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お婆さんと傘
仕事帰りとビール
仕事を終え、正直忙しくもなく家に帰るだけ。帰る家は職場から2キロほど南に行ったところですからマイカーとならばすぐ着いちゃう。ぜんぜんドラマチックでもなんでもない。それでも定年前のこの歳になると、これがすこぶるうれしくもありがたい。とはいえ時間的に余裕のヨッチャンなので、帰り際はとくに意味もなくあっちのスーパーやらドラッグストアーそしてコンビニ、たまに本屋さんなど足を運んでは、後は家に帰ってビール一筋一本勝負の生活が続くわけであります。
まさに家と職場の2キロの往復生活。
どしゃぶりの雨
そんな毎日のある日の仕事帰り。ドラッグストアーの駐車場にクルマを留めた瞬間のこと。予想はしておりましたが突然の雨。しかもフロントガラスはまるで池の中、車内は自分の声さえ消されるほどの雨の音。遠くで落雷が聞こえだし、外に出ようにも出られない。
自分の目を疑ったのはその時!
雨の中のお婆さん
小柄でどう見てもお婆さんが、小さな乳母車のようなものの取っ手を右手に握り、それを後ろに引きずりながらこの雨の中平気で歩いている。まさかとは思ったが、留めてあるご自身のクルマに今さら傘をさしてもと心を鬼にして歩いているのかと思いきや、歩く方向に駐車しているクルマはなし。まさか!
とにかく傘をさしてあげなきゃ!
お婆さんどうしたの!?
傘を手にクルマから飛び出した私は今にも転げ落ちそうなくらい、それでもとにかく傘をさしてあげなきゃと近づいては傘をさしてあげたはいいものの、もうこの瞬間から2人はびしゃぬれ、掛ける言葉も雨の音で消される始末。それでもと「この雨の中どこへ行くの!?」と大声で尋ねる私。「あの信号の左へ曲がると自分の家があるから歩いて帰るの」とお婆さん。それにしてもその信号機の交差点までは少なくても300mはあるであろう、どうせ濡れるのならそれでもと思ったのか。それならそれで、ドラッグストアーでもう少し雨が止むのを待った方がいいはず。
「とにかくお店に戻りましょう!」とお婆さんに。
ほっといて!
「私なんてどうなっても構わないからほっといて!」と、ある意味筋金入りのお婆さん。そう言われてしまえばそれまでなのだが、「お婆さんがそう思っていても、こっちはそう思えない」とわたしも必死。「私はあの交差点を曲がった先の自宅に帰るところだから、とにかく私のクルマに乗って、せめて雨宿りでも」と、もう無我夢中。もう一度、「お願いお婆さんクルマに乗って!」と。
だが、「どこのどなたか知らない人のクルマには乗れない」とお婆さん。
近所のよしみと思って、お願いお婆さん!
もうこれ以上この突然の大雨の中ひとつの傘でお互いをかばうことはムリ。そこで私は免許証を取り出して住所を確認してもらい、近所の町内会長の名前を出してとにかく近所のよしみでの声掛けであることを力説する私。雨足はさらに激しくその瞬間、「わかった」とうなずくお婆さん。ようやく車に乗ったのはいいが、もう2人とも服を着たままお風呂に入っていた状態。かすかにお婆さんから悪臭もあった。
再びエンジンをかけたその時、正直声をかけなければよかったと。(*_*;
ちゃんと送るからね!
ドラッグストアー駐車場の出口を左にウィンカーを出し、300m先の交差点を目指す。「ちゃんと送るから心配しないで」と頭を下げる私。するとお婆さん「あんたみたいなご主人がいるご家庭はさぞかし幸せでしょうね、ほんとうにありがとうね」と。相変わらず激しい雨にワイパーはフルスピード。「どうしてこんな雨の中歩いて帰ろうとしたの!?」とあらためて聞く私の体は思った以上にビシャビシャじゃん。
すると、「私はガンでもうすぐ死ぬから雨にぬれてもいいの」とバックミラーのお婆さん。
交差点を左折するとすぐ左の3階建てのお宅
それはいつも職場と自宅の往復のメインストリートにあった3階建ての家だったのである意味驚いた。この家の人だったのかって。私のクルマと言えば小さなK自動車なので、道路と3階建てのご自宅とのちょっとしたスペースにクルマを停車して、再びもう役しない傘を片手にお婆さんを玄関へ。「ご親切にありがとう、お礼にどうぞ夕食でも食べていってください」なんてお婆さん。「お気遣いなく、そんなことよりお体を大切にしてね」と後にした私。
家の中はゴミ屋敷状態だった。( ゚Д゚)
後日・・・。
ほんとうに数日の後日のこと。いつものように自宅の駐車場から車のハンドルを右に切り、毎日通る会社までをその日も変わることなく進めていると、あの交差点の赤信号で止まった右にお婆さんの3階建ての家が。すると、いつもと様子が違う。どうやら家の中を片づけるためでしょうか、作業服を着た数人の人と荷物を積み始めたトラックが。もしかして亡くなられたんだと。なんだか目の前のその交差点の信号機、赤から青に変わったその青がにじんでよく見えない。
泣いてしまった…。
ご冥福をお祈りします
会社の駐車場に着いた時には、これまたいつもと同じ時間。さすがに涙は流れていないが、自然と手を合わせてお婆さんのご冥福をちょっとだけお祈りさせていただいた。「お婆さん、どうぞあの世でお幸せに」と、正直マジにそう願った。看護師の妻の奥さんがそういえば言ってたっけ、のんきに酒を飲んで二日酔いの私にあきれ、「あなたも私もそう、人はみな死んじゃうのよ」とつぶやいた一言。女性ってその日の覚悟も決めているのかなって思って、そっと妻の奥さんに聞き返そうかと思ったがやめてこうと口にしなかった。自分はこれでも生きてるんだと、とても不思議に思った。
「私はガンでもうすぐ死ぬから…。」、その時のあのバックミラーに映るかわいい笑顔が忘れられない。