ちる傾向がある気がする。自分自身の苦い反省もコミで。この文章はつまるところ反省文だ。
まだ元気だったころ、本のネタにするために「石器を作って動物を捌き、皮を鞣す」チャレンジをしてみた時期があった。誰もが持っている知識だと思う。原始時代、人はそのように暮らしていた。しかし、実際に打製石器や磨製石器を作り、動物を切り裂いていくのは実感として言えるけれど、並大抵のことじゃない。打製石器の製作を「使える」水準までマスターするのに一日以上かかったし、磨製石器を棒の先に取り付けて「道具」に仕上げるには数日を要した。それで皮つきの肉をマトモに調理できるようになるには更に時間がかかった。
小学生の頃、自由研究で「摩擦で火を起こす」ことにチャレンジした覚えがある。最初は「こんなもの簡単にできるだろう」と思っていた。結果を言えば、「日本の多湿環境で乾燥不十分な木材を用いて、手もみ式で着火させるのはほとんど不可能」という事実に到達するまで丸一日を要し、そこから弓切り式で火だねを獲得するまで数日間試行錯誤を続けることになった。板に、火だねがこぼれ落ちてくるちょっとした溝をつけるとか、麻縄をほどいた繊維を使って火種を炎に変えるとか、当時はyoutubeもなかったので書籍を参考にひどく苦労して火をつけた覚えがある。今になって思えば、僕はこの感覚を忘れるべきではなかった。ある人がさも簡単そうにこなしている仕事は、大体の場合ぜんぜん簡単ではないのだ。原始人が毎日のルーチンとしてこなしていた「当たり前」さえ、知識を実際の「実行」に移すには膨大な試行錯誤が必要になる。現代社会はそういったものの積み重ねで出来ているし、仕事とはそういうものなのだ。それが理解出来た時、僕は借金玉になっていてやっと本を一冊書けた。
僕は結構な数の蔵書を持っている。これだけの「お手本」が家にあるのに、30歳を過ぎるまで本の一冊も書けなかった。ラーメン屋を100件食べ歩いて、モヤシの一つも茹でられない人を嗤うことは出来ない。それは、「そこに技術があり、習得しなければいけない」という明確な目的意識、「実行」への志向性なしには決して身に付かないものなのだと思う。借金に背中を焼かれ、「なんとかカネを稼がなければいけない」状況で、やっと僕はそれを習得した。何故もっと早くこれを習得出来なかったのか、本当に後悔がある。病気をやって身体が動かなくなった今、この能力は十分に駆動させることが出来ない。なので、若い人や健康な人はどうかこの能力を鍛えることを忘れないでいて欲しい。僕は育ちが悪かったので、いわゆるインテリにとても憧れた。就職活動では「ホワイトカラーの事務職!」というクソみたいな志望で職を探した。でも、今になって思えば「アスファルトをきちんと練る」とか「煉瓦を丁寧に積む」とかそういう現場仕事のアルバイトから学ぶべきことはたくさんあったと思う。
正直に言えば、僕は「実行系」の仕事をする人たち。いうなれば「現場」を見下していた、クソみたいに思いあがった人間だった。それが、僕に必要な学習を10年は遅らせた実感がある。概要を理解しただけでは、何の意味もない。手を動かしてプロダクトを作り出して、初めてそこには価値が生まれる。本を一冊書き上げるまで、そんな簡単なこともわからなかった。だから、僕の起業は失敗した。そこには、商品に対する理解も解像度も執念も美意識も試行錯誤も、何もかもが欠けていた。身体が壊れてしまった今となって、時間が巻き戻らないものであることを痛感している。もう一度、石膏ボードを担ぎたい。荷揚げをやりたい。あの仕事だって、担ぎ方から積み方まで、無数の「実行」技術が詰まっているのだ。でも、あの現場に僕がいたら迷惑な置物でしかない。そうなる前に、動ける人は動いた方がいい。
受験勉強や就職活動も、もちろん「実行」が必要になる。ただ、あれらの関門は「攻略手順」があまりにわかりやす過ぎた。もちろん、僕より遥かに難関の学校や企業に受かった人に言わせれば「そんなことはない」というところはあるだろうし、実際そこから「実行」の能力を学び取る人もたくさんいるんだろう。というか、マトモに働けている人たちはみなあそこからきちんと学んで次のステップに向かったんだろうと思う。ただ、僕は失敗した。そして、僕以外にも失敗し続けている人をたくさん見かけた。
ちょっと前に「ロウニンアジを釣っていたら浪人した」という若者がいて、「この子の人生は大丈夫だろうな」と思った。釣りをする人ならわかると思うけれど、十代の高校生が単独でGT(クソデカいロウニンアジ。ちょっとした人間くらいある)を釣り上げるのは、かなり難しいことだ。乏しい資金でタックルを揃え、ラインの結び方を覚え、タナの取り方を覚え、気難しい釣りオヤジの中に紛れこんで情報を収集し、ギャフを買い、使い方を覚え、何度も何度も通って失敗して、やっとのことで達成できる話だ。
めちゃめちゃカネを使って何もかもガイドしてもらうならともかく(タイにはそういう釣り堀があり、クソデカいナマズが釣れる。値段は高いけどお手軽だ)、「一週間有給が取れたから、初めての釣りでGTを狙う」なんてことを言うと、釣り好きからは「バカか?」と言われるし、高校生が「GTを釣りたい」と言えば、多くの釣り師からは「いい目標だね、防波堤でサビキくらいから始めようか」と生暖かく対応される。あるいは「ガキが釣るもんじゃない、迷惑だからやめろ」くらい言われたっておかしくない。というか、言われるだろう、ヘタクソが混ざってラインがお祭りしたり岸壁から落下でもされたら大迷惑なのだから。それをチャレンジさせた親御さんも素晴らしいし、この経験をそのまま生かせば僕より10年は早く「実行が出来る」人に成長するだろう。
実行し、達成する。
言葉にしてしまえばたったそれだけのことなのだけれど、商用ベースで使えるラーメンを作るのも、巨大なロウニンアジを釣るのも、実際問題簡単なことじゃない。「ラーメンなんて店に行って食えばいい」。「ロウニンアジなんて釣る必要がない、魚屋で買えばいい」。それも正論だ。でも、それを繰り返していると、「実行系」が鍛えられる日はいつまでも来ない。
理系であれ文系であれ、「学ぶ」ことはとても大切だと思う。発達障害者が一番最初に身に着けるべきものはやはり「学力」だ、という結論は未だに変わらない。学力がなければ、GTを釣るラインに何を選びどう結ぶかすら学び取ることはできない。ただ、学んだことを「実行し、達成する」能力を鍛えることを、出来るなら若いうちにやった方がいいと僕は思う。少なくとも「借金まみれになってやっと学べた」なんて人間はこれ以上出ない方がいい。
次の本が出るとしたら、この内容を実践的な方法論に落としたものがコアの一つになると思う。ただ、出せると確約出来る状況にないので、抽象的かつ非実践的内容であることは承知の上で、ここに書き残していく。誰かこれを発展させて、実践的な訓練や体系的なノウハウにしてくれたら嬉しい。もちろん、僕が復活して「借金玉さん、あれいいヒントでしたよ、おかげで売れました」みたいなことになっても、僕はギギギギギと歯ぎしりしながら「ありがとう」と言うつもりでいる。まぁ、わざわざそんな手間をかけるような内容じゃないかもしれないけれど。でも、まぁその、書かないよりは書いた方がいいと思ったんだ。動かせるときに手を動かさないと、動かなくなってしまう。動かなくなってしまった。
時間は巻き戻らない。百万回は聴いたクソみたいな定型句が、これほど耳に痛む日がやってくるのは想像したこともなかった。自分に三十代はないと思っていたし、四十代は未だに都市伝説の一種みたいに感じるけれど、それでも書かないよりは書いた方がいいだろう。書かないよりは、書いた方がいい。たったそれだけのことを学ぶのに、三十年以上かかった。
いろいろあったけれど、あなたの人生の役にほんのちょっと立てたなら、僕はうれしいです。ありがとうございます。
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