私が天才になるためには

左利きって、いいよね。めっちゃどうでもいい書き出しだけど、ながら読みしてくれたらそれでいいから、ちょっとだけ読んでいって。

というのも、私の周りには左利きが多い。というか、多すぎる。なんなら、右利きの私がちょっと浮くことすらある。あれ?右?あ、そっかそっか、珍しいね!みたいなスタンスで外食時の席順が決まることがある。いやいや!とツッコミたいのだが、右利きがひとりぼっちの手前、そんな威勢のいいツッコミができるはずもなく、私は大人しく決められたところにちょこんと座る。どうやら、左利きには天才が多いらしい。だって、あの二宮和也が左利きなのだ。そりゃ、天才説が騒がれたってしょうがない。なんなら、右利き代表として事実だと認めても良いくらいだ。それくらい、私は左利きになりたかった。いやいや、そんなに引き止めておいて左利きという話題だけで乗り切る気か…とガッカリして去ろうとしたみなさん。違います。左利きになりたいというか、私、人より秀でた天才になりたいのです。

そして、まさに秀でた天才になりたかった私を高いところから引きずり下ろしたのがプリテンダーズの小野花梨が演じた花田花梨と見上愛が演じた仙道風子だった。リアル?フィクション?なんだそれ?の疑問符を解決するべく向かったアップリンク吉祥寺は満員御礼の舞台挨拶付上映だったとチケットを発券してから知った。上映後、ぞろぞろと壇上に顔を出した熊坂出監督、主演の小野花梨、それから古舘寛治と吉村界人に思わず胸が熱くなってしまった。さまざまな話を伺う中、私は、ドキュメンタリーのような物理的にも精神的にも近いところから撮られた映像というのは異色だなあと監督の話を聞きながら実感した(実際にカメラを握ったのは南幸男さん)。この近さがあったからこそ、劇中、私はおもしろいくらい花田花梨にズブズブと飲み込まれていったし、花田花梨と仙道風子の目指す世界を正しいと思えた。だから、実際そうではなかったのだと痛感したときは花田花梨のように泣き叫びたい気持ちでいっぱいだった。それくらい、映画において距離というのはとても大切なのだ。観る視点によっても感じ方や考え方は異なるだろう。この映画が女子高生にフォーカスを当てたものではなく、それを育てるに至った高校教師にフォーカスを当てたものだったなら、私は途中から、なんだこりゃ!胸糞映画じゃねえか!と怒鳴り散らかしていたにちがいない。花田花梨に最も近い第三者の目線から見るプリテンダーズこそ、私が思い描いていた秀でた天才の成れの果てであったのだ。

私たちには、秀でた天才に憧れを抱き、自分も秀でた天才になりたいと夢をもつというテンプレストーリーが存在するだろう。つまり、私にも、なれることならなりたい像があるということだ。その像こそが、カネコアヤノなのだ。カネコアヤノの武道館公演に行った日からというもの、私は悠長に生きられている。音の止まない空間というのは不思議で、愛おしく堪らない大切に抱えたい空間であり、又、その時間である。私が生きている間に憶えていられる時間なんて、きっと一本の映画分もないだろう。それでも、幸せだと思えることがある度に、私はこの瞬間を永遠に忘れないと誓うし、走馬灯に流してくれと願うわけだ。カネコアヤノは、私が生きる路を照らし疑いもせず突き進んでいける理由になってくれる。秀でた天才を成るべくして成る者だという幻想は棄てた。出る杭は打たれるというが、出過ぎた杭は打たれないと母は口癖のように私に言った。私がなりたいと願う映画監督/脚本家とは、そういう誰かのヒーローのような存在で、誰からも羨ましがられるような人間だ。あの頃の私が幻想と夢にまで見た秀でた天才にはそう簡単に成れやしないだろう。でも、そこに近づく理由と意味と路があるなら、目指さないという選択肢もないはずだ。私は、私にとってのカネコアヤノになりたい。そうやって口にする度に、私は秀でた天才に近づこうと努力するのだ。数年後、秀でた天才が幻想でなかったとき、私は私を認められるだろう。こうして今日も私は秀でた天才になるべく従順に高校に通うのだ、不思議だろう?実に不思議でおもしろいのだ。

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