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花の向こうには人がいる

連休初日に必要な買い物や用事を済ませた後は、ひたすら閉じこもって過ごしていた。
そんな私に、仕事からまっすぐ帰ってきた母が「どこか出かける?」と振ってくれる。
そうねえ、と相槌を打ち、ちょっと考える。
花が欲しいなあ、と答えた。

お察しの通り、この暑い時期に切り花はあまり長くはもたない。
わかってはいるのだけど、それでも。
生花の彩りと鮮やかさを思い出すと、たとえ短い間でも、と前のめりになる。
行きつけの花屋に赴いた。

トルコキキョウが目に入る。フレンチネイルみたいに、全体は白で、花びらの先だけ紫に色づいている。涼しげな色。
トルコキキョウ、いいよね。傍らの母に話しかける。いいね、と母も応える。通年出回っている、たわわな花。
合わせるなら何がいいかな。色違いでいいんじゃない。そうか、そうね。淡い紫、ピンクのトルコキキョウも合わせて購入。

色ごとに2輪ずつ、とちょっと欲張ったので、そこそこのお会計になったけど。
紙に包まれて渡されたものを抱えると、やっぱり花はいい、と心から思う。
花束を持ってる人ってそれだけでドラマになるよね、と常々思っているので、駐車場までの短い距離もそれとなく背筋を伸ばして歩く。(まあこれは自宅用なんですけど。)

アレンジメントや、華やかな包装がされた花を抱えて歩く人を見かけると、ちょっと想像する。お祝い事かな、プレゼントかな。
花を求める動機には、いつだってその先に人がいると思う。誰かに贈りたい、その人がいる空間を華やかにしたい。
あるいは、手向けて思いを致したい人がいる、という場合だってある。

帰って早速花瓶に飾る。
角度を変えては花を眺め、いいねえ、いいねえ、と繰り返す私に、母が笑う。よかったね、と言ってくれる。

翌日、花瓶の水を換えていると、一本いいかな、と母が言う。お盆だから、お姉さんに。数年前に亡くなった伯母のために、と。
どうぞどうぞ、と私が応える。お父さんなんか、おじいちゃんとおばあちゃんの仏前のために平気で何本も持ってくじゃん、と二人で笑う。

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