“音”の記憶
仕事帰り。
自転車でいつものルートを風を切って走る。
生ぬるい風だけど、悪くない。
どこからともなく聞こえてくる。
ボクの夏の記憶だ。
セミの鳴き声。
あれは、ヒグラシだろうか…?
一気に記憶がボクの中から溢れ出してくる。
“音”の記憶。
少年時代のボクは、夏はいつも母の祖父母が住む愛知県へと行くことになっている。
毎日のように近所の友だちとサッカーや野球をして遊ぶ生活に、ちょっとしたアクセントを入れられる、非日常を味わえる愛知への旅であり、愛知での生活である。
祖父母の家の裏には林があって、夜になると網戸にカブトムシやクワガタムシが来ることもある。
そんなお家だったので、当然セミだっているんけで。
いつも祖父母の家に行くのは8月の後半。
セミの鳴き声が変化していく時期だ。
アブラゼミがジージーと大騒ぎしている中、祖父母の家でレゴで遊び、動物園や水族館へ行き、夏休みを満喫する。楽しくて仕方ない。
数日過ごしていると、夕方は別のセミが鳴き始める。ヒグラシ。カナカナカナ…と聞こえると少し涼しくなってきたな、と思わされる。そして、あーもうすぐ夏休みも終わりかな?と何となく寂しい気持ちになる。
さらに日が進むと、ツクツクボウシが鳴き始める。秋の到来。心がキュッと締め付けられるような切なさを子ども心に感じるボク。ツクツクボーシツクツクボーシ…。
夏真っ盛りの楽しい気分が徐々に切なさへと変化していくこの感覚は、大人になった今でも毎年感じる。
まさか、まだ夏が始まってもいないのに、ヒグラシの鳴き声を聞いて、切なくなってしまうとは思わなかったな。
そういえば、この夏の心の変化をものの見事に表現している音楽がある。
久石譲さん作曲の『Summer』だ。この曲を聞いたのは、まさに少年時代のボク、たしか5年生のときだった。
当時は運動会で組体操を当たり前のようにやっていて、それができるのはちょっとした優越感もあって、夢中で取り組んだ。その競技の終わり、退場するときの音楽として流れたのが『Summer』だった。ゾクゾクってしてしまったよ。
あれからずいぶんと遠いところに来てしまったなぁ。
祖父母はすでに他界し、夏に過ごした祖父母の家は売却してしまった。
祖父母の家の裏の林はもうなくなって民家が立ち並んでいるようだし、25年近く前とはだいぶ変わってしまった。
世界も、ボクも、ボクの周りも、何もかも変わってしまったな。
切ない。
ヒグラシの鳴き声で、ボクの中から溢れ出してくる記憶は、懐かしさと切なさが入り混じった複雑なものだった。
でも、大切にしたい記憶。
子どもの頃の体験したことって、大人になってもどこかに残ってること多いと思う。
その人の人格にも大きく影響してるはずだ。
今、指導に携わる子どもたちには、サッカーだけではなくて、たくさんの経験をしてほしい。その経験がきっと、子どもたちを豊かな大人へと成長させてくれるはずだから。
ボクはサッカーに関するところでしか彼らに何かをもたらすことはできないかもしれないけど、世の中は彼らにとんでもなくたくさんのことをもたらしてくれる。
いろんな場所に行って、いろんな人に会って、いろんなものを食べて、いろんなものに触れて、いろんな経験をして豊かな人間へと成長してほしいな。