心をゆらして
言わずと知れた国民的キャラクター『ドラえもん』。藤子F先生が亡くなって以降、リメイクを除く原作漫画つきの作品は殆ど見られなくなったものの、ドラえもんはほぼ毎年劇場用作品が制作・公開されています。その中でもどれが一番面白いのかと表明することについては些かの躊躇いとかなりの困難を伴うのではないでしょうか。
そこで今回は数ある大長編作品の中から「F先生の『SF(すこし不思議)』の真髄に触れることができうる(と勝手に評価している)」という点をテーマに、『のび太の宇宙開拓史』を取り上げてお話ししてみたいと思います。
私がこの作品を『SF(すこし不思議)』の真髄であるとする理由はいくつかあります。まず簡単に冒頭のあらすじだけ触れておきます。
遠い宇宙の彼方にガルタイト鉱石と呼ばれる、斥力を持つ不思議な鉱物に溢れたコーヤコーヤ星という惑星がありました。入植者の弛まぬ努力によって人間が住める環境が整備された開拓惑星だったのですが、豊富に埋蔵されているガルタイト鉱石の略取を目論むガルタイト鉱業は住民を執拗に攻撃し、強引な手段でコーヤコーヤ星から入植者を追い出そうとします。そんな中、宇宙空間を航行中に追っ手から攻撃を受け、難破しかけているその住人・ロップルくん、そして相棒・チャミーという(愛くるしい)生物が、咄嗟に逃げ込んだワープ空間を彷徨っている際に船室のドアを開けると、その向こうは超空間のねじれ現象によって偶然のび太の部屋の畳の下に通じてしまいます。後のストーリーはほぼ割愛しますが、その出会いを経て交流を深めたのび太達は、それ以降自室の畳を捲っては「非日常の世界」と「日常の世界」行き来します。
「地球の危機」や「人類の危機」に直面するわけでもなく、常に危険に身を晒しながら「大冒険」を展開するわけでもない本作のスケールそのものは、大長編の他作品に比べるとやや小さい印象を受けますが、逆にそうであればこそ、「すこし」不思議な日常と非日常の世界が丹念に描かれているとも言えるところがポイントです。
たとえば地球とコーヤコーヤ星(および周辺の惑星系)では重力差が極端に違うという設定が示されます。日々冴えない毎日を送るのび太ですが、畳一枚隔てた向こうの星では軽々と悪漢たちを懲らしめ、住民達からはスーパーマン扱い。対抗策として送り込まれた腕利きのガンマンと一対一の決闘を繰り広げます(通常生活で活かすことのまずない「射撃の天才」という才能を付与するあたり実にF先生の趣味という感じがしますね)。
また重力の差に加え時間の流れも違うこと(地球の一時間が向こうの世界では一日)が示唆されます。畳の下に広がる、時間と空間の枷が外れた夢のような世界。しかしいいことばかりではありません。
コーヤコーヤ星でのおよそ一年間におよぶ暮らしが情感豊かに描かれますが、その時間の流れの違いを具体的な数字に置き換えてみると、コーヤコーヤ星での一週間:地球の7時間、一ヶ月:地球の1.25日、一年:地球の15日、二年:地球の一ヶ月、24年:地球の一年…という風に地球人にとってコーヤコーヤ星における時間の経過量は幾何級数的な振る舞いを見せます。こういうちょっとした科学的側面の両義性を物語のギミックに導入する点がF先生流『SF』なのかもしれません。
このようにしてのび太たちとロップルくんたちとの間には、絶望的な「時の流れの仮借の無さ」が突きつけられます。ロップルくんたちは地球に住むのび太たちよりもずっとずっと早く老いていってしまうのです。
繋がった超空間のねじれが直ることによって物語は幕を閉じますが、「空間的条件」だけでなく、前述した「時間的条件」も読み込むことで「ロップルくんやコーヤコーヤ星の人々とのび太たちはこれが今生の別れになるのだ」という予感は確信に変わり、それが『宇宙開拓史』のラストシーンをさらに切なく、感動的に彩ります。
とくに旧アニメ版は別れのシーンの細やかな遣り取りとキャラクターの機微が、主題歌をバックに見事な演出で表現されています。徐々に離れていく宇宙船の扉とのび太の部屋の畳の下。今にも消え入りそうな二つの入り口を介して、のび太が教えたあやとりを披露するロップルくんの妹・クレム。それを見て小さく拍手したのび太はお返しに、別れ際に彼女から贈られた、コーヤコーヤ星にしか自生しない「雪の花」を手に取って見せます。温かな交感に思わず涙腺が緩みます。そして塞がった畳の下を夢見心地で後にするジャイアンとスネ夫としずかちゃん。物語のラストは雪が降り注ぐ中、閉じてしまった宇宙船の扉をみつめるロップルくん、クレム、チャミーの姿という叙情的な構図で締められます。
『鉄人兵団』でもそうでしたが、大長編ドラえもんの一番の魅力は「非日常」から「日常」に引き戻されるラストの寂寥感と余韻にあるとも感じます。興味が湧いた方は騙されたと思って是非読んで、視てみてください。